ペトリューシュカ
ストーリー、旋律、書法、管弦楽法、演奏効果、すべてにおいて、3大バレーの中ではもっとも楽しいのがこの2作目のペトリューシュカだと思います。もともとピアノ協奏曲風の音楽として発想されたとのことで、ピアノ・ソロパートがとても重要。
でもこの曲で、ピアニストやピアノ自体をうんぬんする(した)ってのは、あまり聞いたことがありませんね。
1.ブーレーズ/NYフィルハーモニック(1911)
2.スヴェトラーノフ/ソビエト国立響(1911)
3.クレンペラー/フィルハーモニア管(1947)
4.フェドセーエフ/モスクワ放送響?(1947:演奏会用ラスト)
5.ストラヴィンスキー/コロンビア響(組曲:演奏会用ラスト)
番外
ムラヴィンスキー/レニングラード管
ペトリューシュカには版がふたつあり、初演時の1911年版(4管編成)とアメリカで出版した1947年改訂版(3管編成)があります。あと、1947年版からの抜粋で、1962年組曲版というマニアックな録音がいくつかあります。(あくまで抜粋で、出版はされないようです)
なお、1947年版には、1911年原典版と同じく終わる「通常用ラスト」と、ピアノ独奏曲「ペトリューシュカからの3楽章」からヒントを得たといわれている「演奏会用ラスト」があって、演奏会用は通な終わり方だと思います。
ブーレーズとNYフィルとのやつは、ソニークラシカル旧盤のほうで、1971年録音です。これはペトリューシュカの超模範的(模範的・常識的ではない!)演奏に思います。こいつを聴かにゃあ、はじまらねえ。
ハルサイで2位の演奏とカップリングで、お買い得です。いまでも入手は可能なのかな。私のはちなみに輸入盤です。
ペトという音楽の、決定的な魅力はなんでしょうか。
もちろん、バレー音楽として見た場合、踊りに伴うリズムの扱いもあるでしょう。旋律の豊かさや、ドビュッシーも感動したというファンタスティックな響き、加えて重なって響く異なる拍子や調の現代的要素。ピアノをはじめとする超絶技巧のソロパート。
しかし、バレーのストーリーをみたとき、まさに20世紀末から21世紀初頭にかけての我々の生きている世界に通じる頽廃さが、100年前のバレー音楽にみられるのです。
これはですね、ストーカー殺人事件ですよ。
しかもストーキングしているほうが逆襲されて殺されてしまった。
この猟奇的な生き人形によるバーチャルストーカー殺人事件劇を、優雅に演奏するだ!?
一昨日きてほしいです。ドビュッシーの時代ならいざしらず、この20世紀、21世紀で!!
表面の華やかさはどこかぎこちなく、これから起こる悲劇の前ぶれ。謝肉祭に遊ぶ人々はみな道化か影法師に見え、バレーの舞台世界全体がバーチャルな雰囲気。まさに20世紀モダン芸術の先取り。その中で、第3場の恐さなど、とてもではないが、それを優雅に演奏する人を私は疑ってしまいます。
コルネットとフルートの静かなワルツ。それはバレリーナとムーア人の踊り。それを背後から、ジッと狂気的にみつめ続けるイングリッシュホルンのペトリューシュカ。復調と分裂的なまでにかみ合わないリズムが、そのギクシクャさと不気味さと嫉妬心を表しています。
長くなりました。ブーレーズの旧盤。いちばんコワイです。 (1911年版)
2004年、秘蔵録音が出現した。録音年不詳ながらスヴェちゃんのペトリューシュカ!! あひーッ。
やりたい放題ではあるが、崩れたり壊れたりはしていない。ロシア流であり、金管を鳴らしまくっている場面もあるが、意外に細かいところにも手が届いている。なにより、これはバレー音楽ではない。まるで重交響曲であり、音楽物語のようです。
第3幕のムーア人の部屋の様子も撃滅的に恐ろしい情景ですが、なにより怖かったのが第4幕。
ここはふつう謝肉祭の愉しげな様子で、最後にペトリューシュカが殺されて亡霊が現れて、そこでまあ、ショッキングかな、といった演奏が多いですが、スヴェトラーノフ、分かっています。クレンペラー以上と感じました。
この遅さ!! テンポが倍に近い。そして分解的、いや、解剖的な手法!
これぞバーチャル、ペトリューシュカが、一編のバーチャル世界においての幻想劇であり、現代に通じる無機質な感情による衝動殺人劇であるという事実を赤裸々にさらけ出しています。おお、血、血、血だ。うう、ブルブル………。
ドラムロールも、情念的な恐ろしさ観客の心情を圧迫している。 (たぶん1911年版)
クレンペラー先生は若いときは同時代音楽を嬉々として(?)とりあげて、ゲンダイオンガクのチャンピオンなんていわれてましたが、年をとってからはあまりやらなくなった。
でもペトリューシュカが残ってました。我々ファンは狂喜乱舞です。
しかもこれがすばらしくクレンペラー流。冒頭の止まりそうなテンポはダメととる人もいるが、私に云わせれば壊れたオルゴールか安っぽいCGのようで、いかにもヴァーチャルで現代的。でも他の部分のテンポは別に普通なんで、やっぱりこれはワザと遅い。第3場は涙がでるくらいキモチワルイです。
最後の謝肉祭の場も、マネキンの中へ飛びこんだような不気味さだよ〜。
さすがだよなあ。 (1947年版)
フェドセーエフのたぶんライヴ録音で、ペトリューシュカがありました。これも、ある意味標準的な演奏ではないでしょう。スヴェトラーノフも真っ青の、超エンタメ演奏。まさにバレーを通り越した、交響組曲としての、交響楽としてのエンターテイメント演奏ですね! もちろん、バレーではないので、1947年版。
各キャラクターの描き分けも見事ながら、それぞれの情景描写が、手にとるように分かる面白さ。それが、踊りを意識しておらず、まさに音楽絵巻として描いている手腕と慧眼。
3幕も不気味の極致だし、本来は幕間の時間稼ぎのドラムロールも、音楽の一部として、イジリ放題。超速だし、そのままデクレッシェンドとか、アタックの大きさとか、まさに打楽器合奏として音楽している。これは唸った。
4幕のドンチャン騒ぎも、バレー音楽として意識していてはとてもできないような、ぶっとびぶり。まさにペトリューシュカの隠された魅力を引きずり出してくれた名演でしょう。
そして嬉しい演奏会用エンディング。もともと演奏会用の1947版は、こっちのほうが良くなってきた。(演奏会用ラスト、詳しくは下記を。)
ストラヴィンスキーは自作自演が好きで、録音も多いんです。指揮はまあうまいほうでしょう。指揮もする作曲家としては。(作曲もする指揮者もいます。)
(もっとも、ストラヴィンスキーが来日した際、これは機会だと当時N響の指揮研究員だった岩城宏之が特にせがんでシンバルを叩いたそうなんですが、指揮法そのものはとてつもなく下手だったと証言していました。ついでに黛敏郎はチェレスタを弾いたが、演奏者としては素人なものでストラヴィンスキーにこてんぱんにしぼられたとのこと。)
まあ、指揮ぶりよりも、作曲者晩年の心理とかが見えて面白いです。
楽譜は1947年版で、しかも1962年組曲版。組曲版というのは、ただ単に第3場が無いだけなんですが。
なんで肝心の(いちばん恐い。)第3場がまるっきりカットなのか、分かりませんが、組曲版を簡易版で普及版とすると、もっとも難しい部分を省いたのかもしれません。ただ単に割愛という問題では無いような気もしますが、わかりません。
また、ストラヴィンスキーが面白いのは、この1947年版にはバレーどおりの静かに終わるエンディングとは別に、謝肉祭のラスト部分から、ペトリューシュカの亡霊の部分に行かずに(仮面舞踏会−あるいは道化師−の最後だと思われます。)いきなり木管のはげしいトリルを伴って、伸ばしの音形が1音ずつあがっていって、最後にドジャン! と終わる「演奏会用」のエンディングがありますが、その演奏会用で録音がなされているのです。
珍しいです。生演奏では岩城が札響でむかしやってました。93年くらいに。さすが本人の指揮でシンバル叩いただけあります。こだわってます。
その演奏会用エンディングが聴けるという点でも貴重なものです。
1947年版はオーケストレーション等、楽譜が整理されている反面、手抜きだと批判する指揮者もいて(アンセルメ)、また、バレー初演時の雰囲気は原典版に限るという評論家もいて(三浦淳史)、まあどちらを演奏しても一般のファンにとっては大したちがいは無いのですが、ただの1947年版なだけではなく、演奏会用のラストでたまには終わってるCDがあっても良いと思います。
ちなみに、1911年版の自作自演録音では、ちゃんとバレー通りに終わってます。原典版なんで当たり前だが。
まあ、手抜き云々より、著作権の問題で、アメリカに行ったストラヴィンスキーには3大バレーの旧版からの印税は1セントも入って来なかったというのだから、食べるためにアメリカで出版し直す必要があったというのが真相のようです。火の鳥もそうですが、演奏し易いように編成を小さくしたとしても、誰が責めることができるでしょう。それを商業主義と批判されても、作曲者にしてみれば、ふざけんな、じゃあおまえが面倒みてよって感じですね。生活かかってるんだから。
ちなみに、マルケヴィッチが残している組曲では、1場からロシアの踊り、2場のペトリューシュカの部屋、3場はカット、4場の謝肉祭というセレクトです。好き勝手に選んでいいのかもしれない。もっとも、これはルービンシュテインのために書かれたピアノ独奏用の「ペトリューシュカからの3楽章」と同じセレクトなので、それを意識したのかもしれません。ちなみに「ペトリューシュカからの3楽章」は、謝肉祭では「熊を連れた農夫の踊り」がカットされ、組曲と同じく仮面舞踏会のラストで、管弦楽とはまたちがった終結部をもって終わります。楽譜を観てないんであくまで聴いた限りですが。また、「ペトリューシュカからの3楽章」は1921年の編曲なので、1947年版の演奏会用エンディングは、「ペトリューシュカからの3楽章」のラストが下地になっているようです。
個人的には、組曲版は自作自演で2種類、マルケヴィチ、そしてなんとテンシュテットで、1種類あります。
番外のムラヴィンスキーはですね、音質さえよければ堂々の2位です。ブーレーズに負けず劣らずの、しかもソ連恐怖政治そのもののような、恐るべき戦慄を味わえます。が、劣悪なモノラル録音であるばかりでなく、トランペットが(インフルエンザかなんかで40度の高熱をおして演奏しているような)すさまじきヘナチョコぶりで、ムラヴィンスキーによく殺されなかったな、というほどなのです。(1964年録音。他に1946年盤というのもあるらしいです。)
でも、ロシアの演奏って、演奏中に間違ってもぜんぜん気にしないとこありますんでね、その変はどうなんでしょうね。
また音質に関しては他の盤ではいいのかもしれません。
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