12/30

 今年最後の更新は、エリシュカ/札幌交響楽団の新譜、チャイコフスキーの4番と、ドヴォルザークの絃楽セレナードを。

 正直、ブラームスが個人的にあまり好きな作曲家ではないので、エリシュカの札響シリーズもブラームスは集めてない。そのうち、集めるかもしれないが。あと、どういう経緯か分からないけど、東京校正ウィンドの吹奏楽の新世界もパス(笑)

 それ以外は、全て聴いている。特に我が祖国とドボルザーク後期交響曲群は、これまでのどんな指揮者やオケからも聴いたことの無い全く新しいアプローチと演奏で、こんな新鮮な感動を生きている人から与えられるとは、とても有り難い体験であると認識している。昨年のCD雑記で、エリシュカのドボ8の感想に下記のようなことを書いたが、我ながらうまい云い方なのでw 引用する。

 「背脂たっぷり、というものではないので、そういうのが好きな人は、そりゃ物足りないと思うだろう。しかし牛骨出汁の味がしっかりとしたコンソメスープだって西洋料理なんだぞと認識させてくれる。」

 それは、チャイコフスキーもそうだ。

 チャイコフスキー:交響曲第4番
 ドヴォルザーク:絃楽のためのセレナード
 
 ラドミル・エリシュカ/札幌交響楽団 2016ライヴ

 チャイコは、6番のときもその透明さ、叙情感、たっぷりと唄うフレージングと、ここぞという音響の力が、自分にとって全く新しい表現で、とにかく感動した。もっと豪快でこってりで上手な演奏は山ほどあるが、それらにはない音作りに感動した。

 それは、この4番でも変わらない。とはいえ、札響もずいぶんエリシュカに鍛えられ、特に金管が鳴るようになった。札響の金管といえばですよ、とてもマーラーなど聴いてはいられないレベルであったが、ここまでスカッと音が出て、たっぷりと歌うことができるようになるとは。外人のような、ここぞという底力的パワーはまだだが、それは、札響に限らず日本のオケならどうしてもつきまとう命題であるし。

 というのも、4番は冒頭から燦然たるファンファーレであり、ここが鳴らなくてはチャイコの4番は冒頭からいきなりカス演奏になってしまう。

 ズバアー! と突き刺さるような音ではなく、ふあわっと包み込むような、それでいてスカーン! と、すっきりしたアンサンブル。たっぷりとしたテンポで、歌い、絃がじわっとかぶさってくる。ここだけで、もう他のどの演奏とも異なる。ヤナーチェクのシンフォニエッタの冒頭にも通じる藝。

 それから第1主題。チャイ4の1楽章は、全体の半分近くを占める頭デッカチな構造で、1楽章で全体の方向性がきまる。ここで、遅いというわけではないけども、エリシュカのたっぷり感はなんなんだろ(笑) 優しさ、慈愛なのだろうか。クレンペラーやムラヴィンスキーの厳しさとは対極にある。また、この、第2主題の軽やかさといったら。展開部の長いこと(笑) マーラーかよ! 時折入るエリシュカの足音(?)も、気合の現れ。85歳をこえ、引退どころかますますやる気充分という。これまで不遇だった反面、ここにきて地球の裏側の日本でブレイクという巨匠の、栄光ある輝き! 

 冒頭のファンファーレが再現されてからの、第2展開部。ここからが、ちょっとだれる演奏が多い。しかし、エリシュカは不思議な緊張感と推進力を、ここからだといわんばかりに生む。分かっている。展開部の最後の方も気を抜かない。フレージングに遊びがなく、それでいて自由にたっぷりと、札響の響きを操っている。

 再現部においての、ちょっと厳しさを増した表現もよい。そこからコーダへ向かい、最後の和音の伸ばしも、大きく伸ばして堂に入っている。

 2楽章アンダンティーノの、哀愁漂う感じはどうだ。そしてこのたっぷり感(笑) 札響絃楽陣の面目躍如。各旋律の歌い方やつなぎ方が、まったく無駄が無く自然なのは変わりが無い。

 それは3楽章も同じ。この短いスケルツォは、ほぼ全て絃楽のピチカートで構成されている。ここでエリシュカは、速度を通常通りというか、けしてこれまでのようなテンポ感ではなく、素早く展開させる。これは、驚く。これまでのたっぷりは、けして老人の遅さだったのではなく、藝術的表現であえて遅かったのだと気づく。トリオの管楽器の切れの良さも良い。冒頭に戻り、切れ味の良いピチカートが戻る。

 そして終楽章。ここにきてこの音量! バスドラ(笑) そしてこのスピード感。アンサンブル完璧。素晴らしい。これが札響か。そして、ロシア民謡「白樺は野に立てり」の主題。トライアングルチンチン。そしてロシアのオケもかくやという金管のズバズバ音。やるじゃん! ロンド形式により、めくるめく主題群。後半になって、テンポのゆったり感が戻り、一気呵成にコーダへ向かう。その豊饒な音響は、いかにもロシア音楽。その力強さ、とても85歳の指揮とは思えぬ。

 ブラボー必須の名演。

 続いてドヴォルザークの絃セレ。絃セレでは、別格にチャイコフスキーが高名だろうが、たぶん次に高名なのがドヴォルザーク。というか、この2曲が別格か。

 正直、ドヴォルザークの絃セレを聴くのは、初めて。あんまり興味のない分野なので。当曲に詳しい人の記述を見るに、技術的にかなりの難曲なのだそうである。しかし、もともと札響の絃楽は定評があり、さらにエリシュカに鍛えられているので、オケも指揮者も、ここぞというタイミングでの演奏そして録音だったのだろう。

 セレナードなので、5楽章制。演奏時間は、30分ほど。

 1楽章モデラートから、優しさと愛情が滲み出ている。フレージングのたっぷり感は変わらない。高絃と低絃のかけないの自然さよ。中間部の舞踊の、素朴なボヘミアの歌ながら、どこか高貴さもある。

 2楽章は「ワルツのテンポで」とある。スケルツォ(3拍子)ながら、テンポ感はワルツで、ということだろう。この切なさ! そして札響の絃の美しさよ。中間部と前後半との3部形式の描きわけの妙は、1楽章と変わらずうまい。

 3楽章、ヴィヴァーチェであるが、このテンポ感はたしかに難しそうだ。アンサンブルといい、音色といい。そしてその中にひそむボヘミアの気質。ここを描ききるには、単にヨーロッパ人の指揮者でも難しいと思う。単なる西洋音楽とは異なるアプローチが必要になる。意外と新世界の2楽章が欧米では「難曲」とされているのは、そこら辺にあるのかと。(異国的な音階とフレージングが、西洋音楽の流儀によらないので難しいようである。)

 4楽章はラルゲットと珍しい。緩徐楽章のようにゆったりと鳴らすエリシュカ。絃楽の美しさがいや増す。いやあ、ここの耽美的な表現はすごいな。この演奏の白眉ではないか?

 5楽章はフィナーレで、アレグロ・ヴィヴァーチェ。ノリが良く、かつアンサンブルが乱れず、急ぎもせず、完璧なプロポーションとフレージング。急と緩を繰り返し、演奏によっては繰り返しがだれるかもしれないが、エリシュカはそれぞれをしっかり描き分けて、飽きさせない。終わる……と思わせてのコーダも憎くうまい。にくうま。


12/25

 ゴースト騒動で、いちやく世の人となった新垣隆。技術的に実力ある人なので、いろいろと委嘱で新作を造る機会があって、私は早くオーケストラ作品を聴いてみたくてしょうがなかった。

 というのも、今はもう無いかもしれないが、この人の自作自演のYOUTUBEは、完全な劇場型の実験音楽で、現代音楽をも超えたような、狂ったような衝撃的作品だったから。それをオーケストラで音響大爆発でやってくれるものだと。

 結果から云うと、なかなか、商業的な理由もあってか、そうはならなかった。

 新垣隆:交響曲「連祷」−Litany−
 新垣隆:ピアノ協奏曲「新生」
 新垣隆:長るる翠碧

 新垣隆/東京室内管弦楽団/新垣隆Pf 2016ライヴ

 新作交響曲について、くわしい紹介はいずれ交響曲のページでするとして、ここでは、軽く。

 これは、色々と賛否あると思われるが、自分としては、やっぱり、旧作である佐村河内名義の「HIROSHIMA」交響曲の短縮カット版にしか聴こえんな……ということ。ツイッターの知人は、「改悪」とすら云っていた。3楽章制で、全体の演奏時間は約40分。現代交響曲でこれだけあればむしろ大曲の部類だが、なにせ旧作がその倍の80分なので、短縮版としか云いようが無い。

 たしかに、ヒロシマは長い。無駄に長い。長いが、その分ドラマがある。苦悩の部分と、聴きやすい部分とがあって、表層的な演出だとしても、藝術的だ。大衆へ媚びていない。ラストでは媚びるのだが、とにかくその規模で、聴く人を完全に選ぶ。だから、あんなにウケるとは、本人たちも思っていなかっただろう。それへ比べて、こっちは、耳障りのよい部分だけを取り出したように聴こえる。

 まったく違う作風なら、こんな感想は出てこない。私が、三善晃ばりの音響大爆発カオス爆弾を期待したのは、そのためだ。

 そういうオーダーだったのか、なんなのか、新垣の本当に作風はこっちなのか、曲だけ聴いてもよく分からないが、とにかく、技術的にはそりゃ確かな人だから悪くはないが、なんだかなーという曲だった。迫力もないし、狂気的な部分もない。その意味で、藝術作品ではない。規模の大きな通俗ナントヤラだ。

 その反面、意外や、ピアノ協奏曲の方がよい。

 こっちこそ、新垣名義の初オーケストラ委嘱作ということで、もっとベターな作風かと思っていたら、ベターな中にも、けっこう現代技法が見え隠れして、ほほう、と思った。またピアノもソロイスティックな超絶技巧で、聴かせる。演奏時間は3楽章で20分ほど。新古典的な規模であるが、内容はロマン派から近代にかけて、といったところ。モダン手法ではないが、モダン手法を応用したという聴感を与えてくれた。

 最後の小曲は、武満へのオマージュで、そんな曲風。武満といっても、後期の叙情系なもの。特に「系図」という曲の響きが聴こえてくる。


12/10

 なんとか生きてます。

 夏の更新から一気にもう師走だが(^ω^;) まさにキング・クリムゾン状態。時空がぶっとんでしまっておる。

 不気味社の夏の新譜で、伊福部昭を演奏してみた、の第2弾があり、ようやく聴く。

 これは昨年の国有林を演奏してみたに続くもので、伊福部家に楽譜は残っているが音源が無いか、あっても音質が悪いものを、不気味社がオーケストラを編成して、演奏してしまったという素晴らしい企画。

 八尋健生/ウヰアード管絃楽團

 伊福部昭:社長と女店員
 伊福部昭:Kong No.28
 伊福部昭:レ・ミゼラブル あ々無情
 伊福部昭:釈迦

 「社長と女店員」は、伊福部には珍しいコミック映画ということで、そのタイトルはなんと、ゴジラとテーマを共有している。伊福部クラスタには、けっこう高名な話で、YouTubeにもタイトルロール動画が上がっているので聴くことができる。高名な話なので、いまさら伊福部ファンは指摘しない。

 ところが、ここのところのシン・ゴジラブームによる伊福部リヴァイバルで、ダボハゼネット記者が、ゴジラのテーマの元ネタはコレだ! 的な、さも新発見したみたいな記事を陳腐なニュースサイトに上げ、伊福部ファン、ゴジラファンの失笑を買っていた。哀しいのは、そういうのを知らないレベルの一般の人あるいは伊福部初心者は、別にゴジラのテーマと社長と女店員のテーマが同じだからなんだという反応であろうし、そういうのへ食いつくレベルの伊福部ファンにとっては、周知の事実なわけで、呆れられると同時に、不確かな情報でウソ記事を書きやがって、一般の人が誤解するだろと怒りすら買っていたのである。

 その、社長と女店員、いきなり燃え燃えである。ゴジラと共通するテーマを使いながらも、スネアドラムの、弟子の芥川也寸志めいた小刻みが特徴的。展開も、当然ゴジラと違う。

 次が、キングコング対ゴジラの、没テーマとのことだが、豪天号のテーマとの共通性が認められる。短い。

 次が映画、レ・ミゼラブルから12曲。これは、現在見ることのできるバージョンでは音楽が差し替えられており、伊福部曲ではないのだそうだ。ここでは、ビクトル・ユーゴーの原作により、日本へ舞台を置き換え、神と人間愛がテーマの重厚な作品となっている。特徴的なのは、伊福部曲でありながら、賛美歌の味わいもあるところ。じっさい、賛美歌405番「神共にいまして」の伊福部編曲版を聴くことができる。

 No.4では、オホーツクの海と同じ旋律も聴くことができる。これは、伊福部の祈りのテーマ。続いて同じNo.4で聴こえてくる重厚な合唱は、影絵劇、せむしの子馬他に共通している。苦悩のテーマではないか、とのこと。No.9では、賛美歌と伊福部の苦悩のテーマが交錯する。No.11は女声ヴォカリーズによるレクイエムのようだが、ララバイであるという。

 そして、伊福部編曲の賛美歌の、なんと美しいことよ……! やわらかな金管、合唱と一体となるオーケストラ……。神々しくも、ふくよかな人間味ある響き。まさに福音。素晴らしい。

 続いて、釈迦は、バレエ音楽、映画、そして最後にそれらを再構成してオーケストラ・カンタータとして交響頌偈となる。その映画音楽の、下書き譜の蘇演である。従ってヴァイオリンとピアノ。また、後半には没曲の蘇演。

 まずプレリュードという曲から始まる。まるで、完成された伊福部室内楽のよう。スケッチにしては完成度が高くないか。

 No.27「ダイバダッダ」は、本編未使用のライトモティーフ(推測) こういうほぼ完成に近いスケッチをあらかじめ大量に用意し、伊福部はそれを「素材」として、あらゆる映画のあらゆる画面へ自在に曲をつけて行ったのだろう。またそうでもしないと、とても短期間で大量の注文をこなせなかっただろう。No.29「仏陀の帰還」なども、神秘的な和声と土俗的な主題の妙が素晴らしい。

 No.33とNo.34は、ヴァイオリンの音程を5度下げて演奏する指示があり、まるでヴィオラとヴァイオリンの中間のような、なんとも不思議な響き。不安定さ、物憂げさなどを表現している。

 そして、未使用のマータンガの唄と、本編使用曲ながら音源が存在しないので、あらためて演奏したクナラの唄。この2曲がまた良い。ハープとソプラノによるヴォカリーズでルルルー〜と唄われるマータンガの唄。たぶん他の映画にも使われている旋律なのだろうが、私は初めて聴くもの。クナラの唄は、バリトンとハープによる悲哀に満ちつつも、真理を得たクナラの力強い意志を唄う。これも、私は初めて聴く旋律。


7/18

 海上自衛隊東京音楽隊の第55回定期演奏会の模様が、出物だったので。

 ホルスト:ミリタリーバンドの為の第1組曲
 ストラヴィンスキー:ピアノと管弦楽の為の協奏曲
 清水大輔:交響曲第1番「生命の表記」
 瀬戸口藤吉:行進曲「軍艦」(アンコール)

 手塚裕之/海上自衛隊東京音楽隊/太田紗和子Pf L2016

 なにが出物かというと、吹奏楽の演奏会に豪快でこの斬新なプログラム。当年の2月に行われた最新の演奏と録音である。

 前半はガチクラシック作曲家の手による、吹奏楽オリジナル作品。中でも、ストラヴィンスキーのピアノ協奏曲1番に相当する、ピアノと管楽器のための協奏曲は珍しいもの。

 そして、後半は若手(もう中堅か?)邦人作曲家の手による、オリジナル吹奏楽交響曲という。しかも、最近はこういう大規模なものが流行っているのか、これまた4楽章制40分もの大曲となっている。

 交響曲は、いずれ交響曲の項で詳しく書きたいと思うので、ここではさらっと。

 ホルストのイチクミこと吹奏楽の為の第1組曲は、吹奏楽人にとってのベートーヴェンやモーツァルトというべきもの。ここでは、かなりオリジナルに近い楽譜を再現しているという。というのも、97年まで自筆符が発見されておらず、版によって、けっこう差異があったというのである。

 そう云われると、1楽章シャコンヌの、中間部が少し聴き覚えが無いかも? ホルストらしい確かな構成力と、豊かな響きが、安心感を与えてくれる。演奏ももちろんうまい。2楽章インテルメッツォの手堅い演奏も良い。ここは、軽く流されがちな楽章に思っているので、こう、カチッとやってくれると、新鮮だ。ライヴとは思えぬ安定感も良い。後半の変奏とポリフォニックな公正の際立たせ方も素晴らしい。

 そして3楽章マーチ! さすがの自衛隊、速すぎず遅すぎず、マーチのプロによる、まるで威風堂々にも聴こえる立派な演奏。後半のテンポアップも見事。

 そもそもミリタリーバンド用の曲なので、自衛隊の音楽隊が演奏すると、まことに堂に入っている気がする。

 そして、珍しいストラヴィンスキーの協奏曲。新古典派的作品で、吹奏楽というより管楽合奏。3管編成オーケストラの、管楽器パートをそのまま持ってきている印象。したがって、いわゆるウィンドオーケストラとは異なり、古楽アンサンブルのような、古風な響きがする。そしてそれが、ストラヴィンスキーが本作でねらった効果となる。最新の技術で、古典的な作風を作る。それが、新古典派。

 古楽然とした導入ラルゴから、アレグロになって斬新なピアノソロとのからみ。バッハ的な主題を、恐ろしい変拍子で料理してゆくストラヴィンスキーの技術。ふつうはプロオーケストラの管楽器パートがやるレパートリーなので、吹奏楽団でやるのは珍しい。しかし、ここではさすがにうまい。ピアノもうまい。録音も良いので、しっかりと内部の伴奏の音まで聴こえる。狭窄したアレグロから、いきなりマエストーソの陰鬱な響きになって第1楽章は終わる。

 2楽章も3部形式。明るいラルゴで、まるで追憶シーンのような単純さ。こういう作風で、ピアニストが間違ったかのような不協和音がチラホラ混じってくるのがまた狂っている。じっとりと音楽が進む中、ピウ・モッソで少しテンポが速く明るくなる中、冒頭に戻って静かなうちに終わる。

 3楽章はアレグロから始まる。景気よく進んでゆくとアジタートで雰囲気が変わって、ギクシャクした面白い部分にさしかかる。一瞬のレントを挟んで、ストリンジェンドで次第に速くなって、明るく終わる。

 これが春の祭典と同じ作曲家か、と聴いた人全てが思うだろう、作品。しかし、常に変化を遂げる藝術家の変貌の面白さと、その中にある共通点を見つけると、より作曲家への理解は深まるだろう。

 そして、清水大輔の交響曲。吹奏楽編成で40分もの大作は、常々正気の沙汰ではないと書いてきているが、ここでも狂気的な規模。当初は、半分ほどの規模だったが、大震災で初演予定だったホールが使えなくなり、立ち消えも覚悟していたところ、規模を定めないので完成させてほしいというオーダー。倍の規模となって、4年後に初演されたという。

 1楽章、イントロダクションとテーマ。重苦しい、重厚な冒頭部より、何種類かのテーマが次々に提示されてゆく。形式的には、大きな提示部というか、自由形式でアレグロがひたすらテーマを提示してゆくもの。主題の展開はあまり無い、単純な形式である。半分ほど進んでより、冒頭の導入にも似た重厚な、壮麗な讃歌的テーマが現れて、これが今曲の主テーマなのだという。その後は、そのテーマをカッコ良くアレグロで変奏(というでもないが)させてゆく。コーダは、テーマの民謡的な変奏の後、英雄的なテーマの提示が再現されて、若干の不安も残して終わる。なかなか規模が大きい。

 2楽章はスケルツォ。ここでは、ジャズ、ロック、ポップスなどの要素を含んだ3拍子のスケルツォ。実に吉松チックな展開。そして、実に吹奏楽らしい仕上がり。吹奏楽って、こうだよなあ、という音楽になっている。様々な楽想がコラージュ的に展開して、演奏は難しそう。中間部のトリオでは、静謐な時間が流れるが、また初めの喧騒へ戻る。

 3楽章のアダージョが、もっとも規模が大きく、15分もある。普通のクラシックの交響曲でも15分とはなかなかの規模だ。亡くなった作者の恩人へ捧げたアダージョであるという。だいたい、ブラバン曲のアダージョは、この半分の演奏時間でも響きが単調になり飽きてくるのだが、これは挑戦だ。響きとして勝負するのではなく、各楽器のソロが祈りを捧げてゆくという感じで、考えてある。それへ、打楽器が硬質な彩りを与えてゆく。さらに、ピアノが音色に変化を与えている。ここもかなり吉松っぽい。これで時間を稼いで、次第に昂揚し、バンド全体でコラールが奏でられる。ここを頂点とし、そのまま終われば演奏時間は9分ほどだが、ここからエピローグ的な世界へゆく。ユーフォニウムのソロ、ピアノのソロ、そしてコラール……。長時間の演奏を強いる割に、音色で聴かせる手法が素晴らしい。
 
 4楽章はフィナーレ。讃歌、讃歌。1楽章から3楽章までのモティーフが次々に料理される。加えて沖縄音階の合いの手が面白い。経過部を経て、ラストではなんかちょっと演歌調になるのがご愛嬌だが、ここらへんの平易さは、最近の作曲家ぽい。

 完全に、吹奏楽版吉松隆と断定できる(笑)

 そしてアンコールの軍艦行進曲!! 超本場(笑) 素晴らしい!!! 
トリオ部の「海ゆかば」は、みんなちゃんと歌えるかな? 

 全てが美味しいアルバムであった。


6/25

 久々に、東京佼成ウィンドオーケストラが、邦人オリジナル作品集を出した。すべて2000年代以降作曲の、最新作品集。しかし、すべてライヴ音源というのが、昨今の世情を反映している。かつてはセッション録音で、年に1枚、シリーズで作品集が出ていたが。

 一柳慧:吹奏楽のためのナグスヘッドの追憶(2003)
 中橋愛生:科戸(しなと)の鵲巣(じゃくそう) 〜吹奏楽のための祝典序曲〜(2004)
 高昌師:Mindscape for Wind Orchestra(2005)
 長生淳:Paganini Lost in Wind(2011)
 酒井格:I Love the 207(2010)
 真島俊夫:レント・ラメントーソ 〜すべての涙のなかに、希望がある(ポーヴォワール)〜(2013)
 西村朗:秘儀III 〜旋回舞踊のためのヘテロフォニー〜(2014)
 中橋愛生:陽炎(かぎろひ)の樹 〜吹奏楽のための(2016)

 大井剛史/東京佼成ウィンドオーケストラ L2014 L2015 L2016

 結論から言うと、やはりというか、さすがに、
一柳と西村は別格だ。特に西村の吹奏楽コンクール2015課題曲の秘儀III は、とんでもない作品だと思う。主題の扱いといい、展開といい、吹奏楽オーケストレーションといい、全然ちがう。何がどうちがうと言われても、凡庸な私にはうまく説明できないが、とにかく甘さが無い。無駄が無い。旋律に甘えが無い。シリアスだったらそれでいいのかというと、そうでも無いと思うので、使い分けというか、シリアスさと平易なメロディアスさ、ベタな展開の対比が、面白いのだと思うが、それでも、造りが甘い曲というのはある。また、そういうのがよくウケたりするのも現実だ。

 とにかく、聴き進めよう。

 一柳の「ナグスヘッドの追憶」は、標題音楽ではない。アメリカの友人の別荘へ滞在したとき、そこナグスヘッドが、ライト兄弟の世界初飛行の地だったことに由来した、追憶の抽象音楽。通常の吹奏楽編成ではなく、オーケストラの3管編成管楽器パートをそのまま抜き出したような特殊編成。短い無調の動機を、様々なパートがソロで奏でつつ、スネアやドラの刻むリズムが、無常観を煽る。前半はそんな調子だが、後半は明確な行進調のリズムに乗って、オスティナート的に旋律が小展開しながら繰り返される。こういう、硬派が作曲テクニックが、超一流作曲家の確かさだろう。緊張感をもって、行進は進み、エキゾチックなメロディーが重なって行く。ババーン! と盛り上がるようで、そうではなく、淡々と音楽は終わる。独特のすっきりさは、いわゆるウィンドオーケストラの、分厚いクラリネットがいないからだろうと思う。吹奏楽というより、完全に管楽合奏形態。

 中橋の「科戸の鵲巣」は、まず読めないタイトルをつけるなと言いたい(笑) 中二か。ラノベか。風に関するタイトルを合成したとのこと。カッチョイイファンファーレから始まって、鳥の声を模した部分へ。防衛庁創立50周年記念委嘱作品なので、祝典序曲なわけだが、規模は大きい。ダラダラと、もといじわじわとテーマが扱われるが、大胆な展開はしない。序曲なので、無理にする必要もないけども。いろいろと装飾的な合いの手を挟みながら、一気に、アニメサントラ的な展開へ。ここのスネアドラムの刻みは難しそうだ(笑) そこからコーダとなって、主テーマが戻って豪快に盛り上がる。演奏時間の割りに展開が一本調子だが、祝典序曲ってこういうものであるから、問題はない。

 続いて、高の「マインドスケープ」は、アマ吹奏楽団からの委嘱だそうだが、演奏難易度は高いように感じる。これも、単に心象風景と題された抽象音楽で、具体的な風景を描写したものではない。静かな導入で、そこからマクベス的な、重厚でリズミックな音楽へ。静と動、律動と情緒、急と緩、安息と不安という対比が表現されているという。目まぐるしく曲想は変化して行き、シリアスな調子で進む。そこから静寂な部分、激しい部分、さらには、夢見心地なやさしい情緒的な部分、などが入れ代わり立ち代わりで現れ、時にはそれらが重なって、ラストは衝撃的な一打でしめられる。やや長い。

 長生は若いときより吹奏楽の世界でも重厚な作品を書いてきた人。「パガニーニ・ロスト」と題されたこの曲は、数あるパガニーニ変奏物の1つといえよう。もともと、須川展也のために、2本のサックスとピアノのための作品で、それを吹奏楽化したもの。変奏物といっても、具体的なパガニーニの主題が出るものではなく、パガニーニの主題の変奏のみを演奏しているという印象。原曲がそうだからか、ほとんどサックス協奏曲の趣。速いテンポで、サックスと吹奏楽がやり合いつつ、中間部ではロマン的な装いに。そこからテンポアップし、かなり激しい展開に。これは、難しそうだぞ。調性音楽だが、めちゃくちゃな難易度だ。最後はサックスのキメの一言で。

 酒井の小品「I Love the 207」は、福知山線脱線事故を起こした車両へ乗る人々の、楽しい思い出というものを音楽描写したもの。一般バンドの委嘱だからか、演奏も曲想もやや平易。207系は作曲家も普段使っている電車で、愛着がある。いわゆる鉄道物音楽とでもいえば良いか。具体な描写は無く、すべてあくまで音楽的な表現で進むのがまた良い。

 今年の4月に亡くなった真島の「レント・ラメントーソ」は、死の1年前の演奏で、臨席した作者が特に感動した演奏だそうである。これも一般バンドの委嘱。タイトルからして、真島にしては珍しい、哀調のある曲。作曲家の親しい人との死別を偲んで書かれている。まさか、自分までも死んでしまうとは、作曲当時は思っていたのか、いなかったのか。哀悼の旋律から曲は始まり、進軍調の雄々しい部分へ。しかし、どこか悲壮的な音調にも聴こえる。ピアノが流麗にからんできて、音楽も大きくふくらみ、ここは真島らしい壮大な映画音楽調に。そのまま、感動の大団円といった終結へ。

 続いてこのアルバムの白眉、西村の2015吹奏楽コンクール課題曲、「秘儀III」へ。西村は管楽と打楽器のためのヘテロフォニー「巫楽」がすんごくて、(たしか)巫楽を改訂した秘儀I もある。この秘儀IIIも同じコンセプトで、西村お得意のヘテロフォニーだ。打楽器と管楽器が、舞曲ふうの呪術的な世界を繰り広げて行くが、土俗的ではありつつ、けして泥臭くない。藝術作品として洗練されている。そこがすごい。これを課題曲で取り上げた楽団がいくつあったかは、知らないが、三善晃の「深層の祭」や、間宮芳生の「カタロニアの栄光」のように、純粋な現代音楽の鑑賞作品として充分に耐えうるレベルの曲を勉強できるというのは、そうそうあることではない。5分という短い演奏時間の中で、音楽はどんどん重なり合い、ずれてゆき、打楽器も激しく、トランスして行く。すげえ。このあとに自由曲をやる精神力が、残っていたのだろうか。その意味では、忌避されるのは、わかる。

 最後は、また中橋の「陽炎の樹」である。「かげろう」じゃなくて「かぎろい」なあたりが、やはり中二病だ。東京佼成ウィンドオーケストラの委嘱による。3楽章制で、能天気な印象の中橋にしては、かなりシリアス。うむうむ、やはり、こういう両方を書き分けられなくてはねえ。1楽章「曙光」 夜から夜明けへと向かう色彩変化を音響で示した。シンとして、凛とした空気感に包まれる樹。2楽章「光芒」は夜明けの光りの線。木管の旋律が重なり合ってゆき、そろそろとユーフォなども旋律を奏でて行く。打楽器の煌きが、いかにも朝の描写。朝日に美しく佇む樹。3楽章「煌宴」では、ついに完全に姿を現した太陽を受けて輝く生命樹。テーマが激しく光り輝いて、オスティナートで盛り上がって行く。主題はほとんど展開しないが、もともと短い曲なのでそんなものだろう。一気呵成に終結を迎える。ちょっとラヴェルの「ダフニスとクロエ」っぽい雰囲気もある。

 昨今流行りの、謎のラノベふうタイトルの中途半端な交響詩みたいなイージーイメージ音楽(クラシックでいうところの、通俗名曲的なもの)とは一線を画した、硬派な曲が並んだ。一般バンドでは、なかなか編成や難易度で演奏は難しいかもしれないが、せめて聴く方は、こういった曲をこそ、クラシックに匹敵する吹奏楽オリジナル現代作品として、応援して行きたい。


3/19

 TBSヴィンテージJクラシックス「戦後作曲家発掘集成」より第4集。 

 大木正夫:交響的幻想「原爆の図に寄せて」(1953)
 大木正夫:「古典彫像に寄する6つの前奏曲と終曲」から5曲(1948)
 大木英子:ピアノと管弦楽のための協奏詩曲「舞い楽」(1961)

 上田仁/東京交響楽団
 森正/東京交響楽団
 山田夏精/東京交響楽団/金井裕pf

 後に改訂されて交響曲5番になる大木の交響的幻想は、高名な原爆の図にインスパイアされた曲で、初演の模様が発見されたもの。なぜか「虹」という第5楽章がカットされている。ナクソスで改訂後の第5交響曲が録音されているので、聴き比べもできる。前作の、交響的幻想のほうがオーケストレーションも荒々しく、しかもモノラルなのでなんとも逆の意味での、当時の白黒フィルムを見るような、歴史的なリアルさがある想いがする。シェーンベルクほどの衝撃や、ショスタコーヴィチほどの暴力性は無いが、このなんともいえぬ日本的なおどろおどろしさ、妖怪的な生々しさ、湿った痛みと恐怖は、日本独特のもの。

 よく分からないが、第4楽章の「水」から、副題のようなものをアナウンサーが読む。これがまた昔の淡々とした読み方で、妙なリアルさがある。もともと日本的な素材を現代風にアレンジする手法の大木であるから、ここでも、フルートが息も絶え絶えな旋律を奏でつつ、どこか尺八のような響きもする、といったふうで。「原子砂漠」の、絃楽によるトーンキュラスターめいた特殊な効果も、心が痛くなる。

 全体でおそらく10分ほど、第5交響曲より短い。

 「古典彫像に寄する6つの前奏曲と終曲」は、その通りの組曲で、ここでは、

 第1前奏曲「法隆寺にて、右金剛力士に寄す」
 第2前奏曲「百済観音に寄す」
 第4前奏曲「救世観音に寄す(夢殿)」
 第6前奏曲と終曲「左金剛力士に寄す〜終曲」

 となっている。第3前奏曲と第5前奏曲はカットされている。ほとんど法隆寺の仏像に寄っており、左右の金剛力士像に挟まれた格好の組曲になる。

 大木正夫は、分かりやすいテーマや発想をなかなかシリアスな技法で料理する作曲家で、ここでも、得てして民族的な、仏像クラシックとでも云えるような、民謡調の曲が出てきそうなタイトルだが、シリアスで重々しい、重厚かつ深遠な音響が迫ってきて心地良い。すなわちここにあるのは標題音楽ではなく、抽象的な絶対音楽で、タイトルは、マーラーで云うところの根源的な標題となる。けして表層的な「表題」ではない。

 3曲と5曲が無いが、全体にアレグロの無い、アンダンテやレント楽章で構成されており、主旋律も無い、技術的には無調とも云える楽曲が並ぶ。唯一、第4曲の救世観音が、前半部に雅楽っぽい流れと旋律が感じられる。最後にアレグロが現れる。雄々しい、ババーンとした音楽になる。そこから終曲となり、第1前奏曲のテーマも戻ってきて、重々しく終わる。

 大木正夫の奥さんである大木英子は、ピアノの名手で、作曲でもピアノ協奏曲を良く書いた。「舞い楽」は、その1つで、2楽章制のもの。第2楽章に「狂言」とある。全体に能と狂言から発想されている。

 1楽章から能の舞台を模した音楽的演出に、リズムが次第に速くなってゆく能の動態を現してゆく。旋律は能らしくシビアで、音列ではないが無調だと思う。リズムが詰まってアレグロになると、締め太鼓が鳴って、木管が旋律を吹く中、オスティナートで空間がキビキビと引き締まる。ピアノが忙しく入ってきてプレストとなり、レントへ戻って終結する。

 2楽章は狂言楽章。アタッカで進み、アレグレットからアレグロ、プレストとどんどんテンポが速くなってゆく。民謡というか、狂言なのかなんなのかは分からないが、大栗裕にも似た民族的な面白い旋律を奏でてゆくが、現代風にアレンジされている。そこからレントへ戻って、華々しい終結も無く、静かに終わる。

 なお、第1集と第2集はオペラとラジオドラマなので、割愛します(笑) これで TBSヴィンテージJクラシックス「戦後作曲家発掘集成」より をの聴感執筆を終わります。かなり盛りだくさんで聴き応えのある企画でした。まだまだ音源が埋もれているので、続きを期待します。ラジオドラマはもうけっこうです。


2/28

 TBSヴィンテージJクラシックス「戦後作曲家発掘集成」より第3集。

 林光:交響曲ト調(1953)
 安部幸明:交響曲第2番(1960)
 石桁眞禮生:ハと嬰へを基音とする交響曲(1956)

 上田仁/東京交響楽団
 
 第3集は交響曲集。

 1曲めは林光。林が22歳の若さで完成させた第1交響曲。正当な4楽章制で、約25分の新古典的内容。また、当時の芥川也寸志などもそうだが、この時代のインテリゲンチャな若者が総じてかぶれたソ連音楽に多大な受けている。受けているが、その中にも日本的な素材をぶちこんでくる。

 序奏なしで弦楽による感傷的な第1主題。フガートで進められる。管楽器が現れてから、第2主題となる。展開部では第1主題が、続いて第2主題が順当に扱われる。かくも新古典的な内容なので、必然、当曲中最も長い楽章。なにより、音色は暗く、シリアスなもの。コーダに近い部分などは、明らかにショスタコーヴィチだ。2楽章はスケルツォで、中間部に林自作の民謡素材が使われているが、響きとしてはドヴォルザークに近い(笑) 転じて、3楽章は実在する青森の民謡が使われている。一気に民謡クラシックとなる。中間部冒頭の西洋的主題が、再現部で民謡主題と重なるという芸当の細かさ。4楽章は明るいロンド。いかにもフランスふうな物。プーランクすら思わせるが、オーケストレーションというか、オーケストラの鳴らし方が、ソ連ものにやはり近い。プロコフィエフ的な。全体としては面白い楽想。

 こんな、いかにも日本を背負った新古典主義的な林が、伊福部のタプカーラ交響曲を酷評して、後年、再評価していたのが興味深い。

 安部は一転して、日本主義的な、民族主義的な日本情緒に反対した。日本人が西洋的に作曲したっていいじゃないか、というもの。それもその通りだと思う。

 そんなわけでこれがまた新古典的な3楽章制21分ほどの、それこそプーランクを思わせるもの。1楽章ソナタ形式で、日本的情緒など、どこにもかつ微塵も無い。元気溌剌な第1主題、おどけた第2主題、盛り上がる展開部、さりげない再現部、しっかりした終結部と、技術的にもお見事としか云いようが無い。2楽章は変奏曲形式の緩徐楽章だが、速い部分がスケルツォも兼ねていると見ることができるというので、フランク流の3楽章形式だ。コーラングレによる鄙びた主題が、変奏される。アタッカで進むプレストの第3楽章は激しい楽想が緩急を繰り返してゆく。

 またまた一転して、石桁の交響曲はなんと12音技術による。ただし、かなりゆるい音列だそうで、ちょっと小難しい普通の音楽に聴こえなくもない。何がどう「ゆるい」のかは、技術的なことはまったく分かりません(笑) しかも、聞いただけでは私はまるで分からなかった(覚えてなかった)が、この曲は後の 「嬰ヘとハを基音とする交響曲(1963)」 の改訂前なのだが、改訂後では基音がひっくり返っているばかりか、楽章まですべてひっくり返っており、中身もかなり重々しくなっている。

改訂前(1956) 改訂後(1963)
1楽章 フガート オスティナート
2楽章 コラール ブルレスケ
3楽章 ブルレスケ コラール
4楽章 オスティナート フガート

 4楽章制で、25分ほどであるから、林などとたいして変わらないが、重量級の内容。なにより主題が音列であるからして、シリアスというか、わけわからんというか。フガートでは重々しい和音と、一種コミカルな調子が交錯する。それにしても、やっぱりフガートには聴こえないけど、フガート技法が12音で書かれているとしたら、こらすごいアカデミック的技術達者かと思われる。2楽章は調性っぽい。コラールと間奏曲。調性っぽいと書いたが、調性のように聴こえるように工夫した音列、といったところかと思われる。音列と言っても、いろいろあるとのことである。美しく、鄙びた雰囲気がとても良い楽章。中間部の間奏曲は、やおらシリアスだが、また平和的なコラールへ戻る。ブルレスケで、滑稽な、これも調性っぽい聴感。かなり音色や楽想が錯綜した、複雑なスケルツォ。最後がオスティナートだが、主題と22の変奏だそうである。ホルンを筆頭とする、音列による主題が現れて、時にオーケストラ、時にソロ楽器と、次々に変奏されてゆく。最後は豪快な音響で一気に〆られる

 ここらは、後で交響曲の項を改稿します。


2/7

 TBSヴィンテージJクラシックス「戦後作曲家発掘集成」より第8集。

 湯山昭:10人の奏者のためのセレナーデ(1959)
 湯山昭:子供のための交響組曲(1961)
 黛敏郎:ラジオドラマ「戦争と平和」(1954)

 第8集にもラジオドラマが。実は第2集にもある。これはもう、完全に責任編集の片山氏の趣味である。

 1954年、黛敏郎がまだ純粋なサヨク青年だった時代の(笑) ラジオドラマにつけた音楽が、ドラマごと収録されている。当時は、戦争反対の空気はいまよりはるかに強い。特に自衛隊の創設につながる保安隊の創設は、日本軍の復活として特に忌避されたが、いまとなってはアメリカ軍に協力する軍事力の復活を嫌ったソ連の工作だったことがわかっている。

 そんなわけでこのドラマも純朴に戦争の恐怖や、厭戦感というものを、直接的に伝えてくる。当時の反戦の空気が、いまとそんなに変わらないというのも発見できる。

 現在の反戦派のやり口が、それほど古くさいという証明にもなる。

 
それにしても説教臭い(笑) 

 こういったラジオドラマは、それだけでまとめた方が良かったのではないか。作曲家集成に入れる必要はあったのかどうか。大いに疑問が残る。ほかに入れてほしい、興味深い曲が山ほどあった。

 で、ピアノ曲や合唱曲がメインの湯山昭の珍しい器楽作品。

 10人の奏者というのは、フルート(ピッコロ持ち替え)、オーボエ(イングリッシュホルン持ち替え)、クラリネット(アルトサックス持ち替え)、ファゴット(コントラファゴット持ち替え)、ホルン、トランペット、トロンボーン、ピアノ(チェンバロ、チェレスタ)、ポリコード・オルガン、打楽器、というもの。

 なんと弦楽器がゼロという。湯山は、いかにもクラシックという音色の弦楽器をあえて外したという意図を書いている。しかし、聴いてみるとこのポリコード・オルガンというのが、弦楽器に相当するパートを担当しているように思った。

 このポリコード・オルガンというのは、複数のコードを演奏できるオルガンという意味の電子楽器だと思うが、現在ではぐぐっても何も出てこない。今のオルガンは当たり前に機能としてできるからだろうか?

 当時の無調・12音音楽の台頭に際し、もっと分かりやすい、しかしまじめな鑑賞音楽を、というコンセプト。だと思う。全5楽章制で、演奏時間は20分ほどの組曲となっている。

 アレグロ・ジュスト(正確なアレグロ)の1楽章は、明るくておどけた調子もあるが、そのとおり意外と生真面目な印象。序曲のようなものということである。2楽章はアダージェット。フルートのソロから始まる牧歌的な緩徐楽章。これは作者の地元神奈川の田植え歌をそれとなく用いているという。それがサックスやトランペットに受け継がれるが、鄙びているというより、どこかモダンな感じがするのが興味深い。3楽章はモデラート・モッソ。おどけた調子の行進曲。中間部では、突如として2楽章の田植え歌が出てきて微笑ましい。ポリコード・オルガンなるものが、なんともいえない安っぽい音で面白い(笑) 今演奏すると、これはどんな音で再現すれば良いだろうか。4楽章レント。ここでも、田植え歌が現れる。しかも、2種類の田植え歌が対位法的にうまく処理されている面白さ。旋律は田舎臭いが、和声や書法がモダンなので、けっこう斬新な響きがする。終楽章はアレグロ。ソナタ形式。装飾的なピアノや木管の導入と主題提示から、ちょっと不思議な印象を与える神秘的な主題(第2主題歌)がいろいろな楽器で扱われる。ラヴェルっぽい部分もありつつ、展開される。少ない楽器なのに、かなり複雑な音響が設計されている。再現部で第2主題が扱われて、華やかにコーダ。 
 
 子供のための交響組曲は、当初子供のためのシンフォニーということで交響曲だったのだが、作者が交響組曲にした。したがって、4楽章制のけっこう正当交響曲で、演奏時間は25分ほど。1管編成で、日本の子供たちのための音楽。それは、プロコフィエフのピーターと狼や、ブリテンの青少年のための管弦楽入門のような意図であるという。

 1楽章は「山の子供」とある。山間部の子供たちの様子を描いているという。ホルンの導入部から、山の朝の様子。朝の主題と、変奏、コーダという変奏曲形式。弦楽器が山の情景の需要主題を朗らかに変奏してゆく。何かの紀行番組のテーマ音楽のような雰囲気。

 2楽章「海の子供」は、水の光を映すようなハープから始まる。これは序奏と4つの部分とコーダからなる、楽章内組曲といったもの。ハープからの海のテーマに続いて、サックスによる海の子供のテーマ。活気にわく、大漁の港の様子。そこから穏やかな海の様子と、またも活気にわく港の様子が続く。そして、海難事故で父親を失った子供の悲しみのテーマ。そしてコーダでは、そんな悲しみに負けない子供の強い内面と、変わらずに穏やかな海の情景を。

 3楽章は「都会の子供」とある。小さなロンド形式で、楽しげな都会っ子のテーマはまだ良いとして、よく分からないが軽快なジャズリズムの調子や、ムーディな大人の夜の様子もあるのが解せない。夜遊び奨励音楽かよ。

 4楽章では、それからの集合が3部形式で。林間学校か何かか、都会の子供と山の子供がいっしょにねむる冒頭、中間部では各楽章の子供の主題が短く再現される。第3の部分では、それらの主題が融合される。

 はっきり言って安直な内容だが、当時の子供たちを取り巻く環境というのは、存外このような単純なものだったかもしれない。いまの子供をとりまく環境というのは、複雑すぎるのだろう。


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 TBSヴィンテージJクラシックス「戦後作曲家発掘集成」より第6集と第7集を。

 第6集は、音楽というより、ラジオドラマそのもの。

 伊福部晃:音楽劇「ヌタック・カムシュペ」(ラジオドラマ) (1952)
 間宮芳生:オラトリオ「鴉」(ラジオドラマ) (1959)

 である。私は音楽のサントラ集でも見つかったのかと思っていたのだが、おもいきりふつうにドラマだった(笑) はっきり言って割愛。理由は下記のラジオドラマ「くもの糸」のところにあるが、原則として私が、ラジオドラマが大嫌いだから。

 音楽は良いのだけれども、やっぱりドラマそのものがあかんわ。1950年代の、世相を反映しているのは興味深いし面白いけど、シナリオも演出も、表現方法としてどうもだめだな。すんません。特にこういう説教くさいものはいかん。左派系の啓蒙ドラマは、ストレートに説教臭くてかなわない。

 というわけで第7集へ。

 大木英子:交響三撰「古今抄」(1963) 
 土居泰:「梵唱変容」(1962) 
 杉浦正嘉:唱礼による交響管弦楽のための音楽(1963)
 堀悦子:「半迦思惟」(1964) 

 上田仁/東京交響楽団(大木、土居)
 秋山和慶/東京交響楽団(杉浦、堀)

 TBS賞による特賞、入選より。純粋にオーケストラによる器楽表現。私はやっぱりこういうもののほうが好き。
 
 TBS賞は、当時日の出の勢いで台頭してきた無調12音に対抗するべく(と、いうふうにしか思えない)、日本の国民楽派をめざした内容のものを募集するという趣向の音楽賞。第6回まで行われたそうである。TBS賞というくらいだから、TBSに音源が残っているのはある意味とうぜんか。

 面白いのは、必ずしもたとえば小山清茂のような、あからさまな民謡クラシックになってはいないことだった。民謡クラシックもあるのだが、意外と、日本的精神の音楽化のようなスタンス、あるいは仏教音楽のクラシック化というスタンス、あるいは伝統的リズムや日本的思想を昇華したもの、など、無調も混じるようなものだった。そこが発見だったし、オーケストラを鳴らす技術もあって、かなり面白い作品集となっている。

 まず1曲目、大木英子:交響三撰「古今抄」。神楽、秘響、じょんからの3つの楽章からなる。これは純粋に民族派の、ペンタトニック・クラシック。第1楽章「神楽」は、雅楽調の導入部から、陽気で素朴なお神楽囃子が。雅楽の笙を模した音調も絶妙に混じってきて、なかなか楽しい。中間部では再び雅楽調の部分に。ゆったりと移ろう、古代の風景。そして、横笛のピッコロより、またも神楽に戻る。第2楽章は「秘響」とある。似たような音調から入って、これは、解説によると仏教思想をうたった尺八や琴の曲想から楽想を得ているもの、だそう。神秘的な東洋思想の西洋音楽化、という試みか。続く第3楽章「じょんがら」は、楽しい津軽じょんがらのをモティーフに。太棹三味線の響きを低音のオスティナーとに、津軽民謡を主旋律に。中間部では子守歌も聴かれる。じょんがらに戻る3部形式。

 純粋な民謡クラシックから、まず第7集は始まる。

 続く、土居泰:「梵唱変容」は、既に単純な民謡クラシックから外れる。第1楽章「梵唱」 第2楽章「変容」 は、後世の黛敏郎に通じる、仏教クラシックというか。大和路の旅の印象による。第1楽章はなんとフーガの技術で書かれている。が、そのモティーフは声明だという。なかなかシビアな響きで、無調ではない(だろう)が、楽しげなものでもない。その精神は深遠なる世界への憧憬と敬意だろうか。こういう半音階的な動機と旋律でフーガを書かれてもね(笑) なかなか素人にはわかりづらいが……。そして第2楽章「変容」は、名前の通りのメタモルフォーゼかというと、それよりもむしろ古典的なパッサカリア技術で書かれている。楽想としては、1楽章の平安に比べると荒々しく、かつ辛辣。モダンな響きで、こちらも無調っぽい、シビアなもの。打楽器も激しく入ってきて、他の動機も乱雑に入り乱れる。

 2曲目で、TBS賞が、単純な民謡クラシック賞ではないことを教えてくれる。

 続いて杉浦正嘉:唱礼による交響管弦楽のための音楽。これが、18分ほどの単一楽章の曲で、かなり私好み(笑) ペンタトニックを駆使するが、リズムが原始主義的な力強さを持って、ポリリズムっぽくなるところもあり、ハルサイみたいに響く箇所すらあるもの。作者は、仏教文化に根ざした民衆の祭りや芝居の音楽の熱狂を、オーケストラで表したとかなんとかと解説にある。冒頭から単純なオスティナートを伴奏に刻ませ、主題を重ねてゆく。それから楽想が変わって、まるでバルトークじみた、いや、もっと後年の池野成を思わせるトロンボーンの面白い旋律部に到る。そこがまるでお経の際の木魚めいたオスティナートを背景にどろどろと進んで、これこそ変容のように楽想が次々と変わってゆく。リズムの速い楽想とゆったりとした部分とが交互に展開して、モティーフを発展させてゆく。後半の長い律動部分は圧巻で、ひたひたとオスティナートで繰り返される動機にさまざまな楽器が絡んでゆく。打楽器もじわじわと盛り上がって土俗的な印象と気分を高めてゆく。日本人の血液に隠された、滅亡的に熱狂的な部分を暴いてゆく。後半のほぼすべてをその盛り上がりに使って、その頂点でいきなり、ボスンと締め落とされる。

 なお作者は、今後この原始主義的傾向から、切り詰められた世界へ向かって行ったという。ティンパニソロ曲、シンバルソロ曲など、興味ぶかい。きりつめすぎだろ(笑)

 最後、堀悦子:「半迦思惟」では、これも単一楽章で17分ほどの世界が聞かれるが、堀はどちらかというとシリアス調の純粋音楽作曲家で、民謡だの国民的な曲だのとは無縁な音楽家というイメージがあった。ここでも、響きそのものはシリアスなものだが、その根源的標題が仏教からきているという点で、日本を題材とした曲というものに合致する。冒頭から、いかにも禅的な、精神音楽めいた打楽器の音。そこにフルートの思想的な、能管めいた旋律。さらに重厚な低音のからみ。そういう、シリアスな日本藝術の粋を集めましたといった風情。作者によると東洋的瞑想の音楽化、とのこと。まったく楽しいとか面白いとかとは間逆の手法で、刺々しいシリアスな音響が展開されてゆく。純粋に音響を楽しむものとしては、私は面白いと思う。たまに、それっぽいペンタトニック旋律も顔を出す。個人的には、小山清茂の組曲「能面」(1959)に雰囲気が似ている。最後は冒頭の静謐な打楽器ソロで終結する。


1/3

 謹賀新年。皇紀二六七六年でございます。

 本年は、しばらくTBSヴィンテージJクラシックス「戦後作曲家発掘集成」を中心にすすめてまいります。

 TBSの倉庫からまとめて発見された、お宝音源の数々を、かの片山杜秀監修により、一部がCD化されたもの。

 というわけで、思うところあって、いきなり第5集からw

 塚原哲夫:交響曲第1番(1962)
 塚原哲夫:ピアノ協奏曲(1958)
 塚原哲夫:交響絵巻「くもの糸」(ラジオドラマ)(1964)

 山田和男/東京交響楽団/奥村洋子Pf(交響曲、ピアノ協奏曲)
 塚原哲夫/東京交響楽団/紫絃会(雅楽)/ひばり自動合唱団(くもの糸)
 
 塚原哲夫(1921−1978)は、執筆現在でWikipediaにも情報が無い、まるで謎の作曲家で、監修の片山さん、よくもまあ拾い上げたものだと感心した。

 解説によると、塚原哲夫は「中間音楽」の旗手であるという。この中間音楽というのは、ガチクラシックと、ロックやポップス、演歌や歌謡曲などの、いわゆる大衆音楽というものの中間の音楽、という意味で、ラテン語で云うなればムジーク(教会音楽)とカントル(大衆歌謡、民謡など)の中間という感じか。また、ハイブローとローブローの中間、ミドルブローというか。

 クラシックの作曲家で云うと、ピアソラとか、ガーシュインが高名な部類だろう。オルフのカルミナ・ブラーナもまさにそういう効果を狙ったもの。解説ノートにもあるが、国策としてこの中間音楽を大量に生産したのが共産圏で、社会主義リアリズムという。だから、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアンなどは、分かりやすい中間音楽と、それに反骨して書いたえらいシリアスなものとに、けっこう極端にわかれている。
 
 さて塚原だが、中間音楽というより、中間音楽も混じったシリアスもの、という印象。ピアノ協奏曲の3楽章などはコケティッシュで楽しい部類だが、主題そのものはシリアスだし、全体にかなりシリアスなもの。ただし、完全な無調や12音列技法ではない。この時代の作曲家は、芥川也寸志を聴いても分かる通り、かなりソ連の作曲家にインスパイアされており、塚原も、おもいきりショスタコーヴィチからの拝借というか、引用といってもよい部分がある。

 交響曲第1番は(2番もあるのだろうか?)は、(あとで交響曲の項でもとりあげるが)、全体にショスタコーヴィチらソ連交響曲の影響があるのは、この時代の他の作曲家の通り。冒頭から、ショスタコの5番8番に通じる絃楽の表現。それでも、オリジナルな部分もあるし、けっこう、かっこよくておもしろい。4楽章制で、25分ほどの規模。新古典的というより、やっぱり社会主義的とでもなるのかなあ。民族的新古典とは異なる、独特の形式である。深刻なグラーヴェメンテとアレグロを繰り返す第1楽章。レントの2楽章も深刻な調子。主音があり半無調に聴こえるもの。中間部には明らかに調性の場面も。ここらへんが、ハイとローの中間のミドルということかもしれない。3楽章はカバレーフスキイ的な3分にも満たない諧謔的スケルツォ。この発想がまさにソ連的。4楽章は、アダージョ。音調は最後まで暗く、湿っていて、救いは無いように聴こえるもの。

 ピアノ協奏曲が出来物だった。1・2楽章などはかなり現代的な、ときおり無調的な響きも醸す厳しい響き。響きそのものは、やはりショスタコ好きにはどこかで……なるようなものだが、消して悪くないのが才能というか腕か。メロディアスな部分もあるが、甘くない。3楽章では、ボンゴもリズミカルに鳴りだして、ジャジーな雰囲気と、ちょっとおどけた調子になる。主題そのものはシリアスなのだが。ずっと後年の、三善晃のクロス・バイマーチという曲に雰囲気が似ている。

 ちなみに、解説ノートとCDの裏には、1楽章は2:18と表記があるが、12:18のまちがい。
 
 さて、続くラジオドラマ。私はオペラ、舞台演劇、ミュージカルのたぐいが大嫌いで(笑) とにかく脚本がつまらないし、表現方法も強調されて滑稽である。そしてラジオドラマだ。なんといっても音だけなので、情景描写を台詞で行うのが耐えられない。せめてナレーションにして欲しいが、「ナントカがナントカだ〜〜」 とか、「なんとかしているぞ〜〜」 とか、それをリフレインで周囲の人々もミュージカル調に繰り返すとかね、もうね、もういけません(^ω^;)

 せめて、淡々としたナレーションと、映画のような自然な台詞で構成されているとまだ良い。

 そんなわけだが、これは原作が芥川龍之介であるから、お話は申し分無い。脚本も、まあまあだ。なにより20分ほどと短いのがいい。音楽も多い。雅楽まで入り、電子的に音楽を変質させている効果も時代的。童謡のような歌まである。が、お話がお話なので、地獄の描写とかはかなりシリアスだ。

 中間音楽にしては、ここに納められているのはやけにシリアスな曲なものばかりな気がした。いや、当時はハイもローもブロー自体が高すぎて、現代に比べるとこれでも「中間」なのかもしれない。






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