6/30
またもフィルハーモニック大阪(オオサカン)による、大栗裕及びアルフレッド・リード作品集(ライヴ)を聴く。
木村吉宏/フィルハーモニック大阪 2011/4/30 ライヴ
リード:序曲「春の猟犬」
リード:シンフォニック・プレリュード
リード:エル・カミーノ・レアル
大栗裕:吹奏楽のためのディベルティメント
I )第一部(アンダンテ) Part.I Andante
II )第二部(ブライトリー) Part.II Brightly
大栗裕:挽歌〜高丘黒光先生の御霊に捧げる〜
大栗裕:吹奏楽のための「神話」〜天の岩屋戸の物語による〜
大栗裕:吹奏楽のためのバーレスク
リード:コンサートマーチ「セカンド・センチュリー」
いやー、しかし意欲的なプログラムだ。
ベターでありつつ、リードと大栗のみでコンサートやってしまうとはね(笑)
リードも人気作曲家であり、また作品の数も多く、その中でも特に人気曲を集めている。そのなかでも特に自分はエルカミが大好きで(笑) エルサレム讃歌の次に好きかなww
(リードだったら、第2交響曲、マリンバ小協奏曲、エルカミーノレアル、エルサレム讃歌、アルメニアンダンス全曲、法華経あたりが好きです。)
ここではテンポゆっくりめ、おそらく楽譜の指定通りの悠揚な演奏をしているが、正直、リードはもうちょっと勢いのある方がイッキに聴けて好みである。じっくり聴かせる作曲家じゃないと思う。独特のオーケストレーション等が、演奏は難しいのに平易に聞こえるという逆奇跡みたいなことをやっており(笑) あまりたっぷりとやると、響きが持たない。特に3部形式の中間部は、いかにもブラスの響き的なのっぺりとしたものになりやすい。
また、演奏が上手に軽やかなのも、逆に軽い音楽をさらに軽くしている。
さて、ここでの白眉はなにより大栗裕だ。まず、秘曲と云っても良い「吹奏楽のためのディヴェルティメント」と、「挽歌」というオード。
「ディヴェルティメント」は大阪音大のために書かれたものだといい、緩徐楽章とアレグロ楽章からなる2楽章制の純粋音楽で、珍しく副題とか、交響詩的なイメージを持っていない。第1部アンダンテと第2部ブライトリーからできている、12分ほどの曲で、これがイイ。アンダンテはどちらかというと葬送行進曲調で、繰り返される打楽器のリズムに、無調っぽい旋律がオスティナートで繰り返される。途中でアレグロとなるが、日本的情緒が得意な大栗にしては、かなり大胆なドライさを持っている。またアンダンテへ戻って、一定のリズムを刻む。ブライトリーは、音頭っぽいリズムはとっているものの、ブギまで発展している面白さも聴こえてくる。シリアスでありつつ、どこかユーモラスな味わいも消えない、まさにディヴェルティメントな佳品。よくこんなもの見つけたなあ。
続いて、「挽歌」は、大栗が高校時代の恩師のために特に作曲した追悼曲で、7分ほどのアダージョ。サックスとユーフォニウムのソロに始まり、その旋律が変奏されて行くもの。田舎の景色の鄙びた味わいに加え、ドラマティックな展開もあり、なかなか聴かせる。懐かしさにあふれた憧憬的情緒がなんとも。
神話は自分の吹奏楽のエバーグリーンな1曲だが、コンクールのカット版には興味が無いので、全曲版をよく集めて聴いている。けっこう扱いが難しい部分があって、正直、演奏によってはダレて長い。カット版というのも、単にコンクール用の演奏時間の問題だけではなく、演奏効果も鑑みて、あの朝比奈隆も1975年のセッション録音で一部をカットしている。
色々と個人的に気にしている場所はあるが、10/8の変拍子の部分のティンパニとトロンボーンのかけあいが「絶対に遅れない」がその1つ。木村はたくさんの神話を演奏しており、研究もしているのだろう。今回のライヴは完璧にリズムがそろっていた。熱気もあり、1973年の朝比奈のライヴに次ぐ熱演といってよい。録音状態を加味するとそれに匹敵する神話だった。ただ、なぜかコーダの入り口のドラが、ぼーん、と拍子抜け。怪獣映画のようにゴワシャーン!とハデにやるのが効果的だが、ただの失敗なのか。神秘的な一瞬をねらったものかどうか。
バーレスクもいい。この曲も、元は吹奏楽コンクールの課題曲で特に標題を持ってないので、なかなか表現に難しいところはあるようだが、この演奏はよくフレーズをとらえていて面白い。これってこんな曲だったのか、と思わされた。
5/19
フィルハーモニック大阪(オオサカン)による、大栗裕作品集を聴く。
木村吉宏/フィルハーモニック大阪 2012/4/30 ライヴ
大栗裕:吹奏楽のための小狂詩曲
大栗裕:巫女の詠える歌
大栗裕:吹奏楽のための「大阪俗謡による幻想曲」(校訂:木村吉宏)
大栗裕:交響的断章「序奏と舞」(編曲:木村吉宏)
大栗裕:吹奏楽のための交響詩「日本のあゆみ」 (ナレーション:オリタノボッタ)
大栗裕の吹奏楽曲は、重要ではあるが彼全体の作品数からするとけして多くはなく、まして未出版を含めると、演奏会にあげられるものはさらにかぎられる。録音すると同じ曲ばかりが並ぶ事になる。それでも、巫女の詠える歌と仮面幻想は少ないのだが。
そうなると、オーケストラ曲からの編曲などというものも出てくる。本人自らが編曲した大阪俗謡は別にして、木村の手による編曲は、今回のように珍しい作品を聴けるという点ではうれしいが、音響的な面白さから云うと、残念ながらワンランク下がる。(他に、木村吉宏の編曲では雲水讃や大阪のわらべ歌による狂詩曲がある。)
小狂詩曲も録音が多いが、これは、大栗の吹奏楽曲のなかでも、最も良い出来かもしれない。この、6、7分の短い狂詩曲の中に、これだけ豊かな音楽性があふれ、しかも、吹奏楽コンクールの課題曲という事実。課題曲としては長い部類なのだが、コンサートピースとしては、短い部類になるだろう。その中で、この面白さ。このCDの演奏は、かなり朝比奈と、懐かしの大栗自作自演に近く心がけているように感じる。起伏があって、フレージングもうまい。それでいて、アンサンブルや音程もピシッと合っていると強く感じる。
オオサカンって、うまいね!(笑)
巫女の詠える歌は、録音が少なく珍しい。
大阪市音と朝比奈/木村の、往年の大栗作品集で初めて聴いたが、どうも三部作の一作目として構成していたようで、演奏時間も6分ほど、終結部も消えるような感じで、ちょっと中途半端な作りになってはいるが、独立した作品である。恐山のイタコをイメージした音楽で、トロンボーンのうめき声がなんとも楽しい(笑) あまり比較できる演奏を持っていないのだが、このライヴは総じて気合が入っておりつつ、演奏がしっかりしていてとても良い。
つづいて高名な俗謡。俗謡は、いかに作曲者の編曲であるとはいえ、やはりオケ版に軍配が上がる。特に、中間部のピッチカートの部分をシロフォンで代用しているのは、いかにも苦肉。最初、吹奏楽から聴いたものだから、なんでこんなところで木琴がコッキンコッキン鳴ってるんだろう? と思ったが、オケ版を聴いて納得。それは絃楽器のピッチカートだった。フルートとオーボエのソロを絃楽が支えるのは音色として合っているが、シロフォンはちょっと耳障りだ。だからって、他に何で代用するか? となると、難しいところ。編曲ものの難しさはそこにある。
ところで、校訂:木村吉宏とあって、なにか楽譜をいじっているようだが、具体的には分からないが、どうも打楽器や金管の聴こえ方が違って思えるので、その辺かもしれない。その意味では、毛色が変わって、新鮮だった。
さて、序奏と舞だが、これは大栗のごく初期のオーケストラ作品で、能を題材にとっており、なかなか(大栗にしては)現代的な書風の曲。かの小山清茂も能面に題材をとったその名も「能面」という組曲を持っているが、それも現代的というか、瞑想的、かつ幻想的なもので、どうしても国民楽派・民俗楽派のような作曲家も、能を題材にするとそうなってしまうのが面白い。10分くらいの作風だが、聴いていると、ここは本当は絃なんだろうなあというもどかしさがある(笑)
20分にもなる、小狂詩曲よりも古い、まとまった作品では大栗の初の吹奏楽だという交響詩「日本のあゆみ」は機会音楽で、ナレーションと音楽が進行するプロコーフィエフの「ピーターと狼」のような、後年の音楽物語を彷彿とさせるもの。本来はこれに合唱も入るのだそうだが、それはカットされている。
幕末から初演当時の東京オリンピックまでの日本の歴史を、音楽シーンをからめて振り返るという企画で、色々な流行歌、軍歌などが吹奏楽へ編曲され、さらに語りがそれを進行する。面白い。編曲もさすがにうまいし、オリジナルの部分も無理なくつながっている。大栗は後年、マンドリンオケとこの形式の音楽物語シリーズをたくさん作っているので、味をしめたというか、こういう形式が好みだったのだろう。
残念なのは、語りだ。プロのナレーターを使えばそんなことはなかったのだろうが、楽団のミュージックアドバイザーであるサックス奏者のオリタノボッタ氏を起用しているが、滑舌や発音がわるいし、関西弁が入っているのか、イントネーションもちょっと変に聴こえる。なにより早口でぼそぼそしゃべって、聞き取れない。
しかし、オオサカンの演奏は初めて聴いたが、これはかなりうまい。こんな団体がNPOで演奏会やCD録音をバリバリやっているのだとしたら、大阪市音の存在価値が問われても仕方がないのではないかと感じた。正直、さいきん私が聴く限りでは、大阪市音のレベルはかなり下がっている。本当に正念場だろう。
5/3
去る、2012年4月20日、大阪において、大栗裕没後30年記念コンサートが行われた。自分も行きたかったが、諸事情により断念した。
特に大阪俗謡の原典版である、「大阪の祭囃子による幻想曲」は楽しみにしていた。
ところがこのたび、とあるツテで、関係者用と思われるDVD発売の御案内をいただき、さっそく購入したものである。
※演奏会の詳細はこちら。
大阪フィルによる当日の模様のブログはこちら。
甦る大阪の響き〜大栗裕没後30年記念演奏会〜 2012年4月20日
特別編成100人のホルン・オーケストラ
2つのファンファーレ
交響管絃楽のための組曲「雲水賛」第1楽章より
ベートーヴェン:自然における神の栄光
大阪音楽大学OBホルン・アンサンブル
馬子唄による変装曲又はホルン吹きの休日
岡本一郎/関西学院大学マンドリンクラブ
関西学院大学マンドリンクラブ部歌
マンドリンオーケストラのための舞踊詩
手塚幸紀/大阪市音楽団
吹奏楽のための小狂詩曲
吹奏楽のための神話〜天岩屋戸の物語による(カット版)
手塚幸紀、泉庄右衛門/大阪フィルハーモニー交響楽団、Vn長原幸太、Sop栢本淑子、Tn林
誠、関西歌劇団、中島警子 桐弦社、『唱歌の学校』心のうた合唱団
箏と管弦楽による六段の調(八橋検校作曲/大栗裕編曲)(桐弦社)
ファンファーレ〜大阪における医学総会のために
日本万国博覧会 EXPO'70讃歌
交声曲「大阪証券市場100年」より 記念祝歌
ヴァイオリン協奏曲より第3楽章
大阪俗謡による幻想曲(原典版)
まずは、もともとホルン奏者でもあり、関西ホルン界の重鎮でもあった大栗へのオマージュも兼ねた、一般募集も含めた100人(じっさいには140人!)による特別ホルン・オーケストラによる、2種類のファンファーレと、雲水讃の第1楽章より、ホルン大活躍の部分の合奏。ここには打楽器も入る。大栗のホルンの使い方は独特で、やはり自分の楽器はカワイイのか、とかく「おいしい」(笑)
ここは、曲が云々より、雄大で壮大で豪快なホルンの響きそのものを楽しむ、記念の部分であった。
そして、天国にいるであろう大栗へ捧げる、当日プログラム唯一の、大栗以外の曲。ベートーヴェン作曲、「ゲレルトの詩による6つの歌」から第4曲、「自然に置ける神への栄光」のホルン合奏版。本来は合唱曲だが、荘厳な響きが会場に響きわたった。
続いて、これも珍しいホルン合奏のための「馬子唄による変装曲又はホルン吹きの休日」で、馬子唄にあわせ、ワーグナー、ドボルザーク、ホルスト、チャイコフスキー、R.シュトラウス、ストラヴィンスキーと、古今東西ホルンの名旋律ドン! 的な内容に、「変装」というだけあって、奏者にいたずらをする馬子とお馬の小芝居までついて楽しいもの。初演では馬子は大栗本人がやったのだとか(笑) 小芝居はちょっと間が開くかなーとか思いつつ、譜面がそうなっているのなら仕方がない(^^;) ホルンの人がちょっとした打楽器をやるのも、見物。この曲は現在、大栗裕記念会の事務局長で、当日のコンサートの発起人でもあり、元大阪フィルの首席ホルン奏者の近藤望氏(ソロ)のために書かれたものだそうである。
そして大栗といえば、マンドリン。長く指導していた関西学院大学マンドリン部のための曲がたくさんある。今回はその中から、部歌と、時間的に短い舞踊曲が。マンドリンオーケストラのために大栗の書いた曲は、シンフォニエッタのシリースや音楽物語シリーズで、演奏時間で30分以上もあるので、一品料理が出てくるのは仕方がない。下記する小狂詩曲にも通じる旋律からはじまる、とても憂愁を帯びた名品。マンドリンの合奏でリズム(変拍子)が強調される大栗節は、技術的にも難しいと思われるが、逆にトレモロとピチカート主体の音響からスリリングさが引き出されており、なかなか面白い。特に、マンドリン界ではメジャーな大栗を、吹奏楽やオーケストラ界でしか大栗を知らない人にも知ってもらえる好機であったろう。
第1部最後は、やはり吹奏楽。コンクール用に書かれた小狂詩曲と、代表曲吹奏楽のための神話。演奏時間の関係か神話はカット版なのが残念だったが、コンクール課題曲と合わせてコンクールバージョンを意識したのかもしれない。小狂詩曲は本当によく書かれた曲で、時間も7分ほどもあり、というか7分でこれだけ内容豊かな狂詩曲になるのかと感心する。これが当時のコンクール用の課題曲だというのも。神話は言うまでもなく、大栗どころか、現代日本吹奏楽界そのものを代表する名曲中の名曲である。大阪市音楽団もさすがの演奏。
第2部はいよいよオーケストラ。
まずは、箏曲との合奏である……というか、高名な六段をそのまま箏曲合奏とオーケストラ伴奏に編曲した、六段の調。これは、伊福部昭の鞆の音や、古くは山田耕筰の鶴亀にも通じる、オーケストラが完全に邦楽の伴奏をするというもので、司伴楽である。大栗にはいわゆる「編曲作品」もたくさんあり、その中から1曲、という企画。箏曲によりそうようなオーケストラの伴奏がとても見事。
次は、壮麗な管絃楽による珍しいファンファーレ。ふつうは金管のみなのだが、絃楽も入るとより壮麗である。
交声曲「大阪証券市場100年」より 記念祝歌 と 日本万国博覧会 EXPO'70讃歌 は、合唱・独唱付。市民合唱団も混じっているようで、やや発音不明瞭、音量不足は否めない。しかし、貴重な曲であると同時に、特に大阪万博の記念讃歌が大栗の曲だとは知らなかったなあ。
ヴァイオリン協奏曲は大栗の純音楽の傑作であり、日本の同曲の傑作の1つである。時間の関係で第3楽章のみだが、阿波の民族的標題を用いられたリズム処理は聴いていて心地よく、また単なる民族楽派ともことなる現代的な音楽語法は、ここらへんが浪速のバルトークの異名の所以かな、と思わせる。大栗は、こういうのを聴くとよく分かるが、意外に新古典的な音楽作りをする。また、ラストがいい! この素っ気ないラストこそ、新古典楽の面目躍如かと思われる。
そして、ラストは大阪俗謡による幻想曲の原典版。作曲時の名称は大阪の祭囃子による幻想曲。このスコアを朝比奈がベルリンに置いてきちゃったので、翌年に大栗が記憶を頼りに「作曲し直して」それを1970年に改訂したものが、いわゆる改訂版。スコアが1999年に大フィルに献呈されたとのことなので、現在、原典版として聴ける。
音楽としてはほとんど変わらないけれど、フレーズがやや所々異なるのと、構成とオーケストレーションが異なるていどだが、全体に荒々しい。西洋音楽の例で言うと、まさしく禿山の一夜の原典版とリムスキーコルサコフ版のような感じだ。
一番分かりやすいのは、冒頭の「ブーン、チャチャー」に続く打楽器の 「カッ、タタッ、ドン!」w が、アレグロの前にもう1回入ることかなあ。ここは改訂でカットされたということですね。「カッ」も改訂では無いような。
アンダンテのフレーズも、若干異なる。コーダ前のテーマもややオーケストレーションが異なってトロンボーンのパッセージが前に出ている。
演奏は全体にゆっくりめのテンポで、幻想曲というより交響詩的な、悠揚な面持ちだった。
4/27
しばし吹奏楽を聴きます。まずは奏楽堂シリーズ第4弾。
奏楽堂の響き4
福田滋/リベラ・ウィンド・シンフォニー
開演の音楽
黛敏郎/松木敏晃編曲:映画「天地創造」より間奏曲
日本のテレビ・ラジオ音楽
信時潔:「全国放送開始」
信時潔:「都市放送開始」
深井史郎/松木敏晃編曲:日本テレビ「鳩の休日」
池辺晋一郎/福田滋編曲:「MBS毎日放送オープニング/クロージング」
たかしまあきひこ:「FNNニューステーマ」
黛敏郎/堀井友徳編曲:「NNNニューステーマ」
stage2 ---3人の会の仕事---
黛敏郎/堀井友徳編曲:映画「栄光への5000キロ」よりメインタイトル
芥川也寸志/清道洋一編曲:ミュージカル「みつばちマーヤ」よりみつばちマーチ
團伊玖磨:「おやさと大行進曲」
芥川也寸志/:映画音楽組曲「八甲田山」
1. 八甲田山"タイトル"(原題: 徳島隊中の森雪原)
2. 徳島隊銀山に向う
3. 棺桶の神田大尉
4. 終焉
現代の作曲家
鹿野草平:「ファイヴ・コンビネーション」(2012委嘱初演)
北海道の作曲家
伊福部昭/田野均編曲:「北海道讃歌」 作詩 森みつ バリトン: 佐藤光政
佐藤勝/堀井友徳構成・編曲:交響組曲「札幌オリンピック」
第1楽章「聖火リレー」
第2楽章「スキージャンプ」
第3楽章「ボブスレーとリュージュ」
第4楽章「大回転」
第5楽章「エンディング」
伊福部昭/福田滋編曲:「アメノウズメの舞」(1963)映画「わんぱく王子の大蛇治」より
このシリーズは貴重な音楽が聴けてとても面白いのだが、マニアックすぎて着いてゆけない部分も多いw
また、つめこみすぎてミッチミチな内容が、非常に窮屈に感じられる嫌いもある。今回は、数は多いが演奏時間が短いものが多く全体で62分と聴きやすかった。曲のカットも無い。
ニュースのテーマとか放送開始とか、まずマニアックだ。昔はこういった音楽に普通に当代の作曲家が仕事をしていたが、いまではオーケストラそのものが経費削減で使えず、まことにつまらない仕事になっている。かつてはこのような「現代音楽」が、ニュースの冒頭を飾っていたという事実を、知らなくてはならない。とくに黛の音楽は見事だった。オリジナルもYouTubeで聴ける。編曲もうまい。
続いて、今シリーズの主幹である3人の会の仕事。これも、吹奏楽に限るとどうしても芥川が苦しいのだが、編曲で勝負している。それでも絃楽が主体の芥川作品を吹奏楽にしても、個人的には聴くに耐えないのだけれども。珍しいマーチは元気溌剌でとても良かったが、八甲田山組曲はオケでの録音もあるし、あまり魅力あるプロではなかった。(編曲物として)響きも悪い。團の対位法が存外見事な大行進曲の相変わらずの安定度は別にして、栄光への5000キロは独特のマンボ感が大編成の吹奏楽ではにごるかなと思ったが、編曲も演奏もうまく、面白かった。
恒例の若い作曲家へのオリジナル委嘱、今回は鹿野による面白いリズムの音楽。響きとしては、目新しいものは聴こえなかったが、特にこだわったというリズムはよく効果的にできており、かつ分かりやすく、面白かった。8分という時間も吹奏楽では長いほうだが、まずまず飽きさせなかった。緩急の対比もうまい。
トリは北海道の作曲家として、佐藤勝と伊福部昭。
さてしかし、録音に入り辛いのを回避するためとはいえ、北海道賛歌のマイクは萎えた。これはいかんわ。しかも歌がまるで歌謡曲。下手とかいうのではありません。マイクなのでよけい昭和歌謡。広く道民に親しまれる歌、というのを意識したのかどうか。それにしても、ちょっと参ったw 笑っちゃった。苦笑草不可避w 会場で聴いていたら、顰蹙を買っていただろう勢いで萎えた。
比較して、佐藤の札幌オリンピック組曲は上出来。3の東京オリンピックとの対比も良いし、札幌五輪40周年というのも記念である。堀井の編曲もうまいです。吹奏楽の仕事もだいぶん慣れてきましたかね。また音楽も珍しいし、時間的にも聴きやすくかつ聴き応えがある。
シメは、3で時間の関係で演奏できなかった(笑) わんぱく王子のおろち退治からアメノウズメノ踊り。これはもともと、ほとんど管打アンサンブルのようなものだから(中間部に絃も活躍するが)違和感はない。
奏楽堂は改修のためしばらく使えなくなり、かつ、今後は大規模な編成の演奏会も難しくなるとのことで、今後続けるとしたら、異なるシリーズで続けるという。つまり、これは「奏楽堂の響き」最後のシリーズとなった。そのシメをアメノウズメの舞というのが、なんか、華やかにお開きという感があって良い。
4/25
プレミアムシアターの続き。
ヤルヴィ/パリ管にて。
ラヴェル:「組曲“クープランの墓”」
モーツァルト:「ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491」(ピアノ)アンドレアス・ヘフリガー
ストラヴィンスキー:「バレエ音楽“春の祭典”」
ドビュッシー:「牧神の午後への前奏曲」
秋田のクラリネット吹きの友人が、同番組にて、ドイツとフランスという間逆の木管の響きを楽しんでいたようだが、たしかに、いかにマーラーとラヴェルとはいえ、クラリネットやオーボエがもわーんとしている(笑) 面白いものですねえ。
ラヴェルは本場も本場。むしろヤルヴィの腕前拝見という感。繊細すぎず、しかし、かなりデリケートに鳴らしていました。ラヴェルはやはり、絃や金管より木管が面白い。特にこの曲はね。ファゴットのお姉ちゃん素朴美人。この美人があとでハルサイを吹くのかと思ったらフヒヒ。
モーツァルトは逆に、憂いをおびたような木管の響きが、ちょっとちがうモーツァルトを聴かせる。ピアニストは詳しくないが、ヘフリガーは技巧派っぽく聴こえたので、対比も面白い。
さーて皆さんお待ちかねー(古) パリ管のハルサイの時間でございます。
冒頭のファゴットソロ、お姉さんじゃなくてヒゲのおっさんwww
1部は全体にテンポがゆっくりめで、しっかりと、いや、じっくりと刻んで行く。ハルサイは楽譜の見た目も美しく、音符すらアートの素晴らしい作品。この力強さは、アメリカの颯爽としたものや、ドイツも生真面目なものとは異なる、野趣すら感じさせる。エスプリとリリシズムだけがフランスではない。ロシア的野蛮さにすら共感を覚えるフランスの野味。
しかし、乱暴とかではなく、ヤルヴィの指揮はむしろ繊細を極める。繊細というか……丁寧というか。それでもこのスリリングさは、見事。個人的好みとしてワーグナーチューバはもう少し鳴ってほしかったけど、譜面上は、他の楽器がフォルテシモなのに、ワーグナーチューバはただのフォルテなんですよね。
2部冒頭の、茫洋として荒涼とした夜の風景も、どこか野太い。ここをね、いまにも死にそうなか細くやると、ちょっとちがう。
そして改めて、この曲ではホルンが神のように扱われているのを認識した。
2部もかなりゆっくりなテンポで、それでも緊張感があるからスリリングなのには変わりない。激しいリズムの部分も、どちらかというと、すっ飛ばす演奏が多い中、地味なまでに確実に進む。きっと、じっさいに踊りがついたら、これくらいのテンポでないと踊れなかったのかな、と思わせる。骨太な演奏。満足。
最後は、というか、なんでか最後に牧神w 後半プロの最初に牧神やって、そのままハルサイでおわればいいだろが。
こういうプロは、日本ではないような? フランスらしい、ドビュッシーへの経緯か。
思うに、ドビュッシーなんて、本場のフランスのオケや指揮者が、意外にがっしりとした、しっかりとした演奏する。海とかも。変に恍惚感をだしたり、陶酔感をだしたりしない。普通の、ドイツ音楽みたいな、音楽は音のみによってます的な(笑) 純粋音楽みたいな響き。どちらにせよ、ハルサイの後では、しっかりとクールダウン。
4/20
前回の更新から何もせず、4か月と20日が過ぎてしまったw
このままでは夏すら超えてしまいそうなので、何かしら書きます。
先日、BSプレミアムのプレミアムシアターでクラシック音楽があって、録画した。詳細は以下の通り。
リッカルド・シャイー指揮/ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団演奏会
グリーグ:「ピアノ協奏曲 イ短調 作品16」 (ピアノ)ラルス・フォークト
マーラー:「交響曲 第5番 嬰ハ短調」
<アンコール>
ブラームス:「ワルツ 変イ長調 作品39 第15」
〜ドイツ ライプチヒ・ゲヴァントハウスで収録〜(2013年2月22日)
パーヴォ・ヤルヴィ指揮/パリ管弦楽団演奏会/アンドレアス・ヘフリガーPf
ラヴェル:「組曲“クープランの墓”」
モーツァルト:「ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491」
ストラヴィンスキー:「バレエ音楽“春の祭典”」
ドビュッシー:「牧神の午後への前奏曲」
〜フランス・パリ サル・プレイエルで収録〜 (2012年11月7日、8日)
正直、ピアノ協奏曲とかはすっとばして(笑) まずはマーラー。
5番なんかも、もう150回くらい聴きまくっているような曲だが、やっぱりいい。なによりオケがウマイ。超ウマイ。冒頭から金管がウマイ。絃に底力がある。合奏が崩れない。どんなにフォルテの部分でも金きり音にならない。
シャイーの指揮も意外にメリハリがあって、前の全集よりずっと活き活きとしていて最高だ。マーラーの旋律美をよく出している。5番だからって、マーラー特有のホモフォニックな部分を無視する必要もない。1楽章でいきなり燃え上がっている。2楽章もいい。だらけがちな3楽章も、面白く仕上げていた。ここがだらけるのですよヘタな演奏は。
4楽章なども耽美の極致でむしろ良い。ここを、嫌がる人もいるけど、ベターなところはベターにやらないとね。5楽章フーガの迫力! 弓から煙が出そうな絃楽。金管も顔を真赤にしての熱演。このレベルの人達がそこまで気合を入れる意味。マーラーはそうでなくては、「鳴らない」曲なんですよお。
演奏ももちろんだったが、海外の1流オケの「底力」を再認識した。かつて、柴田南雄は著書で、マーラーはアマオケでも絶対ナマにかぎるって書いてたけど、当時はレコードしかなかったし、マーラー特有の楽器法を味わうには、レコードでは難しい部分もあっての発言だったろう。現代では、アマオケなんて論外。こういう言い方は良くないが、プロオケでも、日本のオケでマーラーは聴きたくない。下手というより、ヘッロヘロなんだもん。最後まで音が持たない。
ハルサイは後日。
1/2
みなさま、明けましておめでとうございます。昨年より、すっかりこのコーナーも下火になってしまいましたが、たぶん今年もそうなるでしょう。
マーラーも新譜も、ほとんど買わなくなりましたし、なによりテンシュテットの新譜が出尽くした感があり、仕方がないのかもしれません。ショスタコーヴィチも、もう足をほぼ洗いました。
そんなわけで、本当に気になるものだけを少しずつ買う様になってきていると自分でも感じています。また、昨今は次々にCDの次のメディアの模索が始まっており、ナクソス・ミュージック・ライヴラリー等に見られるインターネット配信専門音源、また、ユーチューブやニコニコ動画などでの、廃盤や未CD化音源の配信など、時代は進んで行っており、新譜CDのレビューコーナーというもの自体が、成り立たなくなってきているのかもしれません。
(そうなると、音楽雑誌などという古色蒼然としたものは、ますます用を成さなくなってくるのでしょう。)
というわけで、皇紀2673年、平成25年、西暦2013年の一発目の新譜は、我等が敬愛するラドミル・エリシュカ氏の新譜、昨年4月の札響の定期演奏会の模様より、ドヴォルザークの第9交響曲「新世界より」と、交響詩「野鳩」です。
エリシュカの演奏会も2010年までは行ってたんだけど、ここ数年は行けず終い。お歳がお歳だけに、行けるときに行っておきたいのだが、なかなか……。
ドヴォルザーク:第9交響曲「新世界より」 交響詩「野鳩」
エリシュカ/札幌交響楽団 2012.4.27-28 ライヴ
新世界よりなどという曲は、その 「分かりやすさ」 も手伝って、日本では通俗名曲などと呼ばれる理不尽な決めつけの最右翼であり、それを意識してか最近はお涙ちょうだいや変な浪花節的盛り上がりを避けたサラッとしたものが多い。逆に、欧米の高名指揮者の古い録音などは、もうこれでもかとコッテコテで、いかにも西洋音楽だが。さて、いわゆる本場のエリシュカの棒は如何に。
尾高忠明の面白いインタビューがあって、いつぞやの札幌交響楽団の定期演奏会のパンフにあったのだが、新世界よりは日本ではそのような理由で分かりやすい、演奏もしやすい(アマオケでも比較的容易に演奏できる)曲というイメージだが、それをイギリスでやると、驚かれる。「新世界だから、1日で合わせちゃうよ」 などとBBCフィル(だかどこだかのオケ:失念)で言うと、 「オタカ、何を言ってるんだ、新世界が1日で合うわけないだろう、真面目にやってくれ」 と返される。
つまり、新世界は、ヨーロッパでは異国情緒の 「難曲」 で、どう表現したら良いのか、難しいのだそうな。確かに2楽章は五音音階だし、チェコの語法は、いわゆる西欧(イギリス、ドイツ、フランス、イタリア音楽)とはかなり異なっているらしい。むしろ、日本人の感性が、チェコの音楽とふしぎに合っていて、新世界も我が祖国も、すんなり入ることができて、モルダウなんかも大人気である。新世界の2楽章やモルダウは、日本人なのに酷く郷愁を誘う。これは考えてみればとてもふしぎな事だ。
エリシュカでは既にドヴォルザークの5、6、7番が演奏され、録音されている。我が祖国の全曲も、最高の音楽が残っている。私はチェコフィルの我が祖国の大ファンでCDもたくさん集めているが、チェコフィル以外ではマタチッチ/N響が唯一聴けるものだったが、それをはるかに超えてエリシュカ/札響は迫ってきた。
従って聴く前から、かなり想像はできたが、やはり聴けば想像を超えてくるものがあった。実演ではさぞやだったろう。行けなかったのが惜しまれる。
そもそも技法から言っても新世界よりは循環形式を巧みに利用したもので、サン=サーンスのオルガン付に匹敵する、いやそれ以上のテクニックが使われている。ただ、耳に馴染みやすいというだけで、通俗とは、日本人というのはどこまで驕っているのか赤面も甚だしい。
1楽章冒頭から、シベリウスのように絃が深く、ティンパニはドイツ音楽のように重々しくも叩き散らさない。フレーズは、独特の伸びがあり、金管は粘る。それでいて貫かれる透明感。テンポは泰然として攻め込んでくる。
冒頭3分。
こんな新世界、聴いた事ねえw
相変わらず、いい仕事してますねえ〜(笑) ドヴォルザークの中のワーグナー趣味も充分に引き出されている! ブラームス的構成もよく出ている!
悠然と進む様は、マタチッチをも彷彿とさせる。ターリヒ、スメターチェク、アンチェル、クーベリック、ノイマンとチェコの名匠は数あれど、エリシュカはそれに負けていない真の現代の巨匠の中の巨匠。エリシュカのマーラーを聴いてみたかった。
2楽章の陶然とする有り様はどうだ。こりゃまた。変に旋律を演歌みたいにする事も無く、淡々と鳴らす様子は、逆に望郷の念をいや増す。木管の茫洋とした響きよ! 絃楽器の悠久の味わいよ!
ラストの寂寥感たるや、寒けすら覚える。
3楽章の舞曲も素晴らしい! 80代のリズムかこれが。見落とされがちな絃楽の裏旋律。トリオの伸びやかさと言ったらもう。
4楽章も生き生きとしたリズムが嬉しい。ノリノリである。シンバルはいい音だった。メゾフォルテだからして、大きすぎず、小さすぎず。クラリネットのソロも高貴だ。受け取る絃楽の伸びもいい。ラストのワーグナーの楽劇ばりの壮大さは、笑っちゃうくらい(笑)
こんな演奏を日本で聴けたとは! 日本のオーケストラからこんな音が出てくるとは! なんで自分は行けなかったんだろう! クッソ! クッソ! クッッソ!!
カラヤンだ、クレンペラーだ、あんなものは新世界ではなかった! 本場だとか言う次元の問題ではない。これが本物。本当の新世界より。
比較してもしょうがないけど、尾高さんの新世界とは次元がチガウよー。
で、併録の、マニアックな交響詩「野鳩」であるが。ドヴォルザークの交響詩は全てこの大傑作新世界よりの後に書かれているのがミソなわけですが。交響詩を5曲も書いている。「水の魔物」「真昼の魔女」「金の紡ぎ車」「野鳩」「英雄の歌」の5曲で、ほとんど民族的叙情に満ちたもの。リストへ・ワーグナー趣味への回帰だろうか。
やはり録音が少ないので、こういう演奏は貴重な機会である。
しかし、これがまた暗いwww
こんな暗い曲だったっけ? あまり聴いたことは無いけれども。そういう演奏なのかな。
ドヴォルザークは新世界よりの作曲の後、ヨーロッパに戻り、昔から愛好していた民族的詩集「民話の花束」に基づき、交響詩を次々に作曲した。その4部作の4番目で、夫を殺して、あまつさえ亡き夫を忘れて新しい男(元々愛人関係にあった)の元に行く不逞の未亡人を、野鳩となった亡夫が訪れて呪うというもの。未亡人は野鳩の声に発狂して川に身を投げる。
死の主題、未亡人の主題、裏切りの主題、結婚の様子、時が過ぎて幸せな様子、亡夫の墓の上に生えた樫の木に止まる白い野鳩の主題、そして悲劇。エリシュカの棒は実に明確かつ劇的だ。
ドヴォルザークはもしかして、スメタナの交響詩に畏敬を表してこういう音楽を最晩年に書いたのだろうか。しかし、交響詩は元のストーリーを理解していないと、なかなか何をやっているのか分からない嫌いもある。形式とかをストーリーに合わせて無視しているから。
とにかくエリシュカは一貫してこのマニアックな音楽を、メジャー交響詩に負けぬ音楽へと昇華している。さすがだ。
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