「反りを打つ」考


 野火迅著「使ってみたい武士の日本語」(文春文庫)という本(文庫版)を読んでいたら、非常に気になる文句が出てきた。

 それが、剣術用語としての「反りを打つ」である。

 解説を読んでも意味がわからず、「現代の剣豪小説や時代劇では滅多にお目にかからない」とある。確かに、それもそのはず。刀を日常で使わない現代では、この慣用句はどのような動作なのか意味が通じないと思う。

 ネットで調べても、けっこう江戸時代の書物には使用例があるので、当時はよく使われた言葉だったようだ。(興味ある方は検索してみて下さい。)

 つまり、当時の人は「反りを打つ」で侍がどのような動作をしたのか瞬時に理解できたことを意味する。

 辞書では、「反りを返す」 「反りを打ち返す」 に同じで、刃を返し、いつでも抜ける状態にする、とある。

 野火さんは、鯉口を切る前に、反りを上に返して、それだけで達人は相手をビビらせただろうとしているが、さ、居合をやっている方、混乱しませんか。

 つまり、刀はさいしょから刃が上なんですけど、どうやってさらに上に返すのだろう?(^^;

 また辞書では、太刀の刃を上にするとか用例があったが、太刀なんて確かに刃を下にしているが紐で腰からぶらさげているのだから、上にするのは難しそうだが。

 また、ちがう辞書では、反り(刃)を下に返すとあった。つまり、逆袈裟に返して抜くということらしい。

 居合ではなく、ふつうの剣術(剣道)で、刀を抜く場合、いちいち逆袈裟のように刃を下にして抜くのかな?

 (抜きつけるのではなく、普通に抜いて構える場合です。)

 私は、剣道はしてないのでその辺が分かりません。意外と、居合をしていない人が抜く場合は、刃を下にして抜くのが抜きやすいのだろうか。
 
 そう考えて、また実際に居合の時に刀をいじっている内に、ハタと思いついた。

 そうだ昔のお侍は2本差だ、と。

 現代の居合道は大刀1本の1本差で行うのが主流である。古流の中にはしかし、2本あるのを想定して、手の動きが変わっている物もある。つまり、左で刀をちょっと前に出してから抜いたり、右手をいったん上に持ってきてから幽霊の手のようにして上から柄を握ったり。それらは1本では何をやっているのか分からないのだが、2本を想定していると考えると、効率的だったりする。

 つまり、当時小刀を避けて上から大刀の柄を握るのが「当たり前だった」と仮定すると、大刀はそのまま「刃が上のまま」だったらどうだ、手の内が逆になるではないか。

 ※私のやっている流派では、刀は下から両手で左は鍔元、右は柄をソッと握ります。仏前や神前で手を合わせるように、静かにです。しかし小刀があるとそれでは右手が小刀の柄にぶつかって(出来なくは無いが)難しいです。

 そこで、大刀はひっくり返して刃を下にする「反りを返す」「反りを打つ」「コジリが跳ね上がる」「反りを打ち返す」状態で、上から柄を握ると、手の内が普通になる!

 そのまま抜くと普通に構えられる!!

 そう仮定すると、2本差で普通に抜く場合、大刀は1回刃を下にして逆袈裟の状態で、右手は小刀を避け上から柄を握ると手の内もそのままに最も効率的に構えられる、と考えられる。

 従って昔の人は大体において、刀を抜くときは「反りを打って」から鯉口を切り、上から柄を握って刃を下にして手の内を変えずに抜いたのではないだろうか。 

 ゆえに、達人が迫力満点で反りを打ち、睨みを効かせると、それだけで相手はビビっちゃったのでしょう。

 そう考えると、居合でも最初の技(1本目)は逆袈裟の流派はけっこうあったりする。横一文字に抜きつけは、居合人口では多いが、流派としては少ないかもしれない。

 さらにちなみに、剣術や居合等をやって無い方に申し添えますと、刀を返すことがなぜ反りを返すというのか、刀は弓なりに反っているから、刀を返すと反りが返りコジリが自然に上を向くのです。

 ところで、夢想神伝流中伝の「颪(やまおろし)」という技では、相手の柄手を打つのに、山蔦重吉先生の著書では「刀に反りを打たせて、相手の両手を打つ」とある。やはり刀をそっくり返らせる仕種の事を「反りを打つ」と考えて良いだろう。





前のページ


表紙へ