2006.2.8 大巨匠 大伊福部昭先生 大往生


 湿っぽい話はやめよう。

 私は、ちょうどゴジラ映画の空白期に小中高をすごしたため、伊福部サウンドの洗礼を受けたのが非常に遅い。1984ゴジラが小学6年、つまり伊福部最後のメカゴジラの逆襲は3歳。記憶になし。

 平成キンゴジの公開が大学1年生であり、それまで待たねばならなかったため、まさに渇望していた。聴きたいとか、聴こうと思った記憶が無いと思っていたがあるはずもない。チラチラとテレビ放映される昔のゴジラ映画を観て、潜在的に餓えていたのだろう。伊福部昭の飢餓状態。

 初めて入手したCDは喜寿記念演奏会のもので、いまでも中古市場に出回っているから、けっこうな量が売れたのだろう。それと、日フィルの伊福部作品集から、CD時代の伊福部ブームがきたのではないだろうか。

 食を切り詰めてまでCDをまさに買いあさった日々。聴きまくった日々。90年代はそういう伊福部時代だった。餓えの反動は大きい。

 しかし、金銭的な事情から、すべてはさすがに集めることはできなかった。しかも北海道という地理的条件から、演奏会というものにもまるで縁がなかった。97年の札幌における伊福部昭音楽祭が生まれてはじめての伊福部音楽生演奏というのだから、東京等の音楽ファンは心のそこから羨ましく思うし、嫉妬すらする。 

 00年代になり、私も新職を得、時間と金銭に些少の余裕ができると、インターネットが現れた。中古のCDを、オークションで入手できる時代となり、かなり気合を入れた。我ながら伊福部の鬼と化した。

 おかげでまずまず充実した音源がそろうこととなり、聴き進めるうちに伊福部感も変わっていったように思う。

 当初はやはり管弦楽メインだったが、それでもかなり濃いオーケストレーションには戸惑うこともあった。金管の露骨な使用法には首をかしげた部分もあったし、アダージョやレントの楽章における単純な旋律のオスティナートが、速い楽章のそれに比べて効果的にどうかという思いもあった。

 しかし鑑賞の範囲が室内楽、声楽、他の映画音楽等と広がるにつれ、慣れたという意味もあるのかもしれないが、徐々にその効果や意義が理解できるようになった。伊福部音楽には対位法が認められないとは弟子の黛の言であるが、オスティナート技法と対位法が併在できるのはハチャトゥリアンが示しており、他に原因を求めなければならない。なんにせよ、ひたすら繰り返される旋律が、何を聴き手に訴えかけるのか………それは聴くたびに、変化するのだろう。

 技法的には、和声から、管弦楽法から、拍子に到るまで西洋音楽の論理を逸脱しつづけた伊福部昭の音楽は、しかし、われわれ日本人のみならず、海外欧米にもファンが多数ということで、西洋人にも受け入れられている。ということは、民族的特異性を認識してこそ、人間の普遍性に到るという観念が世界に通用している証拠であり、クラシック音楽のみならず、西洋芸術のみならず、向こうが本場の創作活動をしている者にとって、大きな示唆になるのは云うまでもない。

 不肖、私はファンタジー小説が好きで書いている。小説もブームものなのでスタイルに流行り廃りがあり、ホラーが流行ったり、ミステリーが流行ったり、恋愛が流行ったり、純文………はあまり流行には関係ないか。

 それらは結構普遍的なジャンルとしてとらえられているが、ファンタジーとなると裾野が広すぎて、メルヘン調だったり、ヒロイックエンタメ調だったり、ラノベだったり、幻想物だったりと、アプローチの仕方が多岐にわたり、その中にホラー、ミステリー、恋愛等のすべての要素が入ってくる場合もあるだろう。

 つまり、世界が広すぎて日本人にはピンとこないジャンルなのだろうか?

 そういうとき指標になるのは、西洋の、つまり本場のファンタジー小説………指輪物語、はてしない物語、ハリーポッター、ナルニア、ゲド………だとすると、それらの関係をすっかり西洋音楽に当てはめることができる。

 クラシックは向こうが本場………とすると、異邦人の日本人はどのようなクラシックの曲を書けばよいのか?
 
 ファンタジー小説は向こうが本場………とすると、異邦人の日本人はどのようなファンタジー小説を書けばよいのか? 

 その解決、あるいは探求法にこそ、私は伊福部先生の 民族的特異性を認識してこそ、人間の普遍性に到る が生きてくると確信している。日本人にしか書けぬファンタジー小説とは何か………この命題における私の探求の楽しみは、伊福部先生とその作品群に出会ってこそ、やっと道が見えてきた。
 
 ある意味、開き直れということなのかもしれない。

 日本人がどのようにしてクラシックを書いても良いように、日本人がどのようにファンタジーを書いてもかまわない。しかし本質を外したものは受け入れられぬ。

 本質とは技法なのだろうか? 

 否。ソナタ形式や対位法や機能的和声法のみがもはやクラシックの条件では無いように。

 それは精神であり、信念なのだろう。

 (私は日本伝統のある種のファンタジー小説………つまり時代小説に活路を見出している。私淑する池波正太郎が好例であるが………何も架空世界だけがファンタジーではないのは百も承知であるが、時代小説とて時代考証で史実に基づいているとはいえ、架空の江戸時代・戦国時代等が舞台であろうし。)

 作曲信念といえば、大楽必易がある。私はこれをも私淑し、自らの指標にしている。いくら短くても、難しい文章は誰も読まん。文芸趣味の人が、文学的価値に満ちているとやらの難しい文章を鑑賞するのもけっこうだろうが、たとえば、同じ精神を平易に表現するのと難解に表現するのとでは、表現者としてどっちが難しいか、などは自明の理。音楽にも云えることでしょう。

 一見した単純さの向こうに、深い表現と意義と感動があるというのは、すばらしいことであり、ゴジラひとつとっても、その音楽的感動を偏見やうわべだけでいつまでも気づかぬ人は、音楽に限らず、周囲の全てのものの本質に気づいていないことが多いと思う。
 
 それはとても残念なことだろう。たかがゴジラ? されどゴジラ。

 私はそれへも感銘を受け、大楽必易 を 大文必易 と読み替え、文章法の規範としている。また伊福部の周囲の流行に惑わされぬ執念にも似た信念にも頭が下がる。12音? 現代音楽? 伊福部には関係が無い。私も流行りに惑わされず、信念を貫けるよう、努力したい。


 大伊福部昭は、音楽を超えた存在をわれわれへ示し、これからも示し続けてくれるだろう。

 ありがとうございました。ありがとうございます。

 われわれは同時代をこのような大芸術家と共に生き、共に芸術を分かち合ったことをずっと誇りに思うことができる。ストラヴィンスキーと共に生きた人、マーラーと共に生きた人が、後にその芸術を楽しむ人のために労を惜しまなかったように、今後は、われわれ大伊福部の使徒の活動が、試される。

 啓蒙、研究、そして創作に。 
 
 大伊福部に私淑するすべての皆様。頑張りましょう!!!
 
 

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