立って踊ってみた


 2018夏コミックマーケット94へ出品したオリエント工房主催同人誌「伊福部ファン」1号へ寄稿したものを全文掲載します。ウェブで読みやすいよう、改行は1行空けにしてあります。

    

 


はじめに

 伊福部ファン第0号では主にストラヴィーンスキィと伊福部の関連性等について想うところを述べた。今回は、特定の曲に限定して同じく想うところを述べたい。すなわち、私が伊福部の楽曲の中でおそらくもっとも数多く聴いているだろうシンフォニア・タプカーラについて、再び好き勝手に考察してみたい。


1.タプカラ tapkar

 この曲のスコアに表記されている正式なタイトルは Sinfonia Tapkaara で、これはイタリア語である。伊福部はスコアリングの楽器名も全て伊語で統一していたという。日本語へ訳す際には、タプカーラ交響曲となる。読みのままのシンフォニア・タプカーラでも可だろう。じっさい、伊福部は自らの作品解説では『シンフォニア・タプカーラ』と表記している。

 ところでこの「タプカーラ」というのは何なのかということだが、この同人誌のこの項までお目を通している方々には、もはや常識中の常識であると推察する。

 ところがネットで検索してみると、タプカーラという言葉ではほぼ伊福部関係しかヒットしない。アイヌ語の標記の仕方も変化しており、伊福部がこの代表作を作曲した当時はおそらくタプカーラとしていたのだろうが、現代ではこのタプカーラという単語は少し表記が変わって、単にタプカラ tapkar となっている。また、プとラが っ ょ と同じく小さいフォント表記になっているものもある。これは pu や ra の発音ではなく、子音のみの p や r の音であることを意味する独自フォントだ。

 一言でアイヌ語といっても、これも認識が難しい。まずアイヌ語には文字が無い。アルファベットやカタカナで表されているのは、全て明治後や戦後の人々のアイデアで、便宜上そのように記しているにすぎない。本来、アイヌ語独自の文字は存在しない。

 また、アイヌ語には共通語(標準語)が無い。道民以外はアイヌ語に接する機会も少ないだろうが、道民でも専門家や愛好家以外はその全体像を認識している人は少ない。私も独学の範囲を抜け出さない得意の浅学披露になるが、アイヌ語は各地の言葉(単語や語彙)がかなり異なっており、いちおう方言ということになっているものの、お互いにほとんど通じなかったという。かつて江戸時代には薩摩藩士と津軽藩士が江戸で出会っても全く言葉が通じなかったそうだが、同じようなことが北海道内のアイヌで起こっていたと考えられる。

 有名どころで分けても、胆振、日高、十勝、釧路、石狩、旭川などにアイヌの大きな集落があり、その中でもそれぞれ主要なコタンが白老、幌別、沙流、二部谷、白糠、阿寒などにある。さらに千島アイヌや樺太アイヌに到っては、彼らの周囲に伊福部でいうところのギリヤーク(現在はニヴフという)やオロッコ(現在ではウィルタという)という、そもそもアイヌではなくぜんぜん違う民族であって当然言語もまったく異なる人々がいて、そちらの言語に影響されたためか、彼らの用いるアイヌ語も北海道アイヌとは異なっていたそうである。

 北海道ではラジオでアイヌ語講座もやっているが、方言が各種ある場合は、主な云いまわしをやった後に「どこどこではこういう」「また、どこどこではこうなる」と各地の言葉を紹介する。

 そういった中で、このタプカラという単語も、ネットの有志がまとめたごちゃまぜアイヌ語辞典では載ってない場合もある。財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構の作成したアイヌ語単語リストでは、「踏舞(ふみまい)を踊ること、またその踏舞」とある。同法人の平成10年度アイヌ語講座のテキストには「立上って舞いながら謡うもので主に男性がします。」(p.23)とある。

 白老町のアイヌ民族博物館によるアイヌ語アーカイヴで検索すると、Tapkar は「踏舞(手のひらを上へ向けて両腕を広げて斜め前上にかざし一歩一歩足を踏みしめて進んで行く男性の舞い) を舞う。」とあり、かつ「伝承の中で、人間の姿になって地上で暮らした神が天に帰るときは、この tapkar タプカラ を舞っているうちに鳥の姿になって空高く昇って行く。」とある。このアーカイヴは音声データでタプカラの発音を聴くことができる。プは pu ではなく、ただの破裂音 p  であることが確認できる。ラは意外とはっきりラと発音している。 ra と r の中間ぐらいで、ルに聞こえなくもない。なお、ここでは子音のみの音を半角で表している。

 知里真志保『知里真志保著作集2 説話・神謡編U』(平凡社)所収の第2章「踊と踏歌」(p.48〜)に詳細な記述がある。知里にあってはタプカラではなくタプカルと記されているが、混同を避けるためここではタプカラに統一する。

 知里によるとタプカラとは「酒宴の余興に演じられる長老の踏舞」とあり、「祭祀の酒宴の席上、歓ようやくたけなわになるに及んで、一座の長老たちがこもごも立って演じる所作で、両手を左右にのばし、掌を上に向けて肘を少し曲げ、それを静かに上下すると共に、両足を開いて床の上に一歩一歩、力足を踏みしめながら、ななめ横の方へ5〜6歩進んで、それからふたたび同じ動作をくりかえして、もとの位置に復するものである。」(同p.48)という。

 これは基本的に首領(ニシパ nispa)または長老(エカシ ekasi )が一人で行うが、稀に男女で行う場合があって、背後に一人または二人の女性がついて歩き、「アウ チョー」(幌別、沙流)又は「アウ ホー」(静内、十勝、釧路、根室、北見等)、「アウ ホーイ」(美幌)などと高い声で囃し言葉を叫んで唱和する。

 これをイエタプカラ ietapkar といい、この際の女性の叫びをイエタプカラハウ ietapkar-haw という。

 そして男女が組んでタプカラすることをウエタプカラ uetapkar といい、幌別ではウエタプカラの際に女が「ハチョー オー ホイ!」と叫ぶが、これは悪魔祓いの儀式に由来する。

 また北海道中部から北部、東部にかけては大酒宴の時には数組の男女が同時にウエタプカラを行う。タプカラは通常男が一人で行うものなので男女や数人で行うのは例外と考えられていたが、タプカラがもともと魔除けの儀式であったことからすると、これはむしろ本来の姿といえるという。

 さらに、古くは女性のタプカラもあって、樺太に伝わる神謡(ユカラ yukar)では、あるコタンの姉妹の姉を殺して化けた山姥が妹を召使にして嫁入りするが、婚礼の際に妹と踊りあって踊りが下手だったため正体がばれる……というものがある。

 これは、伊福部ファンにはお馴染みだろう。すなわち、アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌の第3楽章「阿姑子と山姥の踊り歌」にその神謡がそのまま引用されている。この中に「クー タハカラ クースー トーラン トーラン トーラン」という詞があり、「私が踊れば チリン チリン チリン」と訳されている。トーラン(チリン)は擬音で、踊るときに鳴る鈴の音を表している。このタハカラ(踊る taxkara)というのがタプカラの樺太方言、とある。

 なおタハカラ taxkara のハの音は ha ではなく、発音記号的にkhaであるロシア語のх(ハー)の音に近く、そのために x を当てていると推察される。このハは、手を息で暖めるときの「ハー!」に近く、喉の奥に力をこめて出す音である。

 ちなみにハチャトゥリアンのハもその音であり、ラテン語表記は Khachaturian となる。CD屋でどうしてハチャトゥリアンが K の欄にいるのか分からなかったが、発音の関係であった。

 タプカラの起源も擬音にある。タプ tap とは足を踏み鳴らす音を表し、ダン、タッ、ドン、そのような音を意味する。カラ kar は「〜する」という意味で、本来的には「タプカラ」とは「タプする」または「タプる」ほどの意味になるだろう。この足踏みの音には「神をふり向かせ魔を威嚇して遠ざける」(同p.52)意味があり、美幌ではタプカラという言葉は「第一に酒宴の際の余興に長老が立って演じる所作を意味する他に、第二に「ニウェン・テルケ」(niwen-terke 「いがむ・跳躍」)と称する語と同じく、変事の際に演じる悪魔ばらいの儀礼的踏舞行進の足踏みの意味にも用いられ、」とあり、なんと「日清・日露の戦争の際はアバシリの海岸に祭壇をつくり、その前に20〜30人も集って」(同p.52)タプカラを行ったとあるから、驚愕するほかはない。

 タプカラには歌が伴う場合があり、タプカラ・シノッチャ tapkar-sinotcha (踏舞歌)という。その人その人特有の節回しで歌詞をつけるものであり、地方によって種々ある。

 幌別や沙流のタプカラにおいては、歌詞ではなく「手ぶり足どりに合わせて、太く沈重な、のどの奥底から絞り出したように、熊のうめきにも似た音群を特有の調子を以て反復する。」(同p.56) これをサケハウ sakehaw といい、節歌、酒の声などと訳す。聴き慣れない耳にはみな同じ唸り声にしか聴こえないが、「その間にもおのずから特有のふしがあって、個人個人で皆ちがうようである。」(同p.57) なお長万部ではサケハウは座って歌っていたという。稀に歌詞を伴うサケハウもあって、それはタプカラ・シノッチャと全く同じものであり、このことから元々タプカラには歌が付随していたのだろうとされる。

 タプカラとは別に、「祭の時に女が主となって、それに男なども交じって、大勢で列をなし、左へ左へと円陣を描きながら踊るもの」(同p.64)を、胆振の幌別ではリムセ rimse という。現代のアイヌ語辞典では単に踊りなどとあって全道で通じるが、本来はこのようにある地方の特定の踊りを指していたと思われる。リムセのリム rim はタプカラのタプと同じく擬音で、踊るときの足踏みの音である。このことからリムセも元々は魔除けの儀式に由来し、リムセを行うときは「厳重に正装する習慣がつきまとっている」(同p.65)。

 またリムセのことを日高の沙流ではホリッパ horippa といい、ホリピ horipi 「跳び上がる」に由来する言葉の反復形であって「跳び上がり続ける」という意味になり、「変事のあった際に悪魔を威嚇し、村の神々を奮起させるために行う呪術的行進に於ける荒々しい足踏みをさす」(同p.64)から、この種の踊りが本来はタプカラと同じ起源をもつものだと分かるという。

 リムセは踊りと歌を含むが、リムセの前に座って歌う歌を胆振ではウポポ upopo という。が、昔は立って歌うウポポもあり、北海道の中部、東部、北部では立っても座ってもウポポという。区別する場合はわざわざ「立つウポポ」「座るウポポ」というが、この立つウポポが胆振でいうリムセである。何種類ものリムセ(歌と踊り)が伝承されている。

 ウポポにあっては「祭の夜など、屋内の一隅に婦人ばかりが集まって、中には子供なども交え、円座をつくって、その真中に行器(ほかい)の蓋などを据えて、右手のてのひらでそれを叩いて拍子をとりながら、賑やかに歌を廻して行く。」(同p.74)とある。その歌が、胆振地方や沙流ではウポポとなる。現在では、リムセと同じく全道で通じる言葉であると思う。

 このウポポを一同が立ち上がって輪になって踊り歌うのを胆振ではリムセといい、沙流ではホリッパといって厳格に区別したが、それ以外の地域では両方ともウポポといい、樺太では両方ともヘチリ hechiri という。ヘチリは「遊ぶ」「踊る」の意味がある。地方によって区別しないものがあるのは、これが本来一続きのものであり立って歌うのが本来の姿で、座って歌うのはその前座的な意味だからだという。

 ウポポは「歌詞がいずれも極めて短く、ひとつびとつに美しい曲のついたもの」(同p.74)であり、「歌い方には、斉唱するもの(ウオプック uwopuk)、二部に分かれて輪唱するもの(ウコウック ukouk)、一人が音頭をとつて他がそれについて歌うもの(ウエカエ uwekaye)等がある。」(同p.304)

 なんにせよ、知里の資料からはウポポやリムセ(ホリッパ、ヘチリ)などが、タプカラと同じく魔除けの儀式から発展したものであることが分かる。

 新交響楽団のホームページにある伊福部本人へのインタビュー「第145回演奏会(94年10月)プログラムより」では、芥川也寸志とのやりとりを「芥川(也寸志)君じゃないけど、『立たないで踊る踊りってあるんですか?って』(笑)。」と回想している。座って踊る舞踊も世界各地を探せばあるのかもしれないが、前述の通りタプカラのニュアンス的には「座っていたものが立ち上がって踊る」が正しい。最初から立っていて踊り始めるのではなく、最初は座って宴会をしていたが、酔って興が乗ってくるとやおら立ち上がってノッシノッシと歩きながら、ダン、ダンと足を踏み鳴らして、リズムに乗って唸るように低音で歌詞のないヴォカリーズや即興の歌などを歌いながら両手を掲げ、祈りを捧げながら踊るのである。この踊りが「踏舞」と訳される。

 ここで、伊福部本人の解説を参照したい。

 伊福部昭・小林淳編『伊福部昭綴る』(ワイズ出版)所収の「アイヌ族の音楽」(p.100〜)において、伊福部の解説として「Tapkaraは男性の立ち踊りで、両手を前に差しのべ腰を落として両肢を踏み鳴らしながら舞うのであるが、儀式の時に行う最も重要な踊りである。」(同p.105)とある。

 また伊福部昭・小林淳編『伊福部昭綴るU』(ワイズ出版)所収の「アイヌの歌と踊り(覚書)」(p.89〜)では、同じく伊福部の解説として「悪魔払いの行進にその根源を持つと考えられている踊りである。相当の格式のある首領級の人、Nispa(首領)、Ekasi(古老)等の男一人が立って踊る。祭り、酒宴、その他状況によって踊りの所作が少しずつ代わる。」(同p.89)とある。

 同じく『伊福部昭綴るU』の自作解説の「シンフォニア・タプカーラ[一九五四]」(p.113)では「『タプカーラ』とは本来は立って踊ると云うような意味をもつアイヌ語である。私が育ったシヤアンルル地方では、何か変わったことがあって人々が集まると、きまって酒が振舞われ、其の日にちなんだ唄と踊りが行われる慣しであった。時に、興がのると熱狂的な半ば即興の踊りや唄が夜遅くまで続くのであるが、此等を総て『タプカーラ』と呼んでいた。」としている。これは初稿の日本初演に際しての作者の言葉だ。

 改訂版の初演の際には、「タプカーラとは、彼等の言葉で『立って踊る』と云うような意をもち、興がのると、喜びは勿論、悲しい時でも、その心情の赴くまま、即興の詩を歌い延々と踊るのでした。」としている(「シンフォニア・タプカーラ[一九七九改訂版]」『伊福部昭綴るU』p.122)。

 ここで注目したいのは「即興の歌や踊り」だ。すなわち伊福部が幼少のころ見聞きしたもので、シンフォニア・タプカーラの作曲の動機となりタイトルにもなった「タプカーラ」の中には、タプカラ・シノッチャのみならずウポポ等が含まれていることを示唆している。ナクソス盤(8.557587J)の片山杜秀による解説にも、伊福部のそれまでの「アイヌ体験」全般を「タプカーラの一語に集約し」とある。

 つまりこの曲にあってのタプカーラは、イコール純粋なタプカラではないと言える。タプカラも含めた、伊福部が見聞きしたアイヌの歌や踊り全般をここでは象徴的な意味合いをこめてタプカーラという言葉に託している。伊福部がこの曲を作曲した動機に「その彼等への共感と、ノスタルヂアがこの作品の動機となっています。」(同p.122)とあるので、想い出の中のアイヌの音楽・舞踊全てをタプカーラへ重ね合わせていると捕らえることができるだろう。

 ところで、伊福部の記述におけるタハカラ taxkara  の発音についても、『伊福部昭綴るU』所収の「アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌[一九五六]」(同p.113)によると「また、第三曲taxkara に見える[x]は、独逸語にあって[a,o,u,au]の次に来る[ch]と同様な音を示している。」(同p.114)とある。

 ドイツ語の ch は「ヒ」の音で、「後舌面と軟口蓋の間で作られる無声摩擦音である。」(同p.110) これは、分かりやすいドイツ人名でいうとリヒャルト Richard の「ヒ」であり、バッハ Bach の「ハ」だ。喉の奥から絞るように出てくるもので、日本語のヒ hi とは異なる。だがヒンデミット Hindemith の「ヒ」は hi なので日本語と同じく前歯の裏あたりから出る音となる。

 表記は明らかにロシア語の х を模した x なのに、どうして伊福部はわざわざドイツ語で例えているのか。おそらく、日本人歌手にはロシア歌曲よりドイツ・リートのほうが馴染みがあると考え、ドイツ語で例えたのではないか。

 「ちなみに、taxkara とは、『立って踊る』 tapkara と云う語の樺太系アイヌの方言であって、この[x]の音は、北海道アイヌには無い。」(同p.114)


2.シンフォニア・タプカーラ Sinfonia Tapkaara

 前述の『伊福部昭語るU』による自作解説及びキングレコードの伊福部昭作品集などのCDのブックレット等を参照すると、伊福部はこのシンフォニア・タプカーラを作曲するにあたり、直接アイヌ音楽からの引用をしていない。ここがまず最初の鑑賞のポイントだろう。日本狂詩曲や土俗的三連画と異なり、伊福部は既に交響譚詩を経て自身の作風を直接的な民族主義から民族主義的新古典主義へと変貌させていた。片山杜秀が生前の伊福部より聴いたところによると、敗戦も影響を与えていた。「タプカーラ」とは観念的かつ象徴的な意味合いで用いられ、第3楽章主部のリズムのみ実際のタプカラのリズムを模しているという。この曲で現れる旋律は、伊福部の創作である。

 また、直接北海道の風土と接していた若い時の作品と異なり、東京へ出て齢40を迎えるころの作品であるため、どちらかというと第三者的な、遠地より望む北海道への憧憬や大人の余裕とでもいうべきものが感じられる。もともと伊福部は幼少時より老子を素読し若いころから老成しており、現在のアラフォー世代と比べてもその思想や態度の深さの違いが分かる。

 民謡やアイヌ音楽を直接取り入れていないのはそういう遠地からの視点や発想の変化によるという原因があるのかもしれないし、逆に取り入れていないのでそういうふうに聴こえるのかもしれない。

 なんにせよ、この曲は生々しい北の原風景ではなく、とても客観的な、まるで映像作品を見ているような他者的視点で北海道を観ており、結果として直接的民族主義ではなく民族主義的な味わいを藝術へ昇華した新古典的純粋音楽として抽象的、観念的かつ構築的な書法で音楽を描くことに成功し、交響曲としても単なる鳴り物・際物交響曲ではなくシベリウスやドヴォルザークに通じる極上の国民楽派的な格調の高さを生んでいる。

 さて、伊福部ファンには御存じの通り、シンフォニア・タプカーラには初稿(1954)と改訂稿(1979)がある。

 これに関しては相良侑亮編『伊福部昭の宇宙』(音楽之友社)所収の小宮多美江「シンフォニア・タプカーラ」(p.50〜)に詳しい。伊福部ファンには今更の事であろうが復習を兼ねて再確認すると、まずシンフォニア・タプカーラ(1954)の初演は海外で行われた。完成の翌年1955年のことで、いきなり世界初演となる。指揮はクーセヴィツキーの甥のフェビアン・セヴィツキー、オーケストラはインディアナポリス交響楽団。伊福部とセヴィツキーの文通が契機であった。ただし伊福部は初演に立ち会えず、楽譜だけを送って演奏は任せた。初演後に録音テープがアメリカから送られてきて、それを聴いた伊福部は愕然というか、失意というか、がっかりというか、不満というか、とにかくショックだった。その経緯は各種CDのブックレットや自身の作品解説などで、折に触れて述べられている。

 曰く「演奏は仲々見事なものであるが、伝統と人種を異にする人々の解釈であるから、又或種の歪みもまぬがれなかった。」(『伊福部昭綴るU』 p.113又は『伊福部昭の宇宙』p.59)

 これは具体的にどういうことかというと、これら以外の資料を寡聞ながら知らないので想像するしかないが、まず考えられるのがテンポが全然違った可能性。最晩年の弟子の方から伺うに、伊福部はメトロノームを使わずにストップウォッチでテンポを計っていたという。とにかく本人のテンポ感と記譜が全然違った可能性が考えられる。これは最晩年までの全作品にいえるのだが、そりゃ譜面しか見ない指揮者や奏者はその通りに演奏する。

 さらに、作曲当時はそのテンポが正しい(良い)と感じていても、年をとったり、じっさいに演奏に接したりすると思っていたより速く感じたり遅く感じたりすることもあるという。

 ピアノ組曲(日本組曲)の『盆踊』の例をとると、この曲はアレグロ・エネルジーコと記譜されメトロノーム設定はピアノ組曲で四分音符≒100、日本組曲で四分音符≒98となっている。奏者はその通りに、元気よくエネルギッシュで快速に演奏する。ところが、キングレコードのシリーズ録音に立ち会ったその弟子の方によると、当日の伊福部の指導では、ここはテンポ的にはアレグロ(快活に)ではなくペザンテ(重く)なのだという。それならそうと譜面に書いてもらわなくては、奏者は困ってしまう。

 だからといって、資金等の関係で出版譜をそう簡単に直せるはずも無く……。

 次が、フレージングが全然違った可能性。ナクソス盤(8.557587J)の伊福部を聴いて私も感じたことだが、ヤブロンスキーはどうしてこんな全然関係ない内声部の裏フレーズを強調するのだろう? という部分が多々あった。外国人にはこっちが主旋律に聴こえるのか? と思った。セヴィツキーの指揮も「そこじゃない」という部分が強調され、主旋律が埋もれた可能性がある。

 また、アクセントや強弱等が全然違った可能性。テンポ設定にも通じることで、詳細は後述するが伊福部は当曲で第3楽章主要主題のアクセントを「あえて譜面に書かなかった」とかやっているのだから、譜面だけ見て演奏すると無視されるのは当たり前である。

 そして世界初演の翌年1956年には、日本初演が行われた。指揮は上田仁、オーケストラは東京交響楽団であった。今度は伊福部も練習から立ち会ってみっちりと指導したに違いなく、この曲を献呈された三浦淳司の評によると、客の評判は良かったという。(『伊福部昭の宇宙』 P.59 〜60)

 しかし他の評がかみついた。特に17歳年下の後輩作曲家、林光の評は辛辣を極めた。再び小宮によると「全く無意味な全く退屈な三〇分間であった。それは音楽といえるだけの構造を持っているかということさえ疑わしく、かりに作者が何かいいたいことを持っていたとして、それをこの曲を通して受けることはなんとしても不可能である。」(同p.52)

 これまたずいぶんと厳しいが、これにはその日本初演へ立ち会ったという小宮も当惑。林とは同世代で「そう遠くない距離で歩いてきたつもり」だったため、「この批評を手にしたとき、半分信じられないような気持ちで読んだ」としている。(同p.52)

 小宮はこのあと、当時の作曲界や批評界では、日本人が西洋音楽をやる場合はまず遅れた作曲技術の習得が優先であり、素材の有機的展開をしっかり造りこむことこそが大事で、それを欠くチェレプニン楽派は排撃されてしかるべきであった、とまとめている。

 伊福部はこの記事(正確には後に他の雑誌でまとめられた引用記事)をなんと、曲を書いて最初に悪口を言われても気にするなという学生への講義の材料として使っていたようで、『伊福部昭 古稀記念交響コンサート 1984』(NOOI-5011〜13)のCD3枚目に収録されている古弟子達との打ち合わせを兼ねた食事会の中でも、わざわざ「ちょうどあるわ、そこに」「林さんもね、意気盛んだったから、思い切ったこと書いてますよ」と、記事を取り上げて読み、古弟子達を困惑させている。最後に伊福部が「今でもまあこれ、正しいんじゃねえか、と思うんだけど(笑)」などと自虐オチをしても、乾いた笑いしか録音の向こうから聞こえてこない。この林の評は座談会録音を聴くに、改訂版初演をした芥川也寸志ですらこの時まで知らなかったようである。

 結局このシンフォニア・タプカーラは楽壇から黙殺され、再演が全く行われないまま25年後の改訂を迎えることになる。

 改訂の契機はいまとなっては分からないが、芥川が主兵の新交響楽団を使って師の特集を組む際に、再演を申し出たと推察される。そうなると伊福部も「あれから25年」であり、還暦を越えて脂も乗り切り、今見るととてもではないがこのままやられては困る、と思ったに違いなく、しっかりと(再演当時の)現在の技術と心境で改めて世に問いたい、となったと考えられる。

 『伊福部昭の宇宙』のp.65及びp.66に、それぞれ初稿と改訂稿の冒頭部分が載っている。つまり、初稿の楽譜は(少なくとも冒頭部分は)まだ残っていることになる。

 これを参照するに、全体として細かなオーケストレーションの改訂は云うに及ばず、最も大きな改訂は第1楽章にレントによる序奏とアレグロの導入部がついたことである。そのほか、第2楽章中間部や終結、第3楽章終結などが主に改訂されたという。


 1楽章冒頭のレント・モルトによる序奏は主要主題を引き延ばしたもので、単なる序奏ではなく導入部も兼ねる。テンポは四分音符≒40とある。まさに雄大さと格調の高さ、十勝や釧路の大平原や大湿原の中にポツンと独り立つような孤高さが加わって本曲の価値を否応にも高めている。

 交響譚詩などにもある通り、40代までの伊福部は「ワンテンポあってすぐ主題が始まる」あるいは「いきなり主題が始まる」のが特徴で、この改訂を行った頃の60代半ばの伊福部にとってそれは「若気の到り」ということだそうである。上記座談会で伊福部が告白するには、日本の伝統音楽は強奏から始まるのが常で、たいてい緩やかに始まる西洋音楽とは違う。日本の伝統を意識して「ようし、やってやれ」という感じで若いころの曲は強奏からいきなり始まっているのだという。

 同じく、伊福部はこのレントの冒頭が「2小節だけ、キージェ中尉と同じ」とも発言している。しかし、これは誰かに批評で指摘されたのを伊福部がいつまでも気にしているだけだろうと思う。松村禎三も「そうですか? 気がつきませんでした」などと答えている。似ているというか、確かに同じような雰囲気ではあるが、これがキージェ中尉と「同じ」というのであれば、作曲など何もできなくなってしまう。

 その後、♪≒168という速度で木管によりアレグロ主題が始まるが、これも導入で主要主題ではない。そしてついにトゥッティでダダダー・ダダダダ(ラソラー・ソファミレ)……と主部がスタートする。初稿は、いきなりここから始まっている。

 それも面白いだろう。だろうが、それは改訂版に馴染んでいる耳からすると珍しく感じるのであって、何も知らないところでいきなりそこから始まると、さすがに粗野なイメージが付きまとう。現在まで初稿しかないのであれば何とも比較できないのでそれでよいのだが、改訂版と初稿版の冒頭部スコアを比較し、音を想像するとそう感じる。弟子の方から伺うに、初稿は全体的にオーケストレーションも粗削りであったという。リトミカ・オスティナータや協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)の初稿や改訂途中の稿の演奏がNHK アーカイヴスで発見されクラシックの迷宮で放送されたりCDになったりしたので我々も確認できるが、最終稿に比べると妙なフレーズが残っていたり確かにオーケストレーションが粗削りだったりで、シンフォニア・タプカーラについても同様であっただろうと想像できる。しかし、全体的な構成は変わっていない。3楽章制で、1楽章はアレグロ、2楽章はアダージョ、3楽章はヴィヴァーチェ。

 1楽章はソナタ形式であろうが、いわゆる厳密な「ソナタ形式」ではなく、緩いソナタ形式というか、吉松隆のいう「疑似ソナタ形式」のようになっている。この疑似というものが具体的にどうなのかという定義はなく、とにかくソナタ形式のようなもの、という程度の意味だろう。

 ソナタ形式というのは古典派以降の曲名としてのソナタに用いられた形式でありその名があるが、西洋クラシック音楽の基幹を成す概念のひとつで、序奏から第1主題、第2主題(あるいはそれ以上)を提示する提示部、それらが「有機的に発展(変奏)する」展開部、もう一回提示部が出てくる再現部、終結部(コーダと終結)……と順序良く音楽が進行する「形式」で、もともと「オーケストラのためのソナタ」である交響曲では、ソナタ形式を使っていない交響曲はそもそも交響曲ではないという大前提がある。その前提を踏まえて、あえてソナタ形式を使わない交響曲もあるがそれはあくまで「例外」だし、逆に20世紀以降は交響曲の自由化ともいえる現象が起きて様々な交響曲が誕生し、必ずしもその前提に従う必要もない。

 にもかかわらず日本にあってはまずクラシック音楽作曲技術の習得が優先され、交響曲と銘打つからにはソナタ形式でなくては意味も価値も無いという固定観念が戦後も(今でも?)蔓延っていた。より明確にソナタ形式を使用している交響譚詩は戦前に評価され受賞もしたが、戦後シンフォニア・タプカーラが冷淡に受け止められたのは、前衛主義からは時代遅れとされ、古典主義からは古典に従ってないとされたからではないか、と小宮は分析している。

 特に「主題の有機的展開」というのが重要で、もはや概念的なものなので具体的に何なのかというのも説明しづらいが「主題と主題を組んず解れつさせた変奏の一種」であると定義できる。この「変奏」というのも西洋クラシック音楽の基礎概念のひとつである。また、このほかに「和声」などがある。

 日本の伝統音楽と比べるとよく分かる。箏や三味線、琵琶、尺八等の邦楽は原則、機能的和声も無く変奏も無い。もちろんソナタ形式もロンド形式も三部形式も対位法も無い。同じような旋律が延々と続く。オスティナートであり、ヘテロフォニーである。この日本の伝統と西洋の伝統をどう融合させるかが、伊福部を含めた明治〜戦前の日本人作曲家の命題だった。これは音楽だけではなく、洋画家や西洋彫刻家なども同じ命題と戦っている。

 毎度前置きが長くて恐縮だが、小宮の指摘にある通り伊福部などチェレプニン楽派はこの「主題の有機的展開」に欠けているというのが当時の日本楽壇の共通認識だったようだ。シンフォニア・タプカーラでも、確かにそれほど主題が展開しない。

 しかし、古典派からベートーヴェンを経てシューマン、メンデルスゾーンあたりのドイツロマン派にあっても実は言うほど展開部は長くなく、いかに素敵な旋律を提示するかという意味で重要なのは提示部だった。何せ、提示部はまず間違いなくリピート記号があって繰り返しが行われ、同じ旋律を2回も聴かせる。どうしてわざわざ繰り返すのかというと、当時は録音も無かったし、メロディーメーカーとしての腕を見せる(聴かせる)ために行われているという説がある。現代の演奏では、リピートを省略することも多々ある。

 それで提示部をたっぷりと聴かせた後、展開部へ到るわけだが、あまり長くないし提示部ほど凝ってない。展開部は、提示部と再現部の「つなぎ」みたいになっているという印象を受ける。再現部で再び素敵な旋律が出てくるまでの「つなぎ」であり、再現部を際立たせるために展開部はあえて地味なのではないか、とすら思う。

 後年、マーラーやブルックナーがアホみたいに展開部へ力を注いで、必然的に長い交響曲を書いた。彼らは交響曲の革命としてさほど重要視されていなかった(と思われる)展開部をソナタ形式のメインにした、と私は考えている。また、再現部にあっても小展開が行われて展開部の一部ともいえる進行をする。

 とはいえ、伊福部は意外と形式にこだわっていて、ゼミでは「交響曲の第1楽章はソナタ形式でなくてはならない」と教えていたという。より明確にソナタ形式を採用した交響譚詩をシンフォニーと銘打ってもよかったがそれはせず、改めてシンフォニアと銘打った当曲は、あまり明確なソナタ形式にはしなかった。しかし、ソナタ形式っぽい展開はする。

 序奏に続いて第1主題は明確だ。当曲の作曲当時、戦火により紛失したと作者が思っていたピアノと管絃楽のための協奏風交響曲第1楽章第2主題より引用されたフォルテの主部から膜物打楽器も景気良く、しばし主題が経過し、第1主題のみの小展開が行われる。本格的な展開部の前に提示部内で既に主題の小展開が行われるのは、高名どころではベートーヴェンが得意な手法である。ザムザムと野山か雪原を突き進むかのごときリズム処理が春の祭典をも想起させ、実に心地よい。

 しかし、第2主題が明確ではない。明確なソナタ形式では第1主題と第2主題の性格の描き分けが求められ、例えば第1主題がアレグロで元気の良い物なら第2主題はテンポを落とし緩徐楽章のように優しい物、あるいは同じテンポで進むのなら軽やかなものという「対比」が行われる。その2つが順番又は同時に対位法をもって変奏するのが展開部となる。当曲においてはあまりテンポも旋律も変化せず、まるで第1主題の小展開が続いているような印象を受ける。

 私が話を伺った弟子の方や片山の解説を参考とするに、おそらく第2主題もしくは第2主題に相当するものは音量が落ちてから歌われるミュート付トランペットによる主題である。第2主題の小展開ではギロも(これもハルサイのように)ギコギコと鳴る。対位法めいて第1主題も少し絡んでくるので、ちょっと分かりづらいか。よけいに第1主題の続きに聴こえる。

 その後、ゲネラルパウゼからがっくりとテンポが落ち、♪≒72により序奏部を思わせる雄大な世界が広がる。この曲調、音調で進むのなら普通はそれが第2主題という場面だが、そこから展開部であると考えられる。つまり展開部はアンダンテで行われる。このたっぷりと歌われる壮大な世界観は、北海道への「ノスタルヂア」そのものに他ならない。伊福部はアレグロが本領のように思われがちだが、こういう地平や水平をただ眺めるような、音楽ともつかぬ音がどこからともなく響いているような、大自然の音そのもののような世界が本領であると確信する。そして、伊福部はその中で生きる人間を描く。ただの自然讃歌ではなく、自然讃歌をふまえたうえでの人間讃歌が伊福部の世界。それがあって初めて、あのアレグロが血沸き肉躍る生命讃歌として浮かびあがる。

 展開部中盤では、それこそ漁師や農民、木こりの労働歌のような骨太の旋律が調子をとって現れる。ロシア民謡の『ヴォルガの舟唄』にも通ずる、人間が力強く蠢く様を表しているようだ。大きく人間讃歌を繰り返して、展開部は終結を迎える。最後はアダージョとなってホルンとチェロのソロが渋く唄い展開部の終わりを告げ、チェロの引き延ばしと共にアレグロ再現部となる。

 ファゴットから木管の導入へ到り、また例のダダダー・ダダダダ(ラソラー・ソファミレ)……から主部が再現される。再現部は第1主題のみ行われる。ソナタ形式の再現部にあっては通常第1第2両主題を短く(リピート無しのうえ、縮小される場合が多い)再現するが、どちらか片方のみ再現する場合も多々あるので、これはおかしなことではない。

 そのまま勢いを増してコーダへ突入し、怒濤の音調で第1楽章は締められる。多楽章の曲の場合、楽章間に拍手は行わないのが慣習だが、思わず拍手が出てしまいそうになる。


 2楽章はアダージョ。テンポは♪≒46なので、けっこうな遅さだ。三部形式で、中間部は♪≒72となる。ここの楽想も同じく協奏風交響曲の第2楽章と共通する。

 これは、モーツァルトやショパンなどいわゆる普通のクラシックを聴く人や、伊福部聴きでも純粋なサントラ聴きの人は慣れないと辛い音楽だろう。1楽章展開部が北海道の自然とそこに生きる人々(開拓民)を描いているとしたら、これは北海道の自然そのものとアイヌの人々の素朴な生きざまを描いているといえる。

 北海道や東北、信濃、山陰の山間などの人は、冬に雪が積もって晴れた日にいっさいの物音が雪に吸いこまれ、なんにも音のしない場所にぽつんとただ一人佇んだ経験があるだろう。シ……ンという擬音すら出てこないような、写真を見ているだけのような空間。たまに音がするのは、鳥の鳴く音と木の枝から雪が落ちる音のみという。

 そういうのを「あえて音楽にする」と、音詩「寒帯林」の1楽章やこのシンフォニア・タプカーラの2楽章のような曲となると考えられる。  そこでは西洋音楽の概念でいう音楽というより、自然の声のような旋律がただ流れる。息の長いフルートは風の音であり、ハープは大気の凍りつく音、または氷柱の融ける雫の音にも聴こえてくる。

 作曲当時、伊福部は発売されたばかりのオープンリールテープを買ってフルートの旋律をピアノで弾いて録音し、それへ1音1音合わせて変な和音にならないようにハープの音階を決めて行ったという。伊福部は、まず旋律ありきの作曲家だった。

 従ってハープも、同じ旋律を繰り返しているようでフルートの動きに合わせて微妙に変化がある。そういう隠れた面白さも鑑賞ポイントだろう。

 中間部でテンポが少し速くなり、オーボエが執拗に不思議な旋律を奏で始める。これはフルートや絃にも受け継がれ、オスティナートで提示され続ける。独特の音形だが、新交響楽団のホームページにある伊福部本人へのインタビュー「第145 回演奏会(94年10月)プログラムより」によると、アイヌの伝統楽器ムックリ(口琴)を連想させるもので、「もしキザにこじつければ2楽章の中間部のオーボエのところ。コールアングレの旋律が乗ってくる。あれはそのような響き」なのだという。ムックリとは口の前に構えた竹や木、金属の片に糸をつけてそれをリズミカルに引き、振動が口中の空間に共鳴してビョーンビョーンという実に特徴ある音を奏でる素朴な楽器である。その音色を直接模しているのではなく、草原の中に風へ紛れてどこからともなく鳴るムックリの情感を写し取った……といえる。

 じっくりと世界が流れ、3部形式で最初の音調が戻る。ハープが鳴り、フルートが鳴る。なんというシンプルさか。そのシンプルさをかみしめる。大地の声、空の色、夜の歌、冬景色、風の音、風に乗って何処からともなく聴こえてくるムックリ……それらの情景がまるでシベリウスの交響詩のように切々と「ノスタルヂア」をもって迫ってくるが、これは交響曲の緩徐楽章である。そういう情景を作曲動機としての根源的標題としているのだろうが、具体な情景描写をしているわけではない。聴くほうが勝手に想像するのはかまわないが、作者がそう描いたと決めつけてはいけない。そこにあるのは純粋な音の美のみ。その美が訴える感覚は、受け手の心の中でのみ反応を起こし、音がそう主張するわけではない。

 終結は実にそっけなく、聴き慣れない内は自分もいつ終わったのか分からず、いきなり第3楽章が始まって驚いていた。おそらくアタッカめいて、そういう効果を狙ったのではないかとすら思う。

 一般的には、こういう曲調は最後に終結和音がつくのだろうが、極弱音で最後まで来て、最後にターンと終わると思わせておいて、(…………)と終わってしまう唐突感と喪失感。そういう味わいをあえて狙っている。

 明確な終結ではなく、ふいっ、と忽然と消えるような無常観にあふれ、まさに風の音が一瞬聞こえなくなる感覚。土俗的三連画の第3楽章や交響譚詩の第2楽章にも通じる終結であり、伊福部独自の終結観が現れている。たまらない寂寥感を持ち、実に小洒落ている。目の前から人がいきなり消えてしまうような神隠し的恐怖感もある。草原の中を一人歩いていて、いきなり異世界に紛れてしまうような恐れの後味。

 そして、やおら荒々しく第3楽章が始まる。

 この第2楽章の終結は「半分寝てて第3楽章が始まって目を覚ます」では勿体ない。集中して、耳を澄ませておきたい鑑賞ポイントだろう。


 第3楽章はヴィヴァーチェ。四分音符≒168とあるのでかなり速い。

 いよいよタプカラが始まる。

 その前に、最初ちょっと不思議な、不協和音めいたガチャガチャした音で数小節の導入がある。このカナンチョ水を一気飲みして顔をしかめたような不気味な和音は、作者の甥の音響学者、伊福部達氏が緊急地震速報のチャイムへ応用したことで知られる。ここで精神を鼓舞し、陶酔状態となって一気にタプカラの舞へ入る。あるいは、これはサケハウを模しているのかもしれない。

 三部形式で、主部アレグロのタプカラ主題とも云える跳ねて踊るような愉快で軽快な旋律は、タプカラでありつつリムセ(ホリッパ)をも彷彿とさせる。アイヌ体験を全て「タプカーラの一語」へ集約した所以だろう。旋律に合わせて変拍子が自然に混じるが、基本的に力強い4拍子は西洋音楽の流儀に則って記譜されており、アクセント記号も満遍なくついている。演奏する場合は、アクセント記号があろうとなかろうと、フレージングの頭に自然にアクセントがつくのが流儀である。これは「流儀」であって、ガチでクラシック演奏を習った人は無意識のうちにそう演奏するよう指導を受けている「はず」だ。独学のアマチュアはそれを知らない人もいるかもしれないが、通常は自然にそう演奏し、4拍目にアクセントがつくなどという演奏があってはならない。それは「ヘタ」「分かってない」「間違い」を意味する。

 しかし、タプカラにあっては4拍目にアクセントがついており、そのリズムを取り入れたこのシンフォニア・タプカーラの第3楽章も4拍目にアクセントが来るのが適当で、それらしく聴こえるのだそうだが、そのような理由で伊福部は「4拍目だけ」にアクセント記号を書かなかった。「この作曲家、何もわかってねえなあ」と楽譜を見られるたびに思われるのを良しとしなかったと考えられる。

 もしマーラーだったら、その部分に長々と「これは本来アクセント記号を4拍目だけに書くものではないことはじゅうじゅう承知しているが、このリズムパターンを採用したアイヌ族の舞踊にあっては4拍目にアクセントが来るもので、当曲ではそれを模しているためにあえて4拍目にアクセント記号がある。けして作者が錯誤しているわけではない。」などと書くだろう。

 伊福部の美学ではそれも耐えられないものだったのか、4拍目を強調するアクセントは書かれなかった。

 いや、片山杜秀編『文藝別冊 伊福部昭』(河出書房新社)によると、伊福部は師チェレプニンより横浜のブラフホテルで指導を受けた際、日本狂詩曲の書法で指示の少なさを指摘された。それで、次作の土俗的三連画にあっては「徹底的に」に楽譜へ指示を書きこみ、「管楽器を吹くときの恰好まで」指定したのだが、「あまり指定しすぎると窮屈になってしまうんですね。」(p.166)とあるので、実践としてそこまでの指示も書かれなかった、というべきか。

 とにかくそのようなわけで、それは口伝で伝えてゆかなければこの曲の本当の味は失われてしまう。これはなかなか厄介だ。楽譜至上主義者はどこの世界にもいるし、そもそも曲が完成して作曲者の手を離れた瞬間に作品は独立し、演奏の全てを演奏家に委ねなくてはならない。もし心配であれば、臆面もなくマーラーのように異常ともいえるほど楽譜に指示を書かなくてはならない。マーラーは自身が超一流の指揮者だったため、いかに演奏家が楽譜を誤読して自分勝手に演奏するかを知りつくしていた。同時代の指揮者・演奏家を一切信用しなかったマーラーは、自分以外の指揮者が間違いなく指揮し、奏者が演奏できるよう、自らの曲へ呆れるほど文章で指示を書きこんだ。あの指示は、マーラーの不信の産物である。既に述べてあるが、伊福部のように「あえて譜面に書かなかった」とかやられると、奏者としてはお手上げだ。

 正式に出版されれば、前書きで解説者が必ずそれを書くだろう。しかしシンフォニア・タプカーラはコピー出版だったうえに2018年執筆現在は絶版である。現状は、知っている指揮者やプロデューサーが現場で指示しなくてはならない。伊福部は作品の人気のわりに、正規出版に恵まれていない。

 主部の終結にあたり、冒頭の不気味和音を伴った音形が伊福部得意のディミニエンドで納まり、熱狂は鎮まる。そしてティンパニの連打で世界が変わる。

 中間部はテンポが落ち、四分音符≒132 となる。木管により提示されるスキップめいた主題は、同じく協奏風交響曲の第3楽章に通じるものがあるが、むしろプロメテの火の第3幕『火の歓喜』との関連性が強く考えられる。オスティナートで主題は繰り返され、展開はしない。同じ主題が楽器を変えて延々と演奏されているうちに「揺らぎ」が生じてくる。ヘテロフォニーである。

 しかしこの音楽は、西村朗のようなヘテロフォニーそのものの再現を狙ったものではない。ヘテロフォニーに似た効果が自然と出てくるように書かれているというだけで、これで本当にヘテロフォニーになったら単に縦の線がズレている演奏だ。そうではなく、モーツァルトやショパンなどのいわゆる普通の西洋クラシックのみを聴き続けてそれへ慣れている耳には、こうも執拗に同じ旋律を繰り返されては脳が錯覚し揺らいで聴こえてくると思われ、その効果を狙っていると考えられる。

 そうはいっても最初から最後までそれでは音楽として面白くないので、伊福部は「音楽として」工夫を凝らす。

 中間部の主題に前半の主要主題の一部がからむ。また主要主題が倍のテンポになったものも、優雅にそして「ノスタルヂア」をもって切なく鳴る。分かり易いが細かい藝当だ。中間部の後半はアイヌの叩く素朴な打楽器(行器の蓋など)のような単純なリズムも登場し、三連符のパッセージが時に激しく叩きつけられ、時に優しく愛撫される。最後にタンタンタンタン……と明快な打楽器が速度を増し、不気味和音の再現からテンポ・プリモで冒頭部へ戻る。

 まずヴァイオリンがソロで主部主題を演奏し味を変える。最後にすごい運指が出てソロを締め、タプカラ主題が総奏で登場。ここは再現部も兼ねており繰り返しが少ない。その代わり、怒涛のコーダへ向けてオーケストラ全員が精神の一点集中で突き進む。耳に聴こえて特徴的なのはピッコロとトロンボーンの掛け合いだろう。タプカラ主題の合間にトロンボーンが中間主題の派生めいた実に特徴ある音形をグリッサンドも力強く大地(モシリ)の咆哮めいて吹き鳴らし、オクターブ高いピッコロがまさに天をつんざく神鳥(カムイチカプ)の声かとばかりに16分音符を吹きまくりに吹く。このピッコロは息継ぎする間も無いもので、フルート持ち替えあるいは最初からピッコロパートを2人にするなど、2本用意するオーケストラもあるようだ。

 タプカラはいよいよ興が乗り魂が陶酔し、足踏みもサケハウも大きく巨大な魂のうねりとなる。

 それへ伴って大抵の演奏ではオーケストラのテンポもグンと速くなるが、改訂稿では特に速度増の指示はない。指揮者が興奮して速くなるか、音楽の勢いを重視してあえて速くしているのだろう。

 トロンボーンとピッコロの掛け合いの効果は凄まじく、さすが管絃楽法を著した伊福部であると唸る。普通のオーケストラでは、禁じ手に近いだろう。膜物打楽器群も、リムショットめいてここぞと叩かれる。

 神(カムイ)が天へ帰るとき、タプカラを舞いながら鳥の姿となって昇って行くという。我々の魂も神と同じ陶酔感、高揚感を持ち、魔を打ち祓い、この世の憂さや戒めから解放されて、コーダから一気呵成に曲は閉じられ、この神聖なシンフォニアは堂々と輝きに満ちて終結する。


3.様々に立って踊ってみた

 ここでは私的な演奏評を。対象は一般販売でCD化されたシンフォニア・タプカーラの演奏で、私家盤、未CD化音源、編曲物、抜粋演奏は除く。該当の演奏、すなわち一般販売CD・オーケストラ・全曲演奏は2018年執筆現在では15種類ある。

 この企画は既に私の個人サイト『後の祭』の伊福部ページ「コラム&ディスコグラフィー」で行っているが、今回は改めて聴き直し、最新の想いを簡潔に記してみたい。演奏年代順。

●芥川也寸志/新交響楽団  1980年ライヴ fontec FOCD9531/32

 改訂版初演の貴重な録音。かつてLPのみで販売され、CD化は2011年とずいぶん遅かった。私は当盤発売までこの演奏を聴いたことが無かったが、この演奏会を直に聴いた人やLPを所持していた人にとって、長く当曲のファーストインプレッションだった。  驚くのは初演からすごい芥川節で、特にアレグロがチャキチャキに速い。レントやアダージョも「やや速」といったところで、最初にこれを刷りこまれると後の石井真木や広上淳一、高関健のたっぷりとした演奏は胃もたれするだろう。使命感と情熱へ燃えに燃え、切れ味鋭く迫る大好演。音色も透明感にあふれる。

●手塚幸紀/東京交響楽団  1984年ライヴ キングレコード KICC2011

 この演奏の28年前に、初版の日本初演を担ったのがこの東響である。芥川ほどではないがけっこう快速演奏で、内声部もよく聴こえて面白い。打楽器も勢いがある。2楽章の情感もよく、3楽章のノリもよい。ライヴならではの失敗もあるが、鑑賞の妨げにはならない。さすがに録音が古く平面的だが、それは仕方がないだろう。

●芥川也寸志/新交響楽団  1984年ライヴ 風樂 NOOI-5011 〜 13

 伊福部昭古稀記念コンサートでのライヴ録音。この年は、2回シンフォニア・タプカーラが演奏されたことになる。伊福部70歳を迎え、この後も記念の度に当曲は演奏される。

 冒頭から、堂々と歩むがごとく推進力がある。アレグロとなっても急かさず、レントなども意外とたっぷりとテンポをとっている。これは、やはり初演に比べると「こなれてきた」というところか。1楽章の後に拍手が入るなど、当日の客層がクラシックよりゴジラ関係が多かったのではないかと推察できて興味深い。フレージングのとり方のうまさは流石に同じ職業作曲家だなと思う。3楽章の勢いは相変わらず素晴らしい。録音はやや荒く感じる。特に金管が割れて聴こえる場合がある。

●芥川也寸志/新交響楽団  1987年ライヴ fontec FOCD3245

 同コンビによるおそらく当曲最後の録音と思われる。メリハリを効かせたテンポ感やフレージングは、もう当曲を完全に手の物としている。伊福部の中の土俗性ではなくダンディさを強調した実に格好良い演奏。独特の和音や埋もれがちな内声部の強調などもうまい。初演の際のセカセカした感じは完全に影をひそめている。3楽章がやはり特筆。コーダ前の打楽器も含めたクレッシェンドが鳥肌もの。

●金洪才/大阪シンフォニカー   1987年ライヴ VAP VPCD-81036〜7

 1987年は関西でも同曲が演奏されている。伊丹市の伝説的ライヴだそうである。録音と、なにより演奏技術的に苦しい部分もあるが、熱演といえる。情感もあるし、特にゆっくりな部分がよい。1・2楽章と比べて3楽章がややせわしなく感じる。

●石井真木/新星日本交響楽団  1991年ライヴ 東芝EMI TYCY-5217〜18

 伊福部昭喜寿記念演奏会の模様。石井の指揮はこれまでで最もたっぷりとテンポをとり、雄大だ。しかしフレージングに独特の粘りがあり、引っ張られて聴こえ、遅く感じる人もいるだろう。私はいかにも北海道弁的伊福部節で好きだが、芥川の演奏に馴れている人にはちょっと辛いかもしれない。2楽章の情景は最高だ。3楽章もよく「訛り」が再現されている。

●井上道義/新日本フィルハーモニー交響楽団  1991年ライヴ fontec FOCD3292

 91年も2回演奏された。井上の演奏はドライで都会的とされるが、むしろマッチョ。カッチリとフレーズの縁を固めてきて、造型的な際立ちと音の立ち上がりの速度とパワーがすごい。アレグロのテンポも速いが、それ以上に曖昧さのない硬質で標準語的な土臭さのない情感が、都会的という評を生むのだと思う。

●原田幸一郎/新交響楽団  1994年ライヴ 東芝EMI TYCY-5424〜25

 東京クヮルテットで活躍し、桐朋学園の教授も務めるヴァイオリンの第一人者である原田の指揮は、楽譜の読み込みの深さで一味ちがう。奇をてらっているわけではなく、むしろスタンダードを極めると音楽の底力が出てくるタイプ。絃楽の味わいはさすが。管楽器のフレージングや表情づけもうまい。アンサンブルの精緻さも光る。無個性のように聴こえて実は個性的という、玄人ウケする演奏。

●広上淳一/日本フィルハーモニー交響楽団  1995年セッション キングレコード KICC176

 CDでは初のシンフォニア・タプカーラのセッション録音。しかも作曲者の監修。ここで初めて伊福部の口から公式に、第3楽章のリズムはタプカラのリズムを模して第4拍にアクセントがあるが、西洋音楽の流儀に則りあえて記譜しなかったと述べられた。  速すぎず遅すぎず、ライヴ特有の瑕疵も無く、しかも細かいところまで調整されて、実演だと埋もれがちなハープや打楽器、内声部の細かい音形などもよく聴こえる。広上流のノリの良さや情感もたっぷりとあり、録音も良い。  私は、当曲のスタンダード盤として当録音を強くお奨めする。

●石井真木/新交響楽団  2002年ライヴ キングレコード KICC377/8

 7年ぶりの当曲録音。伊福部は既に米寿を迎えている。古弟子たちもだいぶん亡くなっており、伊福部も寄る年波には勝てず、写真もどこか侘しげだ。また指揮の石井真木も亡くなるほぼ1年前とあって痛々しく、自らへの惜別と追悼の演奏のようで、未だに聴くたびに胸に迫る。

 冒頭よりテンポはたっぷりだが、なにより音色がもの悲しい。アレグロ部も、交響譚詩に近い印象がある。元気よくというより、音楽を惜しむかのように味わっている。緩徐部や第2楽章は寂寥感がたまらない。3楽章は打楽器の音量も大きく、これまでとは逆にノリが荒々しいまでにすごい。まさに生命讃歌、人間讃歌である。死を前にした者だけが到達する、生の素晴らしさへの憧憬の極み。  フレージングの見事さは変わらず、この曲のテンポ感やフレージングを最も作曲者の理想通りに演奏したのは石井だと思う。

●ヤブロンスキー/ロシアフィルハーモニー管弦楽団  2004年セッション ナクソス 8.557587J

 ナクソスレーベルの日本人作曲家特集「日本作曲家選輯」の1つで伊福部が出たときは猛烈に期待し、伊福部の世界進出だと意気込んだ。結果は、オーケストラはさすがにうまいが違和感の塊のような演奏で、酷く落胆した。

 まず冒頭から速い。レントではなくアンダンテほど。情感が台無し。その後の展開は悪くない。冒頭とは逆にゆっくりめで、落ちついている。アンダンテに到ると、またやや速い。不思議な感覚。ここは、そんなズンズン進むところか? そして再現部はまたゆっくりめ。やたらと主部が弱く中声部が聴こえる場面がある。  そして2楽章がやたらと速い。この楽章をどうして速くするのか分からない。そんなに急いでどこへ行く。ロシア人にはそういう音楽に聴こえたのだろう。面白い。

 3楽章もテンポはゆったりめ。やはり主旋律は控えめで、やけに伴奏というか背後で動いている部分が聴こえて面白い。打楽器は全体的に抑えぎみ。トロンボーンのグリッサンドはグリッサンドしておらず、ふつうに八分音符で演奏している。なんで!?  資金の関係もあるが、楽譜だけ送って、数日の録音ですませてしまうとこうなるのだろう。まさに当曲の原典版初演と同じことがおきた。すなわち「演奏は仲々見事なものであるが、伝統と人種を異にする人々の解釈であるから、又或種の歪みもまぬがれなかった。」

 よい点は金管がうまいこと。伊福部は本来、これほどの金管力が必要な音楽なのだと確信する。

●本名徹次/日本フィルハーモニー交響楽団  2007年ライヴ キングレコード KICC662-63

 全曲演奏のみを取り上げるので、次がこの録音となる。ついに伊福部没後の録音となった。伊福部昭音楽祭のライヴ。

 冒頭からじっくりと追悼の歌が流れるようだ。主部アレグロはちょうど良いテンポ感だが、展開部(アンダンテ)がやけにゆっくりしており、主部アレグロや対全部との対比を図っている。2楽章もテンポをたっぷりととり、情感豊か。しかし後半はサクサク行く。3楽章はかなり速め。このテンポは賛否あるだろう。中間部はふつうだが、冒頭とテンポプリモが異様。オケが崩壊しかけている。

●高関健/札幌交響楽団  2014年ライヴ キングレコード KICC1154

 伊福部昭生誕百周年記念演奏会のライヴ録音。自分も会場で聴いた。

 シベリウスや武満を得意とするせいか、札響の演奏する伊福部は意外にフォークロア的泥臭さが無く、かといって都会的なスタイリッシュさとも隔絶した、雪の結晶のような透明感と端麗さにあふれる格別のもの。高関のテンポ感は余裕があり、速すぎず遅すぎずスコアを丹念に鳴らして行く手法。寸分の狂いも曖昧さも無い厳しい表現。フレージングも変に脚色しておらず自然であり、当曲がシベリウスやドヴォルザークに匹敵する普遍的な新古典国民楽派交響曲であると気づかせてくれる。1楽章展開部もしっかりと大地に足をつけて前へ進む。再現部も盛り上がる。

 2楽章の、たっぷりとしていつつキリキリと引き締まった情感たるや、これまでの演奏で最も北海道らしいと道民の私が断言する。ここは、やはり武満を得意とする札響の絃の音色も味方しているだろう。この透明感と透徹し凍りついた空気感は、この楽章を演奏するときに絶対に必要なものだ。むしろ情感がありすぎて、ノスタルヂアというよりリアル北海道になっている。

 3楽章もむしろゆったりとしたテンポで進むが、そこは高関の棒だ、けしてだれない。楔を打つ打楽器、晴々とした管楽器、美しい絃楽器。それらが渾然一体となって北国で人の生きる苦しみや楽しみ、生命讃歌を炙り出す。祭の高揚感は神も喜んで天へ昇る。  非常に立派な演奏で、正統派とはこのことだ。

●和田薫/東京フィルハーモニー交響楽団  2014年ライヴ キングレコード KICC1155

 伊福部昭生誕百周年記念演奏会の1つ、第4回伊福部昭音楽祭のライヴ。

 作曲者の愛弟子の1人である和田薫によるタクト。弟子の指揮の系譜は芥川、石井に続くもの。

 冒頭から石井に匹敵する、かなり余裕のあるテンポ。意図的に間をとっている。アレグロも速すぎず遅すぎずで、じっくりと鳴らして行く。展開部もかなり遅く感じる。スケールの大きい、堂々とした演奏。2楽章もかなりゆったりと旋律をかみしめ、フレージング重視で進む。3楽章も全体の勢いより旋律の強調が成されている。

 流れやフレージングはさすが作曲家の観点と思えるものの、やはりアンサンブルの精度はプロ指揮者には譲るといったところ。また、自然な流れより作為的な演出を優先した演奏にも聴こえる。

●バッティストーニ/東京フィルハーモニー交響楽団 2017年セッション DENON COCQ-85414

 なんとこの企画へ合わせたように最新盤が発売された。しかも、外国人指揮者。ヤブロンスキーの悪夢が蘇る。しかしオケが日本。プロデューサーも日本人だろうし、指揮者は日本人作曲家をよく研究しているというのでそこは期待できる。

 結果は期待以上。スタンダードな演奏で基本を外さずにいつつ、ところどころいかにも西洋人の感性で、西洋音楽の流儀でパッセージやフレージングをぶっこんでくる。これは面白い。録音も良く、打楽器やホルンも大きく入っている。パッションも高く、新時代の世界的な演奏と云えるだろう。それを新世界よりとカップリングした効果も大きい。新世界目当てで買った人にも、充分に当曲の魅力は伝わるだろう。惜しむらくは冒頭のテンポがセカセカと速くて、そこだけ興ざめ。

●総括

 指揮者によって表現は様々だが、面白いのは演奏によってそれぞれ「おやっ?」と思うフレーズが時折現れること。別に、スコアへ音を足しているわけでも無いだろう。伊福部のスコアは分厚い音が鳴るわりに意外と薄くすっきりしており、それが不思議なのだが、聴こえない音が隠されていて、それを指揮者それぞれがピックアップしているのだと思うと個性が見えて(聴こえて)きて面白みも増す。好みの問題なので、あの演奏は良い、この演奏はダメというのではない。皆様も好きなシンフォニア・タプカーラをそれぞれ自由に愛聴していただきたい。


4.白老にてお話を聴く

 平成29年10月9日、私は北海道胆振地方の白老町にあるアイヌ民族博物館(当時:現ウポポイ)を訪れ、タプカラについてお話を聴き、特別に演舞を鑑賞させてもらった。

 ここでは1の補足として、その取材の成果を簡潔に記す。

 アイヌ語は確かにコタンごとで方言がきつく、日本語でいうと東北弁と関西弁・九州弁くらい異なる。だが完全に分からないというほどではなく、ゆっくり話すと基本的には通じるものである。ただし、日常会話の速度で話されると本当に分からないという。

 tapkar は tapukara ではなく p と r は子音のみの発音であるが、 r は前の音の ka に引っ張られて ra に聞こえる場合が多い。しかし、 ru に聞こえるように発音される場合もある。

 タプカラは魔除けであり、部屋の四隅に向かって行われる。地方によって所作が微妙に異なっており千差万別で、さらに演者によっても歌(唸り)の節回し等も千差万別であり、一概にこれというものではない。唸り声は、単なるウ〜ウ〜という無味乾燥なものではなく、個々人で自慢の民謡めいた節回しを伴って、ときおり鼻に抜けて倍音を含んだモンゴルのホーミーにも似た音を交えながら歌われる。

 タプカラは酒宴の際に行われるが、アイヌにあっては、かつては酒が貴重品であり普段飲むものではなく、儀式の際に神へ供物として供え、それを下がりものとして人々も頂くという形で飲んだ。従って上記の資料によく出てくる酒宴というのは単なる飲み会ではなく、すなわち儀礼(神事)を意味する。しかし儀礼の後はそのまま流れでいわゆる飲み会となるので、その際は通常の意味での酒宴となる。しかし、くり返すが本来的にかつてのアイヌにとって酒は嗜好品ではなく、神々へ捧げる重要な供物であった。

 タプカラはそういう儀式(イヨマンテやカムイノミ等)の前にまず行い、儀式の最中に行い、儀式の後に行い、さらに飲み会となってからも行われたという。また、単に声自慢、喉自慢として見せて(聴かせて)いた場合もあった。

 タプカラの際に発する唸り声は、座って出すとサケハウだが、踏舞をしながら出すとタプカラ(の一部)となる。つまりサケハウとタプカラは別個のものとして認識されている。

 タプカラとは踏舞のことを意味するが、単に「踊り」「踊る」という意味で使われている例もある。

 北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要第10号(2004年 3月25日発行)甲地利恵「〈調査報告〉旭川地方におけるタについて−杉村満さんの伝承より−」には、各地のタプカラについての聞き取り調査がまとめられている。

 項数が限られているので詳細は転記しないが、タプカラは男性一人で行う(その場合、女性は座って囃子詞を言う)他にも、女性が後ろをついて歩くものがあることは記してあるが、その女性が男性の妻と定められている地方、逆に妻以外でなければならない地方、女性ではなく複数の男性で行う地方、男の子が練習のため後ろにつく地方、などがある。

 歌にあっても、歌詞を入れてはいけないというきまりがあるために純粋に言葉ではなく唸り声のみの地方、逆に即興の歌詞のある地方、または意味はないが囃子詞として唸り声に何らかの単語が混じる地方、などがある。

 動作にあっては、足を踏み鳴らしながらゆっくり歩き、基本は掌を上にしてゆっくり目の高さまで上下するものだが、刀を持って舞う地方、上下ではなく片手ずつ前後に動かす地方、などがある。

 このようにタプカラは、唸り声をあげながら足を踏み鳴らしゆっくり進むという基本的な動作は不変だが、細部にあって全道各地域また演者個々人で様々な種類があるため「タプカラだけでひと公演(講演?)できるほど」であり、とてもタプカラはこうだと一概に断定できるものではない。

 なおタプカラは儀礼神事の際に行うので、これは基本的に正装となる。

 ちなみにリムセも正式な酒宴(儀礼)の際に行われるものは正装だが、普段の生活の中で楽しみとして行うリムセは当然普段着でやる。

 個人的に最も興味深かったのは、上記してあるシンフォニア・タプカーラ第3楽章の高名な逸話……タプカラにあっては4拍目にアクセントが来るが、そのリズムを模した第3楽章では西洋音楽の流儀に従ってあえて楽譜に書かなかった……ため、演奏する際は4拍目にアクセントをとると本来の姿に近くなる、というもので、タプカラは4拍目にアクセントが来るのかどうかお話を伺ったが「そんなことはない」とのことで、これは衝撃だった。

 タプカラは一定のリズムで行うものとのことで、実際の演舞も含め、お話を伺った限り全般的にアクセントという概念は存在しないように感じられた。人それぞれに歌う節回しが異なるため、拍子にあっては最も短いもので2拍子、それから3拍子、4拍子、5拍子で行う人もいるが、アクセントに関しては特に意識していないようであった。

 ただ、タプカラは地域や演者によって本当に千差万別なので、伊福部が幼少のころ見聴きした音更のコタンでは、当時はそういうふうに4拍目にアクセントをとっていた演者がいた可能性は高い、という。

 タプカラであれば画一的に全て4拍目にアクセントが来るというのは認識違いであることを確認したので、ここに記す。

 タ(白糠)の演舞 於 アイヌ民族博物館(当時:現ウポポイ) (掲載許可済)

   

  


5.おわりに

 前回『伊福部ファン 第0号』へ寄稿した「ストラヴィーンスキィと富士の裾野のストラヴィーンスキィ」の際も記したが、これは論文や研究結果ではなく、基本的に好き勝手に書いたコラムめいた読み物なので、語弊誤記がある場合はご笑納いただきたい。シンフォニア・タプカーラのたまらない魅力や鑑賞ポイントを私なりに書き連ねたが、つい長くなるのが悪癖であると自覚している。しかし、シンフォニア・タプカーラを肴に、書いても書いても止まらない。人間、そこまでの音楽と出会えることは滅多にないだろう。それほどの音楽へ出会えたことを、八百万の神々と伊福部先生へ感謝したい。

取材協力: 一般財団法人アイヌ民族博物館教育普及係(当時)山道ヒビキさん


参考文献:
伊福部昭・小林淳編(2013)『伊福部昭綴る』ワイズ出版
伊福部昭・小林淳編(2016)『伊福部昭綴るU』ワイズ出版
甲地利恵(2004) 『〈調査報告〉旭川地方におけるタについて ―杉村満さんの伝承より―』北海道立アイヌ民族文化研究センター
相良侑亮編(1992)『伊福部昭の宇宙』音楽之友社
知里真志保(1973)『知里真志保著作集2 説話・神謡編U』平凡社 (以上著者名50音順)
財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構編 『平成10年度アイヌ語ラジオ講座テキスト』
『単語リスト(アイヌ語・日本語)─静内─』
公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構編 『単語リスト(アイヌ語・日本語)─石狩川─』
『単語リスト(アイヌ語・日本語)─カラフト─』
『単語リスト(アイヌ語・日本語)─沙流─』






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