さ  むら  ごう   ち   まもる
 佐村河内 守(1963− ) (新垣 隆(1970−) )


※今交響曲の代作問題について

 今回の騒動で、本稿において今交響曲に関する追加を記します。(以下敬称略)

 作曲者名(ページタイトル)は、新垣隆が著作権を放棄したので、佐村河内守(新垣隆)とする。佐村河内守/新垣隆と併記(アイウエオ順)にしようかとも思ったが、そもそもどのような売買契約なのか分からないし、契約自体を結んでいないかもしれない。買取であれば、例えば出版物であれば買い取られたものは誰の名義で出版されようと文句が言えないし、当然印税ももらえない。「買取」とはそういうことだから、表記に関しては、本来は新垣の出る幕はないし、新垣も(他の曲も含めて)あんなものは自分の作品として数えてほしくない、と思っているかもしれないのだが、せめて中の人という意味でカッコ書きとしたい。

 今作品は、少しでも佐村河内が音を鼻歌程度でも書いているのかと思いきや、そうではなく、完全にイメージのみの原案のような形であるようだ。それでも、この時代に往年のような「交響曲」を書いてくれと発注した事実は、いかに素人ならではの発想とはいえ、感心する。しかもそれが実現しているのだから、そこは凄い。

 だいたい、結果として売れたから印税が佐村河内にがっぽと入っただけで、発注当時は音になるかどうかも分からない1時間以上もの交響曲を200万円?で本当に頼むものか?

 結局、どれだけ佐村河内のイメージどおりに仕上がったのか知るすべもないが、結果として新垣の手腕にも驚く。三善晃の弟子だそうだが、新垣本人の普段の作風とは恐らく似ても似つかないものを、発注ありきとはいえよく書いたものだし、書けたのだから、これは望むと望まぬとにかかわらずもう 「新垣の音楽」 だろう。

 しかし(今更感はぬぐいきれないがw)当初これは無題の、ただの交響曲第1番だった。プロットでは「現代典礼」というオネゲルみたいなイメージだったようだが、それにしても完成品はただの音楽だった。

 しかも、はじめ佐村河内も 「耳の聞こえない人が書いた音楽と思って聴いてほしくない」 とかなんとかそれっぽいことを言って、「被曝者2世を隠していた(ことになっていた)」 し、それをふまえて無題の交響曲に大いに賛同したものだが、いざ売れ出すと副題が正式に「HIROSHIMA」になっちまって、あまりにあからさまにあざとすぎて、大いに落胆した。根源的標題は広島かもしれないが、あえて無題なことに価値があると思っていたので。東京で1・3楽章抜粋版演奏を聴いたときは、確かに副題なんて無かった。

 そしてそのことを以前のブログ「後の祭 第4番」で指摘し疑義を呈したら、メチャクチャ、というか、けっこう叩かれた(笑)

 その時、ああ、もうこの人には音楽ではなくその不幸な境遇とそれを乗り越えたサクセスストーリーを味わう「信者」がいるんだな、もうその音楽だけ語るのは無理なんだな、と辟易して萎えた。震災の少し前だと思う。

 そして、副題の発案がどっちかは知らないが「HIROSHIMA」で行きましょう! と話をごり押しで進めまくったのは絶対レコード会社や企画会社であるはずで、それを甘んじている佐村河内にも納得はゆかなかったが彼にも生活があるし、障害者年金以外にも収入は欲しいだろうから、と当時は思って、それは置いておき、せっかくの面白い交響曲をそんな状況に堕しせしめた不満はレコード会社や企画会社に向いた。その後、売れるに売れて、「全国ツアー」に到っては萎えまくって行く気にもならなかった。いや、商売なんだから売るのが悪いのではなく、もう売り方が度を越して、浅ましいほどにやり過ぎだった。

 その連中が被害者ぶって損害訴訟も視野に、とは恐れ入る。もう消しちまったブログだから確かめようもないが、我輩を叩いたやつに業界関係者はいなかったか!?w

 それは冗談だが、曲については、聴くからに技術ではなく「イメージ」としてのマーラーだのショスタコだのブルックナーだの(ペンデレツキ??)は、佐村河内が作曲したのを前提に聴いていたから、素人ならではの限界を含めたオマージュとして、普通に消化した。そんなのは、誰とは言わないがAKT川とかプロの作曲家でもいくらでも先例があるし、むしろ現代にそれを「やっちまった」のが価値だし面白いと思ったから。それは、実際にそういう発注だったので、良くも悪くも、やっぱり凄いと思う。佐村河内・新垣のどちらも。

 構成はちょっと長すぎてツライ部分もあるが、それもブルックナーの5番「みたいなもの」と思ったし、最後のコラールも演出としてじっさい良い。

 佐村河内は、詐欺師だペテン師だインチキだクズだと今後も言われ続けるだろうが、音楽史に怪しげな詐欺師ペテン師はつきもので、自分としては現代日本音楽界稀代の「奇人」として記憶に残るだろう。正直、いい意味で残る。不謹慎だろうが、ネタとしてこんな面白い騒動は昨今なかった。痛快ですらあった。佐村河内でうまい汁を吸っていた連中、実際に障害のある人・被災者等で本当に彼から勇気とか希望とかをもらっていたという人は別にして、その「ストーリー」を都合よく利用しておいて騙されたとか許せないとか恥ずかしげもなく喚く連中には、ざまあみろとしか言いようが無い。

 以下は佐村河内作曲として聴いていたものをそのまま残します。今となってはツーショット写真は貴重だなw

 ところで、発言を信じるに2番が完成しているそうなので、もう気兼ねないだろうからぜひ「原案イメージ:佐村河内守/作曲:新垣隆」で発表してほしいものです。

 ついでにHIROSHIMA交響曲はGHOST交響曲に改名して再販したらどうだろうw

 ※ちなみにブログを解約したのは叩かれたからではなく、震災のときになぜかFC2のサーバーがパンクして、1か月半くらい更新できなくなって、頭にきたからである。

 2014/2/7 九鬼 蛍


 友人が 「さむら かわちのかみ」 って読んで苦笑したのだが(笑) 佐村河内は広島に実在する苗字で、ペンネームではない。元々は瀬戸内海の海賊氏族だったようである。

 この人は、ヒバクシャ2世、全聾、病気、作曲家、というので、どうも凡人の私には構えてしまって音楽を素直に聴けない嫌いがあるが、それでもその音楽は確実に本物だ。

 最初に知ったのは吉松隆のブログでその著書を紹介された記事で、2008年だから2011年執筆時としては、けっこう前だと思う。その後、私も曲を聴きたくなり、ヤフオクで鬼武者やバイオハザードのゲーム音楽のCDを買って聴いてみたが、いかにもクラシック系の人が大まじめに書いた曲で、実に共感を覚えた。それから、吹奏楽曲「吹奏楽のための小品」を聴いた。小品というので展開や構成に物足りないという不満は残ったが大ヴォリュームのとんでもない曲で、技巧に惑わされがちな現代曲とは一線を画したその骨太さに驚嘆した。

 その後、その境遇も含めていろいろと話題になって、ついにその大規模な交響曲の世界の全貌の一端がかいま見られたが、本人も 「耳の聴こえない人が書いた曲」 という色眼鏡で見られるのを嫌がっており、私もそのムーヴメントを忌避していたが、しかし、それはやっぱりどうしようもないことなのだ。

 だって聴こえないものは聴こえないし、聴こえない人が書いているものは聴こえない人が書いているのだから。

 2010年4月に東京で行われた1・3楽章抜粋版の演奏会に駆けつけたが、それは感動というより衝撃的な音楽だった。私としては、ヒロシマだ、全聾だというのは、このさい、やはり第二義的に考えたい。それにしたって、本人が副題をヒロシマにしてしまったから、これはもう世にいくらでもある 「ヒロシマもの」 の1つなのだが。

 で、何が衝撃的だったかというと、この21世紀にこんなものを書いて良いのか、というほどにロマン主義的な技法だったのである。吉松や三枝が絶讃するのも無理はない。というか、まあ、それを求めて聴きに行ったんだけど(笑)

 前衛というのには定義があり、先人がやっていなかったものを生み出すことに意義がある。ただ、音楽に関しては技術的にそれがとっくに限界なだけであって、その定義自体は変わらない。それは私も賛成する。

 小賢しくナントカ係数に従って音符を割り振って作曲するのもけっこう毛だからけでまあまあ面白いが、音楽の持つパワーは圧倒的にこちらのほうが上だ。それはもう、ミジンコと神の如く差がある。

 佐村河内の音楽は、技術的には偉大なる先人交響曲作家のものを準用しているかもしれないが、その精神において、これまで誰も生み出さなかった音楽を生み出している。

 それを前衛と言わずして何と言うのだろうか。


第1交響曲「HIROSHIMA」(2003)

 3楽章制で75〜80分という、マーラーショスタコブルックナー系統の正統な後継者である。似たような流れで、振ると面くらうもといフルトヴェングラー大先生の曲があるが、はっきり言って出来は段違いにこちらの方が素晴らしい。次元が違う。

 また、日本版ペッテションといっても、まったく問題はない。つまり、交響曲の進化の中で、ブラームスドヴォルザーク的な新古典〜国民楽派的なそれとは一線を画した、大ロマン趣味のもので、現代日本においては、かなり珍しい。

 作者により、第1楽章「運命」 第2楽章「絶望」 第3楽章「希望」 という言葉が与えられているが、それは根源的標題という程度のもので良いだろう。
 
 そもそも、「ヒロシマ」の標題とて、聴いてみれば分かるが、交響詩的なものではなく、あくまで根源的な作曲動機、あるいは音楽の背景、または自己表現の意思表示ていどのものであり、当初は無題だった。原爆の惨禍とその中で生きる生命の讃歌を書いてはいるが、ヒロシマの描写というものには聴こえない。これはこれで純粋な「音楽」である。エノラゲイは飛来しないし、原爆は炸裂しないし、阿鼻叫喚は聴かれない。ただ、それらを全て抽象的にひっくるめた巨大な感情の吐露は、聴こえてくるかもしれない。

 1楽章は約20分ほどある。解説によると展開部を欠いたソナタ形式らしいが、よく分からない。展開部を欠くというのは、提示部が既に自ら展開しながら主題を提示しているという事らしい。それはマーラーから新ヴィーン楽派に見られた技法で、つまり、それでは複数の主題は通常の展開部としての常套手段としてあまり絡み合わないで、ひたすら提示され(展開され)続ける。その通り、この1楽章は、だいたい数分の 「センテンス」 のようなものが、ゲネラル・パウゼ(あるいはそれに近いほぼ無音の部分)を挟んで複数、順次登場するという作りである。ただ、順次提示され続ける主題の中に、それまで提示された主題が刺し子のように 「差し込まれて」 いる可能性はあるが、そこまでに専門的になると私にはちょっと(今のところ)聴いただけでは判別つきがたい。何回も聴けば分かるかもしれないが。(主題の提示と展開が同時に進行し、複数の主題が複雑に編み込みのように差し込まれているのは、マーラーの4番の1楽章の技法である。)

 暗澹たる低音が蠢き、その奥に仄かな人魂のような青白い火が浮かんでいる。絃楽が悲歌を歌い、唐突にゲネラル・パウゼ。ズーン、とテンポが上がり、運命が渦を巻く。何をもって運命なのか。原爆か。戦争か。地獄か。作者の人生か。怒濤の音響に乾いたチャイムが響く。これは最期の希望への希望である。短い動機を絃から金管に引き継ぎ、ゲネラル・パウゼ。先に少し提示されていた絃楽の悲歌が本格的に、切々と現れる。運命の嘆きか、それとも運命に翻弄される自身への慰めか。まさにチャントが、祈りの心が、歌が、しみじみと切ない。一瞬の静寂。

 運命主題ともとれる音響の渦が再度登場し、悲歌主題と絡んで展開してゆく。フガートっぽくテンポが上がり(3楽章へ通じるテーマ…のような気がする)その頂点で光も差す。が、あっという間に暗雲にかき消される。ううう……。ゲネラル・パウゼ。

 悲歌主題より発生したような、祈り主題ともいうべきものが新たに登場し、木管を主体に歌われる。それが中低絃に引き継がれ、冒頭の暗黒部分を展開して行く。ミュート付トランペットが異常な空気を演出する。このあたりのストラヴィンスキーのような乾いた叙情は聴かせる。うねりが生じ、暗黒は飲み込まれる。

 頂点で運命主題が再び噴火する。それはキノコ雲よろしく成層圏まで立ち上がって漆黒の火の玉となって落ちてくる。

 おお、死。死。死。累々と横たわる死の河。

 音楽は音楽のみで鑑賞すべきではあるが、ここまで強烈なメッセージ性を持って迫ってくると、私のような凡百にはそれも難しい。

 死の鐘が微かに鳴る中、冒頭の虚無、もしくは混沌に回帰して、消え行くように1楽章は終わる。

 2楽章も、複数のセンテンスがゲネラル・パウゼ、あるいはそのようなほとんど無音に近い弱音による一瞬の静寂に遮られて順次登場する形式をとる。最も長い楽章で、30分ほどだが、大友のCDではたっぷりと歌って35分ほどにもなる。

 ここは、絶望というより、絶望に際し一心不乱に祈るという行為や思念そのものが歌われているのではないか。

 ホルンが孤独な歌を歌いだす。不協和音(?)ながら美しいハーモニー。調性ではあるが、確たる調は放棄されているようだ。後期ロマン派を継いでいるといっても、完全にベタベタな作風ではなく、かなりドライである。ホルンの提示する乾いたテーマを木管や絃楽が淡々と紡いで行く。静寂から、長い悲歌が始まる。ここはセンチメンタル全開だが、お涙ちょうだいという雰囲気ではない。また静寂というか「間」より、トロンボーンが主導する思い暗黒のテーマへ。暗黒の中にも、かすかな歌が流れるのが救い。

 やおら、安息のテーマともとれる、ドラマのテーマのような、武満が好きそうな主題が登場するも、アッと言う間に深刻なブルックナーみたいな響きがそれにとって変わる。ホルンがまたも高らかに悲劇のテーマとして宣言し、コラールとなる。安息のテーマも絡んできて、複雑な主題労作を形作る。

 一瞬の間をとって、安息のテーマが再び現れる。が、すぐに暗黒のテーマが背後に忍び寄る。しかし希望の、祈りのテーマは負けない。暗黒を振り払って、歩もうとする。コラールもそれを鼓舞する。まさに音楽による物語である。すなわち、それは完全に正しいロマン派の交響曲なのだ。ブルックナーふうテーマが鳴り響き、安息主題を神の如く導く。安息は、息も絶え絶えとなってしまう。

 アレグロが開始される。切迫した焦燥感と緊張感。ついに暗黒主題が堂々とが牙を向く。暗黒が走り去り、ゲネラル・パウゼ。瓦礫の中を、ぽつねんと歩く虚無。黒い雨が降る。

 木管が、悲しげながらも、希望のテーマを吹き上げるも、どんどんか細くなって行く。希望は、まだささやかな祈りの段階でしかない。絶望の中でのささやかな祈りでしか。

 次々に新しいセンテンスが現れる。全て絡み合ってはいるのだろうが、展開が見事なので新鮮だ。木管が、朴訥とした歌を歌い、トランペットがそれに色を添える。まさに賛美歌。ホルンとトロンボーンに優しく引き継がれ、室内楽的な柔らかい金管合奏が素晴らしい。それを絃楽が受け継いで、波のように寄せては消え行く。いまにも消えそうになり、クレッシェンドから一気に悲劇的暗黒コラールへ。暗黒のテーマがまたも牙を向き、咆哮し、祈りのテーマを踏みにじり、凌辱する。

 膨大な光を求め、祈りのテーマは雄々しくそれへ対抗する。その頂点を過ぎ、時の向こうから鐘が鳴る。光の象徴である鐘が。祈りのテーマはまだ鳴り響く。盛り上がって、静かなる祈りか帰ってくる。どこまでも、何があろうと、ひたすらに祈り続けるのである。

 だが1楽章冒頭の暗黒主題が現れ、祈りを闇で覆い隠してしまう。2楽章も同じく消え行くように……いや死に行くように終わる。

 やはり、3楽章こそ今交響曲の白眉だと思う。3楽章は25分ほどの音楽である。

 短い闇の続き。クレッシェンドからついに、闘争のテーマが吹奏され、戦闘の開始を宣言する。祈りだけではない。戦わなくては闇は払拭できない。激しいアレグロから、闇に抗う音形が容赦なく響いてくる。打楽器も連打され、絃楽は猛り狂う。

 第2の主題は、オーボエから始まる静かな、安息のテーマとも云えるもの。ただし、戦場の緊張感は失われない。なぜなら、戦闘のテーマがその中に隠れているからである。納めた爪を研ぐように鋭く隠れている。

 絃楽のフーガが始まり、激しさを増して行く。これは1楽章からの循環のように感じる。長い交響曲ながら統一感を出す技法は充分にある。金管が絡んできて、悲愴な孤独のテーマ、あるいは挑戦のテーマともいうべきものが出現する。ここらへんはとてもカッコイイ。1・2楽章ではカッコイイというより美しい、きれいという印象だが、3楽章は素直にカッコイイ。ゲーム音楽で培ったカッコヨサだろうか。これまでのあらゆる主題が絡んで来るのも聴き逃せない。

 雰囲気が一変し、壮大な終結部コラールに挑戦のテーマが変形されて登場する。だがこれはまだ擬似コラールである。祝典的な気分はまだ早い。まだまだ敵の攻撃は続く。警戒音が鳴り響いて、再び緊張が現れる。不協和音が高らかに吹奏され、激しく展開しながら、ついに、ついに真の終結部が闇の奥から光に包まれて降臨する。

 それは救いか、希望か、神か。

 静かに、キラキラと、光の粒が降って来る。

 この数分を聴くためだけに、これまでの苦闘があったのだと知る。

 マーラーの3番の6楽章を彷彿とさせる愛のコラール。頂点で鳴り響く鐘は、もう警告の鐘ではない。平安と希望と真の安息の天の聖鐘だ。

 闇と太陽の交響曲は、大団円で幕を閉じる。

 日本人の交響曲としても、21世紀の音楽としても、現代音楽としても、これほど異色で、これほどベターな曲は無い。色々な意味があるだろうが、こんな矛盾に満ち、こんな予定調和に満ちた音楽は無い。これこそ真の前衛精神である。

 こんな曲を書く人と同時代に生きている事を誇りに想う。


 ※○○のテーマ、○○主題はぜんぶ私の創作というか、模擬的かつ便宜的な文藝表現です。どこかに書いているわけではありません。作曲家がそう定義したわけでもありません。

 

 2010/04/03 第1交響曲 1・3楽章抜粋演奏会にて佐村河内氏と。


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