ナッシュビル 〜暁のアリーナ〜

 原案/イラスト:BAD
 作:九鬼 蛍

第3話「白き鬼神」

 その日、夕刻近く、降りしきる雪と薄墨のような暗がりの中、一軒の灯りを目指して歩いていたアリーナは、肩や頭上へ積もった雪を払いのけ、カーリオン王国ブリックス男爵領の北端にある田舎町郊外の辺鄙な酒場のドアを開けた。移動日であるため、血の色などと揶揄されるサラマンデル革の緋色の軽装甲も収納箱の中だった。厚手の絹の肌着へ綿地の下着、毛織のパンツとジャケット、狼皮のハーフコートへキツネの帽子姿で、冬用の防寒ブーツに、ベルトへ吊った母の形見の東方剣「ロータス」も、コートの下で見えぬ。

 離れの宿へ部屋を取り、そこへ外套と荷物を運ばせると、身体を温めるためスパイス入りのホットワインを注文した。低地では水分を含み、重かった雪も、この高地ではサラサラとした、乾燥したような感触の雪となる。歩くとギュ、ギュと雪が踏まれて足音を立てるほどである。アリーナは暖炉の暖かい空気を送るように、冷え切った髪をかきあげた。その朱色が室内ランプへ艶やかに光った。酒場には十数人の冒険者を含む旅人や地元の猟師、農民、屈強な木こりがいたが、アリーナの髪を認めた瞬間、凍りついたように静まり返った。血の色のアリーナのうわさは既に、カーリオン王国の津々浦々に広まってはいたが、街中よりむしろこういう辺境のほうが、尾ひれがつき、殺人鬼にも等しく思われている地域すらある。殺人鬼はおろか、アリーナは敵の血をすすって若さを得ているなどと、吸血鬼紛いのウワサもあった。それらはたいてい、アリーナの敵となった勢力の発したプロパガンダだが。

 アリーナがその黄金に光を反射する獣のような瞳で振り返りざまに睨みつけると、ある者は眼を伏せ、ある者はそそくさと席を立ち、ある者はわざとらしく咳払いの後に再び話を続けた。

 マスターは半年ぶりのアリーナの訪問を喜び、ホットワインをサービスした。

 「ありがと」アリーナの笑顔は変わらず張りのある肌がまぶしかった。忌まわしき魔族の血を引くという彼女は、血が覚醒すればするほど、人間離れして歳をとるのが遅くなるのだろう。いつまでも若さと強さを保てるというのであれば、剣士としては云うことはあるまい。しかし、ある意味、それは逆に不憫な事とも思った。マスターの同じ年頃の娘もかつては情報屋兼短弓使いとしていっぱしの冒険者を気取っていたが、とっくに引退してもうマスターは三人の孫にも恵まれている。彼女の果ての無い復讐と戦いの旅は、どこまで続くのだろう。

 外は雪が激しくなってきた。吹雪になる前にと、宿を取っていない客が、急いで勘定をすませた。それらと入れ替わりに、新しい客が入ってきた。

 「いらっ…」マスターが思わず声を詰まらせた。まるで夏物の薄いフード付マントに、半袖短パンにワンピースを羽織ったような姿の大男……いや、大女が入ってきた。天井に頭がつくほどだ。背中に大きな丸い楯を背負い、楯からは内側にセットされた何かしらの武器の柄がはみ出ていた。女はフードをとった。長いストレートの黒髪が冷気に濡れて光っていた。澄みきった泉のような眼と、五本の灰色の短角が目立った。伝説の小トロールだった。マスターは息を飲んだ。小トロールがこの村に帰ってきた。

 荷物をどぎまぎする女房に預けた小トロールが、どさりとアリーナの横へ腰掛けた。アリーナは、彼女をもうとっくに忘れていた。しかし、彼女は覚えていた。いや、思い出していた。

 アリーナとフルンゼ、実に十三年ぶりの再会である。


 いまはもう、その集落がなんと呼ばれていたのかすら、分からない。

 かつてこの北辺の田舎町バールから続く山間には、小トロールの集落があった。彼らは人里には滅多に降りては来なかったが、土地の猟師や木こりとはうまくやっていた。二十年近く前、その集落は突如として消滅した。小トロールは頑強な肉体と戦闘能力の高さで知られ、まさかその集落を襲う者がいるなど夢にも町の者は思わなかった。小トロールは火に弱く、肉体の持つ防壁・再生能力も火には効果がない。集落を襲った凶悪な盗賊集団は夜陰に乗じ村へ火矢を射かけ、森ごと焼き払い、不意をつかれて弱った小トロールたちを皆殺しにした。山は町の財産でもあり、火攻めには町の者も驚いた。火は四日ものあいだ森を焼き、人々が山へ様子を見に行って、凶賊による集落の襲撃があったと知った。

 小トロールの集落は家族単位で、その村でも数戸の一族が、代々住み着いていた。本来はもっともっと北方の山脈の奥に住む彼らが比較的人里に近い場所に代々住んでいるのは理由があったようだが、既に分からない。またその盗賊集団が何故、危険を犯して小トロールの集落を襲ったのかもまるで見当がつかなかった。財宝があるとは聴いていなかったし、貴金属に興味を持たない小トロールが持っていたとも思えぬ。そして、いまでは温厚な小トロールに変わって凶悪で粗暴な亜人種「ドゥアガー」が森をウロウロするようになった。彼らは、森から時折、何かを掘り出して何処かへと持ち去っている。町には手を出さないので、特に今のところ、兵士も冒険者も彼らを退治しない。山中でかち会えば戦いにもなったが、ドゥアガーたちは比較的珍しいことに戦闘を避けてすぐ逃げた。

 フルンゼは、その村のたった一人の生き残りである。


 フルンゼはもう、あの日のことを記憶からとっくに消し去っていた。消し去っていたが、凶賊達が襲ってきた時と同じ新月の夜に、必ず夢を見た。だがそれも、もはや断片的だ。フラッシュバックとして、心の底の底に、一瞬の内に甦るのみである。

 フルンゼを無視して、湯気を立てて香気を発するゴブレットを傾けるアリーナへ、フルンゼは水をもらい、しばしこちらも黙り込んでいたが、やがて忽然と怒気を押し込めた声を発した。

 「あのときのお嬢ちゃんが、いまや王国中の冒険者に名を轟かす『血の色のアリーナ』とは、たいした出世じゃないか」

 アリーナは、チラとも見なかった。そんな因縁は、年がら年中、数えきれぬ。マスターだけが目を皿のように見開き、はらはらしている。残っていた客も、とっくにカネをカウンターへまき散らすようにして逃げた。

 「なんとか云ったらどうなんだ!」フルンゼは陶器のゴブレットを片手で握りつぶした。アリーナは初めて、黄金の瞳をサッと向けた。フルンゼはその瞳を受け止めた。「すっかり魔族の血が出ているようだね。あれだけ魔族を憎んでいたのに、どんな気分だい」

 「別に」アリーナはもう、視線を戻した。「用があるのから、ハッキリ、お早めにどうぞ。いつまでも人の後を犬のように尾(つ)けてきて。ようやく話をしたと思ったら、回りくどいのよ」

 「じゃあハッキリ云わせてもらおうか!!」フルンゼが立ち上がった。その形相は一瞬の内に魔物であるトロール鬼のようになり、牙を剥き出し、青い泉のような瞳は血の色と化した。

 「表へ出な!! 人のカタキを横取りしやがって!! あたいにはお前と戦う権利がある!!」

 「はあ?」アリーナは眉をひそめた。「なんの話」

 フルンゼが顔を近づけた。「心当たりがあるはずだよ」

 アリーナも睨み返す。「ありすぎて分からないわ」

 「上等だ」フルンゼは大股で歩き、武具かけの円楯とピックハンマーをとった。「さあ、表へ出ろ! 思い出させてやる!」

 「………」アリーナは、その、つきつけられた人の腕ほどもある特注の戦闘槌を見て、初めてこの小トロールへ何かを感じた。「あなた、どこかで……?」

 フルンゼは鼻で笑った。「ションベン臭いお嬢ちゃんも、ずいぶんと男を寄せつける身体になったじゃないか。もっともあんたに云い寄る男はみんな生き血をすすられるだろうがね」

 「生肉をむさぼるようなトロールに云われる筋合いはないわ」

 「あたいは生肉なんか食わないよ!!」

 フルンゼがハンマーをテーブルへ叩きつけ、そのままバラバラにしてしまった。

 「それはあんたが弁償しなさいよ」アリーナが、雪の酷くなった外へ先に出た。フルンゼも続く。

 すっかり日が暮れ、酒場の薄明かりのみの漆黒と猛吹雪の中、二人は対峙した。フルンゼの心臓が、異様に高鳴った。バチバチと頭の中で、稲妻が弾けた。「クソッ、こんな時に、なんだってんだ!」フルンゼの脳裏へ、次々と悪夢の断片が甦った。彼女は、自分が生まれ故郷のすぐ側まで来ているとは、まるで気づいていなかった。しかし、彼女の心は、記憶から消したはずの風景に、空気の匂いに、敏感に反応したのである。


 盗賊頭・奴隷商人「死神」ウィットマーシュといえば、カーリオン裏社会では一目も二目も置かれた存在だった。呪われた半オークで、でっぷりと肥えた身体と裏腹に、ロングソードと鮫皮ウィップ(鞭)の使い手だった。魔法使いや神官くずれも含めた、三十人とも五十人とも云われる凶暴な南部少数民族ガルアム族を中心とした部下を率い、主に隊商や地方都市の商家、亜人集落を襲い、金品を奪い、女子どもを王都で売り払った。中央官憲へ頭を低くして賄賂を払い、けして首都では目立たなかったが、地方ではおよそ悪のかぎりを尽くしていた。

 フルンゼが覚えているのは、業火に包まれる村と、累々と横たわる焼け焦げた村の大人達。無事だった五人の子ども。ウィットマーシュの、獅子鼻の歪んだ笑みと、顔の大きな傷跡。

 フルンゼと、フルンゼの弟カンデル、さらに、少し年上のイトコのミリアス姉、違うイトコの子ども兄妹、カリアムとマリーメが生き残りだった。ウィットマーシュは専用の檻へ子どもらをぶちこみ、都へ向かった。そして都までの十日あまりの行程で、小トロールたちはウィットマーシュを筆頭に、盗賊たちに連日男も女も陵辱された。彼らは王都裏社会の高名な亜人専門高級売春宿「カルマ」へ珍種として売られるため、その下仕込みだった。薬草学の知識もある魔法使いが小トロールに効く媚薬を開発しようとし、その実験も、行われた。やがて幼いカリアム、マリーメの兄妹がその苦痛に耐えられず、発狂してしまった。二人は殺され、煮て食われた。

 彼らガルアム人は、グウィネルダ時代から名を馳せるカーリオンの蛮族で、特に亜人を珍味・薬効肉として食うことで知られていた。盗賊頭ウィットマーシュも、そのガルアムとオーク鬼の混血である。

 王都へたどり着いてからも、悲劇は続く。カルマへ売られたその夜。ミリアスが身を挺して、カルマの中で大暴れをやった。フルンゼとカンデルをその隙に逃がそうとしたのだが、魔法武器装備の用心棒によってたちまち殺された。ミリアスの家系は戦士ではなかったから無理も無い。しかしフルンゼは違った。村を代々護っていた、直系の戦士トロールだ。火にまかれさえしなければ、彼女の家族で、ウィットマーシュ団など撃退できたはずなのだ。「ぐぁるあああ!!」頭の中でナニかが切れたフルンゼは鬼のような形相で「暴走し」、屈強のカルマの用心棒を五人も殴り倒したのである。鎖と魔法に捕らえられ、ウィットマーシュはフルンゼとカンデルの買戻しを余儀なくされた。弁償金まで支払ったが、その武勇伝によりそれを上回る金額で闘技場に売れたのでよしとした。

 フルンゼはそこで十八年間、凄腕の剣闘士として働き、そのピックハンマーの打撃は「白き鬼神の一撃」とまで呼ばれるようになった。

 
 「うああぐるぁあああ!!」フルンゼが喉を鳴らして闇に吠えた。全身から怒りが炎のごとく噴きあがって降りしきる雪を融かし、湯気となって体から立ち上った。虎が唸るような独特の雄叫びと共に、ハンマーを振り上げ、一足跳びで殴りかかった。

 アリーナは刀へ手も添えずに、身を沈め、降り積もった雪へ一条の跡をつけるような摺り足でそれへ呼応した。膝を溜めて半身になりつつ間合いへ後の先で入り込み、フルンゼの下腹に強烈な肘を入れつつ、体を変え、振り下ろされた太い腕をとって背負い投げのように投げ飛ばす。フルンゼは瞬間に視界から相手が消えたと思った時にはもう天地が豪快にひっくり返り、吹っ飛んで雪の中に転がって、大の字のまま呆然と雪の落ちてくる黒い空を見上げていた。

 「………」

 本能で悟ったとしか云いようが無い。かなわぬ。地獄の闘技場で負け無しのこの自分が。

 「ちょっと、フルンゼ、そのまま寝る気? 寒いわ。先に戻るわよ」アリーナが何事も無かったように、身を震わせながら、そそくさと店へ戻った。フルンゼはややあって、顔の上に積もった雪を払いのけ、起き上がると、うつろな眼で、ふらふらと酒場のドアを開けた。「髪が凍ってるわよ。マスターが湯を用意してくれてるわ」

 「水でいい」フルンゼは幽鬼のように裏へ行った。「水だって」アリーナは肩をすくめてみせたが、マスターはとても笑える気にはならなかった。やがて、この真冬に下着みたいな服へ着替え、黒髪を後ろにまとめて、やけにサッパリとした顔で、フルンゼが入ってきた。「酒だ!」マスターはふだんビールを注ぐ特大ジョッキへ並々とワインを満たした。フルンゼは一気にそれを空けた。

 「かーッ!」フルンゼは、腹の中でしみじみと味わった。「娑婆の酒はうまいねえ!」そして、改めてアリーナと向きあう。

 「あたいを思い出したかい」

 「その唸り声でね」

 とたん、二人はげらげらと笑いながら、次々に乾杯を繰り返した。マスターはようやく、人心地ついた。二人はローストビーフ、ミートパイ、山鳥の網焼き、雑穀粥、そば粉のクレープ、カブの煮物、干し果実のプディングなど、女房の手料理を鱈腹食べながら、互いのその後などを深夜まで語り合った。


 「弟さんも、剣闘士を?」

 「いい斧使いになったんだ。六年前に死んだけどね」

 「小トロールを倒すなんて」

 「はめられたのさ!」

 フルンゼが牙を剥いた。「あれは試合じゃない、殺戮ショーだ!」

 「まあ、いろいろ経緯があるんでしょうけど」アリーナはなんとも云いようが無かった。「相手はなんだったの? 怪物でしょう?」

 「グウィネルダの牙っていう……機械の怪物だって」

 「グウィネルダの牙が? 闘技場に!?」

 「知ってるのかい!?」

 「まあ……」アリーナはグウィンとの出会いを思い出した。しかし、あれは、グウィネルダしか動かす事の出来ない秘密があったはずだ。「二百年以上も前の、古代の兵器がよく闘技場に」

 「二百年まえ!?」フルンゼが大声を出した。「いやあ、あれは新しかったぜ。弟が死んだ試合だもの、よく覚えてるさ。新品のピカピカだった。間ちがいない。だって新しい鉄を使っていたもの」

 「まさか!」こんどはアリーナが声を大きくした。グウィネルダ時代の製法による鉄を古鉄といい、粘りがあって強いが多く作れない。カーリオン時代となり、ナインシュランドから伝えられた製法による新鉄は、古鉄に比べると弱いが加工しやすく、大量に生産できる。鉄によく親しむ者ならば、見ただけで違いがわかる。

 「………」アリーナは嫌な予感がした。

 やがて、話は核心へ到った。

 「奴隷商人、盗賊頭ウィットマーシュだ。アリーナ、記憶にないかい。あんたが倒したって、王都でもナッシュビルでもみんな云ってるんだよ」

 「いつの話」

 「去年の? 秋か?」

 「ああ……あれかな」

 「思い出したかい!」アリーナはバツが悪そうに頭をかいた。「いや、あれはね、あたしが倒したんじゃないんだな」

 「じゃ、だれが」アリーナは語り出した。

 
 その日、アリーナは、珍しくオクツキ師と共に紅葉の美しいナッシュビルの里山近くを歩いていた。どうという理由ではなく、既に覚えていない。

 そこへ街から尾(つ)けてきたものか、たまたま遭遇したのか、現れたのがウィットマーシュだ。

 アリーナとオクツキの事をまったく知らなかったというのは、裏社会に通じたウィットマーシュにしては、信じられないミスというか、最悪的に運が悪かったとしか云いようがない。それとも、ほんのお遊びのつもりだったのか。あるいは、何者かに偽の情報をつかまされたのか。手勢もいつもよりはるかに少なく、ガルアム人凶賊二十人ほどと、その後ろに幹部の剣士や魔法使い数人、それらが唐突に二人の前へ立ちはだかった。

 「ああ、手加減して、女は殺さぬように」

 などとウィットマーシュが太鼓腹をさすりながら勿体ぶって云ったようだったが、既にアリーナより速くオクツキが動いている。それも尋常ではない。長槍を片手で地面へ立てるやそれを支えにして腕一本で怪鳥(けちょう)のように飛び上がり、側の太い雑木を残り葉が全て落ちるほど蹴ってさらに空中高くを舞った。しかも長槍を持ったままである。ガルアム人たちの頭上を超え、獲物へ一直線に飛来する猛禽のごときだった。その強烈な蹴りがウィットマーシュの胸に炸裂し、血を吹き出しながらぶっとんで、「死神」は即死した。そして長槍を大回転、周囲の幹部連が、小枝でも折れたようにくの字にひしゃげて地面へ転がった。さしものガルアム人凶賊たちも、唖然としてその様子を見定めた後、蜘蛛の子を散らして逃げ去った。

 唖然としたのはアリーナも、だ。強いとかいう次元の問題ではない。あり得ないほど強い。人間ではないから仕方がない、そんな諦観の気持ちすら沸いてくる。彼は彼女の前ではもう滅多に戦闘を行わなかったが、もはや芸術の粋である。

 そして、同じ純血の魔族である実の父親スマウグもこれほど強いというのなら、まだまだ、まったくもって修行が足りぬ。そう、痛感する。

 と、腕を折っただけですんだ幹部の剣士がよたよたと走って逃げるのが見えた。アリーナはロータスを抜いて走り込み、剣士を止めた。「おっ、お助け………」

 「お前が命乞いした人を助けた経験があるとは思えないけど」

 「逃がしてやれ」オクツキの野太い声。すぐさまアリーナは剣を納めた。「いいか、お前達をいともたやすく倒したのは、血の色のアリーナだ。分かったな。分かったら消えろ」

 「はしぇふひぇ………」剣士は息の抜けるような悲鳴を発しながら、腕を押さえ、転げて逃げた。

 「どういうことですか?」

 「おまえの仕事の依頼料が、これで倍になる」オクツキは何もかもを見透かしたように、高らかに笑った。

 事実、その通りになった。


 フルンゼは大仰に天井を見上げた。そのまま、真っ赤な顔をして十二杯め、いや、十三杯めの大ジョッキワインを一気に空けた。アリーナは呆れて見つめた。既に食後酒のブランデーをチビチビやっている。

 「そんなに強いやつが世の中にいるなんて! あたいはとんだ世間知らずだ! 王都の闘技場で十八年間、二千三百八十五勝無敗のこのあたいが、一発でぶん投げられて、その人の先生だなんて!」

 「いや、よく生き抜いたわ。さすがよ。手切れ金はいくら?」

 「貯めたよ! あたいは一万二千カリヨンで自由を買った!!」

 「一万二千!」

 「オーナーが値を吊り上げやがった!!」

 ついにフルンゼも酔いつぶれるようにカウンターへ突っ伏した。「そしてたったひとつの生きる目標が!! とっくに倒されていたなんて! くそめ! あたいはこれからどうやって生きていけばいいんだい!!」

 アリーナは下唇を突き出して、肩をすくめた。

 「じゃあさ」

 「ああ?」

 「とりあえず、あたしの仕事を手伝わない?」

 
 翌日は快晴だった。山道を行きながら、一面の雪景色に、二人は白い息を吐きつけた。アリーナはサラマンデル革の炎色の軽装甲の上へさすがに防寒着を着込んでいたが、フルンゼは水着以下の相変わらずのスタイルに、透けるような薄手のワンピースのようなものを羽織っているだけだ。寒くないのであるから、仕方が無い。

 二人は山を登った。フルンゼは不思議そうに、周囲の景色をみつめた。記憶の断片が少しずつ蘇ってきているが、嫌な気分ではない。むしろ、心地よい。

 「アリーナ、ここはどこだ? どこへ行くんだ?」

 「奥に、古い坑道の入り口があるの。そこを調査してぶっ潰すのが仕事」

 「坑道……?」何の坑道だろう。鉄とは聞いた事が無い。銀か、石炭か。

 「どこからの依頼だい?」アリーナは答えなかった。雪道を行く。フルンゼも静かに続いた。雪の森はまったく静寂で、空を行く雲の音が聴こえるようだった。フルンゼは白い地面へ点々とつく獣の足跡を見て、なにやら幸福な気持ちになった。と、ボサッと聴き慣れぬ音がした。雪が枝より落ちたような雰囲気だったが、もっと重いものが飛んできたとフルンゼは思った。案の定だ。アリーナが素早く木の幹へ隠れた。どんどん、石が飛んでくる。何者かが森の向こうより投石を繰り返している。

 「なんだ!?」フルンゼも隠れた。「アリーナ、なんだい、こりゃあ!」

 「スリングじゃないわね、力任せに投げつけてるって感じ!」

 「そうじゃなくって、どうしてあたいたちを!」

 「近づいてほしくないんでしょう!?」

 「誰が!?」云うや、問答も面倒だと、フルンゼはハンマーを構え、左腕で円楯を笠のようにし、石の雨の中を平然と進んだ。そのフルンゼの膝頭めがけ、手斧が正確に飛んできた。そして見事に命中したが、小トロールの防壁皮膚は手斧の一撃など難なく跳ね返した。アリーナはそそくさとその後ろに続いた。

 すると、ついに、幾人ものドゥアガーが鎖帷子に毛皮、角付ヘルメット、斧や棍棒を片手に、木々の合間から絶叫をあげて現れた。元より凶暴な種族で王国住人と敵対している。フルンゼは何も云わずに唸りを上げてハンマーを振りかざした。まるでモグラ叩きだとアリーナは思った。ドゥアガーは人間より標準的に頭一つ小さいが肉体はむしろ頑健でずんぐりとしている。髪もヒゲも長く毛むくじゃらで、似たような姿の亜人カザード種と激しく憎みあっており、もちろん、基本的に、人間や小トロールとも敵対関係にある。フルンゼは容赦なく、ドゥアガーの血飛沫と肉片を雪原に撒き散らした。とてもアリーナの出番は無い。

 やがて、ドゥアガーたちは転がるように退散した。フルンゼは息も乱れていなかった。

 「おかしいね、連中、ふだんは一匹ずつ行動するのに」

 「束ねてるヤツがいるってことでしょ」

 「ふうん……」不適な笑みをフルンゼは浮かべた。「難しいことは分からないね。ドゥアガーをぶっ潰してカネがもらえるんなら大歓迎さ」

 「行きましょう」

 二人は森の奥へ進んだ。


 雪の中を歩いて、日も暮れかけてきたころ、忽然と森が開けた。この二十年のうちに新しい木も生えたが、明らかにそこは集落の跡地だった。「………」フルンゼが、眼を見開いて、愕然とつっ立った。「あ………」そのまま、瞳の色と同じような青さの涙が、止めどなく流れた。

 「ああああ!!」もう言葉にならぬ。ここは、彼女のいた村だ。

 フルンゼは絶叫して走り回り、まるで錯乱したようだった。犬のように雪の上へ這いつくばり、本当に雪の中へ顔をつっこんで、匂いを嗅ぎ分けた。やがて雪を掘りはじめた。すぐに、角のある頭蓋骨を雪の下より掘り出した。彼女の父か、母か、あるいは仲間か。

 「うわあああーッ! うるぐうぉおおおーッ!!」フルンゼの慟哭が、どこまでも森へ谺した。

 「………」やがてフルンゼは頭蓋骨を抱きかかえたまま、声を発するのをやめた。そして立って涙を拭き、白骨を静かに雪の下へ戻した。アリーナは、その様子をじっと見つめていた。

 「……有り難うよ、アリーナ。ここへ連れてきてくれたんだね。雪が融けたら、みんなのお墓を作るよ」

 「あなたを連れてくることが出来たのは偶然よ。まだ仕事はこれから」

 「合点だ!! なんでも云っておくれ!」フルンゼは拳を握り締めた。「アリーナのためなら、なんだってするよ!!」

 「暗くなったらあなたの眼が頼りよ。行きましょう」

 どんどん暗くなる森の中を、二人は多少の水を飲み、乾パン、干し肉をかじりながら黙々と歩いた。そのまま夜通し歩き続け(ドゥアガーはおろか獣一匹出なかった。しかし二人とも、自分たちを遠巻きに監視する視線を察知していた。)遅い朝日が周囲をゆっくりと照らし始めた。その朝日に、キラキラ光る破片を、フルンゼが目ざとくみつけた。そこだけ、地面まで雪が凹んで光るものを露出させている。「なんだい、こりゃあ」フルンゼはそれを拾い上げた。

 「きれいな石だな、ガラスとも水晶ともちがう、それに暖かい」見た目は小さな宝石のようだが、黄色や赤に薄く輝き、微細に光が動いている。

 「日光を吸って、暖かいのよ」

 「これがなんだか知ってるのか?」

 「ちょっと遠くに投げてみて」

 「? こうかい?」

 フルンゼが光る小石を勢い良く投げつけたが、手元がくるって、すぐ側の立ち木へ衝突した。瞬間、閃光が走り、爆発と衝撃でフルンゼはふっとび、ついでに木が折れて倒れてきた。

 アリーナがびっくりして叫んだ。「ちょっと、なにやってるのよ!!」

 大きな木の下から、それを持ち上げてフルンゼが現れる。「そりゃこっちの台詞だよ! なんだい、こりゃあ!」

 「トリ=アン=グロスよ」

 「とりあ?」

 「カーリオンから出土する不思議な結晶……威力はいま体験しての通り。怪我はない?」

 「ないけどさ、油でも仕込まれたら、さすがにただじゃすまないだろうね!」

 「フルンゼ、あなたの村は、代々このトリ=アン=グロス鉱脈の護り番だったということよ。だけど、これを奪おうとしたドゥアガーが、とある盗賊団へ大枚を叩いて襲わせ、壊滅させた」

 「そいつがウィットマーシュだ!!」

 「そうだったみたいね」アリーナは少なからず動揺していた。この仕事で、依頼主へアリーナを推薦したのは、もちろん、オクツキである。偶然なのだろうか。オクツキは全てを知っていて、昨年、ウィットマーシュたちを誘い出して退治したのだろうか。アリーナの依頼料にまで気を使ったのは師匠としての親心か。

 「だけど、どうしてドゥアガーたちはウィットマーシュへ?」

 「正確にはドゥアガーどものさらに上にいるやつだろうけど、まだ正体は不明。大昔、グウィネルダとカザードの王が鉱脈を封じたのだけど、その際、ドゥアガー除けの呪いの鏡を小トロールへ護らせた。盗賊たちはその破壊を依頼されたということよ」

 アリーナは荷物の中から、小さな青銅鏡を取り出してみせた。フルンゼは珍しそうに見つめた。「新しいのに、古そうな鏡だな」

 「王都のエルヘイム大聖堂で復刻したものよ。これを鉱脈の入り口に埋めて封じるの。結晶を掘り出し、加工できるのはカザードとドゥアガーしかいない。何者かが、結晶を入手している。カザードのブリュネル女王は、トリ=アン=グロスの復活を恐れている。いま、王国中で、謎の勢力により鉱脈探しが行われている。王家と各封領主たちは、領内の鉱脈を再調査し、兵の手が回らない部分はわたしたち冒険者へ委託してそれを妨害しているというわけよ」

 「難しいことは分からないけど……お偉いさんの尻拭いじゃないだろうね」

 「ちゃんとおカネをもらえれば、それでもいいけどね」

 「ちがいないや!」フルンゼは朝日に笑った。「アリーナと初めて会った朝も、こんなきれいな緋色だったね」懐かしそうに、そして眩しそうに、眼を細める。

 「感傷に浸るにはまだ早いわ」アリーナはそそくさと、先を急いだ。「照れちゃって」フルンゼはくすくすと笑いながら続いた。しかし、その鋭い視線は、確実に包囲の幅を狭めているドゥアガーたちの気配と姿を確実にとらえていた。

 
 フルンゼの村落跡より、さらに山奥へと進む。その日も天気は良かったが、時折急に暗雲が高い山肌をなめるように流れてきて、猛烈な粉雪を叩きつけた。風が吹くと地面の雪も舞い上がり、地吹雪として二人を刺した。膝まで雪に埋まりながら、黙々と視界のきかぬ雪中を行軍する。坂が険しくなり、滑落すると命が無いような場所を幾度も渡り、岩肌を這って、やがて門のような洞穴がぽっかりと口を開ける場所へたどり着いた。

 「ここがそうなのかい?」降りしきる雪の中、フルンゼが数刻ぶりに口をきいた。そのときにはもう、先回りしたドゥアガーが洞穴の中から続々と飛び出てきた。

 フルンゼは不意を討たれて初動が遅れたがアリーナは寒風をものともせずコートを脱ぎ捨て居合で応戦し、一人目の顔面を割った。それから振りかぶって二人、三人と確実に僅かに露出した急所を斬って捨てる。

 「うおありゃああ!!」フルンゼの怒号がようやく響き、ドゥアガーの重列肉弾攻撃が突破される。ハンマーの横なぎの一振りで、五人のドゥアガーが吹っ飛んで岩肌に血糊をへばりつかせた。それからせまりくるドゥアガーの脳天を次から次に叩きつぶして、洞穴前の狭い踊り場はたちまち阿鼻叫喚の坩堝と化した。

 「だっ、だめだ、引け、引け!」ドゥアガーの隊長がたまらず(彼らの言語で)叫んだ。そしてネズミのように洞穴へ入っていったが、すぐに出てきた。しかし、それは、洞穴の中からも逃げてきたのだった。彼らはそのまま、武器を捨ててアリーナとフルンゼの横を走りぬけ、崖から次々に飛び降りて消えた。思わずフルンゼが崖から下を覗いたが、器用に急峻な岩肌を素早く降りてゆくので感心した。

 「フルンゼ!!」アリーナの厳しい声。洞穴から異様な音と凍てついた空気に真っ白な蒸気を発して現れたのは、弟カンデルの仇、憎き「グウィネルダの牙」ではないか!

 「こいつ、こんなところにも!!」

 「気をつけて! 新型よ!」

 「新型ァ!?」

 「これがトリ=アン=グロスを動力源とする、まったく新しいタイプだわ!」

 「なんだっていい!」フルンゼは怒り心頭に飛び掛ったが、木と鉄でできているその生き人形は、いきなり左手の巨大なペンチのようになっている部分から炎を噴き出した。小トロールは火に弱い。あれにまかれたらフルンゼもひとたまりも無いだろう。(それ以前にトリ=アン=グロス鉱山で、誘爆の可能性があり火は厳禁である。)

 アリーナは気合を入れてフルンゼへ体当たりをかまし、かわりに炎をかぶった。「アリーナ!」しかしアリーナの装備するサラマンデル革の軽鎧は、火トカゲの魔力により耐火能力を有している!

 炎をはね返したアリーナは、そのまま牙へ飛びかかり、背後へ回るや、ロータスの柄をくわえざま、腰より鋼で造られた細身の投げナイフ(手裏剣である)を出し、それを持って首の後ろをつき刺した。火花が散って、牙は不快な音を発し、アリーナを振り落としにかかる。右手の剣が首の後ろのアリーナめがけて振りかざされたが届かない。よろめきながら、周囲の岩場へ剣が当たった。

 「アリーナ、そこが急所なのか!?」云うが、フルンゼは牙へぶちかましを敢行し、怪力で左手のペンチを押さえにかかった。そこから関節をきめて捻り上げ、

 「うあああがぁるああ!!」肘から下を一気にへし折った。これで炎は使えまい。フルンゼはそのまま牙の脚を取り、気合を入れてひっくり返した。アリーナは素早く飛び降りて、起き上がろうとする牙の頚椎部へロータスを突き立てる。

 「動くんじゃないよ!」そこへ正確にフルンゼがハンマーを横薙ぎに振り下ろし、小気味の良い音をたてて首がもげてぶっとんだ。アリーナはすかさず、穴の空いた胴体へ手を突っ込んで、心臓の辺りより、細長く棒状のトリ=アン=グロス結晶を取り出した。すると、発条(ぜんまい)が切れたように、グウィネルダの牙は動かなくなった。

 「やったのかい?」

 「話には聞いてたけど、本当だったとは……フルンゼの昨日の話で、嫌な予感はしてたんだけど、本当に新型があるなんて」

 アリーナは結晶を、雪がやみ線のように降り注ぐ冬の淡い陽光へかざした。とたん、キラキラと光を吸って、結晶は温かみを増した。

 「簡易暖房器にでもなれば可愛い物なんだけど、これはそんな代物じゃないわ。エネルギーを溜め込んで、増幅して一気に放出する。この大きさなら、城門の一つはふっとぶでしょうね」

 「怖いこというなよ」

 「誰かがコレをねらって、王国へ侵入している……」

 「魔族か?」

 「魔族は、こういうの興味ないと思うけど」

 そのアリーナの手を、一条の白い光が襲った。とたん、冷気が空気中の水分を取り込み、結晶ごと、アリーナの右手を凍りつかせた。

 「うああッ!」アリーナはうめき、さすがに屈みこんだ。魔法である。

 「誰だ!!」フルンゼが吠えた。フルンゼめがけても、洞窟の闇に中より冷気の線が飛んだが、フルンゼは片手で払い落とした。氷の攻撃は小トロールには無力である。すぐに、洞穴奥へ向かって逃げる足音がした。フルンゼはアリーナの静止も聞かず、後を追った。

 
 洞穴の中では完全に闇が支配していた。これではアリーナは、明りがあっても戦闘は無理だろう。フルンゼの闇を見通す眼をもってしても、薄ぼんやりとしか見えぬ。時折、キラッキラッと、フルンゼの眼にしか見えない不思議な光を放っているのが、トリ=アン=グロスだろうか。洞窟内通路はドゥアガーたちによりよく整備され、また(まるで小トロールへ合わせたように)天井も高く、フルンゼは難なく歩くことができた。

 やがて通路は大きな空間へ出た。壁一面に、結晶が埋まっている。美しいといえばそうだが、禍々しいといってもそのように見えた。ここは間ちがいなく、採掘現場だ。

 「しまった、鏡がいるんだ」フルンゼはアリーナがこの場所を封印するのが目的だったことを思い出した。「どうもすぐカッとなっちまう」

 「鏡が無いのか」ずっと上のほうから声がした。それは人間の言葉だったが亜人特有の訛りがあった。矢のように降りてきたのは、フェイの亜種、フルデルだった。人間属(コモン)と敵対的か否かで区別するならば、完全に敵対している種族である。フェイと同じく、人間の基準では超美形の部類だろうが、種族全員が(男女とも)同じような顔つきなので逆に気味悪がる者もいる。日焼けしたような南方色の肌に、白銀の髪がコントラストを放っている。なるほど彼らも(小トロール種とは見え方が違うらしいが)暗闇で眼が効く。火が使えぬこの坑内で、ドゥアガーの工夫たちを監督していたのが彼(彼女?)なのだろうか。

 「あの村に生き残りがいたとはな」テノールの声が響いた。男か。

 「お前が村を襲った黒幕か!!」フルンゼの瞳が一気に赤くなった。

 名も知らぬフルデルはユキヒョウの毛皮を着込み、古そうな木の勺杖(ワンド)を持っていた。

 「短絡な原始種族め。話に聞いているだけだ。おっと、ここで暴れないほうがいい。知っているだろうが、わずかな衝撃で連鎖的に爆は……」

 もう、フルンゼが踊りかかっている。一撃で倒せば問題ない。

 しかし、さすがにそうは問屋が卸さぬ。

 短い呪文で、勺杖から氷の塊が出現し、楯となってフルンゼの攻撃を受けて砕け散った。その衝撃は、フルンゼの動きを止めるほどだった。岩を砕いたかと思った。右腕に痺れが残った。まずい。

 「さすがに火は使えないが……我が冷たき刃はトロールの防壁皮膚も切り裂くぞ!!」

 また勺杖が振られる。渦を巻いて剃刀のような薄い氷片が飛んだ。フルンゼは円楯をかざしたが、氷片は風で巻き込まれてフルンゼを襲った。髪がちぎれ、いくつかの氷の破片は本当にフルンゼの皮膚を切った。しかしフルンゼの回復能力は、この程度の切り傷は、無傷に等しい。

 フルデルが舌をうった。「体力バカめ……ならばこの場で氷づけにして坑道の飾りだ!」

 フルデルの呪文が響く。フルンゼにも分かった。空気が動く。猛烈な冷気の塊が収束する。

 「これはヤバイ……」フルンゼは唾を飲んだ。引くか。しかし引くタイミングを失すれば背後から冷凍される。「凍れ!!」フルデルが術を発動させた。冷気の塊が渦を巻いてフルンデを襲う。

 「フルンゼ、伏せて!」まさか。アリーナの声がし、フルンゼは反射的に地面へ這った。闇で心眼をもって気配を頼りに飛び込んできたアリーナは、既に腕は魔族の回復力で凍傷が復元している。ロータスの刃へトリ=アン=グロス結晶を当て、十時にしてフルデルの冷凍魔法へかざした。

 瞬間、結晶が折れる。波動がロータスでさらに増幅され、冷気を押さえ込んだ。

 「ゲッ…!」フルデルが息をのんだ。さらにアリーナは復刻した青銅鏡をそれへかざした。

 「わあっ………」正確に反射された自らの術で、フルデルは、氷の彫像となって、その場に立ち尽くした。


 「凍土で永久にここの番人をやってな!」

 フルンゼは名も知らぬ魔法使いへそう語りかけた。「行くわよ」そのまま、アリーナへ続く。外へ出た二人は、牙の残骸を洞穴内へ押し込んだり、ドゥアガーの死体を崖から落としたりして、その場を片づけた。それからアリーナは、坑道脇の、かつての岩の祠があった場所へ静かに鏡を安置した。すぐに太古の秘術が作動し、岩と氷が幾重にも重なって洞穴を封印する。祠も、フルンゼがピックで岩を崩して、隠してしまった。

 「ドゥアガー共も手を出せないし、これできっと場所も分からない」

 「なんとかなったわね」

 「しかし、アリーナも夜目が効くようになったんだな」

 「見えるわけじゃないけどね、気配とかで」

 フルンゼは肩をすくめた。「気配だって。凄腕の猟師みたいだね」

 二人はすっかり日も暮れた冬山を、再び苦もなく歩き出した。もともと二人は常人とは異なる肉体を有しているとはいえ、この強靱な体力がなくては、とても冒険者など務まらぬ。

 「なあ、アリーナ」

 「分かってるわ。次の仕事もあるのよ」

 「さすが、売れっ子だねえ! なにせこっちは全財産を闘技場に払って出てきたもんで、無一文さ! 今回の報酬はいくらなんだ?」

 「金貨二百! あなたの取り分は八十でどう?」

 「なんだ………意外と安いじゃないか」

 フルンゼがそうあからさまに消沈したので、アリーナは憮然とした。

 「チャンピオンの懸賞金といっしょにしないでちょうだい。地道に稼いでるのよ! あんただって最初のころは安かったんでしょ!」

 「まあね!」 

 二人の明るい笑い声が、真冬の冷たい月に冴えた。


 了


次回予告!

 王国南部を横断するアラーム川を下り、国境山岳地帯へ向かうアリーナとフルンゼ。トリ=アン=グロスをめぐり、各勢力が拮抗し国境が荒れる。一人の水の魔法使いが、アリーナたちを救うのか。次回「群青の水中花」

 よろしくお願いしま〜すm(_ _)m







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