下村派略系
 

松吉八衛門久盛

山川久蔵幸雅

下村茂市定(サダム)
 下村派とはこの人の名前をとっているようだ。

下村定        

−細川義昌 −中山博道
−植田平太郎
−行宗貞義 −曾田虎彦 −竹村静夫 −楠瀬康方
−広田工作
−大江正路

 時代が明治になると、先生やその高弟の数も増え、書ききれなくなってきます。

中山博道
 明治6年生。剣道・居合道・杖道のぜんぶの範士をもっている三道範士。剣術は神道無念流、杖は神道夢想流。当初、行宗貞義に師事を乞うたが、土佐の者ではないという理由で退けられる。後、板垣退助の紹介をうけ、細川義昌に下村派を学ぶ。高弟が数多く、また、居合は大森流・長谷川流と称して行なっていた。博道は下村派の細川義昌や谷村派の森本兎久身(トクミ)より学んだ居合に、主に剣道や(おそらく)杖の理合も加えて、大きく改良した。また大江正路と共に、200もあったといわれる土佐英信流諸業を編纂整理した。博道死後(昭和33年)、高弟たちがその居合を夢想神伝流居合道として、世に紹介することとなった。

 古式ゆかしい下村派は、四国の楠瀬康方先生が、唯一その業を伝えていたということである。剣道日本1992年6月号に特集があるが、当時、84歳の楠瀬先生が20年近くぶりに人前で抜いたという下村派の連続写真は、かなり現在の直伝・神伝とは異なった業前で興味深い。初発刀の抜きつけは、神伝に近く体を大きく開き、鞘は「天地が逆になるように(手を返して)」引いている。現在の直伝が真正面に抜くのは、大江先生が猫背のように抜く弟子のための鍛練法としてはじめたとのことで、元は谷村派も体を開いていたとのことです。納刀は、刀を鯉口にとると同時に足を引くとのことで、難しそうです。(この時の?模様は動画としてYouTubeにもあります。興味のある方は自ら、検索してみてください。)

 山下嵐は、柄で水月を突くと同時に右拳で顔面を打つ業をしてました。袖摺返は、真正面の人をかき分けるのではなく、どういう想定か、自分から見て左斜め側の人をかきわけて、その方向に斬り込んでます。斬り下ろしは、剣道のような垂直立ちではなく、上体が前につんのめって斬りこんでいます。

 お弟子が何人かいらっしゃったようなので、高知で細々と伝わっているのでしょうか。孫々までぜひ伝えて行ってほしいものです。

 また、広島に植田平太郎先生の流の下村派夢想神伝流が残っているそうです。


業について。

 明治41年の細川義昌による初発刀の写真が武道雑誌に残っているが、抜き出す寸前のタメのときに切っ先がまだ鯉口に残っているのに右足が床上20センチほどに跳び上がっている。しかも細川師は撮影当時かなりのご高齢のはず。

 その迫力、まさに古武道に相応しい。
 
 ただし、左足は剣道連盟居合で禁じている「残り足」のようにも見えるし、抜きつけの位置もかなり高い。
 
 ちなみに、昭和30年、中山博道83歳のおり、英信流を16ミリフィルムにおさめている。映像そのものは見た事は無いが、写真がこれも武道雑誌に残っている。やはり、抜きつけ時の踏み込みの右足が高々と上がっていてすばらしい。83歳とは思えぬ迫力。斬りつけは、古流ということで、ビタリと深い。
 
 現代の居合は、やはり現代ふうにかなり変形してしまっているらしい。※私の所持している写真は雑誌のコピーです。


 中山先生以後は高弟の数があまりに多く、また、海軍の教習所や三菱の道場で剣道や居合の指導を行なったということで、博道門下はますます多い。
 
 私が学んでいる神伝流も、その海軍の系統になる。(略系)

中山博道−山蔦重吉−小松勝夫(旧海軍系の、わたしの直系の大先生です)
      −橋本統陽−大杉進(こちらは三菱系。先生がちょっとだけ師事したそうで、いわば傍系?)

山蔦重吉
 剣道藩士8段・居合道藩士9段。明治20年生。大正12年、中山門下に入る。海軍横須賀鎮守府剣道師範。先生の著による「夢想神伝流居合道」(愛隆堂 平成10年再販)はまさに神伝流のバイブルであろう。(山颪はちゃんと下半身も使って、引き倒したときに左足は膝を使って90度回し、右足と平行になる、と書いてあります。) 
 
小松勝夫
 大正4年生。旧姓小野。旧仙台藩指南小野派一刀流・小野弥蔵の孫にあたる。空母・鳳翔および赤城乗艦。海軍上海特別陸戦隊およびアモイ特別陸戦隊所属。(陸戦隊とはいまでいう海兵隊です。) 海軍兵学校等剣道教官。昭和10・11年全海軍剣道大会連続優勝。海軍教習所において、中山博道および山蔦重吉より居合(大森流、英信流)を学ぶ。平成15年8月逝去。
 
 小松先生門下に、私の先生たちがいます。
 
 小松先生は私にとって先生の先生にあたる大先生ですが、生前はいちどもお目にかかったことはありません。私が居合をはじめたときはもう引退なされておりました。

 先日、刀匠でもある、私の先生の弟弟子にあたる先生より、小松先生の昔の写真(昭和30〜40年代ごろ)をいただきまして、よくよく見ましたところ、現代の居合とはやはりだいぶん異なっていました。

 ふりかぶりで切っ先が下がっているのはまだいいとして、流刀は刀がまっすぐ前をむき、抜きつけは気合の入った前傾姿勢、引きつけはものすごい。中伝の血ぶるいは、中山先生のビデオにあるような、うんと下がったものでした。

 いまは制定居合があるので、そのとおりマネをしたら試験に受からず、段位がもらえません。せめて身内の稽古や、流刀だけでも、大先生の剣風を再現したいと思いました。
 
 また、先生が若いとき(昭和40年代だったそうです)、会社経由で赴任してきた大杉進先生に少しだけ居合を教わったとの事。

橋本統陽
 明治18年生。東京美術学校入学(!) 水戸北辰一刀流。明治41年、博道門下。中山博道有信館筆頭門人。三菱道場師範。三道範士。
 
大杉進
 東京三菱道場において橋本統陽より居合を学ぶ。他、古武道に精通。(鹿島神道流、九鬼神流、高木流の棒術) 憲兵大尉甘粕正彦に殺された共産主義者大杉栄の実弟。戦前の居合道教士。(大森流、英信流)

 大杉先生は居合を先生に指導しつつ、そのうち珍しい高木流の乳切木棒も教えてやるとご機嫌だったそうだが、すぐまた赴任で東京に戻ってしまったそうです。

 大杉先生が師の橋本先生より、「関東居合道研究会」のノートのコピーをいただき、そのコピーを私の先生がいただき、そのまたコピーを私がいただきました。

 表紙には以下の通りあります。

『居合道解説(大森流)
 関東居合道研究会
 関東居合道研究会は中山博道先生の高弟高須忠雄先生が中心と成り、東京新橋の東電道場を会場に昭和三十四年に発足す。
 大村唯次、林晃、檀崎友彰、橋本正武、棚谷昌美、各先生、出席。中山博道先生の直門』

 中身は、中山博道先生が直に解説した初伝大森流の解説(を上記高弟達がまとめたものと思われる)です。



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