第5交響曲


 「革命」という通称があるが、正式なものではない。
 
 音楽的には、少なくともショスタコーヴィチの中ではたいしたものではないのだが、演奏効果という点で、20世紀の代表作交響曲というだけはある。プロコフィエフの5番と共に、例の5番の「宿命」を一身に背負い、かつ、立派に責務を果たしている。その意味では、すばらしい交響曲だと云わざるをえない。

 いわゆる「社会主義的リアリズム」のなせる業か、けっこうチンプな場面もあるのだが、そこをどうシリアスにもってゆくかで、演奏の価値がきまると思う。チンプなものをチンプに演奏するのも正しい姿だが、そこを一味ひねるのも楽しいではないか。そこの部分で底を浅く演奏されると、なかなか真価が認められず、2流とはいわないが1流半ほどの音楽として認知されている嫌いがある。ゆえにショスタコーヴィチは世間一般に言われているほどたいした作曲家ではない、などというタワゴトがはびこるのではないか。


 ムラヴィンスキー/レニングラードフィル
 スヴェトラーノフ/ソビエト国立響
 テンシュテット/フィラデルフィア管(海賊) あるいはミュンヘンフィル(正規)


 正直を云うと、ムラヴィンスキーとスヴェトラーノフの2種類だけが飛び抜けてすごすぎて、他の演奏はどうしようもなく却下せざるををえない。それほどに、2004年5月現在、この2人のショスタコーヴィチは、レベルがちがう。例外で、海賊のテンシュテットが独特の凄味を発している。またミュンヘンフィルの正規も出て、それもちがって意味でいい味出してます。

 5番なんて、色々と凄くなかったら、ただの鳴り物交響曲ですよ。それはそれでそれなりに楽しいかもしれないけど。


 ムラヴィンスキーはこの5番で出世したようなものだから、とにかく愛着があって、しかも執念と使命で貫かれた演奏が、たくさん残っている。わたしはいちおう5種類を聴いたのだが、もっとある。残念ながら晩年のものとか、響きの凝縮が弛緩しているものもあるのだが、全盛期のものは鳥肌がたつ出来ばえで、冷え冷えとしつつ、火の様に熱い。来日ライヴの演奏が奇跡的に残っていて国内レーベルで買えるので、ショスタコーヴィチ5番ファンを自認する人は絶対に聴きましょう。好き嫌いは、聴いたあとの問題で、とりあえず1回は聴かないと、お話にならないとと思います。必聴!!

 ちなみに、ムラヴィンスキー夫人の「証言」によると、彼はこの曲を生涯に150回は演奏し、モスクワでの演奏会には必ず作曲者が臨席していたという。彼の演奏は、少なくともひとつの同曲の確定であることには、やはり間ちがいはなさそうだ。


 スヴェトラーノフのショスタコーヴィチもいろいろとあるのですが、ここでは、旧録音を。この人の音圧の凄いことは周知の事実だが、ここでもこの5番のなんという圧縮度か。金管はわめきちらし、弦楽は血を吹き飛ばしている。この押しつぶされんばかりの圧縮というのは、抑圧にほかならぬのではないか。ソ連が崩壊してからのスヴェちゃんが、なんかおとなしくなってしまったのは、年をとった以外にも理由がありそうだ。


 テンシュテットは録音が悪いのだけれど、やはり彼のマーラーに通じるような、ある種のアブナイ集中力に支配されていて、すばらしい。(1985年海賊ライヴ)
 
 しかしWEITBLICより出た正規のものはミュンヘンフィルでしかも1975年のセッション録音。ショスタコ没年の貴重な記録。まだテンシュテットも若い(49歳)し、スタジオということでテンションはかなり低め。彼のスタ録はたいていこうなると面白みのカケラも無いのだが、なんというか、異様に堅実な超ドイッチュなショスタコ! これはザンデルリンクを超えた!(笑) なにより弦楽が素晴らしく、打楽器と金管はかなり控えめで、ロシア流とは一線を画している。これは今ではどこのオケでも指揮者でも聴けない貴重なショスタコーヴィチです。

 
 ゲルギエフとかも悪くないですけどね。わたしがショスタコーヴィチへ求めている物とちがう方向性なんで、却下します。

 わたしとちがって、そういうのが好きな人がいても、それはそれでふつうだと思います。つまりエンターテイメント交響曲としてとらえるか、否か。
 





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