ヘルベルト フォン カラヤン(1908−1989)


 なぜ自分でもカラヤンなのか、テンシュテット、クレンペラーときて、次はムラヴィンスキーがきてもいいくらいだが、ここでカラヤンである。
                  
 なんといっても、しかし、入門者のころは廉価盤で世話になった。カラヤン先生には!

 死んだのは高校でブラバンをやってたときで、まだクラシックには入っていなかったので、有名な指揮者が死んだらしいとその程度だった。

 大学に入って、本格的にクラシックの門を叩いたとき、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ブルックナーにブラームス、シューベルト、これらシンフォニーの有名どころは、みんなカラヤンで聴いた。これは別にカラヤンを買おうと思ったのではなく、1000円CDとかで、買ったらカラヤンだっただけ。すばらしい! と感じたのは特になかった。この中では。オペラ序曲集とかも正規盤で買ってみたり、適当にいろいろ買ってはみたが、正統なドイツ音楽で良いと思ったのはない。

 ではなんでこんなコンテンツを? 
 
 それは、この人の真価というものが、世評とは異なるところでく分かってきたような気がして……。
 
 その1 カラヤンはライヴがすばらしい!

 マーラーの9番のライヴを聴き、開眼。じつはバーンスタインやテンシュテットやクレンペラーと同じ、ライヴの人だった!? カラヤンのライヴなんてCDもめったにないし、まさかベルリンに聴きにいけったって、生きてたときは学生だったし、興味なかったし、どうにもならない。

 ここにきて、なんかライヴとかいろいろと聴く機会があって、いっぺんにやられてしまった、というところである。

 その2 カラヤンの本当に得意なのは、20世紀の音楽だ!
                  
 膨大な録音の中の、ほんの一角と思っていた、カラヤンの20世紀音楽。その一角こそが、玉石混淆の玉だったというのは驚きだった。さらにそのライヴと来たら、もう、ベルリンフィルという神器を操る神代の英雄、鬼神をも退かせる出来ばえである。

 さらに極める人は、その3として カラヤンの録音は70年代のBPh以外がイイ!! というのもある。
 
 では、具体的にどの曲が「すばらしい」か、検証してみたい。


オネゲル

 不可抗力というか、DGの企画モノで、買ったらカラヤンだった。それがオネゲルの交響曲第2番と3番「典礼風」。

 ベルリンフィルを完全に鳴らした演奏は迫力があるし、ライヴではないが異様な熱気もあって、まさに買いだった。

 加えて私はこの演奏でオネゲルのシンフォニーが気に入ってしまって、デュトワとか、なんだとか、ちょっと集めてみた。

 それがあまりよろしくない。いや、よろしくないわけはないんだけど、満足できない。とくに3番は大体の演奏が生ぬるくてかなわない。

 2番もそうだが、3番「典礼風」は戦争音楽で、ショスタコの7番や8番、ハチャトゥリアンの2番、ストラヴィンスキーの3楽章の交響曲、などがこのような系統の音楽。それをフランス風だかなんだかしらんがお上品に生ぬるくやられてはガックリ。

 期待のムラヴィンスキーも、演奏自体は凄まじいがなにせ録音がイマイチだし、鳴りが足りなかった。

 やはりカラヤンだった。ベルリンフィルだった。

 冒頭からの異様なまでの緊張感、警鐘のトランペット、ピッチが高めで硬い音のBPhがピッタリだ。トライアングルもブッ叩いている。叩きながら楽器が回っている音がする。それをムリヤリ叩いているのが焦燥感あってたいへん良い。← これは打楽器奏者の人は分かると思うが、スコア見てないんで正確ではないが、この音形だと、吊りトライアングルを2本のビーターで両手で叩いているのではないかと思われる。片手で支えていても、トライアングルは回りやすいのに、これはなかなかたいへんな奏法だ。2楽章のすばらしく遅いテンポはまさに美の極致。そして3楽章、地獄の蓋が開いたようなこの迫力! 主題がなる寸前の低弦の、呻き声ときたら、鳥肌がたつ。不協和音が爆発し、シンバルの告知は恐怖を表す。
 
 2番は、戦争中に人数をそろえるのが困難という理由で弦楽合奏なんですが、なぜか最後のワンフレーズにトランペットが1本くっつく。ソロで任意だが、無いと物足りない。弦楽合奏とソロトランペットのための交響曲。カラヤンの合奏力が遺憾なく発揮されるのがこういう曲だと思う。無表情なようで、中は熱い。
 
 またCD-R盤なのが惜しい物だが、典礼風のライヴが残っている。1984年のもので、けっこう晩年にあたる。これが、また、とんでもない、炸裂する金管、唸る弦、何がいったいどうしてしまったのか、クールなスタジオ録音からはちょっと想像できない、カヤランとは、カラヤンの本質とは、こういう演奏からしか分からないのではないか。

 どれだけ 「爆発」 しているか、テンシュテット級、フルトヴェングラー級、クーベリック級、スヴェトラーノフ級、コバケン級、その系統である。まるであり得ない。それらの人々は、カラヤンとはまったく対称的な指揮者ではないか。カラヤンではない誰か 「すごい人」 の演奏をカラヤンと偽っているのではないか? これホントにカラヤンなのか!?

 こんな爆発カラヤンはベートーヴェンとかで聴けるものではない。どうしてこんなになってしまったのか。何を思うところがあったのか。カラヤン、奥が深い! 

 3楽章がとくにすばらしく、地獄の低弦も、叫ぶシンバルも、スタジオ正規盤の数倍の興奮度。というより、うるさい(笑)


プロコフィエフ

 ポツンと1曲プロコフィエフが残っている。交響曲第5番。私が聴いたのは、正規ではなくCD-R盤のライヴ。1980年。プロコの5番はとくに高名だが、内容的には、私は6番の方が深いと思っている。前衛性では、なんといっても2番。しかし、録音数は、1番と5番が圧倒的。3、4、7などに至ると、マニア曲扱い。

 5番も悪くないし、響きがなんといっても面白い。前衛と社会主義リアリズムのちょうど中間、よい意味で折衷作。
 
 ライヴのカラヤンは、音楽の勢いが断然ちがう。ノリが良いというのか、前に前に飽くことなくつき進み、テンポも早め、盛り上がる箇所でガクンと急ブレーキし、カラヤン・フォルテが炸裂、ド肝を抜く。

 5番はプロコフィエフらしい、いやらしい音形や打楽器合奏が面白く、そこを強調している。フォルテの迫力は、ショルティ以上。あまりの熱気と極端なテンポに、たまにBPhが間違えるというのもまたご愛嬌かと。(古い録音にピーターと狼があるとのこと。) 


オルフ

 ポツンといえば、オルフもあった。前、オルフの作品を集めていたとき、オルフといえばじつはオペラなのだけれど、長そうだし興味も無かったので、トリオンフィ3部作(カルミナ・ブラーナ/カトゥーリ・カルミナ/アフロディテの勝利)の他は何かないかなあ、と思って探していたら、「時の終わりの劇」というものがあって、カラヤンだった。オケはしかし、BPhではなくケルン放送響。

 強烈なリズムやナマな旋律というのは変わらずだが、その複雑で膨大な管弦楽と切断された旋律が不気味なほどいびつにつながる様はまさにゲンダイオンガク。

 他の詳しい方のサイト等を参考にすると、巫女や隠者が人類の放蕩を嘆き、最後に神の鉄槌によって人類が滅び、堕天使ルシフェルが懺悔して許され、天上へ帰ると、地上には清められた魂だけが残る、というもの。破壊による浄化の概念。マーラー6番にも通じるカタストロフ(?)である。
 
 これはカラヤンが初演で、現代作品に体する深い洞察とテクニックがここでも光る!
 
 1 巫女たち
 2 隠者たち 
 3 怒りの日

 巫女ッちゅうか、原始人のお祭りみたいなのだが……(笑)

 もちろん隠者も、ウンバホウンバホ! 

 ここらへんのシュールさは、オルフはストラヴィンスキーを参考にしている。

 1部と2部は合唱よりもソロ(ソリ)が重要で、打楽器重視は変わらないが、この重厚にして寸分の狂いもない、しかし正確無比というよりはどこか人情的な職人技なリズム処理は、まさにカラヤンの棒。

 作品は人類の破滅を描いているものだが、2部の最後はお経みたいでオルフの東洋趣味を伺わせる。カラヤンのドライな雰囲気は恐い。

 3部の狂乱はまさに世界の滅亡。こういうとき、カラヤンは(ライヴではいちがいにそうともいえないが)冷静を通り越して冷血なまでにザバザバと音楽を斬る。その迫力は独特で、20世紀音楽を演奏するときの大事な要素と合致している。

 20世紀の恐怖は、冷酷な恐さで、日常の隣に淡々と破滅が迫ってくる様子は、当時の冷戦にもつながるかもしれない。

 ラストのヴィオールによる四重奏は、まさに浄化後の荒涼たる世界を描写するに相応しい、古めかしくも現代的な、涙のこぼれる音楽です。

 しかも唐突に終わるんだなあ。まさに、パッと 「かき消える」 ように。最後まで恐い。

 ちなみに、カラヤンは同時期にマーラーにハマりだし、オルフが書き上がったこの曲のスコアをもってカラヤンの元を訪れたら、カラヤンはマーラーの5番のプレイバックに夢中で、オルフは怒って帰ってしまった、というエピソードがある。

 ※ヴィオール=ヴァイオリン属とはまた異なった古楽器。低音はヴィオラ・ダ・ガンバになる。


シュトラウス

 リヒャルト・シュトラウスはどうだろう。彼の交響詩は大体、カラヤンでそろえている。ところが、シュトラウスの交響詩は大部分が若いときの作品で、19世紀の物だ。20世紀になると、彼はオペラに目覚める。

 カラヤンのシュトラウスはそのきらびやかな色彩で評判が良いが、キラキラしているだけで物足りないという意見もある。私はドン・ファンと英雄の生涯以外、あまり聴かないし、カラヤンのそれも、特にどうという事はない。オペラも、私は苦手なので聴かない。

 では、カラヤンのリヒャルト・シュトラウスで何を聞くのか。

 孤高の境地でとんでもなくすばらしいのが「4つの最後の歌」だろう。この透明な、美の地平線の向こうへ魂が持ってゆかれるような、忘我の調べはなんとしたことか。
 
 またオペラ「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」が抜粋されて残っている。躍動感あふれる、かつ、蠱惑的な魅力をそなえた、ムード満点の逸品なのだが、クレンペラーの同曲からは、ボンバボンのリズムと厚い響きからサロメはきっと巨乳にちがいないと思ったが、カラヤンのそれでは、まるで細身の少女のようなロリータな香りが漂っていて、いやらしい事この上ない。サロメはそもそも近親相姦ネタであるばかりでなく、ヨカナーン=ヨハネという新興宗教の幹部の生クビにキスをするというえげつなさ、さらにラストは主人公が圧殺されて終わるという、問題作。
 
 あとは「メタモルフォーゼン」がある。

 ドレスデン爆撃に際し、戦争による故国の破壊を嘆いたとされる弦楽(36楽器)のための音楽だが、かなりお耽美で、もの悲しい、戦争悲劇の「ひ」の字もないものであり、どう料理するかというと、戦争とは関係無しに美しく演奏して終わっている。美しく仕上げるのにカヤランの本領は発揮されるワケだがなんと、美しいながらもその美へ没入する集中力により、ある種の凄味が出ている。戦争と関係あるかどうかは知らないが、この凄味は、カラヤンだけの音だと思う。

 アルプス交響曲は、地味に1915年の作曲で、これも20世紀もの。

 だがこの場合、カラヤンの凄味がどこまで現れているか、人によって疑問があるだろう。それはリヒャルト・シュトラウスという人が基本的に20世紀の半ばまで(死ぬまで)19世紀の 「におい」 を残しているため、アルプス交響曲は交響曲とは名ばかりの交響詩であるし、20世紀ものというにはあまりに19世紀チックであるように私は感じる。そんなわけなのだが、カラヤン先生の手にかかるBPhというものにおいては、アルプスの雄大すぎる大自然は、プラズマテレビの向こうの景色になってしまう。それはまたそれで、実にによい風情ではある。


ストラヴィンスキー

 コレもある。

 しかし意外なことに、かの3大バレエは、春の祭典しかない。そのハルサイは、作曲者が 「こりゃ冗談か」 と云ったとかなんとか、冒頭の乙女の呻き声は官能の響きに変換され、あくまでカラヤン流のドラマが繰り広げられる。解釈としてはけっこう古いもので、それがまた斬新な春の祭典の様式と合っているようで合っていないようで、カラヤンのやる気が空回っているような感じも受ける。1977年のライヴ(CD-R盤)ではさらにその様式に熱気が加わって、それがちぐはぐでけっこう面白い。
 
 ところが、この他の録音として、ストラヴィンスキーの新古典主義時代の重要な作品群がある。詩篇交響曲、交響曲ハ調、弦楽のための協奏曲、そしてミューズを率いるアポロ。

 これがカラヤンらしい趣味というか、カラヤンのストラヴィンスキー観をよく表していて面白い。
  
 棒のほうもカラヤンの本領発揮、ここでも、バサバサと斬って捨てるような鋭利な音さばきが、ストラヴィンスキーの古めかしくも切り詰められた音世界にたいへんよく合っている。

 詩篇交響曲は同曲の演奏でもピカイチにすばらしいもので、じつはこれも作曲者の意外に生々しい宗教音楽としての演奏とはまったく異なるのだが、表情の無い、亡霊の集団のような合唱は不気味に尽きるし、人声に配慮してバイオリンとビオラの欠いた特殊な管弦楽は、カラヤンによって明らかにされ、かつ、浮き彫りにされる。
 
 交響曲ハ調は楽譜の一部をちらりと見たことがあるのだが、ハルサイ並に複雑なリズムが精緻に組み立てられたもので、新古典でソナタ形式といえど、精神と語法は斬新なまま。その斬新さをそのまま音にしてしまったカラヤン。これはこんなにうまいのに、なんでハルサイは苦手なんだろう。やっぱり春の祭典のという音楽が、音楽自体が、性に合わなかったのだろうか?
  
 弦楽のための協奏曲とはまたマニアックな選曲であり、これは別名を「バーゼル協奏曲」といい、独奏楽器との協奏ではなく、バッハふうの合奏協奏曲となる。この曲に限らず新古典主義時代のストラヴィンスキーの透明な管弦楽法は一種、カラヤンの独壇場で、特にベルリンフィルの弦楽合奏は無敵だ。

 同じ弦楽合奏でもバレエ音楽である「ミューズを率いるアポロ」は、雰囲気が異なる。新古典主義当初、ストラヴィンスキーは弦楽器のもつ叙情性というのもを嫌って、管楽器のシンフォニーとか、ピアノと管楽器のための協奏曲とか、管楽による室内楽の合奏曲とかを書いているが、バイオリン協奏曲等で弦楽にめざめ、いろいろと試行錯誤し、ついに弦楽合奏で1曲を仕上げるに至ったわけだが、バーゼル協奏曲とちがい踊るための音楽であり、どうもカラヤンのリズム処理は重くて踊るには苦労しそうだが。
 
 ここらへんの「新古典」時代の音楽は、まことにカラヤンの流儀と合っていて、もっともっと録音してほしかったが、DGでは、この数作を録るに終わっている。モノラルでは、1952年の録音で、イタリアのオケを振ったエディプス王がある。また最初の録音はやはり50年代のカルタ遊び。 


シェーンベルク
ベルク
ヴェーベルン


 第2次ヴィーン楽派などときたら、真骨頂を通り越して絶好調だろう。ただし、私は正規盤しかないので、熱気とか崩れとかいうものは無縁の、完璧なる世界の具現化のような、すさまじい意志の結果となっている。ケーゲルよりも音楽のキッカケが立ち、それでいて、ブーレーズなどとも異なる一種の薫りたつものがあるのだからたまらない。

 グラモフォンに3枚組みの作品集があって、まだ店頭で見かけるので、そこそこ売れているのだろう。

 この作品集は12音の元祖3人衆の主要作がいちどに楽しめるもので、お買い得。

 まずシェーンベルクからは交響詩「ペレアスとメリザント」、管弦楽のための変奏曲、そして浄夜。

 交響詩はバケモノみたいな管弦楽が濃厚な音世界を織りなすもので、しかもグレの歌とはことなり、かなり難解。そもそも私はメーテルリンクのドラマを知らないので、何がどの場面なのか分からないというどうしようもない負い目がある。それでなくとも、カラヤンの合奏力と集中力は、びしびし伝わる。

 変奏曲は12音によるこれも膨大なもので、膨大かつ精緻という、相反する側面をもっている。初演がなんともフルトヴェングラー大先生というのも意味深げだが、BPhによる初録音というのも運命を感じる。膨大にして精緻などと、カラヤンの棒のためにあるようなものではないか。

 浄夜は、メタモルフォーゼンと同じ系統ではあるが、いわゆる頽廃音楽などともいわれる場合もあるが、たしかに、生々しさの残る演奏も悪くない。カラヤンのまさに浄化された夜というきりつめられた演奏も、また、悪くない。きりつめられつつ、ロマン的な薫りもある。これ、なんともいえない耽美の世界。ライヴだったらさぞや凄味が加わって、すばらしいものだったろう。

 ベルクはオペラと歌曲に力をそそぎ、管弦楽曲は少ない。少ないが、みな重要。3つの管弦楽曲と叙情組曲からの3章がある。
 
 ベルクの音楽は巨大UFOか怪獣クラゲみたいなもので、でかいんだけど「ふなふなして」いる。骨がないとCDの解説にあるが、まったくその通りとおもった。骨がないというか、重さがないというか。

 ドライオーケストラシュトゥークは、「偏執狂的な精緻さ」を4管編成へなんの遠慮もなく豪快に組み入れた、アホかっ、ていう作品で、これを音にするのはたいそうむずかしい。

 録音は今でこそそれなりにあるけれど、なにやってんだか分からないものばかり。なんだか音が進んで、3曲目でハンマーがガンガンガン……って鳴ると終わる。この複雑さはBPhのためにこそあるような音楽で、カラヤンの棒でこそ真価を発揮する。それ以外は、わざと崩して、世紀末頽廃チックさをだすしかない。作曲者の頭にあったのは、崩れた演奏かもしれないが。
 
 叙情組曲からの3章も弦楽合奏で、もうこのBPhの弦楽を完璧に統制しつつも、なんともいえぬとろけた味わいは、カラヤンにかなう人はいないだろう。

 ヴェーベルンは圧縮音楽の元祖でもあり、宇宙からのメッセージみたいな曲が並ぶわけだが、カラヤンの選曲はパッサカリア、弦楽のための5つの楽章、6つの管弦楽曲、交響曲、と、これは定番であろう。
  
 パッサカリアはまだ最初期の「ふつう」の音楽で、牧歌的な旋律がゆったりと流れる。清々しい草原の香りするものも良いが、カラヤンのある種乾いた都会的な雰囲気も悪くない。牧歌曲なのに都会的とはおかしな話だが、牧場自体そもそも人工的なもの。しょせんは作られた草原だ。

 5つの楽章も弦楽合奏。しかし叙情とかなんだとかとは無縁、最小単位まで分解された動機がコチャコチャと組み合わさる摩訶不思議な音世界。それを弦楽合奏でするというのだから、ふつうは、何がなんだか分からなくなる。カラヤンとBPh、動機が聞き取れる。すごい。

 6つの管弦楽曲はヴェーベルンの中ではぜんぜんまったく分かりやすいもので、これで 「??」 となる人は、無理してヴェーベルンの世界に入って来ないほうが、幸せかと。

 機械みたいに正確なんだけど、クォーツ的な正確さではなく、アナログのスイス高級時計的な狂いの無さ。あくまで職人の技。この正確さは。だから味がある。高級感がある。

 それは交響曲にも当てはまる。10分しかないんだけど、列記とした「交響曲」。クラリネットのキコキコといい、弦のギーギーといい、ホルンのプカプカといい、笑っちまうよ絶対。

 BPhがまじめにやってるんだなあ。カラヤンも時計の秒針みたいな棒で、ヴェーベルンの独特の音楽世界を一部の隙も無駄もなく、具現する。かなり繊細だが、硬質的なもので、同曲の真に理想的な表現の1つ。


マーラー

 さて、ここでマーラーなんかはどうだろう。

 マーラーの交響曲のうち5番以降が20世紀の作となる。そもそもカラヤンはマーラーが得意なほうではなく、またそんなに好きでも無かったのか、取り組むのは遅いし(なんと第2次ヴィーン楽派のほうが先)、4、5、6、大地、9の5作のみとなっている。
 
 これらは、まったくカラヤン流儀であるというのを呑み込んでしまえば、悪いものではない。

 4番は作曲年代からしてギリギリ20世紀ものではないが、参考までに。テンポが遅めで、鈴の鳴らし方にも考えがあり、冒頭など聞こえない。しかし4楽章で全開にするあたり、パロディ性を分かっているように感じる。3楽章の望外な美しさなど、独壇場。表面的な美と内面的な醜悪が同居している良い例かと思う。うーん、さすがカラヤン。

 5番は光り輝く音の洪水が彼のシュトラウスにも通じる華やかさだし、4楽章の美しさは、どうだ。表面上だけという嫌いがあるかもしれないが、ヘタクソな合奏よりはるかにイイ!

 6番はオソロシイまでのインテンポで、なにやら楽譜を原寸大に彫刻化する事を自らに課しているような、異様なまでの固執だが、ときおり、ちょこッと崩してみたりなんかして、なんか可愛い。

 しかしライヴでは、これが大爆発! する。1977年。CD-R盤なのは雑音のまじる音質のせいだろうか、カラヤンのライヴの凄味を知っている身としては、ちょっと期待していたが、期待以上だった!

 この音楽の爆破ぶりは、テンシュテット、スヴェトラーノフに負けない。しかも、演奏するはベルリンフィル!! そしてF管ラッパのソロがいきなり間ちがう!!ww このアクシデントの意味するところは? 本番でいきなり急テンポになったからなのか、カラヤンの鬼のような形相にさしものBPhの奏者もビビッたのか。

 とにかく、そんじょそこらのマーラーなぞ足もとにも及ばないこの大演奏。これが、これがあの、すましたツラで目つむって適当に棒を振っているカラヤンか! ちがう人じゃないのか!? 

 1楽章からグラグラと煮えたぎる管弦楽が容赦なく咆哮するこの迫力は他の演奏ではちょっとお目にかかれない。打楽器は重く、管楽器は叫び、低弦はおののき、高弦は心をかきむしる。インテンポなどどこ吹く風、緩急自在、しかもリピートはナシで16分。この嵐のような1楽章は、昂奮と戦慄に値する。

 2楽章スケルツォのテンポもなかなか早い。しかも重厚だ。ライヴの熱気がそうさせたのか、早い演奏はカラヤンの流儀ではないような気がしていたが、どうもそうでも無いらしい。大管弦楽が一糸乱れぬ統率を強いられる魅力。カラヤンならではの統率力だ。ティンパニは大砲みたいだし、シンバルは悲鳴、音楽の振幅はとても激しく、目なんかつむってる場合ではないだろう。

 3楽章も16分で、早いほう。このアンダンテでは、美しくも波うつような心を揺さぶる旋律が管弦楽全体で鳴らされる魅力があるが、カラヤンの 「うねり」 はものすごく、これはまさにテンシュテットに通じる芸。

 ところで、日本での演奏会ではカウベルを音だけテープで流したそうで、柴田南雄が著作で憤っていたが、まさか本拠のベルリンでそれは無いだろう。と思っていたが、なんと、聴こえない(笑) カウベルは、いったいどこに!?

 4楽章がそして、また、29分強と、こんどは遅い。4楽章の迫力は正規盤からもそうだったのだが、独特の物がある。弦がまず狂気じみた集中力と音圧だし、管楽器はその弦と対抗したり上に乗ったり忙しい。

 序奏部のテンポはとても遅く、重圧的でおどろおどろしい。提示部に入るとにわかに忙しくなり、急激なテンポ変換で怒濤の大進撃が始まる。大管弦楽の機能をフル活用するマーラーの技法はカラヤンとBPhで完璧に再現される。怒りや安堵感は自在に表現されて、全てが一つとなっている。

 またオネゲルやプロコでも、ライヴにおいては打楽器がメチャクチャに大きく叩かれて、閉口するぐらいだったが、この6番も少しは遠慮していただきたいほどだ。そして6番といえば、そう! ハンマー。

 でもハンマーは普通(笑)

 しかしこれは録音のせいかと思われる。遠くで何かとんでもないものが落ちているような、ドゴーン……!! という音である。その前のティンパニのトレモロ! フォーグラー先生、無敵! 素敵!

 展開部のそれぞれの箇所においては沸騰するオケの響きがこぼれんばかりで、うるさいのなんの。展開部の2に入ったばかりの、ルーテ(ムチ)! 何をそんなに怒ってブッ叩いてるんですか!? 焦燥感のある急ぎぎみのテンポがここでも見られるのだが、乱れない、BPh。ラッパがうるさい。低音が凄まじい。打楽器は狂っている。

 もう、何もかもがメチャクチャ!!

 展開部の3、わたしがもっとも好きな箇所、4楽章・練習番号153・Tempo I からの部分、見事な進行状況。洪水のような、いや、鉄砲水か、泥流か、いや火砕流か! ものすごい迫力。ここの高弦のテーマは、人類の悲劇を一身に背負ってしまったマーラー自身のかなぐり狂う姿そのもの。

 まったく、こんなものを発売したのではカラヤンのイメージが崩れてCDが売れなくなるとでも思ったのだろうか、DGは。最後は心臓に悪い。カラヤン、本番で気分がよほど乗ったのか、棒が狂ったのか、バイオリンがヒャッ! とフライングして、それからみんなドドッ…!! と雪崩うつように終わっている。

 録音は正直、悪いのだが、まったくCD-R盤を侮ってはいけない良い証拠! 

 すごい演奏なのだが、けっこうあちこち間ちがってるので、たぶんカラヤンの完璧神話が壊れたら困るんで、発売しなかったのかもしれない。
 
 ザルツブルクでのライヴと、同年のパリにおいてのライヴ盤もある。音質はパリ盤のほうがやや良い。表現は同じくらい煮え狂っている。

 大地の歌は、柴田南雄がこれも言っているが、京劇みたいでチンチャカやって、楽しいといえば楽しいし、6楽章も透明な叙情でたいへん美しいが、大地の精神からははずれているといわれても反論の余地は無い。むしろ9番の方が、カラヤン流が通じる。
 
 9番は、何種類かある。伝説なのはバーンスタインの後にまたライヴで録ったもので、1982年。正規ライヴ盤。

 これがまた、あなた、素晴らしいってものじゃない。透徹する響きが、美の極北のようで独壇場だし、意外や2・3楽章の激しさも、独特のデフォルメがあって面白い。4楽章など、熱いぐらいの集中力が遺憾なく発揮され、正直いうが、同じBPhの例の高名なバーンスタインよりすごい。ぜんぜんすごい。

 この1982年にカラヤンはマーラーの9番を3回も演奏したようで、

 5/1 BPO創立100周年記念演奏会2日目
 8/27 ザルツブルク音楽祭
 9/30 ベルリン芸術週間におけるライヴ

 最後の9月のもののみが正規で出たのですが、前の2種類も、やや音質がシャーシャーしたりガタンとかいう音が入っていたりする以外は、ぜんぜん素晴らしい、いや、5月のものは特に集中力も研ぎ澄まされ、日本刀みたいな妖しい美が漂っている。これを聞かずして、マーラーの9番を語るなかれというほとの、究極の演奏の1つ!! 至芸である。 


ショスタコーヴィチ

 これは10番が残されているのだが、私は10番はハッキリいって苦手。
 
 カラヤンは10番がお気に入りだったようで、この1981年の正規盤は2回目の録音だそうである。第10は確かに評価する人も多く、傑作の一つであるのには間ちがいはないが、個人的に印象が弱い曲。
 
 カラヤンも正直、期待外れだった。凄味がない。もっともっと、少なくとも2楽章だけでも、鬼みたいな狂ったような迫力があれば、魅力的だと思った。

 それでも、寸分の狂いもないカラヤン節はよく炸裂している。だから曲に筋が通っていて、引き締まっている。その引き締めが、体制による大衆の抑圧というものに結びつけば、さらに同曲の真価が増すというものではないか。

 ちなみに6番はムラヴィンスキーの完璧な録音があるので手がだせなかった、とのお言葉。EMIに8番の録音を提案したこともあったそうだが、実現していれば……!


ホルスト

 カラヤンのすばらしいレコード(記録)によって現代の呆れるまでの人気を確保したといってもいい、ホルストの惑星。それまでは、かの異常なまでの大管弦楽と、それを駆使した20世紀初頭の近代作品であるにも関わらず例えばシュトラウスやマーラーの複雑さとは一線を画したある種の朴訥さが同居した、一種の 「珍品」 であった。その地位を格段に向上させえたのは、まぎれもなく、ステレオによるすばらしい録音であり、すばらしい演奏。
 
 カラヤンのものによる2種の惑星は、どちらも、機能美を追求したドライなもので、しかしそこは同じような方向性でも高名なレヴァイン/シカゴ響とも異なる、ある種のヨーロッパ的な艶やかさがあって、マイセンなどの極上クラスな陶磁器のようなものである。ただし、アンティークではなく、現代陶芸の部類か。それでも、ハリウッド的エンターテイメントとは次元がちがう。もちろん、惑星の好みでいえば、私はボールト/フィルハーモニア管のほうが、イギリス音楽っぽくて好きなのだが。それでも、カラヤンの演奏は、惑星の市民権を勝ち得たものとして重要だし、恐ろしく研ぎ澄まされたオーケストラによる響きの醍醐味は、カラヤンでしか味わえない。

 しかも、2種類がそれぞれウィーンフィルとベルリンフィルときているから、恐るべし。帝王カラヤン。

 WPh(1961年録音)は、上記したが世界的に惑星の市民権を得た特筆ものの演奏で、なにより、天下のWPhをギリギリと締め上げた火星などは、何度聴いても戦慄の極み。孫悟空の金環を締める三蔵のごとき。これぞ、せまる世界大戦の不安と焦燥を現した火星の本来の恐怖なのではないか。軌道不規則に、天空を荒れ狂う赤き血の星。昨今のダースベイダーのテーマみたいな火星は、あんまり聴きたくない。
 
 金星や水星での旋律の野暮ったさ、なにより木星の、管弦楽がまとまりきれていない魅力と迫力、それでいて、カラヤンの強引な推進力にグイグイと引っ張られている面白さ。弦楽の独特の響きは、やはりWPhだと唸る。
 
 土星の陰鬱な雰囲気に隠された魅力的な民謡旋律の出し方もいい味だし、天王星の不気味さ(コミカルさではない)そして海王星の神秘的な歌い回しはまさにカラヤンの独壇場。
 
 さてそれより20の歳月を経た1981年に、ベルリンフィルで再び録音。この時期のカラヤンは、白熱の70年代を経て、なんとも冷やかで艶やかな美しさを会得してきたころ。惑星も、微妙にテンポが遅いが、磨きは手兵を得てさらにかかり、燦然としている。
 
 とにかくBPhはピッチが高く、本当に音が輝いている。それが耳障りだと云う人もいる。たしかに、異様に派手で、それが音楽のひとつの魅力であるが、嫌われる要因にもなっていよう。
 
 不安さよりも、じっさいに爆弾がドガドガと落ちている喧騒を思わせる火星。この耳をつんざく金管は、空襲警報か。

 金星、水星と聴き進み、木星へ到って、上質な音づくりへ酔っている自分へ気付く。BPh盤の魅力はそれにつきるのだろうか。冒頭のガチャガチャという動きの、ごまかしの無いアンサンブル。上手いか下手かは聴き手の好みによるので、概して判断できないが、とにかく、ここは、けっこうサラサラと流される部分に思える。低音から高音までガッチリと構築された音の仕組み。こういう構築の仕方は、ドイツ音楽流なように思える。聴こえよく流さないという意味で。
 
 作曲者が実はいちばん好きだったというのが土星であるという点を鑑みても、この音楽の本質が見えて来るような気がする。弦と管のたゆとう絶妙なカラミに、土星の決定版を聴く。トロンボーンによるテーマの、なんと夢幻的な呼びかけか。全体的なテンポの、なんと余裕のあることか。後半の焦燥の、見事な表現。

 天王星、海王星とも、厚みと情景のある演奏で、とても良い。天王星の堂々した感じや、海王星の事象の彼方まで消えていってしまうような茫洋とした雰囲気。いいね。

 カラヤンによる2種類の惑星は、それぞれに独特の魅力があって、それぞれが惑星の代表的録音であることに異を唱える人は、そうはいまい。


 あとドビュッシーとか、バルトークとかがある。オケコンは何種類もある。

 シベリウスのものや、ニールセンの4番、ヴォーンウィリアムスの小品、レスピーギのローマ3部作等もある。





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