12/31
2001年ライヴ。MTT/SFSのマーラー。6番。
このコンビのマーラー初録音だそうで、例の911テロのすぐ後の演奏とのこと。
まあそれはそれなのだが、緊張しているのか、1楽章とか、イマイチノリが足りない。純粋音楽としてアプローチしようとして、カラ回りといったところか。鳴りも足りず、特に低音がたいへん物足りない。きれいな録音なので逆に惜しい。2楽章はスケルツォだが、丁寧な演奏だが、やっぱりこの曲は丁寧なだけでは表現しきれない ナニカ を孕んでいると思う。しかし3楽章は良い。この演奏でいちばん良いのは3楽章だと思う。ので、4楽章もちょっと聴くのが辛かったかな。上手な演奏なのだが、うまい音楽ではない。
ま、やっぱり○4でしょうか。(下手ではないので)
こちらは1980年ライヴの、ムラヴィンスキー/レニフィルのブルックナー9番。
ムラヴィンスキーはブルックナーが好きだったようで、演奏会で固定のナンバーながら取り上げていた。神のために音楽を演奏していたムラヴィンスキーにとって、神のために書かれたブルックナーの交響曲を演奏するのは自然なことだったのだと思う。なにせ、リハーサルでうまく行き過ぎて、本番ではこれ以上の演奏は不可能だからと、演奏会自体を止めてしまったこともあるというくらいだから恐れ入る。
それで9番。ブルックナー中、もっとも深遠にして峻厳なこの曲を、ムラヴィンスキーが振る…だと……!?
厳しいだけではない、美しさと、なにより純粋な喜びがある。神への喜び。純真さでは、私の聴いた数少ない中で、髄一のブルックナー9番かもしれない。クレンペラーにもヴァントにも無い、この安らぎは、なんなのだろうか。しかもムラヴィンスキー。意外としか云いようが無い。
ブルックナーの音楽もよくよく聴けば、現世の音楽がすべて詰まっているように感じる。マーラーといっしょに。しかし外に出てくる方法が異なるのだろう。どのように異なるかは、今後の課題なのだが。
淡々と進む1楽章は好感が持てる。変に動かしても、ブルックナーはクドイだけだろうし……クドイのが好きなら別だが……ただ、ギラギラした金管は、この時代のロシア吹きなので、これだけは、また独特の味わいがある。最後の膨大な盛り上がりは素晴らしい。
2楽章は、ブルックナーのスケルツォの中でも屈指の音楽なのは云うまでも無いのだが、冒頭から厳しい。寸分の気も抜けぬ。トリオの優雅な感じも、素っ気無くすらあり、そのぶん、嫌味も媚も無い。ブルックナーの音楽は、お客に聴かすものではない。神への捧げ物であって、それをお客さんがお金を払って聴かせて下さいと云うのなら、勝手に聴け、と。お金を払うんだから、断りはしない、と。
ムラヴィンスキーの演奏はまさにそう。孤高の演奏。
3楽章の美しさは、なんとも形容しがたい。この世のものではない、というような気分ではなく、確かにこの世のものだが、あまりに安らぎすぎている。全てを神に委ねている。その意味で、同じ方向性のクレンペラーやヴァントと異なる。向こうは、得てして神すら超越せんが勢いなのだから。澄み切った、透明な雰囲気はとてもよい。ホルンの朴訥さ。弦楽の緊張感。その対比。
最後まで、切々と続けられる音楽は、聴くものへ清浄感を与えてくれる。つまり、癒される。
★5つ。私はブルックナーは苦手だが、9番は珍しく無駄が無く好きであり、さらにクレンペラー、ヴァントの演奏が好きなのだが、当然のように、その方向性だと、ムラヴィンスキーも大変な名演であると断言できる。
11/3
2005年ライヴ。MTT/SFSのマーラー。5番。
ちょっとこれは、聴く前からある程度の予想はついていた演奏なのだが、それが良くも悪くも当たったと思う。
5番はマーラーの中では変わった音楽で、変に芯がないというか、フォルムが安定しておらず、交響曲というより大きな組曲か交響詩のように感じている。この音楽は特にヒステリックで、異様な焦燥感に満ち満ちている。それは特に1・2楽章(第1部)に現れているのだが、そこから第3楽章(第2部)以降にどうやって持ってゆくか、だと思っている。しかるに、何の関係もないというか、まったく流れをぶった切る演奏がどれほどあるというのだろうか。第1部であんなに深刻にやってみせて、3楽章をなんの動きもなくただ重々しくやってみたり、能天気にやってみたり、逆にあっけらかんとやってみたり。挙句には、あの4楽章だ。そこだけ泣き節で、あほか。そして5楽章。万歳三唱。意味が分からない。
そういう分裂した音楽をどのように演奏するかというのはとても難しいし仕事で、5番はそれほど好きではないが、それでも100回以上は、少なくとも聴いていると思う。それなのだが、全体的に、分裂のまま演奏する派、分裂の中にもまとめる派、全体にクールで締めちゃう派、などがあると思う。何も考えていない派は論外。この大曲を、苦痛を聴衆に与えるためだけによくも演奏できるものだ。
と、いうわけで、MTTは、分裂のまま演奏する派のように感じる。1・2楽章はとても良い。しかしこのナンバーの鬼門、3楽章は、重く蛇がのたうったような感じで、聴きづらい。全体にやや遅めのテンポで、73分をかける。もともとこの楽章は聴きづらい。ワルツとスケルツォとソナタ形式が絶妙に合致・交錯しており、長く、ヴォリュームがある。5楽章もそうだが、5番は形式が先立ってしまって、音楽を殺している部分が多いと思う。
従って、この18〜19分かけるスケルツォ(どんなスケルツォだ……)は、もはやスケルツォ楽章の役を成しておらず、とうぜんマーラーも、ただのスケルツォではない何かを書いたに違いないのだ。
その何か、を表現しなくてはならない。の、だ、が……。それはまだ私にも分からない。
とにかく、このスケルツォは5番の中心にあって、柱のようなものを形成している。それは物理的な、音楽配分でもそうなっている。1・2楽章は3楽章へ向けて突進し、4・5楽章は3楽章からやってくる。3楽章は転換点であり、中心であり、胴体である。
そうなると、むしろ1・2楽章と4・5楽章、つまり1部と3部をいかように合致させて、それぞれどのように部としてとらえられるか、が関係してくる。楽章をそれぞれ考えていたのでは、失敗するのではないか。4楽章だけ切々と演奏していたって、意味がない。
MTTは、それぞれを部として捕らえることには成功している。1・2楽章と4・5楽章のつながりはすばらしく問題ない。しかし、各部を平等に扱っている。平等ではだめだ。1部では激しい精神と感情の上昇が、3部では下降がなくては。それは、焦りと安心。2部にはそれらの混ざり合った混沌が用意されている。
1部 焦り、焦燥感、絶望、渇望 ↑
2部 混沌の世界、焦燥と安心の並列 →
3部 安らぎと希望の顕現 ↓
うーん、我ながらこじつけもここまできたらそれっぽくて笑える(笑)
MTTはもうちょっと感情的にフレーズを処理してくれると、もっと面白いと思ったが、やや、各部が上記したようにのぺらっと並行的になっている嫌いがあった。このレベルになると、細かいところはもう完璧である。あとは、こういう全体の捉え方なのだと思う。
○4つ。
9/23
2003年ライヴ。MTT/SFSのマーラー。4番である。
思えば、私は、SACDで初めて4番を聴いた。もともと、マーラーの中でもフレーズの美しさやたおやかさを前面に押し出したこの曲、SACDのほうがやはりよく聴こえて面白いのは明白。さらに、そうでなくとも、凄まじいたっぷり感。このMTTのシリーズはおしなべてテンポが遅いというより、フレージングが大きくて、遅いのだけれど、もたもたしておらず、なによりたっぷりとした音楽づくりが魅力なのだが、まさか4番で60分超えの演奏が聴けるとは!
特に1楽章と3楽章が素晴らしい。1楽章は17分で、鈴やフルートもたおやかな繊細な演奏だが、しっかりと各部の展開を描き分けていて、むしろ明快。ここはマーラーが、呈示部のリピートのようで展開部とか、再現部のようで展開部の続きとか、わけの分からない事を仕組んでおり、聴く者を惑わす。それはマーラー流の 「ソナタ形式をもじった」 ユーモアであるらしい。それにイライラしていては、もう4番はダメだ。聴けぬ。MTTはしっかりとその各部を分けて演奏しているように感じた。かといってもちろん、ブツブツ途切れてはいない。また、ところどころに猟奇的な感触もある。
2楽章は、流れを重視したもの。とりわけてホルンが気持ち悪いとかはない。
白眉は3楽章。25分!!! 最長!!!(笑) おせえwww そして美しい!! ここでも、2重テーマと変奏が、しっかりと描き分かれている。こういう仕事は、分かり易くて良いです。ここは特に、4番の中では3楽章がつまらないとか、とんでもない勘違いをしている人の誕生につながってしまう。とんでもありません。3楽章が、重要です。
ここでMTTは、まさに、3楽章がフィナーレである、ということを実践してくれた。
と思う。
うれし〜〜!
では、4楽章はなんなのだろうか??
なんなんでしょうね。あの基地外ソングは(笑)
作曲順番というより、むしろ、作曲動機なんですが、4楽章が実は3番の7楽章で、それがボツになって、先に4楽章ありき、だった、というのは、もう云うまでもないことでありますが、そう、4楽章はですから、
4楽章 → 1楽章 → 2楽章 → 3楽章 → 4楽章
4楽章は、4番にとってのプロローグであって、エピローグなんでしょう。きっと。
マーラーベスト変えました。
○5つ。
9/20
2002年ライヴなので、2番より前なのだが、順番に聴いているMTT/SFSのマーラー。3番である。
しかしこのシリーズの最大の武器はなんといってもこの音質だ。臨場感あふれ、ライヴなのにスタジオ録音よりクリアー。恐るべしSACDである。従って、SACDでないと真価の分からぬ盤といえる。演奏そのものは、通常盤でもそれなりに聴けるものではあろうが、SACDだとその価値倍率ドンさらに倍。
冒頭からホルンの浪々感たっぷり。全体にかなり遅くテンポで進んでゆくが、1楽章は特に顕著といえる。その結果、ふだんは聴こえない部分までかなりクリアーに聴こえる。もちろん、MTTがそのように指揮をしているのもあるのだが、ここまできれいに聴こえると、マーラーも喜んでいるのではないだろうか。2楽章のゆったりとした気分の小春日和も楽しい。
しかし3楽章は、この演奏では私は苦手だった。というのも、もともと、3番のネックは3楽章だと感じていた。ちょっと長すぎるのではないか。ポストホルン(トランペット)のソロも鄙びていてたいへん良いが、ちょっと長い(笑) それが19分ものテンポであると、たいへん間のびして聴こえた。それを美ととらえられたら良かったが、ここで緊張感がかなり削がれてしまった。そのため、4、5、6楽章でも、ちょっと間のびした嫌いがあった。それでも、4・5楽章の美しさは比類が無い。それは単純に音がきれいだというのもある。が、演奏もきれいである。
特に6楽章は、静かなる美が、とても日本人むけの感性に似ていた。同じような耽美派の演奏には、アッバードやシャイーなどがあったが、これはもちろん西洋人のマーラーであり、とても濃い。マーラーは西洋人なのだから、それで正解なのだろうが。しかし、マーラーの生きた時代はモネのような濃いけれど繊細な絵画だって登場した。この繊細さは、とても好きである。
マーラーベスト変えました。
○5つ。
※ 交響曲ページではいま、5月ごろよりずっとショスタコーヴィチに挑戦しています。いまようやく10番まできました。さすがにショスタコともなると、一筋縄ではゆきません。もう少しお待ち下さい。
9/6
2004年ライヴの、MTT/サンフランシスコ響によるマーラー2番。既に聴いてあるが、今回のチクルスで、再び聴き直してみた。
マイケル・ティルソン・トーマス/サンフランシスコ響 マーラー:第2交響曲 L2004
5楽章はやや長いのだが、後は普通通りの時間割。しかし、やたらと遅く感じる。それはたぶん、フレーズの一つ一つが、長いというより、じっくり幅がとられているからだろう。
ゆえに、1楽章も、かなりゆっくりな印象だが、全体ではそうでもない。なによりこのシリーズは音響がアホみたいに良くって、たまらない。前はテンシュテットやクレンペラーのような激しいドラマティックな1楽章が好みで、例えばスコアを浮き彫りにするというような形容句で語られる、スッキリしたものはあまり面白くなかった。なぜなら、それほどたいそうなスコアでもないから、スッキリしたぶん、スカスカになってしまうのだ。
ところが、このMTTはちがう。
スッキリだが、聴き込んだ通のツボを心得ているというか、憎いところで、微妙なゆらしやタメをつけやがる。さ、これがたまらない。どっしりと構え、動くところは大仰に動く。打楽器のクレッシェンド(5楽章にも登場する)の音響も凄まじい。この1楽章は、深い。非常に深い。テンシュテットやクレンペラーも、もちろん最高の表現なのだが、音質が残念ながら、劣る。マーラーだけは、もう明快に鳴らなくては、最上とは云えなくなってしまった。あくまで、演奏もその通りながら、私は盤として評価してあります。この盤を通常システムで聴いている人は、値段が高いので勿体ないから買わないほうが良いです。SACDでなくてはいけません。それも、スピーカーが5つのマルチですよ。
そして2楽章だが、ここは、美しさを前面に押しだし、あくまで野原の淡い幻想的な想い出を際立たせている。しかし、きれいな音だなー。1楽章の騒乱を静めてくれる、精神の安らぎ。途中の舞曲も、愛らしい演奏。
そしてまたも、両極端な音楽が3楽章に登場する。この極端さがマーラーの面白さであり、マーラーの苦手な人の文句の出るところでしょうね。MTTは、ここは荒々しくよりも流れを重視している。もちろん迫力がないわけではないが、乱暴でも無い。この3楽章の不気味さへのアプローチのちがいであり、おどろおどろしいものではなく、ノーマルの音楽の中でのエキセントリックさというか。
4楽章も絶品である。やや動きが無いのでのぺっとした印象を持つ人もいると思うが、それは好き好きだろうかな……。
5楽章は評価が分かれるかもしれない。なんといっても、36分である。ここは、遅い(笑) SACDでは器楽部と合唱部でトラックが分かれている。何やら重大な劇でも始まるかのような冒頭部。10分もある。雄大すぎる。この雄大さは、クレンペラーを超えた(笑) おせえww
でも音はきれいです!
例の行進部になると、これも荒々しくない、上質の音楽。これは、乱痴気騒ぎとどっちがいいか迷う。おそらく音楽の真実としてはそっちなのだろう。マーラーの交響曲は、正しいベルリオーズの系譜であるし。しかし、幻想を乱痴気騒ぎにするものと、絹のヴェールのように演奏するのと、楽しみ方がいろいろあるように、マーラーだってある。特に2番は誇大妄想的な気質が、幻想に通じている。ここでトンデモ行進が続くものもあれば、このMTTのように音楽としての気品と交響曲としての威厳を失わずに、かつ、ちゃんとマーラーしているものもある。ただ、えてしてそういった後者のものには、ふんぞりかえったような嫌らしさがあるが、MTTは無い。あるのはマーラーへの敬愛のみ。
合唱が登場すると、演奏はさらに速度を落としたように感じる。集中力が素晴らしく、どんどん引き込まれる。
荘厳な感情のまま、大団円を迎える。
○5つだよ。
8/31
先日、実演で感動した、エリシュカ/札響のドボ6がCDになったというので、さっそく買う。
なんという静謐な音色なのだろうか。これって、ほんとに札響なのか?(笑) 確かに日本のオケ独特のパワー不足はやはりあるが、それを補って余りあるある種の独特な北の静謐さよ。これを会場で聴けた我輩は幸せだ。
またそれを最大限に引き出すエリシュカの手腕は、クーベリック、ノイマン亡きあと、まさにこれほどのドヴォルジャーク振りが残っていたのかと、感嘆する。 エリシュカは、1楽章の冒頭より、そのフレージング能力を見せつける。この手の音楽は構成もさることながらやはりフレージングが死んでしまっては、音楽にならないと思う。エリシュカは実に自然で、無理がなく、常に音楽が流れている。どこにも淀みが無く、確信に満ちて、伸び伸びと歌っている。素晴らしい。
またそのエリシュカのカラーが札響と合っていたというのも大きいとだろう。例えば3楽章のフリアントは、海外オケだったらもっともっと激しい濃いい民族ダンスのはずなのだが、ここでは洗練された純粋音楽として、交響曲のスケルツォとして純然と響く。
それが大爆発するのが4楽章なんですよ!!
どうです、この天真爛漫とした、喜びの爆発は!! 太陽の光、ヴァルタヴァのせせらぎ、森の緑! ボヘミアの風景の全てがここにあるではないですか。こんな演奏、地元の人しかできないよ……。
ラストでは最高に、そして気品たっぷりに盛り上がって、最高です。ぜんぜん荒くなく、土俗的というより洗練されているので、そういった大人のドヴォルジャークが聴きたい人は、必聴ですよ。
併録は、ヤナーチェクの狂詩曲「タラス・ブーリバ」というからシブイ。確かに当日も渋かった(笑) ヤナーチェクといえば何を置いてもシンフォニエッタであろうが、それだけではないし、またヤナーチェクの正統なる真価を日本に伝えるのを責務とするエリシュカならではの、選曲だったし、演奏だった。
こちらも、○○の死 という楽章が3つ続く、暗く重い内容ながら、ドラマティックではなく、ヤナーチェクらしく淡々と、ある種機械的に音楽が進むのが面白い。やはり、根底にあるのは、気品たっぷりの、しかし嫌らしくない、人情味にあふれた、日本人好みの情感である。それが、機能的なヤナーチェクのオーケストレーションと上手にマッチしていることから生じる、なんともいえぬ旨さがたまらない。ノイマンのタラス・ブーリバよりぜんぜん上!!
ここで売ってます。
8/28
山になっているMTT/SOによるマーラーチクルスを少しずつ聴いていく事にしました。大地の歌も出るようで(バリトン版ですが)残るは8番のみなので、全部そろってから一気に聴こうかとも思ってましたが、バラバラと聴いているものもあるので、順番に聴いてみようと思いました。
というわけで、まず2001年のライヴ、1番より。
マイケル・ティルソン・トーマス/サンフランシスコ響 マーラー:第1交響曲 L2001
このシリーズは、上質なSACDで聴くとなお良い。なんといっても、ライヴだという事を考えると、ジンマンを超えて、最高に音のきれいなマーラーだと思う。
全体的にやや遅めだが、極端に遅いというわけでも無い。1楽章は16分をかけ、じっくりと進む。音のすみずみまで清められている。素晴らしい音質。各種のテーマもさりげなくも存在感があり、飽きのき易い1番をぐいぐいひっぱってゆく。途中に、聴き込んだ人がオッと思うタメなども随所にあるので面白い。1楽章ラストの盛り上がりは、爽快な響。
2楽章も従って、暑苦しくない。楽しさに満ち、思わず踊り出してしまう。正しい音楽の姿であろう。この1番の2楽章には、特別なアイロニーはあまり感じられない。マーラーがわざわざ「分かり易く」作曲したというくらいだし。その分、3楽章があるのだが、ここにも、もの悲しい美はあれども、グロテスクな気分は無い。MTTはあくまで、美しい響でこの1番をとらえている。
そこで問題の4楽章だが、ショッキングな表現は充分ながら、やはり崩したり、感情に流されたりは、けしてしていない。あくまで冷静に、演出として淡々と進めてゆく。ゆえに、1番のような「単純な」音楽では、やや物足りなくなるのが常だが、ここではそれを上回る美しさがある。
○ 4つ。
8/25
またまたまたまたテンシュテットである。
テンシュテット/ボストン響
モーツァルト:アイネクライネナハトムジーク L1979
ベートーヴェン:三重協奏曲 L1977
レアモス盤。タングルウッド?? 案の定、録音状態はあまりよくない。モーツァルトはなんか、楽しいのに異様な緊張感というかギスギス感に支配され、それはあえて云うならば、恐怖に近いような、激しい緊張感と必死さが感じられる。なんででしょうねww ★4つ。
逆にベートーヴェンは素晴らしい伸び伸びとした演奏で、ソリストも、シルバーシュタインVn、アスキンVc、ゼルキンPfと、充実しており、地味に協奏曲上手なテンシュテットの面目躍如です。雑音はあるが、生き生きとして、なんとも美しいこの音色! ★5つ。
続いてブルックナー3種。
テンシュテットは本当にブルックナー指揮者だったのだなあ、と感じる。
テンシュテット/ボストン響 ブルックナー:第7交響曲 L1977
7番はテンシュテットにしては珍しいプログラム。といっても、3番よりは多い。
7番も楽章間のまとまりが無いような気がして、特別に聴くものではないのだが、とても美しい音楽である事には変わりない。ブルックナーは、全体、とてもきれいな曲を書く人だと思う。面白いかと云われたら、そういうものでもなく、私の趣味とは異なるのだが、それにしても、組み立て方が難しいかもしれないが、音楽そのものは分かり易いし、7番などはとても聴ける。1・2楽章は特に素晴らしい。テンシュテットも4番のような、激しいアプローチではなく、意外といわゆるブルックナー調の朴訥とした、かつ静謐とした指揮に感じる。録音も良い。★5つ。
テンシュテット/ニューヨークフィル ブルックナー:第8交響曲 L1977
テンシュテットのブル8はこれで、下を合わせてたぶん10種類目で、ベートーヴェンの3番よりも多く、おそらくテンシュテットの同曲録音の中ではもっとも多い曲なのではないか。マーラーなんかより遙かに多いのが興味深い。ブルックナーでも、5番や9番は聴いたことが無い。私はその2曲が好きなので、残念なことだが。しかし8番は、凄い曲だなあ。いろいろと……。
1楽章が短いうえに空回り杉なのはもうあきらめて、純粋にその場その場を聴いて楽しむようにしてみました。ちょっと長いが2楽章はもともと聴けたし、3楽章のダラダラも、聴き流しているとなんとも美しい時間の経過。4楽章の迫力も、テンシュテットは早めに演奏するので、キビキビして、さらに集中もして面白い。
ニューヨークフィルはさすがにうまいなあ。3楽章が特に美しい。テンシュテットの棒も冴える。没入する。このレベルの大曲になると、絃も管も限界を超えますからねえ。録音が少し悪いので★4つ。
これこそ、2楽章がスケルツォのほうが良いのではないのか??
テンシュテット/ロンドンフィル ブルックナー:第8交響曲 L1981
こっちは正規盤。従って録音が格段に良い。テンシュテットのブルックナー8番では、正規盤はスタジオ録音に次いで2つめなのではないか。
これわ冒頭からレベルがちがうwww
音質も良いけれど、緊張感もあるし、なんといっても、ブルックナーの荘厳さが、よく出ている。けして遅いというわけではないのだけれども、堂々として、セカセカしておらず、この1楽章が余裕を持って聴こえるぞ(笑)
ああ、これはこれで、2楽章とは合わせて、大きな3部作なのだろうな、と感じてしまう。伸びやかで、かつ、締まる所はギュッと締まり、他の高名なブルックナー指揮者と云われる人のように、ダラダラしたり、逆に締めすぎたりしない。テンシュテット芸術の冴え、ここに極まっている。8番は表現が難しいと思う。天国的な部分もあれば、地獄のような厳しい部分もある。その描き分けに、ドラマを求めてもちょっとちがうと思うし、これまでのテンシュテットはどちらかというとそのドラマで勝負していたが、この盤は何かちがう。
厳しい。そして厳しいゆえの優しさ。
どこにも(音楽的に)弛緩している部分がない。それでいて、いや、それでこその、ブルックナーの安らぎ。
3楽章は、祈り。ここには敬虔さが無くてはならない。ただきれいに鳴らしているだけでは、心は伝わらない。音楽は、心である。ただ心を伝えるためには、うまい技術も必要なだけで。逆に、技術だけでは、音楽は、伝わらない。それは、音楽ではなく、ただきれいな音が鳴っているだけ。
祈りのあとは、信仰の爆発。ここにあるのは信仰の喜び。神の賛美。神への賛美ではなく、神の賛美。
4楽章自体が速いし、中間部とか、ブルックナーにしては、激しい動きをするので、そういうのを嫌う人は、やはり受け付けないかもしれない。それはしかし、時に揺れ動く人間の信仰心の現れなのではないか。最後は、神の光の手元へ少しでも早く走り寄る哀れな小羊の心境である。
私の数少ないブルックナー体験の中で、こんな崇高な8番は聴いた事がありません。
かつて戦慄した、ヴァント/NDRの9番に匹敵するものを感じた。余裕の★5つ。
しかし、ブルックナーは、クドイ(´Д`;)ニガテ
8/6
和田薫の「喚起の時 II」(現代邦楽作品集)のCDを入手しました。せっかくだから久しぶりに1回目の喚起の時(オーケストラ作品集)も聴き直してみた。
和田は、東京音大時代の伊福部の弟子の中では、もっとも高名だろうと思う。伊福部自体は、晩年に箏曲をたくさん書くまでは、邦楽そのものにはあまり興味が無かったようで、ほとんど唯一、鬢多々良があるのみだった。
しかし芸大時代の弟子三木稔が邦楽作品を多数手がけており、東京音大で先生もしていて、東京音大の学生はゼミを梯子していたという。そのためか、邦楽をよく手がけている。
喚起の時 II
和田薫/日本音楽集団 他
座興七重(1989)
鹿鳴新響−2本の尺八とチェロ、打楽器のための−(2007)
楽市七座−篠笛、2人の日本打楽器奏者と4人の西洋打楽器奏者のための−(1988)
3つの映像から音像三連〜「忠臣蔵四谷怪談」「SAMURAI7」「犬夜叉」〜(2007)
和楽器オーケストラのための三連譚 ゛熾・幻・舞゛ (2006)
和田の作品は、オーケストラだろうと邦楽合奏だろうと、とにかく明快だ。いっさいの衒いが無い。単純ではない。けっこう複雑な動きをしているが、それを感じさせない。それが良いか悪いかは分からないが、聴衆は喜ぶだろうし、人気があるのは頷ける。つまり、暗さが無い。暗い調子の曲だろうと、どこかキラキラとした色彩的な美意識が根底にあり、日本人の作曲家に特有の、一種の深刻ぶった近づき難さを感じさせない。
したがって、とっつき易い。特にアニメや映画のBGMで好かれるのも、理由がある。へたに重い音楽は異様に画を重くする。そういう映画なら良いかもしれないが、アニメではダメだ。最近のアニメは特に軽いCGを多用するので、音が重いとバランスが悪いと思う。和田の音楽は、ちょうど良いのだろう。武満はそういうの上手かった。重い画にはとことん重く、軽い画にはポップスをつけた。
また和田は日本的テーマのアニメで大胆に邦楽器を使っている。アニメファンが邦楽に目覚めているという。友人の作曲家で伊福部の最後の弟子、堀井友徳が云うには、伊福部先生の若いころはそれこそ、邦楽器なんてとことん遅れたもので、完全に伝統の世界のもので「音楽」ではなかったらしい。戦前は、現代作曲家が、邦楽器の曲を作曲するなんて、考えられなかったという。伊福部は後年、名曲の鬢多々良を作曲するが(まさに邦楽合奏の先駆け的曲)、その中でも、どうしても三味線と尺八は書けなかったという。若いときに座敷で遊んだ記憶が抜けなくて、どうにも純粋芸術としてとらえることが出来なかったらしい。
それからすると、隔世の感がある。
座興七座は、7人の奏者による邦楽合奏。邦楽の伝統的な譜面はタテ読みで、ハニホヘトイロハ や ○×△(だったかな?) がずらずらと並んでいる。が、現代の邦楽器奏者は音譜も読めるので、現代作曲家は西洋音譜で曲を書くらしい。邦楽といえども、現代音楽の手にかかるととたんにワビサビ調の深刻なものになりがちな中、楽しく聴けるをテーマに、面白く書いたという。その中にも旋律のみに拠らない確かな構成が頼もしい。後年、和田は多くのアニメや映画に邦楽をつけるが、その萌芽ともいえる。シャレではない。後半には伊福部っぽいリズムも見られる。
鹿鳴新響は新曲で、和田の挑戦が見られる。つまり、ゲンダイっぽい。もともと打楽器なんて無調音楽であるし、尺八も調が分かりづらい。そこへチェロも、無調っぽい感じで割り込んでくる。しかし和田テイストが無いわけではない。これはなかなか面白い音楽に仕上がっている。
楽市は和田らしいリズムの饗宴というか。しかもそれはあくまで明快で豪快な、力強いもの。それらに堂々と斬り込んで来る篠笛のなんと武士道なことよ。ただし後半は民衆の側にグッと寄る妙。最後は恒例の「祭」となる。
音像は、映像に対する和田の見事な手腕を味わえる。残念ながら忠臣蔵と犬夜叉は見たことないのだが(笑) 忠臣蔵では金属打楽器や三味線の使い方がちょっと武満っぽくて面白い。SAMURAI7はなんというか和風なんだがSFの世界に妙にはまっていて大好きだ。もうちょっと後だったら墓場鬼太郎も入っていたにちがいない。
三連譚は、純粋音楽の部類ではあるが、いわゆる邦楽アンサンブルではなく、三木稔のアジアンオーケストラにも似た、邦楽器オーケストラのためのもの。性格の異なる3つの舞曲ともいうべき音楽が、和楽器からワビサビ路線だけではない、新しい魅力を引き出している。
7/21
ミッテンヴァルトの、哘崎考宏さんによる「日本のギター作品」第1集 聴きました。今回は、ギターオリジナル邦人曲の名曲を多く残した伊福部昭と、その門下生という趣向。
ギター(ホセ・オリベ1979)、ラウテ、哘崎考宏
原田甫:ギターソナタ第1楽章
田中修一:バラード
田中修一:タンブラン・ネプタ
眞鍋理一郎:ファンタジア
三木稔:芽生え
有馬礼子:花鳥風月「大和路」
有馬礼子:花鳥風月「花野」
堀井友徳:ギターのためのモノローグ
伊福部昭:古代日本旋法による踏歌
ギターの現代曲というのは、ふだんオケや吹奏楽、果ては打楽器アンサンブルばかり聴いている身にとっては、完全に異色・異質な世界である。クラシック系の聴き手といっても、全てを網羅している人はむしろ少数で、自分の「領域」というものをもって楽しむ人が絶対多数であろうと推察する。
そんなわけで、ギターの世界などというのも、私にとっては、まったくの門外であって、「禁じられた遊び」すらまともに聴いたことが無い。伊福部昭の道にはまっておっても、ギター作品集は右耳から左耳へ、という世界であった。
それが、なんとか「音楽」として耳に残るようになったのは、最近である。作品の中の旋律を聴きとることができるようになったのであろう。そもそも、私は、ヴァイオリンやピアノに限らず、ソロ曲というのが甚だ苦手だった。今でもピアノソナタとか、滅多に聴かない。ずっと吹奏楽やオケで育ったからか、音色の変化に乏しいと、とたんに飽きるという悪癖があって、かんじんの旋律や音楽そのものを聴き録る能力に欠けていた。
では今では完璧かというとそうでも無いのだが(笑)以前よりかはマシ、といったところ。
そんなわけで、伊福部作品集でも、後期の箏曲とか、ようやく聴けるようになった。ギターも然り。
哘崎さんとは個人的にも何度かお会いしたことがあるが、真摯なギター演奏とは裏腹に(?)ひょうきんで屈託の無いお人柄で、たいへん好感が持てる人物である。音楽に対する姿勢は純真で、今回の作品集も画期的で意欲的だ。邦人作曲家ファンとしても見逃せぬ。
なんといっても、重複するが、ギター曲である。しかも全て邦人作品集で、こんなにあったのかと驚いた。それほど知らぬ世界だった。
原田は残っている作品が少なく、貴重な録音。本来3楽章制だが、2、3楽章はギターでは演奏が至難ということで、むしろピアノ曲になっているという。収録時間の関係もあり、1楽章のみで、2、3楽章は割愛されている。したがって序曲のような風情。ぜひ、全曲を聴きたく思った。
田中は、2曲集録。バラードは単旋律が繰り返される形式で、単純さの中にも雄大な気分がひそむ。タンブラン・ネプタはねぷたに想をとった、伊福部のピアノ組曲の佞武多に似たもの。
眞鍋はバロックふうな、元はリュートの作品。小品ながら格別な存在感を示す。全体を眺めれば、これだけ西洋的な気質がある。その中にも現代技法がアクセントをつける。旋律的であると同時にシリアスで、面白い。眞鍋はけっこうエキセントリックな音楽を作る人で、もっと評価されて良い。
邦楽作品や「マリンバ・スピリチュアル」で高名な三木は、元は箏曲。それを中国琵琶(PIPA)版にしたものの、ギター演奏だそうです。箏らしい旋律の流れが、趣深いし、それをギターでやるときの面白さ。
有馬は、日本画の画廊で演奏するために、花鳥風月画っぽい作品という注文もの。それがなぜギターなのかは、企画者でないので知る由も無いが、まあ手配し易かったからだろう。今様のテーマによる変奏風で、ギターという旋法や音域、音色が非常に限定されている中より立ち上る気品と典雅な味わいは、さすがである。このようなベターな作風からいかにワンランク(何かが)上にゆくのかというのは、難しい仕事と推察する。
堀井のギターのためのモノローグは、本来はもうちょっと短い作品らしいのだが、初演者でもある哘崎が格別に感情を込めてやや長く演奏されている。題名とおり、短調の独白的な暗い作品だが、中間部の堀井らしいアレグロが、なんとも評価の分かれるところか。鬼平のエンディングを想起するのは私だけではあるまい。しかし、そういうのがまた好きだったりするのではあるが(笑) まあ、抽象的でシリアスな作風を目指したとあるが、そんな感じである。ただ確かに人よっては、抽象的というよりかは叙情的と感じられる部分も多いだろう。ここにあるのは人間本質の遺憾的感情的な部分というより情念的人間ドラマそのものである感情の発露であって、その意味では、抽象的ではないだろう。いや、抽象的ではあるが、どこか人情的な味わいがそれをうまく隠しているのだろう。
伊福部の踏歌もまた暗い作品だ。今回は、伊福部がじっさいに作曲に使ったという、ラウテという楽器による演奏。ギターよりやや籠もった音色がまた、暗さに拍車をかける(笑)
踏歌は平安朝にはじまってやがて廃れた歌と踊りを備えた舞踊歌とも云えるもので、それを現代にギターによって復元というほどでも無いが、それへの憧憬を込めて作られた、1967年の現代ギター作品の中でも古典に位置づけられるだろう。
大きな3部形式で、馴染みの伊福部旋律や、それまでのムード的なギターのイメージとはかけ離れたシリアスな調子が素晴らしい。ラウテの何とも云えぬ民族的な、素朴で非技巧的な響きも味わい深い。
第2弾が楽しみである。
しかしまあ、実に渋い1枚ですわ(^^;A
7/18
テンシュテット/ロンドンフィル
マーラー:第4交響曲、第8交響曲(ART盤)
これは、すでに発売されているものの再発売。輸入盤のART盤。2002年ころの発売のようだが、さいきん入手しました。
テンシュテットのスタジオ録音(主にマーラー)は、私は、追悼盤で出たものをたくさん買ったくらい。特に国内盤は、音質がややぼやける傾向にあり、テンシュテットのやる気の無さがかいま見えていて、あまり共感できるものではなかった。4番は旧盤でもまあまあだったのだが、8番は最初は迫力があるのだが、聴いているうちになんとも飽きてしまった。
それで、ART盤も、ARTとはいえ対して期待してなかったのだが、これが大間ちがい。
4番はまだ、そうでもない印象だった(音は凄いきれいです。)が、8番が圧倒的!!
特にオルガンや高音部がとてもクリアーで、1楽章などバスドラもドドド!と滝の音のようだし、オルガンも第迫力、絃も管もよく鳴っており、歌唱も管弦楽と渾然一体となり、さすがにマーラーの技法だと唸る。よく歌がオケに埋もれてどうのという意見があるが、マーラー的には、それはあまり意味がないと思う。マーラーのオーケストレーションは、歌も管弦楽も何もかも 等価値 であって、渾然一体の境地が素晴らしい。その究極が実は8番と大地なのだが……! 大地で歌が聴こえないとか云ってる人はなんなの。(とはいえ独唱なので、さすがに埋もれすぎ、という箇所はあるにはあるのだけどね。。)
1部のラストの、たいていテンポを早めてしまう演奏に対し、どっしりと構えたズゴゴゴゴ!という迫力は、たまらんわ〜!
2部も、オペラ調に入れ分かり立ち代わりの妙が、さすがテンシュテットで、実に細やか。スタジオだから、独唱陣も余裕をもっている。そしてあまりにせまり来る圧倒的な大瀑布のようなラスト。
これがマーラーの8番の真の姿かと思わせられる。
マーラーの8番って、いい曲ですね!!(笑)
両方とも★5つ。とうぜんです。
7/6
テンシュテット/ロンドンフィル ライヴ
マーラー:第7交響曲 L1980
モーツァルト:第41交響曲「ジュピター」 L1985
テンシュテットのライヴ録音。BBCの正規放送音源。無理に時間を作って聴いてみた。
これは良い。
テンシュテットファンは必携のアイテムと云える。無理にでも聴いて良かった。感動した。
テンシュテットのマーラーは高名なところだが、そのどれもが常にレパートリーとなっていたわけではない。大地の歌はスタジオ録音しか無く、それも指揮者は不出来と思っていた。多数、録音があるのは得意の1番や5番であり、CDR盤を含めると、他のナンバーもそれに続く。意外なことに、2番が少ない。そして7番が多い。7番は彼の6番よりも録音が残っている。
マーラーの7番というのはまさにマーラー通が好む音楽であり、私も6番のほうが好きなのだが、5、6、7番のいわゆる「器楽3部作」ではどれが上出来かというと間ちがいなく7番である。この7番は聴けば聴くほど味のある実に良い音楽で、単純明快な6番より音楽的には、遙かに深い。レベルがちがう。
こちらの記事によるとテンシュテットはマーラーの7番を8回とりあげ、そのうち6種類が7枚のCDとなっている。そのうち正規が2種で、CDRが5枚。スタジオ録音が1枚で後は全てライヴ録音。そして今回のBBC盤が、8枚目で正規で3種類目(ライヴ)となる。
いまのところ、重複をのぞき、8種類もCDがあるのは、なんと1番と7番のみであると思われる。テンシュテットといえば5番であるが、なんとその5番よりも多い。演奏した回数は5番のほうが多いかもしれないが、CD化に恵まれた珍しいナンバーだと思う。そして、1人の指揮者で7番のCDがこれだけ出ているのは、おそらくテンシュテットだけではあるまいか。
演奏のほうだが、良い。音質も良い。7番の解釈としては古いタイプのものだが(とうぜんだが)その中でも、面白い。7番を聴き込んだ人が聴くと、こんなところにホルンが聴衆を驚かす意味で使われていたのか、こんなところでヴァイオリンのパッセージが浮かび上がったか、などと、非常に面白い。もちろんスコアのすみずみまでクッキリと輪郭を浮かび上がらせる……などというタイプではない念のため。
マーラーの7番はれっきとしたロマン派の音楽である。こんなものはいまさら私なんぞがえらそうにいうまでもなく、その通り。しかし、そのように演奏しているレコードのなんという少なさか。楽曲の分析もけっこう。珍奇な演奏もけっこう。しかし、根本には、マーラーの7番はベートーヴェンやシューベルトに通じる、立派なロマン派音楽であり、彼の器楽音楽の中でもひとつの到達点である(7番があってはじめて、8番大地9番がある!)という本質が無いと、そういう解釈も本末転倒菜ものになってしまうのではないか。
テンシュテットの7番にはそれがある。この生き生きとしたリズム、歌い込まれた旋律。エキセントリックなフォルテ。それがあってマーラーの交響曲は本領を発揮する。それがあって初めて、楽器使いの面白さや、珍しい奏法、珍しい音形、珍しい構築が生きる。
文句なしに★5つ。テンシュテットの7番は理想の7番のひとつだと思う。
そんでもって余白のモーツァルトだが、これもまた良い! テンシュテットの凄いところは古典も凄い所にある。ハイドンやモーツァルトが面白い。録音ではなんでか「ハフナー」が多いが、ジュピターもある。この生々しいモーツァルトは、古典作品として例えば5000万円する茶碗を美術館で鑑賞するというより、現代人としてモーツァルトを本当に茶席で使って楽しむというような、実に贅沢な気分にさせてくれる。★5つ。
ブラヴォーの嵐も宜なるかな。
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