11/10

 大友直人/東京交響楽団
 早坂文雄作品集 2015ライヴ

 映画「羅生門」より「真砂の証言の場面のボレロ」
 交響的童話「ムクの木の話し」
 交響的組曲「ユーカラ」

 真砂の証言の場面のボレロは、いわゆる映画音楽の中の1曲ではあるものの、この出来ばえは独立したコンサート作品としても充分に通用する。演奏時間も9分に及び、いわゆるMナンバーの着いている映画用の楽曲としては異様な長さである。

 黒澤には、既存の高名楽曲を映画音楽の担当作曲家に「こんな感じでやってくれ」と押しつける悪いクセがあって、武満なども苦労し、伊福部に到っては二度とこいつとは仕事をしないとばかりに、たった1回しか黒澤と組んでいない。

 この場合、当然ラヴェルのボレロが黒澤のイメージとして鳴り響いていて、早坂はボレロ形式による名曲を生み出したわけだが、ラヴェルのボレロのパクリだ! という人も、評論家の中にもけっこういたらしい。

 しかし、当たり前だが、「ボレロ」とは日本でいえば「音頭」に匹敵する普遍的な音楽様式であり、ラヴェルの専売特許というわけではなく、何の問題もない。

 ライヴとは思えない精緻な演奏で、リズム処理やダイナミクスも良く、リマスタの苦労が忍ばれる。この録音はCD化を前提としたものではなく、参考音源みたいな形で録音されていたものを、サリーダレーベルで記念的にCD化したとのことである。盛り上がった部分のテンポがちょっと速いような気もするが、演奏会用ということを意識したのかも? ま、大友だしな……。(いつぞや伊福部の演奏会の爆速は忘れまいぞ。)

 「ムクの木の話し」は早坂の珍しいアニメーション付随音楽というか、セリフも音もないアニメに、音楽だけをつけている前衛的な作品のための曲。コンサートでも、充分に面白いもの。1楽章制で、20分ほどの音楽。完全に描写音楽なので、アニメを鑑賞するのが正しい鑑賞なのだろうが、音楽だけでも面白い。

 解説に、詳細な場面と音楽の説明があり、一読してからきくと分かりやすい。また、YouTubeにこの白黒アニメの動画がアップされているので、ご参照されたい。

 なお、アニメタイトルや台本は「ムクの木の」なのだが、どういうわけか早坂のスコアは「ムクの木の話し」なんだそうで、ここではスコア表記に準じ、「話し」となっている。

 いくら画があるとはいえ、早坂の描写力は唸るものがある。各種のテーマが分かりやすいし、音楽だけでもシーンが目に浮かぶ。子供用のフィルムとあって、特に平易な表現になっていると思われる。

 なお解説によると、ところどころストラヴィンスキーのペトリューシュカっぽい響きも現れるとあるが、色々とほんの一瞬なので(笑) よほどのストラヴィンスキー聴きでなくば気がつかないような気もする。

 あとそれを言ったら、第9の2楽章のティンパニも出てくるよ^ω^

 1曲目や2曲目の見事さを聴くに、やっぱり早坂は劇伴作曲家なんだなあ、としみじみ感じる。個人的には、早坂のコンサート用絶対音楽は、構成がメチャクチャでイマイチ評価できない。

 そんな中、唯一といって良い大名曲が、次のユーカラである。

 待ってました、交響的組曲「ユーカラ」の新録音。録音だけでも2種類目、演奏でも、初演からたぶん5〜6種類目という超レア曲になっているユーカラだが、私は正直、早坂の最高傑作だと思っていて、これが出るまで唯一の録音だったヤマカズ盤をけっこう聴いていた。

 汎東洋主義に基づいているが、無調様式であり、それまでの早坂の曲調とかなり異なるため、苦手な人もいると思われるが、私は大好きなのである。後の武満にも通じているし、なにより、早坂がメシアンを研究して、その手法を自分なりに消化した結果の、面白い響きが随所にある。私はメシアンもけっこう好きなので、メシアン繋がりで面白さを感じている。

 ただし、メシアンと言っても高名なトゥーランガリラじゃなくて、世の終わりのための四重奏曲や、ユーカラよりずっと後年の作品だが、彼方の閃光に通じる乾いてシンプルな曲風。響きやリズムもそうだが、なによりこのシンプルさこそが、メシアン風な部分かと。

 それぞれの楽章にはアイヌ神話のタイトルが冠されて、それぞれストーリーがあるが、音楽は具体的にその描写をせず、精神的な抽象主義として、絶対的な響きを表現している。従って、ここでは各楽章のストーリーは割愛する。

 第1楽章は、プロローグ。短い(と、言っても5分ほどもある)クラリネットのソロの楽章。真っ暗の中で、クラリネットのみに照明のあたる演出があったという。これは、この録音の数か月前、2015年の2月に、札幌交響楽団の演奏、下野竜也の指揮で、早坂文雄生誕100年記念演奏会でユーカラを取り上げていた際の演出を継承したものと考えられる。飛び跳ねるようなリズムと、甲高い無調(旋法?)旋律の組み合わせが斬新で、しかも楽章がまるごとクラリネットソロというのもすばらしい。

 第2楽章ハンロッカ。当曲で、最も早坂らしい旋律が現れ、親しみやすい。しかし中間部からの不協和音の連続や、深遠な響きは、当曲の特徴を顕著に現している。

 第3楽章サンタトリパイナ。弦楽合奏のみの、いかにもシリアスな楽章で、武満の弦楽のためのレクイエムに絶対に影響を与えていると思う。月に閉じこめられたという童子の孤独で冷えきった精神を、見事に現している、好きな楽章。静謐というに相応しい冷徹な響きが、なんとも魅力だ。演奏もうまい。

 第4楽章は、最も好きなハンチキキー。メシアン・リズムを参考にしたと思われる、雅楽調のリズムに乗って、どこかコミカルな主題が展開する。途中で、ハルサイの第2部冒頭のような殺伐とした管楽器の響きも登場し、面白い。

 第5楽章ノーペー。これは管楽器が少し入るが、弦楽が主体で、絶対にこれも弦レクに影響を与えていると思う。しかも、一瞬の盛り上がった部分で、不気味な和音の塊のままズゴゴゴゴと動く様は、いかにもメシアンだ。

 第6楽章ケネペツイツイ。突如として現れる、打楽器アンサンブルがシュール。当曲中で最も、昔の早坂っぽい(古代の舞曲を思わせる)描写がある。演奏も非常に盛り上がって、ちょっと感情的すぎる嫌いもあるが、すばらしい響きを再現している。

 残念なのが、前プロの2曲に比べると、この神曲神演奏に対して、あからさまに拍手が少ないことである。

 なお、上記したが、この録音の数か月前、2015年の2月に、札幌交響楽団の演奏、下野竜也の指揮で、早坂文雄生誕100年記念演奏会でユーカラを取り上げている。私はそれを聴きに行ったのだが、これがまた負けず劣らずのすばらしい演奏で、是非CD化してほしいと思ったが、たぶん録音はしてないんだろうなあ。


10/9

 吉松隆
 交響曲第3番
 鳥は静かに……
 鳥のシンフォニア“若き鳥たちに”
 タルカス(キース・エマーソン&グレッグ・レイク:吉松編)

 原田慶太楼/東京交響楽団

 豪華CD2枚組、原田/東響による吉松チクルスの第2段である。1枚目に当日のトリの3番が入っていて、2枚目に前プロの3曲が入っている。CDの通りに聴くもよし、当日のプログラム通りに聴くもよし。

 私は、最初はCDの通りに聴いたので、このレビュー時には、プログラム通りに2枚目から聴いてみた。

 まず、鳥は静かに……という短いオーケストラ曲。静謐と叙情、透明感と冷気を併せ持つ、シベリウスを敬愛する吉松流の森の音楽。原田の棒は鋭く輪郭を際立たせる、新古典的な様相。曖昧でボンヤリとした朦朧体的な空気感もよいが、ここでは、もっと北方のキリッとした寒さが心地よい。

 次に、同曲の初録音の鳥のシンフォニア。仙台のジュニア・オーケストラのために書き下ろされた、小交響曲である。作品的には、5番と6番のあいだにあたる。シンフォニアとなっているが、吉松の交響曲はほぼほぼ巨大な組曲のようになっており、これも演奏時間20分ほどの組曲のような感じ。5楽章制で、それぞれ各楽章にはプレリュード、トッカータ、ダーク・ステップス、ノクターン、アンセムと副題めいた発想記号が冠されてい、曲の性格を現している。

 元々アマチュアのジュニアオケのための曲とはいえ、流石吉松、手ぬかりはいっさい無い。演奏技術的には、難しすぎず、簡単すぎずという微妙なラインを狙っているらしい。プロオケが演奏するにあたり、あまりカチッと上手に演奏しすぎないように、という注意が作曲者より与えられたという。それでも演奏は上手だし、その意味で原田の棒がカッチリしすぎている気もするのだが、第3楽章などもかなり遊んでいるし、鑑賞には問題ない。最後のアンセムの盛り上がりも、清々しく、晴れ晴れしい。

 タルカスは、録音が3種類目。原曲ファンにしてみれば、どうしたって編曲やクラシックプレイヤーの演奏に不満が出るもの。しかしワイは原曲を知らないし、無理に聴こうとも思ってないし、吉松版で初めて当曲を聴いたクチなので、特に不満は無い。こんなもんか、という程度であるうえに、特別に何回も聴きたくなるような曲でも無い。また、あくまでオーケストラ曲としての、あるいはオーケストラで演奏してみた、という企画であるわけで、原曲のバンドと比べてどーのこーのと言っても、野暮な部分も出てくるだろう。

 というわけで、演奏はかなりノリがあって好きなのだが、確かにそれはオーケストラとしては、というほどであって、バンドのようなシャープさがあるわけもなく、そこはグルーヴ感が悪いと言われてもしょうがないのかな……とか、そうは言ってもハルサイなんかもっと大人数でノリノリじゃん、とか、色々思ってしまう。

 そもそも、本来は企画モノだし、吉松も、これがこんな頻繁に演奏されるとは思っていなかったかもしれん。

 個人的に大問題だったのが、3番交響曲。吉松の交響曲は、ガワが大きくてとにかく派手だが、実は中身はあんまり無い。張子というか、ねぶた祭のねぶたというか。その意味で、まさに日本のお祭騒ぎ的なカラ騒ぎが魅力であり、鑑賞や演奏の難しさでもある。3番(と5番)はその最たるもので、ショスタコの7番のような、とにかく巨大な組曲のような空疎さに、いかにも中身が詰まっていますよという見せかけが災いする。

 つまり、演奏が難しい。藤岡のシャンドス盤のように中身が本当にありますよ的な演奏をされても、鈍重なだけ。スピード違反のダンプカー。

 かといって、かなり期待したこの原田/東響盤は、原田の新古典的で揃いすぎな指揮がまずい。面白くもなんともない。セカセカして、堅苦しいだけ。タルカスのノリを、なんで3番でできなかったのか。交響曲だから、マジメにやったのか。吉松の3番が、マジメに演奏する曲か? と、言ったら失礼かもしれないが、そこは、生真面目に演奏する曲か? という意味である。

 1楽章冒頭は、かなり期待を感じさせる緊張感を孕んだ、良いもの。問題は、続くアレグロ。執拗なオスティナートで奏される主要主題が、擬似展開して行く辺りから、急に失速する。弦楽だよ弦楽。タテの線なんか気にしないでくれ。もっとも、そういう棒なんだろうけど。そんなにカッチリ合わせなくていいんだよ、そこは。

 と、いった具合で、ザッハリヒというほどではないのだが、全体的に新古典的な解釈であり、前半プログラムの歌はどこに行っちまったんだというほど、淡々と進んで行く。いや、緩徐部など、歌っているところは歌っているのだが、やはりアレグロの突進感が、生真面目というか……タルカスであんなに突き進んでいたのに〜〜。上手なだけに、残念であった。

 速めのテンポをキープする2楽章は、演奏は上手だがアドリヴ風やジャジーな部分もやはりカタく、カッチリしすぎていて、そこは評価が別れるかもしれない。

 しかし、3楽章は、この透明感がうまく働いており、静謐な吉松曲の良い面を出している。ような気がする。物足りなく感じる人もいるかもしれないが、コッテリは吉松には似合わない。

 4楽章は逆に、1楽章テーマの再現はもっとこう……荒々しく、スピーディにですね……もう、きりがないのである。全体に、かなり丁寧で上手な演奏であり、ライヴにしては瑕疵は少なく、コーダの盛り上がりは上々。このコーダを全体にやって、最後はこの倍盛り上がると、吉松の3番も真価を発揮するのではないか。


9/18

 吉松隆
 カムイチカプ交響曲(交響曲第1番)
 チカプ

 原田慶太楼/東京交響楽団

 原田/東響が進めている、吉松隆チクルスシリーズのライヴ録音。吉松の録音は、カメラータでのライヴ録音をきっかけに、シャンドスでの専属録音からしばらくオーケストラの新録が無かったが、久々にチクルスが音盤化され、慶賀のかぎりである。(個人的には、4楽章制の2番改訂版を期待している。たしか演奏していたはず)

 カムイチカプ交響曲は、カッコ付きで1番となっている。これは、若いころの吉松が若気の至りなのかどうか、最初で最後の書きたいものを詰めこんだ交響曲として勝手に書いて消えるつもりだったのだが、作曲家として生き残り、その後に2番を書いたので、後付けで1番になったという経緯があるとのこと。

 90年の完成であり、武満もかなり旋律主義に戻ったころで、一時期の現代音楽の潮流はかなり下降気味になってきていたとはいえ、それでも、こんな交響曲を書いて発表するのは、勇気を通り越して音楽業界から干されるのを覚悟して書いたと推察する。

 5楽章制で、40分少々。2010年代辺りより、完全調性で40分くらいの交響曲を発表する若い作曲家も出てきているが、やはり構成や個性という点で、先輩のこの曲に旗が揚がる。

 第1楽章 Ground アンダンテ 発生し増加してゆく歪みなるもの
 第2楽章 Water ラルゴ 古風なる夢を紡ぐ優しきもの
 第3楽章 Fire アレグロ 墓石ながら疾走する狂暴なるもの
 第4楽章 Air アダージョ 死せるものたちを思う静かなるもの
 第5楽章 Rainbow モデラート 虹と光を空に広げる聖なるもの

 このサブタイトルだけでも、どれだけ吉松が中二病だったのかが分かるだろう。確かに内容も素晴らしいのだが、それにしたってやりすぎだ。楽章構成は、緩緩急緩緩であり、全体に静かな音楽の大きな羅列で、シンメトリー構成の組曲ふう交響曲といえる。

 録音は既に2種類あり、原田で3種類目となる。初演(正確には東京初演)の模様を納めたカメラータ盤と、セッション録音のシャンドス盤に続く。

 比較的ロマン主義的、叙情主義的に演奏された前2者と比べて、原田は完全に新古典主義的に、ハッキリクッキリ線を際立たせて鳴らしている。それが良いか悪いかは好みの問題だろうが、1番に関しては、完全にグッドだ。1番に関しては……というのは、後日記すであろう3番に関しては、お世辞にも良いとは言えない残念な結果に終わっているからである。

 少し古い記事だが、楽曲の詳細は私の吉松隆の交響曲のページをご参照いただきたい。

 原田の演奏は、ライヴ録音の割にツブが際立ち、これまでの演奏では聴こえてこない内部の動きがよくとらえられていて、特に、実は複雑でジャジーな動きをしている1楽章が面白い。この1楽章は、松村禎三の増殖技法を、吉松流に叙情旋律主義で行っている。

 2楽章の完全に叙情主義的なヴィオラ(チェロ?)やヴァイオリンのソロも、すごく淡く、クールに響いて素晴らしい。ベタベタな演奏も良いのだが、こういう曲でベターだとしつこくて、西洋の曲なら良いが、実は日本の曲でアッサリしている吉松曲でベッタリ弾くと、重くてダサいだけになる。というか、シャンドスがそれ。

 3楽章は急ぎすぎず、しかしダレない。リズム処理がうまい。鳴らし方も良い。これまで聴いたことのない音(金属打楽器など)が、どんどん聴こえてくる。

 静謐を究める4楽章、重たく演奏されては台無しである。西洋風の主題の中に、日本風の静寂への美が潜んでおり、それが吉松の敬愛(いや、信仰といっても良い)するシベリウスに通じる。

 静謐の死の悼みから、希望の天空へと光が立ちのぼる5楽章。苦悩から歓喜の、吉松流の表現。光の粒が、虚空に消えて行く儚さこそ吉松音楽の極みであり、吉松が日本の音楽かである証左となるだろう。

 おセンチ? おセンチですがなにか? それを聴きたくて吉松を聴いとるんじゃい!

 チカプは、元々15本のフルートアンサンブルのためのものを、4本フルート(2本ピッコロ持ち替え)とオーケストラに編曲したもので、7音旋法によるセリー(音列)が試みられている、現代音楽技法と吉松感性の融合を目指していた初期の作品。ここでも、原田のクールな棒が冴え、非常に幽玄な世界が再現されている。ブラボー。


8/6

 2018年、大栗裕生誕100年記念演奏会の模様がライヴCDとして発売されていたもの。出ていたのを知らなかったので、遅ればせながらチェックした。

 なにより注目なのは、大栗の秘作ともいうべき 組曲「素晴らしき日々のために」だろう。同曲は大阪府警察音楽隊の委嘱で1966年に作曲されて以来、同音楽隊に門外不出で楽譜が保存されてきて、ほとんど日の目を観なかった秘曲であるという。2013年に手書き譜が遺族に献呈され、大栗文庫に蒐集されたことで、演奏が可能になった。

 他にも、定番曲から滅多に演奏されない吹奏楽の大作まで網羅され、かなりマニアックにしてスタンダードなナンバーとなっている。

 井村誠貴/ブラスパラダイス大阪 L2018
 大栗裕
 吹奏楽のための小狂詩曲
 吹奏楽のための神話〜天岩屋戸の物語による〜
 アイヌ民話による吹奏楽と語り手・Sopranoのための音楽物語「ピカタカムイとオキクルミ」
 組曲「素晴らしき日々のために」
 吹奏楽のための「大阪俗謡による幻想曲」
 
 まずおなじみ、元は課題曲だった小狂詩曲。大栗の自作自演という極めつけの録音もあり、なかなかそれに迫る新古典的でキレキレなアプローチよる演奏は少ない。当演奏でも、非常にうまいが、劇的な、交響詩的な効果を狙っているようで、純粋音楽というアプローチではない感じがした。

 神話は交響詩なので、そういうアプローチで正解である。とはいえ、あまり重厚な演奏は大栗の本質から実は外れるのでNGだ。また当曲は、高校時代のブラバン部でティンパニをやった想い出深い曲で、私のエヴァーグリーンと言ってもよいのだが、その反面理想がどうしても高くなってしまう。個人的にいつも気にしているのは、アレグロ変拍子部のトロンボーン、ティンパニとの掛け合い部分、パッパー(タンタン) ンパパパパー(タタタン) のンパパパパーが、どうしても遅れてしまう傾向にあり、時にはプロ楽団ですらモタクサしている。が、この演奏は完璧である

 もう1か所は、2回目のアレグロへ入る際のティンパニソロである。この曲はティンパニの音が3つ(たしかF Cis F)しかなく、簡単そうではあるのだが、音形が意外に難しい部分があり、二度打ちや両手の交差が、割と難易度が高く、これもまたプロ楽団でもモチャモチャしてる演奏がある。が、この演奏は完璧である。どうやって叩いているのか、知りたい。

 この両方が完璧な録音は、初めてではないだろうか。他にも、割と高速で進む部分の激しい音形も遅れず、崩れず、素晴らしい。

 元々マンドリンオーケストラのための音楽物語のシリーズからの吹奏楽化である「ピカタカムイとオキクルミ」は、長い上に朗読とソプラノ独唱(ヴォカリーズ)を伴い、なかなか演奏の機会は少ない。また、個人的にはあまり得意ではない作品だ。というのも、民話に文句をつけてもしょうがないのだが、風の神ピカタカムイが自分勝手すぎてムカツクのである(笑) 一人称なのも、好みではない。この理不尽さが、自然現象としての神の神たる所以なのだろうが、平和なアイヌの村落を気晴らしに突風で壊滅させておいて、神人ともいうべき英雄オキクルミの家だけ無事なのや、しばらくして村が元通りに復興しているのが悔しくてたまらないというのだから狂っている。最後はオキクルミに懲らしめられ、ピカタカムイは良い神になるというオチなのだが……。ようするに、ムカツクのだ。なお、音楽は大栗らしく日本風で、アイヌの音楽やリズムは特に取り入れられていない。と思う。

 白眉は、組曲「素晴らしき日々のために」だ。かつてあった公式HPの作品目録にも無かった秘曲で、2013年まで警察関係者以外、ほとんど知られていなかったのだろう。4つの楽章からなり、「警察官の高貴なる任務」「深夜のパトロール、事件」「殉職警察官の挽歌」「平和を護る行進」と続く。このうち、第3楽章の「挽歌」が(抜粋)とあるので、一部カットしているものか。その詳細は、ブックレートにも記されていなかった。

 大栗らしい、分かりやすいが丁寧な造りで、警察隊コンサートとして子供たちも聴くであろうことを想定しただろう作品。音楽物語やオペラで鍛えた情景描写もうまく、平易な内容ながら聴き応えがある。珍しい大栗のマーチも聴ける。けっこう変則な展開をする、小規模なロンド形式のような不思議なマーチだ。

 最後はおなじみ、大阪俗謡。正直、オーケストラ原曲のほうが何倍も素晴らしい作品だと思うが、作者自身の編曲であるし、ピチカートをシロフォンに置き換えるなどのアイデアも斬新だ。これも、あまり仰々しくなく、もうちょっとパリッとキビキビっとやるのが好みだが、ま、それは好みの問題である。が、朝比奈の俗謡がそうだというのは、大きいだろう。


7/8

 昨年からの不気味社の伊福部関係新譜3種である。

 豪快ファンタジー ゴジラVSキングギドラ
 豪快ファンタジー ゴジラVSバトルモスラ
 豪快なSF交響ファンタジー再

 この3枚。

 前の2枚は、不気味社音楽応用解析研究所大所長である八尋健生氏のチョイスによる、オリジナルメドレーが含まれる。

 交響ファンタジー ゴジラVSキングギドラ は、既にあるオーケストラ組曲の男声合唱版。2005年以来の、再合唱、再録音となる。冒頭から、凄まじい迫力と音圧。まさにモンスターゼロ、キングギドラの存在感である。それからラゴス島やエミーのテーマなど、VSキングギドラの所曲を巡り、最後はドレミファミーソーレーソー〜からの、ゴジラのテーマで〆られる。構成的によく練られたSF交響曲ファンタジー3作と比べると、いかにも臨時編成的なメドレー組曲で、3作と比べると一段低く見るファンもいると思われるが、これはこれでファンサービスに溢れた佳品であろう。それを、不気味社がさらに魅力的なバージョンにしてくれている。ドドドド・ドドドドドン が、お気に入り。リピートを全て採用している(はず)のも、ポイントが高い。

 せっかくなので、2005年版と聴き比べる。基本的な表現は変わらないが、歌い方やボイスパーカッションに相違があるか。また、録音が圧倒的に新録のほうが深く奥行きや幅があり、ダイナミクスが大きい。聴き比べると、前回録音はあっさり、のっぺりとした音調に聴こえ、所長が再録音したくなったというのもうなずける。

 続くゴジラ対キングギドラ ファンタジーは、所長自らキングギドラに関係する諸曲を集めたオリジナルメドレー組曲である。こういうものは、私もカセットテープやMDの時代から色々と自分で作って持ち歩いて聴きまくっていた。不気味社のHPから引用すると、使用されている楽曲は以下の通り。

 Battle in Outer Space M15, M2
 Ghidrah, The Three Headed Monster M15
 Monster Zero M8,M1
 Destroy All Monsters M25,M15
 Frankenstein Conquers the World M21
 Symphonic Fantasia No. 2 - King Ghidrah
 Rodan M15
 Godzilla vs. King Ghidrah M11
 Little Prince and Eight-headed Dragon M21

 サントラは門外なので、正直良くは分からないのだが、よくよく見るとラドンやらわんぱく王子やら、かなりマニアックな曲も入っている。そこと音形的な共通点からギドラを繋げて来るのが、同じ伊福部ファンでもサントラ組の凄いところだ。しかも、所長に至っては、サントラ組と純音組を兼ねている。

 続いては、ゴジラ対モスラ、ゴジラVSモスラからの、所長厳選による自由な組曲。

 まずは ゴジラVSバトルモスラ ファンタジー 選曲は以下の通り。

 Godzilla vs. Mothra M30, M2, M8, M11, M14, M18, M17, M32, M,31 M34A, M37

 続いて ゴジラ対モスラ ファンタジー である。同じく、選曲は下記の通り。

 Godzilla vs. The Thing M7, M4, M18, PS19, M6, PS99, M21, M26

 これも、Mナンバーで言われても、正直サッパリ分からないのだが、まずは聴き進める。

 やはり、伊福部節でモスラといえば、聖なる泉、そしてマハラ・モスラ。これらを不気味社で聴く喜び。ゴジラのテーマから、バトモスの幼虫、疾風怒濤のモスラの連鎖。確かな選曲と、構成。そして歌唱。オリジナルのSF交響組曲「モスラ」第1番、及び第2番と銘打っても良い素晴らしい出来上がりに、聴くもの全てが参りましたと感謝感激雨霰五体投地平伏土下座待ったなしであろう。

 最後に、豪快なSF交響ファンタジー再であるが、これは既に録音・発売済の男声合唱版SF交響ファンタジーとロンド・イン・ブーレスケを再編曲、再録音したものである。2022バージョンというわけだ。初演から、40年を記念しての企画らしい。

 せっかくなので、これもまた前回の録音(1番が2004年、2番と3番が2005年)と聴き比べてみる。

 ところで、解説で所長が当曲シリーズのリピートの再現について記しているが、このSF交響曲ファンタジーは、おそらく伊福部昭がファンサービスの為にやったものだろうが、やたらとリピート記号がついており、その全てを演奏するか、全カットするかで5分くらい演奏時間が変わってくる。

 コンサートにおいては、全体の演奏時間や表現の解釈の関係等で、当曲に限らずリピートをカットする指揮者も多い。交響曲の提示部のリピートや、スケルツォ楽章のリピートなどは、その最たるものだろう。

 しかし、なぜリピートするかというのは、作曲された当時は録音が無く提示部をお客さんによく聴かせるためだった……とか、色々推測が成されているが、正直よく分からないらしい。が、特に古典派ではリピートが重要で、リピートの2回目は微妙に細部が異なっている場合もあるので、音楽表現の一種だったっぽい。

 そう考えると、伊福部は自身を 「日本を背負った古典主義」 の作家だと認識していたようなので、古典派におけるリピートの重要性を鑑みるに、これはなるべく全部演奏するのが正しいということになる。

 というわけで、不気味社では容赦なく全リピートを演奏している。ポイントが倍率ドン、さらに倍である。

 ●SF交響曲ファンタジー第1番

 2004年版は、やはり録音の関係でかなりデッドというか、声が近くて生々しく、そのぶんホール的な響きは無い。シャガー〜! などの擬音も多用されている。ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ……などの歌詞部分も強調されている。オーケストレーションも比較的薄く感じ、モノフォニー的に単旋律を強調している。あとボイパが凄い。

 2022年版、重層的な響きに圧倒される。ボイパやシャガー〜などの擬音、歌詞の強調は薄れ(エコー効果が強い)、テンポもたっぷりとられている。合唱の人数やパートが具体的に増えたのかどうかは分からないが、とにかくこの音の厚みは大変な魅力だ。ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ、バララー〜や、ラドンだー〜、ゴジラッゴッゴッ、などの歌詞パートも変わらずあるにはあるが、それを支えるコーラスや、よりリアルに再現されている効果音ボイスが素晴らしい。

 ●SF交響曲ファンタジー第2番

 2005年版、やはり、よりヴォカリーズが強調され、人声を聴いているという感覚が強い。響きがデッドなぶん、より言葉としてクリアに聴こえるという側面も強い。キィィイイイー〜ン、グ、ギ・ド・ラ や、いつもの ドドドド・ドドドドドドン も縁が際立ち、シャープである。聖なる泉の、なんと聖なることよ。マーチパートは声によるツブが凄く際立って、素晴らしく小気味良い。1番に比べると、ボイパの使用が抑えられている。

 2022年版、冒頭から紛々たる土俗的な雰囲気がより素晴らしい。キングギドラのテーマはより重厚なテンポで、迫る。聖なる泉はもう、重厚な独唱曲である。バラダギ神讃歌も、悠揚たる迫力。マーチもテンポがどっしりと地につき、全体に、余裕というか、まさに王の貫祿のある演奏になっている。

 ●SF交響曲ファンタジー第3番

 2005年版、基本的な仕様は1番2番と変わらない。歌詞パートのエッジが際立ち、聴きやすいが、厚みは無い。その代わり、各パートの描きわけがしっかりしている。どうでもいいが、轟天号のテーマはどうして 「ごうてんごう〜ごうてんごう〜」 という歌詞ではないのか。3番自体が、1番2番に比べるとやや編成的に短いのだが、私は轟天号のテーマとコング輸送作戦のテーマが好きなので、3番が最も好きだったりする。

 2022年版、テンポがたっぷりと落ち着いてとられているのは変わらず、楽曲としての全体の統一感が素晴らしく、これぞ交響楽であろう。轟天号のテーマからのコング輸送作戦も、たっぷりと聴かせる。もはや脳内で 「ごうてんごう〜ごうてんごう〜」 と歌う。3番のマーチは、再録の中では前回録音や原曲のテンポを保ち、かなり速い。ピッコロ部分の高速トゥクトゥクは、聴き応えがある。

 全体に、旧録音盤は生々しい録音状態やシャープなエッジのせいで、サントラ盤を聴いているような印象を受け、新録音はまさにコンサートホールにおいての純音楽としての鑑賞という気分となる。よりゴージャス感が増しているのは、2022年版である。2022年版は、メドレー組曲ではなく、一体感のあるオーケストラ作品ということに重点を置いていると感じた。

 ●倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスケ

 この曲は、2009年の「豪快なドレミファミソレソ」以来の録音である。

 2009年版、やはりシャープな録音と、擬音歌詞の使用が特徴か。このアルバムはみんなドレミファミーソーレーソ〜〜なので、脳が奇怪しくなってくる中、当曲だけ聴き分けるのは至難だ。そしてやはり、この曲の特徴としては、合いの手のような ドッコイ ドッコイ(と、自分には聴こえる) と、執拗なボイパであろう。原曲とおり、ほぼインテンポで進むトリップ効果は、人声であっても変わらない。

 2022年版、ソフトでエコーの効いた録音以外は、わりと前回録音とあまり変わらないような気もする。ただ、前回よりもっとマジメというか、純音的なアプローチというか、あまり遊びが無いと感じた。それはそれで良し。尖ったフレージング処理も無く、ボイパも、凄く自然である。各種のロンド主題と倭太鼓パートが溶けこみ、一体化している。

 再録に比べると、セカセカしたテンポやキワモノのような歌詞やボイパの強調が悪目立ちし、前回録音はまさに 「若気の至り」 と云えよう。


6/4

 ちょっと特殊な、ショスタコーヴィチ室内作品集。ショスタコの新譜なんて、何年ぶりに聴いただろうか。

 交響曲第14番ト短調 Op.135『死者の歌』〜作曲者によるソプラノ、バス、ピアノと打楽器版
 未完のヴァイオリン・ソナタ
 革命の犠牲者追悼の葬送行進曲 郷愁 森の歌 バガテル
 マーラー/ショスタコーヴィチ編:交響曲第10番断片〜ピアノ・デュオ版

 ニコラ・スタヴィ Pf,Celesta
 エカテリーナ・バカノワ Sp
 アレクサンドロス・スタヴラカキス Bs
 フロラン・ジョデレ Perc
 パク・スーイエ Vn
 セドリック・ティベルギアン Pf

 目玉はもちろん、作者自身の編曲による交響曲第14番「死者の歌」のピアノと打楽器版と、これもショスタコーヴィチがマーラーの10番第1楽章を途中までピアノ・デュオに編曲したもの。

 マーラーはなんで途中までなのかと恨み言を言いたくなるが、解説によると、自分の勉強のために編曲していて、何らかの理由で途中で止めたもの、あるいは試作品らしい。ソ連のマーラー協会の会員に聴かせるために編曲したのではないか、という解説もある。

 ショスタコの14番「死者の歌」は、元々弦楽合奏と打楽器、ソプラノ、バスのための多楽章制の歌曲形式の交響曲で、なんといっても殺伐とした死の世界の音楽化が見事すぎる作品で、ショスタコの中でも4番、8番と並んで大好きな曲。

 それの弦楽合奏部分が、ピアノ独奏になっている珍しい版。ショスタコ自身の編曲というが、初めて聴いた。ただでさえ殺伐とした曲が、もっと殺伐として超殺伐。殺伐好きはたまらない逸品。歌唱も、非常に良い演奏。

 未完のヴァイオリンソナタとは、晩年に完成したものとは異なり、1945年に第1楽章の提示部だけ作曲したもの……らしく、2012年に出版。5分ほどで終わってしまうので、作品がどうのこうのというものではない。

 その後の、ショスタコが学生時代に作曲したという珍しいピアノ組曲も面白い。ショパンっぽい響きもあるし、ドビュッシーっぽい部分もある。

 マーラー10番第1楽章の冒頭から8分ほどをピアノ・デュオに編曲したものは、凄くいいところで終わってしまう(笑)


5/21

 岩崎宙平/ピルゼン・フィルハーモニー管弦楽団
 伊福部昭:弦楽のための日本組曲
 ヤナーチェク:モラヴィア舞曲
 ヤナーチェク:ラシュスコ舞曲
 ヤナーチェク:組曲

 岩崎宙平さんという、まっったく知らない若い指揮者が、いきなりチェコのピルゼン・フィルハーモニー管弦楽団というオーケストラを使って伊福部を出したもの。こりゃ驚いた。高校でヴァイオリンを学んだ後に、チェコのプラハ音楽院に進学、国立芸術アカデミーの指揮科を出て、チェコで活動しているという。現在、チェコのピルゼン・フィルで首席指揮者。

 このチェコのピルゼンというプラハの西にある街は、ピルスナービールの発祥の地であるという。

 それはそうと、久々に日本組曲の新録音がデターー〜〜! と思ったら、なんと聴いてみたら絃楽合奏版。ちょっと驚いた。編制的に、厳しかったのだろうか。日本組曲(オケ)の録音は、4種類しかない。なお、CDには絃楽合奏版とはどこにも書いてない。

 とはいえ、絃楽合奏版も数が少なく、録音は3種類目。しかも、初めてのプロオケでのセッション録音。これまでは、アマオケとセミプロクラスのオケでの、ライヴ盤しかなかった。これはこれで、期待である。

 ピアノ組曲をオーケストラ化した日本組曲から、管打楽器を単に除いただけのような絃楽合奏版だが、当初は伊福部も編曲を渋っていたらしい。しかし、何かしら思うところがあり、編曲した。私も、当初は中途半端でイマイチな曲に聴こえていたが、絃楽合奏にはオーケストラ版のような大編制でなくても(室内楽編制でも)演奏できるというメリットがあることに気づき、またピアノ組曲には無い絃ならではの魅力があることも気づいた。

 演奏は、さすがにうまい。盆踊は、スコア指定通りと思われる快速。伊福部は、指定とじっさいに本人が想定していたテンポが違いすぎる(本人の指定は、たいてい超遅い)という演奏の難点があるが、これはもう、どうしようもない。知らない演奏家は、楽譜に書いてあるテンポで演奏するしかない。

 七夕は一転して、静謐な音調にして遅めのテンポ。この対比を、演奏家は好んでいるのだろう。実に美しいし、実演ではカットされがちな演伶は、日本情緒が素晴らしい! 岩崎は分かっている! 外国のオケでも、指揮者が理解のある日本人なら、こういう、うまい演奏ができることの証左である。佞武多の盛り上がりや迫力も良い。絃楽だけでも、充分に音楽的な表現ができているどころか、絃楽ならではの音調が、哀調にまで達する当曲の情感をうまく引き出している。同曲絃楽合奏版の、決定版。

 そして、ヤナーチェクのマニアックな舞曲集と組曲。ヤナーチェクといえば、そりゃ当然シンフォニエッタだろうし、暗くてシブイ交響詩や大傑作のグラゴル・ミサもあるが、あまりメジャーではない3曲を持ってきている。これも、オーケストラの編制の問題(つまり経費の問題)なのではないか。

 モラヴィア舞曲もラシュスコ舞曲も、日本組曲よりも直接的な、民謡や民俗舞踊をオーケストラに編曲したもの。しかし、ヤナーチェクらしい鮮やかな編曲やオーケストレーションも聴き応えがある。ヤナーチェクは、やはりドヴォルザークよりも、都会的なセンスをしている。小洒落ている。

 最後の単に「組曲」は、ヤナーチェク初期のもの。洗練された中期作品より、土俗的なのが注目できる。

 だが、さすがに組曲が4曲も続く(小曲が19曲にもなる)と、聴いている内に疲れる上、いま何処のなんという曲なのか分からなくなる(笑)


5/4

 伊福部昭 佐藤勝 大島ミチル
 KAIJU CRESCENDO
 ジョン・デサンティス/大島ミチル オーケストラ名不明

 2019年にシカゴで行われた、大島ミチルを迎えた怪獣音楽組曲の模様。たしかクラウドファウンディングの景品だったと思ったが、その後に市販されたもの。たしか。

 当企画のための臨時編制オケだったようで、オケ名不明(どこにも記載無し)なのがまたなんとも。

 曲目は、複数の短い組曲を企画側で任意に並べて、前半は伊福部と佐藤、後半は大島ミチルによる自作自演という形をとっている。記載の通り引用すると、

 伊福部昭:ゴジラのテーマ
 伊福部昭:組曲「空の大怪獣ラドン」
 佐藤勝:組曲「怪獣島の決戦 −ゴジラの息子−」
 伊福部昭:組曲「地球防衛軍」
 伊福部昭:組曲「日本誕生」
 佐藤勝:組曲「ゴジラ対メカゴジラ」

 大島ミチル:ゴジラのテーマ ゴジラ×メガギラス G消滅作戦
 大島ミチル:組曲「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」
 大島ミチル:組曲「ゴジラ×メカゴジラ」
 大島ミチル:組曲「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」
 大島ミチル:G in Chicago 「C.H.C.A.G」
 アンコール
 大島ミチル:Thema of G
 Thema of G リハーサルテイク

 CD2枚組で、なかなかのヴォリューム。しかしまあー〜演奏の方は、さすが臨時企画オケで、迫力はあるが、まずこんなもんかな、といったところ。

 しかしながら、大島のゴジラ音楽で、サントラではなくコンサート用組曲は、これしかないはずであり、なかなか貴重。大島もステージ演奏に合わせて編制を拡張しており、重厚感が増している。

 まずはディスク1。ゴジラのテーマから、ちょっと日本では聴き慣れない楽譜を使っているように思う。ピアノのクラスターが、気合が入っていて好感。組曲のチョイスもシブイ。次が、いきなりラドンて。海外ではラドンが人気と聴いたことがあったような、なかったような。打楽器がやたらと大きいが、大きく叩いているのか、マイクが近いのか分からない。続いて、佐藤勝の怪獣島ときた。これもチョイスがシブイ。ミニラが初登場するやつ。のはず。私のような、非特撮ファンにはよくわからない音楽が続くが、佐藤のライトでジャジー、上品で洒落た音楽と、重厚な伊福部との差が激しくて面白い。佐藤のコンサート用組曲も無いので、貴重な演奏だろう。

 次の地球防衛軍はまだ良いが、日本誕生って誰が選んだの、これ(笑) これを企画した人、マニアックすぎだろ。しかも、コーラス入りである。スゴイ。そして、ゴジラ中最もジャズテイストな傑作、ゴジラ対メカゴジラだ。いくら沖縄が舞台だからといって、なんでこんなにジャジーなのか。リベットだらけのメカゴジラの凶悪さと、このカッコイイ音楽との対比が、妙に合ってしまっている。オープニングの、沖縄風旋律もまた、いい。そもそも、メカゴジラなるキャラクターを最初に考えた人は天才であるし、そのキャラにジャジーなテーマを与えた佐藤もまた、天才だ。これも、劇中歌のキングシーサーの歌が入っている。よくもまあ、上手に日本語で歌っている。スゴイ。そして最後にキター! メカゴジラのテーマである。この斬新すぎるテーマで、あの(今となっては)異様なほどレトロなメカゴジラが大暴れというのが、なんとも云えぬ魅力を醸している。

 ディスク2が、大島ミチル特集。大島はこの演奏会のために大急ぎでスコアを見直し、コンサート用に編曲したという。大島のゴジラのテーマは、伊福部以外のゴジラとしては最も秀逸に感じているので、このコンサート用の編曲はうれしい。日本でも演奏してほしい。まずカッコイイ、大島版ゴジラのテーマ。ゴジラと言えば低音だが、大島の低音は伊福部とはまた違う魅力に富み、リズミックに上下する。まるで、ローマの松の終楽章のような、燦然とした輝きがある。メガギラスのテーマの、キヨッキヨッという弦の動きも印象深い。そしてなにより、大島版のメカゴジラは機龍である。この疾走感よ! 最後に、大島がこの日のために作曲した新作、シカゴのスペルからテーマをとった小品。どこかマーラーの2番5楽章に似ているのも、面白い。

 また、アンコールとボーナストラックで大島ゴジラのテーマを2回も聴ける。お得。


4/15

 なんと朝比奈の大栗、しかもオーケストラ作品、さらにしかも、シュトゥットガルト放送響という、我輩狂喜乱舞にして驚天動地の録音が出た。

 朝比奈隆 シュトゥットガルト放送響作品集 全曲初出レパートリー

 朝比奈隆/シュトゥットガルト放送交響楽団 1966年セッション録音

 イベール:交響組曲「寄港地」
 大栗裕:交響組曲「雲水讃」
 プロコフィエフ:交響曲第2番

 なんでまた朝比奈がシュトゥットガルト放送響でセッション録音しているのか、よく分からないのだが、若いころの朝比奈はちょくちょくヨーロッパに招かれて指揮をしているので、その縁らしい。朝比奈は1908年生まれなので、この時、58歳。ま、実社会年齢としては定年手前で若くもないのだろうが、指揮者としてはバリバリの壮年期だろう。

 いや、もはや、なんでもいい。最高のレパートリーである。私の為に録音してくれたようなものだ。

 朝比奈といえば、後年のベートーヴェン、ブルックナーの印象が強すぎる嫌いがあるが、若い時はこういうのを得意としていたといい、まるでクレンペラーではないか。

 とにかく、イベールから聴き進めたい。

 イベールなんていうのも、デュトワあたりの演奏を聴いていればそれで事足りるようなイメージだが、オーケストレーションといい、楽想といい、なかなか寄港地だけで終わらせるには勿体ない作曲家である。

 朝比奈にドイツのオケのイベールなんて、いかにもドイツ的に演奏されそうだが、これが意外に官能的にしてドイツ的構築性。まさに、純粋フランス的フランス音楽というべきか。ドビュッシーめいた和声なども、カッチリした演奏で真価を発揮する。2楽章のいかにもオリエンタルな雰囲気は、アジア人としての朝比奈の面目躍如か。

 次に大栗の雲水讃。「大栗でも屈指の人気曲」 と解説にあるが、そんなことはないと思う。マイナー曲だよ。オケでの演奏は皆無。吹奏楽編曲版でも、あまり演奏されないと思う。地味だから。

 解説にもあるが、当曲は不思議な曲で、初演は61年に放送。全3楽章。すぐさま改訂され、翌62年演奏会初演では第1楽章をカットして全2楽章。1楽章の冒頭と集結部を終楽章にくっつけた。64年にはまた改訂。終楽章の序奏(旧第1楽章冒頭)をカット。これが決定稿で、朝比奈は60年代に招聘された欧州で、繰り返し演奏したとのこと。従って、この録音も決定稿である。

 で、何が不思議なのかというと、当曲の主題に使われているのは、高野山お遍路系の和讃(御詠歌)や、浄土系踊り念仏の念仏音楽なのだが、楽曲のタイトルが何の関係もない禅宗の雲水を讃するもの……ということである。こればかりは、作曲家にどういうわけで雲水讃なのか、聴かないと分からないだろう。

 1楽章ではその御詠歌が楽器を変えて4回、繰り返される。チーン、チーンという鈴の音に乗って、まず弦楽に現れ、豪快な金管に移って行く。それを、うねるティンパニや低音がしっかりと支える。やがて音量が小さくなり、鈴だけが残って、静寂の中を木管と弦楽が歌い継ぐ。やがて、御詠歌は遠くへ消え去る。

 続いて第2楽章は、六斎念仏歌音楽を主題とする。踊り念仏というだけあり、アレグロで景気の良い大栗流の音楽が踊る。すぐさま主題がアレンジされ、ロンド形式に。ABACAで進む。愉快なピッコーのテーマとそれを繰り返すオーケストラの掛け合いが続き、打楽器も心地よい。経過部を経て主題Aが戻り、先程ピッコロが提示した主題の変奏が続く。そしてまたAが戻って、短い打楽器アンサンブルから荘厳なアンダンテへ。ここは、信者たちが経文を唱える場面なのだそうである。堂々と集結し、交響組曲を終える。

 吹奏楽で人気の大阪俗謡や神話に比べると、地味地味に地味なのは致し方ないが、交響楽的な面白さや楽曲としての出来ばえは、ハッキリ言ってこちらが上だ。朝比奈も、純粋に交響作品として俗謡などよりこちらが上と思って、ヨーロッパで「持ち曲」としたのではないだろうか。

 最後に、なんとなんと、プロコの2番。これは、録音が少ない曲だよ。個人的には、プロコ交響曲7曲中の白眉にして絶頂は2番と6番が双璧だと思っているので、この2番は嬉しい。アヴァンギャルド交響曲の古典のようなもの。しかも、それが朝比奈の指揮デスよ。どういうこと?

 2楽章制で、第1楽章がソナタ形式、第2楽章が主題と6つの変奏曲というベートーヴェンを模した古典的な音楽だが、はっきり言ってバリバリの近現代音楽。不協和音ギャリギャリ、めくるめく展開、何がどう主題で展開なのか、自分にはよく分からない(笑)

 そのなかに、ロシア風の味わいが内実されているのが、なんとも魅力的な名曲である。

 さて、朝比奈だが、後年の「御大」としての朝比奈からは、まるで想像もできないレパートリーだ。しかし、これがうまい! セカセカしない、ゆっくりめのテンポで、じっくり鳴らして行く様は、後年のベトやブルに通じるものがある。この時代の日本のオケなら空転必須のこの難曲、指揮もうまけりゃオケもうまいものだから、独特の味と迫力がある。特に、金管の迫力が素晴らしい。そして、アンサンブルの精妙さ。凄い、素晴らしいしか言葉が出てこない。最高。


3/12

 特に女性作曲家というジャンルにこだわって蒐集していないので、色々な女性作曲家の曲を聴いているわけではないが、これまで聴いた女性作曲家の中で、特段の格別の抜群に印象深かったのは、何と言ってもナディア・ブーランジェの妹で、若干数え25歳で亡くなったリリ・ブーランジェである。

 夭折の作曲家でもある。生まれつき、難病にかかっていたようで、生来病弱。20歳頃には、もう自分の死を悟っていたのではないか。お姉さんで、高名な音楽教師でピアニストのナディア・ブーランジェの手ほどきで、メキメキと作曲の腕を上げた。また、両親の年の差が40歳以上あり、高齢の父親の友人のフォーレには、物心ついたときより可愛がられた。

 当然、残された楽曲も多くはなく、若書きの部分もあるが、20歳やそこらの(現代でいう)女の子が書く曲ではない。野太く、豪快で、かつ繊細。書法こそフォーレ、ドビュッシー、ストラヴィンスキーの影響があるが、それでも、独自の世界を完全に築いている。オーケストラと合唱によるカンタータ形式で、聖書の詩篇を歌ったものが多い。ブーランジェ家は、篤いカトリック信者だったそうである。

 録音もけして多くはないが、ガーディナーやマルケヴィチ(両者ともナディア・ブーランジェの生徒)の演奏が素晴らしい。ここでは、マルケヴィチの演奏他を。

 リリ・ブーランジェ詩篇集

 リリ・ブーランジェ

 詩篇第24篇「世界は主のもの」
 詩篇第130篇「深き淵より」
 詩篇第129篇「彼らはわたしを悩ました」
 古い仏教徒の祈り
 ピエ・イエス

 ジャン=ジャック・グリュネンワルド オルガン
 エリザベート・ブラッスール合唱団
 ラムルー管弦楽団
 イーゴリ・マルケヴィチ 指揮

 「空の晴れ間」 フランシス・ジェームの詩によるテノールとピアノのための13のメロディ
 エリック・タピー テノール
 ジャン・フランセ ピアノ

 夜想曲
 イヴォンヌ・アストリュク ヴァイオリン
 ナディア・ブーランジェ ピアノ

 24篇は4分ほどの小曲。まるで映画音楽のような、当時としては画期的なセンスがまず素晴らしい。ビビッドな音色とリズム。輝かしい金管と、エキゾチックな合唱。ストラヴィンスキーらしい和声とリズムの使い方もあるが、それでも、非凡な才能を楽しむには充分の小品。

 次の130篇は、リリのオーケストラ曲でも最大のもの。演奏時間約25分のカンタータである。オーケストラによる長い序奏の後、静かに祈りの言葉が歌われてゆく。中間部でまたオーケストラによる短い間奏の後、後半はダイナミックに合唱とオーケストラが一体化して迫力ある音響を造り上げる。そこからいったん静かになり、朗々と独唱が現れる。そこから静と動が幾度か入れ代わりながら、集結に向けて次第に盛り上がり、かつ厳かになってゆく。最後は、祈りの声が彼方に消えてゆく。楽想と構成の割にちょっと長いが、聴き応えはある。

 129篇は、また6分ほどの小曲となっている。独特の音調と音響の序奏の後、力強い合唱が現れ、不安かつ劇的な音調と共に曲は進行し、やがて静寂の中に消え入る。

 古い仏教徒の祈りも、7分ほどのカンタータ作品。テキストは良く分からないが、作詞者不詳のものをフランス訳したもの。音調が半音階的で、非常にエキゾチックなのは、東洋への神秘を感じたからだろうか。少なくとも、ここで歌われるのはお経ではない。しかし、中間部のテノールの独唱がまた、お経っぽいかも……。最後は金管が煌き、栄光と歓喜の中に終わる。

 レクィエムの中の1曲であるピエ・イエスは、リリの絶筆で、体調絶不良の中、姉のナディアに口述筆記してもらって作曲。完成後に意識混濁し、そのまま亡くなったという。演奏時間は約5分。編制がメゾソプラノ、弦楽四重奏、オルガン、ハープという特殊なもの。これがまた、この世のものではない、死の美しさ、暗黒の美しさ。ペッテションに匹敵するか、それを超える暗黒の美である。不協和音と、半音階が非常に現代的で、この才能が後世まで残ったら、どれほどの大作曲家になっていただろうかと、神を呪いたくなるし、この命の短さだからこその、この曲の美しさかもしれないとも想うのである。

 マルケヴィチの指揮はリズムを際立たせ、生々しく音を運び、、緩やかでエレガントなガーディナーと一線を画す。

 後半は、リリの高名な歌曲集。ドビュッシー的な面もあるが、このゆらゆらと美しく光る水面のような、時に光りの粒がキラキラと反射するような音の運び方はさすが。私は歌曲はあまり嗜まないので、その重要性もあまり分からないのだが、10代の作品というと、まさにシューベルトにも匹敵する輝きを放っているのではないか。

 最後の夜想曲(ノクターン)は、最愛の姉ナディアのピアノである。1930年の録音。リリの死から12年後。なんという、愛に満ちた作品と演奏なのだろうか。

 リリ・ブーランジェの歌詞の訳詞は、こちらのサイトに詳しい


2/4

 久しぶりにテンシュテットの新譜を聴いた。盤自体は、けっこう前(2018年)に出ていたもの。

 テンシュテット/ロンドンフィルハーモニー管弦楽団 1992年ライヴ
 
 ストラヴィンスキー:ペトリューシュカ(1947) 火の鳥第2組曲(1919)
 
 テンシュテットのストラヴィンスキーは珍しく、いまのところこの2曲しか録音が無い。CD-R盤で、クリーヴランド管のペトリューシュカ組曲(演奏会用ラストバージョンという珍しさ)と、NDRの火の鳥第2組曲があり、それらもかなり良い演奏(クリーヴランド管のペトリューシュカは録音がやや悪い)で、特にNDRの火の鳥はカシチューイの踊りが大爆音の地獄の演奏で最高である。

 そこで、ロンドンフィルの自作正規盤で、満を持してペトリューシュカと火の鳥が出た格好だ。

 やはり、70年代のCD-R盤の荒々しくおどろおどろしい不気味な演奏(しかも、既に記しているが、ペトリューシュカは本当に珍しい演奏会用ラスト。これは録音が少なく、聴いたことがある人は多くないはずである)と比較すると、ロンドンフィルの晩年のものはかなり上品になっているのだが、そのなかにもテンシュテットらしいアゴーギグが随所にみられ、特色ある響きを作っている。テンシュテットのことだから、きっとピアノのソロにまで細かくイチャモンもとい注文をつけて、全てを支配しているに違いない。

 ライヴならではのミスもあるのだが、本当に目立たなく、特に金管がうまい。流石、ロンドンフィルである。ペトリューシュカの生命線である色彩感が、倍増している印象だ。時にトリッキーな動きもして、本当に素晴らしいペトリューシュカ。

 火の鳥は、NDRとの演奏が凄すぎて、かなりおとなしい印象を受ける。NDRの演奏はもう地獄の火の鳥大炎上で、魔王カシチューイの勝利で終わるようなとんでもない演奏なのである。ロンドンフィルのライヴは、テンポも遅めで、チェリビダッケやクレンペラーほどではないが、一般的な火の鳥の演奏と比べると、遅いと思う。その分、異様な重厚さと迫力がある。特に凄いのはバスドラで、会場の響きの関係ではないと思うのだが、異様にズシズシ、ドッカンドッカン叩かれる。火の鳥は、冒頭の序奏からバスドラが大活躍するのだが、印象深く録音に残されている。

 たっぷりと進められる緩徐部(王女たちのハラヴォード=ロシアの若い女性が輪になって踊る踊り)などは、まさにマーラーかブルックナーのごときだ。続くカシチューイの踊りは、NDR盤のようなヤンチャは無く、その意味で常識的な解釈だが、バスドラ……(笑) 銃砲かよ。そして、常識的演奏とは言え、荒々しさとリズムの良さは、引き継がれている。一瞬の、ホルンの大暴れも新鮮だ。こんなホルン、あったっけ? バスドラは、たまたまマイクが近かったのかもしれない。

 子守歌の遅さも、驚く。眠るどころか、まさに眠りの魔術だ。催眠術だ。語りかけてくるようなファゴットの旋律は、驚怖さえ覚える。

 そして、終曲の壮大さといったら、どうだ!! 大教会の大伽藍だ。バスドラは、もうキエフもといキーウの大門だ。1812年のカノン砲だ。テンシュテットのストラヴィンスキー、意外なレパートリーではあるが、テンシュテットは火の鳥が得意だったのかもしれない。




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