二剣用心棒

 九鬼 蛍

                    
        四
                    
 「それにしても………」
 頭上からふりそそぐ木漏れ日が顔に当たるたびにキギノは目を細め、天をあおいだ。その光の筋の行き着く先に、無数の梢が影を作っている。耳にまとわる蝉の声。キギノは顔を上げるたびに、一瞬、頭が回って一気に坂を転がり落ちそうな錯覚に襲われた。まだ猟師の攻撃が身体に残っている。
 タケミツは、興奮して先ほどの戦いの模様をふりかえって話した。キギノは、いつも冷静な感じを漂わせているタケミツのその変貌ぶりに、半ばあきれた。
 「タケミツどのは、よほど武芸がお好きのようで」
 「え、ええ、とても」
 話の腰を折られたタケミツは、あらためてゆっくりと山道を行くキギノをみつめた。少し、息が切れている。
 タケミツは話を続けた。
 「いや、しかし、まこと、名勝負でござった。あれほどの勝負の立会人が身共一人とは………まことにもったいない。都であれば、もう一夜のうちに内裏にまで響きましたでしょうに」
 「ほほう。いや、そこまでおっしゃっていただけるとは、拙者、剣客冥利につきもうす」
 「い、いえ、そんな大層な………」
 「しかし、からでいとは、南の王国に伝わる徒手空拳でござろう。大陸の秘拳といい、そんなことまで知っているとは、まこと、好き者以外の何者でもない」
 「ええ、いや、まあ」
 タケミツは照れて頭を掻いた。
 「形稽古など見ていると、飽きぬでしょう」
 「そうですな」
 タケミツは歩きながら、都の武芸者の話などした。都もたびかさなる戦乱のせいでかつての栄華は望むべくもないが、それでも人々はたくましく生き、各地より色々な人間が集まってくる。その中に、旅の武芸者も多くいた。各地を放浪しながら腕をあげ、都で腕試しをするのだ。
 「それは、真剣勝負でござるか」
 「それはもう」
 タケミツは楽しそうに続けた。
 「都には辻がたくさんありまするが、そこで武芸者が勝負するのです。見物人が多ければ多いほど、勝った者は名があがる。それはそれは見物にて」
 「拙者も、ぜひ見てみたい」
 キギノは想像の中に、都の雅びなる風景とその中に生きる人々、そしてそこで腕試しをする数々の武芸者を見た。
 「しかし、身共がいままで見たなかでも、キギノどのより強い者はおりませなんだ。いや、さすがは二剣用心棒。都でも、まこと評判ですぞ」
 「左様で」
 こんどはキギノが照れた。
 「その二剣用心棒から刀を奪うのですから………あの猟師も、ただ者ではありませんでしたな」
 キギノは腹をおさえた。猟師の一撃は、胃を震わし、背中まで突き抜けた。不遜な物言いだが、並の者なら、それだけで臓腑を破裂させて死んでいたであろう。
 「よい勝負であった………」
 キギノは感慨深げにつぶやいた。
 「それより、刀にて」
 タケミツは歩みを止めた。
 「刀?」
 キギノも立ち止まる。
 「刀がどうされた」
 「どうされたって………無くしてしまったではありませぬか」
 「ああ………」
 「コノギの宿場で手に入れるあてはござるのですか?」
 「いや……ない」
 「どうされるおつもりで」
 キギノは答えにつまった。なにも考えていなかった。
 「どうって……そうさな。敵から奪うか………。まあ、なんとかなるであろう」
 「戻って、探したほうが良いのでは」
 「探す?」
 キギノはあきれた。
 「探したところで、そう簡単にはみつかるまいて。それに………」
 キギノは、そこで深呼吸をした。胸が焼けて、胃が重い。呼吸をすると、和らぐ。あの最後の体当たりなど、全身が粉々になるかと思った。
 「探す気力もない」
 タケミツは声を高くし、ここぞとばかりに提案した。
 「わ、私の術ならば、あまり時も労力もかけずに探すことができますが……」
 しかしキギノは、その提案を断った。
 「いや、失ったものはいたしかたない。あきらめが肝心でござる」
 「な、なれど………」
 「心配はご無用」
 キギノは本当に心配をかけまいと、
 「脇差もある。無手でも、貴殿がさきほどご覧になった通り。いざとなれば、そこらの棒でも箸でも八剣流は存分に戦える」
 タケミツは言葉を失い、下をむいた。なにかキギノの役に立ちたかったが、それが果たせず、悲しかった。
 その様子を察したキギノが、つけ加える。
 「しかし、まあ、心もとないのには変わりない。トヲルどのに、なにかよいお考えがおありかな?」
 「え、ええ!」
 タケミツは嬉しそうに顔をあげた。
 「お急ぎのところをたいへん申し訳ないのですが、この先、道がわかれておりまして、片方はコノギの宿へ行くのですが、もう片方は私のよく存じている刀匠の住む庵に通じております。もともと、私はそこで妖物退治に使う御神刀を打ってもらう所存にござって………」
 「ははあ、なるほど。そこで新しい刀を打ってもらおうと」
 「いえ、新しく打たずとも、庵に二、三振りは常備しているでしょうから、それを譲ってもらえばよろしいかと。私からも、頼んでみましょう」
 キギノは、その話に興味をもった。
 「して、その刀匠の銘は?」
 「カギマ・ヤスツナにて」
 その銘を聞いたとたん、キギノは、タケミツの肩をわしづかみにした。
 「ヤ、ヤスツナですと? いま、ヤスツナといわれたか!?」
 「え、ええ………」
 キギノのあまりの剣幕に、タケミツは訳が分からず、
 「い、いかがなされました。その銘をご存じでしたか……」
 「ご存じもなにも、いや、かようなところにヤスツナの銘を継ぐ者がおったとは!! なるほど、かつて鬼斬り丸の異名をとった古今未曾有の霊刀。妖物退治にはもってこいだ。それを打ってもらうために、わざわざこのカギマまで。なるほど。そうか、そうか。いや、ヤスツナとあらば、ぜひ、会ってみたい。その刀も欲しい。なにも、御神刀とまではいかなくともよい。ヤスツナの銘の刻まれた剣をこの手に…………」
 キギノはそこで、感激と興奮のあまり、呆然と立ち尽くしてしまった。それを横目に、今度はタケミツがキギノのあまりの変貌ぶりに気味が悪くなった。
 「ま、まあ、とりあえず参りましょう。………イシヅミどの、さあ、参りましょう!」
 喜びにうち震えるキギノをどうにか現実に引き戻し、タケミツは、道を急いだ。
                    
 そうして、二人がいまにも崩れ落ちそうに朽ちた庵に到着したのは、その日の夕暮れもせまった時刻であった。庭らしきところの一面に下草が生い茂り、屋根にはびっしりとペンペン草が育っている。一匹の母狐が、二人の来訪にあわてて床下から家族をひきつれてどこぞへと去っていった。
 あきらかに人が住んでいる気配はなく、キギノはあからさまにがっかりした様子で、タケミツをにらんだ。
 「い、いや、こんなはずでは。………だいいち、これでは私も困ります。お待ちあれ、いま、庵の主を探します」
 「さがすって、いかように」
 キギノの不機嫌そうな声に、タケミツは急いで荷物の中より小箱をとりだし、蓋をとった。その中には、なにやら墨と朱でいろいろと呪文の書かれた札が何枚も納まっていた。タケツは札をごそりと懐にしまうと、その下よりちがう札を出した。それは鳥の形に切り抜かれた紙で、墨と朱でおなじく呪文と紋様が書かれている。紋様は、星を意味する五芒の印だ。
 「な、なんでござるか、それは」
 タケミツは得意満面で、
 「わが秘術。とくとご覧あれ」
 その紙切れを、さっと空にむかってばらまいた。すると、その瞬間、紙切れが次々と生きた白鷺に変化して、羽音もけたたましく、夕暮れむけて飛び去った。
 「うおお!」
 キギノはその羽音に目をみはり、おもわず驚嘆の声をあげた。
 「あれらが庵の主を探してくれましょう。我らは、まずは座って、火でも」
 キギノは目を丸くして、タケミツと鷺の飛び去った空とを見比べていたが、やがて我に帰ると、草を刈って座る場所を確保をするタケミツを手伝った。脇差を抜き、下草を払う。
 そして適当に場所を作ると、二人はそこいらより石を選んで竈を組み、薪を拾い集めて入れた。
 そこでキギノは再び息をのんだ。
 火打ちの石を用意したキギノの目の前で、タケミツが薪の上に手をかざしたのだが、それだけで、ぼうと勢いよく薪に火がおきたのだ。
 キギノは、いまさらながらに、この雅びた都人に不審と恐れの念を抱いた。宙に浮いたり火を出したりと、いやはや、言葉もでない。
 挙げ句には、紙が鳥に化ける。
 妖物を退治するというが、これではどちらが妖物か知れない。
 「まあ、そう恐れずとも。茶はいかがですかな。野点とまいりましょう」
 タケミツは行李の中より、茶道具を一式とりだすと、湯をわかす用意をした。いくら都の公家とはいえ、こんな一人旅にも茶道具を持ち歩いているものなのか。それだけ雅びているのか、はたまた常識がないのか。いや、これが都の常識なのかもしれん。
 キギノは、ますますこの青年がわからなくなった。
 さらに、
 「水は」
 と、言おうとしたキギノが、三度め衝撃におそわれる。
 先ほどの親子狐が、竹筒に沢の水を汲んでそれをくわえて持ってきた。タケミツが頭をなでてやると、狐は嬉しそうに目を細め、行ってしまった。
 「……………」
 唖然とするキギノをよそに、タケミツは無言で茶をたて、キギノにさしだした。
 そして、キギノがそれを受け取り、茶碗に口をつけるのと、紙の化けた鷺がなにやら叫びながら戻ってきたのとが同時だった。
 「おれはもう驚かんぞ」
 キギノは顔をひきつらせ、なかば諦めの境地で、この青年に対してああだこうだと詮索するのを止めた。とにかく信じると大見得をきったではないか。
 キギノはタケミツと共にその報告を聞いた。
 「ヤスツナ様は、あちらに見える獣道をしばし向かったところに、新しい庵を建てておいででございます。ですが、なにぶんお一人なもので、作業の進み具合が捗々しくございません。すぐにおいでになり、お手伝いなされたほうがよろしいかと…………」
 「わかりました」
 そう言ってタケミツがふっと息をかけると、鷺はたちまち元の紙切れにもどり、ひらりと草の上に落ちた。
 キギノはおもわずそれを拾って、穴があくほど見つめた。
 「イシヅミどの。お聞きのとおり。茶の最中で申し訳ありませんが、急ぎましょう」
 「お、おう」 
 キギノはその符を袖にしまうと、タケミツと火の始末をし、鷺の示した獣道を進んだ。
                    
        ※
                    
 キギノは、その老人を見て、おもわずうなずいた。人里離れた山奥に居を構え、神刀を打ちつづける幻の刀匠。まるで仙人のような姿をしているのだろうと勝手に思っていたが、まったくその通りだったのだ。なにやらすりきれたボロボロの水干をまとい、太い眉と立派な髭は雲のように白い。なにもかも想像の通りで本当にうなずく限りなのだが、その性格だけはキギノの想像とまったく異なっていた。
 「いよお! ほほう! こりゃ、誰かとおもえばトヲルどのではないか! いや、まったく元気そうでなによりかにより、つめよりこれより、なんだかよくわからんが、こんな時分に何の用じゃ!」 
 松明の明かりを頼りに切り出した材木を軽々と運ぶその姿は、お世辞にも仙人とは言いがたい。なにせ、とにかくやかましい。気難しく神秘的な老人というキギノの想像図は、見事なまでに打ち砕かれた。
 「ほほほう! こちらが、あの、有名な二剣用心棒どのか! いや、いやいや、噂には聞いておるよ。身の丈十尺というのは、嘘だったようじゃな!」
 ヤスツナがそう言って下品な笑い声をとばした。その剣幕に少々おされつつも、キギノはとりあえずヤスツナに礼をとった。
 そして、刀を所望していることを告げた。
 そのとたん、好々爺の眼が、ぎろりと光った。キギノの想像通り、いや、それ以上の、まるで年経た獅子のような顔になった。
 「刀が欲しいか」
 声までちがう。
 キギノは、驚いてその眼光をとらえた。
 「え、ええ…」
 「なにを斬る」
 キギノは、即答はできなかった。少しのあいだ考え、
 「この世の悪………などと、口幅ったいことは申しませぬ。斬るのは、やはり、人にて」
 ヤスツナは再び声をだして笑った。
 「正直なやつ!」
 そしてキギノの肩をぽんと叩き、
 「よいか、わしの刀はな。たしかに鬼も斬るが、人も斬る。それどころか、前に立つものがあれば、神であろうと仏であろうと斬りすてる。しかし、それは刀のせいではない。刀を振るう者が、それを望むのよ。刀は、ただ、それに従うだけじゃ」
 深い言葉だった。こんな当たり前の言葉こそが、時として異様に深い。
 「いや、まあ、しかし、なによりな、庵ができんことにゃ、打ちようがないんじゃあこれが。そんなわけで、まあ、いっぱつ、ひと仕事するかね。ほれほれ、若い者はじじいを手伝うと! だけど今日はまあ、日もくれとるから、明日にするかのう? うん? うん?」
 ヤスツナは二人を新居の側にとりあえず建てた仮の庵に案内した。それは、掘っ建て小屋とすらお世辞にも呼べないような代物であったが、雑穀と青菜の粥が石を組んだ竈で煮立っており、二人は唾をのんだ。
 二人はそれをたらふく腹につめこめ、狭い小屋の中で土間に筵をしいて転がると、すぐに、深い眠りについた。
 特にキギノは昼間の勝負の疲れが一気にきて、久しぶりに、泥のように眠ったのだった。
                    
 次の日も、天気がよかった。かんかんと音をたてるような勢いで照りつける日の光の下、キギノとタケミツは期せずして人足仕事に精を出すことになった。
 が、意外にも、先にへばったのはキギノであった。
 これは先日の勝負の疲れが多少のこっていたせいもあるが、なにより、剣客というものは人足仕事が苦手なのである。
 これはキギノに限ったことではない。剣を振るうのに使用する筋肉と、物を持ち運びするのに使用する筋肉がまったく異なっているからにすぎない。それどころか、相反するといってもよい。筋骨隆々の剣客などというものは、それだけで一流ではないのだ。剣ひとすじに生きるとすれば、剣を振るう以外の肉は自然に削ぎ落とされ、体は勝手に中肉中背となる。
 むしろ、剣を振るう動作は、百姓の鍬を振るう動作に酷似している。兵農一体とはよくいったもので、昔、武士は百姓も兼ねていた。一回も刀を持ったことのない百姓が一揆と称する反乱を起こしてもそこそこ強いのは、そのせいであると思われる。
 ようするに、千数百年にわたってひたすら畑を耕しつづけてきたこの国の民族から生まれるべくして生まれ、進化した武器が刀であり、剣術はその刀を操る術の究極に昇華した姿であり、この国に発生した数ある武術の中でも最も発達したものであるといえる。
 「それにしても限度っちゅうもんがあるんとちがうかね。ああ? 都の占い屋ですらこれだけ働いとるのにまあ、この男は、なんじゃあ。これっしきでへばりおって。ほりゃ、立て! 次は壁に漆喰をぬるんじゃ!」
 キギノはふらふらしながら立ち上がった。ふだん使わない筋肉を急に使ったので、体じゅうの関節がぎしぎしと音をたてている。
 「そうではない! なんじゃ、その手つきは! もっと、こう、腰をいれんか! たわけ! ちがうって! こう! 貸してみい! いいか、よくみておれい!」
 ヤスツナは慣れた手つきで鏝を操り、漆喰をまんべんなく塗りはじめた。キギノはこれ幸いと、大きな切り株の上に腰をおろした。
 とたんに、ヤスツナの叱咤がとぶ。
 「わしがやってどうするんじゃ! この、ぼんくら! おら立てい!」
 「い、いや、いや、そうは申されましても、肩が痛うて………ついでに腕も足も腰も背中も痛うござりまする………」
 ヤスツナはわざとらしく顔に手をあて、
 「なさけないのう。これしきで弱音をはきおって。そんな具合じゃあ、刀はやれんのう。刀に心を奪われるのがオチじゃて。単なる人斬りと化したいか。二剣用心棒、聞くほどのものでもないのう」
 何度その台詞をくらったことか。キギノはそのたびに発奮して、ひいひい言いながら作業に汗を流すのだった。
 (単純なやつ。)
 それを尻目に、ヤスツナが意地の悪そうな含み笑いをもらす。
 その横で、タケミツが涼しい顔をして大量の漆喰をこねている。
 キギノは、不思議でたまらなかった。あの鉄塊のつまった竹行李を軽々と背負ったのをみても、ただの占い屋ではないとわかっていたが、これだけの作業をして、汗ひとつかいていないのだ。
 「またぞろ、妖しげな術ではあるまいな………」
 キギノは壁を塗るふりをして、ようくタケミツを観察した。
 そして、気がついた。
 タケミツの額に、どこかで見たことのある印が朱でちょこんとしるされている。これは、鷺に化けた紙きれに描かれていた、あの星印だ。
 「あやつ………!」
 キギノは奥歯をかんだ。
 「おい、このタケミツ! でてこい!」
 突然キギノが叫びだしたので、ヤスツナは驚いてその手を止めた。枯れ枝で屋根を葺く準備をしていたのだ。
 「いやあ、ばれてしまいましたか」
 近くの藪から、さわやかな笑顔でタケミツが登場した。タケミツが二人だ。
 「なんだ、こっちゃは式だったのか」
 ヤスツナはそうつぶやいて、無言で漆喰をこね続けるもう一人のタケミツを見た。これは、先日の白鷺と同じく、陰陽道で「式」とよぶ呪符の化けた物だ。
 「じゃが………なんにせよ働くのには変わりはない。どこぞの用心棒よりはよっぽどマシというものじゃのう。んー?」
 (このクソじじいが。)
 キギノはぎりぎりと歯を鳴らすと、再び作業に戻った。何も言い返せなかったからだ。
 そして昼もすぎ、なんとかヤスツナの新居は形をみるようになってきた。あとは、中を整備するだけだ。火と水と鉄の芸術たる刀。その制作には、わずかの妥協も許されない。素人のキギノやタケミツが口をだすことではない。鍛冶に必要な用具の一式は、すでに仮の庵に移してある。あとはそれをヤスツナがまだ漆喰も濡れているこの新しい庵に備えるのみだ。
 と、そのころである。
 皆で一休みして水を飲んでいたとき、誰というでもなく、枝葉のむこうにうっすらと立ちのぼる黒煙を発見した。
 「火事かいの」
 ヤスツナが額に手をかざしてつぶやいた。
 「炭焼きの煙では?」
 キギノも不審な煙を確認する。
 「だが、この近くに炭焼き小屋なんぞ一軒たりとも、ないわ」
 「どれですか」
 「あれにて」
 タケミツも加わり、三人は背伸びをして、その煙を見つめた。
 「あれは………」
 とたん、タケミツの声がかたくなる。
 「イシヅミどの、あれは、コノギの宿の方角ではありますまいか!?」
 タケミツのそのひと言で、もう、キギノは駆けだしていた。しかし、数歩、出たところであわてて戻ってきて、タケミツの手をがっしと握った。
 タケミツは驚いてキギノの顔を見た。潤んだ瞳で、キギノはそのまま黙ってタケミツの手を握りつづけた。
 それからキギノはヤスツナに向き直り、一回、頭を垂れた。
 ヤスツナの手には、袋鞘に納まった、一振りの刀が握られていた。
 「もってけ」
 キギノは、それを受け取った。
 「神を斬るとまではいわん。が、人を斬るには充分だ。あとは、おまえの心しだい。ぼろぼろになるまで使うがいい!」
 キギノはさっそく袋より深い藍色に拵えた刀をとりだして、帯に差した。
 そのあとは、まさに風のごとく。あっというまに、枝葉の合間に消えた。
                    
 「やれやれ、まったく、騒々しいやつだったわ」
 キギノの走り去った後をながめながら、ヤスツナは頭を掻いた。そして完成したばかりの庵に目を戻すと、
 「じゃあ、飯にでもするか。干し魚がある。それで新築祝いに一杯、どうだ?」
 「よいですね。すぐに参ります」
 ヤスツナは鼻唄をうたいながら、庵に戻った。そしてタケミツはヤスツナが庵に消えるのを見定めると、素早く懐より呪符を数枚出
して、天に放った。呪符は瞬時に白鷺と化し、疾風のごとくにキギノを追った。
 「……よし」
 タケミツは、いままでの人懐こそうな顔はどこへやら、突然、厳しい、まるで本当に妖物を思わせる人の心を裂くような冷たい表情になると、ぼそりとつぶやいた。
 「二剣……用心棒」
 タケミツは掌をながめた。キギノの温もりがまだ残っていた。
 タケミツは、その温もりを消し去るようにぎゅっと掌を閉じ、
 「………姫。かならずや、我が手に……」
 「なにやっとんじゃあ! はよせい!」
 「は、はい。ただいま」
 タケミツは元の人懐こそうな顔に戻ると、ヤスツナの新居に入っていった。
                    
                    
                    
                    
                    五
                    
 キギノは、静かに手を合わせた。その簡素な骨壺は、今は亡きタケユリ姫のものだ。
 ヤスツナが火事と見間違えたのは、偶然にも、タケユリ姫を葬る、野辺の送り火であった。サクジリが、コノギの宿の端にある荒れ寺で、密葬にした。
 キギノが宿場に到着したのと、サクジリとヒナギが壺を抱いて寺からマツラ屋に戻ったのは、ほぼ同時だった。
 キギノはいつもと変わらない町の様子にほっと息をつき、確信もなく軽々しく動いた自分を戒めた。
 「しかし、なにはともあれ、よかった」
 キギノはゆっくりと通りを歩き、マツラ屋へとむかった。サクジリのことだから、無事、姫とヒナギを送り届けていると信じていた。
 「追手もない。しばし、湯にでもつかって………」
 だが、そのマツラ屋へと入ったキギノを迎えたのは、畳に額をこすりつけて動かないサクジリと、呆然と宙をみつめるヒナギ。それと物言わぬ姿となって壺に納まった、タケユリ姫であった。
 キギノはまず、無言で、タケユリ姫に手を合わせた。
 静寂の中、日も落ち、真っ赤な空を烏がねぐらへと戻ってゆく。その黒点と、温泉のだす硫黄くさい白煙とが、真紅の夕日に影を写している。
 ヒナギは、窓ぎわに座りこんだまま、いつまでもその夕日をみつめていた。
 サクジリは、キギノが部屋に入ってから、一度も口をきいていないし、顔を上げようともしない。ずっと、畳に頭をつけいてる。
 面目とか、そういう問題ではなかった。
 二剣用心棒の相棒をきどっておきながら、この不始末。侍ならば、まさに腹切ってわびなければならない。なにより、キギノの信頼を失うことが、サクジリは恐ろしかった。キギノに愛想をつかされるくらいなら、キギノの剣で胸を貫かれたほうがましであった。
 あまりの重苦しい空気に、まるで時が止まったようだった。キギノは、何もいわずに、立ちあがった。サクジリはびくりと身を震わせ、キギノの足音を間近で聞いた。八剣流の使い手らしく、畳をこするように歩く、その摺り足の音を。
 サクジリはキギノが部屋を出るまでに何か言ってくれるのを期待した。罵倒でも怒号でもなんでもかまわなかった。とにかくこの、無視というのがなにより辛かった。
 しかしキギノは無言のままに襖をしめた。サクジリはたまらなくなり、あわててその後を追った。
 「キッ、キギノ…!」
 階段を下りかけていたキギノは、ちらりと、サクジリを見た。そしてかすかな笑顔で、
 「いつまでそんなしけた顔をしているのだ。とりあえず風呂でもいこう。ここ数日、山を走り回ってばかりいたから、泥だらけだ」
 サクジリの顔に、みるみる生気が戻る。
 「お、おう! いま手拭いをもってくる。そ、そうだ、ヒナギどのも誘おうか」
 「それは………」
 キギノは、ヒナギが実は女だということを思い出した。いつ、サクジリにうち明けようか。
 「………後にしたほうがよかろう」
 「そうか。……そうだな。まったく、気の毒なことだ。しばらく、独りにしておこう」
 二人は、風呂へとむかった。
                    
        ※
                    
 どっぷりと肩まで湯につかって、キギノはおもわず「あああ」と声をあげた。それから大きく息をつく。まこと、この世にこれほど気持ちの良いことも数少ない。
 「いや、これはたまらん」
 猟師からうけた傷が、じっくりと閉じてゆくようだった。
 体を白湯で流しおえたサクジリも、続いて湯殿につかる。
 「いつ入っても、ここの湯はいいな」
 サクジリも、しみじみと声をあげた。
 「それより、これからだ」
 キギノは、さっそく本題に入った。
 「ご依頼主は死んでしまった」
 サクジリが重く言う。
 「死んでしまったものは仕方がない。ヒナギどのをどうするかだ」
 「金をかえして、ここで別れよう」
 「それはならん」
 「なぜ」
 「せめて姫の遺骨をスンプにお届けせねば。ヒナギどのとて、あのままにしておくわけにはゆかんだろう」
 サクジリはうなずいた。
 「では、三人でスンプまで行くか。明日にでも発とう。早いほうがいいだろうから」
 「そうだな……」
 キギノは手拭いで顔をふくと、ゆっくりと身体をのばした。そして、勢い良く、湯から出た。
 「な、なんだ、もう上がるのか」
 「ばか。追手だ」
 「なにい…?」
 キギノはいうが早いか、だっと駆け、褌姿のまま、部屋にもどった。サクジリがその後を急ぐ。
                    
 タン! 
 と、襖を一気に開け放つと、窓ぎわに、気を失ったヒナギを抱える、商人ふうの不審な男がいた。
 「ぬうッ」
 男が懐からなにやら取り出すのより先に、キギノは歩を走らせ、男との間合いをつめた。そしてその手の濡れ手拭いを飛ばした。
 パァン、と景気の良い音がして、水しぶきを散らしながら、手拭いが男の手に当たる。その思いがけない衝撃で、男は手より畳に投げつけようとしていた煙玉を落とした。
 キギノは手拭いの端を持ったまま、自在に男に打ちつけた。たかが濡れ手拭いだが、その威力はあなどれない。打たれた箇所は赤くなり、びりびりとしびれる。顔などを打たれてはかなわない。水しぶきが鋭く目を襲う。
 男はたまらず、ヒナギを離すと、窓より外におどった。
 「サクジリ!」
 「いや、だめだ。忍びだ。もう、追えない」
 サクジリは窓より身をのりだして、つぶやいた。
 「それより、どういうことだ。なにゆえヒナギどのをさらう」
 サクジリはそう言って、ぎょっとした。たおれるヒナギの胸元がはだけ、引きちぎられた晒より形のよい胸乳が露出している。
 キギノは、静かに、その着物をなおした。
 「なんと……」
 「女子であることを確かめたようだな。クギラナ公の狙いは、始めからこのヒナギどのであったということだ」
 「知っていたのか!」
 「いちおう、女子であるということだけ」
 「………そうか。そういう事か………」
 サクジリは、呆然としつつ、何度もうなずいた。
 「どうした。なにがわかった」
 「キギノ。こいつは、たしかに、まだ仕事は終わってはおらん。いや、これからが、本命だ」
 サクジリはタケユリ姫の骨壺と、気絶するヒナギを交互にみて、きゅっと口をむすんだ。
                    
        ※
                    
 「カギマの国の殿さま、タカラギ・バンドウ公にはながらくお子がなくてな。四十近くになって、やっと子が生まれた。が、それは女子であった。しかし、公は目に入れても痛くないという可愛がりぶり。まさに箱に入れて育てたのよ。御名を、ヒナギクという」 
 「ヒナギク…!」 
 キギノは、行灯のわずかな明かりに照らされたヒナギの顔をみつめた。いや、ヒナギク姫の。
 「おもいだしたよ。ヒナギどのの名を聞いたときから、ずっとひっかかっていたのだ。たしかタケユリとは、ヒナギク姫の遠縁にあたる姫の名のはずだ」
 「姫には変わりないのか」
 「まあ、そうだが。……一族といっても、臣下だ。家督の相続云々にはまったくかかわりあえんほどのな」
 「なるほど………」
 キギノはタケユリの骨壺に目をやった。
 「臣下とはいえ、同族。さては幼きころより姉妹のように育ったのであろう。さぞやお心のこりであろうな。主を残して冥土へ先立つとは」
 キギノは神妙な面持ちで、骨壺を見つめつづけた。
 「話を続けるぞ」
 「おう」 
 「そのヒナギク姫だが、側室に、世継であるクニマツ君が生まれてからは、ネタ屋のあいだではすっかり忘れられていた。あまり意味がなくなったからな。城でもその通りの待遇になった。いずれ近隣諸国にでも嫁に出されるはずであった。人質としてな」
 「まるで物扱いだな」
 キギノはたちまち不機嫌になった。そういう、いわゆる家の都合で勝手に人生を決められるというのに、昔から憤懣やるせなかった。家にとっては大変都合の良い養子話を断り続けたのも、そういう、半分意地も混じったこだわりがあったからだ。
 しかしサクジリは、そんなキギノの気持ちを充分わかっていつつ、あっさりとこう言い返した。
 「そういうもんだ」
 「はっきり言うな」
 キギノの口がとがる。
 「冷たいやつだ」
 キギノのその言葉に、すぐ上目で人を見る癖のあるサクジリが、珍しく畳に目を落とした。
 「夢や妄想ばかりでは生きてはいけん。特にいろいろと弱いやつはな。おまえは剣という人より強いものを持っているから、そうやって余裕こいていられるのだ。弱いやつは、なにかと必死なのだ」
 重い言葉だ。キギノは、気まずそうに腕を組み、顔をそらした。
 「それよりキギノ、クギラナ公の目的はなんだ」
 キギノは、サクジリに目を戻した。
 「姫の生命であらば、さらう必要がない」
 「さあてね。興味はないよ」
 キギノはごろりとねころがった。
 「興味ないって……」
 サクジリは言葉を失って、キギノをにらみつけた。が、すぐに、ほっと息をついて、
 「かなわんな、おまえには」
 「それより、腹が減った。サクよ、ちょっとマツラの親父に声をかけて、飯にしてもらおうや」
 「飯なんか食ってる場合かよ」
 「腹が減ってはいくさはできん」
 「いくさときたか」
 サクジリはいつものキギノの大風呂敷に、可笑しくなった。
 「たったの二人でか。敵は三千人だぞ」
 「おう。クギラナ公直下の近衛軍三千が相手よ。腕がなるのう!」
 サクジリはあきれて、
 「いやはや、二剣用心棒、一世一代の窮地だよ。そこまでする価値のある仕事か?」
 キギノはがばりと起き上がった。
 「こむずかしい理屈は好かん。おれは、やりたい仕事をするだけだ。嫌なら、おれと姫を置いて、ニシギに帰るがいい」
 今度はサクジリが口をとがらせ、
 「また、そんな意地悪をいう。不詳、このサクジリ。二剣用心棒の影。影は、けっして離れることはない」 
 キギノは、がっしと、サクジリの肩を抱いた。
 「なあに、なんとかなるさ。よし、酒だ! 今夜は、出立祝いに、ぱあっとのもう!」
 「追手はどうする」
 「くそくらえだ」
 キギノは豪快に笑った。
 その笑い声を耳に、横になっていたヒナギクは、静かに、涙を流した。話をずっと聞いていたのだ。そっと、体を起こした。
 「おう、お目覚めか」
 ヒナギクは、おごそかに、畳に両手をそえた。
 「ど、どうなされた…」
 キギノとサクジリが、面食らう。
 しかし、ヒナギクは、何もいうことができず、ただただ頭を下げるだけで、礼をいうしかなかった。
 「お顔をおあげなされ」
 ヒナギクは、人の情けが、これほど身に沁みたことはなかった。父であるバンドウが討ち死にし、弟までも首をとられ、ヒナギクも自刃する寸前までいったのだが、なんと、家臣の中にヒナギクをクギラナに売って自らの録を保とうとする輩が現れた。自刃すら許されず、家臣に裏切られ城から追い出されたのだ。そこをわずかな忠臣の手により救われ、逃避行とあいなった。
 「その際、筆頭家老より、とあるものを預かりもうした。おそらく、従兄弟どのは、それをねろうて、わらわを追っていることと存じます」
 「あるもの?」
 「それは、いったい……」
 キギノはそこで、ニギの町を出る前、サヌキ屋の親爺に聞いた話を思い出した。
 異国わたりのすごい獲物というやつである。
 「そ、そりゃ、いったいどんな代物なんですかねえ!」
 サクジリは興奮して声を荒らげた。キギノがあわててそれをたしなめる。
 「しかし……気になるではないか」
 「ばか。おれたちが首をつっこんでいい事じゃない。お家の大事ぞ」
 「変なやつ。それを言うなら、この仕事をひきうけた事自体、じゅうぶん首をつっこんでいるじゃないか」
 「む……」
 キギノは、答えることができなかった。
 「御身を預かる以上、知る必要がある」
 サクジリは妙に納得させる言い方で、うなずいた。ヒナギクはくすくすと笑いながら、
 「ご両人は、『おおづつ』なるものをご存じでありましょうや?」
 二人は、首をふった。聞いたこともない。
 「では、『てっぽう』は?」
 同じく。
 「てっぽうは、鉄の砲と書きまする」
 ヒナギクは宙を指でなぞった。
 「砲とは石を投げて飛ばす古のいくさ道具ですが、鉄砲は火薬という燃える粉薬の力をもって、細い鉄の筒より小さな鉛の弾を飛ばす道具にてござりまする」
 「鉛のたま…」
 キギノは、想像がつかなかった。ヒナギクが話を続ける。
 「それは、今からおよそ二十年ほどの昔、南国はタッタのさらに南、タネギ島というところに異国の難破船によりもたらされたと聞いておりまする。すでにカツキラやマグラの商人たちにより量産され、各地の主な大名は何十丁づつかを手に入れておりまする。カギマもそのひとつ。そして、それを大きくした巨筒というものも、父上は密貿易によりいち速く手に入れたのでございまする」
 「そ、そいつは……その、ようするに、飛び道具なのか? たまを飛ばすというのだから、そうなのであろう。とすれば、ゆ、弓とくらべてどうかね。その、どちらが強い」
 キギノの言葉に、ヒナギクは申し訳なさそうに、
 「わらわはよくは存じあげませぬが……とにかく大きな音がして、耳がつぶれるぐらいの音が轟いたと思うたら……五十間はあろうかという距離のむこうの的があっというまに砕け散り……人など、いかような具足をつけていても一撃で死してしまうのです。鉄兜などなんの役にもたちませぬ。まさに十人張りの強弓に匹敵するとか。それが、足軽が一人一丁、持つのです。げにおそろしきは火薬とかいう燃える粉薬の力……。巨筒などは、一撃で城の石垣を崩し、足軽の隊をひとつまるごとふきとばしまする」
 「げえ…」
 キギノは、聞いていて気分が悪くなってきた。
 「それらはいま、とある場所に隠してあるそうなのですが、その隠し場所を示した絵図面を……」
 「預かったと……」
 ヒナギクは小さくうなずいた。最初は興味深く聞いていたサクジリも、
 「やれやれ。そんなものが出回るようじゃ、世も末だ。いくさが変わる。ますます人が死ぬ。ただでさえ合戦が町や村をまきこむようになり、飢饉だなんだといくさとなんの関係もない民がばたばたと死んでいるというのに………。なあ、キギノ」
 「そうだな。剣なんかいらなくなるのかな。おれも人を斬るが、そいつは、………」
 言葉がでなかった。キギノは、話題を変えた。
 「姫。まあ、それはそれだ。とりあえず、湯にでもつかってきたらいかがかな。敵の事は、おれとサクジリで周囲を見張る。と、いっても、けっしてのぞいたりはせぬから、ご安心めされ」
 ヒナギクはすっかりおちつきを取り戻し、あらたまって二人に両手をつくと、部屋を出た。
 そして、キギノとサクジリは、お互いの顔を見合った。
 「鉄砲だと」
 「絵図面だと」
 「どこに隠しもっているのか…」
 「ばか」
 キギノはサクジリの頭を叩いた。
 「無粋なことをいうな。仕事をしろ。仕事を。まずは見張りだ。後で、これからのことを練ろう」
 「わかった」
 サクジリはすっと立つと、襖を開けた。そのサクジリに、キギノが指をさして念をおす。
 「いいか、のぞくなよ。いかにおぬしとて、ゆるさんぞ」
 「け、その言葉、そっくりおまえに返してやるわ。………さては、惚れたか?」
 「ばっ……!」
 キギノは耳まで赤くなり、
 「急になにをいいやがる。はやく行け! おれは裏をみて回るからな!」
 「はいよ!」
 サクジリはさっさと行ってしまった。キギノは一人残って、行灯の光をみつめながらつぶやいた。
 「おれが女に惚れるだと………?」
 そして何度も首をかしげ、
 「ふうん。そうなのかな?」
 キギノは、刀をとって、確かに、いままで味わったこともないような気持ちを胸に覚えていることを感じつつ、部屋を出た。
                    
        ※
                    
 夜が明けた。
 昨夜は何事もなかった。
 湯でさっぱりしたあと、三人でのんで食べて大騒ぎだった。
 これが三千の軍勢に追われる者らのすることであろうか、というくらいの騒ぎだった。
 だが、そこが二剣用心棒のすごい所である。
 すごすぎて、開いた口がふさがらない。
 なにより、キギノの持論がすごい。
 「まあ、そのうち、なんとかなるだろう」
 そして本当になんとかなってしまうから恐ろしい。
 キギノも、とても人の事は言えない。ある意味で、化け物であった。
 「では、世話になった」
 マツラ屋の親父にそう残すと、明けたばかりの温泉町の路地をキギノたちは歩きはじめた。温かい硫黄の匂いともこれでしばしの別れかと思うと名残惜しい。
 ヒナギクは宿より新しい小袖と袴を頂戴した。やはり、こちらのほうが逃げやすい。
 キギノとサクジリも、色々と食料や薬を補給した。本当に、この宿にはいつも言葉にはいい尽くせないほどの世話をうけている。
 「お二人は、命の大恩人でございますから。また、いつでも、お立ち寄りに……」
 かつて、街道で賊に襲われていたこの親父を、キギノとサクジリが救ったことがあった。その時はまったく損得勘定なしで、言い方が悪ければ、つい、助けた。いくさにあけくれ、いつ自分が死ぬかわからないというこんな時世に人の事を気にしている暇はない。たいていは見て見ぬふりだ。たとえ助けても、助けた後にきっちりその働いたぶんだけ帰ってくるという保証がなくては助けない。つまり、金持ちそうか、どうか。
 マツラ屋は、どうみてもこぎたないただの親父であった。
 どうして助ける気になったのか。キギノはわからなかった。が、結果、この通りだ。
 頭が悪いから、思った事をする。
 それが、キギノの場合、常に良いほうに良いほうに動いている。
 普段の行いはお世辞にもよろしくない。
 きっと、運だけがとてつもなく強いのだろうと、キギノは勝手に思っていた。
 「キギノ、急げ。日の昇りきらぬうちに山へ入ろう」
 「おちつけよ。大丈夫だって」
 「しかしだな……」
 「そのうちなんとかなるから」
 不安げなサクジリに、キギノは余裕をもって言った。たとえ本当に追い詰められていても、うわべだけでも余裕をもたなくては、いざという時に真の力はでない。
 キギノの考えだ。
 だが、そのキギノの顔が、急に厳しくなる。立ち止まって顔を少し下げ、ぎろりと宙をにらみつけた。
 先を急ぐサクジリが振り返る。
 「おい、何をしている。余裕こくのもいいかげんにし……」
 「静かに」
 サクジリはキギノのその剣幕に口を閉じざるを得なかった。
 「………おのれ! 連中、ついになりふりかまっていられなくなったようだ!」
 キギノは、朝日の向こうに、たくさんの馬の駆ける音と兵たちの鬨の声をたしかに聞いた。そして、風をきる火矢の音も。
 それはたちまちの内にサクジリやヒナギクにも聞こえるぐらいになり、マツラ屋の親父が血相を変えて三人に早く逃げるよう叫びながら走ってきた頃には、地を揺らして、怒濤の勢いで宿場に軍勢がなだれこんできた。
 カギマの国はタカラギ家の幟をつけた騎馬兵は次々と火矢を放ち、足軽はあっというまに路地という路地まで入りこんで町を占領した。
 その見事なまでの手並みに、流石のキギノも焦りを感じた。
 宿場は朝焼けの色から一気に炎の色に染め変えられた。
 「こ、このくそやろうども!!」
 「キギノ!」
 「サクジリ、姫を連れて先に行け。親父どのも、いまならまだ間に合う。家人を連れて早く逃げろ。早く! 急げ!」
 サクジリは無言でヒナギクの手をとり、走りだした。しかし、ヒナギクが留まろうとする。
 「キ、キギノさま……!」
 「おれは大丈夫だ。お急ぎなされ!」
 キギノはそう叫びながら、迫り来る武者の一人の槍の一撃をとってつかみ、そのまま瞬時にぐいとひねって武者の肘を逆にきめた。武者は肘を槍に固められたため槍を離すに離せず、そのまま勢い余って馬から転がり落ちた。キギノは槍を奪い、すかさず突いて武者を殺すと、構えて気合の声をあげた。
 「おおおおお! 耳ある者は聞け! 目ある者はとくと見よ! 我こそはるか都にまでその名の通りし天下の剣豪、二剣用心棒なり! 勇猛なるカギマの兵ども、我を倒してさらに名をあげよ、いざ! いざ!」
 たちまちキギノの周囲に槍襖と馬の環ができる。
 「いまのうちだ。姫、早く! キギノの心がわからんのか!」
 サクジリがヒナギクの袖を強引にひっぱって叫ぶ。ヒナギクはサクジリをその気丈な瞳でにらみかえした。
 「あ、あなた様はキギノ様のご相棒でしょうに。先日とは訳がちがいまする。かような折までご相棒を囮に………」
 「かようもへったくれもあるものかね!」
 サクジリは舌をうった。
 「御免」
 そしてヒナギクの腹を打ち、息をのんだヒナギクをその小さな肩にかつぐと、立ちのぼる煙と逃げまどう宿場の人々にまぎれて、一目散に走りだした。
 ヒナギクは気を失う前にせめてキギノの姿をその目に焼きつけようと必死になって顔を上げたが、涙でなにも見えなかった。
                    
        ※
                    
 「二剣用心棒だと?」
 キギノの周囲をぐるぐると馬で駆け回る武者たちが声も高らかに威勢をあげる。
 「まことか!」
 「かような輩がまことか!」
 「まこともなにも、かかってくれば一目瞭然! こぬならこちらから参る!」
 キギノは挑発も兼ねて武者に槍の一撃をおみまいした。二剣用心棒、じつは槍の名手でもある。
 「ぬうりゃあ!」
 深く腰を落とした姿勢から脚力にものを言わせて走りざまに踏みこみ、槍を突き出す。その際に腰をきかせて踏みこんだ威力をそのまま槍に伝える。さらにひねりを加えると威力は倍増だ。
 動き回る目標を正確に突くのも難しい。
 しかしキギノの槍は見事に一人の武者を捕らえた。ねらうは甲冑の隙間だ。脇の下や顔面が鎧の急所となる。
 哀れ、その武者はキギノの穂先を口の中に受け、そのまま脳天を貫かれてもんどりうって馬から落ちた。
 「おお!」
 「やるな」
 「ええい、このまま取り囲んで一斉に斬りつけよ!」
 そうはさせじとキギノは今度は馬の脚をねらった。なんのことはない。槍で馬の脚を次々と打つ。驚いた馬が立ち上がるわ、その勢いで次の馬がひっくりかえるわ、馬の包囲陣はあっというまに崩れた。
 キギノは落馬した武者を順に仕留めた。
 「なんだ、弱いな」
 キギノは血糊のついた槍を下段に構えたまま、周囲に集まる兵たちに聞こえるようにつぶやいた。
 「これしきがカギマ兵かね。つまらん」
 とたんに、槍襖が殺気だつ。
 「まてまて」
 その槍襖を開けて、一人の巨漢が登場した。
 「わしが相手だ」
 キギノは構えを解き、その頭をすっかり剃った大男を見た。
 「気骨ある者がいたか。名乗られよ」
 「シトラガともうす。ご覧の通り、元は坊主だ」
 「坊主がいくさ働きか」
 「経文では世は救えん。みなし児を食わすには多分に銭がいる」
 「みなし児のために人を殺すか」
 シトラガは巨大な錫杖を地面に突き刺し、数珠を握りしめ、
 「人は死して生まれ変わる。いまは悪人でも来世では善人となるやもしれん。いくさで死せども来世はいくさの無い世やもしれん。すべては御仏のお導きのままに」
 キギノは肩をすくめた。
 「何を言っているのかよくわからんな」
 「わからんか。そうだな。剣客ごときにはわかるまい。なにゆえ人はいくさをする。なにゆえ人は人を斬る。なにゆえみなし児ができる。そのみなし児を救うために、なにゆえ違う人を殺めねばならぬ。拙僧が人を殺めたせいで、また新たなみなし児ができるやもしれぬ。いったい、どうすればよい」
 「きまっている。いますぐ寺にもどり、稚児らをつれて山に隠れろ。山で芋でも作ればよいであろう。何人みなし児がいるか知らんが、いくさでかせいだ銭で食う芋よりよっぽど美味かろうて」
 シトラガは歯をくいしばり、鉄作りの黒錫杖をとると、ぶんぶんと頭上に振り回した。そしてそれを槍のように構え、太い眉の下のぎょろ目をキギノにむけ、低く唸った。
 「他人になにがわかる」
 「だから、わからんよ。ようするに貴様も人殺しが好きなのだ。このおれと同じくな。えらそうな講釈でごまかすなよ」
 「だ、黙れい!」
 ごう、と音がなった。錫杖の空を裂く音だ。こんな一撃をくらったら、頭が瓜のようにはじけ散る。
 キギノはシトラガの体の外にむかって斜めに歩をすべりこませ、槍をひねりつつ突き入れた。槍が横一文字に迫る錫杖の合間をぬうように突き出される。敵の攻撃を避けつつ攻めることができる、八剣流は八の歩のひとつである。
 キギノが攻撃の外側に逃げたので、シトラガの錫杖は豪快に空ぶった。しかし、キギノの槍も当たってはいない。シトラガは空ぶった勢いにも体を崩さず、のけぞって槍をよけた。
 刹那に間合いを見切って歩をすべらせたキギノも流石だが、キギノほどの達人の一撃を咄嗟にのけぞってかわしたシトラガもなかなかだ。
 キギノは素早く槍を引いた。総じて、槍は当たろうが当たらなかろうが突いたらすぐ引くように形ができている。同時に引いた勢いで歩を後ろに下げ、勢い良く間合いをあけた。そしてそのまま振りかぶって上段から槍を叩きつけた。
 シトラガは雄叫びをあげて錫杖を振り回した。二十貫はあるだろうその大錫杖を力まかせに回すシトラガの馬力は凄まじい。雑兵を一撃で十人なぎ倒したこともあるし、馬ごと騎兵を天に放ったこともある。
 キギノの槍は錫杖に受けられ、折れてしまった。
 すかさずキギノは残った槍の柄を放り、跳びかかりざまに刀を抜き払った。
 抜刀術だ。
 「ィイアイッ」
 銘刀、ヤスツナがその白刃をきらめかせる。宿場じゅうの家々を焦がす業火と、すっかり姿をあらわにした太陽の光をその身にあびて、ヤスツナが朱に光る。
 一閃。
 鼻先に突きつけられた切っ先に、シトラガがごくりと唾をのんだ。鉄の棒を幾本も束ねて作った大錫杖が、するりと手元から斬れて地面に転がった。
 キギノの居合は、鉄をも断つ。
 キギノが刀を引くと、シトラガはその場に座りこんだ。腰が抜けた。
 周囲の兵たちも、声ひとつでない。ただ、炎のうずまく音だけが、鳴った。
 「去れ」
 刀を収めて、キギノが言った。もう、シトラガを見ていない。舞い散る火の粉と陽炎に身を重ね、次の獲物を求めている。
 シトラガはどっと涙をこぼすと、その場から走り去った。
 「お次はどいつだ」
 キギノは周囲を囲む兵たちをねめまわした。まだまだやり足りない。眼がそう言っている。
 「おれだ」
 キギノは声のほうを向いた。
 若い。
 キギノは、峠で死した隊商の用心棒の若侍を思い出した。年の頃は同じぐらい。だが、少しの間とはいえ寝食を共にしたあの素直で気のいい若侍とは違い、その面はふてぶてしく、人をなめていた。面長で、にきびがめだった。眉が薄く、目が意地汚い。
 「あの坊主、いつも口だけでろくに敵も倒さぬ負け犬よ。いつかおれがどさくさにまぎれて斬ってやろうと思っていた。意気地のない。いのちを救われて逃げだすとは」
 聞いただけでその傲慢さがわかる声だった。
 「逃げるのは恥ではない」
 「へへえ、おれ様に負けたときに逃げる口実をもう言うのかね。二剣用心棒か。あんたが死んだら、おれが名乗ってやるよ」
 にや…。
 ゆるんだのはキギノの口許だ。
 いやなやつを斬るときほど、楽しい。
 「抜きなよ」
 若侍が腕を組んだまま、うそぶいた。この若さで、いくさ場でここまで鼻が高くなるのだから、おそらく、たしかに腕は立つのだろう。具足もまあまあだ。周囲の足軽たちの中より応援の声もでた。足軽組頭でもやっているのだろう。まさか足軽大将ではあるまい。
 「どっちでもいいや」
 お言葉に甘えて、キギノは刀を抜いた。
 若侍が腕を下げる。
 「おれも居合が得意でね」
 と、いうことは、林崎流を学んでいることになる。いちおう、抜刀術では、むこうが元祖だ。
 「さっきのあんたより早く抜いてやるよ」
 「ほほう」
 キギノはわざとらしく目を丸くした。
 「そりゃ楽しみだ」
 それから、キギノはにやにやしながら刀を構え、瞬間、どん、と歩を進めて唐竹割りに刀を振った。前に進んだ勢いも加えて振られた刀は、キギノの小さな吐息とともに、脳天から若侍をまっぷたつにした。
 ちなみに、名も名乗らなかった若侍は、刀に手も触れていない。
 「なんだったんだ、こいつは」
 キギノはすぐさま次の者を募った。
 ぜんぜん楽しくなかった。
 「おら、次はどいつだ!」
 兵たちがざわめきだち、槍を打ち鳴らす。しかし、かかろうとはしない。死にに行くようなものだ。むなしい雄叫びをただあげて、キギノを威嚇する。
 (いっせいにくれば、さしものおれもこれだけの数の槍には勝てんのに……。)
 キギノはぎらぎらと光る瞳で、自分を取り巻く兵士たちをみすえた。
 (もったいない。)
 だが、無理もない。これら足軽のほとんどはつい先日まで槍の代わりに鍬だの鋤だのをもっていた連中だ。この時代、雑兵は半農半兵が原則である。名誉で田は耕せない。命あっての物種なのだ。
 「何事だ」
 兵たちがそのざわめきを収める。槍を下げ、声の主の方を向いた。
 (それっぽいのが来たな……。)
 キギノはその馬上の主を見た。立派な具足だ。幟までつけている。足軽大将……いや、侍大将やもしれない。
 その男は足軽の報告を聞くと、何度もうなずいて馬から下りた。
 「これは、天下の二剣用心棒どのにお目にかかれるとは光栄の到り。拙者、侍大将、ニノ・ガトベ。お連れを逃がして時間稼ぎとは豪気なことじゃ」
 ばれてる。
 しかしキギノは動揺を微塵も出さずに、
 「まあ、それもあるが、なにより人を斬るのが好きでねえ。どうだい、あんた、ひとつ勝負してみんか」
 「おもしろい」
 ガトベと名乗った男は兜をとり、足軽に手伝わせて胴丸も脱いだ。そして腰の二刀を抜くと、両手に持った。
 「くさなぎ二刀流。ニノ・ガトベ」
 その油断の無い構えに、キギノも刀を青眼に構える。なかなか、できる。そう思った。
 とたんに、嬉しくなる。
 「天心八剣流。キギノ・イシヅミ」
 しかし、いざキギノが間合いを測ろうと歩を進めようとしたとき、ガトベが、
 「いや、待たれい」
 「な、なんだ。興ざめだな」
 「頼みがある」
 「なんだ」
 「都にまでその字の聞こえし『二剣用心棒』………。是非とも、お互い二刀の使い手同士、お手前も二刀でお相手いただきたい。どちらの二刀流が上か。前々からその決着をつけてみたかった」
 「なるほど…」
 キギノは、その考えはもっともだと思った。剣客として、純粋な願いだ。自分の流派にかける自信と誇りが言わせる純粋な思いだ。
 「だが、のめんな」
 ガトベは息をのんだ。
 「な、なにゆえに」
 「天心八剣流は、二刀流ではないからだ」
 ガトベは眉をひそめた。
 「これは、異なことを。では、二剣の字はなにゆえついた。二剣を使うからではないのか」
 「二剣は使う。が、おれが二剣をもつのは最後の手よ。よいかね、たまたまおれが八剣流の技の中で二剣を最も得意とするだけ。八剣流は二刀流ではない。悪いが、よほどの相手でなくてはおれの二剣は拝めんと心得よ」
 みるみるガトベの顔が怒りにゆがむ。
 「す、するとなにかね。拙者ごときはそれに値せぬと。いや、わがくさなぎ二刀流が、貴殿が二剣を持つに値せぬと、こう申すか」
 「いかにも」
 キギノのすました答えに、ガトベのこめかみに浮かんだ青筋が脈打った。
 「では拙者が抜かせてみせよう。貴殿の、その小刀をな」
 「ご随意に」
 とたんに、ガトベがするどく斬りかかる。右の大刀に続いて左の小刀。時間差攻撃だ。
 しかしキギノはその右の大刀をまず刀で受けるや、歩を敵の死角である左に進めつつそのまま刀を下ろした。するとガトベの刀もキギノの刀にひっついたまま、切っ先が下を向く。そしてキギノは連続してそのまま刀を小さな螺旋を描いてはね上げた。ガトベの刀も、それに誘導されて天を向く。
 天心八剣流、「はしかかり」の術。
 ガトベの脇が、がらあきとなった。
 「エイッ」
 キギノはその脇に刀の柄を当てていった。腰を落として身を沈めつつ、相手に突進するように当ててゆく。八剣流剣術の、近接戦闘用の技だ。柄も立派な武器となる。さらに、身を沈めて重心を落とす事で、威力を多大に増している。
 ボキッ、と、肋の折れる音がして、ガトベは地にもんどりうった。
 そこをキギノの刀が襲う。ガトベはあわてて地面を転がり、それを避けた。が、遅い。キギノの刀は寸分の狂いもなくガトベの右手を切断した。
 刀を握ったまま、ガトベの右手が地面をはねる。
 「うぐぁ……!」
 ガトベは小刀を放り、歯を食いしばって痛みに耐えながら、血の吹き出る手首を押さえた。その歯の間より、荒い息に合わせて泡状の血もにじみでる。折れた肋が肺につき刺さっている証拠だ。
 そのガトベに、キギノがゆらりと影を落とす。
 「二刀流ではその程度よ。二つの剣を操りきれぬ」
 (腕がちがいすぎる……!)
 それに気づくのが遅すぎた。苦痛に顔をゆがめて、ガトベはキギノの冷たい瞳を見上げた。
 (もはやこれまで。)
 ガトベは歯が砕けるかというほどぎりぎりと奥歯を噛みしめ、側の小刀を掴むと、奇声をあげてキギノに踊りかかった。
 キギノはまったく落ちついて、ひと振りで正確にガトベの首筋に線を描いた。
 炎に照らされて、ガトベの首より鮮血が天に飛ぶ。そのまま、この侍大将は倒れて動かなくなった。
 「つまらん」
 キギノはビュンと刀を振って血振りをすると、懐から紙を出してまだ残っている血糊を丁寧にぬぐった。そしてそれをはらりと落とし、納刀した。
 「おい、もちっとこう、胸おどるような輩はおらんのか」
 キギノが振り返ったとたん、兵らは堰を切ったように逃げだした。中には槍を放り出す者までいた。我先に消えた。
 「なんだい」
 と、キギノがつぶやくのと、肩口にいままで味わったこともないような強烈な衝撃がはしったのは同時であった。キギノは後ろにふっとんで転がり、それから、天にこだまする轟音の跡を聞いた。
 火の粉の舞うなか、キギノは刀を杖がわりにしてなんとか立ち上がった。右腕が動かない。右の肩が焼けるようだ。なにかをくらった。
 続いて、また胃を中より震わし、耳をつんざくようなすさまじい音が響いて、キギノの足元になにかが突き刺さった。そこは大きく地面がえぐれ、一筋の白い煙が立っている。
 嫌な臭いが鼻をついた。
 そして、幾人もの武装兵を引き連れて、馬が一頭、近づいてきた。
 黒糸縅の豪奢な鎧。兜の鍬型も金仕立ての豪勢な大将だ。頬の少しこけた顔に、細い眉と髭が似合っている。ただ、眼だけは周囲の炎を反射して異様に光っていた。
 その眼が、刺すようにキギノをにらむ。手には、妙なものが握られていた。
 「そ、それが鉄砲とやらかね」
 「いかにも」
 無表情で馬上の主は答えた。しわがれた声で、早口だった。
 「貴公が二剣用心棒……」
 「いかにも」
 逆にキギノはかみしめるようにゆったりと答えた。
 「まだ死にたくはあるまい。おとなしく縛につけ」
 「おれをどうする気だ」
 大将は、鉄砲を足軽に渡した。そして槍を持つと、キギノに襲いかかった。
 その連突きの速いこと。
 キギノは避けるのに精一杯で、じわじわと歩をさげ、ついに炎に追い詰められた。
 最後に、キギノの喉元に穂先がつきつけられる。情けないことに、息がきれた。肩の血がとまらない。右腕の感覚が無くなってきた。
 (こいつは、ちいとばかりまずいな……。)
 キギノは自ら刀を放った。
 すかさず兵士たちが駆け寄り、キギノに縄をかける。
 「いて、いてて。この、もそっとやさしくやれい」
 キギノは兵たちに縄を引かれながら、コノギの宿を後にした。
 (サクジリ。無事、逃げおおせたろうな。)
 燃え落ちる家々を振り返りながら、キギノはそのことだけを考えた。

                    
                  



 二剣用心棒