春の祭典
1.マルケーヴィチ/フィルハーモニア管
2.スヴェトラーノフ/ソビエト国立響
3.ブーレーズ/クリーヴランド管
4.アンチェル/チェコフィル
5.ギーレン/ベルリン響
番外。
カラヤン/ベルリンフィル
ラトル/ベルリンフィル
マゼール/ウィーンフィル
個人的にこの曲、大好きです。3大バレーでは傑作はどれかというとたぶんペトだと思いますが、どちらが好きかといわれるとこっち。
マルケーヴィッチの演奏はフィルハーモニア管で3種類と、ワルシャワ国立響と、スイス・ロマンド管とロンドン響それに日本フィルがありますが、みんな同じです。このドハデなスーパーカブキみたいな演奏が、みんな同じです。どこで盛り上がって、どこでテンポが変わって、どこで見栄をきってとか、なんの楽器がどれくらいのダイナミクスでとか、すべて計算された演出の証拠で、オリジナルかつ普遍的、春の祭典の普及に使命感すらもっていた「ミスター・サクル・ド・プランタン」の銘にはじぬ演奏の数々で、堂々の1位!!
特に素晴らしいのは、1部のテナーチューバの大咆哮と(大地の雄叫び!!)、2部の後半、ものすごいスピードで、音楽として変拍子を一拍一拍キチンと振り分けているので(ホントに振り分けているわけではないみたいですが、映像を見たことないので分かりません。)、大管弦楽がガックンガックン揺れに揺れて、すさまじい集中力と迫力と生命力が生じていることです。多少のズレなんかお構いなし!! なぜなら、これが本来の(当時の人がガクガク踊った)踊りとしての、そして音楽のもつ生命エネルギーの発露した姿でしょうから。
テナーチューバは楽譜では他の楽器と同じただの f の大きさなので、これだけとびぬけて大きいのは、もちろん独特の解釈です。fffff ぐらい。
打楽器の迫力も特筆で、ティンパニもそうですがむしろバスドラム!! 噴火の地鳴りみたいに腹の底から響く!
とにかくナマの凄味があって真摯で、鳥肌モノに面白い演奏だと思いますが……。作為的で嫌いっていう人もいるみたいです。
ちなみに、テスタメントからのものが高名ですが(1951録音モノラルと、1959録音ステレオの両方が入っているやつ)フランスEMIから、1960録音の上質なものも出ています。演奏の内容はたいして変わりませんが、こちらは組曲版のペトとかもあって、お買い得。
※テナーチューバは正確には「テナーチューバのパート」で、ホルン奏者が持ち帰る場合はワーグナーチューバが吹かれます。またチューバがそのままテナーの音域を吹く場合もあるようです。
けっこう伝説の演奏と化していたスヴェちゃんのハルサイも、安価で聴ける時代になった。とはいえ、1966年のセッション演奏であるこのソビエト時代の春の祭典は、いま聴いてもまったく遜色なく、むしろ、新鮮な部分がたくさんある。それへ加えてなんといっても、スヴェトラーノフ全盛期の鳴らしっぷりをまず聴きたい! (私の好きなテナーチューバはマルケーヴィチを超えているーッ!!)
さらに、これは好き好きなので多くは語らないが、春の祭典のもつエキルギーを巨大な塊のまま表現し、噴出させ、動かし、微細な音符の組み合わせから巨大な物体を組み立てる能力に長けた演奏であること、それこそが、春の祭典という前人未到の音楽の最大の魅力だと思っているので、こういうまさに 「そのとおり」 の演奏というものは、聴かないと話にならないというか、正直、知らないのは勿体ない。
もちろん、2部冒頭などの静かな部分も、分厚いロシアの原野そしてシベリアの荒野が見えてきます。
ストラヴィンスキーのロシア原始主義を地でゆく大演奏。
マルケーヴィチともう1人、ハルサイ演奏に革新をもたらしたのはやはりなんといってもブーレーズでしょう! でも新盤は近所の好好爺になってしまって、ソニー・クラシカルに録音されているカミナリ親父時代のほうです。
精密機械のごとく組み立てられたすべての音が、寸分の狂いもなく作動するという美、作動美です。しかもその美が、あまりの集中力で、音どうしがギシギシとせめぎ合っている凄味です。本来バレー音楽である以上、芝居っけや優雅さというのは、曲の魅力=演奏の魅力になると思いますが、この演奏は独特の、この演奏だけの魅力にあふれている。
これも本来のもうひとつの姿だと思います。
ちなみに海賊でこれ(1972年)より前(1963年)のライヴ録音があるのですが、これが同じ系統なのですが、ライヴだからか、ものすごいテンポ変化、グラグラきて、軋みすぎて最後にブッ壊れる寸前で終わってます。ブーレーズもむかしはハイテンションしてたんですね。
ヤルヴィ/スイスロマンド菅もなかなか面白い解釈で良いのですか、ゆえあってアンチェル/チェコフィルを聴き直して仰天。こんな凄かったんだなあ〜〜と、人間の耳の記憶の不確かさを確認しました。
1部の金管とかの迫力は、ないというよりかはむしろアンチェルらしい、古風で、堅実な、しかもチェコフィルの素朴なサウンドが前面に来たかというもの。しかし2部のリズムの処理がすばらしく巧い!!
ここにきて、テンポも自在に動くし、管楽器の迫力も充分すぎるほど。
どういう指揮なのか、マルケヴィチに負けないほどのガクガク。ヘタではないんですよ。それが、ハルサイの正しいリズムなのです! と、指揮者の端整な顔だちから確信として出てくるような、音楽。ゆえに、別にオーケストラがいきり立たずとも、自然に出てくる迫力。この切れ味は、たしかに、マルケヴィチに匹敵する!
そして、打楽器ドッカドッカ!!(笑)
うひぇ〜〜。
海賊盤なので恐縮ですが、例外で凄いのがありますので。いちおう海賊は本当は番外扱いなので、最後に置いておきます。
ギーレンが2001年12月に演奏した春の祭典ですが、これがまた、マーラーとかで培った色彩法や、陰影法を、そのままハルサイにもちこんで、かつ、燃え燃えの部分は燃えたぎって煮えたぎって爆発しまくっているという、奇跡のような演奏です!
燃える部分は、他に比肩する演奏がたくさんあるので、個人的には、まあこんなもんか、といった具合だが、恐れ入ったのが2部の冒頭!
つまり 序奏 乙女たちの神秘的な集い の7分ほどのところ。ここは2部の半分近くを占める重要な箇所。しかしここを聴かせる演奏のなんと少ないことか。
ギーレンはちがう! この複雑で地味な和音と楽器法の陰影を、なんと見事に、そしてなんと面白く演奏していることか。いつも聴こえない部分が強調され、マーラーでいう錯綜的な表現が活かされていて、ハルサイを覚えるほどに聴き込んだ人にこそ、ここは驚きの連続。
それをさりげなくやってるのだからニクイですな!
ただし、祖先の儀式 からは、ハリキリすぎてズレまくってます(笑)
番外
BPOとVPOからそれぞれ選んでみました。といっても、ウィーンフィルのハルサイってマゼールの1枚しかないようです。ベルリンフィルのほうは、他にもいろいろとありましょう。私はぜんぜん持ってませんが。
カラヤンのハルサイは作曲者が 「こいつは冗談か」 といったと伝えられる、まったく20世紀音楽としての魅力を伴わない、ロマンチックな世紀末官能絵巻。それはそれで、楽しいですよ。海賊版のライヴはそんな絵巻がとたんにアヴァンギャルドになってる面白さ。
マゼールこそ他の曲でも作為的な「におい」がまさに臭気紛々としてて、私は苦手なんですが、このハルサイもけったいな演奏だなあ……。唯一、11/4拍子の部分が極端に遅いテンポで、意外性と迫力に富んでます。とはいえ、それってカヤランもしているし。。。
ラトルは2003年のライヴなのだが、なんとも、ラトルらしいマニアックな間のとり方といい、うまいリズムさばきといい、いかにもラトルな演奏。しかし、たまに、木管や弦楽が、「必死こいている」 様子がみてとれて、うーん、なんとも評価のしづらいもの。上手ですがね。弦がやっぱり凄いかなあ。ギシギシいってて。
オマケ
ストラヴィンスキーは指揮をたくさんして録音もたくさん残っているのですが、あくまで 「指揮もする作曲家」 であったようで、岩城宏之もN響アワーか何かで云ってましたが、指揮法自体はドヘタだったそうです。
というわけで、ハルサイなんか難しくて振れない(笑)
でも録音が残ってますね! なんと……。
ぜんぶ3拍子にした版を自分で作っちゃったそうです!!(爆)
その版が出版されたら、誰でもハルサイを振れるようになるそうです!!
なんというか、出版してほしくないような、してほしいような……!
オマケ2
ハルサイ考
この頃思うのだが、ハルサイはご承知の通り、バレーとして公演した際に、大スキャンダルを巻き起こしたのだが、それは音楽や踊りが単にキテレツだっただけではないと思う。
我々日本人にはイマイチ想像できない事だと思うが、このバレーのテーマは、ロシアの異教の神々の生贄物語であり、ロマンとファンタジーにあふれる主題ではあるものの、基本的にアンチキリストの古代の魔神による儀式で処女が踊り狂って昇天死という、ベルリオーズの幻想交響曲のようなある種悪趣味な、エログロアンダーグラウンドなテーマだったのも大きいと思う。
それが、まともな音楽と振り付けならまだしも、アレでコレですからwww
悪趣味の相乗効果というか。
そうなるとハルサイの鑑賞の視点も違ってくるだろう。
日本人は、太陽神とか、大地母神とかに違和感が無くむしろ親近感すら覚えてしまうので、長く暗い冬を耐えて、待ち望んだ春を迎える喜びが爆発! のような、えてしてハルサイを、健康的な鑑賞の視点にとらえている人が多いと思う。
それはもちろん間違いではないが、キリスト教側からの視点が抜けている。我々は異教徒だから異教徒側からの鑑賞も良いが、そもそもの狙いとはずれてしまっていると考える。
また、とうぜん現代の鑑賞者は、キリスト教国であっても、そこまでの感覚はとっくに失われているであろうことも、想像に難くない。
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