徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米
 今ナオ埋没スル三千ノ骸
 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何



 吉田満 戦艦大和ノ最期 講談社文芸文庫
 
 立花隆にして「昭和の平家物語」八木義徳にして「わが国戦争文学の最高峰」と云わしめた書。ついに意を決し、読んでみた。口語訳ではなく、原文のママの完全版ということである。
 
 内容については、ドキュメント形式の記録体であり、副電側士少尉として大和艦橋に勤務して奇跡の生還を果たした著者が、あまりに生々しい出撃から轟沈までの艦内の様子を克明に綴ったもの。これを読まずして大和を、そして戦争を語るなかれ。
 
 私ごとき若輩が云々、解説ぶって能書きを垂れるよりも、ここは原文を紹介し、みなさまにも戦争の凄まじさ、悲哀さ、愚かさを噛みしめてほしい。願わくば、買って読んでみてほしい。
 
 まず読んで衝撃だったのは、艦内において、若い将校たちがかなり熱く議論をかわしていたことだろうか。例を挙げる。
 
 なお、本文は片仮名書きだが、読みづらいのでそこは平仮名にしました。

 P22
 一次室(ガンルーム、中尉以上の居室)にて、戦艦対航空機の優劣を激論す
 戦艦優位を主張するものなし
 「『プリンスオプウェールズ』をやっつけて、航空機の威力を世界に示したのものは誰だ」
 皮肉る声あり 
 設計当時、すなわち十年の昔、無敵を誇りたる本艦防禦力も、躍進せる雷撃爆撃の技術と圧倒的数量の前に、よく優位を保ちえる道理なし
 ただ最精鋭の練度と、必殺の闘魂とに依り頼むのみ


 戦う前からこれなのだから、悲壮極まりない。
 
 最期の酒宴も終わり、若い士官は残してきた新婚の妻の身を想い、年老いた(といっても40代とかだが。)下士官は妻子を想い、何をかいわんや。
 
 そしていよいよ、そのあまりに無謀な作戦大綱が示される。
 
 P44
 本作戦の大綱次の如し─── 先ず全艦突進、身をもって米海空勢力を吸収し特攻奏効の途を開く 更に命脈あらば、ただ挺身、敵の真只中にのし上げ、全員火となり風となり、全弾打尽くすべし もしなお余力あらば、もとより一躍して陸兵となり、干戈(かんか)を交えん かくて分隊毎に機銃小銃を支給さる
 
 あまりにアホな作戦なれど、筆者たちは受け入れざるをえない。その理不尽さ。

 以下のように続く。
 
 P44
 世界海戦史上、空前絶後の特攻作戦ならん
 終戦後、当局責任者の釈明によれば、駆逐艦三十隻相当の重油を喰らう巨艦の維持はいよいよ困難の度を加え、更に敗勢急迫による焦りと、神風特攻機に対する水上部隊の面子への配慮もあって、常識を一擲、敢えて採用せる作戦なりという あたら六隻の優秀艦と数千人の命を喪失し、慙愧に堪えざる如き口吻あり

 
かかる情況を酌量するも、余りに稚拙、無思慮の作戦なるは明かなり

 その中にあって、なお議論は続く。
 
 P45-46
 天号作戦の成否如何 士官の間に激しき論戦続く 
 必敗論圧倒的に強し
 「大和」出動の当然予想せらるべき諸条件の符号 
 米軍の未だかつてなき慎重なる偵察
 情報により確認せる如く、沖縄周辺に待機せる強力かつ大量の機動部隊群
 大海戦に前例を見ざる航空兵力の決定的懸隔
 併せて発進時期、出動経路の疑問

 
提灯を掲げてひとり暗夜をゆくにも等しき劣勢なりというべし

 豊後水道にて逸早く潜水艦に傷つかん
 あるいは途半ばに航空魚雷に斃れん(青年士官の大勢を占めたるこの予測は鮮やかに的中せり)

 
 痛烈なる必敗論議を傍らに、哨戒長臼淵大尉(一次室長、ケップガン)、薄暮の洋上に眼鏡を向けしまま低く囁く如く言う

 「進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ
 日本は進歩ということを軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか」


 これ、臼淵大尉の持論にして、また連日「ガンルーム」に沸騰せる死生談義の一応の結論なり 敢えてこれに反駁(はんばく)を加え得る者なし


 死ぬと分かってなお死ににゆかざるを得ぬ若者の、痛切なまでの自己の行動に対する原理。弁護なのか。それとも、本意なのか。国のために死ぬ。それでいいじゃないか。いや、それだけじゃ嫌だ、もっと何かが欲しいんだ。鉄拳制裁、その腐った根性を叩き直してやる……そんな議論の一応の結末。悲しすぎる。
 
 緊張と悲哀と悲壮の渦巻く中、大和特攻艦隊は静かに九州沖を南下する。そして、ついに米軍機の猛攻が訪れる。

 運悪く低く立ちこめる曇り空にて、46サンチ主砲及び三式弾(巨大な散弾のようなもの)も、気がつけば目の前に殺到する航空機群に、照準が間に合わない。むなしく、空を裂くのみ。さらには、針鼠のように装備された対空砲火すら、初速も遅く、目測射撃には限界が生じていた。おりしもアメリカ軍にはVT信管という、対空弾の1発1発が電波を発して、航空機に命中せずとも金属を探知し至近で爆発、その弾の破片で航空機本体や搭乗員にダメージを与える秘密兵器が大量に装備されており、日本軍へ致命的な損害を与えていた。
 
 電探室は早々に被弾し、大和は耳を奪われる。

 P84-85
 宜(むべ)なるかな 二十五耗機銃弾の初速は毎秒千米以下にして、米機の平均速力の僅か五乃至六倍に過ぎず
 かくも遅速の兵器をもって曳光修正を行うは、
恰(あたか)も素手にて飛蝶を追うに似たるか(略)
 
 最近頻発せる対空惨敗の事例において、生存者の誌せる戦訓はひとしくこの点を指摘し、何らかの抜本策の喫緊なることを力説す
 しかもこれらに対する砲術学校の見解は、
「命中率の低下は射撃能力の低下、訓練の不足による」と断定するを常とす そこに何らの積極策なし
 砲術学校より回附せられたる戦訓のかかる結論の直下に、「この大馬鹿野郎、臼淵大尉」との筆太の大書の見出されたるは、出撃の約三か月前なり
 更にその上に附箋を附し、「不足なるは訓練に非ずして、科学的研究の熱意と能力なり」と前書きして、次の如く記す───
 「ドイツ」の渡洋爆撃を無力とした「イギリス」の最新対空兵器を知らぬか 高角砲弾に長さ数百米の鎖をもつて分銅を結びつけ、「ロケット」により弾速を落とさぬやうに発射する 鎖はその倍の直径の円を描きつつ敵機に襲ひかかる 命中率少なくとも五〇%とすることは容易だ 点をもつて点に当てる(日本のあらゆる対空砲火)、面をもつて点を捉える、その差はほとんど無限に近い 
かういふ状況にあつて、なほ訓練の不足、とは何の意味か───
 中尉、少尉、挙ってその下に署名したるは言うまでもなし
 かかる狼藉も、何びとの叱責もうけず ただその戦訓綴込は、徹底せる沈黙をもって幹部間に回覧されたるのみ

 「世界の三馬鹿、無用の長物の見本───万里の長城、ピラミッド、大和」なる雑言、「少佐以上の銃殺、海軍を救うの道このほかになし」なる暴言を、艦内に喚き合うも憚るところなし
 
 軍とはいえ、巨大な官僚組織……日本の官僚統治機構は軍にまで浸透し、そして軍にとってもっとも重要な自由な思想・発想を奪った。いまの日本でも、現実に起こっていることではないのか。自衛隊に限らず、すべての役所において。戒めねばならない。
 
 そのためにみすみす死なねばならぬ身の無念さがほとばしっている。
 
 大和は見事な操艦術にて巨体をひるがえし、爆撃、魚雷をかわすが、先の鈍速の機銃がかっこうの餌食となり、直撃弾多数、鉄の塊、人の命、空にひるがえる。火を噴き、艦内電線多数遮断、電源供給が止まり、電気式兵器次々と無力となる。艦橋も死屍累々、当日、たまたま艦橋勤務の筆者は既に運良く電探室の被弾を免れているが、ここでも運良く、無事である。断続して魚雷命中。浸水。その応急処理を担当する応急科員も修羅場。作業中にまた被弾、作業断念、部屋に大量の海水、上部ハッチへラッタルを駆け上がり、最初の1人が出るやすぐさまハッチを閉め、留め金をし、浸水をそこで押しとどめる。自分に続きラッタルを駆け上がる戦友の頭を蹴落とし、ハッチを閉じるその地獄や、担当員の心情如何。
 
 さらには米軍の執拗にて正確無比な雷撃。応急科の中央管制所が破壊され、浸水対応処理の指示が不可能となる。艦橋にてそれを行う。片舷に集中する魚雷。艦は大きく傾斜する。そうなると水面下の防備の薄い部分が露になり、非常に危険だ。そこに戦時の鬼の決断。
 
 P90
 米軍よく渾身の膂力を、連続強襲、魚雷片舷集中の二点に注げるか
 艦長「傾斜復旧を急げ」と叫ぶこと数度 伝声管の中継により所要部署に伝う
 されど復元は容易ならず 防水区割以外の右舷各室に、海水注入のほか方策なし

 
 防水区割りとは、万が一浸水した場合、反対舷側のそこへ海水を注入し、バランスをとる大和ならでは最新機構だったが、この時点で既に3000トンの海水を注入し、もういっぱいとなっていた。そこで、機関室へ海水を入れることを決断したのである!

 先日、美浜原発の高圧蒸気管破裂事故で、高温高圧の蒸気をあびた作業員がどうなったか! 燃え盛る全力運転中の巨大ボイラーへ、海水をぶっかけるのだ!

 外の戦況を窺い知ることもできず、炎熱と騒音の中、ひたすら汗と油にまみれて大和を動かしていた機関員たちのいる場所へ、水を!
 
 P91
 海水「ポンプ」所掌の応急科員、さすがに躊躇

 「急げ」われ電話一本にて指揮所を督促
 非常退避の「ブザー」も遅きに失したるか

 
当直機関科員、海水奔入の瞬時、飛沫の一滴となってくだけ散る

 彼らその一瞬、何も見ず何も聞かず、ただ一魂となりて溶け、渦流となりて飛散したるべし
 沸き立つ水圧の猛威
 数百の生命、辛くも艦の傾斜をあがなう
 されど片舷航行の哀れさ 速度計の指針は折れる如く振れ傾く
 隻脚、跛行、もって飛燕の重囲とたたかう


 襲来はすでに第4波まできていた。

 筆者の冷徹な観察眼は、ここで敵の様子まで描写する
 
 P91-92
 第四波左前方より飛来す 百五十機以上 魚雷数本、左舷各部を抉る
 直撃弾多数、後檣および後甲板
 来襲機の艦橋攻撃いよいよ熾烈なり
 銃撃は投下、反転の後、直線的に艦橋に迫りつつ概ね二斉射なり
 火柱、唸り、硝煙、彼らが息吹の如く窓より吹き込む
 紅潮せる米搭乗員の顔、相次いで至近に迫り、面詰せらるる如き錯覚を起す
 カッとまなこ見開きたるか、しからずんば顔の歪むまでにまなこ閉じたり 口を開き、歓喜の表情に近き者多し 
 砲火に射とめられば一瞬火を吐き、海中に没するも、既に確実に投雷、投弾を完了せるなり

 
戦闘終了まで、体当たりの軽挙に出ずるもの一機もなし

 正確、緻密、沈着なる「ベスト・コース」の反覆は、一種の「スポーツマンシップ」にも似たる爽快感を残す 我らの窺い知らざる強さ、底知れぬ迫力なり

 
 周囲の駆逐艦も、米軍の猛攻と戦い、1隻、また1隻と轟沈していた。

 駆逐艦などというものは、対潜、対艦に威力を発揮するものである。

 戦艦と共に、そもそも対空戦闘用の艦船などあるはずもない。
 
 P102
 艦橋下部に被弾多く、臨時治療所配置の軍医官総員戦士と
 群がる負傷者、その只中に獅子奮迅「メス」を揮う軍医、これらすべてを爆風薙ぎ倒す

           
 その後、唯一の小休止があり、ついにいよいよ最期の攻撃が来る。筆者は、そのわずかな隙間に、傾斜計をにらみつつ、ポケットのビスケットを口にする。

 P113
 うまし 言わんなくうまし

 執拗に狙われる大和艦尾。魚雷命中。どんな暴風の中でも微動だにしなかった大和のケツが、ボーンと海上に浮き上がる。高さ10メートルの巨大な舵の機構が破壊され、動かなくなり、左旋回のみとなってしまう。その中で黒煙吹き上げる駆逐艦「霞」がよろよろと正面に迫ってきて、正面衝突の危機。皮肉にも、これまでで最も絶妙なる操艦でギリギリかわす。艦長、思わず高笑い。自嘲の笑いか。

 傾斜35度。火災と浸水は収まらず、武器は使えず、満身創痍、爆雷は全弾命中、さらには数発分に相当する痛恨の一撃が魚雷となって襲い(潜水艦か?)傾斜が一気に進む。筆者はここで、ポケットに忍ばせておいた配給のサイダーを呑む。既に恐怖が麻痺したのだろうか?
 
 「傾斜復旧の見込みなし」
 
 ついに戦闘放棄、艦隊解散、総員退艦の指令が下される。
 
 高級士官、次々に死への旅路への準備を急ぐ。天皇の写真と共に艦長室、司令官室へ入る。また、羅針儀に身体を縛りつける副長ら。筆者も続こうとするが、「若いモンは泳げ」と殴り倒される。さっきまで戦って死ねと云っておきながら、ここにきて生きろとは何事かと、憤る筆者。しかし命令ならばやむなし。
 
 筆者は沈没寸前の大和へ、何ともいえぬ「美」すら見出す。

 P125
 眼を落とせば、屹立せる艦体、露出せる艦底、巨鯨などいうも愚かなり
 長さ二百七十米、幅四十米に及ぶ鉄塊、今や水中に踊らんとす
 ふと身近に戦友あまた認む 彼、また彼
 (略)
 恍惚の眸をもって見入るは何
 視界の限りを蔽う渦潮 宏壮に織りなせる波の沸騰
 巨艦を凍て支う氷にも似たる、その純白と透明
 更に耳を聾せんばかりの濤音、一層その陶酔を誘う
 見るは一面の白、聞くはただ地鳴りする渦流


 大和傾斜90度。艦船にてかかる前例なし。転覆は必至。みな一斉に蟻の如く逃げ出して、海中へ飛び込む。間に合ったもの、間に合わなかったもの。艦尾より飛び込み、巨大なるスクリューに巻き上げられたもの。舷側に並んで万歳三唱をする兵士の列を遠目に見て、兵隊人形のようだと、筆者。
 
 救助要請を受けた駆逐艦はしかし、沈没の余波を恐れて、近づかない。
 
 そしていよいよ……。

 大和は轟沈する。

 P128
 「大和」あなや覆(くつがえ)らんとして赤腹をあらわし、水中に突っ込むと見るや忽ち、一大閃光を噴き、火の巨柱を暗天ま深く突き上ぐ 装甲、装備、砲塔、砲身、───全艦の細片ことごとく舞い散る
 更に海底より湧きのぼる暗褐色の濃煙、しばしすべてを噛み、すべてを蔽う
 駆逐艦航海士の観測によれば、火柱頂きは二千米に達し、茸雲は六千米の高みまで噴き上がれり
 閃光よく鹿児島より望見し得たりと、のち新聞も報道
 先端を傘の如く大きく開き、その中に、最期を見届けんと旋回する米機数機を屠れり
 悪天のため空しく艦底に積まれし主砲砲弾、全弾自爆をもって敵と刺違う


 大和は沈んだ。
 
 しかし生き残った者への試練は続く。
 
 生存への奇跡は、ここから始まる。

 P130
 煙突に呑まれたるもの究めて多かるべしと
 恐るべきその吸引力 長大なる空洞、多量の海水と共にいっさいの固形物を吸いこむ
 帰還後、生還者につき、入水時の位置を図示せしめたるも、煙突の周囲は広範囲の隙間を示す われ五歩右にあらば危からん


 水中爆発でもみくちゃにされながら、なんとか浮上。その後は、漂流の地獄。重油にまみれ、サメと戦い、睡魔と戦い、疲労と戦い、発狂と戦い、敵機の機銃掃射と戦う。士官は兵を集め、グループを造り、集団での救助を待つ。軍歌を歌い、君が代を歌い、ちょっとでも気を抜くと、そのままストーンと海中に没し二度と上がってこない。
 
 漂流3時間、駆逐艦接近。針路上の筆者、急いで泳ぎ、どける。間に合わなかった者、空しくスクリューの魔の淵の餌食。
 
 「しばし待て」艦壁際でさらに待つ。「いまさら何を待てというのか」ここにきて力つきる無念の者もあり。
 
 ロープが1本、降りてくる。順番にのぼらなくてはならない。兵卒が2人、耐えられなくなって我れ先に自分だけそのロープをつかむ。「ズルットソノママ」姿を消す。筆者は云う。安心感か、他愛もない……。
 
 ロープを握る力も無い。しかも重油で滑る。手首にロープを結びつけ、順に引き上げてもらう。「アゲーエ」人1人上げるのがやっとだ。その者の靴にすがる兵士。靴が脱げ、落ちる。まるで「蜘蛛の糸」だ。
 
 戦争の地獄は、このようなところにもある。
 
 P156
 「初霜」救助艇に拾われたる砲術士、洩らして言う───
 救助艇忽ちに漂流者を満載、なおも追加する一方にて、危険状態に陥る 更に収拾せば転覆裂け難く、全員空しく海の藻屑とならん 
 しかも船べりにかかる手はいよいよ多く、その力激しく、艇の傾斜、放置を許さざる状況に至る

 
ここに艇指揮および乗組下士官、用意の日本刀の鞘を払い、犇(ひしめ)く腕を、手首よりばっさ、ばっさと斬り捨て、または足蹴にかけて突き落とす せめて、既に救助艇にある者を救わんとの苦肉の策なるも、斬らるるや敢えなくのけぞって堕ちゆく、その顔、その眼光、瞼より終生消え難からん

 剣を揮う身も、顔面蒼白、脂汗滴り、喘ぎつつ船べりを走り廻る 今生の地獄絵なり───
 


別記

 これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。

 その理由として、

 (1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない
 (2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない
 (3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった−と指摘した。

 戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。

 松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。

(産経新聞) - 6月20日2時51分更新 抜粋

 ↑
 正直、私も最初 「救助艇に刀なんか持って乗るのか?」 と思いましたが、筆者も伝聞であると認めているし、戦場の恐慌状態を伝えるに充分なリアリティーを持っていたので取り上げました。
 
 旧日本軍の「残虐行為」はかなり誇張されているのは承知ですが、そこは戦場、ヴェトナムで米軍や韓国軍がどのような行為に及んだかを考えれば、おのずと想像はつくでしょう。なにより、極限状態に陥った人間が及ぼす行動を極限状態に陥ったことの無い人間がウソだとかホントだとかありえねーだとか云えるものではないので、私は筆者の書いたものをそのまま引用しました。


 逃げる駆逐艦を執拗に追う米軍機、米潜水艦。しかし、救助作業の最中は、機銃掃射が単発的にあるだけで、米軍偵察機が常に駆逐艦の上を旋回し、自軍の攻撃を許さなかった。人道的配慮などというは愚か。武士の情けか。
 
 残存艦隊は、命からがら随時佐世保へ入港する。
 
 生き残ったものへは、慰労の休暇が下賜された。
 筆者は、故郷へ帰る。
 
 P160
 漂流者慰労の休暇を賜わり、思い掛けず故郷に旅立つ
 途次、電報を打つ
 遺書すでに参上したれば、父上、母上、諦め居らるるやも知れず───喜びの心構えをしつらえ給え
 家に着く 父、淡々として「まあ一杯やれ」
 母、いそいそと心尽くしの饗応に立働く ふと状差しに見出した、わが電報───文字、形をなさぬまでに涙滲む
 かくもわが死を悲しみくるる人のありと、われは真に知りたるか その心の無私無欲なるを知りたるか

 
故にこそ生命の如何に尊く、些(いささ)かの戦塵の誇りの、如何に浅ましきかを知りたるか
 
 大和は沈んだ。護衛の駆逐艦も沈んだ。日本海軍最期の艦隊は崩壊した。日本は負けた。
 
 大和が敵を引きつけたおかげで、菊水作戦による特攻隊は多大な戦果をあげたということで、天号作戦は成功したと司令部より報告された。しかし米軍の報告によると、沖縄沖での日本軍の(狂ったような。)体当たり攻撃は350機であり、米軍の被害は20数隻が軽傷、駆逐艦3隻のみ、沈没ということだった。
 
 全作戦終了後、連合艦隊司令部より、このような布告がある。

 P164
 「昭和二十年四月初旬、海上特攻隊トシテ沖縄島周辺の敵艦隊ニ対シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ、帝国海軍ノ伝統ト我ガ水上部隊ノ精華ヲ遺憾ナク発揚シ、艦隊司令長官ヲ先頭ニ幾多忠勇ノ士、皇国護持ノ大義ニ殉ズ 報国ノ至誠(しせい)、心肝(しんかん)ヲ貫キ、忠烈万世ニ燦(かがやき)キタリ ヨッテココニソノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス」

 つまりこういうことである。

 「うん、まあよくやった。おまえらは帝国海軍の誇りだ。褒めてやる」
 
 筆者はこう締めくくる

 P165
 徳之島の北西二百浬(カイリ)の洋上、「大和」轟沈して巨体四裂す 水深四百三十米
 今なお埋没する三千の骸

 
彼ら終焉の胸中果して如何


 1999年にTV朝日にて放映された、「今よみがえる 戦艦 大和」は、タイタニック号を調査したフランスの潜水チームによる大和の潜水調査ドキュメントと、それによって得られた詳細な海底の模様から、沈没の様子を再現していた。
 
 まず、海底の大和がどのようになっているか。
 
 大和は、船首から1/3ほど、つまり第1主砲と第2主砲の間ほどより真っ二つに折れ、船首部はそのまま、艦底を海底につけた形で沈んでいた。それより後ろの艦尾部は引っくり返って、やや離れた場所で舵やスクリューが遠い水面へ向けて露になっていた。4本あるスクリューの1つが吹っ飛んで無く、海底に突き刺さっていた。そして、右舷後方に、直径30メートルもの大穴が空いていた。

 艦橋は、ぐしゃぐしゃにつぶれて、引っくり返った艦首部の先の下敷きになっていた。周囲には46センチ1.5トン砲弾を含めた無数の物体が散乱していた。そして主砲は、第1・第2・第3と、一直線上に、定規で引いたように並んで、これも引っくり返って海底に埋まっていた。だから、砲身は、見えない。

 大和ミュージアムにある模型の写真。

 

 この状況と、他の生存者や吉田満の証言から、大和沈没の瞬間が想像できる。番組ではCGを駆使して、大和沈没の瞬間を再現していた。
 
 それによるとこうである。
 
 左舷へ集中して攻撃を受けた大和は進行方向へ向かって左側に大きく傾き、傾斜が復旧することなく沈んだ。90度にまで達したという傾斜の後、ついに転覆して、ズーンと大和は引っくり返った。
 
 その瞬間、主砲(ついでに副砲も)がスポッと抜けて、暗黒の海底へ真っ逆さまに落ちていった。
 
 大和の46センチ主砲は、6階建て構造で、高さ20メートル、一基2700トンにもなる。重駆逐艦一隻、もしくは軽巡洋艦一隻分の重量がある。武蔵のときは、別場所(呉海軍工廠)で製造した後、専用の運搬船(給兵艦:樫野)を造って長崎まで運び、専用のガントリークレーンをも造って、設置した。これは甲板の大穴へ、スポッとはめ込んでいるだけなのだ。従って、艦が逆さまになったなら、スポッと抜けるのは道理。そんな状況、起こるはずも無かったのだが、起こったのである。
 
 主砲が抜け落ちた瞬間、抜けた大穴へ大量の海水が入り込んだ。そこで大和は初めて一気に沈んだ。
 
 吉田満によると沈没後20秒ほどで、大爆発が起こった。これが水上で爆発していたら、生存者はもっと少なかったろうという。

 その爆発は、おそらく、鉄鋼弾が引っくり返った拍子に弾薬庫の中で暴れて、爆発し、誘爆したのだろうと結論づけている。艦内事故で最も恐ろしいのがこの弾薬庫及び火薬庫誘爆であり、三笠もこれで一度爆沈着底し、陸奥も船体が一撃で裂けて轟沈している。鉄鋼弾は1発で敵艦を貫いて内部火災を起すほどの威力があるから、それがぜんぶ一気に艦内で爆発したら、どんな艦でもひとたまりもない。ちなみに砲弾の搭載量は砲身1つにつき100発、計900発ということである。すなわち900×1.5トン=弾だけで1350トンとは!
 
 案の定、大和は、第1主砲と第2主砲の間ほどより真っ二つに折れていた。つまり、その部分にあったのが、両砲塔へ送る弾薬の詰まった弾薬庫なのだ。そして艦尾にあった第三主砲塔弾薬庫も誘爆。
 
 しかし謎がある。それは右舷後方の大穴。
 
 魚雷が集中したのは左舷なのだ。
 
 しかもその穴は、とても魚雷の1発や2発で空くような穴ではなく、それらとは比較にならないほど大きい。じっさい、魚雷による穴と較べても、何倍も大きい。さらに、装甲が内部よりめくれあがっていた。
 
 この事実に、調査に同行した生存者の人たちが推測したのは、機関部に海水が入り込んで、内部より水蒸気爆発を起こしたのではないか───というものだった。事実、吉田満によると戦闘中に機関区の一部へ水を入れ、艦のバランスを保っているが、罐のそばにいた人間は爆発で四散している。大和が半分に折れたわけだから、注水とはレベルのちがう量の海水が容赦なく12罐ある機関部全体に押し寄せたのだろう。
 
 あとは、そのまま、大和は海底へ向かった。

 内部や、周囲の、何千人もの人間と共に。
 
 以前、TV東京の「開運 なんでも鑑定団」において、大和の休憩室ベンチの座る部分(長いただの板である。)が出てきた。戦闘に備え、火災を引き起こす可能性のあるものはすべて陸揚げされた。その一部が残っていたという。ちゃんと裏に、大和という艦名とその備品番号が書いてあったので、確認できた。
 
 鑑定額はなんと板切れが200万円。

 依頼人は、廃材として捨てられる寸前の板を救ったのだった。
 
 鑑定士の評によると、大和はいまや、艦船ものコレクターの間ではタイタニックと並ぶ、ビッグネームなのだそうである。

 また平成27年8月18日放送の鑑定団には、大和長官室の「サイドテーブル」が出品された。こちらは300万円であった。

 

 在りし日の大和の勇姿。瀬戸内海での全力公試だそうです。

 

 同じく。波濤を突き破って進む。

 

 擬装中の有名な写真。主砲のデカさが分かる貴重な1枚。隣でおケツが写っているのは、空母鳳翔。また、真ん中やや右奥に見える船はかの給糧艦間宮。

 

 レイテ沖へ向かう連合艦隊最期の勇姿。

 

 長門(手前)と大和(奥)。

 

 デジタル彩色による、トラック諸島の大和ホテルに武蔵屋旅館。

 

 サマール沖で回避運動をとる大和。

 

 同じく。特徴的なシルエットが美しい。

 

 

 被弾した大和。

 

 こちらは沖縄へ向かう途中の大和。最期の勇姿。低く垂れ込める雲の様子もよく分かるショット。あたりまえだが米軍が撮った。

 

 この回避運動はサマール沖か沖縄戦時か、ちょっと分かりません。しかしすごい状況だ。

 

 大和爆発の瞬間。らしい。

 

 爆発する大和。

 

 垂れ込める雲を突き破って上がるきのこ雲。周囲を廻る駆逐艦が寂しそうだ。


 しかし、大和は沈没後、すぐに終戦になったから、これでもまだいいほうで、武蔵などは、生き残り部隊は再度招集され、武蔵沈没を秘匿する意味もあって、最前線に送られ、ほとんど死んだ。
 
 大和よりも武蔵のほうが、民間にて造られたという意義、連合艦隊旗艦にありながら、大和よりも活躍せず、先にあっさり沈んでしまった悲運、いまや大和こそ日本海軍の象徴となってしまっている事実、大和はいちおう名誉の戦死扱いだが、武蔵は沈没すら隠され、生存者に不名誉すら与えていた事実、等を加味し、まことあらゆる意味で悲劇の戦艦と云うに相応しい。実はだから、我輩は武蔵贔屓。吉村昭の「戦艦武蔵」は名作である。
 
 武蔵は、魚雷の衝撃によって前部主砲の「射撃方位盤」が故障し、主砲自体が使えなくなってしまった。そもそも、大和と武蔵の主砲は同時攻撃が計画されていたということで、両艦には無線射撃指揮装置が設置されており、大和のトリガーを引くと武蔵の主砲も撃つことができた。逆も可能。3万メートルもの射程を誇る46センチ砲である、そんな遠くでは当時のレーダーでは正確なピンポイント射撃は正直不可能であり、事実、ほとんど当たらなかった。そのリスクを少しでも無くす為の大和・武蔵同時発射装置だが、対艦船の話であり、群がる航空機に対しての話ではない。実戦で撃つ機会はおろか、武蔵が沈んでそれも不可能となったのだった。

 じっさい、私の実家が、戦争末期にアイオワ級の戦艦3隻から、艦砲射撃をくらっている。アイオワ、ミズーリ、ウィスコンシンの3隻。30キロメートルもの向こう、水平線の彼方から、射撃が行われた。40センチ主砲、800キロ砲弾。雷のような音が鳴り響き、戦艦の弾が、真上から空気を裂いてギーン! と「落ちてきた」という。
 
 落ちた地面には爆発により直径10メートル、深さ数メートルの穴が空いて、簡易防空壕などは壕ごと吹っ飛んだという。
 
 さて、その命中範囲である。
 
 街の軍需工場を狙ったのだが、街中が穴だらけにされた。住宅地も何も、お構いなしだった。電線には、バラバラになった人間がブラブラと下がっていた。
 
 終戦直後の市の航空写真を見ると、見事に蜂の巣にされている。
 
 工場を撃つのですらそうなのだから、動き回る戦艦相手に、やはり無理があったのだろうか。
 
 大和も良いが武蔵も潜水調査してほしい。フィリピンの海域だから、無理かな。

 

 シブヤン海で猛攻撃をうける武蔵。

 

 

 これだけの攻撃で、轟沈しなかったのはさすがだ。しかし浸水は止まらず、艦隊からも遅れ……。
  
 

 在りし日の武蔵。レイテ沖へ向けて出港。
 
 

 沈没寸前の様子。吉村昭によると、このときすでに艦首は波に洗われ、沈むのを待つばかりだったとか。(随伴する駆逐艦磯風から撮影)
 
 この後、武蔵は船首から突っ込むようにして、沈んでいった。没すると同時に、大和同様(時系列的には武蔵が先だが)やはり大爆発がおきたという。
 
 

 山本五十六の遺骨を日本へ届けた際の、昭和天皇御行幸の記念撮影。
 
 札幌護国神社の片隅、北海道帝国海軍碑のさらに片隅に、武蔵戦浸50周年記念の小さな花壇があった。泣けてきた。
 
 ところで、大和級3番艦を改造した空母「信濃」をご存じだろうか? 

 日本はおろか当時世界最大の空母で、レイテ沖海戦に参戦するべく突貫工事をしていたが、完成2週間で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、学徒女工動員による突貫工事の悲しさか、ただの一撃で撃沈。いちばん空しい沈み方をした。

 ちなみにその信濃の艦内には、はじめて実戦配備される特攻ロケット兵器「桜花」の部隊があったのだが、信濃ごと海の藻屑に。ぷかぷか浮かぶ桜花にしがみついて助かった乗員が多かったとのことが、なんとも皮肉である。


平成27年3月18日追記

 平成27年3月、大戦当時の兵器マニアで、タイタニック号や戦艦ビスマルクを発見したというアメリカの超大富豪、MS社の創設者の1人、ポール・アレン氏がなんと! シブヤン海に沈む戦艦武蔵を発見してしまった!!!

 

 詳細な調査はこれからだが、武蔵も大和と同じく、海底でけっこうバラバラになっているようである。

 やはり、沈んだ直後に、浸水により水蒸気爆発、さらには弾薬誘爆を起こしたっぽく、艦体は真っ二つとなり、艦首はそのまま、艦尾はひっくり返っている。また、主砲も抜け落ちている。幸い、艦橋部は大和のように下敷きになっておらず、傾いているもののけっこう原型を留めているようで、今後の状況把握が非常に楽しみ。


平成27年5月6日追記

 毎日新聞によると、武蔵主砲発射瞬間の写真が発見されたそうである!

 

 こら、すげえ!

 

 戦闘ではなく、発射訓練らしいとのこと。主砲発射の衝撃で測距儀が壊れたとか、主砲自身が壊れたとか、甲板にいた搭乗員がぶっ飛んで死んだとか、そんな逸話ばかりが眉唾で伝わっていたのだが、これを見るとあながちうそでもないような……。
 
 ちなみにこれは、大和級に匹敵するアイオワ級の主砲発射の瞬間写真。トマホークミサイルが着いているので、湾岸戦争のころ。

 
 
 この衝撃波!!

 これが、武蔵の古写真からも伝わってくるのが分かる。↓爆煙の下の海面の部分を注目してほしい。 
 
 

 今年は武蔵づいている!





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