九鬼 蛍(管理人)の所見

 作曲者より貴重な音源をご提供いただいたので、小文を呈する。


○「独白三章」〜独唱とピアノのために〜(2022/23)

 2022年末より23年にかけて作曲されたこの歌曲は、リンク先の作者の解説にもあるが、明確に性格の異なった3つの楽章(曲)で構成されている。詞は、全て木部与巴仁。

 第1曲「蠍(さそり)」は、無伴奏無調様式。シュブレッヒシュティンメほどではないが、語り調や、ヴォカリーズも含んだ無調の響きが、無機質で不気味な、心の中のサソリを際立たせる。歌詞の、独特の無機質で孤独な雰囲気を、よく捕らえた曲であろう。

 第2曲「ヴァイオリン」は、短い朗読と無調のピアノ伴奏から始まる。第2節から、無調の歌唱が始まる。意外にゴシック・ホラー的な歌詞と、不気味な音調が良く合っている。第4節では、調性と無調の合間ほどの調性感が与えられ、次第に第3曲に近づいて行く。

 第3曲「貴女(あなた)へ」は完全調性で、かつて堀井が得意としていた技法の再来である。リリカルで透明感があり、叙情的ではあるが、どこか厭世的でもある。いったん調性世界から無調世界へ転換した堀井だったが、別に調性を棄てたわけでは無く、自らの技法の思索期だったのだろう。以前の堀井の調性曲より、ずっと洗練されて、芯の通った、ピリッとした世界観になっている気がするのは、私だけではあるまい。

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○「鎮魂二章」〜朗読とチェロ、独唱とピアノのために〜(2021)

 堀井の久しぶりの新作は、声と無伴奏ソロの作品。と、少なくとも自分は認識した。というのも、朗読とチェロ、独唱とピアノという編成であるが、器楽の方は朗読や独唱の「伴奏」にはとても聴こえない、独立した風合いをもっているからである。

 朗読は杜甫「望春」を読み、そこにチェロ独奏が朗々と時間の経過と空間の超越を表現するような、無調の旋律を奏でて行く。そこに、古代中国の詩の趣が、むしろシュールに合う。前の四節と後ろの四節の間の間奏と、朗読後の後奏がなんとも言えぬ緊張感に満ちている。そこにあるのは、望春の世界に通じる、時の流れの無常観だ。

 続いて独唱は木部与巴仁の詩による「鎮魂歌」を歌い、ピアノがいちおう伴奏ということになっているが、私は、独唱とピアノの二重奏のように聴こえている。それはやはり、無調歌曲にピアノも無調だからだろう。前半部は訥々と進行し、「手のぬくもりを 忘れずにいる」 からの間奏部が、これも素晴らしい緊張感をたたえ、水のように変容して流れて行く様に乗って、後半部に行き、「夜になれば」 からの、無調ならではの冷たい感じから、一気に熱く激しくなる瞬間が良い。

 YouTubeで試聴できます。


○ギターのためのオブジェ IV (2018)

 昨年に続き、オブジェシリーズの4作目である。今回はギターソロ曲となる。初演は創作ダンスのBGMとして演奏されたが、単独でも鑑賞に耐えうる。

 オブジェシリーズはすべからく無調作品であり、今作も無調となる。単一楽章で8分ほど。緩急緩急にも似た自由形式。

 分散和音めいた冒頭から、自由に短い動機が紡がれて行く。ボディノックも現れ、緊張感を増す。動機が次第に「詰まって」ゆくような印象。そこからアレグロへ突入。作者のチェンバロの過去作品を思わせる無機的で執拗なパターンに単音がポツンポツンと重なり、それが連なって旋律となる造形。作風はまったく異なるが、師伊福部のギター曲である箜篌歌にも通じる。テンポが落ちて冒頭に戻るが、またすぐにアレグロも現れ、それらが交錯して融合する。そして終結部を持たず、ふいに曲は終了する。

 堀井独特の確実な造形と冷たい透明感、透徹した叙情、乾いた抽象性がいつにも増してよく現れていると感じた。ギターという楽器の音調のせいもあるかもしれない。時間を感じさせない作風というか、明快な始まりも終わりも無い感じで、音調は無機的にして構成は有機的な面白さがある。


○ピアノ三重奏のためのオブジェ III (2017)

 2017年はオブジェが立て続けに書かれた。木管三重奏に続いては、ピアノ三重奏である。作者は学生時代に師伊福部より、「近現代にはピアノ三重奏の傑作が少ないから書いてみるといい」と言われていたがついぞ書く機会などが無く、当年となってようやく発表することとなった。無調作品であるが、セリー手法ではなく、聴きやすいし構成的にも工夫があって面白い。

 厳密にいえばセリー手法もそうだが、無調だからと旋律や動機、主題が無いわけではない。鼻で歌えるようなものではない、というだけである。

 作者本人によると、「楽想が次々展開される幻想曲形式。」であるが、その中でも三部形式のような構成がある。オブジェと銘打っているだけあり、彫刻のような構成美と存在感を感じさせる。

 不意に落ちてくる、溜まった雨だれを思わせるピアノの激しい点描風の動機から始まり、ヴァイオリンがそれをうけて主題を朗々と奏でる。チェロもそれをうけて同じく主題を奏でるが、ヴァイオリンからの派生にも聴こえる。ピアノが動機を繰り返し、提示された主題を二者の絃楽が展開してゆく。

 休止より、堀井には珍しいピアノの極低音が鳴り出して世界を変える。伊福部にも似た重苦しい空気に、絃楽がグリッサンドで不思議な音調を構築してゆく。ある種、おどろおどろしい世界を作ってゆくが、まるで原始の混沌だ。その中から立ち上ってくるアレグロは、緊張感をもって中間部の主題を自由に展開する。ピアノがテンポを冒頭へ戻し、新しい主題を披露すると、絃楽器もそれを模して曲を進める。チェロがピアノを受け取り、その中から、ヴァイオリンが新しい主題を奏でる。またピアノが入ってきて、この部分の展開の頂点を成す。

 そしてまたも一瞬の休止からアレグロとなって、三者が自在に主題を展開させてゆく。執拗なオスティナートにも似た手法が、無調とはいえ伊福部の系統なのだと気づかせてくれる。そこに、調性だ、無調だは関係ない。

 アレグロが終わり、休止があって冒頭のテンポや楽想へ戻って、終結部へ向かう。再現部ではないが雰囲気は似ている。終結部では三者が寄りそって天へ昇って行き、天空で破裂するような印象を受けた。最後は、調性感のある終わり方をする。

 思うのだが、やはり、無調の中にも調性的な「造り」が見え隠れする。それがよいのか悪いのかは分からないが、ひとつの特徴であるとは思う。少なくとも自分はそれが他の、他者による数多ある無調作品とはちょっと異なった堀井らしさを与えていると感じている。若いころの調性作品がそれへ影響を与えているのかどうか、それが成果となっているのかどうかは、検証のしがいがある事象だろう。

 今後、堀井は完全なセリー手法にも挑戦するというが、そこでもその「成果」が意識・無意識問わず現れるのかどうか、個人的に楽しみである。


○舞踊と室内楽のためのモノクローム・トリロジー(2017)

 堀井初の舞踊作品。バレエ音楽にも通じるだろうが、バレエではなく、創作舞踊である。といっても、舞踊の方が曲に合わせて踊る形式であり、振り付けへ曲をつけたわけではないという。やはりその両者は、音楽も異なってくる。編成はフルート、コントラバス、ピアノ。

 1.「BLACK」(コントラバスとピアノ)
 2.「WHITE」(フルートとピアノ)
 3.「GRAY 」(全員)

 このように3楽章制で、まずコントラバスとピアノにより重厚で深刻な音響が流れる。音楽というよりまさに音響だ。アレグロとなるやメカニカルな動きへ合わせて舞踊もカクカクと動き出す。無調であろうが調性感が強い場面。

 続いてフルートが月夜の静寂を音にしたような冷たい音響で迫り、ピアノがそれを夜露めいて彩る。フルートの乾いた夜風のような旋律による進行が実にシリアス。ピアノも叙情的な彩りを残しつつ、無味乾燥に響く。無味と書いたが、それが堀井の味だ。

 3楽章は全員で激しくプレストがスタートする。目まぐるしく音色が入れ代わり、コントラバスのバルトークピチカートもまるで鞭で打たれるようだ。テンポはあまり変わらないが音調が鎮まると次はコントラバスのボディノックがピアノの無調旋律を伴奏する。冒頭へ戻って再び狂騒的焦燥的な音調となって舞踊も躍り狂う様相を呈し、狂騒の頂点でポーンと終結する。

 やはり抽象の様相を表し、舞踊もそれへ合わせて現代人の焦燥感を感じさせるものであった。


○木管三重奏のためのオブジェ II (2017)

 木管類は堀井が個人的に好きな楽器と伺っている。木管の作品を書く際は、やはり筆が乗るようだ。今作は、念願かなっての木管三重奏である。またシリーズ化したいと云っていた「オブジェ」の、記念すべき2作目でもある。前作はフルート三重奏だったので、今作はよりスタンダードなオーボエ、クラリネット、ファゴットとなる。

 無調であるが、セリーではないので調性感は残っている。冒頭より三者の忙しい掛け合い。しばし気ぜわしい音形で緊張感がありつつどこかコケティッシュな進み方をする。それが浮遊感をもって幻聴のように輪郭が崩れてきて、テンポを落として世界を変える。乾ききった、無味乾燥な様子でありつつもどこか叙情的な音調も感じさせる。しかしウェットではない、私が勝手に堀井らしいと感じている、叙情的な情感を残しつつ、アポロ的な颯爽とした響きである。中間部は三者の悲鳴で唐突に終わりを告げ、ややテンポを上げて次の展開へ。そして次第にテンポを上げ続けて冒頭へ戻る。戻るが、まったく同じではない。再現部ではないのだ。激しい掛け合いと同調が同時に進行し、最後は三者同時に着地する。

 私は堀井は伊福部の弟子でありつつその音調は早坂文雄にむしろ近いと思っているが、早坂の交響組曲「ユーカラ」のような、抽象的世界が心地よい。


○朗読と室内楽のためのポエジー第三番 愛の肖像(2016)

 朗読と室内楽のためのポエジーシリーズの第3弾。叙情的な旋律を廃し、いわゆる無調な手法を作って、全編を彩っている。ただし、朗誦の内容に沿い、伴奏というか音楽も愛を演じる。作者はベルクを意識したそうだが、私も、全くそのとおりに聴こえた。叙情的な旋律を廃してはいるものの、ベルクの叙情組曲のとおり、うまい具合に濡れ濡れにウェットな音調が凄く良くできている。それが、うまいがゆえに、私としてはちょっと不満で、堀井の作風はもっと乾いた、無味乾燥な音調が本領と思っているためである。それは、調性・無調に関わらず。

 とにかく、逆にそれは注文というではないが、うまく詩に合わせて表現している技術の高さではあるが、あまり合わせすぎなくてもいいかなあ、とも思った次第。

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○二十五絃箏曲 凛華(2014) 

 2014年に作曲され、2015年に初演された久しぶりの箏ソロ曲。教えてもらっている範囲では、8年ぶりくらいになるはずで、かつ二十五絃箏ソロというのは、初めて。作者の依頼でこれは調性ものだが、無調に挑戦してからの堀井の作は調性といえども甘さが無く、むしろシリアスに聴こえる。旋律も研ぎ澄まされ、構成的にもしっかりしているからだろうか。10分ほど。

 冒頭より主旋律が。これが、品があって良い。なんとなく中途半端に西洋音楽に寄ったバタ臭いものではない。それが静かに展開してゆくが、なんといっても上品で静謐だ。正月に聴くと良いかもしれない(笑) 半分ほどで第2主題のように聴こえる旋律が登場し、それも展開してゆく。テンポとしては、終始アンダンテほどで進んでゆくが、終盤に入って、最終場面というか、テンポがアンダンティーノからアレグロほどへ上がる。序破急形式というか、進んでゆく三部形式というか、守破離というか。そのまま盛り上がるが、あくまでエキサイトはしないで、押さえ気味に熱くなる。ここらへんが、甘くならない所以か。ラストも、おしゃれで良い。

 全体としてあいかわらず詩情感が豊かで、題名の通り凛として端整。淡景が嬉しく、儚さと強靱さが同居し、透明感と清涼感にあふれている。

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○朗読と室内楽のためのポエジー 蝶の記憶(2011)

 2011年に作曲されたが、初演のさいにファゴットの人が急遽出演できなくなって、チェロになったというアクシデントがあり、それは「蝶の記憶-b」となった。

 今回、4年ぶりに原曲である木管四重奏の形での初演となった。

 チェロの響きも面白かったが、こちらが本来の響き。全て木管の質の音調と、蝶の物語(詩)が、実によく合っているというか。また、無調ながらも叙情的な質感が、より融合されているのが分かる。

 主な感想は、下記にある「蝶の記憶-b」の初演の際のときと本質的には変わらない。チェロの微かな風のような音が、ファゴットの朴訥としつつもどこか暖かい発音のよい木の言葉になって、情感が増した気がする。下記の初演の感想ではファゴットよりチェロの方がより音が飛んでくると思ったが、録音の関係もあってか、チェロより低音がハッキリ聴こえて何かちがう曲のようだ。

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○独唱とピアノのための「北方幻譜」(2014)

 堀井はこれまで合唱曲を幾つか書いてきたが、それらは全て調性もので、いわゆる 「親しみやすいメロディー」 が魅力だった。そして堀井らしい透明さ、鮮烈さ、繊細さ、心地よい冷たさなどが独特の叙情として光っていた。その中で、堀井なりに考えてきて、無調にも挑戦してきている。無調の作品はまだ少ないが、『3人のフルート奏者のためのオブジェ』は、私は堀井の今のところの最高傑作だと思っている。

 堀井の無調には、彼の調性ものと変わらない、実に堀井らしい叙情と律動がある。無調だからもちろん旋律は分かりづらいが、その透明さ、鮮烈さ、繊細さ、心地よい冷たさは無調でも変わらない。大家を例にとると、ベルクの方向性に近いと思う。向こうはドロドロコテコテの情念の極みで、堀井はサッパリしたよく透徹されたクールさが魅力と表現は異なるが、叙情的無調という意味では、自分はそう感じている。さらに近い年代で云うと、かなり調性っぽい叙情的無調ではデュティユーとか。けしてブーレーズではない(笑)

 無調は確かに個性が分かりづらいが、色々なタイプの無調もしっかりと聴き込んだ人だと、この堀井らしさがよく分かると思う。それが好きか嫌いかは、また別の問題。

 第1曲「ひとりごと、それは桜の…」 

 技術的には、正直云うと無調の声楽にありがちな書法も見られるが、あくまで技術的な問題であり、全体として堀井の特徴を破壊するほどではない。

 シュプレッヒシュティンメほどでもないが、語りかけるような調子にピアノのポロポロとした合いの手。不本意な感想かもしれないが、歌よりもピアノが雄弁に語っていていい。この雰囲気は、歌詞の内容に合わせてあるように感じた。前半部分は、確かに、典型的な無調様式(無調に様式があるのかどうかは知らないが)と云われればそうかもしれないが、圧巻は中間部の 「鳥と獣にくちづけされて」 の節による短いアレグロだ。ピアノの乱舞は感情をかきたて、歌を盛り上げる。ここらへんが実に無調としての堀井らしい響きを生んでいる。

 それからまたすぐ、テンポが落ち着くのだが、盛り上がった感情は納まらない。「生まれ変わって、死に変わって」 「私はずっとここにいる」 と、詩の核心を歌って、最後の盛り上がりを頂点にして、ドーンと唐突に幕は下りる。

 第2曲「赤い実は歌う」

 さて、一転してこれは、完全な叙情歌となる。堀井がここのところいろいろと試している、叙情的無調と完全叙情の対比。そこからどのような旨味や妙が出てくるのかは、聴く人によってそれぞれ受け取り方がちがうと思われる。通じているのは叙情だと思うが、シリアスな1曲目から、まるで山田耕筰の如き世界へ転移させられる。素直にこの叙情歌を楽しむもよし、その1曲目との対比を楽しむもよし、というところか。日本語の発音や抑揚にそって念入りに作られた旋律というのは、やはりすっと耳に馴染んでくる。


○フルート、チェンバロ、弦楽のためのコンチェルト・グロッソ(2014)

 現在のところ、堀井の最大編成の作品。アンサンブル・アープルスの委嘱による。

 2楽章制で、真夏の世の夢の現代版というコンセプトに感じるもの。調性ものであるが、その中にもいろいろと工夫が伺える。バロック的な合奏協奏曲を模した、室内フルート協奏曲にも近い構成である。

 急緩急、三部形式の第1楽章、冒頭は弦楽の緊張感のある刻みからフルートのソロがとても印象に残る。フルートの擬古典的なアレグロのソロが実に良い。それへ、笙を模したような、ノンヴィブラートの弦楽が面白くかぶってくる。その主題が展開する緩の部分は、チェンバロソロのバロック風味からフルートのソロに移り、珍しくボディノックが締太鼓を模し、バルトークピチカートが琵琶のような和風テイストに到るものの、純和風というものでは無く、和風モダンアート。それから弦楽でコラール。主題を繰り返しながらテンポを上げて再びアレグロが重なりつつ、中間部は洋風〜和風〜洋風と単純に分けて聞くこともできると思うので、変形複合三部形式のようになっていると思った。または、A-BCD-A'といったふうだが、BCDは全てAの主題の展開部である変形一元ソナタ形式か。最後は、冒頭のアレグロが戻って終結。

 中間部は「アジアの祈り」を意識した(作者談)コラールであり、ここの分かりやすくも凝った展開が聴き応えのある楽章。

 2楽章は逆に緩急緩。ヴィオラのソロが、叙情的な旋律を歌うところからはじまり、それが弦楽に受け継がれる。2楽章の方がより旋律的・叙情的。フルートが新しいテーマを奏で、こちらもコントラバスのボディノック。続いてヴァイオリン〜フルート〜チェロのソロから、3拍子で舞曲。曲調が代わり、アレグロとなって、緊張感を増すも、すぐに舞曲へ戻る。フルートが主役となって踊りを導く。いったん小終結してから新しい曲調……こちらもコラールの祈りのアダージョとなる。従って2楽章はABC形式か。フルートが自在に歌い、弦楽と共に静かに盛り上がって、静謐な雰囲気を壊さずに夢から醒める。

 堀井の作品の構成の特徴として大別するとこれまでに 1.完全調性 2.調性と無調の対比(楽章毎での対比と楽章中での対比に分かれる) 3.完全無調 というものが認められている。完全無調の作品はまだ少ない。これは自己の創作の範疇の他にも、委嘱者よりの注文という要素がもちろん加わる。その中で、どのように自己という内部的なものと、注文という外因との折り合いをつけるのかというのも、重大な創作と鑑賞のテーマであるし、逆にただ聴く方には何の関係もない事とも言える。

 初期の、ロマン的な旋律をむしろ古典的な様式で聴かせるものから、ここ数年にベルクにも通じる叙情的無調ともいえる響きをラヴェル的な上品さ、日本的な淡彩さ、プロコフィエフ的な新古典的モダンさであらわす独特のものに到っており、さらにはそれらを融合させたり対比させたりして、模索している。

 今作はその中でも、全編調性でありつつ無調作品で培ったある種の心地よい冷たさ、上品さ、さらにはファンタジーがよく出た面白さがあると感じた。たいへん構成も良く、中途半端さも感じなかった。やはり、BGM(サントラ)と「クラシック」の最大の違いは、旋律がどうこうではなく、構成だと思うので。


○ヴァイオリンと二十五絃箏のためのエレガンツァ(2013)

 これは、堀井のリリカル路線の代表作であるヴァイオリンとチェンバロのためのロマンツァ(2000)と同じ路線でという注文で作った、ロマンツァの姉妹作と位置づけている曲で、2010年代ころより(器楽作品では)こういう作風からいったん離れていたのだが、ここのところまた「原点回帰」(作者談)して、久しぶりに思い切り新作で全編メロディーを歌い揚げた仕上がりになっている。

 奇しくも、師の伊福部昭の誕生日である5/31に長野で初演された。

 アンダンテとアレグロの部分からなる、1楽章制13分ほどの曲で、前半は主にヴァイオリンがのびやかな旋律を、二十五箏は伴奏の役を担う。ハープにもピアノにも聴こえる書風が、流石にうまい。ヴァイオリンの後は箏のソロとなる。ここでも、箏でありつつ、ハープのイメージも浮かんで、同じ属性の楽器の東西の妙が1つの楽器から聴こえてきて面白い。またヴァイオリンに移り、ヴァイオリン〜箏〜ヴァイオリンと静かで淡い空色の空気が流れて、アレグロとなる。

 ここでも、ヴァイオリンが西洋、箏が東洋であるが、離れて対比されたり、くっついて同じ性格になったり、旋律の流れが面白い。清涼感、寂寥感、そして冷涼感、さらには情緒すぎない上品なセンチメンタルが、さらに追求されている。

 ロマンツァは若さと勢いが勝っていたが、それから14年たち、落ち着きと品の良さが加わった印象。構成も、よく練られている。

 堀井の無調は独特の情緒までゆかない情感があってとても好きなのだが、調性路線は調性路線で、あまり甘すぎずにもっともっと冷たく研ぎ澄まされ、洗練されて行けば、さらに独自の境地に到るかもしれない。サントラ等とは別に、こういうコンサート音楽であまり情緒過多、甘すぎ、ウケ狙いは、一時は良いかもしれないが、長い眼では逆に嫌われるだろうから。

 個人的には、堀井友徳の音楽は、無調と調性の1つの曲の中での対比も面白いが、無調は無調、調性は調性としっかり曲によって分けたほうが主張があると感じる。特にこのていどの演奏時間の曲では、無理に対比させなくてもよい。30分も40分もある交響曲の中での、第1楽章が無調、第2楽章が調性というのは、ベテランの作曲家でもあるが、あれくらいヴォリュームがあると対比も活きてくるかな、と思うのだが、あまり数分の対比では、「せわしない」というか、「そういう方向性」というのを確立するには、もうちょっと工夫が必要かな、と感じている。


○フルートとヴィオラとハープのための冬への幻想(2013)

 かのドビュッシーの高名なソナタと同編成の委嘱小品。もはや、ドビュッシーを演奏するがためにこの編成がとられると思って良い。しかし、レパートリーが少ないので、同じ編成の新曲が求められるのは必然だろう。
 
 これまで無調の技術もまずまずこなしてきた堀井の美しくも叙情のあふれるこなれた無調部を前半に、その「対比」(作者談)として調性の後半との聴き比べの妙。イメージ音楽(標題音楽)ではないが、音の調子として冒頭の寒々しい雰囲気から、冬への幻想のタイトルがつけられた。フルートとヴィオラの乾いた音調がなんとも、冷たく物寂しい。魅力的な無調アレグロを経て、後半部は思い切り調性になる。その繋ぎも見事だ。

 ここは、堀井得意の、初期からのメロディアスな部分が久しぶりに炸裂して、流れるようなメロディーラインと、あふれんばかりの透明な叙情、そして詩情。構成というより、感性の部分。ドビュッシーに合わせたわけではないだろうが、フランス音楽に実に合う。かといって、フランス音楽は感性のみでできているわけではない。その感性の裏には、ドイツ音楽をよく学んだフランスの構築性が隠されている。堀井の音楽も、ただ流れで作っているわけではない。

 しかし、ハープの幻想性、フルートの鳥の歌、それにヴィオラのなんと渋い音色。この一見異色の編成を思いついたドビュッシーというのは、やはり只者ではない(笑)


○朗読と室内楽のためのポエジー第二番 黒い翅(2013)

 蝶の記憶以来の、木部与巴仁の詩による朗読と室内楽のための作品。木部氏の演劇のような朗読との相性が良いのか悪いのか、自分の中で疑義が生じてきた。トロッタの会という会の趣旨を鑑みるに、木部氏の朗読ありきなので、ああいう演劇調の朗読に曲を合わせる必要があるのだろうが、あえて合わせる必要もないのも事実であろう。だんだん確立してきた堀井の無調作品の1つであるが、間奏部に調性が嵌め込まれて対比を成す。それも是非があると思うが、対比が面白くもあり、緊張感が損なわれている印象もあり。

 ある種のエロティシズムをねらったものであるといい、曲に合わせて詩が作られた。エロティシズムにも解釈やとらえ方が種々あるが、幻想的、夢幻的なもので、ショスタコーヴィチのマクベス夫人のような生々しさとは無縁であり、堀井の作品の良くも悪くも「上品さ」がよく出ている。

 当初、クラリネットではなくソプラノサックスだったそうだが、奏者の手配の都合でクラリネットになった。やはり、作者の意図どおりソプラノサックスだったら、もう少し色っぽかった(艶っぽかった)かもしれない。クラリネットはやはり官能というより、硬い真面目な響きがする。

 詩の第4連(トライアングルとチェロのグリッサンド部より)からは、作者も初挑戦の12音技術の対位法が使われている。この種の朗読劇(とあえて云う)に合わせる作品として、詩の伴奏音楽なのか、朗読と一体化した1つの音楽作品なのか、コンセプトをもっとはっきりさせるとより面白いものになると感じた。

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○三人のフルート奏者のためのオブジェ(2013)

 フルート三重奏のための珍しい編成。無調であり、同属ながらいろいろな種類の音色の重なり合う面白さがある。特殊奏法は駆使されているが、あまりアヴァンギャルドな響きにはなっていない。そういうものでは、既に技術的に飽和しており、高名な作曲家の手による作品がたくさんある。ここでは、そういうものは狙われていない。無窮動的な単一楽章で、7つの部分に別れ、さらに大きく緩急緩の3つの動きに別れている。

 あくまで無形式の一種の幻想曲であると作者は位置づけているが、あえて云うなれば川の流れる無常観があると思う。作風も緩やかな流れ、急な流れ、様々な水の風景を想起させる音の風景を感じる。あまりメロディーラインが際立たないが、響きは美しく、全体として面白い流れがたくさん見えてくる。

 中間部にはピッコロが、後半にはアルトフルートが入って音色に変化を与えている。

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○無伴奏混声四部のための「北方譚詩 第三番」 1.夏〜北緯四十三度の街 2.秋〜歓びの坂 3.冬〜吹雪 4.春〜花だより(2012)

 合唱三部作の最後の作品。歌詞は4番まであり、北国の四季をうたう。夏からはじまり春で終わるのは、冬で終わると北国の冬はあまりに暗いので、春で終わるとハッピーエンドとなって音楽的構成に優れているからであり、伊福部昭作曲の交響的音画「釧路湿原」と同じ構図である。

 作曲者はかつて、器楽作品はシビアに無調で、合唱作品はメロディアスでという構想を持っていたが、なかなか合唱を書く機会が無く、器楽でメロディアスなものばかり頼まれてきたといい、最近になってようやく器楽で無調を試す機会が増え、また、合唱を書く機会も与えられたそうだ。

 三部作はそれぞれ編成が異なっており、三番目は無伴奏に挑戦している。混声四部。1曲3分前後で、4曲12分ほどの作品。

 夏は乾燥して爽やかな北の高く蒼い空が浮かび上がる。短くも、一瞬の青春を思わせる雰囲気が良い。北国の秋は早い。9月末には紅葉が始まり、10月が見頃、11月は雪が降る。収穫の喜びもありつつ、どこか寂しい。冬は厳しくもどこか透徹に荘厳である。吹雪ったってあなた、本州(標高の高いところは除く)とはレベルが違う(笑) そして春。ハーモニーも明るく、希望に満ちる。

 順当な作風ながら、品があり、なによりやさしい響きが心地よい気分にさせる。

 YouTubeで試聴できます。


○木管五重奏のためのディヴェルティメント(2012)

 2楽章制で、7分半ほど。木管五重奏というレアなジャンルで、意欲的な響きに挑戦している。

 第1楽章は委嘱者であるアマチュア奏者に合わせ、比較的これまでの調性スタイルに近い。作者が好むフランス近代音楽へのリスペクトもあり、どこかプーランク、ミヨー、そしてフランス時代のストラヴィンスキー的な雰囲気に支配される。3分形式で、アンダンテ部分では非常に南欧牧歌的なスタイル。パストラーレである。中間部アレグロは作者曰く 「ちんどん屋」 を意識したコケティッシュなもの。ここはジャポニズムが洒落ている。そして冒頭に回帰する。

 2楽章は一転してコンテンポラリースタイル。これも3部形式。無調だが、リズムとハーモニーはある。シビアなアレグロが、緊張感が満ちていてとても良い。中間部では逆にアダージョとなって、夜想曲のような響きが静謐。まさに夜の歌か。そして冒頭のアレグロに戻る。ハーモニーやリズムの処理が巧みで、木管同士の独特の同質な響きでも面白さや新鮮さが失われていない。

 これも、作者の新境地を開く記念すべき作品であろう。

 YouTubeで試聴できます。 第1楽章 第2楽章


○朗読と室内楽のためのポエジー 蝶の記憶-b(2011)

 一連のトロッタの会のための作品。木部与巴仁の詩による朗読と室内楽のための作品。本来であれば、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットという編成だが、当日、急遽ファゴットの手配がつかなくなり、チェロで代用。作品b としたという。

 これまでの堀井の作風、つまり調性、リリカル、ポピュラリティ、旋律性、を自ら打破し、突破した意欲作。とはいえ、ガリガリの12音ではない。無調でありつつ、そのリリカルさや、律動性は失われていない。響きは美しく、抽象的で、造形美もある。新たな地平を切り開くのに成功したと云えるだろう。歌曲ではなく朗読の付随という形式のため、常に一定のテンポで淡々と詩の世界を表現するが、前衛というより近代的なフランス音楽を彷彿とさせる端正で洒落た、粋で渋い(師・伊福部に通じる)現代性を有した。その中でも、昨今のアカデミズムな音楽にありがちな、聴者からすると、音楽と関係のなさそうな論理性とは一線を画している(と思われる)響きは、より感性の世界を優先させている。

 今作は上記の通り本来ファゴットのパートをチェロが弾いているが、想像だが、ファゴットよりチェロのほうが渋いし、音もよく聴こえると思われる。

 その緊張感、詩情観、孤独さを感じさせる美意識、引き締まった造形、そしてなにより失われない美しさ。大衆音楽的ではないが、聴者を置いて行かないという意味でのポピュラリティ。今後の堀井の指針となるべき、記念すべき作品。

 YouTubeで試聴できます。


○混成四部とピアノのための「北方譚詩第二番」 1.運河の町 2.森と海への讃歌(2011) 

 1番と同じく木部与巴仁の詩による。2曲構成で、男声が加わって表現に深みが増している。より叙情的な面が強調されている。意図的に前作の音調を踏襲したようである。演奏当日は雨模様でコンディションが悪く、提供頂いた音源も音が割れて悪いので真価を聴きとっていないとは思うが、どちらかというと1作目よりさらに伝統的でスタンダードな仕上がりになっている。1曲めも久石調のメロディアスな響きが安心して聴ける。2曲目も重厚な展開が師・伊福部を思わせるし、その中でも堀井らしいリリカルさが良く出ている。得意のアレグロが除かれて、終始アンダンテ〜アレグレットほどのテンポで推移するのも、落ち着いた音楽を聴かせる。最後は大団円で讃歌として終わる。オーケストラ伴奏で聴いてみたいとも思わせる雄大な出来栄え。

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○女声三部とピアノのための「北方譚詩」 1.北都七星 2.凍歌(2010)

 木部与巴仁の詩による堀井初の歌曲。6分ほどの曲が2曲で構成されている。第1曲「北都七星」は短い声部の導入後、ピアノ独奏による無調的部分が北の硬質な響きを演出し、叙情的なメイン部が女声3部により表現される。メロディアスなピアノの間奏から続く、ハミングによる無調的な、短いシュプレッヒシュティンメ状の部分が印象的。第2曲「凍歌」はやはり既定の合唱曲のような方向に走りすぎたが、初挑戦ということで無難にまとめた面もあるという。前半部の朗誦のような部分よりつながる後半部の流れる薫風の如き爽やかなメロディーは、堀井節の真骨頂である。

 初めて作成した歌曲という事で冒険を避け、際どい音調は使わずに叙情に重きを置いたものである。その中にも、技法的に無調性が入り込んでいるのが興味深い。そういう無調はそれだけで緊張感があり美しい。全編そういう音調でも堀井のリリカルな面は失われないと思われる。今回はメイン旋律にメロディー性を強調しすぎた感もあるが、挑戦の一端もかいま見れて面白かった。

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○三味線のための無窮動(2009)

 7分ほどの小品だが明確に楽想がいくつかに別れる。まず東南アジアふうな音色の旋律があり、続いて中国的な雰囲気となる。三味線というより琵琶っぽい。それから浄瑠璃っぽい感じとなって、最後は冒頭の雰囲気へ戻る。(三味線ソロだから当たり前だが)単旋律のアレグロが淡々と続き、湿っぽくはなく、むしろドライだが、三味線の味を殺さず、異国情緒もよく出ている。日本的かつ凡亜細亜的という、早坂・伊福部ラインを21世紀によく継承していると感じる。無窮動というためか、明確な終結部は無くいつまでも続くのを奏者が自然に手を止めたように終わるところも洒落ている。

 初期のあからさまな旋律重視の手法より次第に現代技法も使ったシビアな作風にシフトして行きたいと語る作者だが、シビアと云っても無調やセリーというより、律動性や旋律性をその根底として今のところ変わる事は無いようだ。


○カスタネット、ヴァイオリン、マリンバ、ピアノのためのパミール・ラプソディ(2008)

 こちらも真貝氏の演奏を前提に書かれた曲。ただし、カスタネットは無くても演奏できる。パミールの春というパミール高原の名を冠した新疆ウイグル自治区あたりの民俗音楽のテーマを基にしたチャルダッシュ的な狂詩曲。もとはそのパミールの春をテーマにしたマリンバとピアノのためのパミールの響という曲で、マリンバが活躍し、ややヴァイオリンが引っ込むが、溶け合う響きとしては正解であろう。短い序奏の後、ピアノにより静かにテーマが提示され、風のささやきのようなマリンバがからむ。カスタネットが遠くからその風にって響いてくると、ヴァイオリンが哀愁漂うテーマを引き継ぐ。ここは馬頭琴の味わいが深く、民族的でなんとも心地よい。ピアノとマリンバも含めて三者の掛け合いに、カスタネットがさらにオリエントな情緒を醸しだす。ここでマリンバ奏者がタンバリンを鳴らす。その馬上の鈴の趣。一転してアレグロでは、騎馬民族の勇姿に想いを馳せる。今度はカスタネット奏者がタンバリンを鳴らし、さらに雰囲気はグー! 遠くハンガリーにも届くアジアの響き、大地の薫りよ。天山山脈を仰ぎ見る高原の青く高く清く美しくも薄い空は、本当にこの日本にまで通じているのだろうか。最後のプレストは民族の祭典を思わせる。

 カスタネットというと一にも二にもフラメンコであり(フラメンコ・カスタネットなのだから当たり前だが)、他にもタンゴやワルツでも面白いが、コンサート・アレグロとパミール・ラプソディにおいて、堀井はアジアの響きとしてのカスタネットを見事に表現した。

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○カスタネット、ヴァイオリン、ピアノのためのコンサート・アレグロ(2007)

 堀井作品には珍しい、緩徐部を含まぬアレグロのみの2楽章形式。第1楽章アレグロ・リトミコと、第2楽章アレグロ・バルバロからなる。どちらも4分台で8分ほどの作品。元は津軽三味線とチェンバロのための舞踊組曲という曲。それよりアレグロ楽章を抜粋し、編曲したもの。ロックなリズムが心地よく、元は三味線とは思えぬモダンさである。これもたいへんによい音楽。ヴァイオリンの激しいメロディーライン、いかしたビートのピアノ伴奏、それに特殊奏法を駆使するフラメンコカスタネットが勢いよくからむ妙。まずカスタネットという特殊楽器をソロとして使った面白さ、そして斬新さがすばらしい。なにより響きが音楽として面白い。曲としてもすこぶる秀逸である。

 第1楽章のほうがポップな感じ。冒頭から激しいカスタネットの響きにまず度肝を抜かれる。カスタネットというと、たいていの人はあの赤青のウン・タン・ウン・タンだろうが、ここではその既成概念しか無い者の脳天をドリルでかき回すほどの衝撃がある。カスタネットの木質なトレモロは、軽機関銃か、啄木鳥のドラミングを彷彿とさせるだろう。続くヴァイオリンのクールな音楽は秀逸。それへ絶妙にからむカスタネットのなんと斬新で格好良いことか。まさに和テイストのカスタネットがここにある。カスタネットという楽器の新しい面を如実に引き出している。3部形式で、トリオとも云える第2主題による中間部を挟み、冒頭へ戻ってコーダに入り、一息に終結する。

 第2楽章は緊張感があり、激しい人間の感情が迸る。それはうねり狂う津軽海峡の荒波か。とにかく、超カッチョイイですぞ!! 1楽章と変わり、無窮動的な短いオスティナート動機から、激しいビートが現れる。それからカスタネットのアドリヴに入り、ヴァイオリンとピアノがそれを緊張感ある装飾動機で飾る。ヴァイオリンのテーマが戻り、今度はそれをカスタネットが飾る。そして、音楽は佳境に突入する。ピアノが上昇して激しくクラスターふうの不協和音を16分音符で連発、続いてカスタネットが爆発するように暴れだす。その緊張感、躍動感、北の野生馬の如し。再び冒頭が再現され、これも一気呵成にコーダへ到る。まさに興奮の坩堝。聴いた後はドキドキしている。演奏者は汗だくでハアハアしている(笑)

 打楽器/フラメンコカスタネット奏者・元札幌交響楽団主席打楽器・真貝祐司氏の委嘱。カスタネットの超絶技巧が要求されるため、真貝氏以外では、演奏はまず不可能かもしれない。後継者の育成が望まれる。






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