レクイエム・カンティクルス
 

 4位から、宗教曲が続きます。
 
 かつてストラヴィンスキーとシェーンベルクは、互いに認め合って共に食事をしたりするほど仲が良かったが、ストラヴィンスキーが新古典主義を、シェーンベルクが無調〜12音技法を標榜すると、どういうわけか互いの芸術を憎み合い、厭くことなく攻撃し合った。おそらく、ストラヴィンスキーにしてみれば12音技法などは音楽以前の非常識的なアイデンティティであり、シェーンベルクにしてみれば、新古典主義など過去の作品を弄んでいるにすぎない非進歩的なものだったのだろう。

 2人は、2人して互いを揶揄する曲を創ってみたり、子どもじみたいがみ合いを繰り広げ、それは2人ともアメリカへ亡命してからも続き、なんと家がすぐ近所なのに30年も顔を合わせた事が無かった。

 しかし、シェーンベルクが死んでしまうと、ストラヴィンスキーの弟子で友人のロバート・クラフトが新ヴィーン楽派の研究家でもあったため、ストラヴィンスキーも12音の様式を研究しはじめる。

 そうしたらなんと、かれはかつてあれほど憎んだ様式をまったく自己のものとしてしまった。

 ストラヴィンスキー70歳。

 真の巨匠はまたも変貌を遂げた。

  無調や12音技法は、同じ技法を使って作曲しているというのに、作家によってまるで曲の印象が異なる。それだけ多様性や普遍性は備えているという事だとは思うが、如何せん、(いわゆる)メロディーが無いモノだから、マニア以外には好まれていない。
 
 コンナモノハ音楽デハナイ という人すらいる。
 
 まあわたしも、好んで聴くものではないが、好きな作家の曲であれば、研究と愛好の対象にはなる、といったほどだ。
 
 ストラヴィンスキーの12音技法曲は、正直、かなり分かりやすい。いや、ブーレーズに比べるとね。ヴェーベルンより分かりやすいかもしれない。

 もっとも、まったく聴かない人にとっては、もちろん、たいしたちがいは無い。
 
 レクイエレム・カンティクルスはストラヴィンスキーの完成した最後のオーケストラ曲で、もちろん122音列を使用。プリンストン大学よりの委嘱。
 
 聖書による合唱・独唱付の演奏会用レクイエムで、全体で15分ほどの短いもの。9曲に別れており、中でもオーケストラによる「前奏曲」「間奏曲」「後奏曲」の3曲と、「怒りの日」が印象深い。
 
 1.ナッセン/ロンドン・シンフォニエッタ
 2.ヤルヴィ/スイスロマンド管
 

 わたし、この2種類しか演奏を持っていないのですが、あるようで無いんだなあ。探せば、そりゃもっとあるでしょうが……。

 詩篇交響曲よりも少ないや。不勉強でどうもスミマセン。
 
 12音技法の中のストラヴィンスキー的な部分、というのは、どんなものだろう。
 
 音列自体の扱い方も、解説書によればストラヴィンスキー独特のものがあるようだが、それは素人の愛好家には少し難しいように感じる。

 私が個人的に強く感じているものは、やはりオーケストレーションとリズムの取り扱い方。

 この2つは、次から次へと変化(進化)するストラヴィンスキーの音楽語法というものにおいて、唯一、不変であると思う。ストラヴィンスキーはどうあってもストラヴィンスキーという特徴を裏付けるものとして、私はこの2つが重要なのだと感じている。
 
 12音音楽は、動機はあるが明確な旋律はない。したがってその動機をどう組み立てるかが重要になる。組み立てる(積み立てる?)にはリズム処理という手法を使う。
 
 そのリズムの扱い方が、ストラヴィンスキーはあらゆる作曲家のなかでも天才中の天才であるのだから、12音だろうとふつうの音楽だろうと、まるで関係がない。

 変拍子がどうのこうのではなく……なんというのだろう、旋律とか動機を構成するものとか、すごいキレがあって、いろんなリズムの組み立て方がすごい面白くって、一度聞いたら忘れられなくって、やっぱり独特の天才があるのかと思う。
 
 オーケストレーションは、編成がでかかろうが小さかろうが、これも関係なし。系譜としてはコルサコフ流だが(同系統にレスピーギ、ラベル)それらより豪奢でも華麗でも無く、むしろ変幻自在。幻像。
 
 どちらも非常に人の意表をつく。




 前のページ

 表紙へ