ユ アサ ジョウ ジ
湯浅譲二(1929− )
湯浅譲二も、私は、けっこう前から聴いている。私の邦人作家の聴歴は20歳前後からなのだが、矢代秋雄、伊福部昭、武満徹、それに湯浅譲二からだった。なぜ、湯浅という、いまでも(正直)さしてメジャーではない作家の曲を聴くようになったのか、それはもう分からない。ただ、fontecの連続邦人作品集「現代日本の作曲家」シリーズの最初期に湯浅譲二があったから、かもしれない。とにかく、当時は邦人作家なんて入手できるCDも少なかったし、なんでもCDを買える範囲で買っていた。
しかし、武満もそうなのだが、いわゆる「前衛作品」作家である湯浅の曲は、なかなか、生半可に「分かる」などと云える代物ではい。かなり、とっつきにくい。しかも、武満の曲は、どちらかというと日本的情緒な、ウェットな部分が濃厚に出てきて、まだ聴きやすいところがあるが、湯浅はそうはゆかぬ。武満と同じく作曲そのものは独学とはいえ、慶応義塾大学医学部進学教養コース中退(作曲に専念のため。たぶん。)という履歴をみて分かるとおり、湯浅の作曲法は多分に「理系」であり、数学的というか、物理学的というか。グラフを使って作曲するというのだから。(別に図形やグラフを使って作曲するのは彼だけでは無いが………。)
しかし、そうなると、湯浅は、同じく慶応中退作曲家の吉松隆の先輩ということになり、吉松は工学部であるから、同じ「理系」作曲家であるという面白いつながりがあるではないか。
音楽も、記譜法など、意外と似通っているの、かも……?
それはさておき、若いころの湯浅は「実験工房」というグループで、武満と共に同人作家として活躍した。2人とも独学派であり、芸大音大連の同時代の作曲家からすれば、かなり異端に映ったのだろうか。それとも、芸術家同士、大学なんかに関係なく、才能で互いを認め合ったのだろうか。
湯浅の音楽の魅力を云うと、まず第1が、完璧なまでに構造的な時間と空間の計算の音化を聴く楽しみというか、喜びというか。かといって、12音音楽というわけでもない。そこは12音技法を使用している部分もあるが、それへ縛られていないのだ。独学派の強みというか、自分の中の音だけを正確に記譜することができる。
湯浅の曲には、時間の概念を標榜したものが多い。これは自分でもそう指摘しているが、私は、その音楽と時間という関係が、長く理解できなかった。理解するというのは語弊がある。いまでも、理解できているかと云われれば、正直、分からない。だけども、音と時の関係を 「ああ、こういうことか」 と納得したというか、そうなってからは、前よりずっとずっと素直にきけるようになったのは確かだった。
それは、私が、時間というものを抽象的に、または文章的・文言的、あるいは文芸的に考えていて(文系的ともいえるか。)それと曲とを結びつけようとしていたから、ピンとこなかったのだろうと思う。しかし、そうではなかった。
カラヤンが、じつはヒントをくれていた。彼は、録音を認めていた。チェリビダッケは基本的に録音を認めていなかった。その2人の音楽というものへの考え方のちがいは、なんだったのか。時計で云うなら、チェリは手巻きで、カラヤンはクォーツだったといえるだろうか。
カラヤンは、音楽は現れた瞬間に消えゆく、花火のような、一瞬間の芸術であり、それを記録して残すということは、花火を映像に録っておくのと似たような、保存性と云う意味での、再現芸術のひとつの 「あり方」 だったというような意見を持っていたと記憶している。
この「音楽は一瞬間」という考え方が、音と時間の関係を示唆している。
音とは、一定時間の空気の振動に他ならない。
音が出てから消えるまでが時間に支配されているのは、何もベートーヴェンを演奏するのだって変わりは無い。テンポや、フレーズや、微妙なニュアンスのちがいに到るまで、音楽表現はすべからく時間のズレを利用したものにすぎない。せいぜい、フォルテやピアノのちがいぐらいが、時間とは関係なく、音の大きさ、つまり振動の幅のちがいにほかならぬ。(もっともそれだって、振動幅が大きければ、それだけ長い時間振動しているのだ!)
曲自体の「演奏時間」がどの曲にも定められている以上、音楽と時間は、表裏一体の関係にある。
いわゆる、アンサンブル経験者ならば「タテの線」ということばをいやというほど聴いたことがあると思われるが、音程を合わせるのと同様に大事なのがこのタテの線であって、つまり、いかに正確に譜面通りに演奏するか、という、技術的なアンサンブルのことだ。本質的なアンサンブルは、広義の意味では、互いの音を聴きながら、音程も含めて、ひとつの音楽として考えながら合奏してゆくこと全体をいうが、狭義の意味では、まず、このタテの線を合わせることから始まる。
このタテの線を合わせることが、つまり、互いの時間軸を合わせるのに他ならない。
つまり音楽は、古典派のようなクッキリした音楽ならばなおさら、そして、ロマン派とて同じことだし、マーラーやシュトラウスのような複雑なもの、または12音、ドビュッシーだって、それに旋律よりもリズムを重視したようなストラヴィンスキー、すべからく、特に管弦楽曲に関しては、無数のタテの線が自在に組み合わさって、また、タテの線とタテの線の合間のヨコの線というのも、当たり前だがあって、それらが時間の流れの微妙なズレを形作っていることになる。
それこそが、音楽の本質のひとつだ。時間は、和声と共に、音楽の両輪なのではないか。
その時間の構造の概念と真正面から向き合い、音楽表現の根幹にすえているのが、湯浅なのだ。もちろん、日本人作家特有の間のとり方、すなわち「音のない時間」というのも、重用な音楽の要素となる。
もっとも武満とて、精霊の庭などのように、曲の初めに戻って終わり、延々と音楽が続くような形式の(絵巻物形式、あるいは日本庭園様式。)音楽を作っている以上、時間の概念は常に命題としてあったはず。
しかし湯浅の云う時間との関係は、さらに空間的な音響構造も含めて、きわめてそのような絵巻物だの日本庭園だのという情緒を排した、理知的で、数学的で、物理的で、クールで、斬新な、音づくりを、我々へ提供している。武満も初期にはそのようなやたらとドライな響きを書いていたが、やがて長じるに連れ、どんどんウェットになっていった。湯浅は、生涯、ドライでクールなままだろう。そういうこだわった姿勢は、ある意味、私は大好きで、武満より好きな部分かもしれない。ありとあらゆる音が一定時間と一体となりつつ、飛んでくる。
まあ、具体的に、図形グラフをそのまま音にしたような音楽を、理解するとかなんだとかいって、分かったフリをして解説するのは本意ではないので、時間と音楽との関係をもっと論理的に説明しろと云われたら、できません、というしかない。本当に知りたい人は、湯浅先生の講義でも聴いてください。
次が、武満や伊福部とはまたちがった方向性で、間ちがいなく、日本人的美意識を感じさせてくれること。特に湯浅がこだわっているのは、禅や俳句の精神。
同じ日本文学でも、和歌と俳句は明確に異なる。ただ単に字数が異なるのではない。宮中の歌会始で、和歌は詠むが俳句は読まない。つまり和歌はあくまで宮中文化で雅で「おじゃる」なものなのに対し、俳句は多分に武家の美意識を現代に伝えて、「ござる」なもの。
江戸後期−明治、ただの暇つぶしの手習い的なものにまで堕した俳句を再び近代文学にまで高めた正岡子規が正式な武家の出であったのも関係するかもしれないが、俳句の切り詰められた言語表現は、たった17字の中に悠久の時から宇宙から人々の日々の暮らしから人間の生死まで無限、その精神はあくまで潔癖であり、簡素。それはそのまま武士道の精神に連なる。
禅は、特に武士に好まれたのを見ても分かるとおり、武士道そのままであろう。
伊福部が山人や漁民や農民の歌と魂を伝え、武満はある意味典雅な趣や武家でも文化的な側面を伝えると仮定すれば、湯浅は、どこまでも潔癖な古き善き武士道を、音にして伝えてくれている。
湯浅の音楽は、サムライ精神の音楽なのかもしれない。
※ 日本氏姓辞典によると、湯浅氏には大きく系統がふたつあり、ひとつは紀国造(くにのみやつこ=古代の地方長官)の後裔。紀伊国在田郡湯浅庄発祥。もうひとつが、桓武平氏良文流千葉氏族。紀州湯浅と下総湯浅に別れる。
私は現代音楽に関しては、12音も含め、例えば音列構造の理解など、はなからしようとも思っていないので、響き全体をそのまま、有りのままに楽しむようにしている。だから、豊かな響きの管弦楽作品が好き。ピアノ曲とかは、内省的な表現が多いので、けっこう苦手。
ほんとうは、CDでは限界があるので、コンサートで聴きたいのだが、かなりこの北海道の田舎では難しい。札響が、有り難いことに武満と深い関係があったので、故・岩城や尾高の指揮で、武満作品のみの定期演奏会とかを聴くことができたが、それ以外では、なかなか……。
では、湯浅は残念ながらCDもあまり多くはないのだが、中で、個人的に好きな音楽をつらつらと紹介して、みなさんへ、湯浅の魅力を少しでも伝えるべく、挑戦してみたい。
初期のオーケストラ作品で私が好きなのは、箏とオーケストラのためのプロジェクション「花鳥風月」 そして オーケストラの時の時 だろうか。
花鳥風月 はなんとも、武満のかのノヴェンバーステップスと同じ年、1967年に作曲されているが、まるで、現在、省みられていないのではないか。これは、憤激に値することだと思う。箏は4面が用いられ、それぞれ調弦が異なるとの事だ。10分弱の協奏曲だが、密度は濃い。単なる急緩急の形式ではない。刻々と移り変わる6つの部分に分けることができるといい、箏は旋律というよりもむしろ音の鳴る(そして鳴っている。)時間そのものとしての「発音」を表出する。音響構造の緻密な計算、そして、それを支える時間的な間合いともいえる時間構造の妙。それが管弦楽と箏という、いわゆる対立の構造の中にゆだねられている面白さ。しかも、音響的にはカオス的でありつつも、理知的で、音響そのものの移り変わりが、四季のようなものであって、そこに情緒の入る隙間は無いが、音色がそうであるという不思議さ。
湯浅の音楽を聴く楽しみはそういうところにある。武満と同じく早坂文雄に私淑していたという湯浅は、その自由な形式の精神を完全にわがものとしている。
オーケストラの時の時 という妙なタイトルの曲は、全3部作であり、長らく第1楽章しか録音が無かったが、全曲初演の1977年、ギーレン指揮のN響がCDになった。やはり、1楽章のみでは、尻切れ蜻蛉な音楽だった。
第1楽章は、5分ほどの短い曲だが、内容は濃い。弦楽と管打が鋭く対比して、それぞれの「時」の有り様を示しているらしいが、その音楽の構造をなんとなくではなく、綿密な構成の元に行われて、そこから生じてくる、音が(時間が)空間を削ってゆく迫力の凄さ。そこにはヴェーベルン的な発想もあるのだろうが、短い時間の区切りと区切りを音に変化させて細かく連ねてゆく曲づくりは、独特で、面白い。
2楽章は変わって、音の持続がテーマというか。アタッカで進められ、1楽章と鋭く対比し、時の経過を知らせる。ここでは伸ばされた時が音の波長で空間を削って行く様が聴かれる。サイレンのようにオーケストラが唸る終盤は特に面白い。
そして続けざまに、第3楽章へゆく。再び混沌が現れ、1楽章よりも短いセンテンスにより、鋭く空間が削られる。そのバックに、2楽章のような持続があり、その交錯が面白い。1と2の結果としての3なのだろうか。
全体で17分もあり、かなりのヴォリュームだが、変化に富むため、飽きない。ゲンダイオンガクで飽きないのは大事だと思います。
クロノプラスティック のシリーズでは、オーケストラのための I 〜 III が音源となった。
これは直訳すると 可塑的時間 となる。可塑とは粘土とかを押しかためることで、塑像とかを作るさいの技法。時間を押しかため、形成して、音響とすることを旨としていると思われる。なんとも湯浅らしい、概念だと思う。
I は1972年の作で、初期の傑作。各種の楽器がヴェーベルン的な圧縮様式で押し固められているが、無調というわけでもなく、また、動機があれほど短くもない。しかし、音響的にヴェーベルンへ匹敵するほど切り立っており、まさに日本刀のような切り口を見せる。うーん、湯浅、サムライの音楽か。
II は1999年作曲だが、2001年の再演に際しコーダが追加。旋律的な音楽というものを徹底的に排することが可能かどうかという、まさに70年代ゲンダイオンガクの極みを追求した1番とは異なり、この2番では、同じく前衛ながらも明らかに旋律が潜んでいるという。湯浅らしい切り詰めた感覚のなかにも、確かに、後期武満のような、艶がある。
III は、II に続けて書かれた、2001年の最新作。これだけ時間の経過があれば、たいていのどんな前衛作家とて、少しは丸くなるものだが、湯浅はまったく容赦なし。前衛まっしぐら。
しかし、ここでは、レクィレム、武満追悼のヴァイオリン協奏曲と内省的で悲しい音楽が続いたがため、それらを払拭するようにダイナミックへ回帰したというように、かなり大きく運動する。
冒頭と最後のスティールドラムが印象的。これは元はラテンの楽器で、ドラム缶で作ったもの。いまはこれのみのバンドとかもあるようだ。昔よりはさすがに、圧縮度は減少して、その分、おおらかな塑像となっているか。むしろ、テラコッタのような素朴さも見られるか。
しかし響きの切り詰め方は、まったく変わらない。切り口が変わらないのだと思う。
2と3は聴きやすい。
湯浅は芭蕉が好きなようで、俳句を元にちょくちょく作曲しているが、邦楽、箏歌、芭蕉五句 のようなちょっと禅的傾向が過ぎてシブイものもあるが、管弦楽曲の芭蕉の情景はなかなか面白い。
冬の日・芭蕉讃 という曲もあるようです。
管弦楽のための 芭蕉の情景 は1980年の作曲で、3曲からなる1種の組曲。15分ほどのもの。
冬の日や 馬上に凍る 影法師
あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風
名月や 門に指し来る 潮頭
の3句からの自由なインスピレーションによる音楽。
外人もたまに俳句に曲をつけるが(メシアン、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー等)まあたいていは短い歌曲。日本人が作曲しても、歌曲が多い。しかし、湯浅は、俳句からうける印象、しかも、時間的な経過の印象を、音楽化した。そこが、私は好きな部分。
この3句は、湯浅にとって、人間と宇宙との一体感を表しているとのことで、彼の音楽と一致するのだそうな。
俳句は、その〜、好きだけどあまり解説だとかはわからないので、私も自由に解釈させてもらうが、1句めは、凍るの部分が、時間が止まっているような印象を与える。しかも、凍っているのは影である。冬は、つまり、全ての時間が止まる季節ということになるか。もしくは、時間が、ゆっくりと進むのか。冬のある日、馬に乗ってゆく己の、田へおちる影は、そのまま、凍りついている。吹きすさぶ風の中、そこだけ、止まっている。
曲も、そのような印象を、表す。湯浅らしい厳しい進行が、凍りついている影と時間を突き刺す。(北の人間なので、この句に雪景色を観る我輩であるが、じっさいは、群馬あたりの空っ風の様子らしいです。)
2句めは、無常観あふるる情景がまたなんとも。秋の長い赤い日が、目にまぶしい。吸い込まれるようなただただ赤い風景。なんという寂しい情景であろうか。しかし、吹きつけるのは、秋の冷たい風なのだ。秋から冬へ移りゆく一瞬間をとらえたもの。俳句って、写真みたいですよね。
曲は、その一瞬間の無常の時の流れを、人生の移り変わりの様子と共に、バシッととらえている。
3句めは、なんということはないのだが、名月(満月)の夜は満潮になるという自然現象を、とらえている。名月や〜の非常に情景的な描写から、その実は、庵の門までひしひしと水がせまってきて、それへ月光が反射して、やはりこの世のものではない美しくも幻想的で、無常観あふるる情景を演出している。別に月そのものを鑑賞しているわけではなく、潮頭を鑑賞している。その一瞬を切り取った一句。
音楽がまた、SFチックなのが、良い。宇宙との一体感とやらは、芭蕉のこのようなロマンティックな情景であるはずの部分から、地球と月の引力関係に発展するのが、すごいというか、なんというか。
1989年に、2曲加わって、いまは5曲構成とのことです。
1995年作曲の、芭蕉ものの最新管弦楽曲は、交響組曲「奥の細道」 である。
こちらは委嘱者の福島中央TVにちなみ、東北の句が選ばれている。4句で4楽章制。
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
風流の 初やおくの 田植うた
夏草や 兵どもが 夢の跡
閑かさや 岩にしみ入 蝉の声
芭蕉の情景に比べ、学校で習うような、まだ有名な俳句なので、そのぶん理解しやすいかもしれない。
しかしあくまで湯浅の音楽は「精神の動き」を音楽化しているので、描写音楽ではない。生半可な態度では、はね返されるのだ。
行く春や〜 は、これから旅立つ芭蕉とそれを見送る人々を詠んだもの。鳥(芭蕉)は行ってくるぞと鳴いて、魚(見送り)は涙でそれを励ます。その際の芭蕉の大決心の精神の深さを、湯浅は感動したらしい。
従って、決意に満ち満ちた力強い音楽となっているが、その反面、非常に大旅を不安に思う心の乱れも、表している。
風流の〜 は、白河の関を超え、はじめて東北地方に入ったときの歌だそうです。響きわたる地元農民の田植歌を、芭蕉は聴いた。そこへ、はるか神事へと遡る視線を感じた湯浅。「資源への眼差し」を感じたそうです。
曲は、田植え歌を表す打楽器や、和音が、俗事を離れてまるで雅楽のように鳴る中、遠く始源を見つめるという芭蕉の視線を通して、なにやら宇宙まで見てしまっているようです。
夏草は〜 は高名なもの。教科書にも出てきますね。義経主従の悲劇を想った芭蕉。そこへも、遠い過去への感慨を、わたしでも感じてジンときてしまう。草ぼうぼうのあれ地とて、かつては、兵どもが、弓を鳴らし刀を鳴らしたと想うと、感慨深くなる。城跡とか、行ったら、ふつう歴史好きはなるよなあ。
そこへ、感慨した心の動きや、視線そのもの、そして打楽器総動員で、戦の様子まで抽象化してしまう湯浅の手練を聴く。最後は、現在へ戻り、夢の跡をただ眺める。
閑かさや〜 も、高名ですね。一転して、岩に巌を重ねて山としてしまっている壮大な情景、その中で人間のちっぽけさを感じる芭蕉。蝉の声の無常さ。人間の営みなど、蝉には関係ない。
くーッ、染みるなあ。心にしみ入りますよね。
この短い俳句の膨大なまでの無常観を、湯浅は音楽にしてしまいました。
短い俳句に悠久の精神が宿る。湯浅の音楽にも、短い(4〜5分)の中に、無限の広がりがある。
なお混声合唱曲に10曲(句)からなる 芭蕉の俳句によるプロジェクション という、これまたかなり透徹とした曲があります。
協奏曲もいくつかあり、音源があるもので私が持っているものでは、3種類ある。(上記の花鳥風月を含めると、4種類になる。)
ヴィオラとオーケストラのための「啓かれた時」 という音楽がある。湯浅は協奏曲形式を長く好んでいなかったが、優れたソリストと出会ったこと、そして、西洋的な協奏の概念を超越し、西洋も東洋も無い宇宙的な世界を観ることができたこと、などを書いた動機に語っている。ここでは、ビオラは、明確な協奏的旋律を奏でることも無く、オーケストラの外宇宙の中の小宇宙的な悠久の運動を示している。動と静をいつ果てるとも無くたゆとう。しかし、だんだん、静かなものに集束してゆく。そこが、平和的なものへの集結、ともいえると作者は云う。ここでのビオラとオーケストラは、互いに、互いの時間の長さを確かめあいながら、離れたり、くっついたりしている。それは、惑星の宇宙をめぐる動きに似ている。つまりそれは引力とか重力とかと呼ばれる概念で、重力と時間は密接に関係しているらしい。
1楽章形式で15分ほどのもの。緊張と悠久の時間の顕現。
ピアノ協奏曲にあたる ピアノ・コンチェルティーノ は、これも1楽章形式で15分程度の小協奏曲。ピアノは別に優雅な旋律を奏でるわけではなく、つかず離れず、オーケストラと協奏する。湯浅のピアノ曲はとにかくシリアスで、武満のほうがまだ音楽っぽい。現代音楽であるが、ガシャーンとかドバーンとかいう音はしない。ただ、ポロポロと、ドライで不思議な和音やリズムが、ピアノからひたすらこぼれてくる。それをそのまま、オーケストラの導き役として、登場させた曲。
オーケストラもピアノも西洋楽器だが、楽器の性質としては、まったく異なる。つまり、ピアノとオーケストラ(に使われる諸楽器。)は、そもそも対立する楽器だ。したがって、同じ旋律同士を演奏させて比較し、対立しているのが従来の協奏曲だとすると、ここでは、響きの異質なもの同士をそのまま対立させているようにも聴こえる。
ティンパニの連打より展開が変わり、ピアノは速度を増し、オーケストラも点描ふうとなって、ピアノとの対立の方向軸もやや変わってくる。が、最後は、ピアノとオーケストラが、ゆるやかに対立したまま、しかし、同居して、次第に消えゆく。
べつに無理に融合も何もしない。ソナタ形式を否定した、日本的な対立の同時存在の音楽。
次の、ヴァイオリン協奏曲 は、湯浅にしては湿っぽい。それも他ならない。なぜならば、盟友・武満より作曲を託された作品であり、かつ、作曲中に武満が亡くなったからだ。霊安室で武満の冷たい額に触れたとき、作曲者は、どうしてもこのバイオリン協奏曲は武満の想い出に捧げざるをえなくなった、と語っている。
たっぷりと20分を超え、ヴァイオリンとオーケストラが、武満の死を悼む。
ヴァイオリンが、湯浅には珍しく、12音階だが明確な旋律を冒頭より奏でる。インメモリーオブ武満徹の、はじまりだ。その悲しみに耐える切々とした響きの背後で、人間が避けては通れない死というもの、つまり人間の生きる時間は限られているという時限の無常観を反映していると作者の云う、呻くようなオーケストラの響きが、さらに胸をしめつける。
独白のような、そのまま無伴奏ヴァイオリンソナタにできそうな、痛切なソロの音楽を、邪魔せず、あくまで、アシストしつつ、しかし、オーケストラは変わらず無常を示す。それは、人間の声であるヴァイオリンと、それをとりまく生活時間と生活空間とであるようだ。
ここでヴァイオリンは、どこまでも人間の声としての苦悩や、悲しみを、語り続ける。湯浅の音楽はあくまでそういう人間的なものを排した、絶対的な境地からの発信、つまり思想や理想、情景、無我といったようなものを数値的に表したような雰囲気の曲が多いが、この曲は、珍しい部類に入る。
その背後には、変わらぬ時間への憧憬と恐れが滲み出ており、涙も出ぬほどの切なさと喪失感に苛まれる。彼にとって武満徹という存在は、それほどにまで大きかったのだ。ヴァイオリンは最後まで、悲しさと世と時の儚さを訴え続け、そのまま、遠くへ去ってゆく。
N響アワーで再演されていたのをTVで観たが、初演者で独奏の堀米ゆず子が、出産間近の身体で切々と演奏していたのが、生と死を如実に認識させ、妙に生々しかった。
第二次世界大戦集結50周年を記念し、世界中の著名な作曲家からそれぞれ1楽章ずつ書いてもらい、まとめてレクィレムとするという、ムチャな企画の終楽章 「レスポンソリウム」 が、湯浅に託された。
しかし、あくまで欧米中心で、アジアからは湯浅だけが参加というのがなにより気に食わぬ。
もっとも湯浅以外では知らない作家ばかりだし、せいぜいベリオ、シュニトケとロジェストヴェンスキー(合作)、それにペンデレツキ、クルタークが高名なぐらいか。曲も、ろくなものがない。ホント。
その中で、湯浅の終曲が、確かな手応えと存在感を示している。ただし、特別、ハデではないし、不協和音炸裂でも無いし、ガチガチの12音でもないし、打楽器アンサンブルが総動員されているわけでも無い。現代曲へそういうものを求めている人にとっては、いまいち目立たない曲だろう。
金管を主体とする短い動機より「リベラメ」が歌われる。リズムと調性の不定形さが大戦の不安さを表すか。合唱の迫力がすごい。その中で、人間の力強い声だけが、世の存在感を示す。鏨を打つような打楽器が添えるアクセントは、心臓の響きのようなのもかもしれない。
中間部は「ディエスイレー」の歌詞に伴い激しい打楽器が動員されるが、あくまでアクセントであり、弦楽と人声と管楽器による、人間の行いの怒りを表しているようだ。
後半部はミサのような雰囲気となり、レスポンソリウムはしめやかに終わる。非常に美しく、かつ、ドラマティックな音楽で、このレクィレムの中でも特に出来物の音楽だと思う。
湯浅の中でも特にドラマティックな作品です。
始源への眼差 というシリーズもある。I は電子音楽の為だが、 II と III はオーケストラの為に書かれている。
I は、かのクセナキスが創作した、図形作曲専門コンピュータUPIC(ユーピック)による電子音楽。うーむ、なんというか、深い精神性というよりむしろ、無限に広がる大宇宙………1隻の宇宙戦艦が次元の彼方目指して飛んでゆく………かなりSFチックなふうに聴こえますが(笑)
II はオーケストラのためのもの。人間の根源(始源)を見つめた。いや、人間というか、人類、人類文化の根源。音楽とは音がある一定の時間に鳴ったり鳴らなかったりするものである。伝統的なその「鳴り」の法則から解き放たれた音響は、いったい、どのような「音楽」と成りえるのか? 湯浅はどこまでもそれを追求する。持続された弦楽に、点描的に割り込んでくる菅打楽器の、独特の民族的始源の音響、その発展。コンセプトが見事に具現している面白さ。
III もオーケストラによる。曲の構造やコンセプトは II と変わりないとのことだが、強いて云えば、
III は、宇宙の始源を見つめている。とのこと。音響エネルギーが織りなす時間的変遷。ただそれだけの、そのためだけの音響。それが湯浅にとっての音楽………。西洋楽器を使って表現している以上、12音律からは逃れられない。それでもなお、伝統的な西洋音楽では表現できない、何かを、追求する。それは容易ならざるものだと作曲者自身も認めている。しかし音楽的時空の中に、まったく新しい表現を生み出すことに、喜びと興奮を見出している。
それが湯浅譲二なのだろう。
横の変遷しての弦楽器に、鋭く縦の変遷として菅打が突き刺さり、それが、さらに時間軸を伴って、変遷してゆく。まさに四次元音楽。
湯浅の音楽は、明確な標題性の中に、標題性に頼らない絶対的な純粋性をもっている、稀有の存在のような気がします。
湯浅のシリーズ物で忘れてはならないのが、内触覚的宇宙シリーズ。番数も、これがいちばん多い。5番まである。最重要の作曲課題だと思われる。
ピアノのための内触覚的宇宙 I と 内触覚的宇宙 II 「トランスフィギュレーション」
二十絃箏と尺八のための内触覚的宇宙第三番 「虚空」
ピアノとチェロのための内触覚的宇宙 IV
そして オーケストラのための内触覚的宇宙 V
1番は、1957年の若い作品で、独特のタイトルが示すように、この内触覚的というのは、原始人の洞窟壁画のごとく、写実的なそのままの姿よりむしろ、極端にデフォルトされた、精神世界から見つめたような、抽象的な芸術的表現の意味、だそうです。
12音技法ですら、実は伝統的なドイツ・オーストリア音楽の正統的な技法である 「主題とその変奏」 によって成り立っていると気づいた(?)湯浅が、それを捨てて、まったく独自に音楽的時空での表現を目指した最初の物という。ここでは、音楽がまったく内触覚的な宇宙観として描かれようとする。
日本的な(武満流の)絵巻物形式により、精神の中の原始的な宇宙観をも、モードとその変遷という形で、その少ない極限の音譜の中に潜ませている。なかなか恐ろしい音楽。標題性と純粋性は本来合致しない物なのだが、20世紀音楽(現代オンガク)ではそれらを合致させようとする試みは多い。しかし成功している例は少ない。
ナントカカントカ〜○○と××と▲のための〜 とかいう曲が異常に多いが、音楽だけとそれらタイトルとを、つなげて聴ける物が、果してどれだけあるのだろうか? 交響詩とか、バレー音楽とかではないから、尚更である。純粋音楽なのに、標題がある。そのくせ、タイトルと中身は関係ないとか解説する作曲家もいる。意味がわからない(笑)
湯浅はそれを確実に具現する数少ない巨匠の1人だと思う。それはタイトルのつけ方がうまいとかではなく、タイトルに従ってしっかりとその理論を構築し、作曲として実践しているからなのだろう。ここでもモードと変遷を巡る時間軸との関係が面白い。飽きない。
2番は1番より29年後の1986年に高橋アキのために書かれる。同じく、ピアノの為の。1番と同じような感覚の曲だが、ピアノでしか作曲(演奏)
できない音楽、ということに拘ったらしい。ここで試みられているのは、巨大な共鳴板で発音するというピアノフォルテの構造を活かした音楽で、つまり余韻が凄く面白く表現されている。だから、録音ではイマイチなのかもしれないが、それでも楽しく聴ける。低音の余韻が消え入らぬうちに高音がピロピロと鳴る部分なども面白い。同じくモードが時間に沿って自然に変遷する絵巻物形式。
三番は邦楽器のためのもの。CDの表記が漢字なのでそれに従う。1990年。箏の吉村七重のために書かれる。
湯浅によると、これまでにまったく無い、まったく新しいものを作ることこそが「創造」なのだという。それを云うと楽器までも創作してまったく未知の音楽を創造するのが本当なのだろうが(電子音楽の創造がそれにあたるか)、まあいちおうピアノとかオーケストラとかを使っている。
その中で、邦楽器は難しいという。
というのも、奏法とかが、かなり長い伝統に裏付けられており、その伝統を破壊すると邦楽器を魅力が減じ、わざわざそれで作曲する意味が無くなるからだそうで。確かに、なるほど。
邦楽という日本古来の伝統の視点から観た、内触覚的宇宙観。それが、空の世界。邦楽の世界は意外と抽象的で、五番にも通じるのだが、鐘をついたフリをする動作だけの無音の音楽(?)や、間という独特の、楽譜にできない呼吸の音楽がある。その静寂は、静寂ながら、音楽になっている。じっさいには聴こえないが、聴くものの心の中に、その音は響く。
よく考えると、凄い前衛的な世界だ(笑) そんな世界が伝統的な古い日本の音楽の中にあるなんて(笑)
あなどれねー。
長くなったが、三番は二十絃箏と尺八による。二十絃箏自体が、近代の創作楽器でもあるのだが(ホントは十三絃や十七絃らしいです。)特に尺八本来の響きの意味するところである空の表現を追求したもの。箏の点描的な現代奏法も面白いが、それにからむ尺八の渋さ、無常観は異常。
4番はピアノとチェロのために書かれている。さらに下って、1997年の作曲。既に1番よりちょうど40年が経ている。祈りや呪術といった世界が、内触覚的な宇宙との交感として人間精神の根源に根ざしているものとしても、不思議ではない。チェロとピアノという、西洋音楽の王道により、それを表そうとしたもの、とある。ここには対旋律も和声も主題とその展開も無い。
とはいえ、現代音楽が苦手な人には、ただピアノとチェロが意味不明な奏法で好き勝手に音を出しているようにしか聴こえないだろう(笑)
ハンスリックによると西洋音楽は 「鳴り響く形式」 の音楽であり、形式から離れた時点で、実は音楽ではなくなる。そのため、「こういう」曲は、音楽ではないという意見も実は、正しい。しかし作曲の根源が、西洋音楽の基本をとらえつつも(西洋楽器を使っている)さらに遡って、その根源にある人間の内なる自由な宇宙との交感となると、話は別となる。
湯浅の曲が、12音でありつつも、モードとその変遷という基本をとっているのも、現代曲のわりに聴きやすいのにつながるのかもしれない。
一聴、メチャクチャのようでいて、ピアノとチェロの対話が、しっかりと旋法の中に聴こえてくる。そして初めて、自由なイメージが、浮かんでくる。
そうすると、奏法にも意味があり、それが効果として、実に面白いと分かる。
5番はいよいよ、オーケストラである。2002/2003年の新作。湯浅ももう、70を超えた。28歳から書き続けられている内触覚的な人間精神と宇宙との交感も、73にして、5作めとなった。ここでオーケストラになった意義は大きい。
湯浅の神髄は、電子音楽でも、室内楽でも無く、オーケストラにあると感じている。(私がただオケ好きなのもあるが。)
オーケストラこそ、実は電子音楽をも超えた、究極の音響合成リアルサウンドマシーンなのだから!!(吉松)
これまでは、宇宙との交感といえども、原始人がたき火の灯ひとつで満点の夜空を見上げ、トランス状態に陥ったのような、あくまで地上(大地)からの交感といえた。しかし、5番ではついに人類は宇宙へ飛び出し、全身で交感している!!
爆発的で圧倒的な音響エネルギーの放射的変遷が、聴く物を嫌でも逆に内在的な恍惚の世界へと連れ去る不思議。
そして驚くべき現象に、聴衆は戸惑う! なんと盆踊のリズムと旋律が、湯浅から聴かれる!!
しかし落ち着かなくてはならない。湯浅は民族楽派に転向したわけではない。ここで聴かれるのはあくまでエコーであり、我々日本人の、民族的始源としての、エコーである。
私は2007年現在でちょうど30代半ばになるが、湯浅氏と同じ78歳になったとき、果して、月旅行くらいできるようになっているだろうか。宇宙船の窓から月と地球を見下ろしたとき、老人の心の中に、響く物は、やはり盆踊なのだろうか。(というか悪霊島?)
そんなことを考えてしまう。とっても知的想像力をかきたてる、非常に面白い刺激的な音楽だろう。
湯浅譲二は、70代になりなお、前衛的である。
室内楽では、弦楽四重奏のためのプロジェクション、コントラバスのためのトリプシティ、上記の、ピアノとチェロのための内触覚的宇宙第4番、二十弦箏と尺八のための内触覚的宇宙第三番「虚空」、 2人の打楽器のための相即相入II、などが好きです。もっとも、ただ「好き」なだけであって、何をしているのかは、正直、ぜんぜんわからないものが多いのだが(笑)
さらに、湯浅の大事な仕事の中で、電子音楽・テープ音楽がある。これはシンセサイザーを使った場合もあるのかもしれないが、さまざまな「音」を組み合わせて作るもので、音楽といえるかどうかは、聴衆にゆだねられるだろう。本当に重力と時間の関係と構造を禅の精神を通して解きあかさんとしているような、宇宙からのメッセージのようなものばかりで、私は、どれを聴いても、サッパリ分かりません(爆)
合唱曲では、アタランス というのが、人間の声が空間と時間を音を使って刻む様子を克明に聴くことができるが、CDでは、イマイチつまらない。演奏会場では、かなり面白い音楽(?)だと思う。
そして忘れてはならないのが、湯浅の童謡と劇伴音楽。
武満も、意外にメロディーメーカーであったが、彼の場合、ポピュラーメロディーもどこか切なくて儚くてとっつきにくいものがあったし、劇伴も容赦なく武満サウンドだったが、湯浅は、ちがう。
童謡では、走れ超特急 がもっとも高名のようだが、ピポットさん や、インディアンが通る もイカス。まとめて、しかもピアノ伴奏とソプラノ独唱でCDが出ているので、お聴きになられることをお薦めする。
ここで聴く豊かでやさしい音楽の数々と、マイブルースカイ1番 のような、難解の中に難解を究めるテープ音楽とが、同じ作曲家だとは、誰がわかりえようか。
しかし………この作品集の中で、もっともショッキングだったのは、なんといっても谷川俊太郎の詩による、宇宙船ペペペペランと弱虫ロン である。
詩の大意
ペペペペランは宇宙船。アンドロメダめがけ、子ども27人を乗せて飛び立った。何年も飛び続け、やがて子どもは大人に。次々と結婚してゆくが、男14人、女13人、1人余る。余ったのは弱虫ロン。ブサイクで、仕事はみんなの料理番。おそらく、他のみんなは宇宙飛行士や科学者なのであろうに。
そんなとき、宇宙船が彗星と衝突した。船体にあいた穴を、誰が修理する。なぜか、弱虫ロン。やらざるをえない状況に追い込まれたにちがいない。
ロンは金槌を振り上げて、泣きながら見事に宇宙船を修理する。宇宙服のヘルメットの中に飛ぶロンの涙。
ペペペペランは宇宙船。時間が勿体ない。ロンを置き去りにし、何処かへと飛んでゆく。1人余った独り者は、棄てられた。
ギラギラの星々のど真ん中で、弱虫ロンは気がふれた。彷徨いながら、大声で歌を歌う。懐かしい地球は星の彼方。
ヒドスwww
谷川俊太郎、鬼か!w
こんな人間のエゴと悲哀を歌いきったすばらしい歌を、ぜひ、世の善良な小中学生諸君は、合唱コンクールで歌いたまえ。
劇伴は私は2種類しか聴いていないが、どちらも、とても良いものだ。
NHK大河ドラマを、これまでに湯浅は3本、音楽を書いている。昭和50年の元禄太平記、昭和54年の草燃える、そして平成10年の徳川慶喜。
元禄太平記と草燃えるは、大河ドラマのテーマ曲集とかで、他の涙ものの稀少音源(武満徹の源義経、間宮芳生の竜馬がゆく、他、富田勲、山本直純、池辺晋一郎、一柳慧、入野義郎、林光、等々)と共に入っているので聴くことができる。
徳川慶喜はサントラCDが出ていたので、テーマ曲以外にも聴ける。
やっぱり、意外とメロディーメーカーだというのが、正直な感想。ただし、まともな旋律進行ではないとのこと。
テーマ曲がやっぱり最高にカッコイイ。
それよりむしろ、70年代の、木枯らし紋次郎 のほうが、無調と調性の真ん中くらいで、なんともザラザラしていて、紋次郎の雰囲気を醸しだしており最高だ。打楽器アンサンブルがひどくゲンダイオンガクだし、まだはりきった若かりし湯浅の気迫が聴こえて楽しい。
変わったところでは、吹奏楽部門の作品がある。数は多くないが、録音もある。
もちろん、機会音楽なため、ゲンダイ調ではない。ふつうの、調性音楽。
1998年の 長野オリンピックのための「冬の光のファンファーレ」 は、文字通り、オリンピック開会式で、凍てつく冬の空に向かって高らかに流された。私も開会式をテレビで見ていたが、不思議な調子のファンファーレだな〜と思ってた。
ら、湯浅作曲とは、驚いた。2003年になって買った吹奏楽のCDにたまたま入っていて、知った次第である。
ちなみに東京オリンピックファンファーレは今井光也、札幌オリンピックファンファーレは三善晃の作曲。
ホルンを欠いた2群のブラスアンサンブルの為のもので、不協和音が式典ファンファーレには珍しく、独特の響きが湯浅らしい。35秒の作品。
また、湯浅のマーチが珍品。行進曲「新潟」 という曲が録音にある。解説によると(株)新潟交通の委嘱による、新潟市八代パーク完成記念の為の曲だという。吹奏楽マーチを残した大家というと團伊玖磨や黛敏郎などがあるが、完全に現代曲調の作家である湯浅のような作曲家が残すのは本当に珍しいといえる。
ちなみに、ラジオドラマのための火星年代記に出てくるマーチとテーマを同じくする。火星年代記マーチが先。
短い序奏の後、ややスローなテンポで、よく動くテーマが奏される。トリオ前半では木管とユーフォニウムの対旋律が楽しく、後半では複雑な進行が面白い。ABA形式だがトリオも短く繰り返されるため、ABAB´コーダとなっている。
あっさりと終わるが、何度も繰り返して長い行進に使えるようになっている。
CDの数は少なく、正直いって、とうてい納得できる数ではない。少なくとも、毛並みの似ている(曲のイメージ的には、という意味。本質はまるで異なる。)武満と較べても、少なすぎる。個人的には、どちらが優れているという次元の問題ではないが、武満作品と同等のレヴェルの曲を提供し続けてくれているのに、なんという不遇な扱いを受けているのか。
どんどん録音してくれえ! 演奏会も個展をひらいてちょーだい!
尾高さんは札響で武満作品演奏会も良いが、ぜひとも湯浅もとりあげていただきたい。
(ディスコグラフィーです。ディスク別になっています。ライヴ録音は曲名の後ろに
L がついてます。数字は録音年代です。
評価は★=死亡 ★★=ダメ ★★★=普通 ★★★★=スゴイ ★★★★★=超スゴイ ☆=気絶 です。)
尾高忠明/東京都交響楽団 | オーケストラの時の時 I | デンオン/COCO78448 | ★★★★★ | |
箏とオーケストラのためのプロジェクション「花鳥風月」 | ★★★★★ | |||
クロノプラスティック〜オーケストラのための | ★★★★ | |||
田中信昭/日本プロ合唱団連盟 | アタランス | ★★★★ | ||
尾高忠明/小泉裕Fl 他 | 7人の奏者のためのプロジェクションズ | デンオン/COCO78449 | ★★★★ | |
小出信也 小泉裕Fl | 2本のフルートのための相即相入 | ★★★★ | ||
安田謙一郎Vc 高橋悠治Pf | チェロとピアノのためのプロジェクション | ★★★★ | ||
小林健次Vn 他 | 弦楽四重奏のためのプロジェクション | ★★★★ | ||
西日直文Cb 他 | コントラバスのためのトリプシティ | ★★★★★ | ||
小泉裕Fl 篠崎史子Hp 山口保宣Perc | インターポジプレイション II | ★★★★ | ||
高橋悠治Pf | 内触覚的宇宙 I | デンオン/COCO78450 | ★★★★★ | |
プロジェクショントロポジック | ★★★★ | |||
オンザキーボード | ★★★★★ | |||
スペースプロジェクションのための音楽〜Expo´70せんい館のための | ★★★★ | |||
ヴォイセスカミング〜NHK電子音楽スタジオ | ★★★★ | |||
ホワイトノイズによるイコン〜NHK電子スタジオ | ★★★★ | |||
高橋悠治 高橋アキPf | プロジェクション エセンプラスティック フォー ピアヌス | デンオン/COCO78459 | ★★★★★ | |
園田高弘Pf | プロジェクション エセムプラスティック | デンオン/COCO78454 | ★★★★ | |
小泉浩 Fl | 領域〜ソロフルートのための | デンオン/COCO70817/8 | ★★★★★ | |
ヴォイセスカミング〜NHK電子音楽スタジオ | NHK電子音楽スタジオ/OUOADM0501 | ★★★★ | ||
葵の上 | OMEGA POINT/OPA001 | ★★★★ | ||
マイブルースカイ第1番 | ★★★★ | |||
お婉 | OMEGA POINT/OPA004 | ★★★★ | ||
三つの世界 | ★★★★ | |||
岩城宏之/東京都交響楽団/ゴラーニVa | 芭蕉の情景( I ,III & V ) L1986 | フォンテック/FOCD2508 | ★★★★★ | |
オーケストラのための「透視図法」 L1986 | ★★★★ | |||
ヴィオラとオーケストラのための「啓かれた時」 L1986 | ★★★★★ | |||
外山雄三/NHK交響楽団 | 始源への眼差し II L1992 | ★★★★★ | ||
飯森範規/東京交響楽団 | クロノプラスティック III 〜ヤニス・クセナキスの追憶に〜 L2002 | フォンテック/FOCD3506 | ★★★★★ | |
飯守泰次郎/新交響楽団 | 交響組曲「奥の細道」 L2003 | ★★★★★ | ||
ルーカス フィス/ブリッセルBRTフィルハーモニー管弦楽団 | 芭蕉の情景 I ,III & V L1981 | ★★★★★ | ||
飯森範規/東京交響楽団 他 | レスポンソリウム L2002 | ★★★★ | ||
ミヒャエル・ギーレン/NHK交響楽団 | オーケストラの時の時(全曲) L1977 | フォンテック/FOCD9288 | ★★★★★ | |
飯森範規/東京交響楽団/東京混声合唱団/宮本益光Br | コズミック・ソリテュード 〜ヘルダーリン「人生の半ば」によるバリトン、合唱と管弦楽の為の L2002 |
★★★★ | ||
準メルクル/NHK交響楽団 | クロノプラスティック II 〜エドガー・ヴァレーズ讃〜 L2001 | ★★★★★ | ||
飯守泰次郎/日本フィルハーモニー交響楽団 | 内触覚的宇宙 V L2005 | ★★★★★ | ||
始源への眼差し III L2005 | ★★★★★ | |||
マリオ・カローリFl 鈴木俊哉Rec | 相即相入(フルートとリコーダー版) | フォンテック/FOCD9429 | ★★★★ | |
辺見康孝Vn 亀井庸州Vn2 甲斐史子Va 多井智紀Vc |
弦楽四重奏のためのプロジェクション | ★★★★★ | ||
漆原朝子Vn | マイブルースカイ第3番 | ★★★★ | ||
竹澤恭子Vn 豊嶋康嗣Va 堤剛Vc | 絃楽三重奏のためのプロジェクション | ★★★★★ | ||
木村かをりPf 野平一郎Pf | 2台のピアノのためのプロジェクション | ★★★★★ | ||
吉原すみれMar | マリンバのための音楽 | ★★★★ | ||
橋本晋哉Tuba | ぶらぶらテューバ | ★★★★ | ||
若杉弘/NHK交響楽団/堀米ゆず子Vn | ヴァイオリン協奏曲 インメモリーオブ武満徹 L1996 | ソニー/SRCR1777 | ★★★★★ | |
岩城宏之/オーケストラアンサンブル金沢/木村かをりPf | ピアノ・コンチェルティーノ | ドイツグラモフォン/OCG1860 | ★★★★★ | |
ヘルムート リリング/イスラエルフィルハーモニー管弦楽団 | レスポンソリウム | ヘンシュラー/98.931 | ★★★★★ | |
野平一郎Pf | 2つのパストラール | MusicScape/MSCD0009 | ★★★★★ | |
スリースコアセット | ★★★★ | |||
セレナード:「ド」のうた | ★★★★★ | |||
内触覚的宇宙 I | ★★★★★ | |||
プロジェクション トポロジック | ★★★★ | |||
オンザキーボード | ★★★★★ | |||
内触覚的宇宙 II 「トランスフィギュレーション」 | ★★★★★ | |||
サブリミナル・ヘイJ | ★★★★★ | |||
メロディーズ | ★★★★★ | |||
野平一郎Pf | 内触覚的宇宙 I | MusicScape/MSCD0010 | ★★★★★ | |
溝入敬三Cb (多重録音) | コントラバスのためのトリプシティ | ★★★★ | ||
野平一郎Pf | オンザキーボード | ★★★★★ | ||
木ノ脇道元Fl | 領域〜ソロフルートのための | ★★★★ | ||
木ノ脇道元A-Fl | 舞働 II〜ソロアルトフルートのための | ★★★★ | ||
野平一郎Pf 安田謙一郎Vc | 内触覚的宇宙 IV 〜チェロとピアノのための | ★★★★★ | ||
平松英子Sp 中川賢一Pf | ほんとだよ ピコットさん あめのひ インディアンがとおる やさいはきらい こおろぎ まど チビのハクボク 大きくなったでしょ ちゃっぷちゃっぷらん それでもあんよ かぜ ふしぎなかお とけい 僕だけが知ってたうた しゃぼんだま はしれちょうとっきゅう きょうはなにいろ はっぱがわらった 甘い夏みかん ジェット機キューン 川 宇宙船ペペペペランと弱虫ロン 冬の思い出 二冊の本 じゃあね | MusicScape/MSCD0013 | ★★★★★ | |
野中図洋和/陸上自衛隊音楽協力隊 | 冬の光のファンファーレ〜長野オリンピックのための | キングレコード/KICC407-8 | ★★★★★ | |
野中図洋和/陸上自衛隊音楽協力隊 | 行進曲「新潟」 | キングレコード/KICW3012 | ★★★★半 | |
福田滋/リベラ・ウィンドシンフォニー | 火星年代記より“March” L2009 | THREE SHELLS/3SCD-0008 | ★★★★半 | |
岩城宏之/NHK交響楽団 | オーケストラのためのクロノプラスティック L1972 | キングレコード/KICC2014 | ★★★★★ | |
岩城宏之/NHK交響楽団 | オーケストラのためのクロノプラスティック L1972 | キングレコード/KICC3024 | ★★★★★ | |
詳細不明 | 木枯らし紋次郎サントラ | キングレコード/KICS2396 | ★★★★★ | |
沢井忠夫 唄と箏 沢井一恵 17弦箏 | 箏歌、芭蕉五句 | カメラータ/30CN92 | ★★★★ | |
吉村七重 20弦箏 三橋貴風 尺八 | 内触覚的宇宙第三番 「虚空」 | カメラータ/32CM189 | ★★★★★ | |
尾高忠明/東京フィルハーモニー交響楽団 | シーンズ フロム バショウ〜芭蕉の句による音楽 | カメラータ/32CM293 | ★★★★★ | |
マルトン・ヴェイ/アニタ・ウェイFl リヒャルト・アームブルスター ロナルド・リュックPerc |
礼楽 アルト・フルートのための(イサン・ユンに寄せて) | カメラータ/CMCD-28100 | ★★★★★ | |
領域〜ソロフルートのための | ★★★★★ | |||
相即相入 I 2本のフルートのための | ★★★★ | |||
相即相入 II 2人の打楽器奏者のための | ★★★★★ | |||
Terms of Temporal Detailing バスフルートのための | ★★★★ | |||
舞働 II〜ソロアルトフルートのための | ★★★★★ | |||
吉原すみれ 山口恭範Perc | 相即相入 II 2人の打楽器奏者のための | ソニー/32DC673 | ★★★★ | |
若杉弘/NHK交響楽団 | 元禄太平記(大河ドラマテーマ曲集) | NHKCD/POCN1070 | ★★★★★ | |
森正/NHK交響楽団 | 草燃える(大河ドラマテーマ曲集) | ★★★★★ | ||
岩城宏之/NHK交響楽団(テーマ曲) 猿谷紀郎/東京コンサーツ |
徳川慶喜サントラ | ポリドール/POCF1005 | ★★★★★ | |
熊谷弘/東京コンサーツ | 悪霊島サントラ | EMIミュージック・ジャパン/FJCM-005 | ★★★★ | |
クロード ドラングルsax | 私ではなく、風が… | BIS/BISCD890 | ★★★★ | |
ケント ナガノ /アンサンブルアンテルコンタンポラン |
世阿弥「九位」 17人の奏者とテープ音楽のための | CD-R/CD-R | ★★★ | |
始源への眼差し I UPIC(ユーピック)のための |
★★★ | |||
Terms of Temporal Detailing バスフルートのための | ★★★★ | |||
東京五重奏団 | 領域〜フルート、クラリネット、マリンバ、パーカッション、コントラバスのための | CD-R/CD-R | ★★★ | |
田中信昭/東京混声合唱団 有賀誠門ヴィブラフォーン |
芭蕉の俳句によるプロジェクション | ビクター/VZCC48 | ★★★★★ | |
シュテファン シュレイメッヒャー Pf | 内触覚的宇宙 I | DABRINGHAUS UND GRIMM/MDG613 1385-2 | ★★★★ | |
吉田雅夫/野口龍 Fl | 相即相入 I 2本のフルートのための | ビクター(タワーレコード)/NCS-544 | ★★★★ |
※ 湯浅の打楽器に面白い特徴がある。タムタム(トムトム)やティンパニなど、音階のある太鼓で、高い音から、低い音に向けて、三連符を連ねるパッセージが、ちょくちょく現れる。タタタ・タタタ・タン! あるいは、タタタ・タタタ・タタタ・タン! といったような音形だ。または、邦楽の影響か、ティンパニで、同音をアッチェレしてゆく音形がよくある。それらをアクセントとして、管弦楽や、室内楽でも、曲の転換での道しるべのような役割を持たせている。あるいは、徳川慶喜のテーマでは、曲の冒頭で導入の役割を果たしている。これが聴こえるたび、私は、湯浅先生、この音形、好きだなあ〜、としみじみとうなずく。のです。ハイ
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