5/26・29

 吉松 隆の交響曲5番はまったく独自な価値観でものを云うと、これまでの交響曲群の中でも最高の出来ばえだ。しかしそれは、最高に大衆ウケするという意味かもしれない。例えばマーラーの5番までの中で、5番がもっとも「すばらしい」ということになっているように。
 
 運命の動機パロディーは「5番聴き」そしてマーラーの5番を愛するものとしてはやはりあると楽しいし、異相空間的な錯綜感はさらに磨きがかかっている。アレグロは、ショスタコーヴィッチ以降、私はかれほどの魅力的な(疑似)古典的アレグロ書きは見たことも聴いたことも無い。かれにとっての「運命動機」は、真に運命なのではなく、運命と戦って勝利し、敗北した先人たちへの敬慕と礼讃と自己満足なのだと思う。
 
 この人のスケルツォ楽章は必ずジャジーなものになるのだなあ。ジャジーというか、都会のビルの谷間の暗がりで、悪だくみしてるというか、エロバカップルが隠れてヤッていてそれをハンディで録っているというか(!?)

 こういうの嫌いな人は嫌いなのだろうかなあ。

 わしは好きだけど。

 悪魔の踊りだそうです。(マーラーかサン=サーンスか)
  
 以降の各楽章も、構成としては3番・4番に通じていて、同系統の3番がどこかカラ騒ぎ的な空虚さと空回りが目立っていたのに対し、まだ内容と余裕があるように思える。(それはやはり運命動機のおかげなのか)
 
 内容的なものを云うと、もしかしたらば、1番や2番のほうが、より強いのかもしれない。その時代はまだシンフォニーというモノへ対する偏執狂的なこだわりと想いが世に認められずに、これを書いてオレは死ぬ、といったほどの覚悟と気合があったのだが、いまは、彼のシンフォニーは、堂々たる21世紀日本を代表するものになっていて、少なくともわたしのような愛聴家(お客)が求めるだけの基盤を築いているのだ。
 
 しかし、この人の作曲信念が、本来、そのような、例えばコリリアーノの第1交響曲がエイズのために死した知人のために書かれたものであるような、ゴタイソーな理念の束縛から完全に自由に羽ばたいているため、軽く感じたり、空騒ぎに聴こえたり、軽薄に聴こえたり、まったくフザケテイルヤウニ聴こえるのは、正解でいて、だからといってそれを批判するものでもない。

 さいしょから、そういうシロモノではないからだ。イヤなら聴かなければいいのだから。(単純なハナシ) あえていって、あるとすれば、人間の愚かさと暴挙により滅びゆく悲しく美しいものへのオマージュと讃歌だけなのだ。

 ぼー、と鳥をみていて、ふと、鳥がパッと飛び立って何処かへと去っていったときの、なんともいえぬ空の感触。吉松のどの音楽のラストも、そんな不思議な透明感と空虚さとイマジネーションがある。
 
 偉大なる「運命の5番」の系譜。
 
 ベートーヴェン、チャイコフスキー、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィッチ。その後はわたしはオネゲルの5番がくる。
 
 その同じ系譜に連なるといえば、作曲者が恐れ多いと断るだろう。
 
 別に、5番だの9番だの意識してない作家だって山程いる。それを、あえて意識することに、それはそれで意味と意義があると思う。(マーラーがそうだったように。)
 
 これはパロディなのか、それとも挑戦なのか、憧れなのか。
 
 答は、そう簡単には、でない。
 
 次は田園もいいし悲愴もいいけど、悲劇的なんていう手もあるんじゃないでしょうか?
 
 併録のうち、鳥たちの祝祭への前奏曲は、なかなか良い。管弦楽による鳥シリーズをつづけて聴くと、面白い。(鳥たちの時代〜鳥と虹によせる雅歌〜鳥たちの祝祭への前奏曲)
 
 ナクソス日本人シリーズで、武満 徹が3月にでていたのに、ずっと買う機会を逸していて、ようやく購入。(ああ田舎………)
 
 しかしこれは管弦楽ではなく、室内楽、しかも、フルートと打楽器作品をメインにすえている。

 特にフルートを中心に、今アルバムは構成されていて、他にもみな武満と生前に親交のあったアーティストということで、武満の音楽にそういう身内的な関係は特に栄養価が高い。
 
 この人のフルートはとかく日本笛の音がして、ハープは琵琶や琴の音がして、弦は人の声の音がする………というのは簡単だけれども、それでもどこかドビュッシーに通じる響きはするし、日本風でフランス風で、妙で不思議で、安定感があるようで夢幻感もある。

 あああ、武満は武満だということだ。
 
 さいきん、この人の音楽もようやく、なんとなく分かるようになってきた。新録が出るたびに思うのだが、なんでおんなじ曲ばっかりなんだ?

 西洋人がやる武満と、日本人がやる武満は、やはりちがう。どっちもイイ。
 
 まあ曲によって私も好き嫌いはあるのだが、雨の樹は好きだなあ。武満にとっては珍しく、ミニマルミュージックふうで、もっとも最初期に知った武満曲なので、思い入れも強い。教育テレビで、5分間の美術品を紹介するミニ番組で、明の青磁だかの壺を紹介しているBGMに、この曲。壺より私は音楽に魂を縛られてしまった。なんという、硬質な、青磁にピッタリな、摩訶不思議な、美しい響き。

 武満徹「雨の樹」より

 その後、N響アワーの「ノヴェンバー・ステップス」で完全にノックアウト。
 
 今アルバムのメインはなんといってもエイトケンによるフルート独奏3部作。

 「巡り」「ヴォイス」「エア」

 本来は作曲順に演奏する予定だったが、エイトケンの提案によりヴォイスと巡りが入れ代わっている。
 
 これが大正解。
 
 演奏も、立派で、日本人がやりがちな情緒感は特にない。西洋音楽としてのタケミツ。そうなるとこれはもう、タケミツの無伴奏フルートソナタにも聴こえる。1作1作は初期から最晩年までなのだが、音楽的なつながりは強く、1楽章2楽章3楽章といっても別におかしくないのでは。そうすると、フルートのための交響曲にも聴こえる。 
 
 そういう楽しみが私はあった。

 このアルバムはフルートソロ3部作を聴くだけでも、価値あり。 


 5/20〜24
 
 この間、印象的な演奏を2曲聴きました。

 スヴェトラーノフ/N響 チャイコフスキー5番交響曲(1997ライヴ)
 ムラヴィンスキー/レニングラードフィル ショスタコーヴィッチ8番交響曲(1961ライヴ)
  
 スベトラのN響シリーズは、すばらしい演奏ばかりですが、この5番もすごい!

 ライナーノーツにも書いてあるのですか、スベトラのチャイ5はロシア国立響のよりも自由というか、奔放というか。金管も実にのびのび、N響は弦に比べて管楽器、特に金管が弱いんですが、この5番は良く鳴っていると思います。

 1楽章の展開部に、ふだんは小さくて聞いたこともないテューバの音形とかフォルテで出てくるし、遊んでいるなあ。

 ティンパニが、特にすばらしくテンポが良く、音も重く、スベトラ流。

 闊達の域に達した、至高の演奏のひとつでしょう。

 でもCDは友人から借りたもの。買っとく価値はあるなあ。

 併録のスラヴ行進曲が、また濃いのだ。ピエロみたいなティンパニが途中にありますが、こんなに大きくドハデに叩いてあるのは、初めて聴いたし、私の理想。ここはこうでなくては、大衆にうけず、寄付金が集まりませんぜ。

 ロシア国立のやつ(キャニオン)は、これが大人しくって、期待外れ。

 N響のほうが本当にのびのびと自由にやっていたのだなあ。
 
 ここはひとつ、次に、同ライヴ演奏会の中からマーラーの5〜7番を期待しよう。

 御大がおっしゃったということにゃ、

 「日本じゃマーラーなんて誰もやらないんだろう? ひとつ私が振ってやろうじゃないか」

 だったそうで………。紅いミニ扇風機の羽音と共に、蘇れマーラー。
 
 ムラヴィンスキーのショスタコーヴィッチ8番交響曲はいまのところ4種類あって、私はやっとすべて集めて聴いてみましたが、この演奏がもっとも迫力と凄味と緊張感と真剣みにあふれている。本当に驚いた。
 
 1961年のライヴ・モノラル録音であるが、音質は(モノラルの中では)特上に入る。臨場感にあふれて、楽器の聴きわけもできる。

 1楽章冒頭から異様な緊張感。アレグロに入るとそれがいや増し、凄い不協和音が暴力的に響きわたる。これぞ戦争音楽なのではないか。金管と弦に埋もれがちな木管が悲鳴みたいな音で突き刺さるのが印象的。

 2楽章も凄い勢いで突進し、3楽章はクラクラきた。4楽章は、80年代のライヴではどうにも諸行無常の響きが魅力だったが、こちらは陰鬱な血なまぐさがただよう。

 5楽章の分裂状況は、ムラヴィンスキーはよくまとめている。ここらへんが、ただの感情爆発演奏とはちがう証拠。 

 だとしたら、1楽章のあの発狂的な音の氾濫も、やはり計算なのだろう。

 さすがです先生。許して下さい。

 最後まで気を抜くことのできない、凶悪的な演奏でした。これはもはや☆以外にありません。


5/19
   
 芸術劇場(ビデオ)
 ブーレーズ/グスタフ・マーラーユーゲント管弦楽団(来日公演)
 ヴェーベルン 6つの小品
 マーラー 第6交響曲

 ブーレーズはもう78才にもなるのだなあ。お元気で、芸術に枯渇することなく、ヴェーベルンやマーラーを指揮棒も持たずにビシビシする姿は、まさに巨匠と云うにふさわしい。
 
 もうね、この選曲がまずイカスのですよ。

 マーラーの孫弟子のような関係だった、ヴェーベルン。まして、ヴェーベルンはアマオケを指揮してこの6番を戦前に演奏しているぐらいですし、大正解といえます。さらに、こだわっているのは、この大きさはたぶん、4管編成バージョンですね。
 
 「6つの小品」はご存じない方のために付け加えますと、6曲あるのに、ぜんぶで5分ぐらいでしょうか。無調圧縮様式の、非常に凝縮された響きが聴き物。音楽の大きさはほとんどピアノだし、知らない人にはなにやってんだか分からない、いわゆるゲンダイオンガクの元祖みたいな曲ですが、曲の内容を云えば、室内楽で充分なのです。
 
 「それを」原典の4管でやる面白さ。CDはたいてい、改訂の2管なんですね。(そういやブーレーズは2管と4管と両方録音していたような)
 
 メインはマーラー6番。

 ウィーンフィルとのグラモフォンの録音は、実は苦手なんですけども(どうにも弛緩しているとしか聴こえないので)この若い学生オケの集中力と緊張感は、技術的な限界を越して、ブーレーズの真の指揮を具現していると感じました。(ウィーンフィルなんて、実はブーレーズが嫌いなんじゃないか!?)
 
 ヴェーベルンに通じる、内在する凝縮さという事実を正面からむき出すブーレーズ。サントリーホールが小さく見えるほどの大々編成がだす音にしては、やはりそれは物足りなく感じる人もいるだろうと思う。

 ブーレーズにとっては、マーラーなどはまるでベートーヴェンのごとき古典なのだろう。端整さを重視し、けれん味もなく、ドラマはすべてが特別なものではなく予定調和のように響く。ベーレンライター版マーラーなどというものがもしあるとすれば、こんな演奏になるのか?

 1楽章の冷静さというものはまず予想がつくが、2楽章が意外と感情的に激しく聴こえた。3楽章のテンポは、アンダンテにしてはちょっと速い。たいてい、全体的に速い演奏はこの楽章が速く、テンシュテットやバーンスタイン系の演奏ではこってりと長いが、このブーレーズやラインスドルフのような演奏は、3楽章が非常にしまりがあって、魅力的だ。
 
 4楽章は、この曲の白眉であるが、あくまでひとつの交響曲のひとつの楽章にすぎないという信念が音になっているよう。注目のハンマーは、とてもよく聴こえないのだが、瞬間、ブーレーズはハンマー担当の打楽器奏者を眼でチェック。掌がひらりと舞い、奏者とシンクロ。バッチリと画面に映っていた。

 あくまで、ハンマーといえども、ただの楽器のひとつにすぎぬという姿勢。(個人的にはもちろん、床が抜けるほどに鳴ってほしいが)
 
 4楽章でもっとも盛り上がるテンポ・プリモの部分も、絶叫にならぬバランス。

 マーラーの音響設計を忠実に護っていた。

 ラストだって、淡々と進み、すべてが楽譜に預言されている事なのであり、ことさら強調したりするのに意味はなく、また、悲劇的というふざけた題名なども、なんの意味もないことが分かった。
 
 こういうマーラーも、良いものです。もちろん。やっぱり、なんの曲をするにも、集中力がお客を惹きつけるのでしょう。(放送音源なのでディスコグラフィーには入りません。でも星は★4つでしょうか。)


5/9

 海賊盤は原則、とりあげないことにしたのだが、これはさすがに取り上げないとダメだ。
 
 テンシュテット ロンドンフィル ベートーヴェン第9交響曲 1991ライヴ録音

 音質は中。スースーいうし、かなりホール録りみたいな「こもり」がある。

 演奏がまた、なんと云えば良いのか……嵐の第九? 火山の噴火? ビッグバン? 元祖・炎の第九?

 非常にヒステリックな第九です。1楽章から、おののき、叫び、暴れ、2楽章は真摯とか情熱とか云えば聞こえがいいが、ラリってる。イッちゃってる。3楽章の没入は、すばらしい。テンポが遅めで美の極致のような旋律がゆっくりゆっくりとたゆとう。

 問題は4楽章だろうか。しかも、合唱が、叫ぶように、歌う。シャウトだ。これは。ハードロックだ。

 ティンパニは雷鳴だ。ワーグナーだ。弦が高音をかきむしる。マーラーだ。金管が吠える。ブルックナーだ。

 最後のアチェレランドときたら、フルトヴェングラーだ。
  
 テンシュテットという指揮者は、いったい、凄いのか、凄くないのか。(いや、凄いにはちがいない)

 音楽というものを、組み立てたり、バラしたりするのは解釈として当然だが、あそこまで「破壊」してしまう神経とは? (私はテンシュテットが実は音楽を破壊してしまう人間なのだと、この第九でようやっと気づいた)

 テンシュテットのマーラーの6番などは非常にカタルシスに満ちているが、第九もそうやってしまうとなると、話は別で、全身に鳥肌がたつ。

 人類の希望と未来の第九が、まるでデフレスパイラルのごとく地獄の底に墜ちてゆく様など、いったいだれが想像できようか。

 こんな恐怖に満ちた第九がこの世に存在していたとは、こいつはタマゲタ。
 
 魂消たデスよ。

 ロンドンの客、無邪気にブラボーしてるけども……まあ、現場で聴いてたら、爆発してしまう気持ちもわからぬでもない。この迫力は、ちょっと現代ではあり得ない。たったの、12年前なのだがなあ。(オレ、高校出てから、もう12年もたつのか。)
 
 芸術は、爆発だ。あのコマーシャルのセリフは、本当だった。テンシュテットなあ。やっぱり、凄いなあ。ただもんじゃねえや。

 根本的に、あの(この)第九を、このように解釈してしまうこと自体が、やはり、凄いのだと思う。

 これはもう音楽ではなく、死と生の狭間にたつ人間のドラマに他ならない。

 第九を、人間による人間のための人間讃歌だとしたら、この生と死の賛美のドラマも、人間のあらん限りの声だとしたら、テンシュテット、やっぱり、私はそんなテンシュテットの、音楽という表現媒体を借りた魂の叫びに、理屈抜きで、共感せざるをえない。やっぱり


4/24
 
 さいきんはなるべく海賊盤をここで書かないようにしています。でも、日本ではとっくに廃盤で、中古オークションで輸入盤を買うような状況が、日本で買える海賊盤よりもっともっと海賊チックなのではないだろうか。 
 
 そんなわけで、テンシュテットのブルックナー8番交響曲をいろいろ集めて、最後になって正規盤を入手しました。でも中古の輸入盤。
 
 テンシュテットはマーラーよりブルックナーの方が演奏するのは早かったらしく、さいしょはベートーヴェンとブルックナーの指揮者として世に出たような雰囲気です。
 
 そんなブルですが、海賊・正規両方で残っているのは、私の知るかぎり3.4.7.8.です。あらら、意外と少ない。慧眼かも。(全部演奏する必要はない作曲家です。5と9なら5と9、4と7と8ならそれだけ得意にしていれば、充分なような。。。)
 
 中で8番が異様に録音多いです。もっとも、正規盤1枚こっきりで、あとは全部海賊ですが……。世界の主要オーケストラをのきなみ振ってます。ブル8で。
 
 こいつはすごいことです。
 
 よほどの得意にしていたのだなあ。
 
 正規盤で残っているもの、 8番と4番だけで、この2種類が特に得意だったようです。
 
 6種類を録音年代順に並べてみます。
 70年代 北ドイツ放送響(ライヴ)
 74年  ボストン響(ライヴ)
 80年  シカゴ響(ライヴ)
 81年  ベルリンフィル(ライヴ)
 83年  ロンドンフィル(スタジオ)
 89年  フィラデルフィア管(ライヴ)
 
 そもそも私はブルックナー自体がそう得意でも無く、ましてや8番は「まあふつう」といったほどの興味しか無いので、そんなえらそうな事は言えないのですが、それならばそれなりに客観的に聴けるかな、とも思ってます。(いちおう好きなのは4.5.9番でしょうか)
 
 そうは云っても、何回聴いても3楽章は厭きてきます。というか眠い。長すぎる。つまんない。
 
 1楽章と4楽章がやっぱり好きかなあ。マーラー聴きの悲しい習性だなあ、派手で動きがあるのが好きというのは。2楽章がまたチンプの極みでもう最高に苦手。ブルックナーのスケルツォで凄いと思うのは9番だけです。わたし。
 
 それはさておき、この6種類、演奏はすばらしいけど録音状態が必ずしも付随しないものもあって、一慨に比較できない。
 
 それぞれの特徴を箇条書き。
 
 NDRはこの時代特有の突き刺すようなある種の凄味があって、非常に独特。ブルックナーの「正統な」ファンにはまさに毒の塊。

 ボストン響は、この時代よくタングルウッドとかに客演していたらしく、ベートーヴェンも残っている。録音が最悪で(ベト6と8の盤には鳥の声とか入ってる!?)どうにも評価は低い。演奏も、ノリがイマイチに感じる。
 
 シカゴ響はオーケストラがさすがの金属音響で、これも独特のブルックナー。それがテンシュテット手にかかり、騎士みたいな重厚さ。録音がもっと良かったら無敵だったのだが、惜しくもあまりよくない。
 
 ベルリンフィルは中でも最強でなくてはならないのだが、イマイチ。録音もそうでもない。併録のバッハが珍しい。
 
 正規盤のスタジオ録音が、録音状態も最高であるし、演奏は、ライヴのような激しい動静はないのだが、それでも音楽そのものがあまりドラマティックになっていないのと、スタジオ録音のなかでも珍しくノリにのっているという点で、最高評価をつけたい。点数的には、NDRといっしょで、★5つ。

 フィラデルフィアは体調がよくなかったのか、これもイマイチ。
 
 全体的に見ても、テンシュテットのブルックナーは動きが激しいうえに、金管のコラールなんかもバカみたいに鳴らすので、非常に派手だと思う。同じ8番でも、ヴァントやスクロヴァチェフスキと比べても、スケールがでかいという利点はあるかもしれないが、中身をとらえていない空騒ぎという欠点を指摘されるかもしれない。
 
 でも、ロンドンフィルのものは、鳴らしすぎを抑えつつも、内燃する情念があふれていて、わたしは好きです。

 それにしても、5番と9番を録音してないのが、特徴だなあ。5番はさておき、9番がなあ。
 
 また、余談ながらテンシュテットのブルックナーは、個人的には4番が最高にすばらしいです。ゲルマンタイプの濃い演奏に、オーストリア情緒の7番8番より、もっと素朴な4番が、合っていたのかもしれません。


4/7

 吉松隆 ASTRO BOY 「鉄腕アトム」 オリジナルサントラ

 吉松隆はアトムの大ファンで、トロンボーン協奏曲の冒頭なんか昔のアニメのアトムそのまんま。このたび、新版アトムの音楽を担当した。
 
 まあいわゆるアニメ音楽であるのだが、なんだか すぎやまこういち みたいな響き。う〜ん。 
 
 しかし中でも、さすがだと思ったのは、ライトモチーフ設定はあたりまえ、ピーターと狼よろしく、キャラごとに楽器まで指定しているこだわり。(ウランにはフルート・ピッコロ、お茶の水博士にはファゴット、天馬博士にはオルガン等)
 
 そんなことより、なにより驚いたのは(これがまた、吉松隆という作曲家を理解するのに非常に重要な事柄であるのだが)音楽的な影響を受けた人物として、チャイコフスキーとシベリウスはまあいいとして、なんと続いて手塚治虫と宮沢賢治が来るのだそうだ。
 
 これはなるほどと思った。
 
 なんとも、交響曲を聴いたファンより 「あ、これは手塚治虫の火の鳥だな、と思いました」と云われて思わずニヤリ、というのである。
 
 この、構成的にしっかりとしている「はず」なのに、どこか地に足の着いていない不思議な浮遊感、詩的な雰囲気、クラシックというにはあまりにジャジーでポップでセンチメンタル。
 でもやっぱり「クラシカル」。

 手塚や宮沢に通じているぞ、うむむのむ。。。

 (ホントか?) 

 しっかし、これをバカに真面目くさって「交響組曲」とかにしないのもセンスだよなあ。サントラはサントラだっつうの。ちゃんとそれで勝負しろい!


3/27

 ゲルギエフ/キーロフ管・ロッテルダムフィル
 ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」

 戦火の激しいレニングラードをのぞみ、作曲者は何を思ったのか。名高いショスタコーヴィチの戦争3部作の第1作目が、この世界情勢の中に問われるというのは、なにやら運命じみたものがあるのを感じ得ない
 
 個人的には、続く8番こそ真の戦争の悲劇と愚かさを描いていると思っており、この7番は良いものにはちがいないのだが、ナチスやっつけろの宣伝音楽的なチンプさがまとわりついているのを否定できない。(しかも脈絡も無く長い)
 
 もっとも優れていると思うのは1楽章で、かの「チーチンプイプイッ」のシュワちゃんのテーマなども、よほど「えぐり」を効かさないと皮肉にはならずに失笑してしまう。
 
 ゲルギエフはスヴェトラーノフやコンドラーシンのような前の世代の凄味とはちがう、もっとクリアなのだがよりデジタルな妙なリアルさをもっている。まさに、今イラク戦争に見る、戦争の映像がリアルタイムでテレビに映る戸惑いと不思議さ。

 2楽章というのはまるで印象に残らない。3楽章のラルゴは、作曲者渾身の作かといえば存外そうでもなく、4楽章に至ってはあってもなくてもいいような、とってつけたラスト。(10番もそう)

 シンフォニーというより、巨大な戦争組曲としたほうが良いこの曲だが、演奏によっては凄味があって、あなどれない。
 
 ゲルギエフは、もちろん★は5つの素晴らしいもので、音楽的な解釈も上々、もっと激しい演奏やきびしい演奏は他にあるので、ここで注目すべきは戦争うんぬんではなく1個の「交響曲」としての魅力だろうか。ゲルギエフの演奏で初めて、わたしはこいつが実は(こう見えても)交響曲なのだなあ、と感じた。それはていねいな旋律の処理と、推進力のある展開、などに見ることができる。(構成上のものは曲自体に最初から希薄なように思いますが)

 それにしても、このラストの恐るべき音圧の迫力に、恐怖を感じたのはわたしだけだろうか。

 だとしたらこれはやっぱり「戦争交響曲」なのだろうか。
 
 実はこいつは、恐怖を表した音楽なのだとしたら、価値は高い。
 
 ショスタコーヴィチの交響曲をあまり評価しない人々は、20世紀の歴史に興味がない人なのだとわたしは思う。
 
 ついでなのだが、今CDのライナーノートに、著者のウーノ氏はこう書いている。

 ベートーヴェンの不滅の9曲の次に、偉大なシンフォニーを書いた人を挙げよと云われれば、ブラームス、ブルックナー、マーラーがくるだろうが、わたし(ウーノ氏)はぜひショスタコーヴィチをいれておきたい。いや、マーラーを削ってでも、ショスタコーヴィチは入るべきである。
 
 わたし(九鬼)はもちろんこういう。
 
 ブルックナーなんかあっちにやってしまって、ショスタコーヴィチを入れなさい。


3/16〜22

 ブーレーズ/アンサンブル・アンテルコンタンポラン フランス国立管弦楽団 他

 ストラヴィンスキー 兵士の物語(全曲)

 なんですなあ、こういったストーリーを原語でやる作品というものなどを聴くたびに思うのですが……フランス語がわからんから、つまらないこと、この上ないですなあ。
 
 歌でもないし、セリフだしなあ。ああ、そんなわけで私のようなボンクラには、組曲で妥当だということですな。
 
 ストラヴィンスキー
  バレエ「プルチネッラ」全曲
  交響詩「うぐいすの歌」
  12楽器のためのコンチェルティーノ
  4つの練習曲
 
 セリフじゃなくって歌な分、プルチネッラなどは全曲でもそれなりに楽しめる。まったく、これの組曲というのは全曲から歌の部分とつなぎの部分を欠いたもので、エッセンスという意味での組曲では、まったくよくできている。

 プルチネッラは正直、さいしょ苦手だったんです。長く。

 さいきん、いろいろ聴くようになって、あらためて良さが分かりだしてきました。

 ソロイスティックな面白さ、旋律の豊かさ(もっとも旋律そのものは昔のイタリアの作曲家のもの)とオーケストレーションの妙味。

 いい曲です。
 
 ストラヴィンスキーには珍しい交響詩というジャンルにおいての「うぐいすの歌」は非常に好きな作品。もともとは1幕物のオペラのための音楽を、まあ色々あって、純粋なコンサート仕様にしたもの。

 これが楽しい。

 20分ぐらいのもので、オペラにちなんだ簡単なストーリーつき。(だから交響詩なのですね)

 ストーリーは割愛します。(いずれストラヴィンスキーベスト10でくわしく)

 オペラはちなみに、アンデルセン童話にちなんでいます。
 
 ブーレーズは各楽器を際立たせる独特の手法で(ハルサイでもやってました)このフランス風中国趣味交響詩を、見事にバルトークあたりに近づけています。ドラティもそうでしたが、ただの情緒音楽(マゼールとか)とはココガチガウ。楽しげな外観と、その裏側に秘されている奇妙さ、不気味さ、そういうのも味わえる。
 
 12楽器のためのコンチェルティーノは自身の弦楽四重奏作品の編曲もの。ストラヴィンスキーは編曲大好き。合奏協奏風のバイオリンを中心に、数多い管楽器が活躍する佳品。
 
 オーケストラのための4つの練習曲も編曲物。1〜3曲は弦楽四重奏のための3つの小品よりの編曲。4曲目は自動ピアノ(ピアノラ)のための小品の編曲。

 但しこちらは、フルオーケストラ。

 フルオケといえども、洒脱さと軽妙さにあふれた、ストラヴィンスキー独特のオーケストレーションが存分に活かされていて、通好みの作品になっています。

 「練習曲」というのは、シャレだと思います。
 
 オマケ
 ゲルギエフ/キーロフ管・合唱団

 プロコフィエフ
 スキタイ組曲「アラとロリー」
 カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」
 
 スキタイ人はイラン系の遊牧民族で、紀元前3世紀ごろまでいまのウクライナあたりを支配した人種だそうです。後にオセチア人となり、ゲルギエフの曾祖父もこの人種だったとか。

 プロコフィエフが当初バレーとして作曲し、後に組曲になったもの。冒頭の不協和音と荒々しさなんかは意外にもアンセルメのほうがすさまじいのだが、2曲目の地に足のついたリズムはゲルギエフ! まあ音楽自体は、まだ若い作曲者の覇気と野望とインスピレーションの限界を楽しむもの。
 
 カンタータのほうは、映画のサントラをコンサート用にしたもの。こういうの、実は昔からやられている。だから、否定はしない。

 問題は音楽の質であって、天野のBRとかGRとはレベルがちがう。

 とはいえ、しょせん映画音楽でもあるのだなあ。これが。

 そういや今日、指輪物語(二つの塔)をやっとこさ観てまいりました。楽しかったけどケツが痛くなった。長い。

 サントラも、まあまあ、でした。


3/3 〜3/15

 第2弾は3枚です。
 
 いま、WEITBLICKというレーベルで、ライヴ録音のヘルベルト・ケーゲルが大量にでてきて、嬉しい悲鳴ですが、お金がないのでとりあえずストラヴィンスキーだけ買ってきました。
 
 演奏はみなライプチィヒ放送交響楽団(現MDR交響楽団)です。

 バレーの情景(L1986)
 火の鳥・第2組曲(L1969)
 春の祭典(L1977)
 
 「バレーの情景」って、バレー音楽なんですが、アメリカ時代のなかなかマニアックな曲で、知ってる人はいるかなあ。私はCDは3種類目です。録音少ないです。
 
 11曲からなる組曲で、作曲と初演に際し、委嘱者とトラブッたようで、やる気がそがれたのかどうか、パッとしない音楽です。新古典主義の範疇に入ると思います。
 それならつまり、プルチネッラのほうがだんぜんいいというわけです。★4つ。

 火の鳥はケーゲルのことだから氷の炎かと思いきや、なかなかファンタスティックな、アニメチックなものです。ライヴだからでしょうか。気合入ってます。冒頭の不気味〜火の鳥のキラキラ〜王女たちの優雅〜カシチュイの暴れぶり〜バーレスクの幻想〜そしてラストのハッピーエンド、と、火の鳥1919版を聴くならコレだ、という典型的な演奏だけに止まらず(ここ大事)ビシッッと引き締まった造形、統率された肉体美を観るような、聴いていて飽きない火の鳥です。(これも大事)★4つ。
  
 火の鳥もそうだが、ケーゲルの春の祭典が聴けるとは思わなかった。ドレスデンフィルを駆使したスタ録はけっきょく新古典主義ばかりで、3大バレーは録音しなかった。そんでこちらは、とうぜんながら冷淡系のハルサイだが、ブーレーズともちがう、機械的というよりかは、粛々と法儀式が執行されているモダンな不気味さが味わい。盛り上がりも、奇をてらったような各楽器のデカイ音ではなく、あくまでオーケストラ然とした、一個の大きな物体がその物体としての質量のままガンガンと動いている迫力。なかなか、です。★5つ。
 
 ストラヴィンスキーといえば、私はその小品群をこよなく愛す。

 小品の定義は、まあ、5分以内ということになろうか。

 出世作の「花火」がまずステキだが、新古典になると編成も室内楽的になり、それはそのまま12音まで継承される。つまり、ストラヴィンスキー芸術の最初期から最後期まで連なるもので、バレー音楽に匹敵する重要な作品群を形成している。
 
 このたび、小品作品集という珍しいアルバムを入手した。アルテノヴァ・レーベルでなんとも700円。素晴らしい! 

 ホグウッド/バーゼル室内管弦楽団

 ストラヴィンスキーの他にティペットとブリテンの小管弦楽品も入ってるが割愛。

 目録は

 小オーケストラのための組曲1番(室内Ens)
 パストラーレ(S 室内Ens)
 無言歌(2Fg)
 シェークスピアの3つの歌(Ms Fl Cl Va)
 新しい劇場のためのファンファーレ(2Tp)
 子守歌(歌劇「道楽者のなりゆき」からの編曲による2つのレチタティーボ)
 小オーケストラのための組曲2番(室内Ens)
 
 このような珍しいものになっている。

 たった1分とか、1分半とかの音楽でも、ちゃんと音楽になっているし、それでいて、ストラヴィンスキーの音楽になっている。飄々とし、朴訥とし、墨絵のようであり、斬新なポップアートのようでもあり、アララという内に不思議な印象を残したまま終わってしまう。
 
 例外は組曲2番で、ラストのギャロップはなんともファンキーだ。(演奏したことがあるが、ウキウキしてくる)

 この組曲は若い時に創ったピアノ作品を新古典的な室内オケに編曲して並べ替えたもので、メロディックで楽しいし、ソロ楽器の扱いがまたうまい。3大バレーのオーケストレーションが室内オケにも存分に活かされているのを発見する楽しみもある。★はまあ、まとめて4つというところでしょうか。

 そして大本命、マルケヴィチ先生のハルサイにまたもや隠された録音が!! ロンドン響で、1962年・エジンバラ音楽祭のライヴ。
 
 もう、このザワザワする感触が冒頭からたまらない。生きている。蠢いている。奇をてらうどころの騒ぎではない。有機系演奏の頂点。

 個人的に、1部のテナーチューバはデカければデカイほど「大地の咆哮!!」というふうで大好きなのですか、これです! これ!!

 マルケヴィチ以外、物足りなさ過ぎ。

 2部の後半も、リズム処理よりも進行(スピード感)を大切にするのもマルケヴィチ流。速いというのではなく、緩急があって、おもしろい。

 昨今のうまい演奏においては変拍子を小節ごとバッサバッサと指揮して流れを重視するものが多いのだが、良いわるいは別にして、変拍子の各拍子をこのスピードで1つ1つキチンと振り分けると、オーケストラも、リズムが嫌でもゴツゴツになり、原始的で粗野で下手くそで素晴らしく生きた迫力が生じる。まるで荒々しく野に仏像を掘り進む放浪仏師の様相だ。

 まさに大暴れ。大地の震動。魂のふるえ。霊振(たまふり)。ラストに縦の線が合ってなくてなにがわるいんだー!!! 
 これ以外にありえない大演奏。
 
 ブラボー!! マルケーヴィチバンザイ!! (ついでに兵録のチャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リニミも素晴らしい演奏、ムソルグスキーの6つの歌も原色ブリブリ、正しいムソルグスキー感)

 次はエラートに昔ブーレーズが残したストラヴィンスキー新古典作品集。


2/25〜3/2
 
 じつはずっとマーラー交響曲ベスト3に続く企画として、ストラヴィンスキーベスト10なるものを考えているのだが、自分でベスト10に選んだはいいが録音がぜんぜんなくって、つまり録音がベスト3にもならない曲があって困っている。

 そんなわけでいろいろ札幌で仕入れてきた。

 第1弾はこの2枚
 
バーンスタイン/イスラエルフィル・イギリス・バッハ・フェスティバル打楽器アンサンブル他
 火の鳥(1919)
 プルチネッラ(1949)
 結婚

 火の鳥とプルチネッラは録音もたくさんあって、イスラエルフィルとの演奏なんかけっこうどうでもいいのだが、メインはバレエ「結婚」だ。こいつは、録音がハッキリいってない。私は3種類目。
 
 結婚はストラヴィンスキー原始主義の最後を飾る傑作だが、編成が異様なうえ、難しいので、毛嫌いされているのだろうかと。なんといっても、打楽器アンサンブル、合唱、4台のピアノ、ソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バスという独唱による。(オルフがこれを参考にしてカルミナを書いたのではないか、とのことです)
 
 このアルバムで異彩を放っているのはピアノ陣だ。アルゲリッチ、ツィマーマン、カツァリス、フランセシュという、ピアノにうとい私ですら「なんかすげえ」と思わざるをえない顔ぶれではないか。
 
 バーンスタインの人徳というものだろう。 
 
 顔ぶれはまあいいとして、演奏だが、独特の粘りはおよそアンサンブル演奏といえどもバーンスタインの色が濃く出ている。不思議なものだ。声やピアノで旋律が強調され、打楽器はうるさくない。しかし、粘りのあるリズムは重く、微分子を引きずっている感じが、この人のストラヴィンスキーをよく表している。(ハルサイもそうなんだよなあ)

 ショルティ/シカゴ響
 3楽章の交響曲
 交響曲ハ調
 詩篇交響曲

 ストラヴィンスキーの5種類の「交響曲」のうち、3曲がまとめて聴けるお得なアルバム。こういう企画は良い。この3つがいっぺんに聴けるアルバムは意外に無い。(ちなみにあと2曲は管楽器のための交響曲と交響曲変ホ調)

 ストラヴィンスキーの得意は小品とバレー音楽であり、交響曲というジャンルは珍しい。珍しいが、その分傑作がそろっている。ショルティはどの作曲家の音楽をやっても、問答無用でぶん殴るような覇気にあふれた演奏をする人で、これらのうちハ調と詩篇は死ぬ寸前の録音だが、まるでジジィの棒ではない。
 
 フォルテは厚く重い。鋭く迫り、ザッと引く。規律正しく動き、寸分の崩れも赦されない。軍隊の運動様式をみているようで、魅力的だ。
 
 詩篇交響曲がもっとも素晴らしかった。こんな生命力にあふれた詩篇ははじめて聴いた。力にあふれすぎて大暴れ一歩手前というのが特に素晴らしい。合唱はたいてい亡霊の囁き声のように響くのだが、生者の限りない訴え。特殊編成の管弦楽は管楽器の叫びが強調され、力強い(意外な)側面を見せる。
 
 半年後に急逝するとは、本人も思っていなかったことだろう。


2/23〜24
 
 クレンペラー/ ニューフィルハーモニア管 マーラー交響曲第2番

 ずっと探していた、1971年の最晩年ライヴの模様を、オークションでお世話になった方より、CD−Rに落していただいた。この際、なんでもいいし、むしろオークションで出品されたら2万円でも買おうかと思っていた(大ゲサ)商品であるからして、ありがたいお話しであった。(原盤アルカディア)
 
 クレンペラーの復活交響曲は私の知るかぎり8種類あって、ようやくすべて入手した。

 1人でこれだけマーラーを録音している人というのも、まず他に例がない。ワルターが、大地の歌の海賊盤がやたらとあるぐらいだ。ましてや、もっと規模の大きい2番だ。加えて、人生の節目節目へあてるように、戦後の後半生全体にわたって2番の演奏史が横たわっている。
 
 クレンペラーはものの本によるとこの2番5楽章に登場する舞台裏のバンダの練習指揮でマーラーの眼にとまり、推薦されて世に出たという。したがって、同曲やマーラーに対する「思い入れ」というのは、想像に難くない。
 
 クレンペラーの2番はどの時代のものでも革新と確信に満ちた素晴らしいもので、私は大好きだ。今回はじめて聴いたこれも、どのような表現が飛び出すか、聴いていてドキドキした。(それまでずっとこだわっていた1楽章の「区切り」が無い! 版の関係か?)
 
 まず遅い。2番で100分近い(98分)というのは、最長記録。だが、67分という最短記録もまた、クレンペラーであるというのが、おもしろい。
 
 しかし、ここでいう「遅い」というのは、結果論であって、これは「巨大」というのが正しい。史上最大の恐竜化石を仰ぎみる時の一種の懐古感と、同時にこんなものを現代に科学の力で復元した人間の力への驚嘆を、思い起こさせる。
 
 録音は放送音源であるということだが、くぐもった天井の低いような音色が時代を感じさせる。但し雑音は皆無。海賊にしては良好な部類だろうと思う。ステレオだし。
 
 うんと引き延ばされた夢幻的な旋律、一撃一撃が重い打楽器、いや増す低音のわななき、すべてが巨大な生き物の一部のようでもあるし、巨大な森の最深部で聴く精霊のざわめきにも似ている。3楽章の木管などまさに蠢く蟲の類なり。
 
 神話のごとき壮大さと、詩のような伸びやかさ、ノヴェルのような構築性、すべてがここにある。
 
 デカイだけじゃないですよ、クレンペラー先生!!人間像というものを自己をみつめることで普遍的に観たマーラー。なんとリアルであり、なんというファンタジーなのか。この巨大な再現は、クレンペラーの師に対する生涯をかけての返礼であり、最期の解のひとつなのだろう。
です。もうとうぜん。古今無双、天下無敵、絶対運命。(?)

 あとIANISさんより先日のシャイー歌曲集の録音年代についてご情報あり。

 デッカの公式サイトによると、リュッケルト リーター、キンダートーテンリーター、ダス クナーベン ヴンダーホーンとも1989年だそうです。

 ううむ、やっぱりか。

 ご情報、ありがとうございます。 


2/17〜2/23

 3種類の音楽。
 
 伊福部昭 室内楽作品集 バイオリン・ソナタ 日本組曲(弦楽合奏版) ピアノ組曲
 シャイー/ ベルリン放送響 マーラー「嘆きの歌」「リュッケルト歌曲集」「亡き子をしのぶ歌」
 小林研一郎/ 日本フィル他 マーラー交響曲第3番
 

 わたしが単純に、個人的基準で作曲家の好き嫌いを考えるときには、まずなんといっても打楽器の扱いの「うまさ」がある。それは私自身がアマの打楽器奏者だからに由来する。とうぜん、ティンパニも打楽器の内に入る。ティンパニだけの扱いを見た場合、ベートーヴェンやブラームス、ドヴォルザークなども天才的だが、やはりいろんな楽器があったほうが楽しい。
 
 そうなると、マイベスト3はマーラー・ストラヴィンスキー・ショスタコーヴィチとなる。

 20世紀の打楽器アンサンブルにおいてわたしがもっとも嫌うのは、ガラーン! ドガシャコーン、ぐじゃぼぎー、ぎょえー! という混沌の表現において、咆哮する管弦楽の中においてまさに騒音のモトみたいに扱われること。(打楽器をバカにしてんのかい!) まあそれも表現形態の一種としては、たまにはいいんですけども。
 
 上記のベスト3人の奏でる打楽器群には色彩があり、音色があり、響きがある。音楽になっている。管弦楽の中で、管弦とまさに音楽という中において打が「対等に」あつかわれている。本当なら管弦打楽としてほしいところなのだ。かれらに影響された人々においては、その系統をふまえ、なかなか良い曲が聴ける。(打楽器の非常に効果的な、という意味)
 
 ハナシは長くなったが、そのベスト3を四天王にしてみると、わたしは4人目に伊福部がくる。
 
 この人の管弦楽法は日本が世界に誇るもので、独特でありつつ、普遍。ハッキリいってうまい。それはつまり、教科書的でありつつ、オリジナリティなのだ。

 何もかもうまいが、打楽器がまたうまい。非常に構成的に書かれている。聴くもののツボを抑え、ここでこの楽器がなってほしい、という時にまさに鳴ってくれる。グッとくる。

 チェレプニン賞受賞作の「日本狂詩曲」において、すでに打楽器への偏愛は見られる。

 なんとも、打楽器奏者は計9人。

 いまでこそよくあるかもしれないが(そうでもないか……)1935年当時の日本ではこれは衝撃的だったことでしょう。 (武満もそうだが、概して日本人作曲家は打楽器のあつかいがうまい。伊福部の弟子たちも、同じくうまい)
 
 またまたハナシが長くなりましたが、そんな伊福部の室内楽作品集。
 
 バイオリン・ソナタは管弦楽にこそ真価があるともいえる伊福部音楽の髄だけが味わえる楽しみ。日本組曲の弦楽合奏版はバリエーションの一部を楽しむものだが、目玉は日本組曲の原曲であるピアノ組曲。

 これは初CD化なので、管弦楽版の日本組曲の方を先に聴いて、あとから原曲のピアノを聴いた。それによって逆に音楽の芯=心の部分がすけて見えた。さらに、また、ピアノによって奏でられる音楽の芯=心を、いかに管弦楽へ変換するかというオーケストレーション作業もが透けて見えて、実に楽しいものだった。

 こういう効果もあるもんだなあ。

 と、そんなわけで、ふだん大管弦楽のうまい作曲家のピアノ曲や室内楽なんていうものは、音楽の芯=心が見えるという思わぬ効果がある。
 
 先日、シャイーのほとんど「室内楽版」ともいえるマーラー「子どもの不思議な角笛」を聴いてみて、マーラーの芯=心を聴いたような気がして新鮮な気持ちになった私は、同じくシャイーの以前の録音で、他の歌曲集を聴いてみた。
 
 もっとも併録のカンタータ「嘆きの歌」は、全曲初版演奏のナガノ盤のあとでは、1楽章だけ初版で2と3楽章が改訂版の「折衷盤」においては、残念ながらもはや参考演奏にすぎない。但し演奏自体は、骨の太い表現が魅力の、なかなかドイッチュラント・ヴァーグナー系統に則したものであった。

 シャイーのこの録音は98年・99年と表記してある。86年に同じく現ベルリン・ドイツ響(当時ベルリン放送響)を使ってクック版の10番を録っているのだが、91年くらいの録音の再発売だと思うんだが、分かりません。近年の録音なら、なんでコンセルトヘボウじゃないんだろう?
          
 それはさておき、この録音当時から、シャイーはマーラーの歌曲集における「室内楽的傾向」に気づき、共感していたのだろうと思う。元来「リュッケルト」と「亡き子」は7番あたりのオーケストレーションにつながる渋い抽象的なもので、多分に室内楽的。この時期に初演をしたという「子ども」にしても、その影響は避けられないだろう、ましてや、マーラー自身の初演の模様がそれを示している……と洞察力の鋭いシャイーは気づいたのかもしれない。
 
 このディスクにはメッゾ・ソプラノのファスベンダーを使って「子どもの不思議な」から「魚に説教」と「この世の生活」そして「原光」がとられている。布石だとしか思えぬ。

 「この世の生活」は生々しい歌で、子どもが腹減ったと泣いている横で、もうすぐパンができるからと諭している内に、本当にパンができたらころには、子どもは餓死しているという内容。これを選んで、おののくように歌うファスベンダーに歌わせたシャイーの洞察力。
 
 「さすらう若人」にしてみても、女声を使っての演奏ははじめて聴く。男声はナマの記録だが、女声になると、過去の恋愛の傷をいま愛している女性に癒してもらっているような感傷がたなびく。

 「亡き子」はマーラー歌曲集の総決算であり、神髄中の神髄。難しい。これを聴かせる指揮と歌は少ない。作曲当時、マーラーはアルマとの間に2人の女児を授かったばかりで、子どもたちをあやしたその手で死んだ子どものための歌を作曲するマーラーに、アルマは神経がどうかしていると感じたらしい。

 けっこうドライに歌うと、分裂した神経の音楽が聴けるのでは。

 マーラーにしてみれば、アタマの中のスイッチが切り替わっただけだろうと思うが。 管弦楽はキリキリに切り詰められ、まさに室内楽。これをカラヤンなんかはベルリンフィルを駆使して録音していたが、イマイチなのはとうぜんだろう。

 シャイーのマーラー指揮者としてのセンスのよさは、こんなところで確実に現れている。

 コバケンのマーラーは変なところに超絶にバッチリ合っている。このままではシンクロしすぎて、いつか本当に燃え尽きてしまうだろう。ライナーノーツによると、ついに演奏中にマーラー本人が目の前に現れたようで、ますます神がかってきている。はっきりいって、ヤヴァイ。ライナーノーツを開いた瞬間 「ヨーダ!?」 と思わず叫んでしまったほどだ。

 これはまさしくフォースだ!!ww
 
 彼はまた、地味に芸大の作曲家に入学しており、ゲンダイオンガクに嫌気がして指揮者になってしまったというから、まさに日本人版マーラーであり、バーンスタインと同系統なのは自明の理。(さいきんは作曲でもCDあり。けっこうイケル音楽を書く。)

 常にスコアにない音楽=唸り声を聴かせるもの特徴で、これはバーンスタインの靴音に通じる「芸」だ。(笑) 
 
 1楽章は心のそこから楽しい! 先生! 30分間ずっと唸ってます!(笑) いや、音楽自体もノリノリで、展開部最後の軍楽風の部分などは思わず踊ってしまう。
 
 ずっと旋律線が太く、管弦楽の響きが厚い(熱い)まるでだれかのブルックナーのような「分厚い響き」が特徴のマーラーが続くのだが、マーラーのマーラーたる所以を失わないのは、千変万化する音楽を阿修羅のような棒で再現していること。

 そして6楽章の充実した放射する光の音楽! 8番を録音してほしいなあ。マーラーの魅力のひとつである人間讃歌、愛讃歌(偶然かオビのキャッチにこうありますが、パクリではなく私も自分の著書でそう書いてあります。)、あくまでどこまでもヒューマニズムの作曲家マーラーの楽しさや悲しさ、あこがれ、絶望を直線的に表した演奏。

 素晴らしい3番の演奏、アバドやベルティーニに見られる、マーラーの感傷的な部分、メルヒェンティックでどこか女性的な部分、夏の自然の微笑ましい優しい部分、そういうのをまったく欠いた、あくまで迫力ある男性的な夏、チューブの音楽のような、ヨッシャイケイケー! ビールもってこーい! の熱き夏。

 そんな1楽章であるし、全体的に、南の島の楽天的で開放的な(そしてちょっとエッチな)3番でした。日フィルも好演。いつもこんな演奏をしてほしい。

 ちなみに、唸り声はけっきょく100分近くの間ずっと聞こえてます。(爆)


2/14〜2/16

 シャイー/コンセルトヘボウ マーラー 歌曲集「子どもの不思議な角笛」
 ラトル/バーミンガム市響 マーラー 4番交響曲
 天野/ワルシャワフィル 天野正道 交響組曲第2番「GR」
 
 シャイー盤についての「特殊性」をまず挙げてみたい。そうでなくては,話がすすまぬ。
 
 ライナーノーツによれば、マーラーが作曲後数年を経てこの曲集の「初演」をしたのが1905年の1月末だという。(ちなみにそのころ、日本は日露戦争の真っ最中であった。)
 
 作曲当時は、交響曲の2〜4番と重なっていたが、初演の時期は、5〜7番と重なっていたことになる。
 
 それとどう関係があるのかはわからないが、マーラーの初演に際する思惑は「なるべく室内楽的に」であったらしい。

 だが、スコアをみるに(見たことはないので他の演奏を聴くに、が正しいが)管打楽器の多さに比例して弦を置くと、大管弦楽になるようだ。

 それを室内楽的にやる。

 ほとんどソロパートの菅打は減らせないので、必然、弦楽器が減る。

 つまり、この管打楽器の多さで、弦を減らすとなると、どう考えても管楽合奏的な響きとなる。じっさい、リュッケルト歌曲集には、管楽合奏の曲がある。

 マーラーの意図はそこだったのか。

 ハナシが長くなったが、この曲集を演奏する時、伴奏を大管弦楽でやるか、室内楽的にやるか。

 シャイーは初めて室内楽的にやったように感じる。

 すすり泣くような弦と、それとアンバランスに我が物顔に振る舞う管、薄いバックを得て異様に雄弁な声陣。

 この曲調でソレは正直、不気味だ。

 アンバランスさが不気味だった。

 大管弦楽的にやったテンシュテットやセルの演奏ではメルヘンチックさが「全面」にでていて、まるで大地の歌にも通じるシンフォニックさだったが、シャイーは伴奏が弱い分「歌」が前面に出て、これなら「歌曲」であると納得した。
 
 このマーラーの初演は20世紀の室内楽的傾向に少なからず影響を与えたらしい。シャイーはその再現をねらった。うまい。

 シャイーはまた、2番の4楽章と4番の4楽章の「歌曲部分」を合わせて録音している。
 録音順はシャイーが考えたもの。2番の3楽章に転用されている「魚に説教する〜」の次に4楽章の「原光」をもってきて、聴くほうはニヤリ。
 
 さらには歌手陣。私はものの本で、むかしの演奏は曲の内容に合わせて男声と女声を使い分けていたが、特にそういう指示はなく、古い演出だ、というのを読んだ。そう思っていた。バレンボイムはF=ディースカウで、ぜんぶ録音していた。
 
 しかしシャイーは声域に合わせて4人を駆使した。

 そうなると古いを通り越して斬新になるのだから不思議だ。

 これもうまい。メインのソプラノ(バーバラ・ボニー)に特に唸った。
 
 ディスクの最後に4番の4楽章「天上の生活」。これもニヤリ。お買い得だとおもいます。もうとうぜん★5つ。

  4番続きで、少しずつ買ってみているラトルを。バーミンガム市響。4番。

 私はですね、ここにきてようやくラトルの(私なりの)弱点をみつけたような気がします。演奏的には、メチャクチャうまい。うますぎる。とうぜん、指揮者の主観というものもふんだんに現れていて、聴き比べの楽しさを味わうのにも事欠かない。ラトルのやり方は独特で、楽譜のよみこみや、演奏する時の強調なども、おそろしく強い。
 
 しかし、演奏そのものとなると、異様に印象が弱い。
 
 楽譜をイジルのが指揮者の仕事のひとつとした場合、「あからさまにここをイジリましたー!」という演奏は「ディフォルメが強い」という事になると思うが、その「強さ」を自然に表せる人というのは音楽もまた自然に聴こえる。ラトルは、残念ながら、まったく不自然。「あざとさ」を「あざとく」聴かせないのが腕の見せ所。観客を指揮者の世界に引きずり込んで、「これが普通。わたしの棒による世界を聴きたくないやつはどうか他の演奏会にどうぞ」と云うほどの強烈な個性を「ごくごく自然に」やっつけてしまう人は、ベテランというか、天才というか、巨匠というか、まあその辺のひと達になるだろう。
 
 ラトルはあざとい。かなりあざとい。                       

 その「あざとさ」が、わたしの場合、非常に鼻につく。

 いやらしい。

 この「いやらしさ」はまったくラトル独自のもので、武器でもある。従って、ラトルの演奏へ共感する人を、べつに否定はしない。気持ちは分かるので。
 
 そんなわけで、ベルリンフィルとの5番にくらべたら、ぜんぜん不自然な音楽の取り扱いが、演奏は上手なんだけど、わたしの耳には不快でした。でも1楽章とか3楽章は、おもしろい演奏だったので、相対的にも★は5つになるのかなあ。なんだかんだいって、うまい演奏には変わりなかったです。でも盤としては集中力が続かないので、やっぱり4つにしておきます。

 天野正道はいま吹奏楽で流行っているらしくって、BRとかGRとか、奇妙なタイトルの交響組曲がまず眼をひく。

 これは映画やアニメサントラからの編曲で、バトルロワイヤルとジャイアントロボだそうです。

 他にも吹奏楽分野ではいろいろ曲がありますが、とりあえずこの2つを聴いてみた。

 BRは正直、映画のCMのときからヴェルディのレクィレムだとばっかり思っていて、CD(吹奏楽版だが)を聴いてびっくりした。

 オリジナルだったの!? である。

 聴いてみたら、やっぱりただのパクリ音楽で、私のこの作曲家に対する評価は最初から低い。
 
 GRは、横山光輝原作によるアニメは残念ながらみてないのだが、音楽はBRよりまだマシ。私が好きなアニメサントラは、宇宙戦艦ヤマト、ルパン3世の大御所陣から、究極超人あ〜るや機動警察パトレイバーなんかもいいし、エヴァンゲリオンや攻殻機動隊の音楽も良かった。

 企画モノとしては、そういったただの「BGM」をフルオーケストラに編曲して、CDにしたり演奏会を催すものが伝統的にある。たぶん、すぎやまこういち作曲によるファミコンゲーム・ドラゴンクエストのBGMがN響とかで演奏されて好評を博したのが先駆けだろう。また、ただのBGMでもフルオーケストラでやると存外に「高級感」が出て、聴くほうも良いものだ。作曲者も気分がいいだろう。
 
 映画サントラとしてはスピルバーグ御用達のウィリアムズの音楽をみても分かるとおり、インパクトがなにより。うまい旋律とうまい調の組み合わせで、それなりのものに聴こえる。そもそもはハリウッド映画やブロードウェイミュージカルの古い作曲家は、ナチスから逃げてきたユダヤ人だったりして、そういうBGMを書いて儲ける一方、クソマジメな交響曲とかも書く人も多かった。そういう系統としては、天野は正統な作曲家だと思う。が、いかんせん、インパクト非常に弱し。
 
 ふだんクラシック聴かない人にたいしては、それなりの効果はあるだろう。しかし、ひとたび、私のようなマニアが聴けば、ここの部分はあの音楽、ここの部分はいつか聴いたあの音楽、こんな打楽器ソロ、あの作曲家がよく使ってたなあ、ああこいう合唱、よくあるよくある……となる。
 
 パクリと影響と引用は、みなみな紙一重。

 難しいところだが、GRは「まあまあ」だと思います。

 アニメの絵と重なったら、さぞや迫力があるでしょう。

 ただ、あまりに伝統的なBGMをしてさも芸術ぶったような「交響組曲」などとうそぶくのは、私は、あまり感心しない。いや、他のクラシックの有名作曲家もたくさんやってますけどね。(笑)

 ところで、田中公平が同じくアニメ「トップをねらえ!」のサントラCDで、交響詩「ガンバスター」と銘打ってただのメドレーだったのには驚いた。なれないことをすると、そういう恥ずかしいボロが出る。それよりゃマシでした。

 
 でもたぶんもうこの人の音楽は聴かない。


 2/8

 知人の家で珍しいストラヴィンスキーのCDをみつけまして、中古で売ってくれといったらダメだったのでCD−Rに落しました。
 
 ベルティーニ/シュトゥットガルト放送交響楽団・合唱団
 D.フィッシャー=ディースカウ バリトン
 
 ストラヴィンスキー作品集

 詩篇交響曲
 ヴェールレルヌの詩による二つの歌 
 カンタータ「バベル」
 アブラハムとイサク
 JFKのための悲歌

 まず選曲がイカシテますね。昨今このようなステキな選曲はまずありません。(売れないから)

 レーベルはオルフェオでした。

 ベルティーニの「こだわり」を非常に感じます。

 メインの詩篇はシャープな発音と辺りをふり払うかのような確実な進行が魅力で、ドイツ式といってよいのかどうか、もやもや感はありません。なかなかの詩篇です。

 二つの歌は初めて聴きましたが、ストラヴィンスキーの最初期のものです。

 F=ディースカウというのがまたねえ、なんというか、マニアックですねえ。こんな曲も歌ってたんだなあ。怪獣が出す熱線みたいな声をする人なんですが、初期ストラヴィンスキーのフランスとロシアの折衷みたいな様式になかなかマッチしてました。

 後半3曲は12音音楽です。

 これも、シューベルトやそこいらばかり歌ってるイメージがあったF=ディースカウでしたが、20世紀音楽もいけるんだなあ。新鮮新鮮。

 カンタータといってもバベルは6分ほどの音楽で、星の王の雰囲気を残す珍しい音楽です。アブラハムとイサクも10分少々で、共に旧約聖書からとられた物語。ストラヴィンスキーの妙なトコロは、題材は古いものなのに、音楽はとても斬新という、その落差の面白さ。テレビドラマのための「洪水」という音楽もあって、面白いです。

 JFKのための悲歌は、お分かりの通り、ケネディ大統領暗殺によせるエレジーとのことです。


1/20〜1/24

 自分でいうのもなんですが、わたしは本当にマーラーが好きなんだなあ。
 6番 ベルティーニ/東京都響
 2番 ラトル/バーミンガム市響
 
 6番なんて、何回聴いても厭きないや。
             
 ベルティーニは云う。

 マーラーの交響曲や管弦楽歌曲集、そのすべてを合わせて、1つの巨大な交響曲になると言える。その中の1つの交響曲を演奏するということは、長大な長編小説の1編を熟読するということだろう。

 昨今、なんでも演奏するのが仕事の指揮者業において、単なる一作曲家の作品全体をマクロな視点でここまで把握して指揮している人はなかなかいない。

 特に6番においてはハンマーを人類の終結の打撃ととらえて、原爆の投下や飛行機テロになぞらえ、音楽効果に血を通わせている。ぶっ叩きゃいいってもんじゃない。聞こえなくすりゃいいってもんじゃない。意味のない音符をマーラーが書くわけがない。作家に対する絶大なる信頼。そして、作家の意図をどこまでも膨らませる想像力。
 
 演奏は特別にデフォルメが効いているわけでもなし、かといって端麗・端整に終わっているでもなし。かれ独特の美学とニヒリズムと確固たる信念だけがそこにある。控えめの冒頭から最後の本当に深い一撃までもってゆく構築性も見逃せない。
 
 わたしはますますベルティーニのマーラーに惹かれてゆく。いや、もう溺れてゆく。
 
 ところで、都響のこのレベルアップはどうしたことだ。若杉とのマーラー全集に比べたらぜんぜんちがうオケだよ。

 同じ6番は1989年録音だから、2002年まで13年ある。13年前は演奏のほうが「悲劇的」だったですが。今回はちがう、なにかがちがうぞ!

 整然と組み立てられた弦、音に向かってカーンと小気味よく当たる菅、鋭さと迫力を増した打、なにより全曲をついにラストまで燃えたぎりぬいたスタミナ!!

 これがベルティーニの薫陶の賜物だとしたら、都響は神様を迎えたにちがいない。
 
 ラトルのマーラーは、6番と9番と嘆きの歌で「……?」となって、とても上手だし演出も面白いが、どこかよそよそしくって、「この人、本当にマーラーがやりたいのか?」と思った。

 ところがBPOとの5番は、そんな固定概念があったものだからよけいに驚いた。実に伸びやかに音楽を操り、マーラーと一体と化して、かつ、いまふうの指揮者らしい楽譜の深い読み込みと再創造も忘れず、楽団の練り上げも完璧という、いたれりつくせりの演奏だった。ナマで聴いた人はいいなあ。ベルリンの人なあ。
 
 じゃ、これまでのマーラーはなんだったんだ? と思って、リマスタリング(東芝お得意)再発売の、2番を聴いてみました。

 けっこうテンポや表現の変化の激しい演奏だが、なにかが足りない。決定的な満足感がない。やっぱり、個人的な好き嫌いなのだろうか。同じ指揮者なのに。

 オーケストラの問題だろうか。

 それとも、ライヴ演奏かどうかなのか。
 
 私は、5番は特にラトルが「好きな音楽」なのではないか、と思った。この2番はでも、★5つの価値はあると思いました。 


 1/12〜1/14
 
 しつこくマーラーです。でもこれで「正月分」は終わりです。(笑)

 ベルティーニ/ベルリンフィル 7番(ライヴ・海賊)
 バーンスタイン/ボストン響 9番(ライヴ・海賊)
 クレンペラー/イズラエルフィル 9番(ライヴ・海賊)
 
 ここにきてマニアックな海賊版がきております。
 
 ベルティーニの指揮はけっこうオケを問わず柔軟に対処して魅力にあふれたものだが、オケがよければ良いほど、その指揮が醸し出す響きも充実するのは、物理的な問題のようにも思える。

 ここでベルリンフィルを振るベルティーニというものは、「練習のきびしさでベルリンフィルから嫌われている」という事情が本当にあるのなら、その貴重性において群をぬいている。演奏は楽譜に忠実と言われるのだが、ときどきおもいきって粘りや跳躍をするので、それへオケがどうシンクロするかだ。練習の徹底というのは、シンクロ率をいかに高めるかの作業に他ならない。

 この7番は演技としての面白さ、全体から観た俯瞰的な楽曲の魅力を柔軟かつ充分に表現し、かつ世界超一流の合奏力がそれへ満身をもって応えている点で、点数はダントツに高い。はい。気絶します。☆みっつめだ、この人。ベルティーニは私の中でもっとも点数の高いマーラー指揮者になっている。
 
 バーンスタインは、個人的には別に嫌いじゃないんだが、マーラーとなると、どうも世評のような評価をするわけにはゆかない。正直いってこの人、指揮甘いですよ。

 その感情的な甘さが、マーラーのいう感傷的な気分とか、厭世的なものとかに合致しているのだろうか。だから、別に世評を否定するわけではなくって、マーラー指揮者を代表する人の1人だとは思います。それはそれで別に問題はない。

 ただマーラーといえばバーンスタイン、なぜなら、同じユダヤ人だから、というような支離滅裂な言い方をされると、あほか、ってだけで、同じユダヤ人ならクレンペラーもワルターもベルティーニもインバルもぜんぶそうじゃん!!

 と叫びたくなり、どうもバーンスタインのファンがバーンスタインのマーラーを崇拝しているようにも見えて、一歩引いているだけなんです。

 でも、崇拝されるのもある意味実力のうちだし、なによりマーラーをひろめた功績は大なので、代表的なマーラー指揮者を5人えらべ、といわれたら、私なら絶対いれる。

 まあ演奏のほうに移るわけですが、ベルリンフィルとの例の9番ライヴと同時期らしく、あのまんまです。靴音も唸り声もいっしょだ。楽譜に書いてるんじゃないのか? ここで靴を鳴らす。
 合奏力や緊張感はベルリンフィルが上、自在に指揮へくらいつく妙はボストンが上、といったところでしょうか。

 クレンペラーの貴重な録音です。イズラエルフィルだって。こっちこそユダヤ三重奏だよ。

 1970年は超最晩年ですね。

 イスラエルまでいったんだなあ。

 オケは2流なんですが、貴重だなあ、この演奏は。まあEMIの正規盤を聴けば、かれの分厚い響きと巨大な表現が轟然と鳴る様をいやでも味わえますが(巨大タンカーが動くのに似ている)それがライヴになると、まるで台風の中で20万トン3万3千馬力が唸りをあげて波しぶきを割るような迫力をまざまざと見せつけられます。

 68年のウィーンフィルのライヴは録音が悪いんですか、驚天動地の魂が震撼すべき9番でした。

 こっちはステレオなんで、さらにすばらしいですが、オケがちょっと鳴りが悪いかなあ。海賊だからしょうがないかもしれませんが、演奏力の差も大きいかと。。。


 1/6 〜 1/10
 
 まだマーラー聴いてます。マーラーの6番も、もう100回くらいきいてるような気がします(笑) 別にこだわってるとか、研究とかしているわけではないんですが、好きなんだなあ。ただそれだけなんだろうな。
 
 しかも3種類も比べてみました。 
 
 ハイティンク/フランス国立管(ライヴ)
 ザンダー/フィルハーモニア管
 ギーレン/ベルリン放送響(ライヴ・海賊)
 
 ハイティンクはベルリンフィルで前に全集を作ってましたが、ためしにそれも6番だけ買ってみましたが、演奏は堅実な狂いの無いもので、まあまあというか、もの足りないというか、わるくないというか……印象にはあまり残ってないです。

 そんな人がライヴでどうかしちゃったような面白い演奏(私のこの「面白い演奏」は必ずしも「うまい演奏」とリンクしません。だから、非常にうまい演奏でも面白くもなんともないという多分に主観的な判断で★が低くなっている場合があります。ハイティンク/ベルリンフィルの6番がそれ。ブーレーズもそれ。)をする場合が多々あり、ちょっと期待して買ってみました。しかもオケはフランス国立菅。マニアックな組み合わせだ。

 結果。

 1回きけばいいです。

 はい次。
 
 ザンダーっちゅう人は初めて見たですよ。テラークにマーラーをもう数種類も録音しているみたいですね。

 しかもですよ、4楽章を初版と全集版と2種類録音しているというマニアぶり。さらに、ボーナスCDで、解説付で演奏しているというのがあります。DVDのつもりだろうか。

 でも英語だから何いってるんだかゼンゼンワカリマセン。(コストの関係か対訳なし)

 こういう解説系の人というのは、一人で徹底的に独自の視点で解釈して悦に入っている分析系ともちがい、みんなに懇切丁寧に教えてあげるという、学校の先生みたいな癖があり、演奏もえてして講義ふうになる。そういうのがまた、技術的にはたいへん上手かもしれないが、砂をかんでいるみたいにつまらない場合が多い。

 でもこれは、演奏はまあまあでした。

 マーラーに対して一家言あるだけあって、聴かせる箇所をよくわきまえていると思いました。それを感性でやるのではなく、おそらく研究の成果としてやっていると思います。ハンマーはうんちくたれるだけあって、すごい大きく入ってます。1回目、2回目、楽譜の通りの鳴らし方で、ふむふむ、とうなずけます。3回目も、でかいですよ。
 
 ギーレンは、正規盤を非常に高く評価している人がいます。確かに、わるくないです。なかなか独自の視点でマーラーの知られていなかった面をみせてくれて、勉強になります。余白に入っている諸曲も、シャイーよりもっとマニアックです。

 でも私は特に全集を集める気にはなりません。

 そんなギーレン先生も演奏会となると「変身」するのだから面白い。

 もっと上手なオーケストラだったらまだまだ凄味がでるんでしょうが、いろいろ事情があると思うのでしょうがない。デフォルメがあるとかないとかは(あればそりゃ面白いだろうが)そんなことより指揮者のマーラーに対する熱狂が熱く感じられれば、それだけでお金を払って聴く価値があろう。面白いのは、3楽章が12分。スッゲーはやいんだけど、変ではなかった。

 でも録音はわるいです。やっぱり。


1/2〜1/3

 引き続きマーラーをきく。その前にテンシュテットでモーツァルトやシューベルト、ベートーヴェンをきいているのだが、これがまたすばらしいまでに濃醇な熱気ある演奏だったが、1984年と1988年の日本ライヴの模様であるというが、本当だろうか。
 
 さておき、ベルティーニ/ウィーン響で3番をまずきいた。EMIの正規番はスタジオながら神の入った演奏で、わたしは迷わずベスト1にしてしまっているが、こちらは、ライヴだから盛り上がりはそれ以上だが、いかんせんオケが弱い。硬い。ウィーン響らしいギーギーした音が、楽しいといえば楽しいが、どうだろう、人によって評価が分かれるところではあるまいか。★はもちろん5つ。

 テンシュテット/南西ドイツ放送交響楽団で4番。

 テンシュテットは思わぬ年代に思わぬ場所で棒を振ってるんだなあ。まあ年代は不詳になってますが、70年代だと思うなあ。

 南西ドイツ放送交響楽団は、いまでいうバーデンバーデン&フライブルクSWR交響楽団だそうです。長い名前だ。

 SWRっていうのが、日本でいうNHKでありまして、NHKは日本放送協会の略でしたっけ(ホントか?)なんか、そういう意味でSWRは南西放送の略です。

 同じようにドイツでは
 WDR 西部ドイツ放送
 NDR 北ドイツ放送
 BR  バイエルン放送
 HR  ヘッセン放送
 MDR 中部ドイツ放送
 SR  ザールラント放送

 に、それぞれ直属のオーケストラがあるそうです。しかも放送局によっては複数。
 
 テンシュテットでよく出てくるのか北ドイツ放送響(NDR交響楽団)ですね。一時、ここの首席指揮者だったのですか、厳しすぎる練習のため、団とケンカして、すぐ辞めてしまいました。そのくせ、演奏はすばらしいのですが。
 
 このマーラーは客演でしょうが、テンシュテットの指揮は変わりません。スタジオよりも起伏が大きく、感情がよく動いて、生き生きとしていますね。鈴が不思議な音をだしていますが、これは銅や真鍮よりも鉄の音だと思います。カンカンカンというような、かるい音です。本当のところは分かりませんが。

 3楽章も美しく、テンシュテットの指揮によく食らいついてます。ボストン響より良いです。

 ソプラノも、気合はいって熱唱です。★はとうぜん5つ。

 ついでに、またラトルで5番をきいてしまいました。

 マーラーの5番なんかもう100回ぐらいきいてるような気がしますが、これはダントツにすばらしい!!

 ラトルもいいけどやっぱりベルリンフィルはすごいなあ。

 5番は楽章によって表現形式がちがうので(しかもそのくせ内部で連なっている)、1楽章はいいけど3楽章はダメとか、4楽章はよいのに5楽章はイマイチとか、よくあるんですが、これはぜんぶすばらしい! 一気に聴けます。5楽章がいいなあ。5楽章が良いのは少ないですよ。


1/1
 
 もう何年も、正月からマーラーをきいている。

 別にどうということはないのだが、年末には第九をきいて(さいきんはずっともっぱらクレンペラーの1957年のライヴ演奏だ。)正月にはマーラー。去年、一昨年と、意味もなくたまたま3番なんかきいていたが、今日は2番をかけてみた。

 小林研一郎/日フィルで、2002年7月の最新ライヴだ。

 「マーラーはもうしませえぇん!!」 とか叫んでいたのは、ありゃ、なんだったんだ(笑)

 とはいえ、私は「チェコフィルのマーラー全集はどうなりましたか」 と尋ねたら、そう答えたわけで、日フィルではいいんだろうな。

 というよりか、チェコでできない分の憂さ晴らしのような凄まじき熱気だ。怒りの2番だ。冒頭、弦の一打の前より、例の唸りがスピーカーから出てきた。笑った。

 ひっきりなしに叫んだり唸ったりしているのは、本気モードの証拠。チェコとのブル8よりぜんぜん熱いですが、やっぱりコバケンはマーラーを演奏するために指揮してるような人なのだなあ。すばらしい。
 
 まさに炎の塊のような2番なわけだが、いっつもこんなのばっかりきいているので、なれてしまっている嫌いもあった。わたし自身の話であるが。

 でも★は5つをつけざるをえない。この熱気が、チェコフィルであったらなあ。

 日フィルも本当、やればぜんぜんうまいじゃいですか。

 でもふだんからこんな演奏ばかりしていたのでは、身体に悪い。テンシュテットみたいな指揮なのだ。新年早々、このようなマーラーをきいたことに満足。コバケンがいて良かった。こういうマーラーも必要ですよ。
 
 では評判高い、もう一つの新譜のマーラー。

 ラトルの5番。

 ラトルもBPOなんて神器を得て、少しは有頂天にでもなるかと思ったら、BPOぐらいでちょうどいいと言わんばかりの余裕で、やはり巨匠はちがいますなあ。

 正月だからヱビスビールなんかあけながら、PREY と……。

 おや。おや?

 ちょっと、おいおい、あれあれー、なんだい、この1楽章からの粘りは。アレ、ラトル先生、ちょっとこれは、ついに本気モードかい!?

 これです、これですがな!

 こんなマーラーを聴きたかったですよ、ラトルで!

 2楽章、このドラマ!

 愛憎きわまるこの人間ドラマこそ、マーラーの交響曲です。

 この、身悶えするような、フレーズの使い回しときたら! うわー、すごいなあ。

 3楽章は、颯爽と通りすぎるようなカッコ良さで、難解な曲調を処理。モダンな音づくりだと思います。でも、ホルンのソロなどは、神(しん=心)が入ってるなあ。

 COMMEDIAのIANISさんが言っていたが、ここのコーダなどはまさにラヴェルのラ・ヴァルスのようだ。そう、これはワルツなんです。

 4楽章をあまり粘っこくせずに、意外とサラサラ進ませるのは、じつは正解。じわじわ吐露的な演奏も良いのですか、交響曲の楽章の一つにすぎませんのでね、全体で見ると、緩衝楽章のような役割だと思います。アルマへのラヴレターは、その隠された側面にすぎませんので。

 でもいつきいても美しい音楽だなあ。

 5楽章は色彩の共演、リズムの祭典。バッハ的な対位法を意識しつつ、ベートーヴェンの5番をも意識しまくったこの音楽、冒頭のリズム動機のパロだけではなく、全体の構成として深刻→解放への音のドラマも、そっくりそのまま。でもマーラーの5番の5楽章って、これは、という演奏は少ない。モタモタしているのです。たいていのものは。リズム処理の問題かと。

 そこでラトル。

 ノリノリだあ、ノリノリだよー! でもこれはノリノリで大正解な音楽だと思いますよ。

 で、あれば、この奔流のような音楽の解放は、無条件な、絶対的に無条件な、音楽の喜び、音楽の爆発、音楽の帰結を意味しているのではないか。

 ラトルのこの演奏は、すばらしいまでにそんなマーラーの想いを現代の我々へ伝えてくれているような気がします。

 正直、ラトルの演奏で良いと思ったの一つも無かったんで、マーラーなんかも期待していなかったんですが、こんな5番をきかされた日にゃあ、ぜんぶBPOで録りおなしてくれえ! と悲愴的な悲鳴を挙げる日々をおくらにゃならんですよ。

 なんという罪つくりな! 

 なんか、心境の変化でもあったんでしょうか?

 でも拍手いれて欲しかったなあ。


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