昭和天皇の時代 元式部官の私記 武田竜夫 勉誠出版

 http://www.bensey.co.jp/book/1901.html

 昭和天皇(1901−1989)


 

  


 この本は元スウェーデン大使館、イスタンブール総領事館等勤務で、北欧関係の本もたくさん執筆している著者が、外務省より宮内庁式部局へ式部官として出向していた4年間の、昭和天皇の思い出を綴った私記。内容としてはあくまで私記なので読みやすく、簡易なものになっているが、先帝の間近で見聞きした貴重な体験が収まっており、陛下ファンは必携の書。

 著者の武田氏は私と同郷であり、我が実家は終戦末期に日本で始めて……いや、世界でも始めて「戦艦主砲による市街地艦砲射撃」なるものをくらった。というのも、連合艦隊壊滅、しかも航空兵力により壊滅せしめた米艦隊においても、戦艦などは無用の長物であり、弾を少しでも消費しておかなくては戦後の存在意義すら問われかねなかったと推測されるのだが、ロケット弾等ではなく、また硫黄島などの陸上陣地でもなく、戦艦主砲から市街地をを攻撃するというアイデアが生まれ、制空権をとっているという条件の下、実験的に行われて、まずますの成果を上げたのだった。

 (日本軍もガダルカナルの飛行場を戦艦から対空弾で攻撃した実績はある。なんで対空弾かというと、散弾だから地上施設破壊に効果的と考えられた。効果は絶大で、気を良くした海軍は続けざまに夜間地上砲撃を敢行したが、待ち伏せにあった米軍にコテンパンに逆襲され、逆に被害が大きかった。破壊された飛行場施設は突貫工事で難なく回復し、けっきょくショボーンでトホホな戦果に終わった。) 

 その艦砲射撃と先立つ艦載機空襲の詳細な記述が冒頭にあるのも興味深い。というのも、あまりに地味な戦争被害なので原爆や大空襲に隠れて、イマイチこういう書籍などで語られないので。

 わたしも高校時代、当時小学生だった歴史の先生から授業で語られたことがあったが、大和の主砲も鍛造したという工場群めがけ、水平線の向こうから30cm対艦鉄鋼弾がボカスカ打ち込まれ(300発以上)空から空気を裂いて 「降ってくる」 のだそうな。鉄鋼弾は突き刺さってから爆発する。地面には直系10m以上の大穴があき、防空壕などに直撃したら防空豪ごと木っ端微塵、弾の破片も周囲に飛び散り、人間はミンチになった。ふっとんだ人間の手足が電線にぶら下がっていた、という証言を、よく聞くのだが、本書でも証言されていた。

 まあそれはそれで貴重な証言だが、本書の核心は標題の通り昭和天皇の間近からの「観察」にある。近代天皇研究においても昭和天皇は中核を成すのだが、まだ崩御より20年と、日も浅く、多くは秘匿事項である。

 その中で、陛下がお身内ともいえる宮内庁職員、それも出向職という身内の中の部外者ともいえる筆者にチラッ、チラッと見せられる本音の姿。または貴重な、近臣のみの証言。それらは、いわゆる研究者からの報告では絶対に出てこない生きた情報で、そういうものを私は欲しているのである。

 前置きが長くなったので、以下、箇条書きとする。というのも、上記したがこれは論文でも研究報告でもなく私記なので、つらつらと語られる陛下との思い出の中から、読む者がどれだけ生きた情報を掬いだせるかが、カギなのだな。


昭和天皇の平和主義

 昭和天皇は小さいころより歴史の教科書に載るような当時最高の識者により英才教育を受け、帝王学をも学んだ。それでいて、美濃部達吉の天皇機関説を支持した。昭和天皇は自らの意思で国政を動かす気は微塵も無く、そんな戦前の「象徴」天皇を周囲が利用した構図が、一面として確かにあった。

 それゆえ、昭和天皇の国政を私事とせずという姿勢が、決断力が無いとか、責任を曖昧にしているとか、立憲君主制にこだわりすぎたとかいう批判も生まれることにつながっているのも事実だろう。

 とはいえ、天皇自身は御前会議においてや側近へ語ったこととして、常々、軍部(特に陸軍)への不信、対支戦争拡大の反対、対英米戦争の反対、三国同盟への不信(外遊でジョージ5世に影響を受た昭和天皇は本来親英米)、朝日新聞や毎日新聞の軍部をも超える狂信的な国民煽動への心配、等は、これまで知られたり知られなかったりしている。

 もちろん戦争しているのだから、勝ったら喜んだし、勝てるかどうか心配もしている。ここで云う平和主義とはもちろん、カルトじみた絶対的平和主義のことではなく、交戦主張派の反対ていどの認識で良いと思う。

 ちなみに武田氏によると、昭和天皇は(少なくとも氏が側へ仕えてから見たこととして)お酒もお煙草もいっさいお召しにならなかったという。宮中晩餐会でも、杯に口をつけられるのみだったとか。(映画「太陽」のいちシーンを思い出す。あれは虚構である。)


いわゆる靖国A級戦犯問題

 靖国神社へ御親拝を、1975年以降昭和天皇がおやめになったのは、いまや完全に謎であり、もうマッカーサーとの対話の内容のように永久に分からないと思う。したがって本来であればいまの陛下によって御親拝を復活させるのが急がれる。 
 
 いわゆる冨田メモについては、私は偽作である、あるいは真作であったとしても、なんの影響力もないと思っている。A級戦犯といってもいろいろあり、靖国へ祀られているのは、14人だが、そのうち刑死したのは7人である。彼らは日本国民に対して 「戦争に負けた責任」 はあってもそれは国内の問題であり、戦勝国から裁かれるいわれは、本来は無い。ましてや平和に対する罪だの、人道に対する罪などという偽善的な罪があってたまるものかという思いだ。あったとしても原爆の連中に云われる筋合いはなかろう。戦勝国による不当な裁判で死んだ、あるいは裁判中に病気で死んだということで、戦争という公務で死んだと同様と認定され、靖国におさまることになった。感情的には個々に云々あるだろうが、理論としては、特におかしくない。ちなみに戦犯で死刑になった人は戦死ではなく法務死となって、戦争遂行の過程で死んだのと同じになっている。

 (さらにちなみに靖国には対馬丸の被害児童や、ひめゆりの党の人、樺太の乙女の人ら、一部の軍属・民間人もいる。)
 
 武田氏によると、昭和天皇はとあるとき、こう語ったという。全てが伝聞なので、なんの確証も無いが参考までに。

 戦後、戦犯指定された某元閣僚(木戸内大臣であるそうな)へ陛下が最後の陪食を求めたが、

 「戦犯の身に恐れ多い」 と某元閣僚は辞退しようとしたところ、 

 「米国にとっては戦犯でも、日本にとっては功臣である」 とはっきり申されたという。

 ちなみに木戸は靖国にはいないがA級戦犯である。

 したがって、合祀のA級戦犯といっても様々で、確かに昭和天皇は三国同盟に不信を感じている自分を無視して独断でガンガン事を進めた白鳥、大島両大使や、松岡外務大臣、それにのって 「天皇の軍隊であるはずの軍隊」 を好き勝手に動かし、自分へ虚偽の報告しか上げない一部の軍首脳を嫌っていた。(それでいて都合が悪くなると統帥権を口にする。いったい昭和天皇が統帥権などというものを行使したことがただの一度もあっただろうか?)

 したがって、「A級だから」 「A級戦犯がいるから」 昭和天皇が参拝をやめたと断ずるのは、浅はかであろう。一部の合祀へ不快感を顕にし、「その14人では合祀反対」 という意思はあったかもしれない。では11人ならいいのか、何人だったら合祀(名目上)裁可だったか、などという議論はもう意味がない。

 (他の靖国問題の諸サイト等での考察を総合すると、筑波宮司や徳川侍従長は昭和天皇のそういう「一部の者の合祀」への内々の意向により、合祀を渋っていたが、松平宮司は「東京裁判への抗議の意味もあって」合祀を強行した、と推論している。)

 武田氏は、中曽根元総理が1985年の参拝以後、朝日や社会党などの反日勢力に焚きつけられた中国からの言いがかりで首相参拝をやめたのち、陛下も行けるような状況ではなくなった、と結論付けている。何せスパイ政党の社会党なぞは宮中祭祀にまで口を出し、儀式を簡素化せしめている。世論の趨勢により、なかなか行く機会を逸しているうちに、崩御してしまったのだろう。

 また、元より昭和天皇御親拝は、毎年行われていたわけではなく、何年かおきに、主に特別なときに行われている。

 戦後の御親拝

 1945(昭和20年)8月20日
 1952(昭和27年)10月16日 天皇・皇后両陛下
 1954(昭和29年)10月19日 天皇・皇后両陛下 創立85周年
 1957(昭和32年)4月23日 天皇・皇后両陛下
 1959(昭和34年)4月8日 天皇・皇后両陛下 創立90周年
 1965(昭和40年)10月19日 天皇陛下 臨時大祭
 1969(昭和44年)10月19日 天皇・皇后両陛下 創立100周年
 1975(昭和50年)11月21日 天皇・皇后両陛下 終戦30周年
 1978(昭和53年) A級戦犯密かに合祀

 そもそも、靖国は 「国家のために死んだ人」 を祭る神社だと思っている方も多かろうが(私もそうだった)実は 「朝敵」 は祭られない。新選組はいないし、西郷隆盛ですら本殿にいないのはそのため。A級戦犯は朝敵か否かで考えるとき、合祀問題の根本が見えてくるような気もするが、合祀されてしまった以上、それは云ってもしょうがないかもしれない。

 75年から85年まで10年あるから、A級問題も多少は、影響があったかもしれない。
 
 本来なら小泉が中曽根以来はじめて参拝したとき、陛下による御親拝も復活させるべきであった。戦後60年の2005年で、明仁天皇陛下がお参りすべきだった。

 例大祭に毎年勅使が訪れているのを何にも云わないのだから、中韓とてただの無知なるプロパガンダだというのは自明の理。陛下が参拝すれば総理なんか参拝しようがしなかろうが、どうということはねえ。 

 「靖国問題」なる「イアンフ問題」や「南京問題」に匹敵する虚構の問題は、天皇陛下の御親拝により、すべて解決する。

 1986年御製 この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし  

 このお歌がすべてを物語っておられよう。


天皇の戦争責任

 お上へ戦争責任が及ぶことの無いよう、偉い人たちが苦心したのは事実だろう。オーストラリア、ソ連などが天皇を戦争犯罪者として裁くよう、求めていたという。  

 天皇は戦争遂行責任者ではなく、戦争の開始と終結を天皇の名で行っているから、名目上の責任者だったのではないか、というのが私の素人考え。だから、天皇に戦争責任はあるか、という広義の質問には、考えようよってはあるのではないか、と思う。

 偉い人には、これまでさんざん天皇の意向を無視し、これ以上戦争遂行に反対するなら退位させ交戦論者の弟宮を帝位につけるぞなどという言語道断の恫喝にもとれる発言をしてまで、戦争し、負け、自分たちの尻拭いを天皇にさせるわけにはゆかぬと、そういう思いがあったのかもしれない。

 昭和天皇は退位し、僧籍に入って(←注目)法皇になり、全戦没者を弔うことで責任を果たすという案もあったという。

 著者は語る。

 陛下にとってそれがいちばん精神的にも楽だったろう。しかし、陛下は陛下のまま、国民と共に歩まれることを選ばれた、と。

 共産党の煽動で皇居前で 「朕ハ タラフク 食ッテルゾ」 デモをやった左翼(無知蒙昧)市民は、陛下が国民と同じく配給米を食していたことなど、知ろうともしなかった、と。
 
 最後に筆者は、小説体で、特攻に散華した、幼児期に憧れた近所の「お兄ちゃん」が陛下に語るという文法で、現代日本の精神荒廃を憂いている。

 日本をめぐる情勢はいまだに不安定で、内に外に敵は多く、まさに内憂外患である。

 いまやインターネットのみが真実を伝えられる。(すべてが真実なわけではもちろんないですww)

 頼みの綱のマスコミは、とっくに敵勢力に牛耳られているか影響化に置かれている。人々は無知蒙昧にもそれらを妄信している。これは日本人の悪癖で、戦前からもどうもインテリジェンスコンプレックスに悩まされる。(私もだが。)

 日本の最後の最後のよりどころは、こういう正しい日本の伝統なのである。その伝統の中枢におられるのが皇室制度なわけで、いろいろとたいへんな仕事(?)であるとは思うが、皇室が滅ぶ日は完全に日本が滅ぶ日であるということ、それが日本の宿命であるということを、我々も強く意識してゆきたく思う。


私の思い出

 最後に昭和40年代後半生れの我輩の、昭和天皇の思い出など。

 私が物心ついた昭和50年頃には、昭和天皇は既におじいちゃんで、テレビの中でにこやかに手を振る存在だった。

 私は天皇とはおじいちゃんのことだと思っていた。じっさい、うちの祖父より4つほど上なだけだった。中学のころには、皇太子(いまの陛下)ですら、白髪が目立ち、先に死んでしまったらどうするんだろう、などという冗談も云い合っていた。なにせ昭和天皇は不死身だと思っていた。

 それが、高校1年生の末ごろには、にわかに体調がくずれ、雲行きが怪しくなってきた。「昭和が終わる?」 どうういうこと? と思った。元号が変わる実感がなかった。当たり前だ。うちの親ですら、昭和しか知らないのだから。

 年が明け、いよいよ、その日がキタ。

 昭和64年1月7日。

 昭和帝崩御。

 すぐさま翌日からの元号交付。「平成」の文字。いまは亡き小渕総理。

 正月休み開けに部活へ行く私はバスの窓から、ぼんやりと冬の外をながめ、昭和が終わった感慨へ耽った。生活自体は何も変わらなかったが、私の中では確かに何かが終わった。終わったからといって、それは高校生の思うこと。生活に変化が訪れたかというと、何も変わらなかった。

 ただ、大喪の礼をなぜ私はビデオに撮っておかなかったのか、いまだに悔やんでいる。

 その年の暮れ。

 「今年、亡くなった著名人」コーナーの最後に、昭和天皇のお顔がいちばん大きく映った時、涙が出た。



前のページへ

表紙へ戻る