12/23 〜12/26

 ショスタコーヴィチの第8交響曲を2種。

 ベルグルンド/ベルリンフィル(2001ライヴ海賊)
 ゲルギエフ/キーロフ歌劇場管弦楽団
          
 私の好きなショスタコの交響曲はみな録音が少ない。4番然り、8番然り、14番然り。しかしこの3曲は真のショスタコ聴きが避けては通れない珠玉の作品群であり、どれも重く、深刻なものだ。
 
 8番は中でも特に好きで、15曲の中はもっとも好きだ。

 パーヴォ・ベルグルンドといえばシベリウスファンにはおなじみの名だが、ショスタコーヴィチも振るらしい。しかも、ベルリンフィルとは何事か。しかも、8番だ。マゼールの代役だったそうだが、代役ってけっこう伝説の演奏を生んじゃうもの。
  
 これ海賊だから音質のことを言ってもしょうがないのだが、凄まじいほどの音圧はマシンの限界を超えて空間ごしに迫ってくる。音が割れているのはどうしようもない。1楽章アダージョの後半なんか、震えがきた。まさに実演だったら気絶するほどだが、音質の差で★5つ。

 そこで正規盤のゲルギエフ。

 ショスタコあったんですねえ。1995年だから、けっこう古い録音だ。ドイツ製。

 そしてこれも8番というのが趣味の良さを伺わせているし、ショスタコを理解している証拠。この前、N響との合同で7番を振っていたけど(N響アワーで1楽章の一部、やったんですよね)7番であそこまでできるのだったら8番などはさぞや……と思っていたが、こいつはすげえ、とんでもない、
気絶する前にわしは逃げるぞ。

 1楽章から深刻にもほどがあるし、ホルンの狂気吹きもイッちゃっている。音圧の点ではムラヴィンスキー級だし、しかも録音がすばらしく良い。ライヴでもないのにこの真剣さは、さすがゲルギエフ先生。

 2楽章も熱くてユーモアというより笑えないロシアンジョーク。3楽章も戦争の滑稽さ愚劣さより悲劇さをアピール。4楽章は死屍累々。無常観がたまらない。しかも、不気味だ。5楽章の恐怖も、よくできている。この楽章、じつは恐いですよ。そして悲しい。

 まったく、深い音楽です。


12/14 〜12/22

 先日から延々とストラヴィンスキーを聴いているが、曲数が多いだけになんという奥深さなのだろうか。超有名曲ならいざしらず、中には録音もロクに無いマニアックな曲もあり、演奏がどうのこうの以前の問題で、曲がどうのこうのとなる。

 ずらりと挙げてみよう。まずはエサ=ペッカ・サロネンのソニーの8枚組作品集。
 
 1 火の鳥(全曲) カルタ遊び/フィルハーモニア管
 2 春の祭典 3楽章の交響曲/フィルハーモニア管
 3 ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ 管楽器のための交響曲 ピアノと管楽器のための協奏曲 ピアノと管弦楽のための楽章/ロンドン・シンフォニエッタ 他
 4 プルチネッラ(全曲) 11楽器のためのラグタイム きつね 管楽器のための八重奏曲/ロンドン・シンフォニエッタ 他
 5 ミューズを率いるアポロ 弦楽のための協奏曲 古いイギリスのテキストによるカンタータ/ストックホルム室内管弦楽団/ロンドン・シンフォニエッタ&同合唱団 他
 6 オペラ・カンタータ「エディプス王」/スウェーデン放送交響楽団 他
 7 ペトリューシュカ(1947年版) オルフェウス/フィルハーモニア管
 8 バイオリン協奏曲/ロスアンジェルス・フィルハーモニック 他 (プロコフィエフのバイオリン協奏曲と併録)

 3〜5がなんともマニアックというか、通好みというか、いい趣味している。大オーケストラから室内楽まで、サロネン好みの選曲だろう。個人的には「結婚」が欲しかったところだが、無い物はしょうがない。

 初めて聴いたのは、なんといっても「古いイギリスのテキストによるカンタータ」だ。ストラヴィンスキーの作品目録をみても、どんな曲だか分からない、未録音のものが山ほどある。こうして1つずつ音になってゆくのは、楽しいかぎり。また苦手だけど名曲のプルチネッラは、普通組曲なんだけど、なんとまあ全曲。これも初耳。

 1曲ずつ検証してもキリがないし、わたしも飽きてくるので、全体的なサロネンと、とくに気になった曲を挙げてみたい。
 サロネンのリズム処理は天才だろう。天賦の才ですよ。キレといい、間といい、すばらしいと思います。ストラヴィンスキーなんてどの時代の作品もリズムの鬼みたいな人だから、うってつけかもしれません。

 また解釈が、耳あたりが良い物なんだけど、よく聴くとけっこう斬新。鬼才とはよくいったモノだなあ。

 3楽章の交響曲は、戦争記録映画に感化されたものなのだが、胃をえぐるようなストレートな響きは不安と焦燥をよく表している。ハルサイは評判だがどうだろう、確かに速くてカッコいいけども。もちろん「それだけ」ではないんですが、このノリノリの感覚だけにとらわれかねはしまいか。
 
 プルチネッラ全曲は、組曲に歌唱が加わっただけなんですが、なんか、不思議な雰囲気でした。きつねは、アンセルメやコンロンの英語版は持ってますが、これはロシア語の歌唱。これも雰囲気がちがうなあ。節回しが独特ですよね、サロネンの鮮やかな指揮が、泥臭さをおさえ、洗練されたロシア芸術という匂いに仕上がっています。
 
 古いイギリスのテキストによるカンタータは、小アンサンブルと女性合唱、ソプラノとテノールによる、23分のなかなかのもの。新古典主義最後期のもので、主題には音列が採用され、12音にも傾いている。作曲年代は1951−52、オペラ「道楽者のなりゆき」のすぐ後ろ。15、6世紀のイギリスで書かれた作者不詳のバラードに作曲されている。もちろん聖書に基づいている。聴きやすいものだが、やはりそこは一筋縄ではいかない奇妙さも漂っている。

 エディプス王が驚きましたよ! わたしはこのチクルスの中では白眉にしたい!

 ライナーノーツで一部の響きがオルフも参考にしたのではないか、とありましたが、確かに、重厚な合唱と単旋律による無表情なリズムの繰り返し、カルミナ・ブラーナみたいだ。こんな刺激的で響きの面白い作品だったかなあ。小澤とはちがうなあ。
 
 ペトリューシュカも、中間部などはおどけている様で狂気さが目立つ。でもせっかくの1947版、ラストは演奏会用で〆ていただけると、マニア度が増すというものだった。(作曲者の録音はそう)
  
 フルトヴェングラーのストラヴィンスキーが残っていたなんて、想像もしなかった。フルヴェン先生ですよ!? 

 でも、かれはヒンデミット事件にもあるように、なかなか現代音楽の推進者だった。伝説の棒さばき(ぶらぶらしている、というようなものだったそうです)でどう振ったかは知りませんが、解釈としては、濃ーい、ロマンそのものというのも、また笑える。

 録音は1950年に三楽章の交響曲(ウィーンフィル)、1953年に妖精の口づけ組曲(ベルリンフィル)。両方ともライヴ。
         
 3楽章交響曲は初演の3年後。まさに現代音楽。ウィーンフィルはうまい。うねる音色が独特のVPOサウンドに増幅されて、迫力満点。かすれる録音の向こうから、時代が聴こえます。

 BPOの艶っぽさも、チャイコフスキーの音色を模した妖精によくマッチしている。ステレオだったらなあ……と無意味な悔やみをかみしめて、フルトヴェングラーへの敬愛としたい。

 マルケーヴィチ/スイスロマンド管で、ハルサイ。

 最晩年のライヴ録音。ミスターハルサイの名は不動、確実に計算されたドラマがここでも繰り広げられる。この人はライヴもスタジオも同じなんだなあ。ただの感情大爆発じゃなくって、計算されている証拠。

 解釈としてはかなり古典的な大時代的なモノだが、たいへんに真摯であり、真剣で熱い。むしろいまとなってはそれが珍しい。これを作為的というのなら、ゲルギエフなんかどうなるのだ。三文芝居だ。

 ブーレーズ/フランス国立管弦楽団
 オーケストラのための4つの練習曲
 星の王
 管楽器のための交響曲
 説教、説話、祈り
 春の祭典
 
 1963年のライヴ録音。ステレオです。海賊です。

 これもむかしのブーレーズの面目躍如というか、なんともコメントのしようのないナイスな選曲です。初期から新古典、そして12音にハルサイと、ストラヴィンスキーの全ての時期が楽しめるプログラムは、よほどのストラヴィンスキーマニアでないと、組めません。

 それにしても、紹介文にもあったが、ブーレーズ先生、いったいどうしちゃったの? あのソニーの旧盤と同じ時期なのにこの乱れよう! 熱い、あまりに熱い! 崩壊寸前、というのはラスト数秒、アッ、アッ、アッ、危ない、危ない!! アッ……ピャッ、ドン!!
 
 その他の曲も、中身の詰まった、凝縮されたひびきがすばらしい。どの作風のものも、同じスタンスで、聴き応えがあった。星の王はシャイー盤を買い損ねているので貴重だ。献呈されたドビュッシーが演奏不可能と言った、なんともつかみ所の無い、不思議な作品で、膨大な編成のカンタータだが、時間は6分、リズムは不定でトゥッティも無しという奇妙さが楽しい。
 練習曲は中身は初期の弦楽四重奏等へオーケストレイション施したもの。管楽器のシンフォニーは高名だが、説教、説話、祈りは録音が少ない。そもそもストラヴィンスキーの12音はピアノと管弦楽のための楽章やレクィレム・カンティクルスがまあまああるほうで、ナッセンの12音オンリーアルバムは珍しいほう。
 ストラヴィンスキーの12音曲は音列の扱い(組み合わせ)が独特で、ハルサイの作者らしい完璧な計算の元、どこから聴いてもストラヴィンスキーの曲になっている。宗教作品が多い。
 12音技法で完璧に「個性」を出すというのは、至難だと思います。ストラヴィンスキーは天才だ。
 
 カラヤン/ベルリンフィルでハルサイ

 カラヤンは、シェーンベルクの大曲なんか易々と振るくせにハルサイが苦手だったという話を聞いた。なんでも、正規盤は、打楽器パートを別録りして、あとで重ねたとか? 本当なの? これは1977年のライヴ。海賊。

 たしかに、この重いリズム処理はカラヤンとは思えぬ棒だ。なんとかかんとか音楽を進めているというふうで、それが逆に異様な雰囲気につながっているといえば良いか。ブーレーズ以降の、現代的な指揮さばきに比べると。

 そもそもカラヤンのストラヴィンスキー観は独特で、さすがというか、3大バレエは意外にもハルサイだけ。あとはぜんぶ新古典主義。詩篇交響曲にアポロに弦楽のためのコンチェルト、交響曲ハ調。これで全て。そしてそれらの新古典のほうはカラヤンらしさ全快の、ズバズバ斬って捨てるような軽快で怪しい棒。ベルリンフィルも艶かしい。武満のいう、ストラヴィンスキーの「プロポーションがきちっとしているのにどこかデカダン」な雰囲気がよく出ている。カラヤンにしてみれば、ハルサイは「ストラヴィンスキーらしくない」とでも映ったのだろうか?

テンシュテット/北ドイツ放送響
 
 テンシュテットにストラヴィンスキーがあったとは……火の鳥の1919年版。いったいどんな火の鳥なんだ? 火事か? 溶鉱炉か?(笑)

 答えは火炎地獄でした。(燃)

 火の鳥自体が、安易な旋律を多用しているためか、オーケストレイションもまだ甘いためか、3大バレエの中ではやはりワンランク下がらざるをえないわけで、全曲流行りの昨今、これを音楽だけで40分1本勝負するというのはやはりキツイ。そのような訳で組曲なのだが、1919年版第2組曲はエンタテイメント音楽として充分。1曲1曲のコントラストを明確にして、情景を浮き彫りにしてゆくテンシュテットの技はやっぱりすごい。音楽のノリで流しがちなんですよ、この第2。冒頭の暗黒、火の鳥の優雅さ、王女たちのロマン、第2でここまで練っている演奏は、あんまり無いです。(録音は悪いがムラヴィンスキーが凄まじい)

 そしてカシチュイ……激しい、激しすぎる。ケツに火がついているぞ(笑)

 子守歌から終曲まで、文句無し。 


12/2〜12/12
 
 クレンペラー/バッハ、マタイ受難曲
 芥川/歌劇「ヒロシマのオルフェ」

 音楽関係でいつもお世話になっているFujiiさんIANISさんより、バッハのマタイ受難曲を薦められてしまった。しかも、指揮はクレンペラー!

 バッハは苦手だった上に、超神作マタイ。加えてクレンペラーの超演奏、はたして私などに理解できるのかと思いつつも、理解できないならできないなりに某か得るものはあるはずだ、とも思い、最新のart盤で買ってみた。3枚組、
約3時間40分。ウウム、オソロシイ。

 2つの観念からこのマタイを探ることができた。
 
 1つめ。

 分かりきっていたことだが、聖書もドイツ語も理解しない私にとって、この時間はまさに
拷問のような退屈なひとときだった。なんだってまあ、レティタティーボによる福音書記者の呪文のようなテノールが、脳をビリビリとマヒさせる。

 実は私は大学が「神を愛し、人を愛し、土を愛す」のプロテスタント系で、必須科目でキリスト教学もあったし、週に1回は礼拝で賛美歌を歌ってもいました。

 そんなわけで「教科書」の聖書にもそれなりに親しんでいたのですが、理解の範疇を超えた宗教だとしか思えなかった。心の底から私は異教徒なのだなあ。

 異教徒にはキッツイ音楽だぞ、これ。

 純粋に音楽的に見ても、長すぎる。エヴァンゲリストはぜんぶいらない。合唱の中には、ときどき、おうすごい、といったものがたくさんあったので、抜粋で充分かなあ。

 もともとコンサート音楽ではなく実用的な宗教音楽だと思うので、確かに敬虔な気持ちにはなったが、例えばブラームスのドイツ・レクイレムやストラヴィンスキーの宗教音楽の数々、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲、ヴェルディやフォーレのレクイレムと同じレベルにはならないはず。あくまで実用音楽な感じがします。

 昔の人は、聖書を読みながらジッと聴いていたのかなあ。バッハの死後は忘れられていたというのが、証拠だと思います。

 誰もこんな大曲、実用音楽として好きこのんで演奏しないって。

 いまの西洋の人らは、コンサートでどういう思いで聴いてるんだろう。絶対、寝ないのかな。ホントかな。日本人で寝ない人はよほどバッハが好きなのか、キリスト教の人なのか。分かりませんが……。
 
 もう1つの観念。

 私はヨーロッパ旅行へでかけた。

 世界遺産にも指定されている、バロック様式の荘厳な大聖堂を見学した。

 現地の人々は、いまでもそこでの礼拝を欠かさない。日常として、先祖代々から、そこにその大聖堂はある。

 私は異教徒だしただの観光客でもあるので、彼らの邪魔はしない。礼拝者の中には、黒人や東洋人も見られるのが、現代的な部分だろうか。私は、後ろからそっと礼拝の模様を見学して、少しだけ荘厳で敬虔な気分を味わう。

 でも、すぐに飽きて、20分ほどで次の場所へ出かけた。

 外より青い空と大聖堂の尖塔を見上げると、異文化というものへ何かしら触れたような気分の満足感と、充足感で、確かに、
満たされていた。
 
 芥川也寸志作曲、大江健三郎台本のオペラ「ヒロシマのオルフェ」のCDがでた。

 さっそく買う。

 そして、1994年だからもう8年も前になるのか、衛星放送でテレビ作品の「ヒロシマのオルフェ」をやったときの録画ビデオがあるのを思い出し、ビデオ入れのダンボールをひっかきまわしたら、出てきた。一回しか見ていない。難しかった記憶しかない。
 
 ヒロシマのオルフェは最初「暗い鏡」という題で、初演は1960年にラジオで放送初演。その後テレビ作品として1968年に放送され(当然白黒・モノ)、ザルツブルク・オペラコンクールで審査員特別賞(CDでは第1位となっている)をとったもの。

 いわゆる「ヒロシマ物」なのだが、テレビ作品はとにかくダークな印象しかなく、CDで、アレ、こんなに分かりやすかったかな、と意外に思った。それはステレオ録音であるし、歌詞も付いていたからだったのだが、これなら前にみたビデオ作品も、いまならよく分かるにちがいないと思い、観てみた。

 難しかった(笑)

 白黒で、60年代当時のいわゆる前衛映像。だけど登場人物の風俗はやたらにレトロと、奇妙なミスマッチが、私を困惑させた。また、未熟な録音技術が、芥川の管弦楽をぼやかしているし、歌唱も、発音がよく分からないのだった。

 映像としては、白黒作品が、異様なまでに包帯を白く浮き出たせて、不気味なまでだった。その効果はすごかった。

 ただ、死の国の運転手が、「軍服を着てナチスのようだ!」 というわりには、仮面ライダーの敵軍団のごとき(当時は未来的な?)もので、笑ってしまった。時代のギャップというものだろうか。

 手術のシーンはブラック・ジャックそのままで、やはり時代を感じさせた。

 せっかく劇場の方で復活したのだから、映像作品としてもリメイクする価値はあるのではないか。それが素直な感想だった。

 とにかく、芥川の音楽よりも私は大江の台本のほうが衝撃が大きかった。芥川も、実はこのような前衛作品は得意なのだった。


 11/20〜12/11

 インバル・ベルティーニ マーラー全集完全比較考察(後半戦)

第6交響曲

 ベルティーニの一家言ある演奏は、同曲より全集を始めていることから、気合の入りようが分かるというモノだ。しかもマーラー初演奏まで6番なのだそう。特別、派手な解釈ではないので、同曲に特に思い入れのある私などは、パッと聴いただけでは 「なんだ、たいしたことねえな」 などと思ってしまいがちだが(思ってました)おちついて何回も聴くと、その良さが分かる。フレーズの1つ1つにこだわる方法はインバルに通じる。それが感情的にも聴こえるし、客観的にも聴こえるのが面白い。ベルティーニの独特のフレーズまわしが、6番とよくマッチしている。3楽章の美しさも相変わらず、4楽章の迫力は、他曲のベルティーニからは想像がつかない。(つきませんでした)

 ハンマーはそれほど大きくないが、鋭く、刺さり込む。ベルティーニはこのハンマーを「原爆かギロチンか……とにかく何かを無条理に終わらせてしまうもの」と解釈している。
 
 インバルも、前に聴いたときより印象がちがい、あらためて人の耳など当てにならんなあ、と感じ入った。私だけでしょうか。

 冷静な分析型なのは変わらずだが、アッと驚くヒステリックな響きが飛び込んでくる。これはもちろん楽譜がそうなっているからなのだが、インバルの目のつけどころも注目したい。インバルでしか聴こえない部分もあるので。特に1・2楽章の練りに練られた表現は遅めのテンポも相まってチェリビダッケがマーラーを演奏したらこうなるのではないか、と思ってしまう。3楽章はちょっと普通に聴こえてしまうが、4楽章になると熱気が帰る。ハンマーは爆発音みたい。爆発してもなあ……(笑) 3回目はでも、ちゃんと死んでしまいます。
 
 インバル ★4つ→5つ
 ベルティーニ ★5つ

第7交響曲
 
 ヒステリックなところはよりヒステリックに、感傷的なところはより感傷的に……と、音楽の流れがそのまま感情の流れとなり、雄大な自然から友人とのケンカまでいっしょくたに表現されているのがベルティーニ。彼はこの音楽を「愛の歌」だという。明確なヴィジョンをもって演奏するとこの複雑な難曲も素直に我々へ迫ってくる。それは観念性の問題であり、マクロなものだと思う。バーンスタインやテンシュテットなど、7番を名曲として演奏している人々の大体が、このマクロな観念の問題より取り組んで、表現に成功している。1楽章から、見事に5楽章に帰結する演奏は、7番の表現としては、正しい方向だと思う。
 
 それとは逆に、ミクロな視点で細部を穿つ表現もアリだ。7番はブーレーズが春の祭典で培った分析方法でリズムや和声の構造性を解き明かしているが、存外、つまらない。インバルはそれを面白くやってしまったところに価値がある。まるでパズルのような音楽、と7番の通は云う。だまし絵や、隠し絵みたいな面白さ。1楽章から全体にわたって常に唱え続けられる呪文のようなフレーズ、リズム。多重に隠され、種種の楽器に姿を変え、入れ代わり立ち代わり我々の前へ現れる。それへ気づいた人、その面白さを発見した人にとって、7番など難解でもなんでもない。ブーレーズが失敗した手法でなぜインバルは成功したのか。それはいくらパズルのような音楽だからとて、同時に(これ大事、同時に)マーラーの音楽であるということを、忘れなかったからなのではないか。それを忘れない人だけが「マーラー指揮者」の称号を与えられる。
 
 うーん、くだらない評論家のような文面になってしまいました。反省。

 インバル ★5つ
 ベルティーニ ★5つ
      
第8交響曲
 
 とんでもない! プレイヤーの再生を押したとたん、ひっくり返らんばかりの驚きに襲われた。この合唱の圧力! 管弦楽の輝き! この光の推進力こそ、すべてを肯定する第8交響曲を理解する源となる。ベルティーニの演奏は東京でのライヴで、特に気合が入っている。集中力は錐先のごとし、壮大さは宇宙のごとし、演奏者の没入度は集団としての人間の垣根をとっぱらってしまい、1つに融けあってしまった。これはまさしくインパクトなものだ。

 最初から最後まで、空前絶後の演奏の1つ。文句なし。8番の大傑作の1つ。

 比べてどうにもインバルはスケールが小さい。スタジオ録音なのもあるのだろうし、デンオンのビビッドな音質にもあるだろう。なにより、インバルの分裂を解析する手法は声楽に出会うととたんに魅力が減ずる。マーラーの「歌」の線がわりと単純で、管弦楽ほど多重構造にもなっていなく、勝負しづらいのかもしれない。
 
 インバル ★3つ
 ベルティーニ 
 でました気絶級2つ目です!
        
大地の歌
 
 ベルティーニの大地の歌は心底、すんごいと思う。あんまりそんな調子の文章は読んだことは無いが、どういうわけだ。悠久さと調和、なにより美しさにおいて他に比肩するものはない。唯一、クレンペラーが悠久さで匹敵する。ワルターもたいへんに美しいが、悠久さでは負ける。色々と毒々しいという意味では、ワルターも良いが。(そして毒といえばテンシュテット)

 大地の白眉はやっぱり6楽章でしょう。全体の半分を占める長大な悠久の時の流れ、人の感情、別れと死であるが、悠久さというのは中国の独特の味だ。大地も大河も、人間の想像の範囲を超えた悠久さで、そこに生きる人々の歴史も日本なんかとは比べ物にならぬほど悠久なのだ。

 またベルティーニの耽美を究めた表現は忘我する。この美しさに心を動かされない人が、マーラーの何を聴いているのかふしぎでたまらん。聴こえているのが私とはきっと違うとしか思えない。

 インバルさん頑張ってますが、相手が悪い悪すぎる。インバルはむしろ、無理して全集を作る必要はなかったのではないか、とさえ思う。ライヴだったらまたちがうのかなあ。

 とはいっても、それはベルティーニと比べてであって、レベル自体はけっこう高い。何か宝石の原石のような原始的な美がある。また無垢・無心の境地に達した彫刻品か。迫力も充分。そのような解釈が情緒的な2・4楽章にあってはやや魅力に欠ける(分かった、インバルさんもしかして「女性的なるもの」が苦手?)が、6楽章の響きは真空のような無機的な闇がかいま見えて面白い。この解釈は、9番で成功している。

 大地の歌はですね、非常に難しい曲です。CDも他曲に比べてあまり無いし(8番よりはあるかもしれませんが)あっても滅多にこれはすごい、というのには当たりません。

 この二人の「大地」があるのは、神様からの贈り物としか思えません。
 
 インバル ★4つ
 ベルティーニ ★5つ

第9交響曲

 9番は、インバルの手法が光っている。やっぱりインバルは曲によって合う合わないがあると思う。そこは、分裂さより全体としての調和と美しさを究めているベルティーニの手法は「普遍性がある」ということなのだろう。

 インバルの分析術をもってしても、楽譜の空白はどうしようもない。インバルのやり方はデワールトやバーンスタインに通じる、意外に自己の味付けが濃いもので、そこがまた価値がある。むしろベルティーニの方が、指示の無い譜面に忠実。

 ベルティーニの耽美的な表現は極致を究めた。すべての楽章が純朴で透明な美に彩られている。

 インバルの芯の太いアダージョは胸に迫る。客観的であるとはいえ、この強い悲壮感のある悲しさというものが、そのまま10番(1楽章、クック版とも)にも通じていて、インバルの後期交響曲に対する考え方を表している。これは独特のものだ。

 インバル ★5つ
 ベルティーニ ★5つ
 

第10交響曲

 クック版はインバルしか演奏していない。全集版の1楽章のみでは、9番と同じ比較検討内容になるので、割愛します。
  
 いかがでしたでしょうか。結論から言うと星の数では完全にベルティーニが勝利しましたが、単純に私の好みの問題なのでインバルがダメだというわけではもちろんないです。2人には良い意味でまったく正反対なマーラー解釈があり、両方とも、マーラーのすばらしさを分からせてくれる画期的なものです。だから2人が一時代を築く重要なマーラー指揮者として認識されているのだと思います。

 この2人(の世代)以降は、どのような指揮者がどのようにマーラーを演奏してくれるのでしょうか? 目下、筆頭なのがシャイーとラトルでしょうか。しかし私は、ラトルのマーラーに感動したためしがありません。いや、他の演奏にも無いのですが(笑)

 BPOとの5番も買ったけどまた聴いてないし、ザンダーの妙な6番やテンシュテットの4番(海賊)、ハイティンクがフランスのオケを振った6番なども興味はつきませんが、その前に、マーラーからちょっと離れて、ストラヴィンスキーに凝ってみようかと。

 サロネンの8枚組み作品集に、珍しいフルトヴェングラーの演奏。それにマルケヴィチのハルサイ爆演を聴きます。

 ストラヴィンスキー漬、スタートです。(他のもあります。バッハのマタイ受難曲、クレンペラーで挑戦中!)


10/27〜11/24

 いろいろ忙しくって、のびのびになってしまいました。

 マーラー漬
 
 インバル・ベルティーニ マーラー全集完全比較考察(前半戦)
 
 なぜこの2人を比較するかというと、同時代のもっともすぐれたマーラー指揮者であり、2人ともその方向性はまったく異なり、比較考察することによって我々はもっとマーラーの魅力を知ることができると思うからだ。
 
 まず全体の特徴から比較してみよう。
 
 インバルは(デンオンの録音のせいもあるが)硬質なノミで岩石をカッティングしたような、宝石のような、キラメキともいえる魅力がある。輝いているにしても、鋭い無機的な光であり、彫刻的な削って創生する音楽だ。五線譜の上から下まで、スコアの音の1つ1つがクッキリと記号から音楽へ変換され、オーケストレイションは3Dモザイクのように完全に組み合わされたものとなって表されている。もしくは超精密なパーツを何百と組み合わせてできたプラスチック・モデルを鑑賞しているようだ。(これを作曲でやったのがストラヴィンスキー)
     
 ベルティーニは(ライヴ録音含む)柔軟な自在ヘラで丹念に練り上げた上等のクリームケーキのような魅力があり、ヴォリュームは満点ながらあくまでとろけるような甘さと微笑みが約束されている。光り輝いているのは木漏れ日であり水面の反射、楽譜やオーケストラなどのさまざまな材料が、名シェフの手にかかってすばらしい逸品に仕上がっているような、料理的な有機的創造の音楽をたのしめる。また味付けはただ甘いだけではなく、ショックや美的感覚、熱い盛り上がり、さらには透明な無常観も忘れずに付け加えられている。焼き上がったばかりの魔法のケーキを前にした満足感と期待感。
 
 そんな特徴をふまえて、1番から順に比較してみましょう。 (5番でいったん区切ります)
  
第1交響曲

 インバルは、前に聴いたときよりずっと多くの発見があり、自分でも驚いた。インバルの音楽はこういう効果がある。3楽章、4楽章とも、楽譜の深いところが突然浮き上がって、印象的だ。ベルティーニは、一貫したストーリーのようなものに全体的に支えられたもの、インバルをパーツごとの楽しさとすると、大きな一体となった楽しさを観ることができる。

 冒頭から、暁闇に夜明けが刺すようなインバルと、森暗をゆっくりと溶かす木漏れ日のベルティーニ。しかしベルティーニの録音がただ単に柔らかいというだけではない。この柔らかさは発音の柔らかさで、ふにゃふにゃした音楽という意味ではない。インバルの硬さはフレージングの硬さだと思う。

 1楽章は単純なもので、夜明けの緊張感と甘い歌謡的な旋律にひたっているうちに盛り上がって終わってしまう。(それにしては16分前後と長いのだが)

 どこに重点を置くかは、けっこう難しいのではないか。もちろん、最も盛り上がるのはコーダだろうけど……。

 さしもの2人も効果はちがえどアプローチの仕方にはさして差は無かった。どちらかといえばインバルの方が金管が大きく吠えてい、ベルティーニは弦が主体だった。その程度だった。

 2楽章は、明確な差が出た。機械のようなインバルに家内製手工業のようなベルティーニ……は、別に1番に限らず全交響曲に言えることだが、特にスケルツォ楽章はインバルは自動演奏的で(手回しオルガン?)、ベルティーニは酒場のダンスだ。テンポはベルティーニの方が速い。ただしトリオはふつう。その楽想の差の妙を出しているのだ。

 3楽章はインバルは不気味さを、ベルティーニはうらぶれたユーモアさをよく表現している。裏の旋律を際立たせるインバルと、エキセントリックな効果や絶妙な節回しを駆使するベルティーニが、それを表している。インバルは本当に墓場を歩いているようだし、ベルティーニは趣味の悪い仮想行列とでもいえばよいか。

 4楽章は、この曲の聞かせ所で、音楽自体はたいしたことないのでさらに難しい。急緩急緩急の5部構成を区別して構造をカチッ、カチッと視覚的にみせるのがインバル。ベルティーニは4楽章全体をひとつの塊としてとらえているような気がした。私は、インバルの方が、分かりやすいのではないか(初心者が飽きないのではないか)と思う。

 よりマニアックな解釈がインバルで、ベルティーニの方が番人向けなのではないだろうか。演奏としては、後者の方が迫力があった。ライヴだからか、どうか。

  インバル   ★3つ→4つへ訂正
  ベルティーニ ★5つ

第2交響曲

 第1楽章は両者とも甲乙つけがたいです。よりスリリングなのはインバル。よりドラマティックなのはベルティーニ。両方ともちゃんと[句切り]を、思い切り区切っているのが嬉しかったし、インバルはクレンペラー流に区切りの後まで続けて区切っている。私はその表現が大変に好きなので、個人的な好みでインバルにしておきたい。

 しかし2楽章以降では、ベルティーニに軍配が上がるような気がする。インバルも悪くないのだけれども……スケールが小さくなっている感があったのだ。あくまでベルティーニに比べて、ですが。インバルのシャープなキレが、そうさせているのかもしれない。

 だが、好みの差もあるので、いちおう両者引き分けにしておきたい。

 インバル ★4つ
 ベルティーニ ★4つ
 別に5つでもいいんですけどね。4.7ぐらい。みんな5じゃなあ……というだけなんです。はい。全体のレベルが高すぎて、何を基準にするかというのが非常に難しい。ぜいたくな悩みです。また2番は録音が多く、しかも他にすばらしい演奏がありすぎるのも災いしている。


第3交響曲
 これはもう完全にベルティーニ。この1楽章からの縦横自在なドラマはどうだ!!
 インバルも本当にすばらしい、いままでにないタイプの解析型解釈なのだが、ベルティーニは楽譜の再現のみならず、そこに再創造が現れている。それはインバルの再創造よりはるかに大きく、有機的で、自然だ。ベルティーニに比べたら、かのアバド/ベルリンフィル盤ですら、作為的になってしまう。
 まさに、たくさんの食材を駆使して芸術的な料理を仕上げる超名シェフといえる。フランスで指揮者をシェフというようだが、まったくもってその通り。
 とにかく自然体で、しかし、創造にみなぎっている。
 楽譜の細かいところを思い切って強調しているのも面白い。テンポや表現は悠然として隙がなく、歌唱も堂々として大交響曲を彩っている。
 白眉の6楽章は、同指揮者の大地の歌や9番に通じる悠久の響きがして、たまらない。
こんな3番はめったに聴けない。総合点で、私にはアバドを超えて聴こえた。

 インバル ★5つ
 ベルティーニ 
 出ました気絶級。
   
 
第4交響曲

 4番をちゃんと聴けるようになったのは実はかなり新しい。聴けるというとえらそうだが、ネックは3楽章だった。とにかく長くて、実演でも寝かけてしまった。

 情緒的な演奏では、特にこの3楽章に妙な力が入ってしまって、よけい間延びしてしまうようだ。他の楽章は情緒的なアプローチで通じるけど、3楽章は、息の長さが邪魔をして、冗長に聞こえる嫌いがあると思う。

 それを救ってくれたのは廉価版で買ったクレンペラーだった。1楽章は悠然とし、鈴が厭味や奇をてらっているように聞こえなかった。2楽章も不気味さが際立っていたし、3楽章はマーラーが唯一残した変奏曲なのだということを認識させてくれた。メロディーもすばらしい。4楽章はたいていの演奏でもよく聞こえる歌曲(佳曲)。

 4番はどちらかというと分析系の演奏が現代的で聴きやすいように思える。

 そういうわけでインバルの4番はこれがすばらしい。無駄のない、透明感にあふれた美しさ。美の中にあるマーラー特有のブラックさも、如実に現れている。

 ベルティーニはというと、これが(あえていうなら)バーンスタインとインバルの中間だろうか。独特の艶やかさがあるし、エキセントリックな表現もあるが、それへ溺れていない。ちゃんと計算されている。これもすばらしい。やっぱりこの2人は特別だなあ。

 特にベルティーニは後に紹介する大地の歌や9番において、陶酔的なまでに美しいアダージョ楽章を聴かせてくれるのだが、この3楽章も、弦といい木管といい、メロディーラインの歌わせ方を心得ているというか、ドラマを分かっているというか……マーラーファンの心に染み入るにくい演出が随所に光っている。

 インバル ★5つ
 ベルティーニ ★5つ

第5番交響曲

 5番は現代オーケストラの試金石というか、まず演奏が難しい。ただ、6番や9番のような「朗々たる鳴らし方」をしなくてすむので、技術的に勝負しやすいのではないか。あと高名な4楽章のせいもあり、やたらと録音の数が多い。

 かといって、どれもこれもファンの心を癒すかといえば、そうでもない。

 聴けば聴くほど謎が現れ、欲求不満が出てくる。出てこない人は、マーラーにそこまで心のそこから満足するモノを求めていない人だと思う。

 意外やインバルの5番がつまらない。何がつまらないのか、よく自分でもわからないのだが、まじめに演奏しすぎているのだろうか。それとも、インバルの明晰な分析解釈が、5番に合わないのか。2楽章まで(つまり第1部)はとてもすばらしい。ここだけだと完全に★5つ。それも、限りなく☆に近い。だが3楽章からガックリと価値が下がっている。特に3楽章で、ドタドタと音符に追いかけられている。

 そう、3楽章はこの曲の鬼門だ。

 ベルティーニは、さすがにマーラー演奏者として分かっているなあと唸るのは、5番からの「中期交響曲」と呼ばれる諸曲の特徴をズバリととらえて、4番までとはちがったアタックの仕方でファンを満足させている。これ、3番や4番と同じ指揮者なのだろうか?

 冒頭からの深刻さ、激しさは、これぞ5番! テンシュテット級ではあるまいか。

 しかし旋律の上手な歌わせ方は、ベルティーニなんだなあ。と感心。

 2楽章のドラマ(ソナタ形式)も充分。

 そして3楽章。17分だと速くも遅くもなく、中間だろうか。ワルツと2つのトリオが交錯して展開してゆくという複雑怪奇なスケルツォ。料理のしがいがあるというものだ。

 熱演しているなあ。トリオの描きわけも良いですし、なんかすごい熱演だ(笑) 粘るフレージングとさっそうたるテンポが同居しているっていうのは、けっこう、凄いと思います。

 4・5楽章もいうことなし。
 
 インバル ★3つ(他のインバルの諸演奏に比べて)
 ベルティーニ ★5つ(☆にかぎりなく近い。ライヴだったらたぶん☆)


10/24〜26
 
 またマーラーの合間の気分転換でショスタコーヴィチ。(笑)

 こんなんで本当に気分転換になるのか!?
 
 なるから恐い。
 
 さて、今回はしかも4番3種だ。先日のバルシャイを聴いていてもつくづく思ったのですが、さしものバルシャイといえども4番は完全には表現しきれていなかったような気がした。4番は表現がすばらしく難しいのではないか。7番や10番よりも。なぜなら、他の交響曲のようなドラマ性が少なく、歌も無く、内容的にはもっとも純粋音楽的でありつつ、6番のような明確な構成上の突出性もない。巨大でスリリングな1楽章、コンパクトでユーモアな2楽章、迷走する3楽章。どう演奏すればもっとも効果的なのか!?

 インバル/ヴィーン交響楽団

 クレンペラーの時代よりヴィーンのオケでありながら現代物を得意とし、ドライでガリガリした音を出していたヴィーン響。それがインバルの手にかかれば、ショスタコの4番などさぞや岩センベイのような硬質な音楽になるだろうと思ったらそれ以上だった。
 いやしかしダメだ。なにがダメなんだか分からない。痩せ過ぎた響きが曲を小さくしているのだろうか。表現としてもふつうなのだろう。それは次のを聴けば分かったような気がした。
 
 ロジェストヴェンスキー/ヴィーンフィルハーモニー管弦楽団 L1968

 同じヴィーンなのにどうしてこんなに差があるのか、聞く方が野暮ッてものなのだろうか。ヴィーンフィルのこのうまさ! 録音が悪いのが惜しまれるが、それにしても迫力が断然ちがう! 弦の音圧がすさまじい。打楽器の打ち方がもう狂気。管楽器の咆哮は抑圧された魂の叫びだ。ライヴだからもあるでしょうが、これは指揮者の差だろうなあ。

 そして気がついたのは、4番は1つ1つの楽想が、かなりバラバラで、それを平均化するよりむしろ強調した方が飽きない。個人的な聴き方だが、ロシア流の「もっさり」した演奏のほうが面白い。しかしだからといってショスタコーヴィチなわけだから、スリリングさが消えてはうまくない。

 ロジェヴェンはかなりうまい。録音がよければ、☆気絶級。最後はヴィーンの客、怒濤の拍手。さもありなん。
 
 というわけでさらに

 ロジェストヴェンスキー/ボリショイ劇場管弦楽団 L1981

 ああ、ロシアー!

 ヴィーンフィルのような特別で独特なうまさはないが、それでも充分うまい。しかも録音が良い。これ大事。ロジェヴェンの演奏を聴くと、4番がいかに混乱した音楽か分かる。そのような解釈なのだ。なぜショスタコーヴィチは5番の前にこんな混乱したような曲を書いたのか、書く必要があったのかどうか、それはまったく分からないので、混乱した、という表現はおかしいのかもしれないが、私はそう聴こえる。混乱が悪ければ混沌か。

 特に1楽章は、怯えた箇所、怒った箇所、わざとおどけた箇所、狂った箇所、次から次だ。マーラーよりひどい。若いショスタコーヴィチは何を言いたかったのか。弦楽四重奏がまだ書かれていない時期の、真の心の声だと思う。それともただの分裂症か。オーケストレイションも天才。感情だけで作曲できるほど作曲って生やさしいものではないはずなので、やはりあるていど計算された混沌と狂気だろう。管楽器よりむしろ打楽器の迫力がものをいう。

 2楽章の表現では中間部のティンパニがいきなり大きくて驚かされる。こういう演出は、曲の難解さを解くためには重要なのではないか。かなり効果的で、ロジェヴェン以外、こんな叩きかたをさせているのはしらない。

 3楽章は1楽章にましてバラバラで、じっくりとその楽想を順番にしかも強調して演奏してゆくと、遊園地で迷子になった気分だ。もしくは不思議な異次元サーカスか。

 テンパニの大連打(しかもあまり書法的に効果的ではない。わざとだろうが)で眼がさめて(もしくは扉が開いて)気がついたら虚無の世界でポツンポツンと星が砕けるのを凝と聴いている。

 こんな想像をさせてくれるのは、ロジェヴェンしかない。 結論:4番はロジェヴェン。(次点でコンドラーシンかなあ)                                                                                    


10/13〜10/23
 
 マーラー漬(第1章)
 
 エド・デワールト/オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団によるマーラー全集

 (大地の歌が無いから、私にしてみれば撰集だが……)

 (またオランダ人の名前には、はずしてはいけない定冠詞があるということなので、この人もワールトではなくたぶんデワールトだと思うので、私はこう呼びます。吹奏楽でも、作曲家でヨハン・デメイとか、ヤン・ヴァンデルローストとか、ヤン・デハーンとかがいて、メイでもローストでもハーンでもないのです。だからオランダ系のベートーヴェンも実はヴァンベートーヴェンだが、こちらは代々ドイツにいる内に外れたと考えられる)
 
 とにかくこれはレベルが高い!

 デワールトもどちらかというとパッとしない指揮者だったし、オケもどこですか!? っていうところ。注目されないのは仕方がないとして、1回ぐらい聞けば、この凄さは嫌でも分かるだろうに!!
 
第1交響曲

 1番は難しいんですよ。聴かせ所がとらえにくいというか、鳴り物音楽の一種と思われがちというか……。

 鳴らせ方が非常にうまい。旋律の強調といい、強弱のつけ方といい、この1番は本当にレベルが高い。推薦! 特に瞠目したいのが4楽章。飽きさせない。急緩急緩急の構成が自在に流れている。

 4楽章のうまい1番は、本当にうまい1番だと思います。

 もちろん1.2.3楽章も、よい雰囲気。1楽章なんか、実はたいしたことない音楽で、カッコーカッコーいいながら、序章と提示部で10分ぐらいかかる。残り5〜6分で展開部とラストという非常にアンバランスな楽章だったりする。

 デワールトはしかし、1楽章自体が全体の序章という構成なのではないか、と気付かせてくれた。最初の全体構成は5楽章制だったし、それってマーラーの交響曲の常套手段ですのでね。
 とにかくこの1番はすばらしい。新しい発見がたくさんあります。
 
第2交響曲 

 1楽章がよいですなあ! この1楽章だけで推薦できる。クレンペラーに似ているかも。全体としても惰性に陥ることなく、スタジオなのに異様な緊張感、盛り上がり、これもすばらしい。バランスもよくとれていおり、どの楽章も安定した完成度に聞えます。

 5楽章もいいなあ。冒頭の怒濤、中間部の諧謔さ、合唱が入ってからの神秘さ、荘厳さ、それらへ常に入り交じる通俗さ、すべて2番を聴く醍醐味ですよね。

 ベートーヴェンとかブルックナーなどに比べてマーラーの人間臭さを弱点のようにいう人がいるが、それが魅力なのに、と強く思う。

 マーラーの音楽はすべて人間讃歌、愛讃歌だと思います。

 生きているからこそ死を想う。生きているからこそ愛を想う。生きているからこそ、地上とそこに生きる人間を想うのではないでしょうか。
 
第3交響曲

 アバド/ベルリンフィルの3番を聴いてからは、さすがにちょっとやそっとの演奏では驚かなくなってしまった。デワールトによる堅実で華麗、木訥でほのぼのとした解釈はかなり正統派。曲自体が、1番や2番に比べるとおとなしい印象ですのでね。

 オケもですね、うまいんですよ。超はつかないが1流の上だ。しかも、6楽章に到って急に刺激的となったのは嬉しかった。旋律のひとつひとつがグッとこちらに迫ってくるような迫力だった。そうなると最後は素直に感動してしまう。4楽章のソロも、力強い歌い方で良かった。

 だが私は、1.2.3.5楽章が少し弱い印象をうけた。6楽章につながる伏線なのかもしれない。3楽章はこの曲でいちばん苦手な部分で、ダラダラやられると具合が悪くなる。デワールトの演奏はなかなかしまっていたが、テンポもちょっと早めで、逆におとなしすぎるかもしれない。
 
第4交響曲

 3番がうまいと4番もうまいのは連続しているからだろうか。これも超正統派。インバルやテンシュテットのようにピリッと刺激が効いているタイプではなく、安心して旋律に浸れるもの。また、私が常々言っているが、この交響曲の白眉である3楽章が異様に気合が入っているのは、かなり嬉しい。同じ考え(と勝手に思っている)の人がちゃんといるとはなあ!(しかもマエストロに)

 4楽章の歌唱もずいぶんはりきって歌っている。

 冒頭の鈴とフールトのズレって意識してやっているのかな?

 2楽章はおとなしい印象。

 全体的に正統派グループの中でもかなりレベルは上。しかし4楽章のソロには疑問をもつ人がいるかもしれない。天国を歌っているのに、ドラマティックすぎるかもしれない。

 しかし、歌については私はけっこう甘く、歌い方がどうとか音程がどうとか、門外でもあるし、よく分からないのだ。わたし的には推薦盤に入れておきたい。が、どうしても聴け! というほどの超推薦ではない……。 (マーラー漬が終わったら 九鬼 蛍コレクション選 マーラー交響曲ベスト3〜5 なるものを作ってみたい)

第5交響曲

 さて、ここからマーラーの音楽はガラリと印象が変わってきます。

 5番は良くも悪くも名曲で、聴くこっちも身構えてしまう。

 うおッ、こりゃあイイ! 1楽章からイイ! 伸びやかなトランペットが胸をうつ。上手だ、思わず手に汗にぎる! 顕現も嘆きも、不自然さはなく、かといってドラマは充分、うまい。1楽章が序章で、2楽章が本当の1楽章に相当。とはいえ、1.2楽章は連続して1部となり、切っても離せぬ構成になっている。2楽章はテンポはゆっくりめで、生と死のドラマを器楽で描ききっている。完璧だ。

 いやまておちつけ、ここまで良くとも3楽章からぽしゃる演奏は多い。3楽章は5番の鬼門なのだ。

 この楽章がどうしてこう分かりづらいのかというと、ただ長いだけなのではなく、スケルツォのくせにワルツであり、ワルツのくせにソナタ形式という……良く言えば画期的、悪く言えば意味不明……ああもう、マーラー先生ったら!

 スケルツォ楽章は3/4拍子の早い踊りのような部分で、交響曲ではベートーヴェンが確立し、同時期に同じ3/4なのでいっそワルツにしてしまえというアイデアはベルリオーズに始まり、チャイコフスキーも採用。マーラーはその両方をいただきつつ、オリジナルでソナタ形式を盛り込んでしまった。

 だいたい最も単純で スケルツォ−トリオ−スケルツォ という3部形式で、速い−ゆっくり−速い となる。リピート記号が複雑について、何回も繰り返す場合が多い。

 (例えば上の単純な3部形式でも スケルツォ−トリオ−スケルツォ−トリオ−トリオ−スケルツォ−トリオ−スケルツォ−コーダ のように)

 だから2〜3分で終わってしまうような楽譜のわりに演奏時間は長い。たいてい10分前後。

 この5番の3楽章はトリオが第1トリオ・第2トリオと2種類もあり、しかも全体にワルツを採用している。さらにそれが繰り返しながらソナタ形式で発展してゆくという複雑さ。時間にして15分〜18分。

 なかなか分からんよ。構造が分からないとどうしても聞き流しがちになり、そうなるとスケルツォ=ワルツだけで18分は絶対長い長すぎる。クレンペラーも3楽章が長すぎるのを嫌っていた。

 デワールトは気合は入っているがふつうだった。やっぱりって感じ。まあ、ふつうはふつうなんですけどね(笑) ふつうじゃないのは、テンシュテットぐらいか?

 4楽章と5楽章は音楽の出来自体がいいので、特に意識しなくとも美しくなるし盛り上がる。でも美しいなあ。3番の6楽章があんなに良かったのでちょっと期待したが、やっぱりよい。こういう音楽が得意なのかなあ。

 5楽章は盛り上がりも上々、テンポはゆっくりめ。ロンド形式ってのが、構成上も演奏上も、きっとミソなんだろうなあ。(これも地味に、ロンド形式なのに、ソナタ形式を内実しているという……マーラー先生はりきりすぎ)
 
第6交響曲

 6番は先日、バラで買ってしまった。今回も、実は全集を買うつもりはなかったが、全集輸入盤で6870円。バラ国内盤で2枚組2400円。2番、8番、9番を買ったらもう全集を買った方が安いという……。

 従って全集を買ってしまいました。買って大正解でしたが。

 6番は前に書いたものと本質的には同じです。

 ここでいきなりけっこう中庸な指揮になるが、中で熱く燃えるものを見逃して……いや聴き逃してはいない。6番を気合入れて歯を食いしばって演奏するのは良いが、途中で暴走したり力つきたりするのではいただけない。まさに命懸けの演奏になろう。テンシュテット以外にそんな演奏知らない。

 無理しなくても、ただの音楽なのだから、良いのだ。

 それで落ち着いて冷静に指揮しても、ただそれだけではこの曲は息をしないのだからこれまた厄介だ。80分間全体を構成的に把握する頭脳と、複雑なスコアをピシリと合わせる技術、怒濤の音響をコントロールする耳、マーラーの込めた意味意図を汲み取る共感、それを表現する芸術性、すべてがそろうのは至難だと思います。

 ワルターもクレンペラーも、この曲には手を出していない。弟子や取り巻きの中では、ヴェーベルンが得意だったらしい。ミトロプーロスやシェルヘンに始まり、ホーレンシュタイン、バーンスタインあたりで市民権を得た。

 前置きが長いですね。聴きましょうか。

 1楽章は全体として特に奇をてらったものではないが、中にため込んでいるパワーがすごい。fの1つ1つがグッグッと迫ってくる。2楽章も傾向としては同じだ。CD2枚組はどうしても音楽が中断される嫌いがあるが、年寄り指揮者の一休みとでも思えばいい(?) 3楽章は気分を変えて牧歌的雰囲気を強調。3・4番の系統がこんなところにもあったとは! とけっこう新鮮。対旋律が美しい。

 4楽章が同曲の白眉だ。そしてハンマー(しつこいですね:笑)。

 大きく分けると序奏・第1主題(弦)・第2主題(ホルン)・展開部1・展開部2・展開部3・コーダになる。それぞれの展開部の最後にハンマーがくる仕掛け。再現部がカットされているのは、ブルックナーあたりもそうらしく、当時のソナタ形式としての発展の結果であるらしい。またブルックナーなどは第3主題まであるが、マーラーではそういうのは無い。

 序奏より、それぞれの楽器が話しかけているように響く。うまいなあ。展開部もよく把握されていると感じます。盛り上がるのは良いがブチ切れるのではなく、ピシッと演奏に押さえが効いているのが頼もしい。またこの熱気! 推進力! 気合! 緊張感! ハンマーも迫力がある。タメやミエも、無いようで地味にしかも充分にある。そして、悲しみや憤り、無常までもある。そしてライヴでも音がいい! 推薦。
 
第7交響曲

 7番はさしもの私も長く理解不能な音楽であったが、いつだったか、「これはもしかしてベートーベンの7番と同じく1つリズムを機軸として発展してゆくパズルのような音楽なのではないか!?」 と思ったら、とたんに愛着がわいてしまった。

 そんなわけで、私が7番を聴き理解する根拠というか、よりどころとして、リズム処理がうまい演奏、というのがある。うまい、というのは、例えばタンタタのリズムひとつにしても、生き生きと跳ねるように演奏するか、ただタンタターと楽器を鳴らしているか。

 どっちが聴いてて楽しいか誰でも分かる。

 全体として一貫した構成的な面白さに、旋律と共にこのリズムが含まれている。7番はバラバラな表をしているが実は中で一体となっている(その意味で)複雑怪奇な音楽で、だまし絵のようだという人もいる。

 それを意識していると思われる演奏は、やはり価値は高いし、聴いていて面白い。

 デワールトも、もちろん分かっているようだ。この全集を順番に聴いてゆくとイヤでも気づく。たいしたもんだ。

 また録音もいい。ホールで直に聴くのがもちろんいちばんいいのだけれど、我々素人で庶民のただのファンは、おいそれと音楽を聴くだけにオランダまで行ってられん。

 (日本のオケじゃマーラーの6番7番9番など、どこまでできるか不安)

 なんかここまでくると語るべき事柄はあまり無くなってきた。聴けば分かる。そんな感じだ。特に1楽章、2楽章、4楽章が良かった。どの楽章もドタバタしているわけではなく、押さえたり前にだしたりとメリハリが効いているのは、5.6番と共にデワールトの器楽3部作のポリシーなのだろうか。
  
第8交響曲

 歌唱が入ると、聴きやすくなるし、オケだけより表現の幅がひろがるから、実は勝負しやすいのではないか。2番なんかも、ふつうの演奏でも充分に感動する。もっとも、マーラーのスコアがそのようにしっかりとできているから、なのだが。

 録音が急にソフトになった。空間的な広がりを強調しているのか、単にもっと広い場所で録音したのか。たぶん後者だろうと思うが。(どうしても編成の関係で音響が広がる)

 しかし広すぎるなあ。よくブレンドされてとってもきれいだけど、モヤモヤしてる。アインザッツもずれてるし。レコードとして聴くにはどうなのだろう。

 1部をハズす指揮者はマーラーなんか最初からむいていない。問題は2部でしょう。

 しっかりとした指揮で、よく全体をまとめてあり、とても聴きやすかった。 

 しかし、歌唱もオーケストラも非常に上手でしたが、このまえショルティを聴いたばっかりなので、印象はイマイチ……うーむ、人間の耳などあてにならんものじゃ。

 それにしても、こんなまさに宇宙的音楽のすべてをたった1人で指揮するというのは、すごいことだとつくづく思う。
 
第9交響曲 

 大地の歌がないもんで、もう最後の曲だ。そういや10番もないなあ。予算の関係でしょうか?

 しかし、いつ聴いてもいい曲だなあ。

 デワールトの指揮は派手さは無いが内部でしっかり構築された密度の濃いもの。信頼度は高い。とんだりはねたりはしないが、切実に迫ってくる。1楽章はまた特にしつこくない(しつこい代表=バーンスタイン)程よい粘りけが確認される。

 2楽章では打楽器の迫力がすごく、なかなか考えた演出になっていて、頼もしい。9番で2・3楽章をよく考えてあるのは本当に嬉しい。それすなわち、9番全体に共感しているからにほかならないのだ。なんか、1と4ははりきってるが2と3は……というのは、やはり2・3楽章は難しいからかしら? 楽譜の方もテンポ指示とかほとんどないし(指示する前に死んでしまった)、料理しづらいみたいです。

 それをあえてそのまま未完成のまま演奏するか、自分の味付けを加えてしまうか、それは指揮者それぞれです。デワールトはさてどっち?

 3楽章が異様に速いのは、たぶん2楽章との差をだすため。2・3と続いて同じようなテンポと曲想と構成のため(そこまで指示がないので)なんかダレる場合が多い。ワルターの、戦前のナチスに妨害されながらやったとかいうライヴ録音も、3楽章が11分とバカみたいに速くて、焦燥を表していたのではないかという話。その見識はけっこう正解。

 デワールトの演奏、すごい良い。あんまり3楽章をすごく速くする人はいない。指示がないのに意識して速いのは、指揮者の見識であって、意味がある。それは、同じような構成の2楽章との差をだすためであり、次の4楽章アダージォの胸をかきむしるような切なさや、嘆息と共に涙する諦めの境地がよけいひきたつわけで……全体の構成としては非常に納得できる物になっている。奥が深い。

 それはそうと、さいきん、1楽章展開部の最後の方に登場するフールトとホルンの奇妙な二重奏が、マーラー(ホルン)とアルマ(フルート)の会話のように思えてきた。調和している指揮もあるし、対立させている指揮もある。デワールトは調和のように聞こえた。対立はなんといってもテンシュテット。テンシュテットは夫婦喧嘩のようだ。でも、あとでちゃんと仲直りしているのがよい。

 宇宙の深淵のような部分と、奥さんの深刻な不倫に悩んだ人間世界の愛別離苦の部分と、愛憎貴俗ゴチャマゼになっているのがこの音楽。同番号のブルックナーのような一貫して超然としたものではけしてない。だから、人間マーラーの人間くさい生きざまを、それを生き写しにしたような音楽に、共感してやまない。
 
 ☆気絶  なし
 ★5つ  1番 2番 6番 7番 9番
 ★4つ  3番 4番 5番 8番
 
 次はマーラー漬をしめくくるインバル・ベルティーニ マーラー全集大比較! です。 


10/18
 
 マーラーの合間に気分転換でショスタコーヴィチ。
 
 フィンランド組曲
 弦楽のための交響曲
 室内交響曲
 
 ユハ・カンガス指揮/オストロボスニア室内管弦楽団 
 
 1939年に作曲され、総譜が紛失して作品目録にも乗っていないまさに秘曲中の秘曲「フィンランド組曲」の草稿が発見され、録音のはこびとなった。室内オーケストラとソプラノとテノールのために書かれた、フィンランド民謡の編曲もの。ただし、その編曲はショスタコーヴィチ色にあふれている。作曲時期としては6番交響曲に重なっているとか。

 薄いオーケストレイションに多彩な打楽器が彩られ、かつ、歌手の歌いかたも独特。かなり面白い。草稿だったので、なんと歌の部分に歌詞がのっておらず、旋律から元の民謡を割り出して録音したのだそうだ。

 ところでこれはやっぱりフィンランド語なのだろうか。
 
 弦楽のための交響曲は弦楽四重奏第10番の編曲もの。編曲はルドルフ・バルシャイ。先日、その全集に大いに気を良くしたが、水戸室内を振った室内交響曲シリーズはイマイチだった。編曲がまずいとせっかくの名曲も台無しだなあ、と思っていたが、まずいのはどうやら演奏の方だったようだ。
 
 室内交響曲は弦楽四重奏第8番の弦楽合奏版。編曲はルドルフ・バルシャイ。こちらも、前にバルシャイ指揮/水戸室内オケで聴いたときは、なんでわざわざヌルイ編曲にするのか理解できなかったが、あれはこれを聴くと分かる、オケがダメだった! これこれ、キテるキテる! ヤヴァイ危ない! 2楽章など、そのまま弦楽四重奏の緊迫感です。演奏する人数の差なのでしょうか? それとも、気合の問題なのだろうか。

 水戸室内はもちろんヘタではないけれど、演奏人数が多すぎて、ライヴも手伝って輪郭がぼやけていたような気もする。

 ショスタコーヴィチの弦楽四重奏は、やっぱりギリギリと脳天を締めつけられるような音楽なので、そのように演奏してもらえると有り難い。いくら室内オケ用になっているからといって、アンサンブルが甘いんじゃ、せっかくショスタコをやるってのに、価値半減ですよね。
 
 演奏、選曲共に、なかなか聴きごたえのあるCDとなっております。


9/30〜10/3

 マーラー漬(序章)

 まず3種。
 アシュケナージ/チェコフィル 6番
 ラインスドルフ/バイエルン放送響 6番
 ショルティ/シカゴ響 8番

 コバケンをさしおいてなにマーラーなんかやってんだこの野郎、ということで見向きもしなかったが、コバケンに「マーラーはもうしません!!」 といわしめたのはコイツに間ちがいないと勝手に思ってるので、どんなもんか買ってみました。

 いやもう、買うんじゃなかった(笑)

 この人、正直いって苦手です。なんで楽器うまいのに指揮もしたがって指揮の方はえてしてたいしたことないんでしょうかね。バレンボイムとロストロポーヴィチと、このアシュケナージと、「余計なことしてんじゃねえ」3人衆ですよ。

 こちらが求めるモノに何も答えてくれない指揮です。こんな演奏はチェコフィルじゃなくても聴けるし、アシュケナージでなくとも聴けるでしょう。演奏自体はうまいですよ。誤解の無いように。指揮も堅実なものす。初心者が勉強にきいてみるにはいいと思います。

 でもそれだけだー。

 1楽章冒頭、ちょっと緊張感があって、あれ意外といいかな? なんて思ったのは展開部まで。あと楽譜をただ鳴らしてるだけ。2楽章はテンポが速いのでカッコいいのだが、最初から最後まで緊張感はまるでなし。3楽章は高揚感も陶酔感も何もなし。4楽章も最初、お、やっとやる気になったかな? と思ったのは序奏だけ。そして許せないのがハンマー(笑) 

 聞こえないなら6番なんかするんじゃない。何のためにマーラーがハンマーなどというゲテモノを使っているのか、考えてるのかなあ。ボーンとただ落としてるような、ふぬけた音。バスドラみたいにも聞える。順にちゃんと弱くなってはいるので、分かってるとは思うのだけれど……。

 わざわざハンマーなんですよね。本当はハンマーじゃなくって、なんでもいいから「斧をうちこんだような、金属的ではない鈍く大きい音」 を求めていて、でかい太鼓の失敗作みたいの自作したりして、試行錯誤のうえ、おそらく「ラインの黄金」の「ヴァルハラ城への神々の入城」からヒントをえて、ハンマーにきまったのです。そのハンマーも現行の2回の前は3回あったというのは有名ですが、そのさらに前は5回あったそうですよ。(金子健志/マーラーの交響曲 参照)

 だってツェンダーですらハンマー鳴らしてますよ。楽譜にちゃんと、どんな音をたてるように、とまで書いてあるのだもの。クールな指揮とか関係ない。リタルダントで力を溜めた後、瞬間的な棒さばきで、打楽器群とオケをシンクロさせるのは至難の業です。ごまかしてんじゃねー。

 ラストだけバカでかくしやがって。

 「バカめ、といってやれ」

 「はあ?」

 「バカめ、だ!」

 沖田艦長に喝を入れてもらいましょう。
 
 ラインスドルフはボストン響ので気をよくし、バイエルン放送響を買ってみました。これだよこれこれ。もう、これですがな。タイプ的には、実はあまり好きではない6番なんですが、気合がちがうんですよ。1楽章は反復なし。2楽章もアッサリしていますが、楽譜に忠実な部類。マーラーの楽譜は無理して盛り上がったり感情的になったりしなくとも、楽譜の通りにしていればけっこうエキセントリックになる。そのように書いてある。

 3楽章はでも、たっぷり歌っていただくともう名旋律に心からひたって、ああもう、胸をかきむしるようなこの、なんといいますか、切ない感情、たまりません。

 4楽章は思ったよりサクサク進んで、タメとかは少ないです。ハンマーの前もリタルダント少ないし、なによりティンパニがおとなしいんですよね。全体的に。でも、うまいんだなあ。振幅というか、曲の闊達といいますか、ハンマーもガッツリ叩いてますよ。あたりまえですがね。

 最後はですね、音量だけでかくしたって中身がないんじゃ意味無いんですよ。トロンボーンのコラールからどう続くかですよ。トロンボーンがpppで最後がfffじゃ誰でもできるんですって。もう、これこれ。これですよ。ああ心臓に悪い。いい6番だ。
 
 ショルティの8番はむかしから名演だそうで、復刻盤で買ってみました。

 ショルティのマーラーはキッツイんですよね。もうシカゴ響にボコボコにされるというか……この私が聞いて疲れるというのは、なかなか無いですよ。

 いきなり最初からとばしますなあ! 音が輝きを放っておりますよ。1部の荘厳華麗さは類をみません。こいつは参った。オルガンの使い方が独特だと思いました。

 2部はしかし、幻想的な雰囲気も良いし、1部とはぜんぜん異なるニュアンスがすばらしい。だって1部と2部はテキストからちがいますのでね。

 ソロも声がでかい。不自然? でもキタラホールで札響で聞いたときも、意外とソロ大きいんですよね。マイク使ってるほどによく聴こえる。こんなものだろうなあ。

 2部は8人のソリストたちに役割が与えられているので、出番も多いし重要だ。管弦楽は完全に裏方となる。バランスよいなあ。児童合唱もさすがヴィーン少年合唱団……。声の張りがなんかちがう。

 音程がどうとかまではよく分かりませんがね。

 天国の扉があくシーンなぞは、実演だったら腰が抜けて立てないか号泣かどちらかです。

 ラストの解放感は神業。もう泣きっぱなし。

 ハイドンの天地創造の正しい進化後の姿と思いました。

 80分間、一気にきいてしまった。時間のたつのが速い8番はいい8番なのではないでしょうか?

 大満足。星は気絶級の☆にしておきましょう!

 MDに落として車でもきこうっと。MDはクーベリックやめてギーレンにしてましたが、ギーレンもやーめた。

 すばらしすぎる。黄金の8番だ。そしてそれは、まったく8番にふさわしい8番と強く感じるのです。

 次はデ ワールトの全集。ちらと聴いたが(1番)こりゃあええ!!


9/28

 小林研一郎/チェコフィルハーモニー管弦楽団
 ブルックナー第8番交響曲
 
 例の 「マーラーはもうしませえん!」 発言がどうかかわっているかはしらないが、いきなりコバケン先生がブルックナーをしかもいきなり8番を振ったぐらいにして関係者を驚かせた。

 私はブルックナーはそんなに得意ではないので、まあ普通の感想になるかと思いますが、こんな熱くて濃いのはさすがに初めて聴いた。
 こんなドラマティックなブルックナーはさぞやウーノさんなんかにとっては 「ダメだダメだ!」 となるかと思いきや、ブックレートでしっかり解説してるのだから笑った。コバケンの支持者の1人ですのでね。でも演奏については何もなかったので、さぞや納得いってないにちがいない。
  
 うなり声も相変わらずで頼もしいが、時として、アルプスのなんとかとか、人知を超えたとか、無限の世界、精神のどうのこうの、ようするにブルックナーの8番9番あたりにくると人間業ではない、みたいな評価がどかどかとでてきて、さぞやすさまじいのかと思いきや、そうでもないのが実情だ。(私がそう感じたのはヴァント/北ドイツ放送響の9番だけ)

 それって指揮者の解釈の問題で、作曲の問題ではないような。

 コバケンをみよ! この生々しさを!

 人間・ブルックナーの生き生きとした姿がある!

 というところに感動したのだけれども、知人のブル党の方は 「普通でした」 とあっさり。
 
 そんなものですよクラシックの聴き方なんて、ポップスと何にも変わりません。同じただの音楽ですのでね。楽しけりゃそれでいいんです。

 明日からしばらくまたマーラー三昧……いやマーラー漬の日々になります。


 9/15〜9/25

 バルシャイ/西部ドイツ放送交響楽団によるショスタコーヴィチ交響曲全集です。全集は初めてです。ハイティンクとコンドラーシンはバラで買ってて途中で断念しました。

 バルシャイは作曲者とも面識があり、弦楽四重奏を室内オケ用に編曲もしています。編曲の意図がわからず、たいした出来ではありませんが。

 作曲家と知己のあったコンドラーシン、ムラヴィンスキーと同じような立場からショスタコーヴィチを捉える事のできる貴重な存在といえます。もっとも、同じく知己があってもロストロポーヴィチのようにまったくトンチンカンな指揮をする人もいますのでご注意。(チェロだけ弾いてりゃいいのよ……)
 
 では1番から順を追ってみてましょう。(長文です)
 
第1交響曲

 音楽院時代、19歳の作曲。こいつを聴くたびにショスタコの天才性を嫌でもみせつけられて唸ってしまう。とはいえ、それだけの曲である事も否めない。以後のショスタコに通じる全ての特徴があるのが、大作曲家を予感させている。天才ってスゴイですよね。もちろん、最初はパッとしなくとも、努力と根性と情熱で才能を伸ばし、天才に匹敵する人もいるので、両方スゴイといえます。天才が努力したら……もう神です。

 演奏は、私が持っているのはロストロ、バーンスタインに続き3つめなんですが、いちばん良いです。クリアな見通し、キッカケの立った旋律線、オーケストレイション、室内楽的なこのシンフォニーがよくわかります。ロシア臭さはないです。この音楽にはいらないかもしれませんが。

第2交響曲「10月革命に捧げる」

 3番といっしょに、ショスタコ・シンフォニー15曲中でも「無くてもいい」「ただの宣伝音楽」「それほど価値はない」「なんでこんなのが交響曲が理解できない」とか言われに言われまくっているのを、あえて注目するのが九鬼流。(ただのヘンクツ)

 そうは言っても、この前衛性は只事ではない。

 内容においては4番や14番へ通じ、標題性においては12番に直結している。20歳そこそこの作曲ですぞ。これを無視するなど私に言わせたら「とんでもないこと!」 だ。

 そもそもこれは交響曲として作曲されたのではなく、革命記念の「シンフォニック・ポエム」であり完成したときには「交響楽的な捧げもの」だったという。従って構成の面のみを観て交響曲としてふさわしくないという批判は的外れだと思う。作曲者も好きでシンフォニーにしたのではないかもしれないからだ。

 また吉松隆の言葉をかりるなら、20世紀において交響曲などというものは、作曲家が「交響曲」と名付けたもの、であるという。まったく同感だ。

 前衛性においてはなんといっても「27声部が同時に鳴るウルトラ対位法」(音楽乃友社/作曲家別名曲解説ライブラリー15/ショスタコーヴィチ)と、ヴァレーズや黛にさかのぼる事ウン十年の「サイレン」をとってみても、如実に示されている。

 サイレンは一瞬間だけ顕れて消える。重厚な合唱を瞬時に導いている。工場のサイレンなのだそう。

 演奏は純粋にシンフォニーとしてとらえたであろう、手堅い構成的なもの。完成度は高い。コンドラシン、ロジェヴェンらとは一線を画しているし、新鮮。
                     
第3交響曲「メーデー」

 2番の成功に気を良くした(革命10周年記念コンクール1位)のか、これは純粋に同じ形式で続き物として休暇中に一気呵成に書かれた。2番が戦いを表しているのなら、これは平和への祈りだそうだ。どこがどう平和かは知らないが……。

 内容は、前衛性はいくぶんかひっこみ、親しみやすい。バルシャイの演奏は2番に通じる。コッテリした演奏も面白いのだけれども、汎用性はこちらのようなスタイルにあると思います。作品そのもののリアルな姿というのも、おそらくこちらでしょう。ですが作曲者が頭に響かせていたのは、たぶんコッテリした方なのでは?
 私は2番の方が好きかなあ。11・12も12の方が好きなんですよね。あまり長くてもなあ。ラストは素直に楽しいですがね。
  
第4交響曲

 いよいよショスタコ振りの真価が問われてきます。真にシンフォニックな初の作品、そしてショスタコ交響曲のなかでも最高傑作の一つ。5番や7番だけ振っててショスタコを語ってほしくない! ……とはいえ、ムラヴィンスキー、バーンスタイン、スヴェトラーノフ、振ってない人は多い。(笑) 時代性もありましょう。ポリシーもありましょう。まあいいです。

 4番はとっても好きで、いろいろ集めてます。でもかなり難しい曲のようで、技術的にもさることながら、曲そのものの扱いが難しいのだと思います。どう表現すれば良いのか。マーラー以上に分裂しています。かなり立派な指揮者でオケの技術も高くとも、中途半端な音楽になっている場合がある。誰とはいわないけどラトルとかチョンとか。(そういえばシャイーって、自分があえてショスタコを振る必要はない、とか言ってるんですって? あほか、もったいない) 

 うまく自らのポリシーをもって演奏していると感じるのはコンドラーシン、ロジェストヴェンスキー、技術的にはぜんぜんだけど芥川/新交響楽団の日本初演も外せません。(芥川はなんといっても国交樹立前のソ連へ自作をたずさえ単独密入国!し、ショスタコらと親しく面識をもっている)

 バルシャイはなあ、オケがなあ、くやしいなあ。1楽章の狂気フーガや、強烈なフォルテから繊細なピアノまで、頑張ってますけど……全体に指揮者の求めるものを完全に表現できていないような消化不良的な不満が大いに残ります。膨満感ってやつですか。この曲はやはりいろいろな意味で、もっともっとキビシイものなのです。だから「大曲」などと言われるのでしょう。別にちょこッとだけマーラーの引用があったりしてるからではない。
 
第5交響曲

 しかしいつ聴いてもベターな曲だなあ。コテコテです。ベターな曲をベターに演奏するのも悪くないですが、クールに内面を探り出す方が通好みになってきているのかもしれません。その方向性ではムラヴィンスキーに勝るものはありません。1976年の来日公演の模様は録音の良さもあって神的演奏です。同じアプローチでこれを超えるものはありません。異なる方向性ではスヴェトラーノフのソビエト時代の録音がゴリゴリに押した鼻血演奏。脳天ぶんなぐられます。ドイツ的アプローチではテンシュテットと父ザンデルリンクが良いかなあ。

 バルシャイはハイティンクにも通じる「楽譜に忠実」系のものに聞えますが、さりげない自己主張が随所に観られます。3楽章に悲壮感ではなく恐怖感をもってきたあたりがミソ。まさに同時代の演奏です。作曲者へより近い視点にあるのはこちらかもしれません。ムラヴィンスキーは超越しすぎています。作曲者ですら!

 4楽章はテンポについて諸説あり、ようするに冒頭のテーマが速く始まって遅くなるか、遅く始まって速くなるか、出版によって混乱があるようですが、最初は意表をついて遅いのが本当くさいですね。バルシャイとかザンデルリンクとか作者と面識がある人の演奏を聴くと。そして歓喜のはずの4楽章、足どりの重い事! 強制された歓喜という表現がピッタリですが、ショスタコは別にイヤイヤ作曲したわけでもないことに注意。(バルシャイの4楽章は本当にザンデルリンクに表現がソックリです)

第6交響曲

 すごいんですけどちょっと苦手でした。プロコフィエフも6番の方がすばらしいのに渋すぎて5番に負けている。通好みに甘んじている。通好みとは聞こえはいいが、ようするに真価を容易に理解させえぬ「とっつきにくさ」 を抱えてしまっているのは私に言わせたら弱点だ。

 まあ、通にしてみればそれで別に良いのかもしれないが……。永遠に通好みで終わる曲になってしまう。

 とはいえ、この1楽章の崇高さはどうだ。苦悩はどうだ。清浄はどうだ。

 2楽章の暴力はどうだ。皮肉はどうだ。

 3楽章のスパークはどうだ。(ウキィィー!!)

 内容の深さでは5番なぞの比ではなく、これまでの諸曲でも4番と共に頂点を築くものであるが、謎めいた性格が災いし、マイナー曲に甘んじている。

 ムラヴィンスキーのばかり聴いてましたが、表現は凄まじいが録音が悪い。ライヴなもので、ホールエコーが効きすぎている。

 そこでバルシャイだ! 

 文句ないです。それだけです。なぜなら、この曲が好きになりました。
 
第7交響曲

 7番からショスタコの交響曲は折り返しに入る。あまりに巨大な転換点だ。大祖国防衛戦争(2次大戦における対ナチス戦争のソ連名)がおきたのだ。

 この曲こそ聴かせる演奏はハッキリ言って少ない。

 本質的にただの士気高揚音楽であり、深い精神性を劇場効果で隠しすぎてしまった。シュワちゃんの主題(なんだそれ)も人によってはショスタコらしい皮肉の象徴としているが、それにしてもバカすぎ。まあ楽しいからいいんですけど、注目すべきは、そのヒトラーを皮肉っているつもりなのかそれとも戦争そのものを皮肉っているのか知らないが、主題が爆音のごときフォルテッシモで最後に木っ端みじんにされてしまうところだろうに。

 2楽章も良いし3楽章も悪くない。4楽章も嫌いではない。

 でも連続して聴いた場合、長すぎる。つながらない。意図がわからない。バラバラ。皮肉では6番や9番に負け、戦争の悲劇を伝える点では8番に負けている。

 こんな曲はバーンスタインのように開きなおってダッラダラにやるか、ムラヴィンスキーやコンドラーシンみたいにビッシビシに引き締めてするかしないと、胃もたれならぬ、耳もたれするだけ。とにかくガンガンに鳴らした旧録のスヴェトラーノフも一つの方向性だ。

 前置きが長くなった。バルシャイはどうだろうか。

 おっと、このノリノリはいったいなんだ!?

 2楽章なんかいいノリだぞ。3楽章の崇高な祈りもこざっぱりしてなかなかだ。なるほど、そうきたか。時間配分も全71分とはバランスが良い。4楽章もスッキリ。

 随所に迫力満点ながらもスッキリ系ってのは、初めて聴きましたが、どんなもんでしょうかね!? (でも長いよなあ……どう頑張っても曲自体がクドいしなあ……)
 
第8交響曲

 こいつはすばらしい音楽ですよ。5番に比べて冗長だ、なんて言ってる人が周囲にもしいたら紹介してください。(例えですホントにしなくて良いです)

 どれだけすばらしいかはショスタコーヴィチのページにありますご参考まで。

 戦争ですよ。戦争。国家と国家が総出で殺し合うんですよ。勝った負けたなんて、そのときだけですよ。こんな金だけかかってかかって、終わってみたら空虚なものはありません。しかも、大戦争でしたよ。そしてかすかな希望が見えたのも束の間、ソ連の戦後にはさらなる恐怖が待っていましたよ。

 そんなものをいちどにつめこんだのが8番なのです。

 どんな言い訳しようが、どんな解釈だろうが、どんなにオケがうまかろうが、どんなに有名な指揮者だろうが、ヌルイ演奏なんか絶対に認めない。

 1楽章の気高さは6番を抜いている。この楽章を適当にするヤツの音楽なんか信用できない。なんという清浄さなのだろうか。バルシャイはうまくオケを操っている。中間のホルンにちょっと不満が残るが……これだけできたらよいほうかもしれない。ここのホルンは異常だ。異常を表現しているのだ。戦争は異常ですのでね。アレグロからは幾分余裕のテンポが逆に不気味だし、その後の打楽器のクレッシェンドは恐怖と不安をよく顕現している。最後のコーラングレの涙も出ぬ悲哀さ、強く訴えてくるものは、なんとしたことだろうか。

 2楽章の颯爽とした感じもニヒルだし、3楽章はテンポの速いのだけが狂気的ではないことを教えてくれる。いやしかし、この楽章好きだなあ。戦争の愚かさを嫌というほど訴えている。せめる赤軍、逃げるナチス! 英雄を象徴するはずのトラッペット・ファンファーレが、どこか滑稽で、しかもどんどん悲痛なものに変わってゆくくだりなどは、最高だ。音調がどんどん下がってゆくのだ。バルシャイ、うまいですよ。ティンパニからラストの迫力も申し分ない。

 4楽章の無常さはウェット加減がうまい。

 5楽章の祭典は希望を確かに感じさせてくれるが、その分、やおら訪れる背後よりの恐怖感は増す。淡々とこぼれる涙をぬぐおうともせぬラストは、感動だ。

 ちょっとこれは大々々満足。

 まさに今全集の白眉中の白眉である事を確信した。

(ところで、ちょうど聴いている時に「その時歴史が動いた」で「ヒトラー情報 日本を揺るがす」が始まり、中断して観た。ヒトラーの信任を得たドイツ大使・大島浩の送る日本への極秘情報はすべて米国に解読され、日本とアメリカがそれぞれ重用し、戦争へ利用した。大島がヒトラーより直接得た極秘情報とは、独ソ不可侵条約をむすんだはずのドイツが、それを破ってソ連を攻撃するというもの。日本政府はそれを信用しなかったが、1941年6月22日、ドイツ軍が突如ソ連へ侵攻。大島情報は絶対的なものとなった。大島の伝えるドイツ軍の快進撃に気をよくした日本は、ソ連をドイツにまかせ、南方進出を決意! しかしソ連は日本が攻撃してこないのを知るや極東軍事力を容赦なく対独戦に投入! また日本の南方進出はアメリカの逆鱗に触れ、日米関係は最悪の結果を迎えた! 真珠湾同日、ドイツ軍はモスクワにて大敗北を喫し、大島情報とは逆に事態は急展開を迎える。ここに歴史の歯車は容赦なく回りだした。日本の思惑はことごとくはずれ、ドイツはソ連はおろか対英作戦もおぼつかなくなる。日本・ドイツとも絶対やってはいけない超大国との総力戦に陥り…………その結果は、ここで語るまでもない。歴史とは、かくも複雑で奇妙なものと痛感した。侵略して負けて終わり、なんて単純なものじゃないですよ。一方的な情報のみに依拠し、ドイツ追従の戦前外交……いまとぜんぜん変わってねえですなあ!)

第9交響曲

 戦争3部作もこれでおしまい。というよりショスタコが自分でムリヤリ終わらせてしまった。もう当局にああだこうだと言われるのはたくさんだったのだろう。8番は不評だったし、超記念碑的祝典音楽を期待されていたが、できたのはトライアングル・チンチン、トロンボーン・ばぶー、♪ぱーぱらっぱぱーらら、のまことに楽しい音楽。

 ショスタコ先生は、また危うくシベリア送りの危機(笑)

 でも真剣にふざけている。表現も真剣にやっていただかなくては。

 名演はない。ホントにない。7番以上にない。録音は5番のオマケだし、期待のテンシュテットもそうでもなかったし……コンドラシンも私には重すぎた。どうせ重いならスヴェトラーノフが狂気的に暴力的なまでの音圧で、こいつは鳥肌がたった。ダントツ1位。

 冷徹な演奏のバルシャイも、可能性としては存分に表現を極めている。西欧風にして現代風でありながら、作曲者の視点、というのがバルシャイの武器。

 この鋭くキレル演奏は価値がある。真剣にふざけている。騒ぐところは騒ぎ、しかし、バカ騒ぎではない。わざとふざけているのだ。楽譜が。

 作曲者の怒りのようなものまで感じてしまいます。
 
第10交響曲

 私は実はショスタコーヴィチの真の聴き手ではないのかもしれない。

 なぜなら、ショスタコ聴きのみんなが褒めるこの曲が、サッッパリ分からないのだ。

 そりゃ悪くはないですよ。でも、その意味で7番と同レベル。ホント、どこがいいの!?

 とはいえ、初演より「賛否両論」だったというから、私のようなのがいてもおかしくはない、ということになる。私が思うに、どうもスターリンの死後から作曲がどうとか、前作の9番(大不評)より8年ぶりのシンフォニーだとか、雪解けがどうとか、妙な付加価値がつきすぎている。謎の交響曲にされてしまっているのではないだろうか。確かに、1楽章の深刻さも凄まじいし、2楽章など全交響曲中最悪最強のアレグロだ。3楽章の冷えきった人形みたいな無表情ワルツも恐い。4楽章は意味不明でぜんぜんダメだが。

 全体のバランスの悪さとしては7番以上。しかしその悪さすら、つまり構成や4楽章の不完全さすら「後味の悪さという表現の一部」というのなら、返す言葉も無い。

 作曲者はコメントをあまり残していない。

 そのように特にねらって作曲したのでは無いと思う。周りが騒ぎすぎなのだと思う。予想外の反響、だったのではあるまいか。鑑賞者が作者の思惑を必要以上に探りすぎて袋小路に迷い込んではいまいか。その意味でアニメの新世記エヴァンゲリオンを思い出してしまったデスヨ。(なつかしいな)

 作曲者の数少ない証言に、次のようなものがあるのは注目だ。

 「第1楽章を批判的に見直してみると、私が長年夢見てきたような交響的アレグロを書くことに成功しなかったと認めざるをえない」

 「(第2楽章は)全体のバランス上、もう少し長くしても良かった」

 「熱烈に平和を愛し、戦争への移行へ反対し、地上における人類の使命が破壊でなく創造にあると考えるような、現代の人々の思惑や希望を表現しようとしたものだ」

 ↑10番のことです。(笑) 海外マスコミ向けインタビュー(音楽乃友社/作曲家別名曲解説ライブラリー15/ショスタコーヴィチ)

 バルシャイの演奏は、正直、今まで聴いたどの10番より迫力があって良かったのを最後につけ加える。

第11交響曲「1905年」

 日露戦争真っ最中のこの年、戦争に疲弊し、皇帝へ直訴のため冬宮に向けて平和行進を行っていた無防備・無抵抗のデモの列に、近衛兵が発砲。死傷者数千人という大惨事となった。「血の日曜日事件」である。

 革命の宣伝音楽と笑うのはカンタンだ。が、日本の作曲家が例えば226事件や515事件、真珠湾攻撃を題材にした交響曲をもし作った場合、しかも、陳腐な大本営音楽ではなく、橋本國彦級の腕前で、当局の要請に応えてちゃんと記念しつつも人間世界の悲劇と信念を歌った場合、後世の我々はただの宣伝音楽と笑えるのか。それこそ皇紀2600年記念曲をただのデッチアゲ記念日音楽と無視できるのか。

 答えは否だ。否でないものはショスタコーヴィチの何を聴いているのか、とさえ言うぞ私は。

 でもまあ、純粋に音楽としては、ちょっと長ったらしい部分もあるかな。(笑)

 長い上にあんまり面白くない箇所もある。事件が暗いですからね、全体的に暗い。

 引用されている革命歌とかも、陰気なんですよねえ。

 バルシャイの映像的というか絵画的な描写はどうだ。うまい。ハイティンクではこうはいかぬ。コンドラシンやムラヴィンスキーでは白黒の生々しさがあるが、バルシャイはデジタルによる再現ドキュメンタリーのようだ。感情的だがヒステリックではない重々しい表現にそれがよく出ています。

 1楽章「王宮前広場」の陰鬱たる様子は、鉛色の空より降りしきる細かな雪まで見えてきそうだ。

 2楽章「1月9日」、人々は広場へ集まり、皇帝へ静かに直訴する。それへ突然、当局の発砲。地獄絵図が展開し、ツァーリの信頼は失墜する。我々は天安門を知っている。白銀の世界に銃声と悲鳴がこだまし、純白の道路が血に染まるのを想像できぬものは、よほど歴史や世界情勢に無関心で無感動な人にちがいない。

 いかにレクィレムとはいえ、3楽章「永遠の記憶」における革命歌のくら〜い扱いはどうなっているのか。

 4楽章「警鐘の怒り」の表現は何を意味しているのか。「圧制者に死を!」だけなのか、本当に。

 なおこの事件にもかかわらず戦争は続行されたが、日本海開戦で艦隊全滅の憂き目をみたロシアはついに和平交渉のテーブルにのる。しかし日本にも戦争続行の体力はなく、勝ったとは聞こえはいいが得るものは少なく、この日露戦争は日露双方に巨大で取り返しのつかぬ重い歴史的試練を与えたのであった。
        
第12交響曲「1917年」

 前作に引き続き革命讃歌交響曲となっている。私はこっちのうほうがまとまっていて好きだ。1917年、2月革命および10月革命により、ついに皇帝を倒し労働者らによる世界初の社会主義国家「ソヴィエト社会主義連邦共和国」が誕生した。首領はレーニン。いまはもう無いが、私が子どものころはまだソ連があって、暗い国だったというイメージしかない。冷戦の真っ最中でしたのでね。迷えるロシアの明日はどっちだ!?

 そんなことより、音楽です。

 1917年を象徴する出来事の羅列で、1905年のようなストーリー状のものはない。バルシャイは11番に続き描写的な扱いが抜群にうまい。うますぎる。なんでこんなにうまいんだろう。1楽章「革命のペテログラード」よりこの緊迫感はすごい。ムラヴィンスキーとはまたちがった真実の重み。管打楽器の迫力。曲もそうだが、演奏も展開のうまさが一級品。

 2楽章「ラズリーフ」の静かな祈りは、革命のプランを練るレーニンの姿でもある。苦悩を表す弦のトレモロは緊張感がある。トロンボーンのモノローグはレーニンの姿だ。

 3楽章「アヴローラ」は日本海開戦よりなんとか生き残った巡洋艦。この艦がネヴァ川より放った空砲が革命の合図となった。高揚感が大事。

 4楽章「人類の夜明け」は作曲者がついに書く事のできた真に感動的な歓喜のフィナーレに思える。11番でラストは警鐘に終わっていた。これこそが、本当のフィナーレではあるまいか。なぜなら、以後、作曲者はついにフィナーレらしいフィナーレを書くことなく、世を去っている。

第13交響曲

 これより以降の3曲は特殊な音楽です。15曲の中で、ここから「後期」が始まるとみても良いのではないでしょうか。讃歌の次は、告発を選んだ作曲者の心中いかばかりか。

 ナチスによるユダヤ人や他の少数民族に対する絶滅的な超弾圧は高名だが、じつはソ連でもユダヤ人は弾圧されていた。作曲者自身は副題をつけていなかったらしいが、副題のようになっている「バービ・ヤール」は正確には1楽章の題。ウクライナへ進入したナチスによりユダヤ人10万が殺され、バービ・ヤールの谷に埋められた。ロシア人ウクライナ人をあわせ、結果的には戦争で300万が死んだらしい。ソ連全体の死者が2200万というので、ほんの一部であろうが。

 ところが、戦後、ソ連でも反ユダヤ主義が吹き荒れ、とくにインテリ層を中心におびただしい数が「粛清」されたという。1楽章はその問題をとりあげている。

 2楽章以降は、特にユダヤ問題とは関係なく、全般的な体制批判の詩となっている。

 ため、副題の「バービ・ヤール」は、言われてみれば交響曲全体の副題としてふさわしくない。旧ソ連国外でしか使われていないのだそうである。

 バルシャイのうまさはここでも光る! 冒頭よりの陰鬱感は尋常じゃない。歌ってる人もなんかすごいな。合唱の迫力もすばらしい。むう、聞き慣れない音がぴこぴこ鳴っとる。なんだろう。楽器編成を調べる。……わからん。チェレスタでもシロフォンでも無い。このホルツトンってなんだろう?

 重厚で意義のあるこの曲の白眉ともいえる1楽章を聞いたあとは、残りがやや物足りないが、演奏的にはうまい。

第14交響曲「死者の歌」

 異常性、前衛性、芸術性において交響曲史上にのこる名曲がコレ。全11楽章、打楽器アンサンブルと小編成の弦5部、そしてソプラノとバスによる作品。これが交響曲? そうなんです。

 ブリテンに捧げられた14番は滅多に聴けるものではないが(内容がスゴすぎる)私はすきだ。4、8、14を15曲中のトップスリーにあげてもいい。その中でも特に芸術性におけるトップは、おそらくこの14だ。まさに交響曲第14番こそ、ショスタコーヴィチの最高傑作と断言したい。

 人間全体の死というものを普遍的なドラマとして書きあげており、内容は濃く訴えるものは深い。ここにあるのは絶対的な死であり、革命、戦争、粛清と周囲に常に死の影がつきまとっていた作曲者の切なる願い、静かな怒り、鋼のような意思さえ感じられる。

 形式において各楽章に独唱の入る多楽章制の交響曲は何をおいてもマーラーの「大地の歌」という偉大な前例があり、ショスタコーヴィチもそれを前提とした事は想像にかたくない。おりしもテーマは同じく死だ。

 そしてこれを忘れてはならない。バルシャイは同曲の初演者なのだ。まさに5番6番8番等においてのムラヴィンスキー、4番13番におけるコンドラーシンと同じく、鬼気せまる執念のごときものさえ聴こえてくるではないか。

 弦の強靱な響き、打楽器の刺激的な音、おののくソプラノ、憤るバス、こいつは凄まじい演奏だ。胸がドキドキしてくる。死の痛ましさ、切なさ、どうしようもなさ、嫌というほど伝わってくる。全楽章の詩を原語で歌わせたハイティンクもすばらしかったが、これはそいつを超えた! 8番と共に、今全集の白眉中の白眉に認定いたします。
 
第15交響曲

 20世紀の偉大なるシンフォニスト・ショスタコーヴィチ最後の交響曲は、副題無し、合唱もなし、4楽章制の「定番」となった。ただし、編成は前曲に引き続き異様なまでの打楽器におおわれている。4番で既に打楽器群による白骨が鳴っているような音楽を導入しているが、この15番でそれが現実味を帯びてくる。打楽器大好きの私ですがいわゆる現代の打楽器アンサンブルや打楽器協奏曲は嫌いなんです。叩けばいいってものじゃないですのでね。無くてもいいのなら無い方が経費が下がって再演しやすくなるのではないでしょうかね。中には分かっててうまい人もいますが(日本人に多いですよ、日本って演奏家の面でも打楽器のレベルは世界的に高いそうです)何を表現するかで、価値がきまってくる。私にとって打楽器の扱いがうまいといえばマーラー、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーのお三方です。御三家ですな。なにせいっさいの無意味な音が無い。

 巨大な曲ですが室内楽的書法や遊戯性に富んでいるおかげで、そんなに重厚ではないです。だから、性格的には1番9番の系譜に連なるとみてよいでしょう。特に1番との類似性が興味深い。最初と最後をね、どう意識したのか。意識してないはずがない。

 1楽章のウィリアム・テルのテーマが、重要なようで実はどうでもいい。でも、これがないと音楽にならない。難しいです。これこそ大いなる謎だ。

 2楽章のトロンボーンソロのモノローグは粘るものではなく、逆に淡白なのが諦めきっているふうで心をうつ。その後の迫力も異常なまでだ。

 3分ほどの3楽章・打楽器アンサンブルは至上の出来ばえ。これだけ聴いても、誰が作ったの音楽なのか如実にわかるというのはすばらしいことです。バルシャイの絶妙なバランスは見事。ムラヴィンスキーでは不気味なのが楽しげだったのが印象的でした。

 ショスタコーヴィチ最後の交響曲楽章は、祝典でも無い、悲劇でも無い、しみじみとした人生の回顧(懐古)に聴こえます。
 
 総合的にこの全集はまったく見事なものでした。

 前にちょっと流行ったようでしたがいまどきショスタコーヴィチの全集に着手しようなどとはまず考えられません。私が知る限りコンドラシン、ハイティンク、ロジェストヴェンスキーに次いでですが、どれもレベルは高く、バルシャイの全集も金字塔として残るものでしょう。オケがもっと良かったら(例えばバイエルン、ケルン等のもっとメジャーなドイツ放送オケとか)さらに良かったでしょうが、いろいろ事情があるので無い物ねだりはやめておきます。

 このような楽しい時間をありがとうございました、マエストロ・ルドルフ・バルシャイ。そして西部ドイツ放送オーケストラ、合唱、独唱の皆々さま方。


9/14

 札幌に日フィルを聴きに行ってきました。もちろんコバケン。

 いやホールがちがうだけで(キタラホール)あんなに日フィルがうまくなるかなあ。

 ホールは最後の楽器です(by 芥川也寸志)

 まあキタラの音響は世界有数の2秒超だそうですし……あれでオケがもっと残響を利用できたらさらに良いでしょう。(札響もな)

 それにしても地元の文化センターホールはあれはもう犯罪的です。裏事情を暴露しますと、かなりボロイんでどうにかしよう、という議題はあがったものの、建て替えという意見はどこからもでず、改修に改修を重ねて終ってみたら建て替えた方が安かった……という最悪の結果をむかえ、かつホールはそのままという、恥の象徴です。音楽関係者、役所、市議会議員はあの犯罪的ホールを心の底から恥じていただきたい!! 

 さて。。。
 
 曲は井上圭子オルガンソロの バッハ トッカータとコラール
 コバケン自作自演 パッサカリア〜オルガンとオーケストラのための〜
 サン=サーン 交響曲第3番 「オルガン付」

 キタラのオルガンはすばらしいですなあ。アジア中央でうまれたパイプにリードをつけて風を送って音を出す楽器は、西にいってパイプオルガンになり、東にいって日本の笙になりました。

 井上さんは熱演でした。虚飾の無い現代風(作曲当時風?)のキレの良い演奏にみな拍手喝采。
 
 コバケンははじめ芸大の作曲科にいたんですね。当時全盛のゲンダイオンガクに嫌気がさして指揮者になっちゃったそうです。

 パッサカリアは日蘭友好400年記念委嘱曲。ヨーロッパのテーマと日本のテーマの二つがおりなす変奏曲。

 ベターの中にも斬新さが光り、なかなかの大作です。オクタヴィアにあるチェコ・フィルのCDも買ってしまいました。

 なにより強く感じたのは
正統派だということ。

 熱いメロディーと構成! 祈りと祭典の雰囲気! 万人に訴える力!

 超名曲かどうかはまだ分からないが、「作曲もする指揮者」(指揮もする作曲家とはまたちがう) の作品ではかなりのレベルであると主張したい。オルガンもミソ。

 オルガン付は生演奏ではじめて聴きました。べたべたにベターな作風は嫌いな人もいるでしょうが名曲であることには変わりない。精神性ではフランクに軍配があがるかもしれないが、分かりやすさは断然上。トータルでは同等の名曲ということです。コバケンの熱い指揮では、マルティノンとかオーマンディとかの私のいつも聞いている演奏とはまた違ったおもしろさを発見できました。でもしかし生オルガンはちがうなあ! 

 来年はなにをしますかねえ。 諏訪内晶子 ハチャトゥリアンのバイオリンコンチェルトしないかなあ。

PS
 コバケンのサインまたもらっちゃったよ。パッサカリアのCDに。アマも含めて、北海道の指揮の弟子さんたちも来ていて、知り合いの人もいて、いろいろ話しましたら、

 「マーラーもうやらないって? 先生がいったの? 気にしない、反対のこといつも言う人だから、ブルックナーなんかゼッタイしないって言ってたのに、CD出してるもの!」

 それでは、気長に待ちましょう。アシュケナージが速く消えるのを願って。(どんなもんかためしにCDかってきましたよチェコとのマーラー6番。あとで聞きます)


9/10

 地元に日フィルがやってきました。イナカのホールもヘボかったですがソロの千住真理子もさんざんでした。曲目はイナカらしく通俗名曲集。

 モルダウやクライスラーや、ペール・ギュントの次は1812年。

 1812は地元中高生の選抜ブラス隊がバンダで参加、なかなか感動でした。日フィルはけっこう良かったです。

 指揮は
小林研一郎。

 会場でCD売ってサイン会もしてました。ファンのわたしはとうぜんサインを頂きました。
 
 その後地元文化連盟主催の歓迎レセプションにもぐりこみ(イナカの特権)日フィルの人たちやマエストロと親しく歓談。コバケンと並んで写真も撮ったりして……(ちゃんと写ってるだろうな)

 いや〜芸術家ってあんな感じなんでしょうか。話に脈絡まったくないし(笑) 音楽そのままの感性人間という印象でした。声がまたしぶい。背はあまり大きくなかったです。160前後。

 チェコフィルとのマーラー全集が大好きで、続きはいつ出ますかとの質問に、

 
いやー、あれはもう出ないんですよ!

 ……え、なんですって!?

 「お金がかかってかかって、メーカーとオケとのおりあいが合わなくって、1,2,3,5,7が録音済みで、2と3は出る予定はありません!」

 あ、そ、そうなんですか……!?

 「
今後もする予定は無いです。マーラーはもうしませぇん!!


 
どッッがーーーーーーん……… ( ̄◇ ̄lll)

 マジで……? マジで……? 6番は? 大地は? 9番は? せめて2番録音済みならだしてくれえええええキャニオオオオン!!!

 いや、ちょっとまて。アシュケナーージとかいうヘボ指揮者が、いまチェコフィルでマーラーやってないか……?
 
 あれキャニオンじゃなかったか? ちがったか? オクタヴィアか!! どっちにしろおんなじだ!!

 もしオケに対する
アシュケナージの横槍だったら一生ゆるさん!!!

 だから急にブルックナーなんか始めたのかなあ。。。。しょうがない、買ってみようか。。。

 いやしかしくっそーーー、どうなってやがるんだキャニオン……。
ショックで具合悪いです。。。。。


8/23〜9/1

 インバル/フランクフルト放送響 マーラー3番(デンオン)
 石井真木/新交響楽団 伊福部昭米寿記念演奏会(キング)
 沼尻竜典/東京都交響楽団 橋本國彦作品集(ナクソス)
 
 インバルの2枚ものを中古でゲット! 4番がすばらしかったので期待はしたが期待通り。旋律線をクリアに楽しめるし、7番あたりに通じるエキセントリックな表現も充分。これは2番も期待できる。気長に探そう。

 1楽章はテンポは遅めで一定に感じる。しかしちゃんとスコア通り。速くなったり遅くなったりの変化は激しい。冒頭ことさらホルンが強調されるわけでもなく、曲調が伸び縮みするわけでもない。淡々と進んでいる印象だが、飽きる事は無い。テンポがどうこうと横に演出されているわけではなく、スコアの縦の部分で、浮き彫りが激しく、濃淡があり、彫刻は芸が細かい。ブラスの伸びやかな響きはいつ聴いても心地よい。

 2楽章は弦が主体で、すべるような流れが新鮮だ。

 3楽章はけっこう(それこそ)この曲のなかでもかなり分裂している部分で、私は長ったらしい上にくどくて苦手なのだが、インバルの解釈は良いと思った。サッパリと部分部分を処理して、変に強調しないのがうれしい。特にラストのどんちゃん騒ぎをやたらと盛り上げる演奏があって、イライラする。誰とはいわないけどバーンスタインとか。もちろんそれも、面白い解釈のうちであるが……。

 
6楽章がまず白眉。いつ聴いても魂が洗われるよう。この演奏は特に清浄されている不思議な雰囲気がある。まさに管弦楽一体の妙。旋律美。深刻ではあるが超越的なものは感じられない。いつも我々の側にいてくれる安心感。やさしさ、きびしさ、怒り、喜び、あこがれ、いらだち、不安、恐怖、希望、そして愛と憎……人間が人間として生きる感情の発露。人の心を、人の世界をそのまま音楽としたマーラー。ゆえに我々はマーラーを愛する。彼の交響曲の全てが人間くさい人間讃歌だ。涙が出てくる。

 マーラーって最高!!!

 マジメな話、私はもうマーラーなくして生きてはいけぬ。

 声楽付部分は、じっくりと丁寧に唄わせたすばらしいものには変わりないが、特筆するようなものは感じなかった。
 
 新交響楽団はアマチュア団体であるがその腕前はもはやセミプロといってよい。このタプカーラ交響曲の気合の入りようは他の団体ではみられぬものだ。なんといっても、改訂版初演団体なのだから。演奏に誇りがある。

 ゴジラ部のみを抜粋した1番SF交響ファンタジーもノリ充分気合充分、ゴジラの迫力そのままといえる。石井の指揮は効果的でうまい。中間部のバスドラが、ゴジラの足音だと他にだれが気づこうか?(譜面にそんな指示は無いけど。) 

 土俗的三連画は1管編成の室内オケ作品。いやオケというより室内楽作品。弦も1人づつしかいないのだ。抽象的な作風は実は得意ではないが、新古典主義様式のようでもあり、ストラヴィンスキーを彷彿とさせるモダンさだ。
伊福部ってすごいモダンです。民族主義作家のシールをいいかげん外してみたらどうなのか。まだ本人がご存命のうちに。

 弟子たちの編曲による「管弦楽版・ギリヤーク族の古き吟誦歌」はマーラーのような悠久の響きだ。1楽章を故芥川也寸志 2楽章を松村禎三 3楽章を故黛敏郎 4楽章を池野成 がそれぞれ担当している。古希記念演奏会に発表されたものの再演となっている。

 作曲も一流、編曲も一流、まさにスーパーメンバー。
こういう編曲ものは大々々歓迎だと強く思う。

 原曲の渋さ、おちつき、深い味わいを殺さず活かしている。弟子ならではの愛情と敬慕へ満ち満ち、相乗効果がすさまじい。
 
 橋本國彦は戦中の活躍がめざましかったので戦後封印されてきた。そんなイデオロギーがもう関係ない21世紀に、真っ先に蘇る作曲家として注目だ。私は橋本作品ははじめて耳にした。

 皇紀2600年記念曲は例えば山田耕作の交響詩「神風」のような(このタイトル!!)あからさまな国威発揚ものから清瀬保二の「日本祭礼舞曲」のような渋い純粋音楽までいろいろだが、これはその中間だろうか。楽しい鳴り物交響曲として楽しめる。メロディーのすばらしさは特筆だし、構成も独自でしっかりしている。交響曲第1番は3楽章制で1楽章はソナタ形式、2楽章アレグレット、3楽章はなんと主題と変奏。戦前日本の代表的な交響曲として、諸井三郎のそれへ匹敵するものだろう。

 バレエ「天女と猟師」もメロディーの良さとリズム・構成の小気味よさがうれしい。管弦楽法も本物だ。

 ついでながら私の皇紀音楽コレクションもこれでR.シュトラウスの日本建国2600年記念祝典曲、イベールの祝典序曲、ブリテンの鎮魂交響曲(日本政府受け取り拒否)、早坂のイ調の序曲、清瀬の日本祭礼舞曲、山田の神風に続いて7曲目となった。

 特にどうという音楽ではないのだけれども、
皇紀2600年などというデッチアゲ記念日に、当時の人らはこんなに本気だったのだなあ、と歴史を感じてしまう。埋もれさすには惜しい。 


 8/ 5〜8/26

 (数回きいてますので期間が長いです)
 
 インバル/フランクフルト放送響のマーラー撰集。デンオンの復刻盤。とりあえず1枚物のみを復活したようだ。
 
 ブックレートによると、インバルが言うには、マーラーを演奏するにはそのファナティックな美を追求し、かつ分裂的な気質に共感しなくてはならない。この自己分裂はマーラーの亀裂であり、脈絡である。
 
 共感という言葉が出てきたのは、嬉しいというか、納得というか。やはりマーラーの音楽には、西洋的な理論では説明のつかない感情的な「何か」が如実に存在し、そこへ理屈抜きで共感できるかどうかが、重要なのだ。もちろん、理論的な部分も、充分にある。その両方の両立が、分裂とかいわれる所以なのだろう。
 分裂というより、わたしは平行存在なのだと思う。でも、混在とはまたちがうのではないだろうか。根拠はないんですが。

 論理音楽のチェリビダッケやヴァント、ムラヴィンスキー。感情大爆発のフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ。どっちもマーラーが苦手というのも面白い現象だ。
 やはりそれらの同時存在が、マーラーには必要なのでしょう。
 
 また、バーンスタインの演奏なぞ特に「ユダヤ的な情念……」の一言ですまされてしまうバアイが多いと思うが、同じユダヤ人でもインバルとベルティーニのどこが情念的なのか。それ以前にクレンペラーやワルターはどうなの!? そもそも、ユダヤ人って「情念的」な人種なのか……!?

 マーラーを演奏するのに「ユダヤの共感」云々ほどアホらしいと思うものはない。テンシュテットはユダヤ人ではない。コンドラーシンもユダヤ人ではない。バルビローリもユダヤ人ではない。みーんな濃いのに。マーラーの「音楽への共感」があるだけだ。

 ユダヤ的云々があるとそれへ対抗した反ユダヤもある。となるとラトルやシャイーなどの最新演奏は「ユダヤだとか反ユダヤだとかを超越した普遍的な云々……」とくる。

 どっちにしたってユダヤ論から抜け出ていないじゃーないか。

 ユダヤを前提にしない方が良いのではないか。
 
 インバルの演奏は、そんなアホなユダヤ論争を抜きに楽しめると思う。エキスパートといっても良い。さすがの演奏だと思う。端整な彫刻は硬く均整な印象を与える。かといって絶妙な揺れや鋭いデフォルメも聞えてきて、ファナティックな美というものを、わからせてくれる。ベルティーニも最高だがインバルも最高!
                     
 この度1枚もので復活したのは1.4.5.7.8.大地の6枚。7番8番が1枚ものっていうのは興味深い。6番はあんなに巨大な演奏だったのに。

 マーラーの交響曲群が一体として大きなアーチをマーラーの生涯と共に描いているというのは、研究者の指摘するところだが、こういう連続演奏をすると、そのアーチをどのようにとらえるかで、1つ1つの演奏の仕方も変わってくる。
 以下順次、みてみよう。

 1番

 ちょっとすると大した演奏ではないように聞えるが、そうかもしれない(笑) 

 しかし全体的にゆっくりめに、そして4楽章がずいぶんと、はりきって聞える。これは、嬉しい。4楽章を適当にやられると(同曲の弱点なので)曲の価値がとたんにさがってしまうからだ。

 金管の伸びやかな響きが、硬質な録音も相まって特徴的。何回も聴くと次第に聴きごたえのある演奏になると思います。

 4番 

 冒頭スズのささやくような音色が印象的で、もうインバルの世界。ここのスズ(とフルート)の大きさ・テンポは指揮者によってけっこう解釈が異なるので、最初から気を抜けない。提示部から展開部へだんだん大きく盛り上がるのが楽しい。管・弦ともカッチリと役割分担されており、ホルン等も鋭く響くのは、インバルの全体的な傾向だが、そういうやり方は4番では珍しく聞えるのではないか。

 2楽章も先鋭な試み。死神のバイオリンのソロが特徴的だが、実はバイオリンとホルンのデュオなのであり、バイオリンよりホルンの方を効かせる指揮者もいる。クレンペラーなんか、いかにもホルンが雄弁で逆に気持ち悪いのだが、インバルもそう聞える。マーラーは9番でもフルートとホルンが気持ち悪いデュオを奏でる。大事。重層的といえば、セカンドバイオリンやビオラの対旋律の色っぽいこと。考えてます。演出してます。

 3楽章は読み込みが深くて嬉しい! 変奏を強調しているといないとでは、がぜん「退屈度」に差が出てくる。わかっている人同士のニヤリとした楽しみ。3楽章こそ4番の醍醐味です。(こんな人、私だけだが)最初はそうは思わなかったけどけっこう深い4番だ。
 
 5番 

 うーん、唸る。このトランペットの朗々たる響きはマーラー5番を聴かせるのにとって重要だ。うるさいだけだと困りますが……(アマオケに多いのでは?)

 金管のこういう心地よい叫びは聴くとスカッとします。健康的な5番といえるかもしれない。じゃ、バーンスタインは不健康? テンシュテットは不健康かも(笑)

 かといって端麗な演奏かというと、けっこうデフォルメあり。ショックの激しさが唐突で、分裂さを演出しているのか。1楽章でも2楽章でもビリビリと響くラッパは警鐘のようだ。名手の人なのかなあ。発音のアタックが強く、ハッキリ音を出している。

 3楽章から後ろはでもふつう。3楽章ってやっぱり鬼門なんだなあ。
 
 7番

 7番は非常によい出来で、全体的にまとまりがあり、マーラーの中でもまたさらに分裂しているなどと揶揄されるこの音楽をひとつの塊としてよくとらえてある。金管の伸びやかさはこちらでも健在。それに7番は元々木管が大きな役割を持っているので木管の味わいが加わって、いうことナシ。もちろん分裂さをうんと強調している演奏も面白い(バーンスタイン、クレンペラー等)けれども、一つの交響曲としてよく捉えてあるのは、おそらくインバルだろう。

 そして、こういう系統はシェルヘンとかも、だいたい演奏時間が速く、面白い現象だ。

 7番っていろいろ解釈の差が如実に現れて、実は鑑賞のし甲斐がある。人気の5番よりずっとあると思う。

 冒頭より低音のゴゴゴという響き(私はゲゲゲの歌と呼んでいる部分)が強調されて、かなりデフォルメが効いているが、それを全体としては感じさせない絶妙なバランス感覚というものを特に感じる。そういう分裂的な強調を、さもここは分裂してございと強調するのではなく、サラリと強調。にくい演出だ。より高等なマニアックな演出なのではないだろうか。

 3楽章は逆に淡白な印象。バーンスタインが暴れん坊将軍すぎるのか。

 2.4楽章も全体的に端整な響き、アッサリとした旋律の線をはっきりとは味わわせてくれる。5楽章はソロ・ティンパニがオケの一部として立派に交響楽しているではないか。この演出は全体としての交響曲、5楽章は異分子でも異端でもない、7番のまぎれもない最終楽章で、ずっと前から続いているんですよ、という意思表示か。
 この7番は聴ける!
 
 8番

 好みの差だとは思うがイマイチパッとしない。同時に買ったギーレンのライヴの方が断然出来は上なのではないか。「ライヴの燃焼度」とかよばれる魔法薬の差か。8番など規模が大きすぎて、スタジオでちんたら録音していると概要を把握しきれずダレてしまうのか。よく分からない。

 確かに本当にエーテル宇宙のようなクンズホグレツのスコアをふつうに演奏するだけでも至難なこのトンデモ交響曲、気合が足りないとか、スコアがずれているとか、声がデカイとか、小さいとか、いうだけ贅沢なのかもしれない。

 とはいっても、できるだけ素晴らしい演奏を聴きたいのは、金を払ってるお客の特権だからして……なんか本題からずれましたね。終わります。
 
 大地

 大地の歌は難曲ながら編成はあまり大きくなく、書法も室内学的。センチメンタル全開の演奏も良いが、インバルのようなクリアな演奏も、むしろ楽しい。1.3.5楽章がなんか本領発揮。6楽章などはこのドライさはクレンペラーに通じるような……。

 よく聴いて好むのはドライ系、センチメンタル系、そしてホラー系(笑)

 ドライはクレンペラーを大将にこのインバルも。センチメンタルはワルター、そしてベルティーニ。聴いていて背筋が寒くなるホラーはテンシュテット以外に無い。

 カラヤンはクリスタル系?
    
 結論

 今回では個人的に4番と7番に特に感銘を受けました。この2種は少なくとも買って損はない。もちろんぜんぶ無いのだけれど(笑)。私はインバルの4番7番は特に★を五つつけましょう。次点は大地の歌と5番で4つ。あと3つ。
 
 残り、2枚組シリーズも復刻してくれないかなあ。既持は6番とクック10番だが、2.3.9は買いますよ。2000円でも買うなあ。初売りは6000円でしたですよ。(ヤフーのオークションで中古の3番を買いました。送料込みで2200円。まだ届いてません。金も払ってないけど。じゃ、落札しただけか)


 7/ 29〜8/7

 マンドリン合奏のCDを買い、曲をいろいろ聴いてみました。大栗と吉松の作品がメインです。
 
 大栗裕 Burlesque 火口原湖

 バーレスク(ブルレスケ)は吹奏楽にもあるが、こちらはなんとマンドリンオーケストラ。

 マンドリン合奏というと、学校祭なんかで、お釈迦様の国の音楽のような、たゆとうトレモロの響きに包まれ、恐るべき量のα波の放出にさらされて、自然とこちらも舟をこぐ……というものを想像しがちだが、そういうのを期待する(?)と、衝撃的に裏切られる。
 
 結論からいうとバーレスクは大栗の吹奏楽曲そのまんまだ。打楽器がないぐらいで、アレグロ〜アダージョ〜アレグロの3部形式。不協和音、バルトークピッチカート、鋭いリズム、アグレッシヴな推進力、土俗的な叙情……我々大栗ファンが大栗に期待するものをけして裏切らない。

 大栗の複雑なオーケストレイションは吹奏楽でも演奏がかなり難しいが、マンドリンオケでもそのようで、なかなか大栗をレパートリーとするほどの団体はないとの事。

 ましてや、30分を数える「シンフォニエッタ」のシリーズとなると……。

 そのマンドリンオケのための「シンフォニエッタ」や組曲のシリーズ、誰か小オーケストラか弦楽合奏にでも編曲してくれませんかねえ。(東芝……はダメか、あそこは……)
 
 火口原湖は「かこうげんこ」と読む。

 冒頭は重い旋律。作者はこれを「ほら貝の音」と語る。

 中間部は踊りの音楽であり、打楽器が聞こえる。(ただしこの曲は純粋なマンドリン5部編成なのだが)

 抽象的な縄文の祭典というべきか、しぶい味わいに仕上がっている。

 芥川也寸志も、いつか弦楽器だけで(打楽器ぬきの)リズム音楽を書いてみたい、といっていたが、果たせぬまま亡くなった。こういう味わいは、リズム処理が得意な人のあこがれるものなのだろうか。

 とにかく、ただ楽しげに嬉しげな旋律にきれいな和音がひっついているだけの、オーケストレイションの雰囲気すらないフツーの「マンドリン音楽」では断じてなく、次元の高いものになっているのが嬉しい。

 ようするに
「手を抜いていない」のだ。さらに「実力派」だということ。

 こういう曲を造ってもらったマンドリン界は、うらやましい。本当に大事にしていただきたい。宝物だと思う。

 吉松隆の虹色機関1は吉松唯一のマンドリン作品。まだ2はない。
 
 オーケストラを機能別に分けて舞台に並べるのは武満が得意だが、吉松も好きだ。出世作の「朱鷺によせる哀歌」は弦楽とピアノによるが、ピアノを中心に鳥が翼を広げた姿を模して弦楽が並ぶ。

 これもピッキング部隊を囲むようにトレモロ軍団が並んでいるとの事で、ピッキングとトレモロが順番に音楽を紡いでゆく。それはあたかも虹の光の重奏のごとくだ。

 吉松のことだから、ピッキング部隊がリズムをはじき出す「機関」で、周囲のトレモロが虹彩の重奏を奏でる部分……とでもしているのだろう。

 7分強のなかなかきかせる音楽だ。

 しかも吉松には珍しいミニマルミュージック。吹奏楽は嫌いだが、マンドリンオケはオーケーなのですね。シャレではないぞよ。
 
 それら以外で、3枚のマンドリン作品集からめぼしいものをひろうと、池辺晋一郎のマンドリン・マンドリアーレ、国枝春恵のブレンズ、桑原康雄の「機織る少女」による主題と変奏、ぐらいがまずまずおもしろかった。あとはクズ。おしなべて「ラリホー・ムジーク」であることを報告しておきたい。メールで知人となったマンドリン奏者の方が、

 「あまり難しい曲を作曲すると初演以後演奏してもらえないので、みなカンタンできれいなだけの曲を造る。これでは真の発展はありえない」

 と嘆いていた。
 
 マンドリンも吹奏楽と現状はたいして変わらんようだ。
 
 いや、誤解していただきたくないのが、管弦楽曲にだってクズは履いて捨てるほどある。ようは、絶対量の差だと思う。仮にお宝曲とクズ曲の比率を1:5と仮定する。すると、吹奏楽やマンドリンは10:50ほどになるのではないだろうか。そして、管弦楽曲はもう1000:5000は絶対にある。

 そうすると、異ジャンルでお宝:お宝を比べると、1:100になってしまう。

 これではどうしようもない。
 
 まあ、それだけ管弦楽は歴史と人気があるということなのかもしれない。


 7/ 30〜8/2

 マーラー三昧その2。
 若杉/シュターツカペレドレスデン 1番
 ティルソン−トーマス/サンフランシスコ響 6番
 ラインスドルフ/ボストン響 6番
 デワールト/オランダ放送響 6番
 オルソン/ポーランド国立放送響 10番(フィーラー版/オルソン編)
             
 1番は若杉/都響で気をよくし、オケがもっと上ならさらにすごいと思って中古で入手したもの。スタ録のせいか、白熱したものは無いが、それを上回るのが丹精で情緒あふれる、貴族的とまでいいたくなる古式ゆかしい響き。でも、アンサンブルの造りはあくまで現代的で、似てるといえば表現はワルター/コロンビア響に、オケの造りはむしろシャイーかラトルの系統に思えた。東ドイツのオケは弦と木管がよいというのが「定石」であるが、本当によいですね(笑)

 なんでこのコンビは1番しかないんでしょ!?

 もったいない。
 
 MTTの6番は最新録音。2001ライヴ。

 くだらぬ付加価値がついているようだがとうぜん無視。

 表現は、悪いものではない。わたしの好みとしてはべらぼうに称賛するものでもないが、人によって最高級な賛辞を与えるに足る演奏だと思う。

 なんといってもテンポの自在なことは唸る。かといって無勝手な流儀(ああ、シェルヘン先生!)ではなく、スコア通りなのだから、よけい唸る。表現の幅は大きく、だからといってけして崩れない端整な外観は現代の指揮者らしい。といっても奇麗事に終わっていないのにまた唸る。

 1人でうーむ、うーむと唸っている次第だ。

 
指揮が上手な人、とはこういう人のことをいうのだろうなあ。

 オーケストラも上手ですよ。アメリカ5大オケというのが実は私はよく知らないのだけど、NY、ボストン、フィラデルフィア、クリーヴランド、シカゴのことだと思っているんです。ではサンフランシスコなんてのは2流までとはいかないが1流半なのか? それとも5大オケが超1流で、シスコ響は1流なのだろうか。1流であってください。シスコ響が1流半なら日本のオケは悉く2流3流、はては番外ではないか。(そうなんだけど)

 なんといってもマーラーの6番とか9番とかやると、とたんに馬脚を表すのが悲しい……。別にマーラーが絶対できなきゃならないというわけではないですけども、悲しいものは悲しいんだい。

 それはさておき、4楽章で、急に狂ったような木管が聞えるのですよね。いままでこんな音は聴いたことがないので、驚いてスコアを確認したら、トリルの木管がちゃんとある。確かにここは全員が f で打楽器だけが ff 、でもすぐにみんなディミュニエンド……こういう指示だが(173小節目)木管がいちばん大きい表現は初めてでクレンペラーみたいだと思った。(しかもこういうトリル付木管は次の7番で本領を発揮するわけで、それへの布石かも、などと思わせるあたりも深い!)

 ちゃんと自己流の部分もあるのがにくい。

 またどんなに激しい部分でもしっかりと棒の制御下にあるのも、やっぱり唸ってしまうのだった。

 ハンマーはアタック鋭く、余韻短し。音量大にしてインパクト強く、感情的に非ず。
                           
 白眉はラインスドルフどす!!!

 古い録音がすばらしいのはもうこれも「定石」だなあ。それともわたしがこういうむかし風の気合の入った演奏が好きなだけなのかもしれない。

 いまやマーラーも「古典」の部類に入ってしまって……(ベートーヴェンは化石? いえいえそんな事はありません)MTTとかの演奏がスタンダードになりつつあるのだろうが、じょうだんじゃない、こっちのほうが斬新だぞ。(前衛が流行ってたから?)

 マーラーとかブルックナーとかの構造の複雑な音楽は、そのマニア心をくすぐる総譜の構造をどうにかして自分流に解きあかすのが流行りがちだが、それを分かってくれる耳をもった人なんかどれほどいるのか? (わしは分からんぞ)

 専門家のオモチャにしてほしくはないというのが正直なところだが、そういうアプローチを否定するものではない。マーラーやブルックナーは、大ロマン派よりの歌や感情を引き継ぎつつ、12音へつながる複雑な構造を併せ持つという折衷的な特質があり、そのどちらの方向へもアプローチが可能なわけで、それは聴き手の楽しみが増すという嬉しい事であり、歓迎すべき事であると同時に、それだけ作品の奥が深いという事でもある。

 ラインスドルフの演奏は1965年、テンシュテットですらまだマーラーには手をそめておらず、バーンスタインの旧録と同時期。1楽章はリピートなし。2楽章スケルツォの颯爽たる響き。3楽章アンダンテの終わり、旋律が高らかに鳴る部分では対旋律の低音も負けじと朗々と唄うところなど、ぜんぜん現代的。いまの録音でも問題ないと思います。

 4楽章はハンマーの部分が流石にドライにサクサク進むの(クレッシェンドでほんの少しもテンポが遅くならないので
アッというまに鳴って次に進む。もうびっくり。リタルダントって書いてるのにィ…)ですが、2回目のハンマーの後の展開部の最後の部分、なんと盛り上がる場所を心得ている事か!!

 にくい! 

 (どこかといいますと、そこが私は4楽章……否、6番交響曲で「もっとも胸を打つ箇所」なのですが、4楽章展開部の最後の方、2回目のハンマーが終わってからまた音楽は主題を料理しながら盛り上がり、ついに頂点を迎える……練習番号153 テンポ1 アレグロ・エネルジーコ 4/4のあの部分!! 胸をかきむしる。涙がちょちょぎれる。拳を握る。もう魂の底から共感する)

 それは英雄の最期の抵抗であり、最期の咆哮であり、最期の行進であり、最期の希望であるのだが、ご存じの通り、ついに、英雄は倒れ伏す。

 3番目のハンマー(削除)は、まさに力つき、パタッ…という感じで。分かってるなあ。
分かってますね。この方。すばらしいです。★五つ。

 あ、あと、古いといっても、音質は上々のステレオです。MTTと変わりません。
 
 デワールトはなぜかガーシュウィンの作品集を持っているのだな。

 あとリヒャルト・シュトラウスの管楽作品集というマニアックなものもあったりして……。偶然だろうな。その2枚しかない。

 ようするに「たいしたことない」指揮者のイメージが強かったが、この6番は良いです。

 え、何が良いかって……ごもっとも。まあ専門家ではないただのファンなので感情的な言い方になるのはご容赦ねがいたいですが、充分に鳴らしてくれている、そして、情感にあふれている。テンポは中庸で、表現も中庸だが、中に火がついているのをわたしは聴き逃してはいない。

 盛り上げかたも、むしろラインスドルフに似ている。それは4楽章の「もっもと胸を打つ箇所」で最も盛り上がる……それはこの曲で最も盛り上がらなくてはならない箇所であって、正しい盛り上がりかたであり、スッキリする。感動する。繰り返しになるがそこがあってはじめてラストが生きる。ハンマーも生きる。著書にもあるが私は6番でハンマーこそ同曲の「象徴」であり、なんでわざわざ「ハンマー」なのか、試行錯誤の上けっきょく「ハンマー」になった意味、3回になった意味、順に弱くなってゆく意味、数ある交響曲で6番だけ「どうして」ハンマーが槌音を響かせるのか(これは4番でどうして鈴なのかも同じ)、を考えると、ハンマーのない6番、ハンマーを軽視した6番は無意味だとすら思っている。ハンマーにこだわるのは一見、外見的であろうかもしれぬが、ハンマーハンマーと騒ぐは愚かなり、の風潮はそれこそ本末転倒ではないのか。

 大事に聴いてほしい。
 
 今回の3枚は、みなズシン…!と心地よい響き。ガンと鳴るのや、ストーン!!と鳴るのや、期待外れで他の打楽器にうずもれて判別不能のもの、ナニを思ったかいきなり金属音の鳴るもの(ノイマン/チェコフィルの旧録)まで、6番を聴く醍醐味だ。指揮者の6番観が如実に現れる部分。

 ズシン…!の、ン…!の余韻は、おそらく台を叩いた衝撃がステージ下にまで届いて、床下で反響している音であると分析する。能と同じだ。 
 
 さて10番。

 フィーラー版は着手はクックより早いが出版は遅く、金子先生の著書によれば、実用版としては不向きなそうだ。それは手書きのスコアがすでにインクのにじんだ不鮮明なもので、それを写した出版譜はさらにワケがわからず、現代のレンタル・スコアはコンピュータ処理をしてようやっと見える程度のものであり、そもそも素人のフィーラーはあちらこちら間違いも散見できるので、今回の「オルソン編」というのはそういう明らかなミスを指揮者が直しているという意味。

 クック版の1.3楽章が公表された後のことだったゆえ、フィーラーはとくにクックがまだ手をつけていない2.4.5楽章に力を入れ、一聴してオーケストレイションがぜんぜんちがっておもしろい。誰にでもわかる。
ぜんぜんちがう。

 1楽章では、専門家が指摘するような細かな音のちがい以外の私のような素人でもわかるような部分は、不協和音の後にティンパニの連打が入っていることほどだったが、2楽章からは、オーケストレイションが根本からちがうので、すぐにわかる。クック版とはちがう楽器が旋律を奏でているため、クック版を聞き込んだ人ならなおさらだ。(クックでは弦だったのがホルンだったりティンパニ連打だったり。はてはクック版には無い対旋律があったり)

 そして、マーラーが空白のまま残した箇所は、補筆者によってまったく音楽がちがうのは、これはむしろ当然だろう。

 これは、
かなり、おもしろいです。10番のファンは、ぜひ、聴いてみる事をお薦めしたい。ナクソスで安いし。(まさか既に補筆版を聴いているくせにクック以外はダメだなどという本末転倒なことをおっしゃるのではないでしょうね!?)
 
 今回のマーラー三昧は3種の6番に焦点をあててみましたが、1・10という両極端な2種も、意味深いたいへんに面白い演奏でした。またデワールトは選集を集めようかと思ってます。集める価値、大いにありです。
 
 次のマーラー三昧は、復刻なったインバル/フランクフルト放送響のマーラー撰集です。(撰集の基準が1枚組オンリーというのがまたセコくて良い)
 


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