ナッシュビル 〜暁のアリーナ〜

 原案/イラスト:BAD
 作:九鬼 蛍

第1話「決意の緋色」

 その日、アリーナは、魔物退治業において三度目の惨敗を帰し、命からがらナッシュビルの街はずれにある冒険者長屋ともいうべき集合アパートメントの己の部屋へ帰ってきた。また今回の敗北はこれまでで最も酷く、せっかく集めたチームも散り散りになってしまった。アリーナは朝方、人目も憚らず這うようにして階段を上がり、装備もそのままにベッドへ倒れこんだ。

 隣の部屋の若い手槍使いが「死なれたらかなわん」と大家へ通告。大家はすぐさま、彼女の家へ人をやった。すぐに家人が飛んできて、大家へたんまりと礼金をはずむや、ベッドで気絶しているアリーナを手際よく馬車へ乗せ、連れ帰った。それをアパートメントの住人が、窓から通路から、覚めた眼で見送った。彼らにとって「街のお嬢様」の道楽で、仕事をかきまわしてほしくなかったし、大家が駆け出しの彼女に気を使って頭を低くするのも面白くなかった。

 連れてゆかれた先、ギフォード商会では、元大番頭、いまや正式にアリーナの実家だったスカーレットウィンド商会より家督と家財を継いだダニエル ギフォードが、介抱され、上等のベッドへ横たわるアリーナを心配そうに見下ろした。

 「お嬢様にはやはり無理だ、無理だ……」彼は呆然と家人にそうつぶやいた。家人には泣き出す者もいた。いまや悪鬼も恐れるモンスターハンターにして「半魔族」冒険者「血の色のアリーナ」も、最初は、このように若くか弱い修行者にすぎなかった。


 丸一日寝込んだ後、アリーナは意識を回復した。ベッドより見知った天井を見上げて、涙も出なかった。涙は、両親を失い、忌まわしき古の戦闘怪物種「魔族」に陵辱されたあの夜に枯れ果てた。枯れ果てたつもりだった。しかし彼女は泣いていた。声もなかった。あまりに情けなく、バカバカしく、泣きながら笑っていた。あんなていどの怪物達にすら、足腰立たぬ状態にされるとは、これからいったい、どうなるのだろうか。自分の考えていることは、あまりに馬鹿げているのだろうか。

 召使が心配してギフォードを呼んだ。階下にて商談で忙しかったが、すぐに飛んできた。

 「お嬢様、お嬢様!」アリーナはあわてて起き上がろうとして、苦痛に呻いた。「おいたわしや、さ、まだ横に……」アリーナはその手を振り払った。

 「世話になりました」

 「お嬢様、何を……」

 「お嬢様って云わないで下さい!」

 ベッドより降りたアリーナは、打ち身の痛みをこらえて静かに踵を返した。

 「ど、どちらへ……?」

 「家に帰ります」いまにもドアを開けんとするアリーナへ向けて、ギフォードは叫んだ。「ここがお嬢様の家にございます! もう、忌まわしいことは全て忘れて! 剣士になりご両親の仇を討つなどという……!」

 アリーナは勢いよく振り返り、その緋色の瞳を見開いて、ギフォードへ食ってかかった。「お前に何が分かるって云うの!! 何が!! 何が!! 私の何が!!」髪を振り乱し、轟然と喚いたアリーナに家人一同、しばし唖然と硬直した。アリーナの荒い息遣いだけが響き、ギフォードはがっくりと肩を落とした。

 「お嬢様……しかし……このままでは死んでしまいます……無茶です……」

 アリーナは目を伏せた。「……わかってる……」その握り締めた両こぶしが細かく震えた。かみ締められた奥歯が、やるせなさと、後へ引けぬ彼女なりの意地を物語っている。

 「………」

 ギフォードは決心した。彼女が担ぎこまれたのは、これで三度目である。このままではいつか死ぬ。アリーナは……少なくとも表向きは……完全に変わってしまった。確かに、あれは人間が変わってしまってもおかしくない事件であった。恐るべき古の人造戦闘人種「魔族」にスカーレットウィンド商会が襲われ、ただ狂った快楽で家人は皆殺しとなった。母と、父と信じていた養父も、なぶり殺しにされた。あまつさえ、その魔族「スマウグ」はかつて冒険者だった母をも過去に襲っていた。母は一命を取り留めたが、「呪われた魔族の子」としてアリーナを身ごもった。そして、アリーナは、実の父である魔族スマウグに陵辱された……。

 「まるで物語だ!」ギフォードは事件を思い出すたびにそう悪態をついて吐き気を催す現実を逃避した。しかし、まぎれもない、現実であった。人知を超えた力に弄られたアリーナは死んでもおかしくない状態だったが、生きのびた。裂かれた腹も、砕かれた頭蓋骨も、折れた手足も、ギフォードが多額の寄進で呼びつけた都の大司教の呪文で、まさに「奇跡的に」治癒した。そして心が壊れてしまってもまったくおかしくは無い状況で、気丈にもこのように仇討に燃えている。

 「分かりました」

 ここでこうしていても、埒があかぬ。かねてより考えていた。今日のことは、よい機会だと思った。もはや、アレを出すしかない。アレを出すことにより、アリーナの人生は、なにより「肉体」が、常人が考えられぬほどに変わってしまうだろう。その可能性は、アリーナの母より聞かされていた。いまにして思えば、あの瀕死のアリーナが、いまこうしてまがりなりにも剣を振り回しているのは、その兆候だったのだろう。幸か不幸か、故意か偶然か、魔族「スマウグ」は、己で娘の変化のスイッチを入れたのである。このまま、再びアリーナの能力を眠らせて、むざむざと死なせてしまうより、目覚めたものをさらに覚醒する他は、無いように感じられた。

 ギフォードは、決心した。

 「お嬢様、お渡ししたいものがございます」家人へ命じ、蔵の奥で厳重に保管していた剣箱を出してきた。アリーナは瞠目した。この代々の商人の家に剣が伝わっていたなどと、初めて知った。いつか、何かの目的で買い取ったのだろうか。

 「奥様のお形見でございます」

 「えっ!?」

 初めて聴いた話だ。アリーナは恐る恐る、鍵と蓋を開けられ、赤い布にくるまれた、豪奢な異国の絹織り袋に入れられた大降りの剣と思わしき物体を手にした。ずっしりと重さが両手に伝わってきたが、この大きさにしては、思ったより、軽い。「奥様の遥か故郷、東方より伝わる、秘剣でございます。ただの剣ではなく、特殊な力をもっているとか……」アリーナの顔が明るくなった。

 「どっ、どうして……どうしてこんなのがあるって黙ってたの!?」

 「奥様のお云いつけにて、お許しを。本来ならば、お渡しすることはできません」

 「じゃ、なぜ?」

 「このままでは、明日にでもお嬢様が死んでしまうからです! 怪物退治業、冒険業を軽く見すぎです。先日まで商家の娘だったお嬢様が、いきなり剣をとって半年程度訓練したところで、どうにかなるものではないでしょう。それは賢明なるお嬢様のことですから、わかっておられるはずでございます。それでも、お諦めにならないようですから、あえて、いま、お渡しするのでございます。ただし!」アリーナは、これまで見たことも無いほど険しい顔つきとなったギフォードを、狼狽しつつも、静かに見つめた。

 「……これを手にした以上、もう、後には戻れません……たとえ、その身に、どのようなことが起ころうとも………」

 「これ以上の屈辱と汚辱が、この身にどうふりかかるって云うの!?」アリーナはしっかと剣を手に取り、袋より滑るように出した。それは見たこともない剣だった。鞘は漆塗りで鮮やかな黒だが、どこか赤みがかっており、すなわち潤み色。柄には絹の巻がかかっている。鞘から静かに抜き放つと、ギラリと弓反りに反った迫力ある厚い片刃の剣が現れた。アリーナは困惑した。両手持ちのサーベルと云えばよいか。丸みを帯びた四角の鍔には、穴まで空いている。どちらにせよ、見たこともない。

 「こ、こんな特殊な剣……どうやって使うのかしら?」

 ギフォードの顔が光った。「では、仇討ちなどお止めいただき、どうか商会へお戻りに……」

 「使いながら覚えます!」再び変わって、ギフォードは大仰に天井をあおいだ。アリーナは、逃げるように、商会を後にして、再び街外れの冒険者長屋へ帰った。


 長屋でアリーナはあらためて剣をとった。薄暗い室内ランプに、刀身がギラギラと光っている。刃についた紋様も美しく、鏡のように己の顔を映し、芸術品のようだ。こんなに光る剣は見たことがないし、こんな鋭く研がれた剣も初めて見た。剃刀のようだと思った。試しに、羊皮紙をあてて引いたら、音もなく切れた。剣は剣でも、叩き切るものではなく、純粋に「切る」繊細な刃物だ。ちょっと手荒に扱ったら、すぐに刃こぼれするだろう。そして、刃が欠けたら、これを研げる人間は、ナッシュビルには、いや、母の故郷であるという、はるか東方の国以外にはいないだろう。

 だとすれば、こんなものは、こちらではただの装飾品ということになる。また素人が扱う剣でもない。これは特殊剣の部類に入り、両手用のサーベルなどは、養成所でも誰も教えてくれなかった。つまりこの国では、これを使える人間はいないのだ。そもそもアリーナは、ただ剣を振り回して敵にぶっつけることすら、戦いの本場ではいまだ危ういほどのレベルだった。何を考えてギフォードは、これをわざわざ自分へ渡したのだろうか。

 と、そこでアリーナは、ギフォードが、これが特殊な力のある剣だと云っていたのを思い出した。もしかしたら、魔物に対して特別な力があり、アリーナのような初心者でも、ある程度の戦いができるのだろうか。いや、そうにちがいないと勝手に思い込むと、やたらと気分が高揚してきた。先ほどまでの傷の痛みもどこへやら、なにやら刀が彼女に見えない力を与えてくれたとも思えた。アリーナは昂奮して鼻息も荒く、布に剣油をしみこませた物で丹念に刀をぬぐい、大事にしまうと、長屋の隅の安居酒屋で食事を取り、上機嫌に甘いワインを飲んで、寝こんでいた時とはうって変わって安らかに眠った。

 翌日、さっそく冒険・怪物退治ギルドヘ向かって仕事の斡旋をうけた。ただし、仲間はとらずに、一人でできる簡易なものにした。チームを組み、それを解散させたばかりだったから、次ももしそうなったら、もうアリーナと組んでくれるものは、どんな初心者でも、いないだろう。また剣の能力を試すだけだったので、町外れの農家の依頼による、畑を荒らす大コオロギ退治にした。

 
 このころのアリーナは、まだ、高名なサラマンデルの革の、真紅の軽装甲ではなく、普通の、地味な牛革をなめしたいわゆる革の鎧だった。アリーナの体格では、金属の装甲は、体格的に無理だった。女剣士はそういう理由で、たいていは、装甲が軽い。中には男より大きな体格で立派な鎧をしている女戦士もいるが、例外と思ってよい。形見の特殊剣は大降りで、革の吊りベルトでつり下げると足元まできた。剣は弓反りになっているので、重心の関係か、剣先が歩く方向を向いた。しかし、この大きさにしては、軽いのは既に述べた。従ってアリーナは難なく、歩くことができた。くすんだカーキー色の厚い木綿地の野外作業服に革の装甲、野外歩き用の丈夫なブーツに、剣と反対側に小道具が満載された下げカバンをまわし、合羽のようなマントをつけた。ただし、動きの激しい冒険業ゆえ、また、身軽さが身上の軽戦士の特性もあって、ポケットのたくさんついた幅の広い作業パンツではなく、薄く丈夫な黒革の短スパッツのようなものの上に、フリル状の、ミニスカートというべき代物をつけている。肩まである朱色の髪は、しっかりときつく後ろで結んだ。


 剣は、抜き払った刀身の根元に、母のカオルが深く信仰していたと思わしき、見覚えのある東方の神が掘り込まれていた。優しげな、柔らかな線で描かれた像で、背後に光の輪を背負い、大きな蓮の華の上へ座り、手にも蓮華を持っている。勢至菩薩像であったが、アリーナに名は知らされていない。アリーナは刀を持ったまま像へ向かって目を瞑り、母を思い出して祈っているうちに、涙があふれてきた。

 剣箱へは、母の残したであろう、小さな羊皮紙の巻物が共に入っていた。それはさまざまな刀の各部名称や手入れ方法等のマニュアルであり、目釘を抜いてゆっくりと柄や鍔より刀身をはずし、茎(なかご)を確認したが無銘だったので(あったとして彼女には読めぬが)、アリーナは菩薩が蓮華を持っていることにちなみ、剣を蓮華の刀(ソードオブロータス)と呼ぶようにした。


 ナッシュビルの街の周囲には町の食料をになう田園地帯がひろがっており、主食の麦類の他、各種の野菜や、また牧畜も盛んである。街道を東へ行った所に道を横切るように流れるエミル川では魚種が豊富だったので、街で売る干物や燻製、オイル漬の魚を仕入れる魚問屋が、常に街道を行き来している。街は城壁で囲われ、東西南北に伸びる街道へ到るには門を通り通行税を払わなくてはならない。一回通るごとに銀貨一枚もとられるので、貧乏人はおいそれと街を出入りしない。商人達も、少なくとも、通行税以上を稼がないと赤字となる。ただし冒険者は、兵士に代わって街の周囲の魔物を退治するので、駆け出しの冒険者を援助するという目的で、税金の免除制度があった。まだレベルの低いうちは、稼ぎに応じて、月のうち指定回数だけ、無料で通行できる。アリーナは、月に四回まで、つまり二往復、タダで通れた。もっとも既に一回、無報酬で逃げ帰ってきているので、これで今月のラストチャンスだった。これを逃したら、来月まで街で引きこもっているか、食堂でウェイトレスのバイトでもなんでもするしかない。

 しかしアリーナは、楽観的だった。幾匹かの野菜畑の大コオロギなど、現役の冒険者なら誰も相手にせぬような退治だ。初心者のアリーナ一人だというので斡旋してくれたようなもので、その割に退治報酬はなかなかで、銀貨が三十枚も用意されているという。

 本来なら、こんなカンタンな退治に、銀貨三十などと、おかしいと思わなくてはならない。何か裏があるはずである。

 アリーナは街道を外れ、田園地帯の細い農道を通り、とある農家へ午後過ぎに到着した。依頼主は農家ではなく、正確には地主だった。ここは小作農で、農家は云われた通りに畑を耕すだけである。地主の、使用人監督係のような中年が、アリーナを待っていた。

 「ああ、どうも、あなた、退治屋さん? ああ、若いですね。じゃ、あなたは昼間担当ということで。昼間の報酬は、銀貨三十のうち、五枚ですね」

 「五枚!?」アリーナは素っ頓狂な声を上げた。「五枚ってなんですか? 聞いておりませんが」

 「いや、さあ……ギルドにはちゃんと説明しているはずですが。私はそちらの担当者ではないので、詳しくは」

 ここでこの人物に抗議しても仕方がない。五枚で受けるか、断って帰るか。帰っても家に銀貨はもうない。もちろん、ギフォードにたかれば、いくらでも通行税など出してくれる。しかし、それではなんにもならない。自分がやっているのは、絶対にお嬢様の道楽ではない。

 「もちろんお受けします」

 「では、こちらへ」監督はアリーナを畑へ案内した。ナッシュビルの街の周囲は、高名な穀倉地域であり、なだらかな丘陵地帯にパッチワークのように麦類を主とする種々の作物が植えつけられている。初夏のいまは、遅蒔きの秋麦類が収穫の最中だし、春蒔き作物の苗がずんずんと勢い良く伸びている最中だ。それらを片端から食われたのでは、たまらぬ。

 「大コオロギは何匹ですか?」

 「小作人の報告では、四、五匹と聞いています。一晩で、一区画まるごと食われてしまうのです。ああなればもう、ただの害虫ではない、本当に怪物ですね」

 四、五匹といっても侮ってはいけない。豚ほどもある化物コオロギが凄まじい鳴き声を上げて、人間にも威嚇してくる。突進されたら、大人でも転がってケガをする。冒険者には雑魚とはいえ、農民が鍬や鎌で対抗できるものではない。「あっ、あのやろう、さっそく……」監督が指差した先に、貴重な秋蒔き小麦のよく実った穂を、音をたててかじる巨大な昆虫が見えた。「さ、さあ、お願いします……」監督に戦闘技能は無い。そう云って下がった。もっともアリーナとて、実情は大して変わらないのだが。

 アリーナはロータスを抜きはらい、奥歯を食いしばって、畑にわけ行った。背の高い麦を掻き分け、コオロギへ一直線だ。コオロギはアリーナの気配に気づき、振り返ってギャギャギャと耳障りな鳴き声を上げた。ガサガサと麦をわけて集まってき、報告通り五匹はいた。いきなりアリーナはその内の一匹の脳天に片手で刀を振り下ろした。その切れ味はアリーナがびっくりしたほどで、通常の剣ならば頭に食い込むほどだが、大コオロギの頭を薪でも割るように縦に真っ二つにして、勢い余って地面まで切りつけた。体制を崩したアリーナへ、昆虫らしい機械的で素早い動きで一匹が覆いかぶさってきたが、驚いたアリーナが横殴りに刀を振って、ひるんだコオロギが身をひねったが、そのまま胴体をほぼ両断した。

 「……すごい!」

 ふつうの剣ではこうはゆかぬ。また、ただ切れ味が良いというわけでもない。やはり、不思議な力が魔物を断ち切っているのだ! これは素晴らしい獲物を獲たとアリーナは内心、小躍りした。

 アリーナは剣を両手で持ち、とりあえず使えもしない大きな両手剣の講習で教わったとおりに剣先を上にして構えてから、斜めに切り下げた。それは逃げようとした一匹の横胴をかすめた。大きな棘のついた後脚を片方、落としながら、大コオロギは逃げてしまった。残りも、既にいない。

 アリーナは思わず歓声を上げた。怪物が自分を恐れて逃げ出すとは! 急に手練になったような快感を味わった。

 眼を見開いて、興奮した鼻息のまま、抜き身をひっさげて、アリーナは畑から戻ってきた。

 「すごい、すばらしい! たちまち追い払いましたな!」

 監督はアリーナの、「まったく予期していなかった」腕前に、素直に感嘆した。すぐさま成功報酬の銀貨五枚をくれた。アリーナは笑みを浮かべ、満足げにその報酬を受け取った。

 「あの、このまま夜までいてもいいでしょうか?」

 「えっ?」監督は意表をつかれた。

 「銀貨三十、ほしいんです!」

 「いや、でも、もう既に、夜の担当を雇ってしまいましたので」

 「その人と代わってもらいます」

 「それは……私にはなんとも」

 「個人的に交渉してみますから、お願いします」監督はなかなか承知をしなかったが、アリーナがどうしてもと頼み込み、半分、むりくりに、ひと晩だけ、残ってみることとなった。「必ず、お二人で話し合って、決めて下さいよ。相手方から、我々に絶対に苦情のないように! そのようなことになったら、正式にギルドへ抗議文を出しますし、裁判の用意もありますからね!!」

 アリーナはよくよく礼をいい、落日まで、納屋で休ませてもらった。小作人からたっぷりの作りたてバターと茹でたジャガイモをもらい、ミルクを飲んで夕食とした。「意外といいもの食べてるじゃない」アリーナはそう勘ちがいをしたが、とんでもない、毎日を味気ない些少の菜っ葉入り雑穀粥で過ごしている小作人にとっては大ご馳走で、監督がそれを供するように命じていたのだった。イモの量が多かったので、アリーナは残した分を、皿を片づけに来た十ほどの小作人の息子と娘にやったら、飢えた山犬のごとくそれらをたちまち飲みこんでしまったので、やっとアリーナは自分の勘ちがいに気づいた。

 そのまま、暗くなるのを待った。昼行性の大コオロギが夜にも出るとはあまり聞いたことはなかったが、昼間のやつと同じものなら、多少、数が増えても、余裕だった。

 「どういう理由で、夜だけ五倍も報酬が高いのかしら」アリーナは不思議だった。五倍の理由はひとつしか考えられぬ。つまり、夜はちがう、もっと強い怪物が出るのである。それに気づくほど、アリーナは、経験値がない。

 興奮が冷めて、少し疲れが出たのか、アリーナは眠ってしまった。隙間風で眼を覚ますと、外で話し声がしたので、出た。暗闇にランタンの明かりが見えて、それが遠ざかってゆく。監督だろう。その相手というのが、ふいにこちらを見た。そして、大またで近づいてくる。アリーナは緊張した。


 夜の闇の中に、青い光がふたつ、光った。それが闇を見通す能力を有した眼だと分かるのに、しばし時間がかかった。アリーナはその人物を見上げた。大男だ。いや、大女だ。サーッと月光がふりかかり、頭に太く短い角が五本も突き出た亜人種であると認識した時、アリーナの「亜人を見下すのがステイタス」な、街の上流階級という尊大な態度がでたようだった。大女は無表情で、ジッと下から自分を侮蔑したように睨み付けるアリーナを見下ろした。それがアリーナの癇に触った。月光に艶やかに光る長い黒髪、青い眼、乳白色の肌。後に、アリーナと唯一無二の親友となる小トロール種の女戦士、フルンゼとの邂逅だった。

 「あなたが夜の担当? 冒険者なの? ギルドにあなたみたいのがいるなんて、知らなかったわ」

 フルンゼは微動だにせず、無言だった。アリーナは亜人種ごときに無視されたと、眼を釣り上げた。「ちょっと、なんとか云いなさい! まさか、言葉が通じないのではないでしょうね!」

 すると、思ったより優しげな声をし、しっかりした発音の言葉がその口からでた。

 「あたいは冒険者じゃない。剣闘士だ。たまたま依頼主から頼まれて、外で仕事をしているだけさ、お嬢ちゃん」

 「おじょ……!」アリーナは抑えた。とても腕力ではかないそうにない。

 「フン、奴隷なわけ。奴隷の身分で、よく市民の私と対等に話ができるものね」

 サッとフルンゼがその一撃でアリーナの首をへし折りそうな腕を上げたので、アリーナは驚いてあとずさった。フルンゼはそのまま、東方の絹糸のような髪をかき上げて、クスクスと笑い出した。アリーナは月夜で顔が真っ赤になった。

 「し、しかし、まあ……」アリーナは腕を組み、わざと斜に構えて余裕を装い、フルンゼを横目で見た。「なんていうかっこうなの。まるでポルノね」フルンゼは、およそ野外を出歩く、まして敵と戦う姿をしていない。大事なところをかろうじて隠しているのみで、半裸、いやほとんど全裸に近い。

 「ぽる? ああ、あの人間の裸踊りかい?」フルンゼは笑い出した。豪快だったが、愛嬌のある笑い顔だった。 「これでも人間にあわせて着てるほうだよ。こっちは暑いしね!」

 「この、蛮人め!」アリーナは心の中で舌を打った。

 「戦いになって大丈夫なの?」

 「小トロールを知らないのかい? まあここいらじゃ、あたいしかいないようだから知らないかもね。じゃあ教えてやるよ。こう見えて、そんな、なめした牛の革よりうんと丈夫な肌なものでね。心配はご無用だ。お気遣いありがとうよ、お嬢ちゃん」

 「アリーナよ」

 「アリーナちゃん。さあ、夜はあたいの担当だ。納屋に帰ってションベンして寝ちまいな」

 左腕の大きな円楯の裏より、岩をも砕くような、戦闘用のピックハンマーを軽々と取り出して、フルンゼは大股で畑の向こうに行ってしまった。

 アリーナは歯噛みして悔しがった。地団駄を踏み、フルンゼの後を追った。


 「ねえ、ねえ、待ってよ、ねえ!」

 「なんだい、邪魔だよ、引っ込んでろって云ったろう」フルンゼの脚は速いというわけではなかったが、歩幅が大きいのでアリーナはついてゆくのに苦労した。

 「ねえ、説明、聴いているのでしょう? もう代わってなんて云わないから、せめて……」

 「邪魔だって云ってるんだよ! 怒らす気か!!」夜目が効くというその青い眼が、一瞬の怒りで赤くなったようにも見えた。フルンゼは立ち止まり、アリーナの鼻面へ、人の腕ほどもあるピックハンマーを突き出した。ハンマーとピックが対になっている武器だが、先に槍の穂先すらついている凶悪なものだ。アリーナは知る由も無いが、はるか都の闘技場で、幾人もの重装甲戦士や高名な怪物を軽々と叩き潰している。

 しかし無知とは恐ろしいもので、アリーナは「白き鬼神の一撃」の異名をとり、熟練の剣闘士も震え上がるその鉾先を、サッと手で払いよけた。

 「人と話をするのに、こんなものをつきつけるのが小トロールってやつなの?」

 フルンゼはそのアリーナの毅然とした態度を、度胸と受け取り、面食らった。アリーナは街の上流階級の常で亜人種を小ばかにしているだけだったが、良き誤解だったといえる。

 「あ……ああ、そりゃ、ちゃんと説明もしないで、悪かったね。れっきとした冒険士に挨拶もなくてさ」フルンゼは丸楯の裏に再びハンマーをセットすると、胸の前で右拳を軽く下に振った。小トロールの正式な挨拶のしぐさだ。

 「あたいはフルンゼだ。アリーナさんだったかい? 説明するからちゃんと聴いて、そして引っ込んでな! 見たところ仲間もいないようだが、夜に明かりも無しでこの退治は無理だ。正確には、あたいほどが出張る相手にっていう意味さ。ケガをするだけじゃすまないよ!」

 アリーナは意味が分からなかった。しかし、なにやら雰囲気が違うことくらいは察した。

 「な、なに……コオロギの親玉でもでるの……」

 フルンゼは、案の定というふうに鼻で笑った。「コオロギの親玉だって? こいつはとんだ情報ミスだ。依頼主が悪いのか、ギルドが悪いのか。どっちでもいいけどね。いいかい、これから相手するのは、グレイビートルってやつさ、名前くらいは聴いた事があるだろう。大コオロギなんざ、そいつのエサだよ。ふだんは山のほうの荒地にいるんだが、コオロギを追って街の側まできてる。戦闘馬の倍以上もでかくて、人も襲う凶暴な地蟲だ! 装甲が厚くて、剣も通しにくい。だからハンマー使いのあたいが呼ばれたんだ。お嬢ちゃんなんざ、たちまち食いちぎられて肉団子さ! さあ、これで分かったかい? 分かったら帰れ!」

 さしものアリーナも、音を鳴らして唾を飲んだ。その真剣さに嫌味も卑下も無く、本当に自分を心配し、かつ、足手まといに思っているのが分かった。彼女も、己の立場と腕前くらいは、わきまえているつもりだった。

 だが、これはアリーナにも不思議なことだったが、何故か、ここで素直に戻るのは非常にはばかられた。何かの、自分でも気づかぬ強い意志が働いたのだ。

 「こ、ここまで来たら、あなたの側のほうが安全だわ。戦いには手を出さないし、ちゃんと危なくなったら自己責任で逃げるから。優れた戦闘を見るのも勉強だし」

 フルンゼは眉をひそめた。「何を云ってるんだ? こいつは! 忠告はしたからね!」

 もうつきあいきれぬと、再び歩き出した。アリーナはその後へ静かに続いた。


 それからしばし歩いた。月がかなり高くなって、西に傾いた。地蟲はどこに現れるというわけではないから、フルンゼはパトロールをしているのだ。このまま朝まで歩き通しかとアリーナは思った。正直、疲れた。休みも何も無い。水すら飲まぬ。

 「なんて持久力かしら、あの大女、剣闘士じゃなくって、労働奴隷でも高く売れそうね」アリーナは内心、そう毒づいたが、徹夜で歩き回ったり、戦ったりなど、本来は冒険者でも当たり前にできなくてはならぬ。それは彼女もわきまえていたので、こんな程度で根を上げかけている自分に嫌気がさしたのだ。

 しかし、ついにその深夜巡回も終わりの時が来た。フルンゼが急に立ち止まったかと思うと、畑の奥で蠢く黒山を夜目に捕らえて身構えた。アリーナは幽かな月明かりに、それを確認した。静かに、あぜ道を下がりつつ自衛のためロータスを抜いた。

 そのアリーナめがけ、いきなりフルンゼが走りこんでハンマーを振り上げた。アリーナは悲鳴も上げられず、尻餅をついた。その頭の上を大きな影がよぎって、暗黒が周囲を覆った。

 「がるぅああああ!」小トロール独特の、喉を鳴らすような雄叫びが月夜に冴えた。アリーナの後ろからグレイビートルが襲いかかろうとしていたのだ。肉食大甲虫は、一頭や二頭ではなかった。

 「四つはいるよ! 逃げろ!!」さしものフルンゼも、アリーナを庇いながら闘うのは不可能だ。臭いと音で呼び、畑の中で大コオロギを貪り食っていた連中も、わさわさと集まってきた。

 フルンゼが月光の下にハンマーを振り回し、闘っていた。しかし、多勢に無勢だった。ほとんど必ず一対一で試合をする剣闘士ゆえに、多対応戦闘が不慣れなのだ。フルンゼの実戦経験不足といえよう。このことはフルンゼも後に、大きく反省するところだった。

 グレイビートルは鋭い爪のある捕獲用前脚で獲物を押さえつけ、鉞のような大顎でグチャグチャに噛み殺す。板金の鎧とて平気で噛みちぎるほどのパワーだ。しかしフルンゼの丸い楯は上手に敵の前脚を捌き、その露出した肌は、板金鎧より柔軟で石のように硬く攻撃を防いだ。

 アリーナは薄闇ではあったが、その見事な戦闘に昂奮して惚れ惚れと見とれた。カネを払ってまでこの迫力ある模様を見物する者がいる事に納得した。

 しかし、ここは観客席ではない。むしろ同じ闘技場内である。ぼんやりと佇んでいるアリーナへ、敵が襲いかからぬ道理が無い。気配に気づけば、畑の中から忍び寄ってきた一頭が上体を起こして迫ってきた。アリーナは逃げようという気持ちとは裏腹に、刀を振りかぶって切りかかった。

 とたん、アリーナは豪快に前脚の攻撃をうけ、ふっとばされて転がった。その突撃は明らかに素人で、フルンゼは驚いた。「ばかっ! まだいやがった!」アリーナはグレイビートルの前脚にある鋭い棘で顔面や腕、肩を切り裂かれ、血を噴き出しながら、涙も出ずに息を飲んだ。痛みも衝撃で感じぬほどだったが、脳天に来た。彼女の意識を朦朧とさせるのに充分すぎる打撃だった。

 「死にたいのかッ!?」

 「死にたい!?」フルンゼの言葉に、愕然とした。「そうか……自分は、死にたいんだ……」

 やっと分かった。しかし、本当に死にたいのなら、川に身投げすればよい。火をかぶればよい。刀などもたずに、無防備で怪物の前で踊ればよい。でも自ら死ぬのは恐い。だとすれば、親の仇を討つという名目で、戦いの内に死ぬことができれば、少なくとも自分で死ぬより怖くもないし、他人も美談として語ってくれるだろう。

 自分で、自分の想いに今、ようやく気づいた。ギフォードはそんな自分の心をとっくに見透かしていたのだろう。

 「なんだ……自分は……そんな程度か……」

 「うがらぅあああ!」フルンゼが無我夢中でピックハンマーを振りかざし、周囲のグレイビートルを攻撃した。しかし敵は多い。さしものフルンゼとて、槍すら通さぬ天然装甲の相手に、また自らの50倍の荷物を運ぶというパワーに、一筋縄ではゆかなかった。板金鎧を一撃でつぶし、穴を開けるその攻撃が、丈夫でしなやかな生体装甲に跳ね返される。その隙に、いまアリーナを襲った一頭が、まだ転がる彼女へせまった。

 「お嬢ちゃん! 立て! 逃げろ、逃げるんだッ!」

 這いつくばったまま、アリーナはがくがくとロータスを握りしめた。特殊能力で怪物に効果があるとはいえ、そもそも、自分がぜんぜん使いこなせぬ。腹が立った。怒りすら覚えた。自分のばかばかしさと、図々しさ、そして卑怯さに!

 「ちッくしょお!」血の味のする歯を食いしばった。彼女は気づかなかったが、新鮮な血液を吹き出す身体中の傷が瞬時に癒えた。瞬間、夜の闇の中に、アリーナの瞳が金色に光ったのを、フルンゼは確認した。髪がザワリと膨れ上がり、髪止めが切れた。「うあああ!」アリーナは雄叫びをあげ、再びロータスを振りかざした。ギフォードが予想した、魔族の血の覚醒と、それを促す妖刀ロータスの秘密は、後に語られることとなるだろう。

 「なっ、なにやってるッ、人間め、早く逃げろ!」

 「誰が……誰が逃げるもんかア!」のしかかるようにして、大熊より大きな肉食甲虫がせまってきた。その断頭台の刃のような大顎は、人間の胴体など、いともたやすく切断して、かみ砕き、肉団子にしてしまう。虫の出す、酸っぱいような嫌な臭いがした。

 「死ぬぞ、ばか!」

 「死ぬもんかああ!!」

 泣きながら、叫び、死に物狂いでロータスを振りまわす。通常の剣では巨人族のごとき屈強な戦士でなくば歯も立たぬグレイビートルの外骨格が、スイカでも切ったように切断されて、腕が吹っ飛んだ。そして、たちまちのうちに、その一頭はアリーナによってナマス切りにされた。

 「うおぉ…」驚いたのはフルンゼだ。

 アリーナのムチャクチャな攻撃が、次々にグレイビートルへ食い込んだ。二頭、三頭と退治して、最後の一頭はしかし、素早く対応したビートルに剣をたたき落とされてしまった。力攻めだと、こういう思わぬ反撃をうける。

 「あっ…」アリーナが我へ返った。暗闇に大顎がせまった。その頭を、横からフルンゼのハンマーが襲いかかった。複眼がつぶれ、黄色い体液が飛び散った。獣の様に唸りながら、フルンゼは横倒しになったグレイビートルのアタマを完全につぶして、動けなくしてしまった。

 「ふう……」一息つき、フルンゼは振り返った。アリーナは呆然として、宙を見詰めている。

 夜が白んできた。

 「報酬の四分の三はお嬢ちゃんのものだね! 見直したよ!」

 フルンゼは大声を出した。アリーナは答えなかった。まだ呆然と暁闇を見つめ、刀も拾わない。フルンゼが歩み寄り、ロータスを拾って、アリーナへ渡した。アリーナは、初めて刀が手に無いことを気づいたように身体を震わせると、そっと受け取った。

 「そんな振り回し方じゃダメだ。剣が泣いているよ」フルンゼが諭すように云った。

 しかし、アリーナは途方にくれた。泣きそうな声で、「でも、誰も使い方を教えてくれない……」

 「異邦の剣なんか使うからだ。いくら特殊な能力があるからって、使いこなせないと意味がないだろうさ。都でも見たことがないよ。いったい、そんなもの、どこで買ったんだい」

 「買った……?」アリーナは母を思い出した。父と信じていた養父を思い出した。そして、最後に今でも思い出すと身震いする、実父・魔族「スマウグ」の下卑た血の哄笑を思い出した。

 「ぶッ殺す!! ぶッ殺してやるッ!!」フルンゼはいきなりアリーナがそう叫んだので驚いた。「これはお母様の形見よ! これでみんなのカタキをうつの! 魔族なんか皆殺しだ!!」

 「………」フルンゼはその澄んだ青い眼を細めた。この人間は、自らと同じく、血の復讐を持っていると悟った。にわかに、他人とは思えなくなった。「うわさ話なんだけどさ……」アリーナが顔を向けた。「たぶん、それと同じ剣を持つ、東方の強戦士が、海を超えてやってきて、王国中を修行して回ってるっていうぜ。ここ数年は、伯爵領の近くを放浪しているとか。都で見たという人もいる。同じ剣の使い手だったら、弟子入りできるかも……」

 「……!」アリーナの顔が素直に希望へ映えた。フルンゼも、そんなアリーナの愛らしい顔を見て、思わず笑みがこぼれる。

 その二人を、音も無く緋色の光が包んだ。夜明けだ。

 「暁の……アリーナ……」フルンゼは、日の出に逆光で輝くアリーナを眩しげにみつめて、そうつぶやいた。後に、彼女が自分と硬い絆で結ばれる唯一無二の友となるとは、想像だにしえぬ。

 アリーナは、オレンジ色に染まる朝日をみつめ、街を出ることをきめた。その強戦士を探して弟子入りすることを決意した。そして、いつの日か、魔族「スマウグ」を倒せる日の来ることを、朝日と、ロータスに刻まれる勢至菩薩に願った。


 了


次回予告!

 遙か東方より来た鬼族の剣士「奥津城(おくつき)」に師事し10年を経たアリーナは、免許皆伝の日を迎えようとしていた。王国をかつて支配した古き民族の末裔が自らの誇りに従い、森を彷徨う。アリーナは彼女との出会いに何を観るのか。次回「放浪の哀翠(あいすい)」

 よろしくお願いしまーす(´∀`)ノ





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