居合は武藝か
先般、中央審査で講師や審査員を歴任している藩士八段の先生の特別講習をうける機会を得た。この先生は若いときからやっていたというのもあるが、51歳で八段、60になるかならないかで藩士という、次の段への受験に原則として特定の年数が必要な当連盟においてはもうスーパーエリートと云ってよい。当連盟の七段八段というのは、受からない人は何十年やってても受からないのである。
つまり、稽古の中にも独自の理論を構築し、実践し、そして結果を残してきた。そのようなわけで講話は理路整然とし、外国で外人修行者相手に話しても外人が納得するというその例えなども、実に論理的で分かりやすい。
技術的な事はここに書いてもしょうがないので、一般的なお話で、私がなるほどと思ったのを記録のためもあり小文にして記す。
居合道は武術か、武道か、スポーツか、なんなのかという話題。
これは居合だけではなく剣道や柔道などでも、永遠について回る問題であり、たいてい修行者は武道だと主張するが、第三者から見ればスポーツであり、水掛け論に発展するのが常で、そういうのには、口を出さぬが吉。(特に某掲示板における、日本刀論、居合論、剣道論は、経験者は誰も口出しせず、第三者が延々と頓珍漢なことを述べあっている。)
先生曰く、現代の居合は「生涯體育」であり「武藝」であると。
武藝という言葉はむかしからあるので、その先生の造語ではない。この場合の武藝とはつまり、武道半分、藝術半分という意味になる。
すなわち、人を斬り殺す技術を延々と繰り返して修練しているのだから、その意味ではもちろん武道武術となる。
しかし、現代において、たとえ護身術とはいえ、敵を本当に日本刀でぶった斬るのか。木刀でぶちのめすのか。そんな事をしたら、こっちが逮捕であるw せめて手刀を当てるくらいで、それも対人練習をしていないのだから、そう簡単に当たるとも思えない。
しかるに何のために居合を習っているかというと、心身の鍛練、そしてそれを通じその究極の形として、演武を見てもらった人に感動を与えるような居合を目指すという事になる。
つまり、半分は藝術なのである。
藝能というとちょっと寂しいので、藝術という言葉になったのだろうが(笑) イチローのバットだって芸術的などという表現をされるのだから、突き詰めれば何事も藝に通じるだろう。
現代において、特に形や美にこだわる当連盟の居合は踊りだなどとも揶揄される場合もあるが、そもそも長谷川英信流居合第2代田宮平兵衛重正(田宮流開祖)は「美の田宮」と云われるほど流麗な居合を抜いており、当時からそういう人を魅せる要素があった事は想像に難くない。実戦的か否かというのは、じっさいに真剣で打ち合わぬ21世紀の我々には、まったく判別が不可能であり、予想と推測で語るしかない。それだって、前記した通り、暴漢強盗変質者、はては通り魔相手とはいえ日本刀でぶった斬れば、お縄になるのはこちらである。斬れば斬れるが、現代では絶対に斬らない。我々は、人を斬るために居合をするのではない。
その意味で、武藝という言葉ほど、実は現代的な言葉もないかもしれず、一理あり、なるほどなあと思いました。
※これはその先生の個人的な独自の理論であり、「こんなことを云うとるから、みんなに怒られる、ワハハ!」 と先生も笑っていた。現代の居合が本当に半分藝術なのかどうか、各人で考察してみると面白いでしょう。
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