吉松 隆(1953− )


 私の作曲家個別の項:吉松隆のページがあるので本項の前段はなるべく簡易に留めたい。

 吉松の魅力はもちろんその音楽の調性に基づいた平易性にあるのだけれど、もっと若い世代が書く四半分ポップ、四半分ゲーム音楽、四半分劇判みたいな、中途半端なものではなく、前衛バリバリ時代からの筋金入りの調性なので、行き着くところまで行って完全に良くも悪くも自己世界として閉じこもり完結している点にある。これは実は大変にヒクツでギークな音楽だと思う。

 それが汚い音なら救いようがないが、異様なほどにきれいで、ゆえに内向的とか感傷的とか耽美とかいうプラスの概念が生じてくる。

 チェロ弾きの友人は一言、「おセンチすぎ」 で片付けたが……彼にとって西洋音楽のくせに西洋音楽の骨格の無い吉松は、日本旋律云々ではなく日本的叙情に過ぎたのだろうが、吉松が当たり前ながら日本の作曲家だということを忘れている。

 だいたい日本人はフランスもの、ロシアもの、エゲレスものなどとクラシックを分類するくせに、日本ものは分類しない。形式感が無いとか、日本の民謡を使っているだとか、(セリエリは別にして)そんなアホみたいな理由でまじめに聴こうともしない。武満ですら、「世界的に有名だから」 「日本人の枠を超えているから」 凄い という図式に陥ってやいはしまいか? 

 それはそうと、交響曲を見てみたい。

 吉松は幸いながら交響曲が好きな作家で、私のような交響曲ファンにはまことに有り難い存在である。総合芸術としてのクラシックの頂点がオペラなら、やはり器楽を基本としたコンサート会場での頂点はまぎれもなく交響曲だと思う。さいきんのもっと若い世代の作曲家が交響曲に魅力を感じていないのは、ビビっているからに他ならないだろう。自由な形式で書けば自分をまっすぐ見てもらえる。しかし交響曲を書けば……。否応無く古典と比べられる。そして重要だが、おカネにならない。

 むりやり書いてもしょうがないから、それは、なんでもよいのだが……。

 吉松は2014年現在、6番まで交響曲を発表している。3、4、5と曲風は違えど形式的に完成してしまったので、インターバルを置くことは賛成していたところだが、2013年の6番まで12年も間が空いたのは驚いた(笑) 理由は、6番の項で吉松の言を紹介するが、このまま同じ形式で書き続ける作家もいるにはいるが、けっきょく9番10番くらいでシブイ感じの1楽章制になったりして老境の域に達するのが大体なので、シベリウスを神のごとく敬愛する吉松には最後にそのようになっていただくとして、個人的には、まだまだマーラー/ショスタコばりに大曲を書いてほしい。

 また別のところでも書いているが、吉松の書き方はシンフォニーよりコンチェルトの方が向いているかも知れない。じっさい、吉松は協奏曲が2023年現在10曲もある。

 なお、吉松の音楽(交響曲)には中身が無い、という意見をネットで散見するのだが……。

 吉松に「中身」など求めてはいかん!!w


カムイチカプ交響曲(第1交響曲)(1990)

 カムイチカプはアイヌ語で「神の鳥」シマフクロウのこと。ここでいう神とは森の神という意味。管弦楽曲「鳥たちの時代」を事実上の1番にしてもよかったそうだが、じっさい「鳥たちの時代」は3楽章制の純器楽音楽なので、非常に交響的に書かれおり交響曲でも文句ないが、作曲者がそうしなかったので、このカムイチカプ交響曲が第1番となった。

 1番は5楽章制で、密教の地水火風空の五大の概念に基づき、空を天空にかかるものというように解釈し、虹として楽章を構成している。3楽章「火」のロックビート的スケルツォを中心にシンメトリーを描き、水と風にゆらめく緩徐楽章を、地と虹にはフレーズが無限増殖する師松村禎三に通じる音楽を配置し、非常にシンメトリックなマーラー的外観を有している。

 1楽章「地」では執拗な低音や打楽器のオスティナートの刻みにセグメントの小さな各種の歌がひたひたと重なり、生命が蠢き分裂し増殖する様を吉松流に聴くことができる。頂点で弾けたように静寂が訪れ、やがて消え入る。シベリウスへのオマージュとのことで、吉松10代の作品でもある。

 2楽章「水」は、ピアノが水滴の音を、弦楽が水の流れを現す中、チェロのソロが朗々と水のテーマを奏で、金属打楽器木漏れ日の中、木管が鳥の声を模する。水のテーマはヴァイオリンソロから再びチェロへつながり、水面を揺れる光の中を弦楽が優しく受け取ると、最後はまたヴァイオリンがため息のように旋律をつなげ、最後はピアノの調べで水は流れ行く。

 3楽章「火」は激しいロック調の支点楽章で、すべてを破壊しながら舐め尽くす炎のトカゲの足音、鼻息、鳴き声であろう。基本的にこれもオスティナート楽章だが、テンポはより速く、金管が主役となる。激しい打楽器アンサンブルを経て一端は静まるが、再び走り出す機会を伺っているにすぎない。ビートがジャズに変わると吉松お得意のアドリヴ色が濃くなり、散々暴れた火は燃え上がって消える。ストラヴィンスキーへの敬慕がある。

 4楽章「風」 ここはレクイレムに近い音楽が紡がれる。静寂の前奏の後、弦楽が清めるような旋律をそっと開始する。金属打楽器の伴奏でアルトフルート? が尺八のような歌をうたい、ヴァイオリンソロへ引き継がれ、さらに広がる。やがて風も虚空に消え入る。

 5楽章「虹」 天空へ駆け上がったすべての精霊が、虹となって大地へ戻ってくる。旋律は上昇下降を繰り返しながら、徐々に天またへ向かう。この張り裂けんばかりの強い想いは、当時の現代音楽界への警鐘と抗いの魂の慟哭でもあろう。慟哭はやがて昇華され、純粋な煌きと化し、清浄の象徴となる。

 古典的な交響曲の形式は有しておらず、大規模な管弦楽組曲といっても良いが、作曲時はゲンダイニッポンでシンフォニーなんか作っても誰も演奏してくれないし、だいたい誰も注文してくれぬ。お客ですら、聴こうとしてくれないんじゃないか、という事で、こっそりと作曲して、勝手に最初で最後と決めたものだという。50分に及ぶ現代交響曲としては、異例の大作のひとつ。

 それが記念すべき第1交響曲になるとは、本人がいちばん驚いているのだろう。

 ただ私は好きな音楽だが、統一感と発展性(展開)に欠け、いかにも作曲者が交響曲と名づけましたというだけの交響曲なので、こんなの交響曲じゃないとか、惰性的とか感じる人がいてもおかしくは無いと思う。

 なお、吉松は以下の言葉を示唆として聴くものへ与えている。

第1楽章 GROUND 発生し増殖して行く歪なるもの。
第2楽章 WATER 古風なる夢を紡ぐ優しきもの。
第3楽章 FIRE 破壊しながら疾走する凶暴なるもの。
第4楽章 AIR 死せるものたちを思う静かなるもの。
第5楽章 REIMBOW 虹と光を空に広げる聖なるもの。

第2交響曲「地球(テラ)にて……」(1991)

 当初 第1楽章「東より」 第2楽章「西より」 第3楽章「南より」 ということで3楽章制だったが、エゲレスの新聞だかに 「スケルツォを欠いた交響曲」 と評されて、「なにこの」 と作者が思ったかどうかは知らないが、スケルツォ楽章の 「北より」 が追加されたが、未録音のため旧版の3楽章制を紹介したい。30分ほどで、当初20分ほどの音楽の注文だったが、書いている内に長くなってしまったとのこと。

 3つの楽章はすべてレクイレムで、作曲当時湾岸戦争等があってどうも反戦リベラル世代の吉松には世の中の流れが耐えられなかったようで、全体として祈りの概念に包まれている。

 1楽章「東より」は東洋よりという意味で、中近東から中国、日本あたりの世界が模倣される。チェロの余韻が長めのピチカートが薩摩琵琶を模し、録音に当たったエゲレス人たちが、金魚鉢の中で、「SAMURAI!」 「BUSHIDO!」 と大ウケしたというのが笑える。いや、笑えない。

 それが縁で、そのソロを弾いたBBCフィルのディクソンがチェロ協奏曲を書くきっかけとなった。全体の半分を占め、やや長いが、面白い音楽になっている。この当時の心なしか斜に構えどこかヒネクレタ感のある吉松のほうが好きな聴き手も多いのではないだろうか。

 ブゥーンという、うわずる序のテーマに乗せ、幽玄というよりむしろ夢幽ともいうべきチェロ独奏。当初、チェロ協奏曲として構想されたというからうなずける。このチェロのソロは、延々とうたわれるコーランをイメージしているとのこと。独奏が折り重なるように弦楽へ溶け込み、融けては現れ、現れては溶ける。それはそうすると、街並みへ溶けるコーランの音色か。フルートやオーボエが東洋の楽器を模し、雰囲気を盛り上げる。ピアノの点描的な扱いも、雨垂れを模す武満に通じる東洋的な響きであろう。

 新たなテーマが立ち上ると、音楽は急展開を見せる。激しいアレグロが現れ、何かを訴え続ける。しかしそれはすぐに減速し、再び瞑想の境地に響く虚空の音色が模される。最後は後の祭のように、なんとも云えぬ心地よい余韻を残して終わる。

 2楽章「西より」では西洋音楽の伝統に基づいた祈りが展開する。美しいアダージョ楽章で、超調性。しかしユニバーサル的なサウンドを装った、実に日本的な音楽になっていると思う。別に日本旋律があるわけでもなし、リズムが盆踊であるわけでもなし。どこが日本的なのか?

 やはりそれは、深いところの精神なのだろう。精神性ではなく、ドグマでも無く、東洋の心が西洋の手法を使って歌を歌ったにすぎない。そこにあるのは西洋の古い合唱音楽や教会音楽、民謡にも似た、ひたすら紡がれる純粋な祈りの歌。頂点ではフーガにも似て、そこへピアノが装飾を与える。歌はどこまでも流れ行く。

 3楽章「南より」はアフリカ音楽を模している。アフリカのビートはいまや世界へ伝わり、様々な音楽のリズムを支える基となった。アフリカの熱い祈りは、ビートなしには考えられない。マリンバがひたすら16音符を叩く中、ギロが合いの手を入れ、ひとつの歌が静かに始まり、それがオスティナートで重なり合い、ひたすら盛り上がって行く。みなで輪になって踊り、歌い、跳ね、祈りを捧げる。ここでは単純さこそが原始の力をもって、祖父伊福部昭の土俗的なパワーを踏襲し、最高の祈り(あるいは呪い)につながると宣言している。皮膜打楽器の迫力ある音は、それも重要な魂の叫びのひとつである。

 歌は、熱いアフリカの夜の満点の星空へ向かって消えて行く。

 なお、この終楽章のコーダが、2021年東京オリンピック開会式で使われた。


第3交響曲(1998)

 吉松のアレグロへのこだわりは、ショスタコーヴィチに匹敵するほどだろう。日本の現代音楽のテンポはだいたいレントあたりで、茫洋としたテンポ感の無いリズムが 「日本的」 あるいは 「日本情緒的」 という、ある種の誤解に基づいている。激しい和太鼓は、クラシックにはそぐわないとでもいうのか。

 いわゆる民族的な楽派にとって、そのような日本的アグレッシヴなリズムの饗宴は既によく使われているのだが、純粋に交響的アレグロこそ、現代への音楽的挑戦であるとは吉松。なぜならば、馬車の時代より汽車ができて、自動車ができて、プロペラ機ができて、いまや新幹線にジャンボジェットに、通信にいたっては光の速度である。すなわち、スピードこそが現代を解くキーワードで、音楽もそれへ合わせて速くなるのが自然、なのだという主張に基づいている。

 ※かつて日フィルのページに良いインタビュー記事があったのだが、今は消えている。交響曲という「枠」の中であえて作曲することこそ無限の表現性につながる私の交響曲は、拡散の音楽である、というような交響曲観も語られていた。

 しかるに誰もアレグロを書かない……。いや伊福部昭や芥川也寸志等はたくさん書いているのだが、彼の世代以降という意味で。

 さて吉松はこの3番より、彼流の「交響曲」のひな型を完成させ、5番までその形で書いている。それは音楽の拡散方式であり、多様性主義というよりもむしろマーラー流とでも云えるなんでも詰め込んだ、モノや情報のあふれる現代シーンの素直な切り取りで、現代アートの絵画やスティール作品、あるいはポップアートなどにも通じる世界がある。

 マーラー流ということは、まず交響曲でなくてはならない。そして交響曲は、明確な枠が定められなくてはならない。世の中には名前だけ交響曲の作品もたくさんあるのだが、それは彼にとって今のところ交響曲ではない。シベリウスが7番でついに交響詩と一体化した境地は、吉松にはまだ遠い先のことなのだろう。いや、あるいは、マーラーのように最後まで、中身はありとあらゆるものが混在し包括しつつも、枠だけは交響曲の形式をとるのかもしれない。

 つまりここにあるのは、4楽章制という、いまや彼以降の世代ではほとんど誰も作曲しないような手法をもって作曲したハチャメチャ。しかも半端ではない。超メチャクチャ。巨大な交響曲風幻想曲ともいえるもの。そこにはまさに、ありとあらゆる形式の中に生きる、いや、生きねばならない我々現代人のメチャクチャな精神的世界がかいま見れる。ニートですら自由人ではないではないか。

 ここでは空虚でさえ、表現の手段となっている。我々の生活シーンに、空虚でない時間が一瞬でもあるというのだろうか!? 貴方の生活は24時間365日充実しきっているとでも!?

 そこに、現代社会の縮図があると思う。その社会的縮図の表現をもってして、初めてマーラー流の交響曲世界は成り立つ。交響曲とは、私が思うに、そういう無駄な(まさにカネにもならない!)重圧がありつつ、重圧があるからこそ面白く、楽しい。

 長くなった。3番を聴いてみたい。

 45分におよぶ、古典のようで古典でない、つまり疑似古典交響曲の1楽章はもちろんアレグロである。低音の伸ばしから、管楽器が空気音のみを吐いて風を模し、それへもの寂しげなオーボエのモノローグが第1主題として登場する。巨大な音響合成マシーンとしてのオーケストラを自在に操る希代の魔術師による魔法の杖がいよいよ振りかざされると、すさまじい破壊の暴走がスタートする。激しいたたみかけるようなオスティナート主題と第1主題の派生が交錯し、絡み合う様はエロティックなまでの快感を聴くものへ与える。

 やがて鳥の声に導かれ、アダージョになり、東洋的な主題が展開する。明確なソナタ形式ではないが、疑似ソナタ形式的な様相はもっているようにも聴こえる。続いて再びアレグロが復活し、鋭いABA'の対比を見せる。特にこのどこまでも突き進む疾走感を聴く作品であり、その合間合間に出現する切ない一途な想いにも似たつぶやきというか、泣きながら走る青春映画のような甘酸っぱさが最高に染みる。

 2楽章は伝統的にスケルツォだが、スケルツォ自体は伝統的ではない。かつて舞踊音楽だったレントラーやメヌエットやワルツがスケルツォ楽章へ進化したように、吉松は現代作家として現代の舞踊をジャズやロックとして登場させる。打楽器が民俗音楽を模し、トリオではピアノがジャジーな雰囲気を盛り上げる。7分となかなか長いが、間奏曲のように短く感じるほど出来がよい。

 3楽章はアダージョで、吉松真骨頂の激甘美旋律がいやというほど現れるが、どこか感傷的で、人を愛しているのに愛する人を拒絶するようなニュアンスがあり、まさに心の壁に隔てられたように、素直に浸れないのがまたなんとも。ショスタコっぽいチェロデュオより、ぐいぐいと聴き手を引き込んで行く。

 重厚な和音の上で泣き節が唸るさまには身悶えしてしまう。最後はアレグロとなって、次の楽章への導入も果たす。

 4楽章は一転し、感動フィナーレが演出される。ここは太陽祝祭であり、とにかくアッパーに盛り上がらなくてはならないらしい。1楽章の主題が回帰して、循環形式すら模しているようでもある。ラストのコーダは疾走の果てに表現的に 「キレなくては」 ならない。綿密に構成されたブロックが、ドドド……!! と崩壊しながら一気に集結までもって行く。まさにハルサイのラストに乙女が昇天死するがごとく、イッちゃうのである。

 以上の楽章構成は、一貫して5番まで変わらない。楽想が異なるのみで、正直、新鮮さというものは無いが、把握してしまえば悪いものではない。なにより吉松自身が、こういう一種の 「枠」 の中でこそ無限を表現することができ、かつ面白いとしており、確信犯なのだから、どうのこうのと云っても、どうしようもない。始めから用意されていないものを 「無い」 といって腹を立てるのは、筋違いだし、それへこだわって本質の見えぬ様は滑稽ですらあるだろう。

 ただ3番はこのような表現の最初の作品であり、ちょっと弾けすぎというかやりすぎ、あるいは加減が分からないからとにかくやってみたという感が大きくあって、特に客観的に聴くのを良しとし、むやみに音楽へ没入しない聴き手にはガワだけ大きくて空っぽなものに聴こえるようだ。正直いうと、私も、何度も聴くとやはりそうなる。たまに聴くほうが良さが分かるかもしれない。しかしその空虚ですら、表現の内になり得るのは既にのべた。ということは、ショスタコの7番に通じる表現か!?

 吉松のシンフォニーは、彼の他の作品のように、じつは純粋にまず響きを聴くものであり、深い精神性は、後からついて来る。それも、ついてきたい人にのみついて来る。それを拒む人には、聴こえて来ない、淡い期待だろう。それがたとえ、4楽章制の交響曲であろうと、ピアノ舞曲集であろうと、本質は変わらない。コンチェルトや室内楽など彼の他の作品を愛する人が、交響曲のみ、「交響曲だから」 という理由で別の聴き方をするのは、おかしいのではないか。

 その意味で、外見のガワだけがマーラーやショスタコーヴィチに通じるからといって、同じ観点から吉松を聴くのでは、まったく意味を成さない。吉松の本質は軽妙、洒脱、皮肉、そして耽美であり、マーラーだのショスタコだのブルックナーだのとは、表現の本質(次元)が異なる。

 とにかく、彼の書きたい音楽は、「美しいもの」 これが第一なのだから、それを大前提として、各種の表現が生まれる。苦しみや怒りを表現するからといって汚い音はあり得ない。ここが他の現代作家と決定的に異なる点だろう。

 というわけで、彼の曲を 「おセンチ」 とか 「空騒ぎ」 とか 「こけおどし」 とか云ったところで意味が無い。美しければいいのだから。そういう観点で聴くのは的確ではない。しかし、吉松の曲を 「汚い」 「醜い」 といって批判するのは妥当である。そういう人がいればの話だが。

 吉松は 「なにこの」 「どこがきたないんだ」 と憤慨し、よりきれいな曲を書こうと奮起するだろう。「中身がない」 と云ったところで 「だから?」 「きれいだからいいじゃん」 となるのである。たぶん。

 したがって、吉松の曲は唯美趣味の観点からまず聴かなくてならないのではないか。


第4交響曲(2000)

 4番というのは、古来より、雄々しい3番と5番に挟まれた一輪の可憐な花である。

 というのは大ウソで、ベートーヴェン大先生の偉大すぎる一例しか無く、一種のトラウマのようにベートーヴェンを崇拝する作曲家を蝕み続けている。結果としてベートーヴェン大好きのマーラーが、そんなふうに聴こえなくもないように作曲したぐらいだがそれとて結果論であり、4番=軽交響曲という図式は、一種の幻として聴き手を惑わす。他の高名4番の例をとってみても、ブラームスチャイコフスキーシューマンメンデルスゾーン、ブルックナー、ショスタコーヴィチ……どこが可憐? マイナーでよければオネゲルの4番がライトな作風ですが。

 だいたいベト4だって英雄や運命と比べたら、ということであって、それだけ聴けばそんな可憐な曲ではない。演奏によってはむしろゴツイ。

 とはいえ、交響曲という音楽を、いまさら何が交響曲だという意味で一種の音楽パロディーとしてとらえるのならば……それはつまりマーラー流ということなのだが……4番は立派に 「軽交響曲」 でなくてはならず、5番は 「ダダダーン」 でなくてはならない!

 しかし吉松も、この4番は結果論として、室内楽的な軽交響曲になった。3番の対極という点では同じだが、そもそもアレグロとフォルテである3番と比較してアダージョのみの交響曲をと考えていたが、そこはそれ、彼のアタマの中に突如として 「谷間に咲く小さな花のような」 間奏曲的小交響曲が鳴り響き始めたというのだから、トラウマというのは恐ろしい。彼はもはや無意識の中ですら、4番が可憐に鳴り響くほど毒されているのである。

 しかし小交響曲といっても、時間的には30分ほどで、改定前の2番と同じぐらい。ただしより小編成で、伝統的なフリをした純4楽章制。3番で試みられた疑似古典形式が、ここでも踏襲されている。つまり、同じ枠を使って、3番と4番は、それぞれベクトルの方向性を変え、2種類の表現法のちがいを試している。そこを見逃し、「3番と同じような曲で、中身は違うが新鮮味が無い」 というのでは、素直に吉松を楽しめないと思う。これは、だれあろう、「吉松隆の」 交響曲なのです。ここでは彼にしては珍しく音楽が縮小しているように聴こえるが、やはり交響曲としては、拡散している。拡散の規模や、方向性が、異なるというだけだと思われる。

 もっとも、張り子のように聴こえがちな3番に比べて、もっとすっきり小さくまとまっており、より美しく洗練され、繊細に響くので、こちらのほうが単純に好きだという人は多いのではないか。

 これは私のイメージだが、彼の田園風景はどこかやはり変に機械的で、彼の鳴かせる鳥はデジタルバート的である。したがってこのオモチャの田園交響曲と彼が名付けた4番は、なるほど、すべてぜんまい仕掛けのアナログなバーチャル世界に聴こえる。どこか幻想的で、淡い風景が見える。

 1楽章冒頭より軽やかに鳴る第1主題(仮)が、アレグロの準備を進める。フルートの第2主題(仮)も鳥の声を模し、打楽器も、タンバリンやトライアングルが多用され、オルゴール的あるいはメリーゴウラウンド的な雰囲気を盛り上げる。その後軽く第1主題が取り扱われ、やがてすべての玩具が走り出す。玩具たちは時には休憩し、時には笑い、踊り、ケンカをし、最後は静かに眠りにつく。

 2楽章はスケルツォの代わりにワルツが用意されている。このワルツがまた心地よい。その中に、彼の好きな(?)作曲家のオマージュが散りばめられている。次から次と聴き慣れた旋律が出てくるのは面白いが、どの作曲家のなんの曲まで咄嗟には私は分かりません。

 幻燈のようにワルツは過ぎ去り、アダージェットの3楽章へ。アダージェットといえばアナタ! マーラー大先生の弦楽とハープのみのあの超お耽美楽章が高名ですが、吉松はなんの挑戦か弦楽合奏で同じように始めてしまう。しかしコレがまた……泪ちょちょぎれの切なさと愛らしさにあふれた、名旋律。そこへ、吉松得意の点描風なピアノがポロポロと入ってきて、まるで宮崎アニメの名シーンのよう。音楽はやや緊張感を増し、青空に風が強くなり草原にたたずむ主人公の帽子を飛ばしてしまうような、素晴らしい洋画のワンシーンのようにもなる。

 それから冒頭が回帰し、ピアノの小さな妖精の踊りがまったくピュアな精神世界をどこまでも表現して、静かに幕を閉じる。今交響曲中でも白眉であるばかりではなく、吉松の全音楽のなかでも屈指の出来だと思う。

 4楽章は、短いアレグロで、ロンド形式。次から次と出現する旋律が少しずつ形を変えて繰り返えされ、転がって行く様子はまことに楽しいし、途中ではチャイムとピアノの小休止もたおやかだが、やがてテーマを増殖させながら盛り上がり、燦然と光り輝くのではなく、噴水が陽光にきらめくように、光の中に粒として消える。

 この交響曲は、彼の音楽のなかでも特に美しい。特急の美しさといっても良いでしょう。あまりに夢幻的に美しすぎるので、その意味で同じ美しさでもハデな響きで照れ隠しできる曲を好む聴き手には、ちょっとストレートに恥ずかしいと云われるかもしれないが、唯美趣味としての吉松としては、まさにこれこそ真骨頂といえる音楽になっている。


第5交響曲(2001)

 3番に続いての構想だったが、4番が登場したのでそれが挟まる。

 例の運命動機を使用してホントに5番を書いてしまった人は、私が聴いた中では、マーラー、別宮貞雄に続き、3人め。冒頭から臆面もなく使用しているのは、マーラーと吉松のみではないか。しかもご丁寧に吉松は、休符入りで、ちゃんと ン!ダダダダーン だそうな。ただし、いきなり5拍子で振るのが異様に難しいようである。

 ※関係ないが、伊福部昭の交響譚詩も、冒頭からいきなり5拍子である。もっとも、楽譜としては4拍子のウラから入る。

 この曲はそのような5番のパロディーのような伝統を踏襲しつつも、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ブルックナー、マーラー、オネゲルのような各種運命交響曲のようにその異様な重厚さは踏襲していない。いやむしろ、「運命なんだから盛り上がりまっせーッ!」 のような力みをあえて表現し、ここでもマーラー流の音楽パロディー(ユーモア)であるばかりでなく、プロコフィエフやショスタコの5番の芸が見え隠れする。この2曲は20世紀を代表する名交響曲であるが、両方とも5番なのは示唆に富んでいる。ソビエト的な事情を配慮しても、この2曲もマーラー流の音楽パロディーとアイロニーにあふれている。20世紀はバロディーと(ユーモアと)アイロニーの時代でもあったと思う。したがって吉松の5番も、色々と、パロディーとアイロニーとそれによるユーモアに満ちていると解釈しておかしくないと思う。いや、1901年、ちょうど100年前に書かれた(完成は翌1902年)のマーラーの5番から続く正しい系譜が、まるで2001年の日本に甦ったようである。

 また、ここでは同じ空騒ぎでも3番のような空虚さは減退し、むしろ現代人の心の闇を明るく切り取って、肯定的に未来へつなげるような人間讃歌の曲調がある。

 作者によると5番は一種のファウスト交響曲であり、男、悪魔(運命)、女性の過去・現在・未来3種3様のテーマの交錯する人間模様でもある。時間的には46分という大曲だが、じつは1番より短いし、3番と同じほどであるが、内容の濃さは比較にならない。同じような曲、と単純に決めつけるのはカンタンだが、3番と4番の異なるベクトルの終着点というか、交差点としてちゃんとここに帰結しているのを聴き逃しては楽しさ半減である。ここではちゃんと、3番と4番で培われてきた音楽が、一体となってまた線の流れとなってつながっているのを聴くことができる。これは、1番からずっと連なる音楽である交響曲でなくば聴くことのできない面白さだろう。

 運命動機にチャイムや分散系のテーマが挟まれ2回繰り返された後、静かにチェロが引き継ぎ、ピアノが打ち水のように場を清めた後、アンダンテの主題が静かに登場する。オーボエが引き継いで、鳥の声に導かれ、やがて 「分裂症的な」 アレグロとなる。

 アフリカンビートや風の音、それは3番からの伝統。鋭く深刻なテーマ。珍しくティンパニの連打が緊張感を盛り上げる。ハイハットの響きがいかにも都会的だ。テーマは低絃を中心にひたすら繰り返され、男性と悪魔の戦いは続くが急にそこにアダージョが挟まれ、「天使的な」 女性のテーマが登場する。これは序奏で現れたオーボエが回帰させる。しかしそれも束の間、アレグロは最後の様相を呈し、組んずほぐれつで最後にまた第1主題のンダダダダーンが復活して、闇に消える。最後はテーマが急激に交錯する。

 2楽章はスケルツォ。ジャズ風のベースラインに乗り、悪魔が踊るのだそうだが、古い刑事もののテーマにしか聴こえないのだが(笑) ここでいう悪魔とはけしてスプラッターなものではなく、芥川龍之介の煙草と悪魔に出てくるような、ちょっと間の抜けた悪魔であり、水木しげるの世界にも通じるだろう。しかしいかにユーモラスで人懐っこくとも、悪魔は悪魔であり、人間を堕落させる。

 現代の闇をブラックに切り取っているが、けしてダークな響きはしないのがまた吉松流。

 3楽章はアダージョであるが、主題は既に1楽章で登場しているもの。悲歌風で、亡くなった妹さんへ寄せる鎮魂のワルツ。これまでのアダージョ楽章と異なり、非常に水のイメージによるピアノや金属打楽器に彩られ、確かにここにあるのは死を切々と悼む純粋な心である。なんというか、こりゃまるで火垂るの墓じゃないか。泣けというのか。泣けてくる。

 しかしいつまでも泣いていたって始まらぬ。人生は前へ進むためにある。

 再び燦然たる人生讃歌のテーマが、運命讃歌のテーマが鳴り渡る。肯定的な主題により、鳥のテーマもうれしそうだ。

 ちなみにこの4楽章はビートルズなのだそうで、初演の時ビートルズ世代の藤岡は 「こんなの恥ずかしくて振れない」 とクレームをつけたが吉松に 「バカヤロー、人間、恥ずかしいのが気持ちいいんだ!」 と怒られたらしい(笑) ビートルズ世代ではない我輩は、どこがどうビートルズなのかサッパリ分かりませんが。

 中間部では壮大に拡散された運命主題が朗々と響きわたり、切なく消え入りそうな音楽がしばし骨休めとして登場した後、再びアレグロが疾走する。「錯乱した舞踊」 だそうだが、どうも自分の音楽を素直に表現できない作曲者のヒネクレタ心情がなんとも面白い。まあ彼の作曲家経歴を鑑みれば、ヒネクレルのも無理はないのだが。

 コーダでは引き延ばされた運命動機が次第に折り重なり、天空へ咲き誇るようにして大きく舞い散る。

 このように、ちゃんと1楽章で呈示された3つのテーマが各楽章で活躍する構造で、正直意外なほど大マジメな交響曲である。これまでのただ書き散らかしたような3番4番とは、明確に異なる独特の強固な構造を持っている。さすが第5というべきか、これだけでも、じつはぜんぜん違う音楽なのだということが分かるが、残念ながら表面上からは聴こえて来ないから分かりづらいのだろう。

 この5番は非常に楽しい部分があり、少なくとも3〜5番のうまい 「まとめ」 として機能している音楽だと思う。

 クラシックが滅びかけているとはいえ、20世紀後半、そして21世紀にかけて、地味に交響曲は量産され続けている。そしてそのほとんどが、取るに足らない音楽であろう。しかし嘆くにはおよばない。18世紀よりこちら、何万曲とあるだろう交響曲は、そのほとんどがとるに足らないのだから。

 クラシック音楽が真に滅びる時は交響曲が滅びる時だと思うのだが、吉松の5番のような音楽が生まれている内は、良くも悪くもまだまだ滅びる気配はないと安心できる。吉松の5番は、それほどの音楽である。


鳥のシンフォニア"若き鳥たちに"(2009)

 5番と6番の間に挟まった、小交響曲。これが6番でも、おかしくなかったようだ。長く録音が無かったが、2023年に新譜が出た。

 シンフォニアなので伝統的に3楽章制かと思いきや、なんと5楽章制。演奏時間は、20分ほど。仙台ジュニアオーケストラ創立20周年記念の委嘱で書かれており、演奏テクニック的に難しすぎず、かといって簡単すぎずというバランス感覚が、作曲に際に難しかったという。また、ブリテンの「青少年のためのオーケストラ入門」のようなイメージもあったようだ。

 第1楽章 prelude 前奏曲と第された1楽章は、音符(音形)は書かれているが、テンポがアドリヴだという。吉松得意の、自由な鳥の歌である。都会では公園の鳥の声も歌のように聴こえるのかもしれないが、私の住む田舎など家のすぐ裏が山なので、朝から各種の鳥の声がうるさくて目覚まし代わりだ。美しい弦楽器もハーモニクスに乗って、自由自在に鳥たちがさえずっている。金管やピアノ、打楽器まである。打楽器は、いかにもキツツキだ。朝の情景は、すぐに過ぎ去る。

 第2楽章 toccata トッカータは、小スケルツォ的な性格を持つ。執拗に紡がれるスケルツォ的主題と、その発展形のトリオ的な部分の交錯からなる。中間部のレントでは、さらに発展した広大で爽快、かつ優美な風の歌を聴くことができる。冒頭に戻り、レントも再現され、再び冒頭に戻る

 第3楽章 dark steps 高名なジャズ演奏家、ギル・エヴァンスのエッセンスが元ネタであるという3楽章は、本来であれば自由なジャズ・アドリヴだが、そこはオーケストラなので譜面のあるジャズ風の楽章。こういうジャズ風の音楽は、古くはガーシュインやストラヴィンスキーの時代からある、伝統的なもので、吉松の大得意。子供たちに聴かせる、ニヒルなパロディーの世界である。

 第4楽章 nocturne 夜想曲では、これもまた吉松大好きなシベリウスの世界が提示される。弦楽の冷たい祈り、フルートやオーボエのささやかで儚い歌、クラリネットの返事、トロンボーンのつぶやき、トランペットのハミングが繰り返される。星空のワルツは、マーラー的な世界へのオマージュか、銀河鉄道の光景か。星屑の降る、夜の眠り。

 第5楽章 anthem 讃歌と題された終楽章では、ハ調の歓喜の世界が現され、とうぜん運命動機のパロディーも登場する。5番の次に書かれているので、正統な5番のエコーであろう。ティンパニの轟きから導かれる輝かしい大伽藍、堂々たる行進。テンポアップし、平和と未来の行進となる。子供たちの未来は明るい。夢と希望の音調にあふれて、終結する。実に正統な、素晴らしい交響曲の終楽章だ。これぞ、短いながら大団円である。


第6交響曲「鳥と天使たち」(2013)

 5番より実に干支一回りを経て登場した第6番。副題を「鳥と天使たち」という。これは、1番・2番と同じく、もちろん標題音楽ではなく、導き程度のもので、各楽章にもタイトルが冠されている。3楽章制で30分。吉松としては4番と同じく軽交響曲の部類で、これは新古典派の中では、シベリウス、ドヴォルザークなどに3楽章30分ていどの交響曲はある。

 3、4、5とほぼ同じ方向性の枠の中で進んできて、5番でひとつの完成形を迎えた吉松の交響曲は、インターバルを置くのは私も賛成していたが、まさか12年もかかるとは思わなかった(笑) 吉松は5番でうち止めなのではないかと思っていた。

 しかし、CDの解説によると、12年のあいだに2回、室内楽作品としての委嘱が諸事情により流れたという。仕事としてやっているのだから、クライアントとの諍いもあるだろう。これは、三度目の正直で世に出た、満を辞しての交響曲であった。

 3楽章制の交響曲は、たいてい伝統的にスケルツォ楽章を欠く。これはモーツァルトなどでも行われている、古典的で伝統的な手法であって、目新しいものではない。4楽章制というのは、管弦楽のためのソナタとしての交響曲であって、それを本来の定義とすると、3楽章制というのは当時からある、もっと自由で緩い形式で、作曲家が交響曲と名づけた曲としての交響曲の萌芽というべきか、むしろ、急〜緩〜急形式のシンフォニアとしての形態を有している、より原始的な姿とも言える。

 そこで、2楽章の緩徐楽章にスケルツォに相当する速い部分を含んでいるフランク形式ともまたこれが異なる。

 吉松が2番の原典版で書いたものと同じく、ここでは、単純な急〜緩〜急による、伊福部のタプカーラや松村の1番に通じるいわば序破急形式とも言える、実に日本的3楽章制交響曲になっており、私はその意味で同じ方向性の4番より成功しているし、この時点での集大成にも思える。

 第1楽章「右方の鳥」

 雅楽に右方の舞(高麗楽) 左方の舞(唐楽)という演目というか型(舞を含む)があり、それのパロディというか、あやかってつけたていどのもの。

 冒頭、朱鷺によせる哀歌か何かの自作引用よりはじまり、この室内交響曲は幕を開ける。吉松の、まさに洗練と精緻と無駄の集合体である囀り。木管がこれは3番交響曲だと思うが、それの引用だと思う特徴的なフレーズを繰り返し続け、リズムパートがオスティナートを刻み続ける中、軽やかに曲は進んで行く。

 突如として曲調が代わり、3拍子のワルツ。コミカルなトロンボーン。続いてこれも何番かの交響曲に出てきたような気がする。リズムパターンの波の中を、さまざまな楽器たちが鳴きまくる。

 夕暮れになって、黄昏を飛んで行く鳥。子守歌だろうか。夢はちょっと張り切りすぎて、ジャズによる激しいビートが始まる。1番交響曲の第3楽章のような激しさだが、旋律がしっかりしているからか、カオスというでも無く、ちょっとした悪夢といったふう。ビートは続き、楽しい追いかけっこ。

 その追いかけっこのまま、プツリ、と夢は醒める。

 第2楽章「忘れっぽい天使たち」

  クレーによる高名なペン画「忘れっぽい天使」よりタイトルがついている。

 これは吉松のハーモニカによるデビュー作と同じタイトル語源で、吉松の原点ともいうべきもの。

 夢見心地の緩徐楽章で、玩具の楽器の演奏に加え、即興演奏、そして吉松お得意の高名先輩作曲家の6番からの引用がある。最も分かりやすいチャイコーフスキィの悲愴の4楽章は良いとして、シベリウスショスタコーヴィチの6番よりの引用が悲愴に先立って続けざまにあるそうなのだが、さすがの私もシベリウスの6番はもちろん、ショスタコの6番も覚えるほどには聴いてないので、良く分からない。

 吉松に合わせてシベリウスとショスタコの6番を聴き直してみたものの、付け焼き刃であった。

 武満にも似た水滴の音の中、夢はまだ続いており、いや、これはもう夢などではなく、白昼夢の幻想の世界か。フルートが無常の風を巻きこみ、オーボエが霧の中の孤独な鷺を歌う。ファゴットが唸るは年を経たヒキガエルか。ここの木管がショスタコのサイテーションなのか。

 ただの甘ったるい緩徐楽章ではなく、マーラーの大地の歌のような無常観、詩情にあふれた、素晴らしい楽章。ここでコミカルな玩具の楽器やトロンボーンのおどけた調子も、この雰囲気の中で冗談というより懐古として冷たく活きてくる。

 涙が出るほど美しいワルツ。こっちがショスタコか。ショスタコの6番にこんなのあったっけ……? そして絃楽合奏。これはシベリウスか……? そして悲愴……。

 白昼夢が、静かに終わりを告げて行く。

 第3楽章「左方の鳥」

 サイバーバード協奏曲の引用が、この終楽章をビートとノリによるものを示唆する。寄せては返す波となって音楽が現れては消える。泡沫の夢の如し。この美しさの中の砂上の楼閣の如き儚い無常観こそが吉松。吉松に構築性を求めてもどうしょうもない。ビートは次第に盛り上がってゆき、トランペットからトロンボーンに流れて行く。

 その頂点でドラが鳴り、解説には登場しないベートーヴェンの田園が……。しかしそれは、一瞬の出来事だ。まさに交響曲による交響曲的「遊び」。

 執拗に繰り返されるオスティナート旋律。それは、伊福部〜松村〜吉松と引き継がれた系譜。表現の方向性が異なるだけで、しっかりと受け継がれている音楽的血筋。

 ベートーヴェンの他にも、吉松のことだから、隠された大作曲家の引用があるかもしれない。私には、まったく分からないが。

 全速力で飛び続けた鳥が行き着いた先には、光と安寧の世界が待っていた。正統交響曲に相応しい終楽章にして、規模としても内容としても、表現としても手法としても、吉松の交響曲の中で最高傑作と断ずる。


 吉松はかなり好きな作曲家だが、彼の音楽は良くも悪くも独特で、技法的にはけして洗練されてはおらず、聴き続けていると辛くなる部分もある。だが、面白いのは確かで、逃れられない魅力を持っている。

 ミヨー+シベリウスのような軽妙、洒脱、ユーモア、ブラック、耽美な音楽は、ベートーヴェン、マーラー、ブルックナーにショスタコーヴィチ的な重厚さとか、感動とか、興奮とか、真摯な祈りとか闘争とかとは無縁だし、そういう音楽と比較して批判するのはお門違いである。

 つまり、それと関連するのだと思うが、シャンドスの作品集は、必ずしも吉松の魅力を引き出してはいない。それはオケが重すぎる。彼の交響曲は、いや、吉松の曲は、本質的にカルイ。良くも悪くも軽い。5番だろうと3番だろうと、いかにも重交響曲だが、「重交響曲のように」演奏してはいけない。とたんに、ただうるさくて長いだけの鈍重な珍曲と化す。そうなると、逆説的だが日本のオケのほうが良いのだなあ、これが。マーラーは日本のオケであまり聴く気はない(軽く、というか、体力不足でいけない)が、吉松のようなのは、完全に逆だと感じる。

 この軽さ、つまり、良くて儚さ、悪くいうと軽薄さは、やはり吉松が日本の作曲家の証左でもある。吉松の曲には、基本的に日本的な情緒も民謡も侘び寂びの精神も無い。本質的には隠れた無意識下にあるのだが、表層的にはあまり出てこない。いかにも、グローバルを装った作風の中で、もっとも分かりやすい日本的なものがこの軽さだ。ここを、上手にやるのには、日本のオケのほうが面白い。

 かつて岩城宏之が、フランスだかベルギーだかのヨーロッパのオケで武満をやるときに、参考演奏で日本の録音を持っていった。日本のオケがあまりに下手で、岩城は赤面したのだそうだが、向こうのプロデューサーは日本のオーケストラの情感というか独特の薄さ、儚さに感動して、こっちのオケは確かに技術的には上だが、この墨絵のような感じがまったくない、まるで武満を理解していないと憤慨して、岩城は「そういうもんかねえ」と、不思議だったというが、やはりその土地その土地の独特の色というか、味が、曲の本質に関わってくるのだろう。

 なお、その話を岩城が武満にしたところ、武満は「上手なオケがいちばんうれしい」というようなことを答えたのだから、面白い。武満自身は、ドビュッシーのような濃厚な音楽を書きたいと思っていたそうだ。







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