7/2
まだ売れ残っていた、テンシュテットのBBC音源による楽団自作の正規盤。R.シュトラウス作品集である。CD-R盤には無かったサロメから「7つのヴェールの踊り」が魅力。
テンシュテット
J.ノイマンSp
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
R.シュトラウス:5つの歌曲
R.シュトラウス:組曲「町人貴族」
R.シュトラウス:サロメより「7つのヴェールの踊り」「ああ、私に口づけさせようとはしなかった」「私はまだ生きている」「ああ!お前の唇に口づけした、ヨカナーン」
1986.5.4ライヴ
最初の「5つの歌曲」というのが調べても良く分からなくて、英語の解説を読んでも誰がいつオーケストレーションしたのか、作者が編纂したのか、私の英語力では不明だった。というのも、R.シュトラウスのピアノ伴奏のいろんな歌曲からの抜粋作品なのである。詳細は下記の通り。
1.「ツィツィーリエ」op.27-2
2.「憩え、わが魂」op.27-1
3.「わが子に」op.37-3
4.「子守歌」op.41-1
5.「献呈」op.10-1
作品表によるとop10は「最後の花びら」からの8つの歌曲、op27は4つの歌曲、op37は6つの歌曲、op41はこれも5つの歌曲で、みなピアノ伴奏。なお、op48にも5つの歌曲というop41と別の曲がある。
このオーケストラ伴奏の5つの歌曲が、どういう経緯で編纂され誰がオケ化したのか、情報求むといったところ。オーケストレーションがすごいシュトラウスっぽいので、作者本人だと思うのだが、これで別人なら大したものだ。
さて、演奏はノイマンの歌唱がまずスゴイ。そして雄弁な伴奏がスゴイ。テンシュテットはときどき伴奏が薄すぎて指揮者が消えてしまうといった芸当を見せるが、これは濃厚だ。
町人貴族は薔薇の騎士にも通じる超新古典シュトラウスの風味があまり得意ではなく、個人的にはパッとしない曲。演奏時間も30分越えと、組曲にしてはちょっと長い。特に最後の曲「ディナー」だけで10分もあるよ。
パッとしないと言っても、各楽器の使い方というか、オーケストレーションの見事さはいかにもシュトラウスだし、それを自然にかつ大胆に鳴らしてくるテンシュテットも見事だ。
白眉は、何と言っても7つのヴェールの踊りだろう。録音があるようで無いようで、他のシュトラウスの名曲に比べたらやっぱりレアなこの曲。カラヤン/ベルリンフィルの名演奏を長く聴いていたが、それに比べるとテンシュテットは生々しさ抜群だ。どちらも官能的なんだけど、テンシュテットの生々しさは、やっぱり楽器の鳴らし方だと思う。テンポの揺れを含めた動きが激しいし、妙なところで妙な楽器が鳴る。表面上の美より、内面的な葛藤や躍動を優先させたような音だと思う。
残りのナンバーは、オペラ最終盤の演奏会形式だが、オペラ自体が門外なので、なんかすげえな、という以外に感想はありませんw
6/2
大栗関連で、珍しいうえに興味深いアルバムが出た。
野平一郎/オーケストラ・ニッポニカ
プリングスハイム:管弦楽のための協奏曲(1934)
三善晃:管弦楽のための協奏曲(1964)
大栗裕:管弦楽のための協奏曲(1970)
マニアックな、オケコン特集である。
「管弦楽のための協奏曲」というジャンルは、ヒンデミットが最初とのことで、意外に新しいジャンルだった。私が興味を持って調べた「室内交響曲」と境遇が似ている。
高名なのは、天下御免のバルトークのオケコン。それ以外では急にマイナーになるのは否めないが、コダーイやルトスワフスキのものはまだ演奏や録音があるほうだろう。
さらにそれ以外となると、ネット検索すれば30人ほども出てくるが、有象無象といえば聞こえが悪いが、誰ですかこの人は……という作曲家がズラリと並ぶ。中には、この人がオケコンを書いていたんだ……という、珍しいレパートリーもあるにはあるが。シドリーン(シチェドリン)など、4曲も書いている。
プリングスハイムは、知っている人ですら指揮者としてで、作曲もやっていたと知っているのは相当なマニアか研究者くらいだろう。三善晃と大栗裕は、作曲家の特別なファンであれば、オケコンがあると知っている人もいるだろうが、録音は少ないか皆無のはずだ。しかも、プリングスハイムの曲は日本で作曲されたという。
すなわち、日本産オケコンを古い順から並べたという珍品企画演奏会がそのままCDになった、ビックリがしゃっくりの盤なわけだ、これが。
私は大栗の特別なファンなので、どうしても大栗>三善>>>>>プリングスハイムとなってしまうが(笑) 一般的には三善>プリングスハイム>大栗となるのは否めない。
さて、オケコンはコンチェルトというだけあって、3楽章制の曲が多い。
ところが、プリングスハイムのそれは1楽章制で、演奏時間は30分。解説によると大きなソナタ形式になっており、提示部、展開部、再現とあって、展開部がテーマと8つの変奏とコーダからなる。
ピアノの軽やかな下降系から、ホルンとティパニの軽妙なソロによる主題提示から始まり、なかなか一筋縄ではゆかない。響きは完全に新古典主義による、軽妙かつ明朗なもの。この主題の展開が正直とりとめがなく、リズム的にも進行的にも、かなり難しい(分かりづらい)動きをする。ティンパニのトレモロで(おそらく)提示部は集結し、展開部に至る。テーマはゆっくりと弦楽で示され、ホルンなどに移る。やや長い主題提示ののち、わりと速い音調と移り変わりで、めくるめく変奏が続く。途中にはピアノや鍵盤打楽器の洒脱な音調から、重厚な音調まで種々ある。残り5分ほどで華々しく冒頭が再現されるが、演奏する楽器は異なる。木管にティンパニが合いの手を打ち、モニョモニョ展開しつつ、最後までとりとめなく終わる。
三善のそれは3楽章制で10分少々という、三善らしい凝縮した様式と音響のもの。なんと、東京オリンピック協賛の芸術展示のためにNHKから委嘱されたという。64年の東京オリンピックは、メダルこそないが、芸術部門もあったのである! 三善の楽曲を文章で紹介するのも骨が折れるが、冒頭からのとりとめの無さはプリングスハイム以上で、とにかく増殖する細胞を音にしたらこんな風だろうというもの。解説によると第1楽章プレストは木管、金管、弦楽がそれぞれ主題を持ち、それらの2つの発展というが、主題がまずいわゆるメロディーではなく、なかなか一聴には分からないので、ここでまず訳が分からないまま終わる。第2楽章はもっとも長く、7分ほどもある3部形式。ゆっくりとした弦楽に、様々な楽器が協奏的にからむ。ときおり激しい音調を絡ませつつ、全体に緩徐部である。第3楽章はさらに速いプレスティッシモで、1つの楽想を各楽器が協奏しつつ、1、2楽章が再現される。
大栗のオケコンは、指揮者・朝比奈隆の渡欧演奏会用に委嘱され作られたもので、大坂俗謡による幻想曲や、組曲「雲水讃」と同じもの。3楽章制で、約30分。大栗らしく、日本的(というか、関西的、仏教的)な主題を基にした自由な楽章からなり、協奏曲というより組曲か、解説の通り交響的な3つの楽章に近いと思う。大栗の多楽章制のオケ曲の初稿はやけに長い傾向にあり、3楽章制の雲水讃も後に第1楽章がカットされて、2楽章制に改稿された。が、当曲は初稿のままと思われ、とにかくダラダラ長いw 私ほどの大栗マニアになるとこの茫洋としたとめどない長さ……と、言っても演奏時間的に長いのではなく、楽想の発展の無さがいかにも長く感じさせるのである……が、たいへん大栗らしくて良いのだが、演奏会を実際に聴いた知人たちは「いつ終わるんだろう……」と当惑、あるいは辟易したという。
第1楽章アンダンテ-アレグロは、序奏と2つのテーマからなる。このアンダンテの序奏からして、何か和讃か仏教歌のような気もするが、元ネタは分からない。大栗のオリジナルかもしれない。短いティンパニのうねりから、緊張感のある第1主題。重厚かつリズミックに進むが、この独特の響きとリズムがいかにも大栗で、嬉しくなる。発展はするが、展開というほどでもなく、執拗に主題が繰り返される。そう、オスティナートである。テンポが少し落ちて、やはり重厚ながらどこか諧謔性のある第2主題が現れる。これも、発展はするが展開というほど姿を変えず、執拗に繰り返される。この辺りは、伊福部や早坂の影響があるとのこと。主題の途中で、再現もコーダもなく、いきなり終わる。
第2楽章レントは、テーマと10部の変奏曲。ボツンボツンという低弦のピチカートに乗って、ビオラ(?)による独奏で東洋的な主題提示。すぐに木管などが受け取って変奏開始。短い変奏が次々に現れるが、基本レントなのが面白いというか珍しいというか。神秘的な部分や、土俗的な部分、ひっそりとしたり、ドンチャンしたりとなかなか細かい。最後はまたピチカートに乗って、今度はヴァイオリンが独奏でテーマをひっそりと奏でて終わる。
第3楽章アレグロ・モルト、序奏とコーダを持ったABA'の3部形式。Bはトリオと指定されているとのこと。短い序奏ののち、舞曲的かつ土俗的な部分が開始される。半音階でムニャムニャグダグダと主題が展開するんだかしないんだかという、実に欲求不満な経過部を経て、リズミックな部分に至る。ここがトリオな気がする。この田舎臭さ、土俗さ、確かにブルックナー的かも? 唐突にA部が再現され、あまり発展しないで一気にコーダ・集結へ至る。最初のA部が確かに長いな。
しかし、ワシはまたひとつ大栗の秘曲が聴けて歓喜感涙滂沱ラッキョの雨アラレ。他の曲もどんどん御願いします。
5/19
久しぶりに、吹奏楽でアタリのアルバムだ。
とはいうものの、2016年のアルバムなので、9年前のもの。
今更ながらお宝発見なのだが、別件で大栗裕を検索していたら引っかかったもの。もうけもうけである。
渡邊一正/シエナ・ウインド・オーケストラ 2016ライヴ録音
兼田敏:シンフォニック・バンドのためのパッサカリア
藤田玄播:吹奏楽のための「天使ミカエルの嘆き」
大栗裕:大坂俗謡による幻想曲(直筆譜による原典版)
三善晃:吹奏楽のための「深層の祭」
黛敏郎:オール・デウーヴル(長生淳編曲)
中橋愛生:科戸の鵲巣~吹奏楽のための祝典序曲
真島俊夫:三つのジャポニズム
吹奏楽邦人オリジナル作品ファンにはお馴染みの古典的名曲が、ズラリと並んでいる。これだけでも、名演奏なのではと期待が持てる。1曲ずつ聴いてみたい。
兼田のパッサカリアは1971年作曲、当時はオリジナル吹奏楽曲はほぼ海外の曲で、日本人作品にはあまりクラシック系の現代曲は無かった。調性感があるように聴こえるが、一種の12音技法で、うまく演奏するのはまずまず技術がいる。なだらかなテーマから激しい部分、牧歌的な部分、勇壮な部分、等々音列を18回も変奏する。確かな技術で、余裕を持って演奏されている。
藤田の「天ミカ」は1978年の曲。大昔に私も演奏したことがあるが、けっこう難しい曲。特に激しい部分でのシロフォンに、ちょっとよく意味が分からない演奏至難の音形が出てくる。このようなプロの演奏でも、楽譜通りに演奏はしていないと思う。コンクールなどで割と高名なはずなのだが、こういった作品集ではあまりお見かけしない。往年の汐澤/東京佼成WOの演奏が異様なほどシリアスで緊張感があふれたデッドなもので、それを刷り込んでいる耳にとって、かなりソフトに響く演奏。これも余裕といえば余裕なのだろうが、正直、ちょっと物足りなかった。
1956年にオーケストラ版(最原曲)が作曲され、1970年に復元作曲。それを1974年に作者自ら吹奏楽に編曲した大栗の俗謡は、言わずと知れた名曲オブ名曲だが、作者自身のコンクールカット版、演奏団体によるカット版等々、版が混乱していたのを、現在楽譜を管理している団体「大栗裕記念会」が残っていた直筆譜を校正して正規版というか、決定版を作ったもの。それによる演奏。509小節版とのこと。これがいい! 大栗マニアの我輩が言うが、かなりイイ演奏である。テンポ感とリズム感、それに構成感とフレージングがすごくいい。あと打楽器がイイ。アクの強い関西系そのもののノリではないだろうが、実は関西を背負った普遍的な新古典主義曲というコンセプトであり、あんまりコテコテにやるものではなく、キビキビとした明朗さが必要。だからと言って、コンクール演奏みたいに速すぎないのも最高。
三善の大名曲は、1988年のコンクール課題曲。現代音楽と合唱の大重鎮である三善晃が、吹奏楽オリジナル曲を残してくれたことに大感謝の逸品である。こんな斬新な課題曲は、出た当時はみんなびっくりしたろうなあ。まず、曲として先生や生徒がつかめるのかどうかも疑問だが、これが流石全国大会まで行くと名演が多かった。もう課題曲出身のオリジナル名曲の1つと言って良い。演奏は余裕がありながらも、当曲特有の緊張感もあり、かなり高レベルで良い演奏。
黛のオール・デウーヴルは、元々ピアノ独奏曲として1948年の作曲家最初期に初演されたが、本来はジャズバンドを意識して、ピアノ、ドラムス、コントラバスによるものだったという。ただし、コントラバスの譜面は見つかっていない。それを、長生淳が大編成用の吹奏楽曲に編曲したもの。短い2楽章からなる9分ほどの曲。第1楽章はブギウギ、第2楽章はルンバの技術による。第2楽章を改訂しオーケストラ化したのが、黛のルンバ・ラプソディであるという。あまり録音のない曲なので、いまいち演奏比較ができないが、ちょっと真面目に演奏しすぎているかも? でも、各ソロも決まっており、かなりうまいと思う。
中橋の科戸の鵲巣は、「しなとのじゃくそう」と読む。ちなみに作者の名前は「よしお」という。21世紀の古典となってきているもの。私はあまりなじみが無いのだが、再演を重ねているという。特に2000年代以降の妙なラノベみたいなタイトルの曲は、それだけでイマイチ食指が動かないのだが、独特のテーマと、それを鳴らしきる技術には確かなものがある。やはりここでも響きに余裕があり、たっぷりとした演奏。だが、さすがにここに並んでいるほかのレパートリーと比べると、楽曲としての質はワンランク下がらざるを得ない。楽想とその展開、全体の構成は、ややチープだ。特に、中間の緩徐部が冗長かつ陳腐で頂けない。終盤にいきなり現れるサントラみたいなテーマも、唐突すぎてどうかと思う。※個人の感想です異論は認めますw
真島の三つのジャポニズムは、いわゆるストレートな「日本物」としてはかなり洒落た作りをしており、海外で受けているとのこと。まあ、さもありなん。第1楽章「鶴が舞う」第2楽章「雪の川」第3楽章「祭り」からなる。ジャポニズムというだけあり、フランス式のエスプリが感じられる曲作りが、海外でも受けているのだと思う。第1楽章では、特殊楽器であるウチワやセンスが鶴の羽音を表すのだそうだが、まったく聴こえない。演奏の点は、ここでも余裕しゃくしゃくといった音作りが憎い。特徴的なトロンボーンのグリッサンドなども、もっとデッドに音を出してもよいと思うが、ここではかなり優雅に響く。第2楽章の木管類のソロも秀逸。第3楽章では和太鼓類の邦楽器がたくさん使われているようだが、海外での演奏はどうしているのだろうか。後半に、ちょっとラヴェルっぽい部分があって面白い。演奏は、最後の最後にハッちゃけて大暴れw 大爆発だ。ティンパニも荒ぶるよ。
5/4
マーラー編曲/ベートーヴェン集
ベートーヴェン:交響曲第5番
ベートーヴェン:交響曲第3番
ベートーヴェン:コリオラン序曲
ベートーヴェン:交響曲第7番
ベートーヴェン:弦楽四重奏第11番「セリオーソ」(弦楽合奏版)
ベートーヴェン:コリオラン序曲第2番
ベートーヴェン:コリオラン序曲第3番
ベートーヴェン:交響曲第9番
マイケル・フランシス/ラインラント=プファルツ州立フィルハーモニー 他
マーラーが再オーケストレーションしたベートーヴェン全集。交響曲は既に古い別盤で聴いていたが、コリオランやセリオーソは初めて聴く。マーラー先生、そんなもんまで編曲してたんかい。
演奏は現代的な、ベーレンライター版みたいな感じで、マーラーっぽさは特にない。というより、そもそも編曲は特にマーラーっぽさは無く、マーラー編だからといって、もっと派手だと思ったというのは認識不足である。
とはいえ、和音の補強やベートーヴェン時代には演奏至難だった音域の補助などのほか、マーラーっぽい創作部分も時々あって、ドキッとする。聴いた感じ、弦楽に多い。そんなパッセージあったっけ? と思うし、ベートーヴェン時代にそんなパッセージ存在せんwww という面白い動きを、本当に時々するので聴き逃せない。あと、全体的にティンパニの自己主張が強い(笑)
全集なのもうれしい。資料性にも富み、かなりお買い得な盤だと思った。
4/28
ラトル/バイエルン放送響ライヴ、最後は2022年の9番。
ラトル/バイエルン放送交響楽団(BRSO)
マーラー:交響曲第9番 2022ライヴ
未だに巷間しばしばうたわれている、マーラーの心臓病がどうのこうの、自身の死を予感して云々かんぬん、大地から10番までの交響曲は死のイメージガー~……というものは、前島良雄の論により明確に否定されており、むしろこのころマーラーは元気溌剌、心身ともに健康、バイタリティにあふれ、アメリカでバリバリ指揮の仕事をして、オフシーズンは作曲もバリバリこなしていた。むしろこの曲などは、最高傑作として生命力にあふれた究極の命と愛の讃歌であるとすら言える。
そんなマーラーの真実を理解する者にとって、9番は明るく清明に響く。暗さはあるが、マーラーは若いころからずっとある種の闇を持っているので、あってあたりまえだ。
ラトルの、この明瞭さと清涼さをもった演奏は、そういった真実に接すると急に共感がわいてくる。
第1楽章の力強さと、ことさら情念や暗さを強調しない清涼さ、明るさは、そういった前記のマーラーの特徴をよくとらえており、古いありきたりなイメージを完全に払拭している。マーラーが自己の交響曲の演奏に求めたという「明朗さ」を、真に理解している。第2楽章は元々明るく朴訥として朗らかな、9番の清涼剤のような楽章であったが、ラトルの指揮はそれをことさら強調せず実に自然に演奏しているだけで、それらが満たされている。楽しくも愛らしい演奏だが、後半の切羽詰まった切迫感も見事。
第3楽章はかなり急ぎ目のテンポでせわしなく進み、より2楽章からの切迫感を表す。そしてトリオ部との対比。このトリオは続く4楽章のテーマを先どっているので、その両方をつなぐ楽章として3楽章が機能している。リズムの処理も素晴らしい。第4楽章もトータル23分というけっこう速めの演奏で、サクサクと進むが、冒頭などの歌うところはたっぷりと時間をとっており、楽章内のテンポ変化の対比が面白い。中間部で大きく盛り上がるところの推進力は、見事に尽きる。この第4楽章のラストが「死にゆくように」だからと、やたらと辛気臭くやる演奏もあるが、それはただの演奏指示であって、本当に死にかけの演奏をする必要はなく、むしろ希望と明るさの光の中に融けてゆくような演奏でありたい。ラトルがそうである。
4/6
ラトル/バイエルン放送響ライヴ、続いては少しさかのぼって2018年の大地。
ラトル/バイエルン放送交響楽団(BRSO)/マクダレーナ・コジェナー(Sp)/スチュアート・スケルトン(Tr)
マーラー:大地の歌 2018ライヴ
スコアにはちゃんと「交響曲」と書いてあるのに、欧米ではだいたい歌曲扱いのこの曲。交響曲全集に入らないことも多いというか、たいてい入ってない。もちろん、高名曲なので録音は少なくないのだが、歌曲扱いなので単独録音となる。交響曲全集の中で好んで録音するのは、バーンスタイン級のマーラーマニア指揮者である。かのテンシュテットですら、日本で売れるから……という理由で、後で全集に付け加えているくらいだ。(当時、日本のファンから大地も録音してくれとリクエストが多かったらしい。)
そんな中、ラトルが2回も録音しているのは、やはりマニアックだからだろう。
実は3拍子でリズム処理が難しい第1楽章、生き生きと躍動し、厭世観というより元気溌剌といったふうだがw それもまた良し。第2楽章の、歌いこみと没入感が凄くいい。伴奏も、グイグイと感傷的にひっぱってくる。後半、ボロンボロンとハープが入ってからが特に聴き場所。第3楽章はチャイナな雰囲気が優先される箇所だが、ラトルもそうしつつ構成感を忘れない。軽やかな音運びが実にうまい。第4楽章。しっとりした部分と、どんちゃん騒ぎの部分との対比、そして息継ぎの難しい早口言葉みたいなところ、聴きどころは多い。全体に構成力が秀でている演奏。第5楽章は、何と言っても歌手がイイ。スチャート・スケルトンの歌いっぷりを、ラトルが全面的に補佐している。さすがヘルデン・テノールだ。
そして白眉の第6楽章。全体の半分を占める難曲。ほぼ無伴奏か、フルート伴奏といえる部分の寂寥感は格別。美しくも永遠の時が進み、だんだん音が少なくなってゆき、またほぼ寂しい鳥の歌のフルートと独唱だけになる。この大胆な薄さと効果がマーラーの凄いところで。また、これが交響曲扱いされないところかもしれない。中間部の間奏もまたすごい。音の強弱と云うか、出とひっこみのバランスが流石ラトル。音楽に奥行きがある。この間奏はわりと無表情にサクッとやる指揮者も多いが、じっくりと表情豊かに、ドラも重々しく響く。テンポもけっこうゆっくりで、情感と不気味さを出す。後半も他の演奏と比較して遅めだと思うが、そのぶん丁寧だラストも、むしろ明るくて清浄。救われている。
3/22
ラトル/バイエルン放送響ライヴ、お次は2024年の来日演奏直前の現地での7番。
ラトルは若いころから当時はマニアックなマーラー7番を好んで取り上げ、一家言ある。満を持しての、好きなようにやる自由な指揮ぶりである。
ラトル/バイエルン放送交響楽団(BRSO)
マーラー:交響曲第7番 2024ライヴ
1楽章冒頭からフレージングがやけにのびやかで、またマーラー特有そして7番特有の曲想の変化、テンポや楽想の変化を自家薬籠中、自在にコントロールしつつ、ダイナミックかつ繊細に音調を操ってゆく。スゴイ。
2楽章は、美しさの中にも不気味さ、なによりリズミックさを忘れない。下手な7番はこのリズムの行き来とした感じが死んじゃってる場合が多い。同じく7番で、リズムの権化みたいなベートヴェンにも通じるリズム処理がマーラーの7番にはあり、それを分かっている指揮者はリズムの扱いを消しておろそかにしない。
そして、リズムと云えばさらに不気味なスケルツォ第3楽章だ。ここをことさらおどろおどろしくやるのも面白いが、不気味なところは不気味に、コケティッシュで妖艶なところは妖艶に、きれいなところはきれいにと、意外に素直にやると面白さも際立ってくる。
4楽章は速めのテンポで、とてもチャーミング。ここを「夜曲」だからと、やたらとなんというかムード音楽のように演奏する向きもあるが、アッサリし過ぎて合わない聴衆もいるだろうくらい早歩きで進む。その心は、やはりそういった「間違ったムード」を払拭し、純粋にこの愛らしいナハトムジークの姿をさらけ出したいのだろう。とはいえ、相変わらず不気味なところは不気味だし、美しいところは美しい、大変に素直な表現であると分かる。
問題の多い終楽章、ここもラトルは素直だ。正直だ。てらいが無い。マーラーがそう書いているから、バカ騒ぎなのだ。あっぱらぱーだ。それの何が悪い。とはいえ、指揮や奏者まで本当にあっぱらぱーで演奏できる曲ではない。そこが難しい。特に金管は地獄だ。ここまで来て、金管バリバリなのは流石だ。日本のオケは、申し訳ないがこうは行かない。ヘロヘロである。しかも、テンポ変化が抜群だ。速いところは速く、ガクンと落ちるところは容赦なく落ちる。そのメリハリが、この長大な難曲を生き生きと立ち上がらせる。さらにラトルの棒はスコアを余すところなく鳴らし、このゴチャゴチャの音調に道筋をつけてマーラーの意図を明らかにする。まさにラトルはここにマーラーの使途に列したのではないか。
3/9
ラトルのマーラーはバーミンガムもベルリンフィルも個人的にはちょっとそっけなくてイマイチだったが、晩年のこのバイエルン放送響で何かふっきれたのか、集大成のような大演奏を出してきて魂消ている。手始めに6番を聴く。
ラトル/バイエルン放送交響楽団(BRSO)
マーラー:交響曲第6番 2023ライヴ
マーラー6番も概算で100枚くらいあるので、いまさら内容がどうのこうのもなく、まさに暗記するまで聴いたものをまだ聴くのかよという感じだが、この演奏はやはり何かが少し違う。これまでのラトルとも違って、妙に生々しい。指揮者は老境に限るというつもりはないが、バーミンガムの演奏ともベルリンフィルの演奏とも違う。余裕なのか、なんのしがらみも無くなった自由さなのか、とにかくリラックスしている。マーラーを演奏する楽しみというか、肩ひじ張らない奔放さというか。1楽章の豪快さは好感。
ラトルの常で第2楽章がアンダンテ。かなり慣れたが、好みとしてはやはり2楽章はスケルツォがいい。しかも、テンポはホントにアンダンテでちょっと速め。それが以前はまことに素っ気なく聴こえたものだが、フレージングが良いのか、じつに朗らかで爽やか。素晴らしい。
スケルツォもことさらにグロテスクさ、諧謔さを強調しないのは変わっていないが、やはりフレージングがより自然かつ盛り上がるものとなっている。
最高なのは終楽章だ。前半部の静かな部分の陶酔感や神秘さも良いし、アレグロに突入してからの突進も良い。なによりハンマーが重くて詰まった音で最高w
今後、7番、大地、9番と順次聴き進める。
どうでもいいが、先般クラシック音楽館で同コンビによる来日公演でマーラーの7番をやったのを見たが、やっぱりうまいのも然ることながら、さすがに終楽章まで来ても誰もへばってない。特に金管が最後までバリバリなのは唸った。別にBRSOだけじゃなく海外の一流オケはどこもそうなのだが、どうしても日本のオケはマーラーやブルックナーはエキストラだらけになるし、特に金管が終楽章でへばっちゃうのだ……。体力や体格が根本から違うからなのか?
3/1
昨年からメシアンの管弦楽曲にハマっているのだが、究極作の1つについに手をだした。
「我らの主イエス・キリストの変容」(1969)である。
演奏時間90~100分、全14楽章、100人の合唱を含む大編成オーケーストラのための作品で、メシアンのなかでも最大規模。
ケント・ナガノ/バイエルン放送響/バイエルン放送響合唱団
ジェニー・ダヴィエ:ソプラノ(ミのための詩)
メシアン:我らの主イエス・キリストの変容 ~混声合唱、7つの楽器の独奏と大オーケストラのために
メシアン:ミのための詩 ~ソプラノとオーケストラのために
メシアン:クロノクロミー ~大オーケストラのために
(CD3枚組)
昨年よりメシアンの主要作品を軒並み聴き続けてきたが、ここに究極が現れた。イエス・キリストの変容、とんでもない作品である。ちょっと驚いた。聖書のいろんな部分を歌うものだが、メシアン芸術の集大成の1つだろう。
そもそもメシアンは大曲と云えども、長い楽章で15分ほど。短いものは数分。そういった音楽の多楽章制を好む。編成も大オーケストラや特殊楽器を山ほど要求しつつ、ピアノソロやホルンソロの楽章も入れ込むし、室内楽のような楽章も平気で入っている。あらゆるジャンルの音楽の集大成といったもので、感動した。
私はキリスト教徒ではないので、内容については門外だし何を歌っているのも分からないのだが、とにかくメシアンの生み出す響きの美しさ、面白さだけでも音楽ファンとして楽しめる。
「峡谷から星たちへ…」「彼方の閃光」と合わせて、「イエス・キリストの変容」を我輩メシアン三大大曲に認定。
併録のうち、クロノクロミーは初聴。20分ほどの管弦楽曲で、リズムを含めてかなり複雑な音響を持っているが、耳障りは良い。やたらとシロフォンが活躍する印象。1961年の初演時に、賛否両論の騒動を起こし「問題作」となったというが、いまとなってはそんな過激な音響や音調には聴こえない。いつの世、どこの世界にもアンチは存在するものである。
1/2
今年の新譜は、ヨハン・デメイの交響曲第5番「Return to Middle Earth」から。
2018年の曲(2019初演)だが、デメイが新しい交響曲を書いていたのを5年以上も知らなかったわいガハハ。
この項を基本に、後で交響曲の項も更新したい。
さて副題の「Return to Middle Earth」だが、3番みたいにまた地球系の環境交響曲かな? と思いきや、交響曲第1番「指輪物語」初演30周年企画で書かれた、1番に対応する曲なのだそうだ。つまりこのミドルアースというのは、J.R.R.トールキンの指輪物語を含むシルマリルの物語、ホビットの冒険等の舞台である「中つ国」のこと。
5番は1番に戻るという意味合いを持っているので、個人的に「中つ国への帰還」と訳したい。
とはいえ、自分はシルマリルの物語を読んでないので、1番に比べていまいち内容理解に不備が残る。
デメイ:交響曲第5番「中つ国への帰還」~ソプラノ独唱、合唱とウィンド・オーケストラのための~(2018)
6楽章制、40分ほどの曲で、大規模ウィンド・オーケストラと合唱、ソプラノ独唱が入り、初演ののちすぐ日本で再演された以外は、されていないかほとんどされていない模様。記念企画だからと言って張り切りすぎると、そうなる。
各楽章の副題は、以下の通り。
第1楽章「フェアノールの宝玉(宝玉シルマリル)」
第2楽章「ルーシエン・ティヌヴィエル(小夜啼鳥)」
第3楽章「黒竜アンカラゴン」
第4楽章「アルウェン・ウンドーミル(宵の明星)」
第5楽章「怒りの戦い」
第6楽章「スリングウェシル(隠密なる影の女)」
簡単に解説すると、6つの楽章のうち、主にシルマリル物語に関連する事柄が5つ、指輪物語が1つだが、互いは綿密に関係しあっている。
フェアノールはシルマリルという3つの宝玉を作ったエルフの王。宝玉シルマリルは後に(初代)冥王モルゴスによって奪われ、その奪還のために物語の中核を担ってゆく。
ルーシエンはシルマリル物語に登場するエルフの乙女。物語後半で、人間のベレンとの愛の成就のための試練として、ベレンと共に冥王モルゴスに奪われた3つのシルマリルの奪還に挑み、うち1つを奪還する。その代わりベレンは死に、彼女も悲嘆のあまり落命するが、共に有限の命のものとして生き返って添い遂げる。ティヌヴィエル(小夜啼鳥)は別称。
黒竜アンカラゴンは、シルマリルの時代、冥王モルゴスの創造した中でも最強クラスの竜で、黒いドラゴン。怒りの戦いというシルマリル物語の佳境の戦いで猛威をふるったが破れ、冥王モルゴスの敗北が決定したという。
アルウェンは当曲中唯一、シルマリル物語の後世の話である指輪物語の登場人物。アラゴルンの妻のエルフの王女。ウンドーミルは別称で宵の明星のこと。ルーシエンの子孫で、ルーシエンは祖父の祖母に当たる。
当曲中最大の楽章である怒りの戦いは、冥王モルゴスとの最終決戦。
スリングウェシルは、冥王モルゴスの配下サウロン(指輪物語では、モルゴス亡き後の2代目の冥王)配下の吸血蝙蝠女。日本人の手にかかるとゴスロリ吸血少女になるようだが、メス吸血コウモリと人間を合わせたような外観をしたバケモノである。どうして、こいつがこの記念すべき交響曲の終楽章なのかは……サッパリわからないw
音楽を聴いてゆこう。1番の指輪物語ほどのインパクトは無いのだが、合唱や独唱のおかげか、スケール感や神秘さは5番が勝っているように聴こえる。歌詞はなんなのか、良く分からない。物語の引用なのか、デメイの作詞なのか……。
第1楽章は神秘和音と金属打楽器で始まり、ソプラノ独唱が(たぶん)シルマリルのことを歌う。合唱もすぐに加わり、シルマリルのテーマと思われる動機を執拗に繰り返すが、やがてそれは遠くへ消えてゆく。5分半ほどの曲。
第2楽章は神秘の伝説のエルフの女王。1番の第2楽章にも匹敵するが、独唱と合唱が神秘さと壮大さを増している。ルーシエンの悲しさと美しさ、そして人間と共に生きて、エルフとして初めて人間と同じ寿命で死んだ運命を表現した、6分ほどの曲。後半には、朗読のような場面もある。
第3楽章は、1番の第3楽章「ゴラム」に呼応している。最強のドラゴンを表しているにしては、少しコケティッシュなところもある、5分半ほどの曲。なんの楽器かわからないが(ソプラノサックス?)特殊奏法の甲高い声が、ドラゴンの鳴き声なのだろうか。ちょっと迫力に欠ける。中間部は、ファゴットの長いソロ。後半は勇壮な飛翔シーンか。声は入らない、器楽だけの曲。しかし、やっぱりこの猫の声みたいな高い啼き声は、最強の黒い竜のイメージにあわないなあ。
第4楽章、アラゴルンの妻でエルフの王女アルウェン。独唱が重要な役割を果たす、歌曲楽章。後半には少し合唱も入る。5分半ほど。しっとりとした音楽で、宵の明星の美しさと人間と添い遂げる覚悟を表す。
第5楽章は最大の曲で、12分にもなる。冥王モルゴスを追討する最後の戦いである。ホルンによる戦争の開始から、勇壮な進軍の様子や、打楽器合奏による軍勢の集結する様子、ホルンによる掛け合い、武器を打ち合う音、合唱による雄叫びも加わった激しい戦闘の様子が描かれる。いったん、静かになるが、次第に盛り上がってゆき、最期の戦いの幕がきって落とされる。最期は輝かしいファンファーレと歓声が鳴り響いて、エルフや人間の勝利が表される。
最終楽章である第6楽章が最も不思議な曲で、8分ほどだが、悪の盟主サウロンの手下の吸血蝙蝠女だ。しかも皮をはがれて、その皮をかぶってモルゴスのところに忍び込むのに使われるという悲惨さである。デメイがどうしてこいつを記念すべき交響曲の終楽章に持ってきたものか、誰か教えてくれください(笑) 独唱がきれいな歌をずっと歌っており、歌詞が分かれば、まだ少しは謎が解けるのだが……CDの解説にも歌詞は無かった。合唱も加わって、曲は大きく盛り上がる。常時金属打楽器がキラキラと鳴って、エルフの王女たちの楽章に負けないほど美しく展開し、まるでそのまま大団円に向かうようだが、5分ほどから急に悲しげな音調に変わる。そのまま悲愴的に盛り上がって、絶叫のようなソプラノで唐突に終わってしまうのである。実に不思議だ。
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