二剣用心棒
九鬼 蛍
弐
四人に課せられた試練は、まず、なんといっても無事に山を下りることであった。
キギノとサクジリの二人だけならば、それはまったく容易な事だ。しかし、いまや、夜道を歩いたことすらこの逃避行が初めてであろう若い男女が加わっている。
一人は、今は亡きカギマの国の元守護大名タカラギ・バンドウが一女、タケユリ姫。もう一人はその従者であるヒナギという若侍。
ヒナギは、キギノと同じく後ろで束ねただけの黒髪がタケユリ姫にも負けず劣らずつやつやと月光に輝く、美丈夫だった。
汗と泥で汚れているとはいえ、顔だちはなめらかに線がすべり、都大路にふらりと遊ぶ若い公達をおもわせる。
一方、タケユリ姫も、その清楚な顔だちと気品ある立ち振る舞いは、さすがに三十万石の大名家の姫であるといえる。女房姿に身をやつしているとはいえ、その高貴な雰囲気は隠しようがない。
とにかく、外見だけでも、この屏風絵からぬけ出てきたような二人が、いままで山野を無事にさまよっていたのが不思議なぐらいだ。
そして、敵はクギラナ軍。おそらく、近衛軍である。
夜風にゆらめく山狩りの火が、遠くにちらちらと見え隠れしている。
急がねばならない。
「さて」
しかし、キギノは、落ちついていた。
隣では、タケユリ姫が不安げに暗闇に目を落としている。それをヒナギがしっかりと寄り添って、護っている。
サクジリは、ぶつぶつ言いながら梢のむこうの夜空を眺めている。
「どうだ」
キギノがそのサクジリに声をかけた。
「明け方までまだ少しある。いまの時節はちょうどあの山の頂のあたりから日が昇るから、南はあっちだ。とりあえず街道に出よう。そしてすみやかに山をぬけ、まずはコノギの宿場へ行く」
「コノギですか」
ヒナギが尋ねた。
「なにか文句があるのかい」
「いえ……。しかし、あそこは温泉町で、目立つのではないでしょうか」
「素人はだまってろ」
「………!」
涼やかなヒナギの顔が固くなった。サクジリも、その細くとがった目を上目遣いにヒナギに向ける。
とたんに、四人の周りの空気が張りつめる。人と人とがむき身の刀を突きつけ合ったときとよく似ている。
言葉は、時に刀よりも鋭く人を斬る。
「まあ、またれよ」
キギノの温かい声とひとなつこい笑顔が、その緊張を解きほぐした。
サクジリとヒナギは、同時にキギノの方を向いた。
「サクジリも、言い過ぎだ。仮にもこの方々は我らのお雇い主ぞ。ヒナギどのも、まずは我らを信用していただきたい。この二剣用心棒とその相棒サクジリ。いちどひきうけた用心棒を、しそこねたり、敵に売ったりしたことなど、ただのいちどもありもうさん」
「め、面目ござらん…」
ヒナギはすまなそうに頭をたれた。
「素直だな」
キギノは、ヒナギに好感をもった。サクジリの言葉の説明をする。
「ヒナギどの。コノギへ行くは、ひとつの指標にござる」
「指標…?」
「さよう。木の葉を隠すなら森に。人を隠すなら人込みに。意外や、そういうものだ。それに、お二人もそろそろ身を清めたかろう? 特に、姫どのはな」
ヒナギは、はたとタケユリをみた。タケユリはあわてて顔を伏せ、向こうをむいてしまった。
ヒナギはその背に、無言で頭を垂れた。そしてそれからまたキギノに向き直り、
「では、キギノどの。コノギへ着いてからは、いかようにスンプへ」
「それは……」
キギノはサクジリに目をやった。キギノの役は用心棒。剣を振るうのが仕事だ。道案内は、サクジリの役目である。
「着いてから考える!」
憮然とそう言い放ったサクジリは、さっさと歩き始めた。
苦笑しながらキギノがヒナギに視線を戻す。ヒナギはあわててタケユリの手をとり、サクジリの後に続いた。
キギノは、ふと天を仰いだ。初夏の夜はやたらとじめじめしている。雨がふるわけでもなく、天には星も輝いているのに、この、むう、と全身をおおう湿った空気。
キギノは大きく息を吐いた。こんな空気の夜は、よく血をあびるのだ。
サクジリは、タケユリとヒナギのために小刀で藪を切り払って進まなければならなかった。ただでさえ暗闇の中を進まなければならないのに、それがなんとももどかしく、いらついた。
「じれったいな」
何度そうつぶやいたか知れない。
しんがりを行くキギノは、ヒナギとタケユリが、サクジリのそのつぶやきのたびに申し訳なさそうに顔を地面にむけるのに、いささかたまらなくなった。
「両人とも、心配はご無用。我らがお雇い主どのに歩をあわせるのは当然至極にて、なんら気遣いや気兼ねをする必要はありもうさん。なあ、サクジリ!」
「ああ?」
サクジリはわざと聞こえないふりをして、さらに先を進んだ。しかし、それ以後、ひとことも文句をたれなかった。
四人は、しばらく、そのまま山中を歩き、斜面を下った。
そして、途中、何度か休みをとりつつ、数刻がすぎ、明け方近くには、なんとか無事に街道に出ることに成功したのである。
しかし、タケユリとヒナギの二人の体力は限界であった。
荒く息をつき、手足も傷だらけ。顔色はさらに悪くなり、言葉もない。
例えば猟師は、山へ行くときは厚い革の脚半や手袋で手足を防御する。毛皮の羽織も着る。キギノとサクジリですら、着物は変わらずとはいえ、手足にはその装備をしている。
しかるにこの二人は手は素肌。足はぼろぼろの草鞋と足袋のみ。着物も小袖と袴のみ。
およそ山野を逃げ回るには自殺行為だ。
案の定、ヒナギもタケユリも、手足のいたるところを細かく切り、虫に喰われ、赤く腫れ、熱をだすにまで到っている。
立っているのも辛そうだ。
「スンプはおろか、コノギまでも無理だ。死ぬぞ、二人とも」
うっすらと周囲が明るくなってきた中、二人を街道の傍らの大きな松の木の下に休ませ、キギノがサクジリにささやいた。
「世話のかかるご依頼人だ」
サクジリはそう言って、水と薬草を探しに再び山に入った。キギノはとりあえず、疲れ果てて眠っている二人の草鞋と足袋をぬがせ、それに失敬して着物を少々めくって傷の具合を調べた。
「なに…!」
キギノは、息をのんだ。ヒナギの小袖を脱がそうとして、大いに驚いた。晒にしっかと巻いた白い肌がふくよかにふくらんでいる。
「………」
ヒナギは、女だ。
「どういうわけだ……」
キギノは一瞬、考えこんだ。
殿さまの小姓を女がつとめるはずがない。だとすれば、ヒナギは訳あって小姓だとキギノたちを偽っていることになる。
「なんのために?」
わからなかった。
「姫の御側衆だろうか……」
ようするに専従の忍びのことだが、それにしては動きや振る舞いが素人すぎる。たとえ素人のふりをしているとしても、こんな傷だらけになって、熱まで出すとは考えられない。
そしてキギノはふと、我にかえった。そんな事を詮索している場合ではない。傷の具合を診なくては。
幸い、ヒナギは切り傷のみですんでいた。よく傷を洗って薬を塗れば、なんの問題もないだろう。
しかし、タケユリ姫はどこでどうしてか、ふくらはぎが大きく腫れていた。熱もあり、息も荒い。
「これは……」
専門の薬師が必要だった。
「膿むとやばいな……」
この病は、傷がひどくなると、片足を切らねばならない。それでなくとも、このまま足が腐り、高熱を発して死ぬ可能性が大きい。
キギノは奥歯をかんだ。
「なぜ早く言ってくれなかったのだ……」
くやしかった。
「なににそんなに気をつかっていたのだ。かような足をひきずって、まあ……」
その時、姫がなにかうわ言をつぶやいた。キギノは急いでそれに聞き入ったが、よく聞こえなかった。
「キギノ、おれだ」
キギノは振り向いた。サクジリが戻ってきたのだ。
「運良く沢が近くにあった。そこへ運ぼう」
「その前に……」
キギノは、サクジリにヒナギが女であることを明かそうとした。
しかし、先にサクジリはタケユリの足の腫れに目を奪われた。
「これは……! おい、急げ。姫は小さいゆえおれでも背負える。ヒナギどのはおまえが背負え。まったく……やっかいな仕事だ! あれしきの銭ではわりにあわん!」
そう言いつつも、サクジリはさっさとタケユリを背負うと、すごい速さで走りはじめた。
キギノも、それを追う。
「ん……」
すると、その途中、キギノの背中の上でヒナギが目を覚ました。
いくら外見だけ男に化けても、その柔肌はごまかしようがない。
ヒナギは、キギノの背でみるみる顔を耳まで赤くした。男の背で揺られるなど、生まれて始めての経験だった。
「訳は聞かん。だが、この次からは何事も遠慮なくずけずけと言ってくだされ! やせ我慢でかようないらぬ手間をかけられては、かなわぬ!」
ヒナギは、黙ってキギノの背に顔をうめた。
日もすっかり明けたころ、とりあえず四人は小さな沢におちついた。
朝日のなかで、沢のきれいな水で手足の傷を充分に洗い、サクジリの携帯している薬と採ったばかりの数々の薬草をもって、血止め、腫れ止め、熱さまし、化膿止め、痛み止めとした。あとは、なにか口に入れて体力をつければなんとかなる。
「我らの干し飯と味噌玉が少々。あとは魚でも捕るか。サクよ、姫が目を覚ましたときには、なにがいいだろう」
「鳥でも蒸し焼きにしたものがよかろう。雉がいい。精がつく。火をおこしておけ」
そういうや、サクジリは森へと入っていった。
「あの男は町の飾り職のくせに、山人顔負けの物知りよ。すべてをまかせてよい。さ、おれはやつから教わった秘伝で、魚でも捕るとしよう。ヒナギどのは、姫を看ておられよ」
「薬のせいか、よう眠っております」
タケユリは熱も下がって、ずいぶんと状態が良くなっていた。ヒナギは、タケユリの足を冷やしている沢の冷たい水をひたした手拭いをとりかえてやった。
「キギノさまは……」
ヒナギは、キギノになにか話しかけようとして目をみはった。魚を捕るというから刀で枝でもをけずって銛の代わりに使うのかと思っていたら、キギノは、両手で抱えるぐらいの大きさの石を持って、適当に川面を見回している。
「あの、なにをしておいでで……」
「うむ? 魚を捕るともうしたではないか」
「……」
ヒナギは、キギノが何を言っているのか理解できなかった。キギノは楽しそうに、
「これは、山人の秘伝にござる。よって、他言は無用にねがいたい」
キギノは、そうして、流れのゆるやかな辺りにずっしりと居すわる岩に、頭上に掲げた石をおもいっきりたたきつけた。
ゴ、
と、にぶい音がして、石は水しぶきをとばして川に消えた。
「まあ、見ておられよ」
ヒナギの不思議そうな視線を楽しみつつ、キギノは岩の周囲に気をくばった。すると、やがて、その岩の下から、岩魚やうぐいなどの川魚が次々と腹をみせて浮かんできた。
「あっ…!」
ヒナギは開いた口がふさがらなかった。キギノが急いでそれを拾い集め、蕗の葉でこしらえた籠に入れる。
「驚きましたか」
「え、ええ!」
「音に仰天して、魚が目を回しもうした」
「なんとまあ、山に生きる者の知恵にござりまするなあ」
ヒナギはそこで、はたと、自分が元の言葉を使ったのに気がついた。
「……訳あって、男姿に身をやつしているのでしょうに、かようなことで正体をばらすのは感心いたしませんな」
「もうし……」
ヒナギは口に手をあてた。
「面目ござらん」
「まあ、拙者と二人きりのときはよいでしょう。ささ、火をおこすのを手伝ってくだされ」
「はい」
キギノとヒナギは川原の石で炉を組み、枯れ枝と枯れ草を集めて火打ちをかけ、火をおこした。
魚は、川の水でぬめりをとってから、小枝を口から通し、そのまま塩をふって火にかけた。
「いや、これがまたうまいのだ! 酒がほしくなる!」
「まあ…」
ヒナギは、子供のように顔をくずして魚を見つめるキギノの様子が可笑しくて、思わずくすくすと笑った。そして、ずいぶんと久しぶりに笑ったような気がした。
「なれど、サクジリどのをお待ちせずともよろしいので?」
「よいよい」
キギノはそう言って、地面に刺した魚の枝をくるくるとひっくり返した。
「こうして、まんべんなく火であぶるのでござる」
やがて、魚たちがうまそうな匂いをはなちはじめた。ぐう、とおもわず鳴った腹を恥ずかしそうにおさえて、ヒナギは目を丸くした。
「ささ、さあ、食されよ」
キギノはヒナギにほどよく焼けた一匹をとってやった。
しかしヒナギは当惑した。箸も皿もないのに、どうやって食べればよいのであろう。
「そのままかぶりつかれよ」
キギノは苦笑して、自ら手本をみせた。
「こ、こうでありまするか」
こわごわ、ヒナギもつづいた。
「うまいであろう」
「ええ!」
二人はしばらく無心で食事を続けた。特にヒナギは、丸三日、水以外になにも口に入れていなかったので、無我夢中だった。
やがて、気がつくと、とった魚はみな骨となっていた。
「ま、まあ……」
ヒナギは恥ずかしそうに口をおさえた。
キギノがそれを見ておおいに笑う。
「いや、見事なたべっぷりにて!」
「サクジリどのと姫さまのぶんが……」
「なに、また捕ってしんぜよう」
キギノはそう言って立ち上がった。
「そんな暇はないぞ」
ヒナギは驚いて声のほうを見た。いつのまに帰ってきたのだろう。キギノの後ろに、サクジリが立っている。
「追手でも現れたか」
サクジリが気配を消して帰ってくるとは、それしか考えられない。
「それも、庭の衆がな」
「庭が……」
「庭」とは、城の殿様に直々に仕える、忍びの近衛部隊である。常に大将の直下にあって諜報、暗殺に裏工作を主任務とし、戦場では斥候、後方攪乱も行う。
「やっかいだな」
キギノは顔をしかめた。
「距離は」
「まだ間に合う。おれが後をつけられていなければの話だが……」
サクジリはそう言って不安げに川原を囲む山々を見渡した。
「おまえにかぎって、それはなかろう」
「買いかぶるなよ。こんな山人の真似をしているが、おれはしがない町の飾り職人だ」
「では、なんとする」
「出立するしかあるまい」
「お待ちくだされ」
そう言ったのはヒナギだ。
「姫君が……」
サクジリは唸った。確かに、タケユリ姫を動かすにはまだ早い。
かといって、ここでまごまごしているのも実にまずい。ゆっくりでも、進むしかない。
「まったく……」
サクジリはまた思わず舌をうった。
「何人だ」
キギノが、つぶやいた。
「庭か…」
「おうよ」
「おまえ一人では……」
「やってみなけりゃわからんだろう」
「しかし……」
サクジリはそこで息をつまらせた。いうまでもなく、キギノのにやにや笑いが、サクジリの言葉を出なくしたのである。
「しんぱいご無用……!」
そのにったりとした顔と声に、ヒナギも目を奪われる。
「で、ではわれらは先に行く。忍びはおれの見立てでは六人だ。おそらく夕暮れまでにはここは見つかるだろう」
「では、コノギの宿場の、例の場所でおちあうとしよう」
「マ、マツラ屋だな」
サクジリは再びタケユリ姫をその背に負った。
キギノはくるりとサクジリに背をむけ、歩きだした。
「キギノ!」
その背中に、サクジリが声をかけた。
キギノはサクジリにふりかえった。
しかし、それからサクジリは無言だった。
キギノも、ひとことも発しない。
キギノとサクジリは、お互いにかすかにうなずきあって、別れとした。
「キギノどの」
ヒナギは、思わずキギノに駆け寄ろうとした。しかし、一歩、足をだしたところで、思い止まった。
「ご、ご無事で……」
「また、あとでな」
言うや、キギノは山にむかって走りはじめた。
そして、サクジリとヒナギもまた、川をわたって、一路コノギの宿場へと向かった。
※
忍び。
その発祥は謎とされている。
大抵は一族郎党でひとつの「忍び集団」を築き、棟梁がそれを束ねている。ゆえに集団は「コノチ党」「カツラ忍群」など、棟梁の家の名や、在所にちなんで呼称される。個人や国に仕えている集団もあれば、独立して金で雇われる傭兵のような集団もある。
忍びは、諜報工作員であり、そのための技術に秀でている。
それを忍術という。
それは情報の操作収集術であり、隠蔽術であり、暗殺術であり、幻惑術である。
これからの「戦国の世」にあって、それらの術とそれを駆使する忍びの存在は、まさに必要不可欠といえる。優秀な忍び集団をいくつ抱えるかによって、その国の命運が決まるといっても過言ではない。
キギノたちを狙っているのは、庭衆だとサクジリが言った。庭衆とは、忍びの近衛隊だと先にふれた。と、いうことは、クギラナ公直下の、テイネ忍群ということになる。
「名前だけは聞いたことがあったが……」
キギノは、くわしくは知らなかった。
「いかような輩か」
忍び集団には、それぞれ個性がある。ある集団は特殊な武器に長じていたり、毒に長じていたり、情報術に長けていたり、体術が自慢だったり、さまざまだ。
忍びはけっして自らの素性を明かさないから、その戦い方や特徴などで、どこそこの国、どこそこの里の忍びだということを判別する。逆にいえば、どこそこの忍びはどういう戦い方をするのかということも、わかるのだ。
しかしキギノは、テイネの里のことはまったく知らない。カギマの国のテイネ領は、カギマのはるか奥地で、一部は海に面し、山と寒村ばかり。幕府創設以前のころには流刑地であったともいわれる、なんの価値もない場所であったからだ。
そんなところの忍びの里のことなど、気にもとめていなかった。いや、そこに忍びの隠れ里があるということ自体、よほどの情報通でなくては知らない。
「しかし、クギラナ公の謀叛の際のあの見事な立ち回りには、絶対にこのテイネ忍群が貢献しているはず。現にクギラナ公直下の庭衆としてカギマの城に入っているのだから………相当な腕前のはずだ」
キギノは、くっくと笑った。
「どんな輩か楽しみだ」
キギノは、一日じゅう山を走り回り、日が暮れるころ、山の中で、焚き火をおこした。
むろん、庭衆を誘うためである。
しかし、森の中での忍びほど、やっかいな相手はいない。森と人込みは、忍びの術の独壇場なのだ。
それに対して正攻法ではつらい。
くわえてキギノは、相手の裏をかいたりする芸当はあまり得意ではない。
とにかく、しのごのいわずに真正面からやるしかなかった。そして、キギノにはやる自信があった。
そして数刻がすぎた。
「きたな…」
キギノは静かに目をあけた。木の側にすわって、消えかけた火を前に、じっとしていた。ぴくりとも動かずに、小枝の折れる音を確かに聞いた。
周囲に、落ち葉に混ぜて、枯れた小枝を大量にばらまいておいたのだ。
サクジリから教わった、対侵入者用の結界技法である。
知らぬ者が近づくと、枝を踏む。すると枝の折れる音がする。森のなかでは枯れ枝などよく落ちているから、侵入者は、気づかずに踏んで、容易に自らの存在を教える。
しかし、小細工はここまでだった。忍びとて、枝を踏んだ瞬間にこれは敵の結界と気づいている。森で堂々と足音をたてるほど忍びもまぬけではない。足音を消しているにもかかわらず、つい踏んで折ってしまうほどたくさんの枝が落ちているのだ。見るからに不自然である。
これ以上は、直に「やる」しかない。
キギノは呼吸を整え、気を練った。心と身体をゆるやかに落ちつかせた。そしてすわったまま軽く腰を浮かせた。
「!」
ごう、と夜の闇に風が鳴ったと思ったら、ざんと藪が揺れて、キギノの真正面から何者かがとびだした。猪とも思えた。が、それは忍びだった。
キギノは大きく地面を蹴り、後ろに跳んだ。軽く腰を浮かせていたのは、このためだ。
漆黒の闇によく紛れるように、忍びは濃い紫か茶色の忍び装束に身をつつんでいる。この色は、黒よりもよく闇に紛れることができる。
その忍びは、跳んだキギノの着地する場所をめがけて、何かを投げた。それはクナイと呼ばれる、一種の手裏剣だった。大型で、接近戦用に短刀として手に持っても使えるし、野外における万能道具の役目もする。
キギノは身を低く保ったままクナイを避け、忍びにむかってまた跳んだ。この「跳ぶ」ためにわざわざ広めの空き地を苦労して森のなかに求めたのだ。
そして何度も地を蹴り、接近しつつ、刀を抜きざまに忍びにむかって斬りつけた。すなわち、「抜刀術」である。
抜刀術は、「抜きながら斬る」という、剣術界における革命児であり、この時代にそれを取り入れている流派は、抜刀術を創始した林崎夢想流を除けば、知られているかぎりキギノの天心八剣流のみである。ゆえに、この術は、敵にとってはまさに驚異の秘剣であろう。
抜刀術の最大の利点は、その「速度」にある。抜いて、構えて、斬るの三拍子ではなく、抜きながら斬るの一拍子は、凄まじい速さの攻撃を可能にする。加えて、跳躍によって敵の目をさらに惑わす。
しかしキギノは、跳びざまに刀を途中まで抜いておきつつ、斬りつける前に、最後の着地で、大きく横に跳ねた。
後ろから、鉤縄が飛んできていたのである。
それにからめとられたら、いかにキギノとて、かなりまずい。
(何人、こっちに来たのだ!)
キギノは受け身をとって地面をころがりつつ、考えた。
その隙に、忍びは再び闇に消えてしまった。
鉤縄もすでにない。
キギノは、闇の中にジッと身をひそめた。得意の「うずら隠れ」だ。が、敵も、それを使っている。
「うずら隠れ」は、我慢合戦である。どちらか先に動いたほうが、死ぬ。それはつまり、こういう状況でのお互いのうずら隠れは、意外やすぐ側に隠れあっている場合が多いのだ。目と鼻の先で、お互いに、気配を消し去り、相手が先に動くのを何刻でもひたすらじっと待つ。
その時、風のいたずらか雲の気まぐれか、はたまた天の采配か、キギノの頭上に大きな月がでた。
(しまっ…)
月光に、キギノの姿が影をのばす。
キギノは、四方からすさまじい殺気がせまってくるのを全身に感じた。痛いほどの殺気だ。どこに飛び出ても、やられる。
キギノは、咄嗟に真上に跳んだ。間一髪、キギノの跳ぶのとほとんど同時に、キギノのいた場所にクナイやら鉤縄やら棒手裏剣やらが、どかどかと飛んできた。
キギノは頭上の枝につかまり、すぐに地面に下りた。そして、一目散に走りだした。
逃げた。
これ以上その場にいるのは、あまりにも不利だったからだ。
キギノは走って走って、跳んで、また走った。
木々のあいまをひたすら走った。
「我ながら、忍び顔負けだ!」
そして適当なところで、止まって、小刀をぬいた。草木が密集していたので、大刀は不利と判断したのだ。
天心八剣流は、この時代特有の「総合武術」である。大刀技もあれば、小刀技もある。無手、すなわち柔術もあれば、槍も薙刀もある。馬術、弓術、縄術に、変わったところでは気功術に泳法術があげられる。
「ようし!」
キギノは気を一転して、みるみる闘気を全身からたち昇らせた。そして右半身に構え、軽く腰を落とし、右に小刀、左は手刀状にした掌。その掌は、腕を軽く曲げて胸を護る。
天心八剣流、「八之体」だ。
そのキギノの左横のしげみから、一人の忍びが飛び出てきた。忍びは、クナイを手にしている。
キギノは左の歩を引いて体を左に半回転させ、瞬時に忍びと向き合った。そして、忍びのクナイの一撃を、その手首を左の掌でからめるように受けるや、手首の痛みのツボを押さえつつがしりと掴み、鋭い呼吸を伴ってそのまま再び歩をひき、体を開きつつ腕をふりかぶって一気に振り下ろした。
忍びは豪快にその場で踊ってひっくりかえった。しかも、キギノに掴まれた腕の肘と肩が音をたててねじれ、完全に破壊された。
八剣流柔術、「片手肘落」。敵の手首、肘、肩をきめつつ投げる高等技だ。しかも、自分は片手で敵を投げるため、投げた後に反対の手で攻撃ができる。
キギノは形の通りに、転がった忍びの胸に小刀を突き入れた。
そしてキギノは、素早く後方に下がった。
二人めが迫っていたのである。
二人めは手の鎖分銅をキギノにむかって投げた。こんな森の中で分銅など、正気の沙汰ではないようにも思われるが、甘い。なにもブンブンと振りまわすだけが分銅の使い方ではない。鞭のように使えば、敵の手足をからめとり、首をしめ、そして容易に骨を砕く。狭かろうが、周囲に木が密集していようが、関係ない。鎖は目標めがけて一直線に飛んでゆき、手首の微妙な動きで先端の分銅だけがまるで生き物のごとく自在に動く。
縄術の応用でもあり、その鎖を操る術がやがて鎖鎌術となって進化する。
キギノはその分銅の一撃を辛うじて避けた。その瞬間、鎖の先、すなわち分銅の部分がひょい、と曲がってキギノの顔をめがけてはじけた。
頬をかすった。
あやうく目をやられるところだった。
続けて三人めがせまった。普通の刀より幾分短めで直刀ぎみの、忍刀を手にしている。狭い所でも扱いやすいよう、忍びが独自に作りだした刀だ。
「ヤッ!」
キギノは気合の声をあげ、その三人目の懐に一足飛びで入るや、忍びの攻撃を左手で受けて刀を封じつつ同時に腹に小刀を突き刺し、そのまま体をひねって敵の右腕を逆手にきめるや強力に一本背負いをかけた。
八剣流柔術、「枝ぎめ」。
本来、右手は素手のため水月には拳で当て身を行うのだが、今回は臨機応変に小刀を刺した。もっとも、そのほうが殺傷力は高い。
加えて、肘をきめて投げることで相手は受け身がとれない。さらに達人の放つ一本背負いは、家の二階から落ちたと同じ勢いで地面に叩きつけられる。
忍びはその場で息絶えた。
流石に、忍びたちに動揺が走る。
その機を逃さず、キギノは忍びの死体より小刀を抜くと再び走った。
後ろから、かすかにピィー……という笛の音が聞こえた。いや、キギノだからこそ、聞くことができた。
それは呼び笛だった。吹き方や吹く回数が信号になっていて、仲間との連絡に使う。
「まだいるのか」
キギノは立ち止まり、舌をうった。
それから、すぐに、キギノは、顔にあたる風に気がついた。夜風だ。そして、その風にまぎれて甘い匂いがする。
「しまった!」
と、思った時にはもう遅かった。ぐらり、と頭が揺れた。
「おれとしたことが!」
薬にやられた。
忍び薬だ。様々な薬草薬物を調合したもので、眠り薬から自白剤、毒、幻覚剤まで、色々ある。
「眠り薬か……?」
キギノは脚をふんばった。しかし自分が上か、下か、はたまた後ろか、どこを向いているのかすら分からなかった。
とたんに、地面から無数の手がのびた。青白い、亡者の手だ。星空が赤く染まり、周囲はぐるんぐるんと回った。
「幻…か……」
それは、いままでキギノが斬り殺した人間たちの姿だった。みな、鬼の形相で、キギノに掴みかかってくる。
忍びが風に乗せて放ったのは、並の者なら発狂してしまうことすらあるという、強力な幻覚剤であった。その幻覚に襲われ、一人で闇のなかに立ちすくむキギノに、何人もの忍びがじりじりと近づいた。
手には縄を持っている。キギノを捕縛するつもりだ。
一人の忍びが、サッと手を上げた。続いて一斉に、縄が飛んだ。
※
キギノは、幻覚の中で、ひたすら亡者たちを斬りすてていた。しかしキギノがいくら刀を振るえども亡者たちは一向に減らず、斬られてもすぐさま元に戻り、キギノに迫った。
ついにキギノは地面に伏した。
どっと亡者たちがつめよせる。
そこで、目が覚めた。
「お目覚めですか」
キギノは瞬時に身構えた。流石である。
「敵ではありませぬ」
水干姿の若者だった。
「信用するほどお人好しではない」
「ごもっとも」
若者は笑った。
キギノは素早く周囲を見渡した。山小屋の中のようだ。
「我が庵にて、銘を『芋蔓庵』ともうします。門構えに山芋の蔓がはっておりまするゆえ、そう銘付けました」
「……」
キギノはしみじみと若者の顔をみつめた。
人を見る目はもっているつもりだった。
少なくとも、悪人面ではない。
かといって、善人面でもない。
目が細く、顎の線が涼しげで、なにやら妖しい雰囲気をかもしだしている。
妖物、変化の類やもしれん、とキギノは思った。だとしたら、狐か獺だ。
「夜があけているな」
「お主さまが何処ぞの忍びに囲まれていたのは、昨夜にて」
「では、御仁が助けてくれたのか」
「左様」
若者はそう言うと囲炉裏にかけてある鉄瓶から湯をとった。
「まずは茶でも飲まれよ。腹はへってはおりませぬか」
返事の代わりに腹が鳴った。
若者がまた笑った。
「おれはニシギの国の牢人、キギノ・イシヅミ。訳あって仲間とスンプの国へ行く途中、敵に襲われ、おれが囮となった」
「なるほど」
「それを御仁が助けてくれたというのか」
「いかにも」
「なにゆえ」
「いや、なに、たまたま近くを通ったゆえ……」
「あんな夜分にか」
「いかにも」
「合点がゆかん」
「まあ、通人にはゆきませんでしょうなあ。いや、しかし、所用につき、たまたま通ったのにかわりはない。多勢に無勢ゆえ、ついお助けもうした」
「ふうん……」
キギノは差し出された茶碗を手に取り、中をのぞいた。薬草を煎じたものらしい匂いが鼻をついた。
「毒消しにて。曼陀羅華の毒をよくとってくれますよ」
キギノはふん、と鼻をならすと、威勢よく茶をすすった。なるほど、胃にしみるその液体は、すぐさまキギノの頭のもやもやを取り去ってくれた。
「これは…」
「きくでしょう」
「かたじけない」
キギノは一気に茶を飲んだ。
「まだ名をもうしておりませなんだな」
若者はもう一杯茶を入れながら、言った。
「タケミツ・トヲルともうします」
「ほう…」
キギノはきゅっと目を細めた。
「かような山奥に住んでおられるにしては……雅びた御名で」
「都人にござりますゆえ」
キギノは再び疑念の眼を若者……タケミツにむけた。
「都人がなにゆえ……」 と、言おうとしたキギノに先立って、タケミツがその整った形の唇を開いた。
「私は、都の陰陽師です」
「陰陽師? ……」
「左様」
若者のその言葉が終わらないうちに、キギノは堰を切ったように言葉を紡いだ。
「都の占い屋が、なにゆえかように都から遠く離れた国にいる。やはり合点がいかん」
「いや、これはごもっとも」
タケミツは笑いだした。
キギノはすっくと立った。
「いや、これは失敬をば。いやいや、まこと、深い訳などありませぬ。修行とおもってくだされば、結構」
「なんの修行か」
タケミツはにこにこしながらキギノを見上げた。
「それはもう、陰陽道の修行にて」
キギノは自分を見上げるタケミツの澄んだ瞳をじっと見つめた。
「……まあよい」
キギノは座った。
「まずは疑ったことを許されよ。それで、ひとつ、尋ねたい」
「なんなりと」
タケミツは鉄瓶をどかし、囲炉裏にあらかじめ材料をしこんだ鍋をかけた。
「おれはコノギの宿場へ行かねばならん。道をお教えねがいたい」
「ほう、コノギの宿へ」
「近いのか」
「ええ。実は私めもちょうどコノギの方に用がありますれば、よろしければ、ご案内つかまつるが……」
「いや、それは止したほうがよい。なにせおれは狙われている身の上ゆえ……」
「夕べの忍びどもにござりますか」
タケミツは苦笑した。
「ならば心配はごむよう。あの連中を陰陽の秘術をもって祓いしは、身共にござれば」
キギノは一瞬目を丸くし、笑いだした。
「左様でござった」
キギノはタケミツの顔をまじまじと見つめた。どう見ても、十五前後の若者の顔だ。
「お若いのに、たいした腕だ」
「お手前こそ、たいそうな武芸の腕前で。しばし見とれてしまいました」
(あの宵闇のなかでか。)
キギノはまた目を細めた。しかし、疑いだしたらきりがない。とりあえず敵ではなさそうだし、訳はどうあれ助けてくれた恩もある。忍び相手に、怪しげな術使いが味方となってくれれば、それにこしたこともない。
キギノは意を決し、言った。
「おれは、そなたを信用することにした」
タケミツは満面の笑みを浮かべた。
「では、出立までに腹ごしらえを。芋粥はお嫌いですかな?」
タケミツは鍋の蓋をとった。山芋と雑穀山菜、それに山鳥の肉入りの粥が煮たっている。
まったくの勘で人を信用するのが、キギノの良いところというか、悪いところというか。しかし、その勘は滅多にはずれる事はないので、やはり、良いところといえるだろう。
キギノは、大盛りを注文した。
その日の昼頃に、キギノとタケミツの二人は芋蔓庵を出た。タケミツは、旅の装備の他に、背に大きな竹行李を背負っていた。
背負うときに、ガシャリと重い音がしたので、キギノがつい尋ねた。
「それは…なにかな」
「ええ、実は修行をかねて、これを手に入れにわざわざ都よりこのカギマの国まで参った次第で………」
「ほう。重そうだな。金物か」
「ご明察。玉鋼です」
「玉鋼」
それは、刀の材料である。良い刀を作るにはまず良い鉄を探さなくてはならない。玉鋼とは純鉄の固まりを小さく砕いたもので、鉄鉱石からこれを採る職人を俗に「大鍛冶」、玉鋼から刀を作る職人を「小鍛冶」という。刀の茎に刻まれる銘は小鍛冶の方のものなので大鍛冶の存在は一般にはあまり知られてはいないが、良い刀を得るには大鍛冶と小鍛冶、そして熟練の研ぎ師の三人と、さらには鍔、鞘などの拵え職人が欠かせない。
「ははあ、そういや、ここいらには良い鉄の鉱山があると聞いたことがある。大鍛冶も達人がそろっていると」
「ええ。しかしこれはキヌメ川の川底より集めた砂鉄を溶かしたもので、特別な玉鋼です。実は、夕べはこれを取りに行った帰りでして………」
「なるほど…」
キギノはうなずいた。
「しかし、都の陰陽師のそなたが、なにゆえ刀などを必要とされる。商いか」
「いえいえ、滅相もない。いや、ま、まずは出立をばいたしましょう。そのへんの事は、おいおいお話しもうしあげる」
タケミツは歩きはじめた。
サクジリにも似た小柄な体型なのに、重い行李を軽々と担ぎ、足取りも軽い。
キギノは感心した。
「陰陽師など、都の公家どもと同じくひ弱な輩で、呪言ばかり唱え、筮竹と羅盤より重いものは持ったことなどないとばかり思っていたが………どうしてどうして、かような鉄を担いで山歩きとは、なかなか頼もしいではないか」
キギノは、負けてはおれじと、急いでタケミツの後を追った。
※
ここで時は些少、戻る。
キギノと別れたサクジリ一行は、まるで梟の襲来を恐れて闇下をこそこそ進む野鼠の如くに、山中を進んだ。先頭をサクジリ、次にタケユリ姫を背負ったヒナギ。サクジリが先頭で道をつける必要があったため、ヒナギが姫を背負っている。
「どうやら、忍びはすべてキギノの方に行ったようだな」
しばらく進んでから、サクジリが後ろの峰を振り返ってつぶやいた。
「姫の具合はどうだね」
「え、ええ、なんとか……」
ヒナギは青い顔で答えた。
「そなたもかなり疲れているようだな。休むか」
「忍びに追いつかれませなんだか」
「心配はあるまいて」
ヒナギはサクジリの言葉に甘えて姫をおろした。姫の意識はいまだ戻らず。ヒナギはタケユリを抱きかかえたまま、そこらの木によりかかった。
サクジリはそのヒナギに、さきほど汲んだばかりの冷水が入っている竹筒を渡した。
ヒナギはついそれを一気に飲み干した。
「あ、………」
飲み干してから、サクジリの分が無いことに気がついた。
「気にするな。おれは平気だ」
「かたじけない……」
「それより、姫がまた熱を出してきている……。まずいな」
サクジリが姫の額に手をあてる。ヒナギは手拭いでその姫の額を流れる汗をぬぐった。タケユリは苦しそうに、荒い息をつくばかりだ。
「街道はまだでござるか」
「もうすぐだ。日の暮れまでにはコノギに着く。そこは温泉町だし……できれば少し逗留して姫の傷を治したいと思っているのだ」
「そうあれば幸いにて」
「後は………キギノの奴がどれだけ時間を稼いでくれるかだが………」
「あのお方ならば、心配はありますまい」
サクジリはぎょっとしてヒナギの方を見た。昨日しりあったばかりのこの男に、キギノのなにが分かるのか。すこし憤然とした。
「失礼だが、そなた様にあの男の何がおわかりか」
「表面では尊大で無頼を装っておいでだが、その実はとても思慮深く、人にやさしく、自らの生きざまを楽しんでおいでです。なんともうらやましい。あの方ならば、安心してその帰りを待つことができましょう」
涼やかな顔でそう言ったヒナギを見て、サクジリはたちまち言葉を詰まらせた。そして少し、妬けた。弱っちいお城の若侍とばかり思っていたが、キギノとはまた違った男振りを見せるヒナギを、サクジリは、いっぺんに好きになってしまった。
「………行くか。姫は、おれが背負う。どうか前を行ってはくれまいか」
「は」
ヒナギは脇差を抜くと、周囲の草枝を切り払いながら、道を作った。
だが、結局、かれらが無事コノギの宿場にたどりついたのは、ちょうどキギノがタケミツと山芋庵を出た頃と同じ、次の日の昼あたりであった。
サクジリは宿場へ入ると、まっさきにマツラ屋へと向かった。ここは、かれらの顔見知りが主人で、口も固い。私用や緊急の際にはいつもここに泊まる。まずは、一安心だ。
しかし………そこでかれらを待っていたものは、なんとも皮肉な運命であった。
宿に入って間もなく、タケユリ姫の容体が急変したのだ。
布団に寝かされたタケユリを、ヒナギは懸命に看病し、励ました。薬師も来て、サクジリも少なからず己の薬術をもって薬師の手助けをした。
そして………
当日未明。
カギマの国三十万石の元領主、守護大名タカラギ・バンドウが息女、タケユリ姫は、いつ果てるとも知れない逃避行の末、たった一人の家臣に看取られながら、この国境の小さな宿場町で静かに息をひきとった。
享年、十六。
まことに悲劇の姫という他はない。
※
ちなみに、スンプの国はスンプ城下の九楽院という寺に、このタケユリ姫のものと伝わる墓がある。
参
いわゆる「武芸十八般」とよばれるものに、時代によって多少の差異はあるが、以下のようなものがある。
弓術、馬術、槍術、剣術、柔術、薙刀術、棒術、手裏剣術、抜刀術、十手術、捕手術、水泳術、短刀術、鎖鎌術、試し斬り術、含針術、等々………
これらの戦闘技術がいつごろこの国に発生したのかということは、実は謎に包まれている。古くは神話において古代の神々が相撲をとったなどと書かれており、太古より神話や物語に伝わる英雄たちは必ず武勇に秀で、人並みはずれた剣や弓の腕をもっていた。
そもそも、古来より朝廷に仕え、戦いを専門にうけもつ家を武家とよんだ。武家は一族郎党を率い、「兵の道」とよばれる、弓や馬の技術を専門に伝える家柄であった。その武家集団によって兵の道は育まれ、高度に洗練されてきた。流鏑馬、傘懸、犬追物などがそれであるが、さらに、戦乱を経るつど、技術の向上は進み、兵の道はたんなる武士のたしなみたる「武芸」よりもっと高度な技および論理を備えたものとなった。
「武術」の発生である。
そしてさらに時代がくだり、「流派」が発生する。流派とは、流儀とよばれるその流派独特の理念を技術に反映し、その理念を含めた技術全体を継承してゆくための制度および名称、とでも言えばよいだろうか。
とにかく、流派の発生によって、それまで普遍的にただ漠然と武士たちのあいだに受け継がれていた武術は、体系・特徴づけられ、確実に後世に伝えられるようになった。
では、ここでキギノが使い、継承する「天心八剣流」について、少し、述べたい。
創始はこの時代よりおよそ数えて百八十年前。
一応、武家の棟梁の血筋の一方の雄、タカミ家の一族である、タカミノ・ヤスラギ公が始祖ということになっている。この人物は皇室の血をひき、数々の物語にも登場する、伝説的英雄だ。
が、口伝でつたわっているのみで、証拠も何もない。伝書すらない。
実際のところ、キギノの前の前の伝承者が事実上の創始らしい。
流派名に「格」をつけるために、有名人の名前を借りることは、よくあるのだ。
その、キギノより数えて三代前の人物が、いままで己が体得した他流の剣術や柔術などのそれぞれの技術を「八の理」というものでまとめあげ、さらに自分が創作した技も含めて「天心八剣流」としたのである。
八剣流は、そうとう有名な流派である。
が、道場が繁盛し、門人が何人もいるという意味の「有名」ではない。この時代はまだ武術はひっそりと隠し伝えるのが常識で、公然と道場が往来に看板を掲げるには、あと百年はかかる。
つまり、キギノがまず有名なのである。
とにかくべらぼうに強いからだ。
二剣用心棒の字。だてに都にまでとどいていない。
そのキギノが使う剣ということで、天心八剣流もまた有名なのである。
同じ意味で、西国はゲンバ・ジンヴゥの如月流。都のハカリ・ギュウゲンの赤眼流が天心八剣流に匹敵する。
他には居合の元祖、林崎夢想流。柔術の老舗、竹内流がまあまあ有名といえる。
しかし、有名なことは実はあまり好ましくない。
敵に手の内が知れるからである。
後の太平の世の道場同士の門人会得合戦ならいざしらず、こんな殺伐とした時代に、敵を倒す技術が有名であってどうするのか。
ゆえに、ひょんな所で見たことも聞いたこともない武術の使い手と出会うことは、ざらであった。
※
タケミツの歩みがふと、止まった。
コノギの温泉宿まであと一日といったところの、山の中である。この山を越え、四里も歩くと、宿場に着く。
天気がよかった。青葉がこれでもかというほど茂り、木漏れ日がまぶしい。小鳥の声がよく耳についた。
「いかがなされた」
とは、キギノは言わなかった。キギノも、感づいたからである。
「おさがりあれ」
キギノは、すっ、とタケミツの前に出た。タケミツは言われたとおりに、ガシャリと竹行李を背負いなおしてから、少し、下がった。
キギノは道の先の枝葉の合間を鋭くにらみつけながら、片足を引いて体を開き、腰を落として刀にそっと手をそえた。
「でてこい」
キギノの低い声に、ひょいと、木と木の間から一人の男が現れた。
「さすが、二剣用心棒」
猟師であった。が、ただの猟師が二剣用心棒の字を知っているとは思えない。
「カギマの忍びか」
「さて」
猟師は答えなかった。
(忍びにしては表情が豊かだな。)
キギノは武術家らしい洞察力で、悟られぬようぎろぎろとその猟師の髭面を見た。
「忍びでないのならば、何用だ」
「きまっている。お手前と腕試しよ」
にや…。
とたんに、キギノの口許がゆるむ。
「ほう………。これは、なかなか良い筋書きではないか。面白い」
猟師も、髭だらけの口をにたりと歪めた。
「いやいや、所詮、お手前とわしとは同じ穴のムジナ。なにより剣を振るうのが好き。拳を交わすのが好き。血湧き、肉踊り、背筋がぞくぞくするのがたまらぬ」
「いのちをかけるのに値するとお思いか」
「もちろん至極。さらにそれで銭がもらえるとあらば、他に言うことはなにもない」
キギノは、くっくと含み笑いをもらした。もはや正体などどうでもよかった。こんな山中で同志ともよべる輩に出会おうとは。
嬉しくて、しょうがなかった。
「タケミツどの。これを狂気の沙汰とお思いか」
キギノは振り返りもせずに、言った。タケミツはにこりと微笑んで、
「己の信ずるものにいのちをかけて、なにが狂気でありましょうや。もっとも、理解はできませんが……」
「貴公らしい答えだ。巻き添えをくうといけない。もすこし、さがられよ。と、いったところで、心配ご無用か?」
「ええ。ご無用にて」
タケミツはそのまま、ふわりと後ろにむかって宙に浮き、いったん風景に溶けるように消えて、それから、すうっと、側のブナの木の枝に現れ、腰かけた。
猟師が驚いてそれを見上げる。
「これは、妖術使いか。珍しや」
「おんみょーの術というのだ。物知らずめ。わざわざ都よりまいられたのよ」
キギノがからかった。
「そうか。お互い、冥土の土産にふさわしいものを見たのう」
「ふざけるな。死ぬのはおまえだ」
「ほざけ」
キギノは抜刀し、半身のまま上段から八相ふうに斜に刀を構えた。おなじみ、八剣流、八之体。
一方、猟師は、素手のまま、軽く拳を握り、同じく体を半身に開き、軽く腰をしずめ、片方の拳を前に少し出した。
「拳術? それこそ珍しい」
キギノがあきれるのも無理はない。と、いうのも、結局、この国において、拳打は柔術の「当て身」などの技としてあるにはあるが、それが主となるいわゆる「拳法」はほとんど発達しなかった。
逆に、これが大陸へ行くと投げや関節技が主の武術はあまり見られなく、突き、蹴りを基礎とする拳法が大いに発達したのだから、興味ぶかい。
お互いの国民性と、戦いにおける環境の違いが生み出した差である。
「龍南王国の華来手とは構えが異なるようですね」
タケミツが木の上から感想をのべる。
「おう、タケミツどの。武芸に興味がおありか。意外だの」
キギノが、微塵も動かずに、述べる。猟師も、口だけ動かして、感心した。
「いや、華来手を知っているとは、なかなかじゃ。しかし、これは華来手ではない」
「ではなんというものか」
猟師はふふ、と笑った。
「まずはお手前の御身でお試しあれ!」
猟師が、駆けた。
速い。
いや、駆けたというより、跳んだといったほうが正しい。
一足跳び。
キギノほどの達人が、あっという間に素手の相手に間合をつめられた。
しかしキギノも然る者。素早く歩を引き、その体移動の勢いを利用して剣を振り下ろす。それも無意識に。まったく反射で。
骨の髄まで形稽古がしみこんでこその芸当といえよう。
猟師はその稲妻のごとき斬撃に、あやうく顔面に血線を描くところだった。紙一重とはこのこと。猟師も、獣のごとき反射神経で咄嗟に身をひいたのだ。
まさに電光石火の攻防劇。硬直した猟師の着物が、はらりと裂ける。
正直、キギノも驚いた。ごく、と唾をのむ。
二人は互いに見合って、にやりと口許をゆるませた。
刹那、二人は同時に動いていた。
斜に構えたまま軽く砂利土を鳴らして滑るように歩を進める、天心八剣流独特の歩法。この歩法のために、八剣流には特に丈夫な草鞋の編み方まで伝わっているといわれる。
「フヒュッ」
剣の空を切る音ではない。キギノの息だ。「振り」の際に、腹筋と背筋が瞬時のうちに特殊な動きをするため、横隔膜がそれに連動して、自然にこのような息が出る。この息がでれば、丹田で練った気と強靱な足腰から生じる威力が手の内を通してそのまま刀に伝わった証拠だ。
人ひとり、まッぷたつにできる。
しかし、その斬撃も、相手に届かなければ意味がない。猟師は、皮一枚のぎりぎりの間合いで、次々とキギノのくりだす斬撃をかわす。
「こやつ……」
キギノは、驚いた。こんな使い手には久しくお目にかかったことはない。
しかし自分の技が虚しく空をきるたびに、心が踊った。体が高揚してたまらない。
「さすがは二剣用心棒!」
猟師の顔も、喜々としている。
猟師は、キギノの横一文字斬りをいきなり落ちるようにしゃがんで避け、そのまま両手を地面につけると脚を延ばして地の上すれすれに回転させ、爪先からキギノの足を刈った。
「……前掃腿……」
木の上で、タケミツが目を細める。
キギノは、豪快にひっくりかえった。
突然目の前から猟師が消えたとおもったとたん、天地が逆さまになった。なにがなんだかわからなかった。
それでも素早く受け身をとり、転がりつつもすぐさま体制をたてなおしたのは、流石だ。
そこに猟師の蹴りが跳ぶ。
つづいて拳が。肘が。最後に猟師の全体重に遠心力を加えた回し蹴りが。
さしものキギノも、もんどりうってふっとんだ。藪につっこみ、木の幹に体をぶつけ、草の上に転がる。
「うお……」
キギノは、生まれて始めて目から火花がでるというのを体験した。特に、顔面をとらえた最後の回し蹴りが、強烈だった。ふう、と息をつき、自らの体を止めた木に手をかけ、なんとか立ち上がる。
立ち上がってから、はたと気がついた。
刀がない。
ふっとんだ拍子に離したのだ。いや、離さざるをえないほどの衝撃だった。
「やるねえ、あんた」
キギノはにやついて猟師を見た。頬をさすり、首を一回、鳴らす。
「お手前も…」
猟師も、楽しくてたまらないといった表情だ。キギノがすぐに攻めてこないと見るや、しゃがんで、腰の手拭いでふくらはぎの傷を巻いた。
蹴った瞬間、キギノの刀をくらったのだ。キギノの、無意識の一撃を。刀が飛んだのはその後ということになる。
傷の浅いのが、不幸中の幸いだ。キギノほどの腕前ならば、足を失っていても不思議ではない。
「お手前の刀はどこへいったかな」
猟師は辺りを見回した。
「さあね。お陰さまで、どこかへいってしまったよ」
下草を鳴らしながら、キギノがゆっくりと道へ戻る。途中で一回、口にたまった血を吐いた。
「しかし刀がなくては勝負の続きが……」
「なあに。こっちもある」
キギノは脇差をたたいた。
「これでもいい」
残った大刀の鞘をとっても見せる。
「また、こっちでも、おれはいっこうにかまわん」
そして拳を握って見せた。
「ご冗談を。無手でわしの術にかなうとはとうてい思えませんな」
「試してみられるか?」
「柔術………にござるか」
「左様」
「愚かな」
猟師は再び構えた。
「剣士のにわか仕込みの柔術で!」
だんだん、と地を蹴り、猟師の拳の連打がキギノを襲う。その拳の合間をぬって地味に下段蹴りもキギノの脛をめがけて飛ぶ。
しかしキギノは、そんな攻撃の一切を無視して、猟師の肩をめがけて手をのばすと、それに触れた瞬間、地を蹴って宙に舞った。梢に足がかかるほどの勢いで宙返りをうち、猟師が驚いて天を見上げた時には、猟師の背中に肘で当て身を入れ、それからすかさず襟締めに入った。
さらに、キギノは脚をからめて勢い良く猟師を地面に倒し、そのまま、強力に襟をしめあげる。
「クッ…」
猟師は一気に目の前が暗くなった。このままでは成す統べなく絞め殺される。
猟師は意識のある内に、袖に隠し持っていた棒手裏剣でキギノを脚を突いた。が、キギノはまったく動じない。
それではと猟師は、己の首にまわるキギノの腕をがしりと掴んだ。そしてこれもすさまじい力で、めきめきと爪をたてる。
これにはキギノもまいった。強烈な痛みが腕を襲う。痛みのツボをきめているのだ。筋と骨の隙間に、ぶすりと猟師の爪がくいこんだ。
キギノはあわてて猟師を解放した。
猟師が激しく咳きこむ。
キギノも、あきれて、血のにじんだ自らの腕を見た。ちょうど指の数の五つ、深い爪跡が残っている。
「すげえ力だ」
キギノはあきれ顔にも笑みをうかべて、猟師に目をもどした。猟師は、まだ苦しそうだ。
「喉がつぶれるかとおもったわ……」
「こちらは腕がちぎれるかとおもった」
「いや、しかし、無手でもその強さ。二剣用心棒。いやはや、流石、流石」
猟師はまったく感服した。
「褒めてもなにもでんぞ」
「では、わしは秘拳をだしましょう」
「秘拳?」
キギノはいぶかしがんだ。
「左様」
「出し惜しみしておったか!」
「ゆるされよ。滅多にだしては、有り難みがない。いや、まあ、それは戯れ言。いわゆる切り札というやつにて………」
「最後の手段か」
「そうなりますな」
「では、おれが死ぬというのか」
「そうなりますな」
「あっさり言いやがった」
キギノは可笑しくて、自然に笑いがこぼれた。
「では、ご披露いただこう。その秘拳とやらを」
「ご存分に………」
二人は仕切りなおすと、再び構えた。キギノは手刀を中段に出し、八之体に。猟師は、さきほどと変わらない構え。
双方、じわじわと間合いをつめ、こんどはキギノから動いた。すべるように歩を運び、「エイッ」のかけ声とともに手刀で当て身をくらわす。すると猟師はそのキギノの手に自らの左手をからめるように添え、同時にその左手を引きつつ体をひねり、歩も変え、キギノの一撃をふわりと受け流した。
「!」
キギノは息をのんだ。
猟師のたったそれだけの動作で、自分がまったくあさっての方をむいてしまったのだ。
しかも、大きく体が崩れて、転びそうにまでなった。そんな崩し技を、キギノは見たこともなかった。少なくとも、柔術ではありえない動きだ。
キギノは本能で恐怖した。全身の急所が丸出し。加えて、こんな体勢では防御すらできない。
その恐怖は正しかった。
立ちすくむキギノをめがけて、猟師の一撃が容赦なく襲いかかる。
「フン!」
猟師の鋭い息が漏れる。わずかな動作で瞬時に重心を下げ、同時に軸脚で地面を蹴り上げる。そしてその上下よりの瞬発力を腰背部で合成。続けて体をひねり、その威力を腕部に通す。さらに腕のひねりも加えて最後に拳より放出。
見た目には、ただその場で軽い突きを出しているにすぎない。が、その実、螺旋の動きを伴った、強烈に「重い」一撃である。
それがキギノの水月にきまった。
キギノは、腹から脳天に火柱がたったような感覚に襲われ、あっというまに意識を失った。が、鍛えぬいた精神力で、なんとかそれを引き戻す。その時、猟師の第二撃がせまった。それは、軽い動きの、さきほどの豪快な回し蹴りとは正反対の蹴りであった。
キギノは腕を合わせて防御した。
が、その腕の壁をふきとばして、猟師の蹴りはキギノの胸を貫いた。
「ぐはッ!」
キギノは、どっと地面に倒れた。
たまらず、タケミツが枝から降りる。
あわてて行李を置き、キギノを抱えた。
「イ、イシヅミどの、しっかりなされ」
タケミツに頬を叩かれ、キギノはおぼろげながらにも意識を取り戻した。取り戻したが、うまく呼吸ができない。かは、かはっ、と、かすれるような息のまま、震える手でタケミツの肩に手をやり、立ち上がろうとした。目はまだ半分、白目をむいている。脚がガクガクと震え、その衝撃の凄まじさを物語っている。
「す……ごいな、おい。これは、満足だ。すごい秘拳だ。なん……という」
キギノはそこで、豪快に血のまじった反吐を吐いた。
「キギノどの」
「し、心配ご無用……と、いきたいが………こ、こいつはすごい。こんな技がこの国にあったとは…………」
「いえ、あれはこの国の技ではありません」
「なに………?」
タケミツは、キギノに手をそえたまま、油断なく光る瞳を猟師にむけた。
「あの技の名は太極拳。はるか大陸の、必殺拳術です」
「た、大陸? すると……あいつは渡来人か………!?」
猟師は、無精髭をぞりぞりと撫でて、タケミツをにらみつけた。
「お手前は……何者ですかな。都の妖術使いは人の心を読めるのですかな。それとも、実はお手前も武術家かなにかで」
タケミツはすっくと猟師と対峙した。
「いいえ。大陸より渡られた道士様といささか交流がありますれば。むこうでは道教の使い手たる道士は武術士も兼ねるとか。妖物退治に武術と道教は欠かせぬらしく………」
「ほほう」
猟師はわざとらしく目を丸くした。
「それでわが拳を。では、次のお相手はお手前か」
「お望みとあらば……」
タケミツはその雅びな顔だちに陰鬱な笑みをうかべ、少なからず猟師を驚かせた。
(まるで狐じゃ。)
猟師はそう思った。
タケミツはその笑みのまま、音もなく歩きだした。
しかし、すぐにタケミツは立ち止まった。キギノが、震える手でタケミツの袖をつかんだのだ。
「イシヅミどの」
「あ……あれはおれの獲物だ。いかにトヲルどのとて、横取りはゆるさん」
「ですが、そのお体では」
「しんぱいはご無用」
キギノは立ち上がると大きく深呼吸をし、ゆっくりと手足を動かした。まるで能か舞のようだが、天心八剣流、八の活法の一、「気体之術」。れっきとした武術で、気孔の一種であり、全身の神経、筋肉、気脈を意のままにする秘術だ。
「ふうー…」
キギノは動作の最後にゆっくりと長い息をつくと、ぎらりと鷹のような眼で猟師をみすえた。
そこには先ほどの、半分白目の死んだ魚のような瞳はない。凛と生気をはなち、全身からするどい気迫を放出させている。
「見事な復活ぶり」
猟師は油断なく構えた。キギノがまだまだやれることが、わかったからだ。
キギノは鞘を帯よりとって片手に構え、剣のかわりとした。
「獲物をもつか」
「おう。無手では死んでしまう」
猟師は腰を低くし、いつでも重心を落とせるよう構えた。
「褒め言葉ととっておくぞ」
「いかようにも」
二人は三たび対峙し、じりじりと間合いをつめた。
しかし、今度は二人とも互いにうかつに動かなかった。
剣で拳に勝つには、間合いをとるしかない。そして、逆もまた然り。拳で剣に勝つには間合いをつめるしかない。
そして太極拳は、接近戦での攻防を最も得意とし、その距離で最高に真価を発揮する。
キギノは、先程の二の舞は御免と、鞘の切っ先をぴたりと猟師の目の位置につけ、猟師の目付を封じた。あの速さで跳んでこられてはかなわない。
猟師も、キギノの微塵の隙も無い構えに、動けなかった。いつでも一足跳びで間合いを制する準備はできている。が、この様子では跳んだ瞬間に鞘の一撃を食らうのは目にみえていた。もちろん、鞘で人は斬れないが、キギノの腕ならば、容易に骨を砕き、肉を断ってあまりある威力を発することは必定であった。
二人はじり、じりっと歩を少しずつずらしながらその距離を保ち、日差しを浴びつづけた。
完全な膠着状態だ。
その二人の刺すような気迫に、蝉までもぷっつりとおし黙ってしまった。
タケミツは自分の頬を伝う汗に気づいて、驚いてそれをぬぐった。照りつける太陽のせいではない。
「冷や汗………? この私が?」
見ていて熱くなるような鬼気せまる気迫はそこにはなかった。まるで氷の刃が生えたごとく、冷たい気合に満ちていた。
人を斬った者しか持てない気。人を拳で貫いた者しか発することのできない気。
二人とも、「殺る」気だ。
戦国時代の到来に相応しい気だ。
「鬼………か」
鬼の扱いには慣れているタケミツであったが、この種の鬼にはあまり縁がない。式はあくまで式。血は通っていない。
タケミツはぶるっと身を震わせた。
冷たい気。殺気。心臓が凍りつくぐらい冷たい。それは恐怖という名で呼ばれている。
しかし、その冷たさも、本人たちにしてみれば、炎よりも熱い。
キギノは、ゆっくりと息をつき、体の奥からほとばしる熱い気が漏れるのをふせいだ。そしてそれは猟師も同じであろう。
ふいに、側の茂みより一羽の雉が飛び立った。タケミツが息をのんでその方向を向く。
二人が動いた。
猟師は歩を瞬時の内にキギノの懐まで進めた。当然、キギノの斬撃が猟師を襲う。が、猟師は歩をそのまま斜めに出し、体も反転させ、キギノの斬撃をよけつつ脇にそれた。そしてキギノもそれに反応して素早く歩を変え、袈裟斬りから逆袈裟に猟師を追い打つ。その時には、猟師の手が粘りのある動きでキギノの腕を封じていた。
「しまッ…」
ごう、と猟師の裂帛の気合がほとばしる。この距離は太極拳の距離だ。自在に敵を封じ、固め、そして倒す。
キギノは猟師に腕を封じられたまま、再び誘導されてあさっての方を向いた。
猟師はそのまま流れるようにキギノに技をかけた。体を崩したキギノにむけて、肘、肩、拳、と、三連撃だ。
が、キギノは咄嗟に左で脇差を抜き払い、逆手に持ったままほとんど無我夢中で猟師につきたてた。
小太刀逆手抜刀左。逆手抜刀は、後ろからの攻撃に対する抜刀術である。
「ぐわッ…!!」
叫んだのは両者ともだった。まともに発勁をくらって地面にもんどりうつキギノ。猟師の肩での体当たりは、まるで牛に突き飛ばされたように凄まじかった。
しかしキギノは受け身をとり、すぐ立ち上がった。
「うっ」
キギノはうめいた。猟師は地に伏していた。
「やった………のか………?」
キギノはゆっくりと猟師に近づいた。タケミツも、それに続く。そしてタケミツがその横たわる猟師を抱え、脇に深々と刺さっている刀を抜いた。
とたんに、鮮血が吹き出る。
「み……みご…………」
猟師は最期の力でそこまで声をしぼり出すと、そのまま意識を失い、あっというまに死んでしまった。脇から肺ごと心臓を貫かれたのだ。
「お見事!」
猟師の代わりに、タケミツが言った。キギノは何度も大きく息を吐いた。
「勝った………のか」
「左様。いや、お見事でござった」
タケミツは満足そうにうなずいた。
「あぶなかった。二剣用心棒………一世一代の大勝負。いや、あぶなかった」
「しかし、勝ちは勝ちにて」
「そうだな。勝ちは………勝ちか」
キギノは蒼白な顔で横たわる猟師を見下ろし、その目を閉じてやった。
そして葬らずに行く我を許せと残すと、歩き始めた。タケミツが興奮さめやらずに、なにやら言いながら後に続く。
勝負で舞い散った砂ぼこりを夏の日差しがまぶしく照らし、戦う二人の気迫に押し黙っていた蝉たちが、再びその声をあげだした。
まるで、森全体がなにか叫んでいるかのようだった。
二人は、もう猟師をふりかえることはなかった。
二剣用心棒