9/8

 偶然ながらドヴォルザークの誕生日に5番を聴く。

 エリシュカ/札幌交響楽団
 ドヴォルザーク:第5交響曲 L2010
 ヤナーチェク:シンフォニエッタ L2010

 このシリーズは好きで、実演もけっこう行っている。この演奏会も行った。

 我輩はドヴォルザークの交響曲では5番が一番好きで、CDは少ないのだがスウィトナーやノイマンを良く聴いていた。なので、既に6番7番で独特の解釈をするエリシュカの5番は演奏会も含めて本当に楽しみだった。

 このエリシュカという人は、年をとったからかどうなのか、西洋人にしては珍しいくらい清涼で軽やかな演奏をする。非常に淡白で、特に札響では金管が弱いせいもあり 「物足りない」 と感じる人も多いだろう。ドボ5などノイマンではもうコッテコテのド田舎シンフォニーという演奏なのだが、エリシュカにかかると、かくも旋律の歌い方はチャーミング、低音もスキップのようだし、あのクドイ4楽章もサッラサラのサスーンクオリティである。

 絃と木管を主体とし、金管が軽い。タダでさえ軽い札響の金管に、たぶんさらにそういう指示が出ているのだろう。音が小さいというではないが、軽い、薄いとしか云い様が無い。悪く言えばスカスカ。

 そんなもんだから、まあ、素敵で、上品な演奏である。極めつけに上品だ。もっと野趣、野味を求める人もいるだろうが、ノイマン等で溜飲を下げてもらい、ここは貴族的とすらいえるこのお上品さ、日本的とすらいえる典雅さを味わいたい。

 それでいて、全体からじんわりとした優しさがにじみ出て、滋養豊かな澄んだスープでも飲んでいるかのごときすっきりした満足感がたまらない。まさに究極メニューの仏跳墻(ファッチューチョン)もかくやだ。飲んだこと無いから知らないけど。
 
 シンフォニエッタも好きな曲だが、濃厚にやるとロマン派になり、上品にやると新古典派になり、斬新にやると現代っぽくなるという不思議な曲。やはりそれはヤナーチェクの語法が独特だからっぽいが、ここではドヴォルザークと同じく(プログラムではヤナーチェクが先)かなり澄んで淡白な印象。冒頭のファンファーレから幻想的。テンシュテットの滅茶苦茶濃いいシンフォニエッタも良いが、こういうのもいい。

 幻想的ながら、旋律のカドはクッキリとし(録音はソフトだが)キビキビ動いて無駄が無い。またヤナーチェクの孫弟子にあたるエリシュカの 「直伝」 語法も興味深い。ヤナーチェクの発話旋律はチェコ語に由来しチェコ語を解する者のみが適正な歌い回しが可能である。

 4楽章のチャイムがチューブラーベルではなくグロッケンシュピールになっているのも面白い。これは、スコアは単に 「鐘」 となっているが、慣習でチューブラーベルを使用しているに過ぎなく、作曲者の意向ではここはグロッケンシュピールなのだそうである。確かに背後のオーケストラの薄さに比べてチューブラーベルではうるさく、音色も唐突で、グロッケンシュピールだとしっくりくる。
 
 単純にクドイのが好きな人はこれも物足りなく感じるだろうが、薄口ながらかなりしっかりした味のある、シンフォニエッタの1つの理想の演奏であるに違いない。

 ただでさえソフトなフレージングに、録音もかなりソフトで拍車をかけている。全体的に風呂の中で聴いているように思う人もいるかもしれないが、キタラホールってじっさいあんな感じです。実演に近いと思います。


8/28

 佐村河内の交響曲第1番「HIROSHIMA」をしばらく聴く。どんな曲かは交響曲のページにあるので、ここでは個人的な感想を。

 大友直人/東京交響楽団 佐村河内 守:交響曲第1番「HIROSHIMA」

 ついにこの曲の全貌がCDとなって露わになった。いつかなるだろうと思っていたが、存外早かった。そして、色々のぞいてみたがWEB評も上々である。既に東京での2009年の1・3楽章抜粋演奏の時点で伝説となっていた。その前の広島での初演は、神話の開始だった。広島での演奏により、芥川作曲賞にノミネートされたが、推薦者以外の満場一致で却下された(笑) 技法が、あまりにもロマン派的だったから、だそうだ。

 納得いかない審査員の三枝成彰が、仲のよい大友に譜面を託したのが、伝説の始まりだった。

 まあそれはそれとして、これからは、この音楽は一人立ちをして、歩いて行く。もう、全聾の作曲家の曲とか、被爆2世の曲とか、少しずつ、関係なくなって行くだろう。

 最初はいいのである。そういうので興味を持って、聴いてもらって。だが、聴いてもらった後は、音楽のちからのみで進んで行かなくてはならない。

 私は、まったく問題ないと想う。音楽のちからのみで? 重量級のパワーだ。無敵のちからがこの曲には潜んでいる。こんなマーラーにもショスタコーヴィチにもペッテションにも匹敵する曲が同時代人のさらに日本人からから生れた事に、誇りを感じる。これは素晴らしい。

 もちろん、古典好きな人からはうるさい、長いと言われるかもしれないし、現代ものファンからはどこが現代だと言われるかもしれない。そしてそれは正解だ。

 もう、この曲はそんな次元の話ではない。普遍的全人類的な価値を有している。ベルリンフィルで、ウィーンフィルで演奏されたって、ちっともおかしくない曲だ。

 絵画や彫刻の美術の世界もそうなのだろうが、現代藝術、現代前衛というのは、これまでに無かったものを生み出す事にある。それは技術的に、がメインとなり、現代音楽ではあのチンプンカンプンな、異次元人のカラオケみたいなものが今でも尊ばれる。

 しかし、そんなものは、三善晃がいうまでもなく、既に1960年代に技術の限界に達している。いや、そもそも、始祖のヴェーベルンを超える曲がどれだけあるっつうんだ。

 つまり、だから、ゆえに、そう、もう、問題はとっくに実は精神なのである。前衛とは前衛的精神の発露であって、技術の問題ではない。

 ただ、一般的には、前衛精神を発揮するには前衛手法でなくてはならないと思い込まれているにすぎない。

 そういう思い込みに、このような曲を聴かせても(譜面を見せても)、そりゃ前衛と想われないにきまっている。問題は中身で、ヒロシマでもなんでも良いのだが、この現代にこれほど暗黒と希望と絶望と光とが混在し、それをストレートに表現して、ヒロシマなのにこんなに抽象的で、こんなベターでこんな(現代として)異質で矛盾している曲は無い。


 こんな音楽は、現代音楽界では色々な意味で基本的にあり得ないのである。


 それを佐村河内はやっちまった!!

 楽壇なんか屁の河童なのだ。それこそが前衛でなくて何なのだろうか。反骨でなくてなんなのだろうか。こんな曲は、これまでの日本にあっただろうか。


 無い。


 三枝は21世紀最高の前衛作品と言ったようだが、そういう意味だと思う。

 ブームにはならなくて良いので、続けて佐村河内の音楽が聴かれるようになって欲しいと思う。ようするに次は第2交響曲をお願いします。また、鬼武者とバイオハザードのサントラも聴く事をお薦めします。


8/23

 しかし、7月はまるごと新譜を聴いてなかったんだなあ。

 8月だって、もう中すぎだし……。

 それはそうと、おなじみ不気味社の音楽応用解析研究所の八尋所長と、伊福部音楽のギター演奏で定評のある哘崎考宏さんがタッグを組み、まさに


 
豪快乙!!


 としか云いようのないステキで無敵なアルバムを制作した。

 それが、伊福部昭 SF交響ファンタジー ギタートランスクリプションズ である。

 哘崎考宏と八尋健生両名人の編曲による、ギターデュオ版のSF交響ファンタジー全曲だ。なんたる、なんたる豪快な企画(^^;

 まずラインナップを見てもらいたい。

 伊福部昭:(ギターデュオ編曲:哘崎考宏、八尋健生)

 怪獣大戦争マーチ
 SF交響ファンタジー第1番
 SF交響ファンタジー第2番
 SF交響ファンタジー第3番
 SFファンタジー「ゴジラVSメカゴジラ」
 SFファンタジー「ゴジラVSデストロイア」

 なんたる豪快な曲目の数々……。もうこれだけで平伏土下座であるが、順に聴き進めて行こう。

 まず怪獣大戦争マーチ。粒の際立った録音もあって、かなり立体的に攻め込んでくる。2台のギターを完全に分離したような編曲のせいもあるだろう。ただの編曲ではなく、オーケストレーションと行っても過言ではない。

 SF交響ファンタジー1〜3番も同じ。ここでファンとして気になるのは、先にSF交響ファンタジー第1番をギターデュオにした、上田デュオ版との比較だ。結論から言うと、もちろん両方ともそれぞれの味があって素晴らしいのだが、単純に、聴いた感じで比較してみた。

 上田版のほうが、主旋律をメインにし、2台のギターが重なって厚く響いてくる分、ユニゾンのように一本調子に聴こえる。逆に哘崎・八尋版では、2台を完全に分けて、独立して響いているので、線が細いが、複雑な音響を奏でている。また、後者の方が、ボディノック等の特殊奏法が多い。

 1番も良いが、2番の冒頭のティンパニの再現度、またはキングギドラの豪快なうねり、3番の地球防衛軍のテーマのピッコロ部分、素晴らしい演奏。第2ギターの岩木俊宏の技術も凄い。

 また、面白いのが、平成メカゴジラやデストロイアの両者選曲による独自のSFファンタジー組曲である。この2つは、特に平成メカゴジラのテーマや、デストロイアのテーマが秀逸なのだが、残念ながらコンサート用に編まれなかったので、サントラを聴いて溜飲を下げるしかないのが現状である。

 (スーパーX IIIのテーマって空飛ぶ木馬のテーマだったのねw)

 こうして、ギターデュオ版とはいえ、コンサートで聴ける要素が加わったのは歓迎したい。

 しかし、再現度が高い(笑) やはりなんというか、拾う部分を 「分かっている」 ということなんだろうな。








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