三木 稔(1930−2011)
伊福部門下「古弟子会」の1人、三木。2008年7月現在でご存命は、眞鍋、三木、今井のお三方になってしまった。
→ 2011/12/8 お亡くなりになりました。
三木は邦楽界で活躍が素晴らしいが、かの「世界でいちばん演奏されているであろう打楽器アンサンブル」マリンバ・スピリチュアルの作者でもある。アジア中の伝統楽器によって編成されたアジアンオーケストラ、邦楽器協奏曲等、作品には邦楽アンサンブル曲などが多い。
その中で、三木の最大規模作品のひとつが、鳳凰三連と名付けられた、3部作で、それぞれ序の曲、破の曲、急の曲とある。それはもちろん、日本の伝統的な拍の取り方、序破急に由来する。この拍の取り方は、たんなる拍子に止まらず、日本文化のあらゆるところに浸透し、日本人の根幹を成す思想をも支配するリズムになっている。
ちなみに序の曲は弦楽合奏と邦楽アンサンブル、破の曲は二十絃箏協奏曲、そして急の曲が、邦楽合奏とオーケストラの合体作品で交響曲となっている。本来ならば全て、ご紹介するところだが、序と破は割愛する。
ちなみにこの鳳凰三連が納められたCD自体は93年ころに入手していたが、ついぞ15年ほども、急の曲がシンフォニーだったと知らなかった次第。
ちなみに、三木によると急の曲は 「あえてをナンバーをつけると5番」 だそうである。2008年現在では、しかも7番まである。地味に交響曲作家だった(笑)
参考 三木稔のホームページ
ガムラン交響曲(1957)(1番)
交響曲「除夜」(1960)(2番)
和讃による交響(1976)(3番)
管弦楽のための「春秋の譜」(1980)(4番)
急の曲 Symphony for Two Worlds(1981)(5番)
大地の記憶(2000)(6番)
ふるさと交響曲(2001)(7番)
急の曲 Symphony for Two Worlds(1981)
急な曲ではない。割愛するといっても連作なので、序の曲と破の曲を簡易にご紹介する。あえて云うなら、第5交響曲だそうである。
序の曲(1969)
まさしく序奏的な性格をもった構成で、弦楽合奏と、尺八、二十絃箏、それに三味線が時にソロとして、時に三重奏として、絡んでくる、というもの。また、二十絃箏は、三木稔と野坂恵子(現:野坂操壽)が共同開発した新作邦楽器で、この初演(1969)が初披露であったという。民族的な楽想と思われがちな三木だが、意外とゲンダイオンガクである。ただし、調性と無調の間をゆらめきながら進んでゆく音楽には、調性の対比としての無調という、無調の面白みがちゃんと存在している。無調はあくまで作曲のための道具のひとつであって、無調でなくばいけない、などということは、どこにもない。
破の曲(1974)
2管編成の通常オーケストラに二十絃箏がソロとして絡む、一種の箏協奏曲。これも、激しく無調である。が、ソロの箏を含むなぜかやたらとベターなフレーズと、入り混じっているのが面白い。ひたすら無調でヒューヒュー云っていれば良いというものではない。特にリズム部が無拍っぽくて不思議な感じ。これは、ふだん三木と対極に位置する作曲家からも、評判が良かったそうだ。(本人のHPより。)ずっと緩徐楽章的なゆったりとした音楽が続くが、最後にほうには激しい感情の高ぶりも見られる。
そして急の曲(1981)と続く。
これは邦楽合奏集団とオーケストラとの融合音楽で、単純な協奏曲とかいうものでもない。イントロダクションを含めた4楽章制で、日本楽器と西洋楽器とのふたつの世界がここで共演し、競合し、化学反応を起こす。そして生まれるものはなんなのだろうか。
冒頭の導入部は全体を俯瞰するという。邦楽の実に日本的な楽想と、それをうまくサポートする西洋的なオーケストラが面白い。
第1楽章へはアタッカで進められる。ちなはに2・3楽章の中間部のアタッカであり、導入部・第1楽章、第2・第3楽章 、第4楽章と、大きな3部制とも云える。1楽章はアレグロの続きだが、どこか映画音楽調でもあって実に楽しい。
2楽章へは曖昧に続く。つまり、各楽章には集結部が存在していない。テンポが落ちて、アダージョとなるが、甘美なものではなく、尺八が日本独特の緊張感を生み出す。
3楽章はスケルツォだが、三木お得意の阿波踊りのリズムが昇華されており、これも楽しい。この急の曲というのは、序と破に比べ、純粋に音楽を聴く楽しみを味わわせてくれる。
4楽章は再びアレグロ。導入にレントがつく。単純なリフレインの繰り返しの中に少しずつ変化が訪れて、どんどん豪快に邦楽とオーケストラが融合されてゆく。その行きつく先にあるものは、果して、なんだったのだろうか。
いちおう終結はするが、それは伸ばされた篳篥であり、終結和音はない。
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