「握り」考


 あるいは「手の内」考とも。

 兵頭二十八×籏谷嘉辰「陸軍外山流で検証する 日本刀真剣斬り」(並木書房) という書物を読んで、外山流の先生が、試し斬りにおいても、たとえば稲妻斬りのように、袈裟斬り→逆袈裟→袈裟斬り と一瞬(1秒以内)で巻き藁を3等分するような斬り方は、全剣連系でいう 「茶巾絞り」 の手の内では衝撃に耐えられず、斬っている途中で刀が緩んで絶対に無理で、その技をするには、いわゆる全剣連系で禁じている 「クソ握り」 でなくてはならない。とあって非常に興味深かった。

 ここでいうクソ握りは、本の写真を見る限り、大根握りともちがう、時代劇でよくあるような、「ガッチリ握り」 とでもいうべきものだった。

 少ないけども、何度か、試し斬り経験者としては、なるほどと唸った。まったくその通りで、物体を刀で斬るのは、予想外に抵抗がある反面、物体から刀が抜けるとすっぽ抜けて脚や地面を斬ってしまうほど、一気に抵抗がなくなる。それを連続して行うコントロールには、ガッチリ握りじゃなくては刀を支えきれずに、物理的に無理、ということなのだろう。云われてみれば、茶巾で試し斬りは、刀が巻きわらの途中で止まったり、刃筋が衝撃で曲がったり、力がうまく入らずたいへんに難しい。

 とはいえ、茶巾握り(正確には「茶巾を絞るように」締める握り)には現代武道はおろか現代スポーツと化した剣道だけのものではなく、ちゃんと古流から受け継がれているのも事実で、外山流の先生はそれを以下のように分類している。

 茶巾:田宮流 無双神伝流(下村派?) 直伝英心流(英信流?) 全剣連系等
 
 ガッチリ:香取神刀流 鹿島神流 外山流 等

 ふだんの稽古に木刀をつかう流派はやはりガッチリが多く、竹刀を使うのは茶巾が多い、とある。木刀を打ち合う衝撃には、茶巾では耐えられないからだろう。

 私は全剣連なのでとうぜん、茶巾を指導されている。そもそも手の内とは、講習でえらい先生も、手の内は最終的には各々で会得するもの、として、私の場合の手の内、を参考として教授してくれるにすぎない。

 さて剣道しかやらない人は、竹刀と刀の手の内が異なるのを知らない。ちなみに私は中学のころ、授業で剣道をものすごく少しだけやったことがあります(笑) 竹刀の柄は丸いが刀は扁平なので、手の内が異なるのはとうぜんの話。

 全剣連内においてもすなわち手の内にそのような認識の差異があるということなのだが、さらに茶巾以外の手の内は、認識の範囲外であろうと推測するが、じっさいに世の中には上記のとおり茶巾以外の手の内の流派が存在する。 

 そこで大事なのは 「あの流派の手の内は間ちがってる」 などとという独善に陥らないことだろうと思う。それを云ってしまったら、「あの流派の構えは間ちがってる」 「あの流派の斬り方は……」 「あの流派の技は……」 しまいには 「あの流派そのものが……」 となりかねない。それはおかしい。流派はおろか、同門のはずなのに 「あの連盟は……」 などとなったら、本末転倒も甚だしくなろう。

 話がそれてしまったので握りに戻るが、ガッチリ系と茶巾系には、やはりそれぞれの意味や目的があると考えるのが妥当で、そのお互いの長所を考察すれば、単純に自身の手の内の向上に役立つのではないか、と思いました。

 ガッチリはとうぜん、力を入れて握るのだから、バッサリと物を斬れる。茶巾は、視点を変えれば、斬を犠牲にしてまで、何を追及しているのか、ということだろう。

 断定はできないが、私が指導されていることに、剣をより速く相手に当てるべく、斬る瞬間は握りこむが、それまではなるべくリラックスして、手の内もできる限り柔らかくする、というような意のことがある。 
 
 また、剣術においては、擦り上げ、擦り落とし、受け流し等の細かな技術は、ガッチリではうまくない。茶巾でなくばそういう柔軟な剣捌きは難しいのではないか。また、ガッチリでは、いくら手首を使おうと、剣の速度は茶巾より遥かに遅いだろう。威力はあるが遅い。(超達人なら分かりませんがw)

 茶巾系の表現の仕方では、ガッチリ握りになると、「剣より手が先に落ちている」 というふうになる。「腕だけで振っている」 ともいう。剣先はすべらかな円運動を描いて、あくまで自然に、腕(肘や手首)より先に動いてゆかなくてはならない。それがためには握りはかなりソフトでなくては無理である。刀を振り下ろす瞬間の手の内を、茶巾では奥義としている。

 では、なぜ茶巾はそこまで速度にこだわるのだろうか。これは剣道の勝負にも通じてきて、それのみに行き過ぎる嫌いもあるのだが、元来の茶巾の勝利の論理としてはこうだと思う。

 敵が例えばガッチリで我を一刀両断せんと裂帛の気合を持って打ちかかってくる。

 その剣が我へ届く前に、我の剣を敵の面、袈裟、手腕、胴、剣道では反則だが脚に当ててしまえば、それでもう我の勝である。なにも無理をして人体を両断などする必要もない。まして稲妻切りに三等分にする必要は毛頭ない。ゆえに斬にこだわらない。

 ガッチリは完全なる斬を、茶巾は技・速を目的とした手の内なのではないだろうか。

 それは、やはりそれぞれの目的に応じた正しい業の進化の過程のように思える。

 江戸時代の、平時の斬りあいや、試合、一対一の果し合いでは、とにかく先に先に敵へ剣を当てることが求められたのではないか。そのためには、斬り込みの勢いや威力を犠牲にしても、剣を柔らかく握り、相手よりより速く、そして相手の剣を完全に制してしまうよう、柔軟に素早く対応できるように考えられた。特に 活人剣 などという論理が台頭してくれば、尚更だろう。

 しかし、戦場において敵を確実に殺さなくては自分が死ぬような状況、活人剣などと云っている場合ではない最前線、特に外山流は維新後の大陸においての刀法から発生したともなれば、清国兵の青龍刀やロシアコサック兵のシャーシュカに対応するには、小手を叩いただけでは、とうぜん勝になどならぬ。遮二無二振り回してでも、完全に斬り倒さなくてはならない。その中では、茶巾でお上品に握っている場合ではないのではないか。

 そのように考えることができると思うのだが、そうなると、全剣連系の我としては、普段は茶巾を稽古し、試し切りではガッチリもできるように裏稽古しておけば、ベターなような気がします。


参考:茶巾 

 茶道で使う、飲む前のお茶碗を拭いて清めたり、お湯の入っている釜の蓋をとるために使うガーゼハンカチのようなもの。

   

 同じく茶道で使う袱紗(ふくさ)や、茶巾を入れる袋の茶巾袋(小さい巾着袋のようなもの)、和菓子製作の際の「茶巾絞り」技法と混同されがちである。

 袱紗は畳むが絞らないし、袋の口を締めるようにというのは絞るのとちがう。茶巾絞りは包んだ口を絞って餡を丸めるような技法である。

 茶巾は湿った状態で使われるが、裏で茶巾を水に浸し、絞る作業が発生する。そのとき、なにせ薄っぺらい茶巾であるから、雑巾や温泉タオルのようにぎゅーっと絞ってはクタクタになってしまうし、そもそも絞れない。軽く、きゅっ、とか、しゅっ、ちゅちゅっというような感じで絞る。

 「茶巾を絞るように」手を締めろ、とは、そのように軽く持って、打った(斬った)瞬間にしゅっと鋭く素早く手を締めると、ちょうど良く手の内側に柄が納まって、刀が止まるし、力も伝わる、という意味合いの(それを 手の内がきまる という。)比喩表現のことと推察する。

 本当に茶巾を絞るみたいに手を締めろというわけではないし(男性だと茶巾は小さすぎて、指先でちゅちゅっと絞る感じになるだろう)、そもそも、裏千家なりなんなりで本当に茶道を習わなくては、茶巾など日常生活ではまず絞らぬから、意味が通じない。

 私は友人の母親がお茶の先生で、つきあいで1年少し習ったことがある。足がどうにも痺れるのと、複雑なお点前がどうにも覚えられないので断念しました。





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