第14交響曲


 バルシャイ/モスクワ室内管
 コンドラシン/モスクワフィル
 ロストロポーヴィチ/モスクワ室内管
 ロジェストヴェンスキー/ソビエト国立文化省響
 ハイティンク/ロイヤルコンセルトヘボウ


 全集以外では滅多にお目にかからない曲ではある。
 
 しかしこれはいったい、交響曲と呼べるシロモノなのだろうか? 弦楽アンサンブル、打楽器アンサンブル、声楽そして全11楽章。形式主義の人は、こんなものは断じて交響曲デハナイというかもしれない。しかしこれはまぎれない、交響曲以外の何物でもない、正真正銘の交響曲だと思う。
 
 なぜならば、(しょせん、くだらない定義でしかないのだが)作家が交響曲として発表している。これは20世紀以降には重要な(そして唯一の)指針なのだ。

 内容においては、テーマのその発展という形式が、交響曲として確固としている。いまや交響曲は形式では判断できぬゆえに、名称にこだわるのかもしれない。
 
 さて、ショスタコーヴィチの交響曲で、私は14番がたいそう気に入っている。響きがちょっと問題的なまでに孤独で暗いので、2位に甘んじているが、政治的な意味合いも無く、ただ、究極的に、人間の生と死という人が人として生きる上での孤高の命題を正面から真剣に取り上げ、深く掘り下げている点において、芸術的価値はダントツだ。これはさすがにメジャーにはなりえまい。残念ながら、マニアと呼ばれても甘んじて受けるしかないのが現状だろう。この作家の場合、つまるところ、芸術性と普遍性がこれほど乖離している。

 だけど、暗さの中にある美しさ、響きの面白さにいちどでも気付けば、本当に良い音楽ですよ。


 バルシャイは3種録音があって、廃盤の物も多いのが難点だが、最新のWDR響によるデジタルのものは、入手しやすく演奏も良。

 ここで紹介するのはしかし、初演の模様。1969年のモノラルだが、それを超えた表現がある。

 狂気。

 それはこのひと言につきる。この曲の死の臭いと死の美。それを狂気としてまとめあげた初演者の鬼気せまる表現。弦楽も打楽器も、気合が入りまくって、崩壊寸前の締め上げ状態。なにより、2人の歌手の、渾身で迫真の歌唱が絶品。これぞ絶唱。

 初演の翌年らしい同じくモスクワ室内管によるスタジオ録音もあり、それも鬼気迫るもの。録音状態を鑑みれば、それが最右翼か。


 コンドラシンの録音は、史上初ともいえるほどに古いものだが、我々の世代ともなると、じっさいに聴くのは後だったりする。となると、この録音から聴こえるのは、意外なほどの旋律美。表面上だけの、キテレツな響きに惑わされがちな本曲の意外なメロディーが、この最初期の録音からすでに聴こえている。これだけで、コンドラシンのすごさが、分かるというものだろう。弦楽のキシキシとした凄味も、声楽のわななきも、地獄の奥より聴こえる様なぼやけた打楽器も、おそるべし。


 ロストロはナショナル響との全集の一部を買ってそのやる気なさ度の高さに1人で憤慨してそれっきり聴くのを禁忌していたが、これはさすがに初演のソリストでもあり奥さんでもあるヴィシネフスカヤが歌ってるからか気合入ってる。ライヴ録音で緊張感もあり、レベルが高い。

 しかしバルシャイとちがいけして狂気という演奏ではなく、なんとも迫力あるというか。正統派というか。音質が悪いのが難点だが、14番の方向性としてひとつの道を示しているのは間ちがいない。


 ロジェストヴェンスキーは全集も復刻するようだが、私のは旧盤。虚無的なまでの暗さを強調しているといったら語弊があるだろうが、とにかく演出的にそうなのだ。地獄の一丁目か、墓場の横町か。声楽も感情的だし、打楽器の響きがすばらしい。ある種、オモシロ系。


 ハイティンクは、西側の初めての全集より。ここでは各国の詩人の詩を原語のママ歌っているという点で特徴的だ。ほんとうは全部ロシア語とロシア訳。わしはどの原語も理解していないので、どうでもいいのだが。



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