2006/9/22

国旗・国歌義務化は違法 都教委通達、思想良心の自由侵害 東京地裁判決

 東京都教育委員会が卒業式などの行事で、教職員に国旗に向かっての起立や国歌斉唱を求めているのは、思想と良心の自由を定めた憲法に違反するとして、教職員ら401人が、起立と斉唱の義務がないことの確認のほか、慰謝料の支払いなどを求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は「懲戒処分をしてまで起立させることは行きすぎた措置で違法」として原告側の主張をほぼ全面的に認め、都に1人当たり3万円の慰謝料の支払いを命じた。都教委は控訴する方針。(産経新聞) - 9月22日8時0分更新

以上引用
 
 ううむ、公務員の云う台詞ではない。そこまでこだわるのならば、

 
自分の給料から、国と都よりの補助金分を返上してから云えと云いたい。

 完全なダブルスタンダードだろう。それとこれとは別? あほか。都合よすぎ。まあ日教組なんてみんなアホだからしょうがないのだが。


 → 目出たく最高裁で合憲判決。当たり前ですね。公務員が公務を拒否したら、辞めなくてはならない。辞めていいよ。辞めてから存分に日の丸君が代に反対して下さい。

 そもそも、思想良心の自由はあくまで心の中の自由であって、それを行動に移したとたん、法の拘束を受けます。思想良心の自由は何を考えて、何を思ってもいい自由であって、何をやってもいい自由ではありません。やるからには責任も発生します。

 個人的には「単純な強制」には疑問もあるし反対なのだが、それ以前の問題。強制以前に、当たり前の事ができない事のほうが大問題である。


 グダグダ批判する前に日の丸・君が代の発祥を確認せよ!
 
 地味に、国旗・国家という概念が導入されたのは明治以後のことで、徳川幕府はなんだかよくわからんが国の印としての旗が必要らしい、というのであたりまえのように葵の御紋を軍艦とかに掲げていた。外国行使の接待にもとうぜん葵の御紋。

 ところが明治政府は菊の御紋ではなく、どこからもってきたものか「日の丸」を国の印として旗とした。

 これには理由がある。
 
 吉村昭のエッセイにかくのごとくあるそうな。

 江戸の昔、幕府の直轄領より取れた「御城米」を専門に運ぶ船があり、それを「御城米船」と呼んで一般の廻船と区別した。どう区別したかというと、船のケッツに専用の幟をたてさせた。

 それが、白地に朱のまん丸……いわゆる
「日の丸」もしくは「朱の丸」とよばれる旗だった。

 そして幕末になると各国の船がやってくるようになったが、その船にはなんだか旗がたってる。

 そこで幕府も旗をたてることになったが、葵の御紋だったりしていたが、ペリー来航から1年後の嘉永7年(1854)幕府建造の大型洋式帆船「鳳凰
丸」が完成、その船尾に御城米船に使われていた日の丸が掲げられる。さらにその6年後、幕府は日の丸を日本の国の船印とすることを定める。
 
 そして徳川幕府を総否定することにつとめた明治新政府も、強烈な印象を与える日の丸を排することができず、明治3年1月27日の太政官布告によって、
日の丸を国旗と制定した。
 
 それがずっと続いていたというわけ。 (資料提供:埼玉在住・屈折軸切削職人)

 ちなみに、現存最古の日の丸といわれてるのが後醍醐天皇ゆかりの南朝の日の丸幟だそうです。元は古代より朝軍(天皇の軍・官軍)のいる場所を示す幟だったそうです。

 太政官布告はあくまで布告であって、法律ではないので、わざわざ国旗国家法の制定に到ったというわけでしょうか。

 参考 日の丸を元にしたパラオの国旗


 一般公募でのデザインだが、パラオの人々は日の丸を意識した。大海に浮かぶ月である。

 また、同じく日の丸を参考にしたバングラディシュ

 バングラディシュは初代大統領が、1972年の国旗制定時に日の丸に憧れてデザインされたと、2014年のハシナ首相来日時の早稲田大学での講演で明言された。それは、旧インドで、ボースやパール判事の出身地であることを考えれば、おのずと分かろうというもの。緑の大地に、独立時に流された血の赤を意味している。

 デザイン的には両国とも同じで、丸が日の丸に遠慮して中心から少しズレている。


   



 さらにこれは、東南アジア諸国連合。つまりASEANの旗である。

 

 かつてお題目とは言えアジア解放の御旗の元、聖戦として大東亜戦争を戦い抜いた日本。

 そのさい、そりゃいろいろあったけど、独立を勝ち取った国々は、日本へのリスペクトを忘れていない。

 日の丸の中に、ASEAN10カ国の絆が束ねられている。シナだ、韓国だ、オーストラリアだがちょっかい出してきても、その絆に入り込む余地は無い。
 

 さらに……



 

 こっ………これわあああーーッッ!? マケドニアだそうですヨ!!!(これは偶然)



 これはラオスです。

 



 

 そしてこれがアボリジニの民族旗。1970年代までオーストラリア白人により人間扱いされて来なかったアボリジニの民族の旗である。


  

 さらにこれは中国に弾圧されているチベットの国旗です。日本の旭日旗を元にしていると云われています。


 そして極めつけがコチラ……

 
 
 ミャンマーの反政府組織、カレン民族解放軍の旗だそうで……。そのまんま。 


 さて、君が代なんちゅうのも、いったいぜんたいどこからやってきたのか、不思議なのもののひとつだろう。とうぜん、明治まで、国歌などというものも、日本には無かった。

 明治2年、イギリス王子エジンバラ公が来日。明治天皇と謁見することとなった。

 それに先立って、英国陸軍の音楽隊より、当日、国旗掲揚のさいに吹奏する日本国国歌の楽譜を求められた。が、できたばかりの明治政府に、そんなものがあるはずもない。そもそも「近代国家にはそれぞれ国を代表する曲があって、それを演奏しなくては外交儀礼は始まらない」などという概念すらなく、現場担当の儀典官と通訳は大弱り。

 「……コッカ???」

 「なんでしょう、それは」

 「知らんわ。なんとかならんのか」

 「と、とりあえず東京に聞いてみましょう」

 しばらくして。

 「……どうだった? 返事はなんと?」

 「そ、それが、
よきに計らえ、だそうです」

 「なにいィ!?」

 明治政府はたぶん事の重大さをぜんぜん分かって無かったのだろう。そのオタオタぶりを見ていられなくなったイギリス軍楽隊長フェントンが、助け船。

 「……それでは私が作曲してさしあげましょう。一時的なものではなく、ずっと演奏できるようにしたいと思いますから、何か日本に相応しい歌詞はありませんか」

 「か、歌詞? 歌詞ですか?? お、おい、何にする。分からんぞ、と、東京に聞いてみよう」

 「ですから、よきに計らえ、です!」

 「なんでもいいのか?? なんにしたらいいだろう?? ……っていうかわしらで勝手に決めていいのか!?」

 「しょうがないです。日本らしい、有名な和歌にしましょう」

 「しかし、古典なぞイチイチ調べているヒマはないぞ」

 「では、君が代にしましょう。
誰でも知ってます

 「……君が代か。わしの地元薩摩の、薩摩琵琶歌の中にもたしか君が代があったなあ」

 「昔から有名な歌です。庶民から上級階級まで、
日本人なら誰でも知ってます!

 「よし、そうだな。その通りだ。君が代にしよう!」

 というわけで
現場の判断でフェントンに「君が代」を提示。さっそくフェントンがその歌詞に作曲。

 初代・君が代となる。
 
 このへんの部分はキングレコードの「君が代のすべて」(KICG3074)に非常にくわしい。ちなみにこれは「軍艦マーチのすべて」(KICG3073)と姉妹編で、両方ともそろえる価値がある。

  

 フェントンが作った初代・君が代を演奏すべく、横浜本牧山妙香寺に薩摩藩士が集められ、猛特訓の末、日本で初の楽隊となる。

 妙香寺にある、君が代発祥の碑。(妙香寺は、吹奏楽発祥の地でもあります。)
 
 さて、ところがこの初代・君が代が4/4拍子の西洋調で、57577の歌詞とぜんぜんあってない事に、国歌として演奏されたり歌われたりするうちに、みな気づく。

 「しかし、いまさら変えるったって……
外国人もみんなこれが日本の国歌と認識しちまったぞ

 「歌詞はそのままで、もっと合っているメロディーに直してもらいましょう」

 「誰にたのもうか」

 「フェントン先生の後任のエッケルト先生に」

 「そうだな。……先生、よろしくお願いします」

 「よろしい。ですが、日本の国歌ですから、それに相応しい、日本のメロディーを元に私が編曲してさしあげましょう」

 「はあ……日本の旋律ですか」

 「雅楽なんてすばらしいですなあ」

 「はあ……では宮廷楽部にたのもうか」

 しばらくして。 

 「林廣守(おそらく楽部の責任者)が、奥好義(楽人)が作ったのを採用しましたようで……」

 「どらどら。うむ……なかなかいい。先生、こんなのでいかがでしょう」

 「オウ、すばらしい! さっそく編曲しましょう」

 と、いうわけで、いまの君が代が完成。

 明治13年、正式に「勅令」として官報で公布された。
 
 ここで音楽的に注目したいのは、専門的なことだが「君が代のすべて」で片山杜秀先生が指摘しているが、ミソラの主題がふんだんに使われている、ということ。ミーソーラー(EGA)の音階というのが、実に日本の民謡、雅楽に頻繁に登場する、まさに日本音楽の根本・日本民族の音楽的アイディンティティの根幹を成す音階で、君が代は実にそれを多用した、日本的に日本的な、日本といったらコレだろう! というほどの完璧に日本的にしてモダンな旋律だというのである。

 なんだかピンとこないが……外人が聞いて「あ、ジャパンだ」という旋律であるには間違いない。我々がはじめて聞いたって、雅楽っぽいというのが如実に分かる。
 
 そういう意味では、よくできていると思う。(ちなみに編曲のエッケルトにはトリオ部に君が代を使った「大日本国歌行進曲」なる秘曲がある。)
           
 と、まあ曲は良い。

 では歌詞はどうなのか。

 ここで注目したいのは「君が代」の歌詞、すなわち
 
 君が代は 
 千代に八千代に 
 さざれ石の
 巌となりて
 苔のむすまで

 
 の和歌が、当時 
「日本人なら誰でも知っている有名な古歌」 ということで、フェントンに提示された、という史実だろう。

 いまの日本人には想像もつかないことであるが、これは万葉集のむかしよりあちらこちらの文献、歌集、芸能の中にあるという。そしてなんといっても、この歌が「賀歌(がのうた)」という慶賀の歌であり、おめでたいときにみなで唱和したような性格の歌だったというから驚きではないか。
 
 つまり我々がいまもっているイメージとしての「君=天皇」というのは明治時代の軍国主義によって国家施策として流布されたイメージであり、まあ天皇のときもあっただろうが基本的に君が代の君というのは主君、主人、親、夫、妻、子どもら、ジジババ、なんでもいいらしい。
 
 自分にとって大切な人の繁栄のときがいつまでも続きますように、と願う歌であって、別に特別な天皇讃歌でもなーんでもない。君=天皇オンリーとなってしまったのは間違ったイメージで、故意に捏造されたものであり、なんのことはない、本来の意味にもどせばいい。
 
 でもサヨクの人たちにとってそんな君が代の古典的事実はどうでもよく、無視して、一時期のゆがめられたイメージのみをとりあげてけしからんと叫んで喜んでいる。

 まあ、そういったふうに使われたのも事実なのだからそれはそれで、別にいいんだけど、そういうイメージもあるが本来はこういう事だったんだよ、というのならともかく、本来の部分を
完全無視というのが問題だと思う。

 そんなのが学校の先生なわけだから、どれだけ君が代が日本の国歌として相応しかろうが、これしかないというほどの完成度だろうが「君が代である」というだけで気に入らないのだから始末におえぬ。

 あああ、まったくなんてガキなんだろう。

 私が声を大にしていいたいのは、なんというか気に入らないのなら代替案でも出してほしい。これが「国旗」「国歌」に相応しい、というのも無しに、ただ反対だー、反対だー、では、あまりに芸がない。

 そんなんだから、敏感な子どもらが、なんとなく気分だけで学校行事においての国旗国歌使用に反対する。

 なんで自分たちは反対なんだろう、という明確な答えも考えもなしに、なんとなく反対しているのだ。先生方がそうだし、日の丸・君が代となると雰囲気が悪いから。 

 そこに自民党支援の校長なんかが使用を強要すると、やれ生徒の人権うんぬん……となる。

 本末転倒ではないだろうか。

 だいたい君が代のことをロクに知らんくせに生徒の意見もなにもないもんだ。どれだけ知ってるか、その意見とやらを学校新聞でもなんでも特集すればいい。

 そのための新聞だろうに。
 
 しかも、まったくもってお寒いのは、生徒の前で当然のように国旗の掲揚を力づくで止めたり国歌の演奏を止めたりしている先生もいるということだろう。

 それは極論すれば、自己の信念のためには力づくでも許されるというのを生徒たちの前で実践していることになる。

 それって
テロリズムじゃないか。これが有名な赤軍テロか?

 そんなアホが教師なのだから、日本の学校教育というのも、まずもってインチキくさい。

 日の丸君が代の「強制に」賛成するわけではないが、そもそも批判が本末転倒で論理が破綻している。

 教師たちは必修科目を必修という名目で「強制」しているのに。

 「先生! 数学が嫌いですから受けたくありません」

 「数学は必修ですよ!」

 「数学の強制は生徒の人権を侵害している! 謝罪と賠償汁!」

 「わーわー!」(学級崩壊)

 わしは英語が嫌いでねえ〜。

 わしの英語の授業を受けなくてよい権利は誰も守ってくれなかったなあ。そのへん、生徒の人権を第一に考える日教祖はどのように考えているのか是非お伺いしたい
ものですな!
 
 それに、共産党だろうが社民党だろうがサヨの人たちは、本当に代替案を出さないで、ただ反対するだけだ。なんなんだろう、あの体質は。


 日の丸と君が代は、どうしてこんなに「強要」されなくてはならないのか?

 かといって、反対する人はなにをそんなに蛇蝎の如く忌み嫌っているのだろうか?

 軍国主義をひきずる、などというのはお題目にすぎなくなっている。
 
 いつぞや、芥川賞受賞作家の某左派先生が、イラク戦争反対の講演でいきりたっていたなあ。「君が代なんて天皇讃歌の歌ですよ!!」

 イラク戦争と何の関係もないじゃん。正体見たりサヨク魔人。ヒヒヒ。

 日の丸も、たぶんハーケンクロイツといっしょにして考えているのだろう。

 しかし同じ戦争をしたのに星条旗はいまでも「正義の旗」でユニオンジャックはいまでも「王国の旗」なのに、それはなにも言わない。人の国のことだからだろうか。じゃードイツがヒトラーの旗を捨てたのも人の国のことじゃないか。日の丸とは関係ない。国歌だってそうだ。どこの世界に自分とこの国歌を童謡にするアホがいるというのか。世界の国歌なんてけっこうイギリスだろうがドイツだろうがアメリカだろうが中国だろうが国粋主義っぽい。

 でもその事実は無視。

 ようするに
気分で反対している。なんとなく反対すれば体制に抵抗しているようでカッコいいから反対している。反対のための反対である。だから反対する明確な論理もなければ代替案もない。なんという無責任さか。

 それ以前に、学校でちゃんと、このページにあるような、日の丸の由来、意味、君が代の由来、意味、をちゃんと教えるべき。

 そっちこそ学習指導要領で確定しろ。

 ただ理由も無く歌えとか、掲げろとか、意味なし。

 
自発的に国旗国歌を敬えるよう教育してほしい。

 音楽の教科書の国歌のページをこそこそ隠してる場合じゃないんだよ!  





 
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