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 2016年7月10日に行われた、井上道義/東京交響楽団による、伊福部昭の協奏曲4曲をとりあげた「協奏四題」のライヴCDを聴いた。

 井上道義/東京交響楽団/高田みどりMarimba/山根一仁Vn/野坂操壽 二十五絃箏/山田令子Pf

 伊福部昭:オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ
 伊福部昭:ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲
 伊福部昭:二十絃箏と管絃楽のための交響的エグログ
 伊福部昭:ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ

 すべて2016ライヴ

 伊福部の事実上の協奏曲は全てで6曲あるが、そのうちの4曲をそろえた豪華な演奏会。同じく井上道義/東京交響楽団による、1983年のまったく同じプログラムによる演奏会の再来でもある。前回の協奏四題から実に33年ぶりの演奏会だが、箏の野坂操壽のみ、ソリストが同じ。当時は、野坂恵子だった。
 
 ラウダは、安倍恵子の憑依的なパフォーマンスは独特のものであり、ああいうものは、安倍本人以外はできないと思う。従って、他の人の演奏が客観的になるのは、当たり前だ。それにしても、この演奏はややソロが弱く聴こえる。井上指揮による、オケの音色が強烈すぎなのだろうか。それと、前半部では、指揮のアタックよりマリンバがほんのコンマ秒遅れて聴こえて、全体に引きずっている印象。これは、録音のせいなのか、距離感のせいなのか分からない。指揮とソリストはすぐ近くにいるので、意外と、その場では普通に聴こえていても、客席やマイクでは、ものすごく若干遅れて届くときは、よくある。そして、お客からすれば、そういうのはすごく気持ち悪い。若干の和声のずれも、気持ち悪いが、リズムは私としてはもっと気持ち悪い。それでも、機械が演奏しているのではないのだから、それも音楽のうちである。

 中間部のレントから、後半にかけては、持ち直している。それに、盛り上がりすぎずに、よくドライヴされている。最後の疾走感は、さすがの井上だ。
 
 協奏風狂詩曲は、若いヴァイオリニスト。ヴェテランではなく若い人がこの曲をどう料理するのか興味深い。会場で聴いた人によると、この協奏風がもっともイマイチだった、とのことで、途中で間違えたか間違えかかっただかしたようだが、私は、この曲はこんなもんかな、と思っているので、あまり気にならないかなあ。じっくり聴くと、こちらも緊張のせいか、ずりずりとテンポを引きずって行くのが分かる。確かに、プロとしてどうか、というレベルでずれかかっている部分もある。それだけ難曲であるといえる。

 ちなみに、この曲をして、ヴァイオリンの自由度が低く、協奏曲として出来がどうたら、という評を云う人がいるのだが、協奏曲じゃなくて、協奏風の狂詩曲ですから(笑) 事実上のヴァイオリン協奏曲第1番というだけで。なので、そういう評は見当違いである。
 
 さらにちなみに、この演奏の稿は最終稿(第4稿)だが、第2稿と第3稿の録音が見つかって、かなりカットされた楽想があったことが分かって面白かった。もっとも姿が異なるのが、初演された第1稿であり、演奏時間もほぼ倍だった。しかも、単純にこの現行の1楽章と2楽章の間に緩徐楽章があった、というものではないそうである。詳細は、いつか研究者から発表される日が来るかもしれない。

 2楽章も頑張って弾いているが、さすがにここは指揮者が横綱級であり、いたしかたない部分もあるだろうか。ここは、必至感を聴くべきか。

 続くエグログは、私は伊福部の全ての曲の中でも、苦手な部類。どうしてかというと、ちょっと構成的に弱く、かつ長い。長いというのは、じっさい演奏時間も長いのだが、構成的にすごく長く感じるのだ。序破急形式で、少しずつ盛り上がって行くが、その途中で長いソロ(カデンツァ)がある。そこで、どうしてもだれてしまう。野坂以外の演奏で、それこそ若い箏奏者の演奏で聴いてみたい。その部分をどう演奏するのか興味がある。

 そもそも冒頭からリリカルな、あまり緊張感の無い……といったら語弊があるかもしれないが、歌心たっぷりの序奏からして、他の協奏曲とは異質だ。この曲だけが、作曲年代が遅かったこともあってか、かなり異質に感じている。緩徐部分から始まるというのも、異質である。本曲は二十絃箏のための曲だが、当日は二十五絃箏を使ったようだ。演奏に関しては、特に何の問題も文句もない。
 
 緩急緩(長〜カデンツァ)急 という構造ととらえてよいと思うが、これはヴァイオリン協奏曲第2番にも似たもので、伊福部協奏曲の完成形である。6曲の伊福部協奏曲は、協奏風交響曲と協奏風狂詩曲が多楽章制の初期のもの、ラウダとリトミカが、単一楽章となって、内容の厳しい、アレグロの激しい中期のもの、そしてヴァイオリン協奏曲第2番とこのエグログが、どちらかというと緩徐部分に重心がおかれ、渋くリリカルな後期……となっている。

 最後のリトミカは、実演に接した人も云っていたが、当夜の白眉だ。じっさい今CDでも、熱気が異様である。まずテンポが速い。リトミカは確かに、記譜されているテンポを正確に演奏すると、かなり速いのだが、その通りに無理をして弾くと、なにせ曲が曲だけに、えらいしょっぱい演奏となる。セッション録音ならまだしも、ライヴではあまりテンポはあげない方がいいし、そもそも伊福部の設定するテンポは適当である。(云ってしまった)

 それが、元より伊福部本人から「速い」と云われていたという井上、最初はじっくりと攻めてくるが、ものの数分もするとどんどん指揮も演奏も興が乗ってきて、ドライヴ感ハンパネー状態と化す。その中で、山田のピアノは乗っているが冷静だ。ミスタッチが無く、アタックからコンマ数ミリの遅れも無い。ピアノに詳しい人によると、おそらくノンペダルということで、音が締まっている。栃木交響楽団との演奏は、相手がアマオケというのもあってか、どんどんずれて行って、かといって完全にずれるわけでもなく、常にコンマ秒遅れていて、吐きそうなほど気持ち悪かった。演奏自体は、アマオケとはおもえぬうまさであったが、そのぶんもったいなかった。

 しかし、ここではどうだ。アレグロ部のドライヴ感、レント部でのたっぷり感、云うこと無いですぞ。

 2回目のアレグロでは、逆にノリが押さえられ、じっくりと進む。リズムを刻み続ける快感よ。それでも、中間部の後半にかけては盛り上がる。そのいいところで、この曲はまたレントとなる。ザンザンザンザン……と、速度が消えてしまう。この曲も、改訂前の録音が見つかって放送されたが、ここにカットされた音形が残っていたのが分かった。

 私はこのザンザンザンザン……が、どうにもとってつけたようで違和感がずっとあったのだが、カットされていたと分かって、すごく驚き、カットの無い方がいまでも個人的には好きなのだ。曲の構成としての完成度は、現行の方がうまいとは思うけれども、個人的な嗜好である。

 レントはすぐにアレグロとなり、あとはアレグロからコーダにむけて突っ走るだけ。ここからが、この演奏はすごい。凄まじい。冒頭の再現部から、いきなりヒートアップして、テンポもそうだが、音の厚みや、憑依的な表現となって、指揮者、オーケストラ、ピアノの全員が狂ったようにのめりこんでゆき、しかも絶対にずれないし崩れない鉄の意志と技術をもって、一気にこの基地外曲を演奏しきっている。
 
 すごー〜い〜〜〜(白目)


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 一柳慧もまた、2017年現在で、交響曲第10番まで演奏されている。

 CDでも、まず第8交響曲の室内楽版がリリースされ、そして今回、オーケストラ版の8番と、9番を聴いた。

 交響曲の項はまた来週以降にでも更新するので、まず、雑感を。

 交響曲第8番「リヴェレーション2011」(オーケストラ版)(2012)
 下野竜也/東京都交響楽団 L2012

 交響曲第9番「ディアスポラ」(2014)
 ハンス・リントゥ/東京都交響楽団 L2015

 一柳もまた、東日本大震災を経て、まずは鎮魂の交響曲を書いたといえる。それが第8交響曲「リヴェレーション」だが、これには室内楽版とオーケストラ版がある。ここでいうリヴェレーションとは、旧約聖書の黙示録の意味であるという。やはり、日本を1000年ぶりに襲った大災害を、黙示録にたとえての表現。

 室内楽版は2011年の12月には初演されている。翌年に初演されたのが、このオーケストラ版。1楽章形式だが、4つの部分に別れているので、連続した4楽章制とも言える。演奏時間はほぼ30分。

 1.予兆
 2.無常
 3.祈り
 4.再生

 音楽はこの4つに別れており、アタッカで進められる。が、少し間をあけても可だという。

 作者が「予兆音形」と呼ぶ音形がゆったりと響き、ドラや木琴も不気味さを増す。HとFの音を型取り、広島と福島、原爆と原発、1945と2011をつなぐのだという。やたらとシリアスな音調ながら、これまでの一柳の作風と比べると、ほとんど調性音楽といえる。これも、池辺に通じる変化が認められる。予兆音形が1から4まで提示され、それらが変容してるという形式。2の無常は、大災害による世の無常。テンポが動き、スケルツォ楽章のような趣。激しくドラも鳴り、トロンボーンが「怒りの日」の変形を提示すると、その動機が変容してゆく。祈りはレクイエムで、緩徐楽章。不気味で、寒々しい祈りであり、温かみは無い。怒りの日動機の変容がレクイエム動機となる。弔鐘も静かに鳴り、ヴァイオリンがすすり泣く。ピアノは水音を象徴している。バスドラの連打から、第4の部分、再生。増殖と再生のテーマが、じわじわと現れる。それが夢幻に増殖してゆく。まるで松村禎三を思わせる響き。ラストは、まるで全てが崩壊するように衝撃的だが、再生と崩壊を繰り返すのだそうである。

 室内楽版と比べると、響きがややもっさりしている嫌いはあるが、響きの豊かさはこちらが上になる。楽器の数が多いから、当たり前だろうけども。

 池辺の8番も大震災へ捧げる交響曲だったが、一柳の方がずっとシリアスで冷たく、恐怖だ。

 都響の委嘱作である9番も、震災に関連している。副題のディアスポラとは、ユダヤ人の祖国喪失と離散を意味する言葉だそうで、避難を余儀なくされた人々へ示唆をあたえる。4楽章制で35分ほど。

 8番と構造が似ている。予兆を秘めた1楽章。怒りの日動機の変容が響き、不完全5度(と、いうものがあるのかどうか知らないが)、不安を現す5度が執拗に響いて、何か悪いことがおきる予兆を示す。2楽章はまるでベルリン連詩を思わせるティンパニのグリッサンド音に、またもH(広島)とF(福島)の象徴音が登場。アレグロで、なんと「戦争のテーマ」が勇ましく鳴り響く。ティンパニの連打もあり、破壊を示す打楽器も激しい。いったん静まるも、すぐにまた戦闘が再開される。しかし、この戦争は負けたらしい。3楽章では、戦争のテーマの残渣がある中、12音列風(厳密な12音ではないということだろう)の主題が延々と繰り返され、変奏されてゆく形をとる。ちょっと長い。4楽章も激しいアレグロ。なんとなんと、一柳自身、戦後前期音楽(モダニズム)から戦後皇紀音楽(ポスト・モダニズム)への変化を自覚しており、調性回帰とまではゆかないが、12音音楽からの脱却を模索しているふしがある。激しいアレグロは、主題の展開はしないが、反復が何種類もあるという形をとっている。10分近くも、まるでミニマルのように動機を執拗に繰り返して、一気に爆発・放出されると、戦闘のテーマが顔をチラリと見せて、終結する。

 これは、一柳の集大成であると思う。ここから、新しい交響曲の世界へ新生してゆくのではないか。


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 池辺晋一郎と一柳慧。いま、日本の交響曲シーンで、最も重鎮のこの2人が、交響曲にこだわっているのは複音だ。彼らの後に、いったい誰が、この国の交響曲を護るのか。

 2人とも、2017年の初頭の現在で2016年中に10番の初演を終えている。11番を作曲中であるというお話しも、ちらほらと聞く。すごい。ショスタコかよ。ミャスコフスキーか。

 ずっと聴き逃していた、池辺と一柳の8番、9番を聴きたい。まずは池辺から。そのうち、両人とも10番のCDも出るだろう。交響曲のページもしばらく更新してなかったが、後で更新したい。

 池辺晋一郎:交響曲第8番「大地/祈り」(2013)
 金聖響/神奈川フィルハーモニー管弦楽団

 池辺晋一郎:ピアノ協奏曲第3番〜左手のために「西風によせて」(2013)
 野津如弘/ラ・テンペスタ室内管弦楽団/舘野泉Pf

 池辺晋一郎:交響曲第9番〜ソプラノ、バリトンとオーケストラのために(2013)
 下野竜也/東京交響楽団/幸田浩子Sop/宮本益光Bar

 CD2枚組。さいきんは不景気と配信事業の主力化によりライヴ録音メインとなってしまっているが、出るだけましだろう。カメラータトウキョウはすごい。

 8番交響曲は3楽章制。池辺でいうと、5番、6番に続いて3曲目。30分ほどの曲。

 詳しくは、交響曲のページでそのうち紹介するとして、これは、池辺の交響曲の中では、私はもっとも良い。シリアスでありつつ、迷走していない。1番がアカデミックな習作として、2番から7番まで池辺は社会と個というものをテーマに交響曲を書いていたが、聴く方からすると、そのような文学的なものを音楽のテーマにされても、よく分からない。結果、よく分からない曲が書かれてきた。

 そもそも池辺は、純粋音楽にあっては、ポップスとの安易な結婚を戒めてきたという態度である。ここでも、耳に良い旋律はほとんどない。まして、池辺は東日本大震災より、社会と個というテーマが、大自然の前では何ら意味を成さないとし、新しいテーマを模索してこの8番に挑んだ。

 1楽章「大地から」が、いきなり暗い。ゴジラか。大地の怒りか。現代調ではあるが、しっかり調性なあたり、無調でムチャクチャなこれまでの曲とは異なる。1楽章はほぼ15分と長いが呻き声みたいなオーケストラと、不安をあおる危険な匂いの疑似旋律が空気をバシバシと刺激する。どういう構成でこんなに長いのかは、聴いただけではよく分からないが、すごく聴きやすいうえに、大まじめな音作りが伝わってくる良作と感じる。

 2楽章は3分ほどと短く、間奏曲っぽい。不協和音にまみれているが、しっかりとした、地に足のついた音楽が聴こえる。ジャズっぽいテイストに、狂騒的な部分もあるが、呆気なくおわる。

 3楽章「祈り」とあって、10分ほどの、まさに祈りの音楽。レクイエム。暗黒の中に、鎮魂の鐘。立ち上り、線香の煙めいた木管達による旋律の数々。それら、人魂のような旋律が徐々に集まってきて、ぼんやりと光りの塊となる。それが次第に光の柱となって、閃光となり……消える。
 
 それまでのシリアスさ、難解さと、分かりやすさを体現した、本当に名曲。

 続いて、10分ほどのピアノ協奏曲。左手のためのとくれば、舘野泉。これも、しっかりと現代音楽でありつつ、それほど耳に難くない。ほとんど調性だからだろうか。いや、池辺にしてみれば、調性のつもりで書いたかもしれない。大河ドラマのオープニングに近いほどの作品だ。アタッカで2楽章へ入ると、さらに叙情的な語り口。といっても、甘くない。どこか不安がつきまとう。やはり、東日本大震災の影響なのだろうか。やはりアタッカで、終楽章へ。曲は一気にブーストし、アレグロとなる。なにせ左手のみなので、アレグロといっても、ガンガンガン、ダンダンダンと一定のリズムで、刻むように叩かれるピアノと、それをサポートしつつ、目まぐるしく動くオーケストラ。これも、唐突に、断ち切られたようにおわる。あまり長くても、高齢の舘野の体力もあるし、これくらいでちょうど良いだろうし、むしろモダンだ。

 これも、すごく良い曲。

 さて、問題は池辺の第九だ(笑)

 その編成を見ても、独唱付の、マーラーの大地の歌、そしてショスタコーヴィチの14番、通称死者の歌に相当する曲だというのがわかる。短い9楽章制で、演奏時間はしかし、50分を超える。かなりの規模だ。長田弘の詩集よりとられた9編の詩に曲がつけられているが、9楽章のうち、3つの楽章、2、5、9楽章は、歌が無く、器楽のみなので、複数の詩に曲をつけた楽章がいくつかあることになる。それが、3、6、8楽章となる。

 以下に詳細を転記する。

 1.「世界の最初の一日」
 2.Splash
 3.「遠くからの声」「森を出て、どこかへ」
 4.「世界はうつくしいと」
 5.Choral
 6.「人の一日に必要なこと」「切り株の木」
 7.「むかし、私たちは
 8.「立ちつくす」「春のはじまる日」
 9.空と土のあいだで

 これも、詳しい紹介は交響曲のページでするとして……結果からいうと、これはかなり厳しい曲だ(^ω^;) 池辺センセは何を思って、自分の「第九」をこんなふうにしてしまったのか。細かい歌曲の集合体であるが、一本調子で、50分が70分にも80分にも聴こえる。これは良くないね。ショスタコーヴィチの14番は、同じく50分ほどなうえに、楽器編成も絃楽器と打楽器のみという制約があるが、1曲1曲がもっともっと千差万別で、飽きさせない。

 詩の善し悪しは、私はよく分からない世界なので、ここではふれないが、もちろん楽章ごとに、詩の内容に合わせて変化はつけてあるのだが、肝心の音色が50分一本勝負……。大地の歌や死者の歌に勝てとは云わないが、これでは、なかなか「交響曲として」聴き通すのは厳しい。歌曲集をただ交響曲と名付けただけに聴こえる。大地の歌や、ショスタコの14番は、歌曲集ではない。交響曲として構成されている。こちらは、ちょっと構成力不足に感じた。


1/9

 昨年は、伊福部昭没後十年祭(神道なので、十年祭という)で、CDも6枚ほど出たのだが、半分ほど入手したので順次聴く。

 なんと、その中にマリンバとオーケストラのためのラウダ・コンチェルタータが、3枚含まれており、ライヴが2種類に、1種類はセッション録音という豪華さであった。

 その中の1枚、塚越慎子によるマリンバ協奏曲集を聴く。

 岩村力/読売日本交響楽団/塚越慎子マリンバ
 伊福部昭:マリンバとオーケストラのためのラウダ・コンチェルタータ 2015ライヴ

 塚越慎子アンサンブル/塚越慎子マリンバ
 セジョルネ:マリンバと絃楽のための協奏曲

 まずラウダから。ライヴ録音しては、とても音が良いと感じる。あまり、自分は音質とかこだわらないタチなので、あてにはできないが。テンポも、遅からず、早すぎずと、楽譜に忠実な感じ。序奏の雄々しさ、まるでショパンのピアノ協奏曲1番のようだが、木霊のように歌いながら入ってくるマリンバも、強すぎず、かつしっかりと音が立っていて良い。フレージングがとタッチとても良いと思う。全体に余裕のある音運びで、マリンバも攻めこむというよりは、じっくり鳴らして、迫ってくる。中間部の緩徐部分は、特に歌っている。

 3回目の冒頭動機の再現部より、さらに祈りは続き、一気に音楽は終盤の盛り上がりからコーダへむけて疾走を始めるが、スピード感を失わず、いやむしろ、新幹線より蒸気機関車のような迫力をもって、突き進む。マリンバが表に出すぎず、どこか淡々としている感もあるが、あまり没頭してトランスしても、曲が崩れる。これくらいの冷静さも持って、一気呵成に終わらせている。

 セジョルネは、フランスのマリンバ打楽器奏者・作曲家で、マリンバ界?では、けっこう高名になっている感があったが、聴いたことは無かった。古い曲かと思っていたら、意外や2005年の曲だった。まさに現代音楽だが、曲調は完全に調性。絃楽アンサンブルが伴奏なので、演奏しやすいのかもしれない。

 そのわりには、同じく絃楽とマリンバのための協奏曲である三善晃のマリンバ協奏曲は、あまりお目にかからないが。

 2楽章構成で、1楽章はテンポ・スープル(しなやかなテンポで)。しなやかなテンポというのも、なかなか難しい発想記号だが、緩徐楽章である。叙情的な伴奏と、叙情的ながら雨音のようなマリンバとの対比が美しい楽章。マリンバの優しいタッチが印象的。他の人の演奏を聴いたことがないので、なんともいえないがそういう印象を得た。

 2楽章はリズミック、エネルジーコとある。スペイン風、あるいはタンゴ風の曲調から始まる。全体にピアソラっぽいが、あれほど洗練はされてない。演奏はうまいと思うが、全体に曲がぼんやりしている。

 なんといっても、2005年にしては、かなり叙情的な作風。吉松の新叙情主義のようだ。やはり、演奏家が作曲すると、自分で演奏したい曲になるので、こうなるのだろうか。調性叙情主義といっても、旋律や構成、なによりオーケストレーションが素人くさいのは、やはり作曲もする演奏者としての限界か。


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 謹賀新年です。2017年、平成29年、皇紀2677年です。今年もよろしくお願いします。

 今年のはじめはやっぱり伊福部。お正月なので、箏を聴くわけである。

 伊福部昭:二十五絃箏曲集(伊福部昭十年祭のための)

 伊福部昭:日本狂詩曲(1935/2011) 二十五絃箏版(4plus編曲)
 伊福部昭:二十五絃箏甲乙合奏 七ツのヴェールの踊り(1987/2002) 
 伊福部昭:二十五絃箏甲乙合奏 ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ(19872004)
 伊福部昭:二十五絃箏「胡哦」(1997)
 伊福部昭:聖なる泉(伊福部昭十年祭のための) (永瀬博彦編曲)(1964/2014)

 4plus(木村麻耶 佐藤亜美 日原暢子 町田光) 他 佐藤康子 松村萌子

 日本狂詩曲の複雑なテクスチュアを、よくもまあ箏に移したもんです(笑) 2楽章の祭は、ちょっと細かい音符がつぶれてしまっている気もするが、雰囲気はばっちり。テンポもやや速で攻めている。ボディノックで打楽器も再現し、これは楽しい。なにより、日本的音形が箏に合わないはずが無い。逆に、ベターな味わいが増えてしまうが、そこは曲そのものが持つ本来のモダンさが、それを打ち消している。

 七ツのヴェールの踊りと、次のヨカナーンの首級を得て乱れるサロメは、伊福部昭のオリジナル編曲。先に七ツのヴェールが編曲され、次にサロメ最後のシーンが編曲された。まるで、さいしょから箏のために書かれた異国情緒溢れる曲のよう。これが合わせて30分ほどの曲になり、かなりの大曲となる。それこそ、乱れないで弾ききる技術と体力が要求される、そうとうの難曲といえよう。乱れるサロメのほうも、ヴェールの前後のシーンを再構成してるので、バレエ音楽から再構成された新曲ともいえる。

 演奏は、セッション録音とはいえ、一気呵成に弾ききる集中力と、じっくり鳴らす情緒と、しっかり曲の特徴をとらえていると思う。

 次の胡哦は、1997年にオリジナル二十五絃箏曲として作曲された物で、モスラで高名な「聖なる泉」の旋律を基にした変奏曲というか、なんというのか、とにかく聖なる泉の旋律を盛りこんだ曲になっている。派手ではないが、なんとも静謐で、味わい深い音楽。しっとりと演奏されるのが良いが、ここでは委嘱者、野坂操壽の孫弟子筋に当たる若い演奏家の手により、どこかフレッシュな、瑞々しい感性も聴ける。

 最後はこのCDのために、特に編曲された、二十五絃箏とソプラノのための、その聖なる泉。このタガログ語を基にしたオリジナル言語の歌唱も、伴奏が箏だと、なんか日本の秘境のどこかの歌に聴こえる不思議。

 





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