第1回 「伊福部昭の想いで」


 聴き手 九鬼 蛍(以下「九」という。)
 語り手 堀井友徳(以下「堀」という。)

 日時 2007年11月17日午後4時半ころ
 場所 北海道某所


 九「それでは、伊福部先生の想いでということなのですが」

 堀「はい」

 九「大学の1年生からすぐ伊福部教室だったのでしょうか?」

 堀「いいえ、まず打楽器科で入ったんです」

 九「マリンバですか?」

 堀「そうです、マリンバです」

 九「受験もマリンバだったのですか?」
 
 堀「受験もマリンバです。その前の時代の話からしましょう。なんで伊福部先生を知ったかという。あの、宇宙船という本をご存じですか? 特撮関係の。僕はその、特撮が好きだったものですから、中1ぐらいからその宇宙船という本を読んでたんですね。その本に、東宝特撮の特集が毎号出るわけです。その映画の音楽のところに、いつも、音楽伊福部昭、音楽伊福部昭と書いてある。伊福部さんという人はどういう人なのかなあ、と。それが最初に名前を知ったきっかけです。いまもう(この本は)なくなってしまったのですけど、伊福部昭特集が、毎号出ていた。特徴ある風貌ですし、ゴジラとか、地球防衛軍とか、ラドンとか、そういう音楽ばっかり担当している作曲家というのは、どういう人なのかなあ、と思って。それで、1991年には、ゴジラVSキングギドラで、16年ぶりに、映画音楽に、復帰、という」
 
 九「我々の世代では、それが初めての、伊福部体験ですね」

 堀「そうです、まさに。それでサントラが出るので、あ、じゃあ聴いてみようか、と。いちばん最初に聴いたファーストインプレッションがそれでした。それで、ゴジラの音楽って初めて聴いたんです。それで、びっくりしちゃって(笑) ショックでした。何にびっくりしたかというと、オーケストラのサウンドです」

 九「サウンドそのものですか?」

 堀「サウンドそのものです。というのも、それまで聴いてきたオーケストラ曲というのは、モーツァルトとか、ベートーヴェンとか、ブラームスとか、いわゆる西洋の作曲家ばっかりだったでしょう。いわゆる、ドミソハーモニーの交響曲ばっかりだった。そこにきて、オールユニゾンの、金管まるだし、絃のユニゾンの、そういうオーケストレーションの曲って今まで聴いたことなかったから、すごいびっくりしちゃったんです」

 九「本格的ですね、最初から(笑)」 

 堀「今まで聴いてきたクラシックの作曲家とはぜんぜんちがうオーケストラの響き、それにびっくりしちゃって、興味を持って、それがきっかけなんですよ」


 九「で、(打楽器科へ2年通ってから、作曲科へ転科し、95年の)作曲科の2年のときに、デストロイアのアシスタントを」

 堀「そう、だから、僕は、91年のキングギドラの時は、北海道で、CDを聴いて、いやー、いいなと思ってたわけです。それが、3年たって、まさかデストロイアをいっしょにやるとは、信じられなかった。それで、オーケストラの書き方なんて、先生がいちから教えてくれない。とにかく、他の人の作業を見てなさいと。そうしたら分かるようになるからって。それで(先に2年も通っていたので)1年生からオケのスコアを書けるのは僕だけだった」

 九「伊福部クラスの他には?」

 堀「池辺晋一郎先生、西村朗先生、有馬礼子先生のクラスもありました。東京音大はどのクラスに顔を出しても良かった。他の大学ではダメらしいのですけど。高校で云えばクラス担任みたいなものでしょうか。伊福部クラスだけど、いろいろ顔をだした。池野成先生も。火曜日は伊福部クラスで、水曜が池野クラスで、木曜が有馬クラス。金曜は三木先生。三木稔先生もいた」

 九「三木先生も」

 堀「僕、2年間、三木ゼミにいた」

 九「巨匠が集まってますね(笑)」

 堀「たのしかったです(笑)」


 九「オーケストレーションの手伝いというのは、デストロイアのみですか?」

 堀「デストロイアが最初で最後です」

 九「わんぱく王子は?」

 堀「わんぱく王子は、だいぶあとですよ。先生が亡くなる1年くらいまえです」

 九「あっ、そうですか」

 堀「卒業してから。在学中は、デストロイアだけ」

 九「そうか、卒業してからですね」

 堀「卒業してから、先生の録音のお手伝いとか、楽譜のお手伝いをしたりとか。先生、耳が遠くなってしまって。音が判別できないから、あんたちょっと判別してくれないかって」

 九「あのシリーズはけっこう古くから出ていますから、真ん中ぐらいからですか?」

 堀「6と7ってあったでしょう。フィリピンとか、日本の太鼓とか、エグログ。7が、キンゴジとわんぱく王子。このふたつは、2003年だった」

 九「けっこう、あいだ空きましたからね」

 堀「空きましたね。4枚出たでしょう」

 九「4枚出て、舘野さんの協奏風交響曲が出て、それからしばらく空いた」


 堀「85歳を過ぎたくらいから、先生、調子が悪くなって。補聴器で苦労されてました。最初のころは。後年は車椅子だったから、体力的にも、演奏会に行くのは、辛かったのではないでしょうか」

 九「いつから先生は車椅子だったのですか?」

 堀「亡くなる、1、2年位前からです」

 九「そうですか。けっこう、晩年までしっかりと。僕は、(2004年の)卒寿の演奏会で、初めて伊福部先生を見たんですよ」

 堀「車椅子だったでしょう?」

 九「もう、びっくりしたんですよ。ああ、この人、こんなに歳だったんだ、と思って。ショックだったんです」

 堀「そう、失礼だけど急に老けられて」

 九「いや、しかしあの演奏会はほんとうに感動的で、アンコールの時とか号泣しました。みんなうわーとかブラボーとかやってるのに、僕だけ涙でクシャクシャになって(笑)」

 堀「あれが最後の立ち会いの演奏会だったのでは? 僕が師事したときにもう、80歳だったんですから。それでもお元気だったんですよ」

 九「それに比べたら、お弟子さんのほうが先に」

 堀「芥川さんとか。黛さんとか。池野先生も亡くなったでしょう。先生の亡くなる数年前に。あれがけっこうショックだったみたいですね。いや僕もショックだったんですよ。(池野先生は)いい方だったんです」

 九「松村先生も、あとを追うようにお亡くなりに」

 堀「ほんとうに。まあ松村先生は、もともとが、病弱でしたから。それこそ石井真木さんも」

 九「(石井先生は)ガンでしたから、どうしようもなかったですね」

 堀「いやだから冗談ぬきに、若い弟子も、ぜったい先生より先に死ぬって思ってました」

 九「そうですか(笑)」

 堀「生命力がすごかったから(笑) 僕もこの2004年の時にけっこう大病してしまって(笑)」

 九「そうなんですか?(笑)」

 堀「入院の一歩手前まで行って(笑) 先生のお手伝いして終わってから。だからちょっとヤバいんじゃないかなとか思ったりしまして(笑) いやほんと100歳以上まで行くと思ってました。マジメに。だから91歳って、意外に早かったです」

 九「そうですね。僕は、あの、協奏風交響曲のときのドキュメントを見て」

 堀「あれ、ぼくちょっと出てるんです」

 九「そうなんですか!?(笑)」

 堀「後ろでなかんか、見学して、ぼけっとして(笑)」

 九「それでけっこうお元気だったら、お元気っていうイメージがずーっとありました」

 堀「あのときはお元気でしたよ。ホントに。あれ10年前ですよ。97年ですから。懐かしい」

 九「この10年間で。なんともいえません」

 堀「いや、でも、奥さんが亡くなられてから、やっぱり老けられました。大学をやめた年も、先生、ちょっと老けられたんです」

 九「そうですか」

 堀「先生ご自身も云ってました。いままでほら、週一回でも、仕事に行ってたわけですから。それが張り合いになっていた」

 九「そうですね、高齢者福祉で大事なのは、なんでもいいからやりがい(生きがい)を見つけることなんですよ」

 堀「で、大学やめて楽になるかなと思ったら、逆になんか、ぽっかり穴があいちゃったみたいになってしまったんです」


 九「では次に、堀井さんの作品のことを」

 堀「作品のことですね。えーと、箏のね、譚章っていう、これが公に発表した最初の作品です」

 九「これは、何年生の時ですか?」

 堀「これは1年生の時ですよ」

 九「1年生というのは、作曲科の1年生の時ですか?」

 堀「そうです。間もないころ。作曲して間もないころ、だから、先生に止められたんですよ。やめときなさいって。野坂先生が、(その年の)12月に極月の会って、伊福部先生のお弟子さん達に、委嘱するってあったんですよ。それで、5人位いたんですよ」

 九「伊福部先生のお弟子さんに委嘱するっていう会なんですか?」

 堀「いや」

 九「会の中で、委嘱するという企画ですか?」

 堀「そうです。会の中で委嘱。それで5人、いたんですよ。僕はまあ、いちばん、下だった。で、さいしょ、堀井さん、まだ早いかな、って。でも、せっかくの機会だからやってみるか、って。で、僕は箏の曲なんか初めてで(笑) 箏どころかまともな作品も書いたことないんだから。(しかし伊福部先生が)やってみるか? って。うーん、じゃ、やってみます、って(笑)」

 九「(笑)」

 堀「作曲料も出たし(笑)」

 九「あっ、出たんですか(笑)」

 堀「1年のぶんざいで作曲料もらっちゃって(笑) 野坂先生がお箏を持ってきて、(奏法とか)レクチャーしてくださって、資料とかもいただいて、なんとか苦労して書いたわけですよ」

 九「評判はどうだったんですか?」

 堀「評判は良かった。ま、聴いたら分かるんだけど(笑) ほんとに、メロディーばっかり(笑)」

 九「(笑)」

 堀「恥ずかしい(笑) ホントにいま聴くと恥ずかしいんだけど(笑) それが逆にね、そういう曲、いままで無かったんですって」


 ※ここで、九鬼蛍の手違いで、レコーダーの録音容量がいっぱいになる。原因は、借りてきた機械の操作不慣れによる。

 以下場所を居酒屋へ移して、自由対談となり、ノートメモよりの箇条書きとする。


○二十絃箏のための4つの小品(1997)について。

 次の作品は3年後で、1997年の、4つの小品。また野坂先生が伊福部先生の弟子に委嘱するという企画で、そのときはもう、4年生だった。表があって、ソロ、デュオ、トリオ、その他アンサンブルとかあって、選べた。たまたま、自分がいちばん最初に研究室へゆき、真っ先にソロをとった。最初から4つの(4楽章制の)小品という条件で、作曲した。初演は4人で行うこととなったが、ソロでぜんぶ弾いても良い。これも評判が非常に良かった。再演も5、6度された。出版もされていない曲でそんなに再演されるのは珍しい。箏らしくない曲をめざした。ギター的というか。いま聴くと恥ずかしい。箏らしくないとは聞こえが良いが、逆に箏のことをよく分かってなかったという思いもある。この当時の曲は、そうだが、最近の曲(2007年)は箏らしいと思う。このころは箏ばかり注文がくるとは思わず、3回目がきた時は驚いた。

○ミッテンヴァルト社に出入りするようになってから、ピアノやヴァイオリンも書くようになった。2000年くらいである。

○ヴァイオリンとチェンバロのためのロマンツァ(2000)について。

 これはヴァイオリンとピアノではふつうで面白くないので、あえてチェンバロを使った。古楽器はピッチが低いので合わせるのが難しかった。チェンバロのピッチを上げる等、工夫した。チェンバロとピアノの違いを意識したが、ピアノでも弾けるようにした。その代わり、曲調はピアノっぽくない。評判は良かった。

○評判の特徴としてすべて、ポピュラリズムというのがあるかもしれない。しかし反動もある。ポピュラリティある曲を書くと、いわゆる楽壇からは一段低くみられる。

○箏三重奏のための譚饗(2002)について。

 これは評判が良くなかった(笑) 作風に迷いが生じた。スランプだった。シリアス路線の最初の曲。無調ではない。しかし、ただ単にメロディーを歌うだけの曲でこれからも良いのか、という迷いがあり、もっと精神性のある、深みのある曲を目指した。ロマンツァのような曲を期待される。ポピュラリティを期待した奏者が面食らった。自分としては、調性でも、シリアス路線が心情である。人間の理性を取っ払ってしまうような曲を書きたい、という考え方(テーマ)に変わってきた。20代のころは書くだけで精一杯だったが30をすぎてから、作風が変わってきた。いや、シリアスを避けていたわけではない。20代のころは、シリアスも含めて、叙情性がテーマだった。

○その他の伊福部先生の想いでについて。

 自分がいちばん先生のCDをいっしょに聴いたのではないか。先生は自分のCD等をけして「買え」と云う方ではなかった。大学の大きなスピーカーで聴く。釈迦の最後のところとか、音量を 「おっきくして、おっきくして」 と、おっしゃり、目をつむって聴くことが多く、教室中に釈迦のラストが鳴り渡った。

 甘党で、子どものころは枕元に小さな和菓子をいつも置いておいたというほどの甘党だった。いつも机の引き出しにチョコレートがあった。デストロイアのお手伝いの時は、「食べなさい、食べなさい」 と、エクレアとか4つも食べた(笑) 食べすぎて胸が悪くなって帰った(笑) しかし、先生はお酒もたくさん飲んだ。

○改作の話。

 交響譚詩の二十五絃箏甲乙合奏編曲の時は、初めて改作にMDを使った。1楽章の転調が難しかった。箏というのは基本的に曲の途中で転調ができない楽器で、それをムリヤリするのが苦労した。「これなら新作のほうが楽だった」 と云っていた(笑)

○協奏風交響曲の話。

 ピアノの、初演の方がいらした。松隈さん。初演当時、20歳だった。生まれて初めて現代曲を弾いたといい、戦時中で、会場まで防空頭巾をかぶってゆき、リハーサルの時は、オーケストラはみな国民服だったという。※

 ※文藝春秋社「N響80年全記録」佐野之彦 によると、1942年にはもうオーケストラは本番でも国民服、客は入場の前に金物供出、演奏会の前には全員で皇居礼拝だったようなので、本番でも国民服だったのかもしれない。



 以上



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