いわゆる「ポピュラリティ・クラシックス」について


 これについて小文を呈する。

 池辺晋一郎は、その作曲活動で「安易なポップスとの結婚」を戒めている。ただし、そんな池辺センセの純粋コンサート用オーケストラ曲が、クソも面白くないのがミソだ。

 私は外国のいわゆるゲンダイモノにおいては、寡聞なので、邦人作曲家に限定するが、武満徹、湯浅譲二、三善晃、松村貞三、間宮芳生あたりの(主にオーケストラ)音楽は、私はまったく聴ける。ゲンダイ物だろうとなんだろうと、面白いのである。

 ここでいう「面白い」の定義もまた問題にはなってくるのだろうが、そればかりは私の個人的な感性に寄ってくるので、なかなか難しい。従って、ま、こんな考えの人間もいる、という程度でお願いしたい。面白いというのは興味がわく、好奇心をそそられる、私にとって知的遊戯である、つまり共感できる、ということになる。

 向こうの作曲家でも、新ヴィーン楽派は面白い。ただ、これはゲンダイ物の古典だが。

 さらっとかじった中では、ヴァレーズ、クセナキスは面白かった。ペンデレツキは初期作品が好きだ。ブーレーズ、シュトックハウゼン、ノーノ、クルターク、ルトスワフスキ、シュニトケ、グバイドゥーリナ、1回聴けばとりあえずもういい。中には探せばおっという曲もあるのだろうが探す気がおきない。

 邦人に戻るが、ゲンダイ物だろうが調性だろうが、私は面白ければそれでいい。

 問題は、上記の、日本ゲンダイ音楽シーンの最前線を戦った人たちの作り出した響きを、同じ方向性で超える音楽は、後の世代の人たちには少なくとも私には無い、ということである。

 高名どころでは、例えば、近藤譲も、池辺晋一郎も、佐藤聡明も、細川俊夫も、上記の巨匠を超えるまでには到ってない。誰それの亜流とまでは云わないが、なんとも微妙な響きにとどまっている。もちろん聴いて美しい瞬間はあるし、なるほど、あるいはすごい、と思う瞬間もある。しかしそこにもはや感動は無い。西村朗はその曲の2/3くらい、聴ける。

 絵画でもそうらしいのだが、(私は必ずしもそうは思わないのだが、値段がつくから、そういうことになってる)現代シーンの最先端を行くというのは、まったく新しい手法が価値が高く、それまでにない表現が感動を呼ぶという。現代美術はとかく、ガラクタやラクガキにしか見えないものが法外な値段がつく場合がある。買う人が満足ならばそれで良いのだが。

 だからって、音楽においては、宇宙からのメッセージみたいな響きをオーケストラが鳴らして、面白いだろうか?(笑)

 いや、面白いという人は、それでいいんです。感動する人はそれでいいんですよ。

 違う意味では面白いです。「アホかw」 という意味では。

 過日、三善の弟子が6人も集まった室内楽の演奏会を聴く機会があった。みな、もう音大作曲科の教授、准教授レベルである。

 「21世紀にもなってまだこんな曲かいてるのか」

 「お腹を壊しそうな曲ばっかり」

 そんな感じだった。正直云って、2曲まで面白かった。たまにはこんなゲンダイ物も聴くと、刺激があって面白い。しかし、正直6人は無理だ。脳味噌がマヒしてきた。
 
 だって6人とも、ほとんどおんなじ曲なんだもんw

 そして三善を超える作品なし。これは重要である。

 その脳味噌がマヒしてくる感覚がお経を聴いているようで面白い、と云い放った知人がいる。それは……どうなのよw

 池辺センセは現代音楽はよく難しいとか理解できないとか云われるが、音楽にそもそも理解するとか分かるとかいうのはおかしい。感じれば良い。というようなことを述べているのだが、それに照らし合わせると、ちーとも共感できない。何も感じない。感じようがない。そういうことになる。

 1951年に既に、伊福部昭がその著書「音楽入門」で記しているのが印象深い。作曲家の中には以下のごとき人間が(当時から)いるのである。

 「意味ありげな音塊を羅列して、文学者や哲学者も顔負けの解説をすることに、特別な趣味を示す人もあるにはあるのです。」

 そういう音楽を捨てたような手法をあくまで現代芸術として採用するのであれば、これまでに無い表現で、それまでの響きを何か超えてほしいのである。でなければ、やる意味がないのではないだろうか。むしろふつうの音楽を書いておればよい。トンチンカンな音の羅列は、もう表現(?)の限界だろう。


 さて、ではそういったゲンダイ物の対極にあるような調性・クラシックはどうか?

 当たり前だが戦前ではそういうものがほとんどで、たとえ戦前一モダンだったと推測される大澤寿人とて、和製プロコフィエフとなれば、ゲンダイモノとは微妙に異なるだろうことは容易に推察される。

 伊福部昭や別宮貞雄、それに原博など、現代音楽の調性守護聖人などと云っても過言ではない人たち。かれらの姿勢はどう評価されるだろう。

 誤解してほしくないのは、調性だろうが、ゲンダイ物だろうが、面白いものは面白い、つまらんものはつまらん、そしてそれは聴く人の感性に大きく左右される、という普遍的な事実である。例えばペンデレツキは調性になってからどうも腑抜けているように感ずる。

 そして、現代においても、いやむしろ現代ならではのポップス/ロック/ジャズ・クラシックはどうなのか? という命題。

 結論から云えば代表的作家であろう吉松隆も水野修孝も非常に面白い。その音楽は、紛れも無く本物だと思う。

 彼らの音楽を「安直なエセロック・エセジャズ・クラシック」と批判する人は、そうなると創作姿勢を問題にしているのでなはいか。

 というのも、水野は日本12音技法の先駆者・柴田南雄の弟子であり初期作品はけっこうゲンダイであるし、吉松とて書こうと思えばふつうにゲンダイ物で書ける技量を有しており、初期のゲンダイ3:調性7くらいの音楽が彼の音楽的自己を保持できるギリギリの折衷であった。吉松の譜面は意外と現代技法が使われており、難しくて読めない部分が多い。そこからあのパッと聴いため平易な音楽が出てくるところが素敵なのである。

 彼らの姿勢を、批判派は、現代の最先端シーンにおいて、これまでにない響きを造り上げる真の創作態度を放棄している、とでもとらえているのではないだろうか?

 しかし、ロックもポップスもジャズも紛れも無く「現代音楽」だったりする。

 むしろ、吉松は12音無調無形式など、「それはそれで面白い部分もあるし評価も出来るが、そもそもそれらは本質的に音楽ではない」という立場なのだから、そういう曲を書こうはずがない。彼は「音楽」を書く人なのだから。

 つまり彼は確信犯なのだから、音楽のみをエセロックと評したところで意味が無い。なぜ、そういう姿勢で書いているのか? に迫らなくてはいけない。創作の根幹に迫らなくては、本質は見えてこない。

 ぶっちゃけ、このご時世、無調無形式ほど簡単な(ラクチンな)作曲方法もあるまい。

 小難しい理論をコネ、楽譜へ音符をばら撒き、手前味噌の理論に基づいてこねくり回し、かき回せばもう完成だ。なにせ調も拍も無いのだから、やおら表現の根幹は響きそのものに集約される。もっとも音列は作業が面倒だし、難しい理論をコネるのが難しいかもしれない。

 何を表現するか、などは、いくらでも付加できよう。もちろん聴衆には理解できない。そういうのを聴いて分かったふりをし、悦にいるのも一興。分かんなくても、心を動かされる場合もあるだろう。気のせいだとは思うが。

 武満、湯浅に代表される上記の日本現代シーンの巨匠達は、その現代表現の根幹において成功している稀有の初期例なのである。いやむしろ、初期に偉大すぎる人が並んでしまっているのも、ある意味問題かもしれない。

 そんな現代の舞台シーンで、ド調性のドロック/ドジャズ・クラシックをあえて書く勇気と技量。

 その反骨精神!

 それが未だにのうのうとゲンダイ物を書きしたり顔でゲイジュツを語るゲンダイ作家や、それらを眼や耳や口を塞いで拝む聴衆へ対するあてつけ以外のなんなのか。

 まだまだ無調無形式のゲンダイ物が「主流」なにより「権威」よく分からないが「真のゲイジュツ」たる現代音楽シーンで、そんな恥ずかしい代物をバカみたいに開き直って鳴らす蛮勇!

 しかもその音楽には、紛れもない魅力が存在する。

 かつて無調無形式が反骨だった時代は去り、いまやド調性が反骨の象徴という皮肉。

 そんな面白い現代シーンは他に無いと思うのだが。

 いまや美術界でもアニメやポップが力を増している中、クラシック音楽でもそういう流れがあるのは自然だろう。

 ハッキリ云って、無調無形式音楽はもう限界だ。響きの限界に達している。未だにゲンダイモノを主流にしている人こそ、真の創作を放棄しているのではないか。ゲンダイ物、前衛物の技法より、20世紀の作品以上の新しい(心に来る)響きはもはや生まれないと思う。これからは調性と無調の、リズムと無拍の合成が模索されてゆくかもしれない。合成の配分や仕方に、個々人の表現法を見出してゆくのではないか。

 創造とは難しい。

 新しい発想による創造へは意味を見出さない者。

 これまでの発想による創造に価値を見出さない者。

 どちらが正しいとかいう問題ではない。ただ、20世紀様式の無調無形式による創造は、既に後者でいうところの「これまでの発想」の範疇に入ってしまっている、ということだ。

 何にせよ、私は吉松にはもっともっとやってもらって、難しい顔で未だに「単なるゲンダイオンガク」を書く人を、それをゲイジュツだとあり難がる人々を憤慨させて頂きたい。

 痛快このうえない。

 ただし!

 最後にもう1回、書かせてもらうが、調性だろうと無調だろうと、面白いものは面白く、つまらないものはつまらない。

 いくら調性だろうと、コンサート作品で、下手なサントラまがいの薄っぺらい耳障りのよい美音のみを構成力のカケラも無くダラダラとタレ流しているような作品は、チンポコちゃり〜んショワーーンというようなゲンダイオンガク以下だと、思っている。調性だからって、なんでもいいというわけでは、もちろんありません。

 クレンペラーはマーラーの5番4楽章ですらサロンミュージックと断じ、1948年の若き伊福部はヒステリックなセリー主義を否定しつつ、「構造的均衡を破った耽美的な装飾主義」も否定している。







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