大正天皇(1879−1926)


   


 原武史/大正天皇 朝日新聞社


 自分と誕生日が同じなので、特に深い意味はないが、昔から大正天皇に親近感を感じていた。しかし、ついぞ自分の誕生日が天皇誕生日の祝日だった記憶はない。
 
 興味は昭和天皇の方が強くあった。あくまで「親近感」である。

 が、ビックスの昭和天皇は、上下巻を買って読んでみたが、まったくつまらない本だった。昭和天皇その人に対する好奇心がまるで感じられぬ内容で、学術書としてはそれでよいのだろうが、ぜんぜん読み物としては肩すかしをくらった。あくまで機関としての昭和天皇の詳細な動向を把握した内容だった。

 そこで、この大正天皇だ。逆に学術研究書としては物足りない部分も多々あるが、読み物としてはこれが面白かった。なにより、朝日新聞社刊というのがイカス。どういうわけだ?(理由はあとで記すだろう。)

 さて、大正天皇といえば、みなさんはどのようなイメージをお持ちだろうか? アタマが弱い? 病弱? それでも、そんな程度であろう。それともイメージなんか無いとか? この本を読めば、大正天皇の人となりと、当時の帝国情勢に鑑みた「大正封印」のカラクリが見えて来る。

 ちなみに、「遠眼鏡事件」は、私は本を読むまで知りませんでした。
 
 この項では、大正天皇を通して大正時代を観てみるのも一興であるとし、本を便りに紐解いてみたい。


徳川秀忠?

 大正天皇は、近代天皇制において、2代目にあたる。その意味で、まるで江戸幕府の2代目、徳川秀忠と同じ境遇のように思えて仕方ならない。共に、偉大な初代、そして英傑な(とされる。)3代めに挟まれて、イマイチ、イメージが薄い。しかも、それは造られたイメージとして。

 ※ところで、天皇制という単語が、ソ連経由のコミューンの造語だというのは、不勉強ながら知らなかった。つまり、打倒目標としての「日本独自の君主制」の名称という意味のようで、正しくは「皇室制度」というらしい。が、いまやコイズミもイシハラも天皇制といって憚らないのではないか。したがって、ここでも便宜上、天皇制という単語で通したい。

 さて、造られたイメージというのが、先天性にしろ、後天性にしろ、精神あるいは知的な遅れ、発達遅滞を伴った人であるというものだ。いまや立派な人権侵害に相当するものであり、それでなくとも、当時としては不敬罪に相当するものであるのだが、当時は不敬どころかちまたの小学生ですら、そのように思っていたという。不詳、私も、幼いころ、亡祖父(明治38年生)に大正天皇の話を聞いたとき、そのように云われた記憶がある。祖父もあまり多くを語らず、あの人は、脳に障害があってねえ、云々……というものだった。
 
 巷間の噂がそうであっては、政府にとっては、日本帝国が40年をかけて強力に押し進めてきた、富国強兵を目的とする近代天皇制度が、2代目早々にして根底から覆る重大時だったようで、後の昭和天皇が明治天皇を目標として厳しく育てられたのを幸いに、天皇の意に反して強引に引退させ、天皇は失意のうちに没したというのである。
 
 そして、「栄光の明治の再来」たる「昭和」が訪れたとき、政府は意図して大正時代を忘却する施策をとり、人々は熱狂して、大正を忘れたのだった。
 
 したがって、祖父ではないが、大正天皇を云々するのは、不敬とは違った意味でタブーだったのだろう。


遠眼鏡クルクル

 遠眼鏡事件とは、大正天皇が、いつぞやの国会開会の詔書を読み上げた後に、丸めた詔書を望遠鏡のようにのぞいたというものだ。詔書はもともと丸まっているので、それを再び丸めるのは別におかしくないということだが、それを覗いたのが悪かったらしい。しかも、議員たちを、覗き見るように。(笑い話ではついでに隣の議長のアタマをポコンと叩いた、とある。)
 
 それがまた巷間を駆けめぐり、ああ、陛下は、やはり(←問題1)お可哀相に(←問題2)御脳が……(←問題3)となったようだが、だいたい、いつの国会のときの話なのかも分からない。あくまで、ウワサなのだ。

 本によると、ことの真相は、病気により、既に指先や言語が不自由になっていた天皇が、1回、苦労して丸まっていた詔書を開いたらなんと逆さまだった事があったので、今回は開く前にちょっと覗いて向きを確かめたらしい。

 というのすら、事実かどうか疑わしい……ということである。
 
 その噂は、昭和30年代に突如として現れたようだが、大正時代から似たようなものはあった。曰く、御脳が云々、であり、陛下のお身体が云々……だ。そんな些細なウワサがオヒレハヒレがついて巷間を駆けめぐったり、天皇の健康を庶民が気づかったりするほど、当時の日本人は大正天皇へ親近感を抱き、身近に感じていたようだ。しかも、明治天皇のときには絶対に見られなかった事なのだ! ここが、本書が最大のミソととらえる部分である。


既にいた人間天皇

 天皇の「人間宣言」は昭和天皇の十八番であるが、既にその前の時代に、わざわざ宣言せずとも人間扱いされた天皇がいた。つまり、大正天皇その人だった。

 ここで本にそって生い立ちを簡単に記してみたい。

 大正天皇(明宮嘉仁/はるのみやよしひと)は明治12年に、明治天皇側の柳原愛子を母として生まれたが、既に全身に痣があっただとか、頭蓋骨が完全にくっついてなかった(新生児はたいていそうなのだが、生まれてしばらくすると自然にくっつく。)ためアタマがとんがっていた(つまり、それほど通常より離れていた。)だとか、常に何かを吐いていただとか、いつ死んでもおかしくない状態だったのを、奇跡的に持ちこたえたという経緯があるが、その後も、病弱で、暇さえあれば病気をしていた。そのうちのひとつ、髄膜炎が、何十年も後になって、後遺症として現れたと、当時の人々はホンキで信じていた。

  幼少時のお写真。アタマの形がよく分かる。

 病弱なため進学して熱ばかりだして休み、当然勉学ははかどらず、しかも、やや発達の遅れも本当にあったようで、特に数的理解や状況把握に乏しかったということである。

 現在ならば、その程度の遅れは専門教育で簡単に取り戻せるのだろうが、明治時代のこと、なかなか、周囲も嘉仁皇太子の教育には苦労していた。逆に得意だったのは、周知のとおり漢詩だった。内容は文学的価値というより情景描写に徹したものだったらしいが、それでも、御脳が云々はおろか、普通でも、漢詩などそうそう簡単につくれるものではあるまい。残された筆を見るに、字もたいそうきれいで達筆だ。(もっとも、和歌や漢詩のほとんどは皇后が清書したらしい。従って達筆なのは皇后。)

 別に天皇だから格別にアタマがよくなければいけないわけではない。変に鬼才を放たれても、国家には困るだけだろうし。
 
 その意味で、大正天皇の「ご勉学」は、中の下か下の上程度で、特に不都合は無かったように思われる。

 また情緒面でも、発達にやや遅れがあったらしく、つまり、長じても落ち着きが無く、ひとつのことに集中することが大の苦手であり、思ったことはすぐさま口から出るのは、結局、死ぬまで治らなかった。

 そんなわけで、成人しても、自分は、アジアの先端をゆく近代日本帝国の頂点としての天皇、明治天皇の跡取りとして国父の役割、憲法の定める大元帥としての陸海軍の総帥、または現人神としての神聖化の意味、国民統合と国家発展の精神的基礎としての役割、等々を、おそらく、まるで理解していなかった。日継ぎの皇子の自覚ゼロ!!
 
 そもそも、憲法そのもの、国家制度そのものを理解していたかどうかもあやしい。
 
 明治天皇をはじめ、国家要人、宮中要人は、皇太子の将来にハラハラし通しだったということである。皇太子の将来=日本帝国の将来なのだから、無理もない。
 
 その反面、明治天皇が絶対に国民(臣民)の前で口を開かなかったのに対し、よく庶民に声をかけ、それが新聞に驚きを持って掲載されるのを自らスクラップして楽しんでいた節さえある嘉仁皇太子は、明らかに能天気であり、酔狂人であり、接する者に親近感をわかせ、庶民派だった。家族思いで、一夫一婦制を実践した初めての天皇。子どもらと相撲を取り、家族団欒の夕食をとった。馬とワインとたばこが大好きで、東宮時代は夕食後、皇太子妃のピアノを前に酔ってよく歌を歌った。天皇になってからは、唯一、ビリヤード(おそらく4つ玉。)が慰みだった。
 
 まさに日本一の趣味男! 数寄者! 良くも悪くも、無責任一代男だった可能性は高い。(イカス!!)

 昭和天皇は、大正天皇を反面教師とし、明治天皇を崇拝する乃木希典によって徹底的に厳しくしつけられたということである。昭和天皇の思慮深く、物事に動じず、徹頭徹尾、公の場では自己意見を封殺し機関としての天皇に徹する重々しい口ぶりは、そうやって形成された。本当に、明治と昭和だけで、近代日本そして天皇制は語れない。

 その反面、秩父宮とか、常陸宮とかは、完全に父帝の跡を継いだ趣味人のような気がしますよ。三笠宮はどうかな。

 さて、天皇は明治天皇の名代として、または自身の健康回復の切り札として、または国威発揚として、あるいは、地方のインフラ整備の建前として、全国を行啓して回ること9回。これは皇太子時代の数である。沖縄を除く全地方を回った挙げ句、韓国(大韓帝国)にすら行っている。韓国では、李王朝の皇太子李垠を気に入り、自ら朝鮮語を勉強している。今上陛下はわざわざ聖武天皇の話を持ち出すまでもなく、大正天皇の朝鮮贔屓を引き合いに出した方が、よりリアルな皇室と韓国とのつながりを発見できるはずなのだが……なにせ保護条約締結時代の話なので、李完用とか伊藤博文とか、生々しいので、韓国人には理解は難しいかもしれないのも確かか。
 
 子どものころは病弱であったが、22歳で結婚してよりは精神的に落ち着きがみられ、体力も向上した。また行啓においても気分転換が図られ、眼に見えて壮健になっていったという。有栖川宮や、原敬など、理解人を得た事も幸いしているとの事である。
 
 皇太子にとって、まさにこの明治後半の行啓時代が、まさに人生で最も輝いていた時期であることは、間ちがいなさそうだ。


天皇として

 そんな天然無責任一代男にとって、天皇の分刻みの過酷なスケジュールは、あきらかに体調を崩す要因となった。もともと生まれてすぐより死にかけていたのだから、雅子さまどころではない。しかも明治天皇が、不摂生により体調を崩してより、急死したもの運が悪かった。ある日突然、天皇になってしまった。心の準備が無かったのだ。
 
 緊張に耐えられなかった天皇は、三種の神器を受け取る儀式のとき、あまりにソワソワして、江戸生まれの老臣をして「涙滂沱」の状況をした。感動の涙ではない。念のため。
 
 「日本も、もうおしまいだ……!!」 と、声には出さずとも、そう思った人間は多かったようだ。
 
 それは天皇のせいではない。
 
 しかしそれでも、体調不良を押しつつ、ついに動けなくなるまで、10年くらいは、頑張ってよくやっていたはずなのだが、皇太子時代に項をとられ、本書では、その部分がスッポリ抜け落ちている。そこが最大の不満である。なぜなら、大正天皇は天皇になったとたんに具合を悪くして、何も天皇らしい仕事をしていなかったかのような印象を与える。
 
 これでは、せっかく大正天皇の取り上げているのに、中途半端だ。

 例の遠眼鏡事件にもあるように、色々云われようとも、天皇は公務をこなしていた。後半は、言語、手先、足元の不自由により、ついに御用所に引きこもりになって、裕仁皇太子が摂政になるが、その際も、大正天皇自身は、自分はまだまだ大丈夫で、治って、公務をこなせると思っていたらしい。それをして、本書では、周囲が、半ば強引に、天皇よりハンコを取り上げたとする。


大正は無かったことに

 大正時代は、大正デモクラシーに象徴されるように、政党政治が台頭し、政党人のいない超然内閣は国民の支持を得られぬまでになった。条件付とはいえ普通選挙が施行されたし、人々は自由民権運動に燃えていた。

 その中で、大正天皇の、庶民派な部分、明治天皇のような超然的で神格的なイメージに対する、いわゆる人間としての天皇像(しかもそれは皇太子時代に自ら流布した。)は、結果論としてまさに大正時代を象徴するに相応しい自由なものであったと推察される。国民の中に浮いては消える、むしろ平成の現代のそれをも超えるような天皇(皇室)に対する噂話もそれを証明する。それへ危機感を覚えた政府が、天皇の病気を理由に、ムリヤリ、明治天皇を範とする裕仁皇太子へ権力となにより権威の移譲を進めたのは想像に難くない。なぜなら、本来ならば天皇の健康を気遣い、回復へと導くのが政府の仕事であるのだが、代替わりを推進するのは、古来よりの日本国の政治に多々みられた、家臣群による不要となった王の「王殺し」の風潮に他ならない。

 そもそも、古くより天皇は、政治の実権を失い続けてきた。平安時代より、その仕事はもっぱら象徴だった。明治となって復権したかに見えたが、天皇の仕事は機関として国家のために効率よく稼働することである。当時の国家情勢が、大正天皇を機関として「不具合を起こし、もはや不要」と判断したのなら、天皇にそれへ対抗する術など無い。

 実質上、引退してより、数年で、大正天皇は崩御された。
 
 ここに、偉大なる明治の復活=富国強兵復活の昭和キャンペーンと、それへ相反するように、ヘボかった大正時代を忘却するキャンペーンが到来する。政党政治の名残は、かの515及び226事件でいよいよ消え去って、世界情勢は、日本帝国を孤立化させていった。
 
 関東大震災による破壊とその復興も、眼に見えたキャンペーンに一役かった事だろう。
 
 そのようなわけで、そもそも本来の8月31日ではなく、暑いからという理由で天皇誕生日が10月31日だったのに、昭和になってからはそれすらなくなった。明治天皇の偉大さを讃える明治節は文化の日に、昭和天皇誕生日はみどりの日(昭和の日)になっているのに。もちろん、明仁今上陛下も、天皇誕生日。

 深い意味ないが、非常に納得ゆかん(笑)
 
 ここに至り、大正天皇誕生日を、民主主義(デモクラシー)の日とかにして、なんでもいいから、祝日としてほしい。まあ、ただ単に休みが増えたらいいなあというだけなんですけど。


なぜ朝日で天皇本か

 これは内容とは関係ないが、個人的な指摘。
 
 明治天皇や昭和天皇と比較して、掛け値なくかなりリベラルな大正天皇。徳ちゃんも真っ青な超庶民派皇太子時代。まさに大正デモクラシーの時代を象徴する「人物」として、これ以上相応しい人はいない。大正天皇は、どう考えても、現人神ではなく、現代の皇室よりもむしろ、ある意味開かれた皇室だった。なにせ盗撮までされて新聞にすっぱ抜かれている。具合が悪いのではと国民に心配されている。しかも国民が、それは政府のスケジュール管理が悪いせいであると政府批判すらしている。挙げ句に御脳が云々である。「絶対ニ侵スヘカラズ」としての権威も何もあったものではない。
 
 それを、国策として天皇制あるいは帝国国体の権威維持のため封印したのだ。が、そんな大正天皇を再び掘り起こすことにより、近代天皇制の神話を、その磐石性を揺るがせるとしたら、これは効果は大きい。天皇は神ではない……を、当の帝国時代の天皇が身をもって(結果として。)否定していたのだ。
 
 又は韓国行啓の記述。

 わざわざ、大正天皇の行啓を、伊藤博文の画策により、日韓統合の象徴と位置づけたが、それが裏目に出て、「義挙の挙兵はより増えた。皇太子は、ただ楽しい旅行ができたと思い込んでいただけで、その自分の立場も意味もまるで分かっていなかった」としている。
 
 大正天皇の思いはたぶんそうなのだろうとして、義挙の挙兵!? ホエ!? 李朝復古主義/儒教原理主義者のテロリストじゃろ。反日当たり前。治安を見だすものを取り締まって当たり前。少数の反日マスコミやテロリストと、多数の韓国一般庶民をいっしょにしないでほしい。無理だろうけど。(ホント、イラクと似てるなあ。)

 ここら辺の記述が、うまく書いてあるが、やはり朝日なのだと感心した。
 
 さらに。上記してあるが、天皇時代の、仕事ぶりが、そんなことには興味ないかのようにすっぽり抜けている。全7章のうち、天皇になるのが第6章ということでも分かる。病気になったのは分かるが、それでも、発病するまで数年あるし、発病後も、数年間はなんとかやっていた。それは大正天皇を知る上で本当に重大な部分だ。しかし、ついに動けなくなって裕仁皇太子が摂政となるや、昭和の復活近代天皇制への序章としての大正時代後半をとりあげるあまり、大正天皇自身の最後の5年は1ページだ。しかもいきなり「ついに死去」である。死去!? ホエホエェエ!? 崩御だろボケこのアカめが!!
 
 その中で、厳しい帝王としての立身を押しつける(すなわち国体護持!)政府にささやかな抵抗を試みたことを、とりたてて強調するようであり、大正天皇が、近代天皇制への反逆天皇のような印象を強く与える。
 
 天皇自身にそのつもりはもちろん無く、これも結果論なのであるが、結果論を都合よく使い分けているの嫌いが本書にはある。
 
 でも、この本自体はとても面白い。
 
 天皇好きはご一読をお薦めする。


最後に 

 大正天皇の病気は、幼児期の髄膜炎による副作用(つまり御脳が云々。)ではなく、過度のストレスによる神経衰弱と、身心の失調、喪失、それが元による体力(抵抗力)の低下と、心労の重なりによる細菌等感染症等とその合併症の併発による神経症、弱度の脳溢血(宮内省の発表では脳貧血。)にて記憶や言語に障害が見られ、手足も次第に麻痺し、ついには寝たきりとなった思われる。裕仁皇太子が摂政となる際も、おいたわしくもただアー、アーとしか云えなかったらしいが、それがすぐに天皇の意志が薄弱していたという証拠にはならぬ。現代でも、言語が不自由な人の意思疎通は難しい。
 
 また直接の死因は、肺炎による心臓麻痺だそうである。当時の国民が云うように、宮内省や政府でもっとスケジュール管理をうまくしていれば、少なくとももう少しは長生きできたような気がするが、それは許されなかった。

 しかし、巷で云われているような、精神失陥がもとよりあった、というわけではないらしい。

 いや、別にあってもよいのですけれども。どっちにしろ天皇制は(障害者)差別の温床なのか? ああん? 

 そこんとこ、ついに本書作者もつっこまなかった。

  即位時。




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