火 の 鳥 


 ストラヴィンスキーの出世作にして、3大バレーの1番頭。

 フランス風のオーケストレーションに、リムスキー=コルサコフ流の緻密な楽器法、ロシアの旋律、モダンな造りとファンタスティックの同居、幻想趣味と現実益(非常にウケて金が入った。かなりポピュラーな内容)の妙味。
 
 そして、たいへんに重要な作品であるのは間ちがいない。
 
 しかし、わたしは、特別聴きたいという作品ではないのだが、みなさんはどうだろうか。

 いまは全曲版が流行りのようで、新録ではあまり組曲版は見られないように思える。

 全曲版は、40分もの大作であり、すばらしい出来ばえだ。冒頭から、一気にストラヴィンスキー流のやり方で物語の中に引き込まれる。ロシアの旋律は聴きやすいし、オーケストレーションはすばらしいし、登場人物たちの情景描写も超一流、ストーリーの進め方も、申し分無い。
 
 とはいえ……。
 
 途中途中、なくてもいいシーンがあるとは思いませんか。もちろん、バレーとして上演するには、全曲でなくては、話にならない。

 だけど、音楽だけで勝負するとき……全曲は、踊りがないとあまり意味を成さないシーンが多すぎる。だから、組曲が制作されたのだと思う。演奏会用として。しかも、3種類も。作家本人も、いろいろ試していたようだ。

 バレーの上演は金がかかるし、バレーシアターに限られる。自分の音楽をもっと多くの人に聴いてもらうには、これはもちろん演奏会方式に限る。演奏される機会が増えると、楽譜も売れる。

 お金も稼げる。

 ボランティアで作曲してるのではない。仕事である。ベートーヴェン大先生だって第九を注文されて創っておる。芸術だってメシの種に変わりはない。


1911年版(第1組曲)
 
 こいつは最初に創られた組曲でして、なんとも、初演の翌年じゃないですか。バレー初演の次の年にはもう、組曲版が模索されているというのが、ミソですぞよ。
 
 録音は、ほとんど無いです。編成が、全曲と同じ4管。ただ曲数を減らしただけで、しかも(どういうわけか)カシチュイの躍りで終わる。

 なんとも物足りないというか、欲求不満な出来というか、ブーレーズの珍しい録音をもってますが、1回か2回しか聴いてないです。いまや、資料的価値以外、あんまり意味無いですし。


1919年版(第2組曲)
 
 もっとも高名な第2組曲。

 こいつはよくできた音楽だと思います。たしかに、全曲版を聴き慣れた人にとっては、物足りない部分もあるでしょうが、入門者とかにはもってこい。コンサートでも、前座にバッチリです。私が初めて買ったクラシックのCDも、ムーティ指揮の火の鳥第2組曲と、展覧会の絵のカップリングでした。

 2管になって演奏しやすくなり、楽譜は売れたり録音は増えたり、ストラヴィンスキー先生、いうことありません。
 
 これがプロの仕事である。


1945年版(第3組曲)
 
 これは、ペトリューシュカや春の祭典などと同じく、ロシア革命で版権料が全く入らなくなったストラヴィンスキーが、アメリカで生活してゆくために「出版し直した」もの。

 編成は2管で、1919年版と同じ。曲数が、1919年版との差は、イントゥロダクションと火の鳥の踊りの次に、火の鳥とイワン王子のパドゥドゥや、火の鳥の踊り(スケルツォ)等が加えられていて、全体で8分ほど長くなっている。

 また、ところどころ演奏法の指定やオーケストレーション(特に金管)も変更されているとのこと。(終曲の弦のテーマがすべてダウンで弾くよう指定されている、とか)

 これは優雅で豪奢な原典版や1919年版と比べると、ジャンジャンと弦が叩きつけられるようにテーマを弾いて、音形がだらだら伸びずビシッビシッときまって、非常にモダンな響きになっています。
 
 作曲者がN響を指揮し日本で演奏したのも、この1945年版。当然、これが最終形である。それまでN響が使っていた1919年版は版権の問題で使えず、これでちゃんとカネを払って演奏したという。まさか本人の前で、ソ連の海賊版となった1919年版を使うわけにもゆくまいw

 そもそも、第2組曲では火の鳥のヴァリエーションからいきなり王女たちのロンドにとぶ。このロンドを真ん中にして、シンメトリーになってはいるのだけれど、全曲を知っている者にとっては、少々飛躍しすぎている嫌いがある。

 したがって、その間に火の鳥と登場人物の短いエピソードが加わる第3組曲は、意外にちょうどいい。
 
 第2組曲では少しもの足りなく、かといって全曲版を聴くにはくたびれる。

 そういうアナタ、第3組曲をひとつ、手元に置いておくのを推奨します。ただし、これも録音少ないです(笑)


 1.ドラティ/ロンドン響(全曲)
 2.ヴァント/北ドイツ放送響(1945)
 3.ストラヴィンスキー/コロンビア響(1945)
 4.テンシュテット/北ドイツ放送響(1919)
 
 番外
 ムラヴィンスキー/レニングラードフィル(1919) 


 ドラティは3大バレーのうち、火の鳥がもっともすばらしい。ハルサイが最高という人もいるが、私はそれよりペトがいいし、もっともっと火の鳥がいい。この火の鳥はかなりスリリングで、ビビッドで、深い。マーキュリーの再発売で、うぐいすの歌と同じ盤。お買い得。

 何が深いかというと、私が常々思っていた全曲版の弱点……踊りがないと(音楽だけでは。)つらい部分がある……というのをまるで心得ているように、まさにその主要曲と主要曲の間にさりげなく「置かれて」いる「間」の部分に特に力を入れて、40分間、ずっと緊張感が持続している。例えば、魔王カシチュイとその部下の魔物たちの登場の部分や、踊りが終わって、ひと眠りして、魔王の不死の源たる卵が割れるシーンなどは本来もっとも緊張しなくてはならないはずなのに、組曲に入っているカシチュイの踊りの部分をドガドガやったあとは、意外と緊張感が抜ける演奏があるのだが、コレはちがう。
 
 ただ単にストーリーを把握しているというだけではなく、その演出まで分かっている証拠だと思う。
 
 まったく、この芸当はただ者ではないぞよ。 


 なんと、ヴァント大先生のストラヴィンスキーに、新古典主義だけではなく火の鳥があったとは嬉しい誤算。
 
 とはいえ、さすがの第3組曲。モダンの帝王。このエディションを選ぶ人は、やはり、作曲者と同じ感性を持っていると思って差し支えないのではないでしょうか。(でもアンセルメという先輩もいますし……笑)

 派手さや、奇をてらうところは一切なし。楽譜にあることのみを淡々と鳴らして行く様は見事という他は無いが、それでも、絶妙に旋律線を強調しつつも、艶やかに描く部分などもあって、なんともいえぬ味わい。

 カシチュイのここぞという強調もありだし、新古典主義な指揮といっても、ファンの急所を抑えているのがニクイ。

 フィナーレもヴァイオリン群によるモダン・ダウン弾きは、ヴァントの為にあるようなもの。素晴らしい第3組曲。火の鳥の究極の解釈のひとつ。


 ストラヴィンスキー自作自演の火の鳥の録音は、全曲と、この1945年版のみのはず。

 幸い、ストラヴィンスキーは指揮もまずまずうまく(指揮法としてはドヘタだったようで、この「うまい」という定義は、己の意図するところを上手にオケに演奏させる技術のこと。)作曲者の真理がよくわかる。
 
 彼の火の鳥に対する最終的な思いは、この第3組曲の演奏に現れている。

 バレーとしてはではなく、純粋な音楽として無駄の無い、必要な部分だけを抜粋し、解釈は流麗さを排して核心のみを強調。録音はさすがに古いが、ステレオなのがありがたい。 


 テンシュテットは海賊盤なので本来なら紹介しないのだが、このTIENTO盤は(他の曲の演奏とかでも。)非常に録音もいいし、けっこう大きな都市のCD屋で入手しやすいもののようなので、すぐに発売中止のメーカー盤などよりずっと正規盤といってもいいくらいで、あえて紹介させていただく。
 
 なにより演奏が壮絶、凄絶、気絶の3絶級。
 
 火の鳥が地獄の火の鳥になってるのがスゴヒ。
 
 紅蓮の火の鳥じゃ〜!
 
 冒頭の暗黒の部分はロシアのメルヒェンではなく、ドイツの深いシュバルツヴァルトの雰囲気。現れる王子や火の鳥も、どこか重厚さがただよう。王女たちの優雅な踊りは古城の舞踏会のようであり、カシチュイに至ってはまさに地獄の窯のフタが開いた状態。
 
 子守歌はマーラーのアダージョのようで、フィナーレの絢爛豪華さは比べようも無い。
 
 ……褒めすぎかしら。

 まさにバレー音楽としてではなく、交響楽としてのエンタメ演奏の代表格でしょう。


番外 
 そのテンシュテットの凄さに匹敵し、かついくぶんかロシアの雰囲気を残したものに、ムラヴィンスキーの第2組曲があるが、録音は悪いです。(モノラル)
     



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