六方剣撃 ソーデリアン 〜黒き血脈〜 第1章

 九鬼 蛍

 紀元前より続くと云われるアデルナ歴一三二八年(六方第二紀の九五〇年ごろ、中期のはじめ)にあり、魔導王及び聖導皇家麾下の遠い子孫たちは、最大の激戦地アデルナにおいてその魔導・聖導戦士としての力をかすかに現代へ伝えていた。多くは、金で魔物を退治する退治屋………すなわち「ハンテール」として。


 一 ハンテール・フローティア


 六方世界の大国、強国を意味する「六方十国」の一である神聖国家ウガマールよりアデルナ地方へ至るには、ウガマール首都ガルマン=ガルマスより街道を東に二十日ほど進んだのち、ガリー港から大陸横断船によりアルネード海をほぼ横断しなくてはならない。

 船は定期船として幾つかの港へ向かっているが、アデルナとの交易路が最も行き来が多い。アデルナにはいま十二の都市国家があり、それぞれ特徴ある自由都市を形成している。かつてこの地方にはウガマールと同じく六方十国のひとつに数えられた強大な王国が存在したが、第二次大戦で滅んだ。以後、約九百五十年間、幾度となく王朝が起きては崩壊した。王朝はみな小規模で、アデルナを強力に統一したものは存在せず、短命だった。現在ではアデルナ第七代ガブリエル朝断絶の後、都市国家群が連合を結び、すでに百年近くアデルナ地方を事実上自治支配している。これは、世界でも珍しい形態の市民国家であった。都市国家はアデルナ王国時代の主要都市で、古いアデルナ豪族出身のルキアッティ家が交易と戦争商売により財を成し、二次大戦後に崩壊した王国を経済力で再構築した。歴代の短命王朝は常に各都市国家の影響下に置かれ、裏ではルキアッティ家に代々経済支配を受けていた。ゆえに、市民国家とはいえ、いまは影でルキアッティ王朝と云う者も多い。

 アデルナはかつて最後の正統魔導王国であり、聖導皇家と凄まじい戦いが各所で行なわれた。古戦場跡や遺跡も多い。各地に吸血鬼王の伝説が残り、いまだ魔導士も多々隠れ住んでいると云われる。

 じっさい、魔物が多い。

 必然ハンテールも多かった。

 そして、六方世界のいたるところより名を上げんとする退治屋が集まっていた。対魔導戦士として、自由騎士として。彼らは武力や神聖力を駆使して魔物を退治し、財と名声を後世へ伝えようとしていた。彼らと彼らの周辺に関係する諸商売が繁盛し、アデルナは六方世界にあって魔物市場のもっとも盛んな場所、とも云われていた。その魔物市場を独占するルキアッティ家もまた、世界でも有数の地下商売の総元締めといえるだろう。


         1


 ウガマールより三か月の歳月をかけてアデルナの玄関ともいえるコレッリの港へ降り立ったフローティアは、よろめくように波止場を歩いた。内陸部に生まれ育った彼女にとって、途中途中寄港地へ寄りつつ十日をかけた船旅は、すっかり体力と精神力を奪っていた。アルネード海は外洋に比べて比較的波が穏やかではあるのだが、部屋全体が揺れるという未曽有の経験を生まれてはじめてした者にとって、外洋も内海も同じだった。

 フローティアはうす汚れた風体で、後ろで縛った長い黒髪もよどんでいた。彼女の髪はウガマールでも珍しいアイアンブラック、つまり黒鉄色で、微細な光の粒が髪に輝く美しいものだったが、埃でその影もない。

 背負う荷物は少なく、マントにくるまって小柄な身体を隠していた。たまにのぞく腰には、剣先が地面に届きそうなほどの長剣があった。柄が長く両手用で、本来は男性用だった。鞘から漆黒に彩られ、汚れで目立たないが微細に金線の模様が施してあった。彼女の細い腰にはおよそ似つかわしくない代物だが、特殊な剣であるのか、重さはさほど感じてはいないように見えた。少なくとも、鋳造の鋼剣ではなさそうな雰囲気がする。

 フローティアの汚れて臭いを放つ風体は、旅人というよりは疲れ果てた放浪者そのもので、活気ある港の風景には、あまり溶け込んではいなかった。それを自覚したのか、彼女は人込みを避け、通りの隅をうつむき加減にヨロヨロと歩いた。強い午後の日差しはウガマールで馴れていたが、なにより忌まわしい潮の匂いから速く離れたかった。

 しかし、それよりもとにかく、彼女にいま必要だったのは揺れぬ部屋による完全なる休息だろう。

 彼女は港の活気ある場所よりなるべく離れんと、しばし歩いた。潮風を避けるため風通しの悪い通りのはずれまで来ると、偶然目の前に現れた小さな宿屋へ吸い込まれるように入った。ここへ来るまで何度か吐いた。が、もう胃中には吐くものさえ無い。

 そこは魚や雑貨の行商人が利用する小さな地元宿で、旅人はまず入って来ないので、暗く土埃が窓よりの斜光に舞うホールで休んでいる年寄りたちは驚いて彼女を見た。

 入り口で一回倒れこんだので、側のテーブルの老人が思わず手を出した。そして腰の剣を認め、出した手をひっこめた。

 フローティアが起き上がらないので、その老人はカウンターの向こうのマスターを見た。マスターは六十ほどの、体格のいい海の男で、かつて化物ザメにやられて船を離れた。マスターが某か云い、女房が奥より現れた。女房は眉をひそめて少々ためらっていたが、倒れているのが女性であるのを認め、肩をすくめて近づいた。巨体が揺れて、床がきしんだ。老人の一人がそれへあわせて身体を揺すって笑いを誘ったが、女房におもいきり叩かれて、もっていたビールをこぼしてしまった。

 「ちょいとあんた、だいじょうぶかい? 具合が悪いのかい? ねむたいにしたって、寝る場所は奥なんだよ」

 女房は沖の灯台まで届くような張りのある声をあげ、顔を近づけてそう言ったが、フローティアの体臭に顔を戻した。

 「よほど遠くから来たんだね」「ウガマール人のようだ」老人の一人が答えた。「妙な病気じゃないだろうね?」

 フローティアはうめくように答えた。

 「………スティル………」

 「なんだって?」

 「エル スティル ブリエイス………」

 「ウガマールのことばなんか分からないだろう!」

 「水をくれとよ」別な老人の一人がそう、睨みをきかせた。「おれにはコラロの赤だ」

 「なんと、年の功だねえ。おまえさん、ワインより先に水だよ」

 マスターは気を効かせ、わざわざ裏の水道より冷水を汲み、陶器のジョッキへ注いだ。水道設備はアデルナ古王国が発祥で、遠く沢の上の水源地より、街の主要施設に石造りの水道が引いてあるのだ。コレッリを含め、アデルナ都市国家連合を形成している十二の都市国家には、かならずある。

 「ほら、水だよ、のめるかい?」

 差し出されたジョッキを認めたフローティアはどうにか起き上がって正座となり、両手でジョッキを抱えると音をたてて飲みはじめた。老人たちの抜け目のない深い瞳が、いっせいに腰の長い剣をとらえた。

 瞬く間にフローティアは水を飲みおえ、

 「あ、ありがとうございます………」

 「アデルナ語が話せるじゃないか」

 「正しい共通語だ。カルパス語だよ。ウガマールなら、ガリーの傭兵訓練所で習ったのか?」

 「はい………」

 「くわしいな」

 「オレも習った」

 「ひ、ひ、ガルデスは行商する前は、傭兵あがりの軍人だったからな」

 「へえ、正規軍かね」

 「魔物を狩っていたのか」

 「その話は本当だったんかい」

 「どこの軍人だ」

 「ストアリアだよ」

 「うそをつけ………」

 老人たちは、まためいめいにしゃべりだした。場の雰囲気が元に戻り、マスターは夜の仕込み作業を再開した。女房はフローティアを立たせ、奥へ連れて行った。

 しゃべりながらも、老人たちの鈍い光を発する抜け目のない眼は、フローティアとその腰の不釣り合いな黒い剣を追った。

 「泊まるんだろ? 金はあるんだろうね? ウチは慈善宿場じゃないんだ。金がないのなら、裏庭で寝てもらうよ。もっとも具合が悪いようだから、体調が戻るまでは、休んでいたってかまわないのだけれど」

 「お、お金はあります」廊下でフローティアは立ち止まり、背中の荷物を下ろすと、中をまさぐった。埃と異臭がたちこめた。

 「もう、後でいいよ! 湯を沸かしてあるから、いますぐ身体と髪を洗いな! 前髪も切ってやるよ。湯を浴びる習慣はあるんだろうね?」

 「い、いいえ、水を………」

 「ウガマールじゃ水しか浴びないのかい。あんまり水が豊富な国とは聞いてないがね」

 「川が………そこから水を引いて」

 「あの、ワニが住んでる泥水で? ところ違えば習慣も変わるものだ。こう見えて、私も若いときは、ウガマールに巡礼に行ったことがあるんだ。あんた、流れの傭兵かい?」

 「い、え………」

 「腹がすいて、声もでないようだ。だが食事の前に風呂だよ。服も洗濯しなきゃ。そんな風体で街道を歩こうものなら、ウガマールじゃどうか知らないが、アデルナじゃ不審者としてつかまっちまうよ。ここは、六方でも文化程度の進んだ場所だからね!」

 そういう自分は大衆文化以外の文化のぶの字にも縁がなさそうな女房だが、アデルナ人の自慢は、そのひとことにつきた。世界最古の暦、世界で唯一の市民国家、水道を初めとする種々の都市設備、評議会と進んだ政治・経済の諸制度。軍隊のシビリアン・コントロール。統一された強国ではないとはいえ、アデルナはいまや、世界の注目を一身に浴びている事に違いはない。

 フローティアはもう答えなかった。女房に連れられるまま、裏の湯殿に入って、マントと旅用のブーツを脱いだ。荷物をおき、剣をベルトより外し、上着とズボンを脱いで、肌着をとった。

 全裸になって、その細さにまず女房は驚いた。

 「栄養失調だね、まるで。ウガマールじゃそんなに食べ物に困っているのかい」

 樽のような女房を見ても分かるとおり、アデルナは、気候は温暖で水や土壌も良く、海や河川湖沼にはふんだんに良い漁場もあり、穀物、魚介類、肉類、そして特に六方でも有数の野菜と果物との産地で、各国へ輸出するほどに食物が非常に豊富だった。必然、食文化も高い。ワイン、ビール、カルバドスにブランデーと酒もよい。チーズやハム・ソーセージも何百種類とあり、高名で、国外では高級産物だった。

 「私は地方の出身で、たまに飢饉が」

 「そうかい。つらかったね。歳は?」

 「十九です………」

 女房は、もう何も言わなかった。十三、四だと思っていた。子どもなのに大変だと思っていた。アデルナ娘の十九歳と比べて、比べられるものが何もない。

 澄んだ湯と香料入りの石鹸と清潔なタオルやブラシ。こんな「高級品」が、街の場末の宿にもある。それだけで、フローティアは、アデルナへ来たことに心より喜びを感じた。

 狂ったように身体を洗うフローティアを遠目に、女房は彼女が脱いだ服を洗おうとしたが、捨てた方が早いと判断して、新しい衣服を用意した。漁師へ嫁いだ娘が幼少のころ着ていたものだった。

 「こんなところで役にたとうとはね。ものはとっておくものだよ」

 フローティアは時間をかけて、五回も身体を洗った。さいしょは泡などたたず、頭へかけた湯は即座に汚水となった。とにかく力まかせにゴシゴシ擦っているうちに、泡がたつようになった。薄黒かった肌も、ようやく本来の色を取り戻した。髪を切るために櫛と鋏をもって湯殿に入った女房は、その髪と肌の色に目を疑った。髪は微細な光の粒が水と陽光に反射し、見たことも無い色と艶に光っていた。これが人間の髪かと思われた。肌は、一般的なウガマール人よりずっと白かった。アデルナ人より白く、むしろ北方のストアリア人に近い。ただし、白さの質が異なっていて、北方の人は血管が透けて見えるような薄い白さだが、肌のキメは細かく、色としてはやはり濃かった。乳白色といってもよい。つるりとして、なまめかしく、上質な白磁のようにも思えた。また痩身だが痩せこけているわけではない。むしろ鍛えられている。

 そして、なにより、瞳が、異様な蒼さだった。紺というべきか、藍というべきか。角度によっては、碧にも見えた。あえて言うなれば藍碧か。

 「まあ………世の中にはいろんな人種がいるからね。ウガマールの奥地に、あんたみたいな珍しい部族がいるなんて知らなかったよ。さ、髪を整えてやるよ。もう少し短くしないと、剣を振るうにも邪魔だろうに。もっとも、その細腕で、どうやってあんな剣を振り回すのかねえ」

 「それは、その………」フローティアは赤面した。傭兵学校で剣の使い方を教わったが、とても、実戦で役に立つような腕前となるには到らなかった。あの黒い剣は、ただ古くから家に伝わっているだけなのだ。

 亡霊のように垂れ下がる前髪をそろえると、整った愛嬌のある顔が全貌を表した。

 ただし、アデルナ人の美意識からすると、線が細すぎた。だが、女房は好感を持ったようだった。いろいろ話を聞き、世話を焼いている内に、情が移った。

 「さあ、食事にしようか。待たせたね。着替えがあるよ。遠慮せずに使っておくれ。古着だからね。宿代には入れないよ。タオルはこれを使いな」

 着替えて、剣と荷物を部屋に置くと、フローティアはホールへいざなわれた。老人たちはまだビールやワインを呑んでいて、誰が入ってきたのか分からぬ様子だったが、さきほどの汚れた旅人と気づくと、歓声をあげた。

 食事がテーブルへ並んだ。

 アデルナの堅いオリーブの実入りパンと濃厚なアデルナ牛のミルク(酒より滋養をという、女房の配慮だった。)にジャガイモとレンズ豆と魚介のトマトスープが出た。オリーブオイルを使うのはウガマールも同じで、フローティアは特に味の違いに戸惑うことはなかった。ただ、ウガマールとは小麦も牛も品種が異なっていて、パンやミルクは何倍も味が濃かった。もちろん、アデルナのほうが高級だろう。

 老人たちは何か話をしたそうだったが、フローティアの無言で食事にかぶりつく様に、あきらめて元の話を続けた。

 眼をむいて、鼻息も荒く、飢えた狼のようにパンをかじるフローティアに、カウンターで女房は目を細めた。

 「よほど食べていなかったんだねえ。あんな娘がたいそうな剣を片手に傭兵だなんて、どんな事情があったのだろう。あんた、少しここで養生してもらったらどうだい」

 「金はあるのか」

 「あるとは云っていたけれど………」

 「身売りするにしちゃ細すぎだ」

 「云っちゃ悪いが、あんな娘を買うのはよほどの物好きだろうよ。故郷では、いい身分だったのかもしれないよ。もしくは、家財をすべて売り払って、旅に出たのかねえ。もう二度と戻らない覚悟でさ」

 「そんなやつは、ごまんとここに集まってくらあ。いまさらなにを云ってやがるんだ。妖しい目の色だ。あんな部族は見たことも聞いたこともねえ。どこぞの魔導かもしれねえ。早いとこ、追いだしとけ」

 マスターは、フローティアにまだ不審を抱いているようだった。

 食事が終わると、フローティアは部屋へ戻り、死んだようにねむりはじめた。


 長く船に揺られていると、馴れている者はさておき、陸に上がったところで、なかなか揺れの感覚は抜けるものではない。とつぜん、ぐらりと脳天にくる。フローティアはベッドへ横になったはよいが、天井や壁が揺れる感覚に苦しんだ。とはいえ、しばらくぶりの満腹と、もうここは陸上なのだという安堵感と、清潔な寝具に、やがて寝息をたてはじめた。

 夢は、ひどいものだった。

 記憶から消しているはずの、昔の夢を見た。

 彼女の家は、かつて神聖国家ウガマールにおいても名門の司祭の家で、先祖にはウガマールの王とも宰相ともいえる神官長を何人も輩出していた。それが、彼女の曾祖父の代に、政敵の陰謀によって一族郎党は地方へ流されることとなった。曾祖父は左遷後二十年をその地で過ごしたが、ついに破滅の呪術と共に自ら命を絶ち、呪いと自殺の罪で祖父の代にはさらに辺境の地へと流された。

 そこは南方諸国との国境近く、未知の魔物や猛獣の跋扈する熱帯雨林で、生活は言語を絶するものだった。彼女はそこで一族の直系の系譜として生まれた。飢餓と疫病で一族は次第に死に絶えた。それでも、ウガマール=セペレール神の教えを原住民へ熱心に説き、村において顔役を務めるまでに到った。が、彼女が十二歳のおり、一帯を襲った大飢饉と疫病で村落は呆気なく壊滅。村人だけではなく、家族も、父も、母も、祖母も、弟も、妹も、いとこもはとこもすべてが死んだ。吹きすさぶ死臭の中、彼女は村を捨てる決意をし、唯一残った家宝である黒い剣を手に、四年後に奇跡のような確率で首都へ帰還を果たした。

 その後、三年を経て、彼女はなんとか、いまここに眠っている。なるようになってきた。これからもきっとなる。それは、フローティアの確信だった。現に、今だって、彼女はたらふく食を得、白湯で身体と髪を洗い、安全な宿のベッドへ横たわっている。

 翌日、彼女は昼過ぎに目覚め、朝食兼昼食を食べた後、部屋で考え事をしていると、女房がやってきた。

 「元気になったのかい?」

 「はい、おかげさまで」

 「宿帳を書いておくれ」

 二人は机に向き合って座った。ウガマールではパピルス繊維の紙に文字を書くが、アデルナでは羊皮紙だった。フローティアはガチョウの羽ペンをとり、インクをつけ、習いたてのアデルナ語で、自らの名を記した。

 それを受け取って、女房が眼を細めた。

 「フ………なんて読むんだい?」

 「フローティアです」

 「珍しい名だね。もっとも、ウガマールじゃ、珍しくもないのかもしれないけれど………。さて、さっそくだが、金は本当にあるんだろうね? なに、ウチの宿六が聞いておけとうるさくってね。わたしゃ、あんたの云うことを信用しているんだよ」

 「あ、あります。もちろんあります」フローティアは荷物をとりだし、中をまさぐった。その薄い財布袋を見たとき、女房はさすがにドキリとしたが、袋から出てきた数枚の大判金貨をみて絶句した。それから、ため息まじりに、「こいつは、ヴァンダー金貨じゃないか………?」

 それは、ウガマールの都で使われているいちばん価値の高い種類の貨幣で、ウガマールならば大判金貨一枚で小判百枚。つまり庶民が数年は余裕で生活できる。もちろんアデルナにおいても、その価値はたいして変わるものではない。ただし、この金貨は女房の記憶と知識が確かならば、一般人が持てる代物ではない。対外貿易と政府公金用の特殊貨幣で、所持にはウガマール政府の許可がいる。

 「もしかして、これしかないのかい? いや、これしかっていうのは間ちがっているね。この金貨しか?」

 「は、はい………」

 「こんな安宿で、こんなものを出されたって、あんた、おつりなんか出せないよ」

 それを聞き、フローティアの曇った顔に、しかし女房はすぐに笑顔をみせた。女房はそして、なぜこのような特殊な貨幣を所持しているのかは、ついに聞かなかった。

 「まあいいさ、フローティアさん。長らく逗留しておくがいいさ。この金貨一枚で、一年は超最高級の食事ともてなしをすることができるよ。少なくとも三か月はかかるね、おつりを用意するのに。もっとも、ずっとあんたがこの宿にいてくれるのならばね」

 「おかみさん、それが、わたし、カルパスへ行きたいのです」

 「急ぐのかい?」

 「わたし、その、退治屋………退治屋になりたいのです」

 「退治屋だって? あんた、ハンテールだったのかい?」

 「ハンテール?」

 「資格だよ」

 「資格!?」フローティアは思わず高い声をだした。「資格ですか?」

 「そうさ」

 「た、退治をするのに、資格がいるのですか?」

 フローティアの見開いた瞳が、今は藍色に光っていた。女房は、ついその美しい色に魅入られたが、質問へ答えた。

 「ウガマールじゃいらないのかい。じゃ、説明してやるよ。ここは、アデルナはね、世界一魔物が出るところさ。世界中から、あんたみたいに、うでに覚えのあるやつも、無いやつも、魔物を退治して一攫千金をねらったり、高祿で他国の王宮に士官しようとしたりして集まってくるのさ。スカウトだってたくさんいる。本当に腕のたつ連中がだいたいなのだけれど、中には、そりゃあ、わけの分からないものもいる。雑魚の魔物ばかり退治して、一流面する連中もいる。数を自慢するやつはダメだね。魔物の質を自慢するやつが本物さ。あたしが観たところはね」

 元来話好きの女房は興奮して続けた。「登録制度がはじまったのは、そう古いことじゃない。だけどあまりに自称のエクソイル、つまり祓魔士が多くってね。エクソイルってのは、退治屋の最高の称号さ。だから、騙されて被害にあう人たちが増えてね。なにせ相手は魔物さ。退治するといって金だけとって逃げられたのじゃ、お話にならないだろう。そういう騙しが流行った時期があってね。あれは、退治屋の質がもっとも下がったころだ。各地で被害が増えて、都市国家の代表がそれぞれ、カルパスのルキアッティのところに訴え出たんだ。ルキアッティ家は退治屋家業の総元締だからね。公式な魔物退治の報酬は、みんなルキアッティが出しているんだよ。補助金制度もあるんだ。魔物退治を依頼する側のほうに対してね。つまり、あまりに強い魔物を退治するときの報酬の半分とか四分の一とかを肩代わりしてくれるのさ。それで、ルキアッティではハンテール、つまり退治士の資格を取得したもの以外、公の退治家業から締め出すことにしたんだ。無資格のモグリの退治屋には、ルキアッティは金を出さないんだよ。ルキアッティが金を出さないということは、あんた、この国では干乾しも同然さ」

 フローティアは黙って聞いていたが、静かに息をついて、小声で云った。

 「………そうなんだ」だが、すぐに身を乗り出し、「それじゃ、おかみさん、その資格はどうやってとればいいのですか?」

 「あんた、切り替えが早いね」女房は丸い頬を笑顔でさらに丸くした。きっと、これが、この子がいままで生きて来られた秘訣なのだろうと思った。

 「簡単だよ。師匠をみつけて、弟子入りするんだ。その師匠が、一人で魔物を退治できると認めてくれたならば、ハンテールの資格をくれる。各自由都市にある登録所でハンテール協会へ登録料を払って、しまいさ。ルキアッティ家で認めるんだ。それでアデルナ都市国家連合十二都市どこでも通用する。もちろん街道筋の村々でもね。ハンテールの資格は退治屋の身分証明でもあるんだ。はじめ、わたしがあんたのことを流れの傭兵だといったのは、そのことだよ。ガウクみたいな盗賊どもとたいして変わらないような流れの傭兵とハンテールじゃ、人の扱いがまったくちがうよ。そのうち分かる」

 「そうですか………」

 フローティアはまた考え出した。女房はかまわずに話を続けた。

 「もちろんこのコレッリにだって登録所はあるし、紹介所もあるよ。わたしの知ってる腕のいい退治屋もいる。エクソイルはいないけどね。昨今、祓魔士なんていうのは、滅多にいないよ。まあ、ここにしばらく滞在して、資格をとるといい。ずっとウチに泊まっとくれ。それなら、金貨一枚でおつりもだせるってものさ」

 「でも、おかみさん、ここは、街中は都市軍がいるのでしょう?」

 女房は、この子はなにを云ってるんだいという顔つきとなった。「ここの退治屋は、陸(おか)の魔物なんか眼もくれないよ。軍隊にまかせっきりさ。みんな海の魔物を狩るんだ」

 「ああ!」フローティアは眼をつむり、両手で黒い頭を抱えた。吐き出すような声で、云った。

 「おかみさん、わたし、船はもういや」

 女房は口をつぐんだ。そして、少しのあいだ聴こえない低い声でモゴモゴと云いながら考えていたが、よい答は出なかった。

 「そうかい………船がダメなら………どうしようもないねえ。ここじゃどうしようもないよ。コレッリの退治屋にとって、船は足みたいなものさ」

 「今晩、休ませてもらって、明日出発します。カルパスへ向かいます。おかみさん、いいからヴァンダーはとっておいて」

 女房の顔がこわばった。「そいつはいけませんよ、フローティアさん。わたしらだって商売だ。物貰いじゃないんだよ。まして、こんな高価な」

 「じゃあ、貸しにしておきます」

 「貸しだって?」

 「いつか………いつかわたしはウガマールへ帰らなくてはならないんです。そのとき、また寄ります。いつになるのかはまだ分からないけれど、それまで、貸しておきますから。それを元手にもうけて、返してくれればいいじゃないですか」

 「利子をつけてかい?」女房は歌劇場の歌手のように高笑いをした。「いい気ッ風じゃないか! フローティアさん、あんた、気に入ったよ! じゃ、遠慮なく貸してもらうとするかねえ」

 女房は金貨を受け取り、大事そうに掲げて祈りを捧げた。

 「今夜は、特別料理を作ってやるよ。明日の朝、発つといい。カルパスに行くのなら、その前にモンテールへ行くといい。アッピア街道をアルドルモの分岐点から北へ行くんだ。ここからじゃ、ふつうに歩いて、二週間もありゃモンテールに着くだろうさ。直線距離で二十三里ほどだろうかね。途中にコルネオ山があるけどね。迂回する道と直線の山道とあるから、好きな方を行きな。お薦めは迂回だね。山は魔物が多くてね。山賊もいるし、ガウクの巣だってあるっていう話さ。古い狼もいるし、ドラゴンはさすがにここ何十年も見ていないということだが、わかりゃしないよ。さいきんは物騒だからね。寝ていたドラゴンも眼を覚ますだろうよ。グライツェス川の渡しはボッタクリが多いから気をつけるんだよ。モンテールは武器と工房の街だからね、自前の武器を造ってもらいに退治屋が常に滞在しているんだ。そこで師匠をみつけなよ。資格をとってからカルパスへ行ったほうが無難だよ。カルパスでとる手もあるが、あたしはモンテールを薦めるね。カルパスは組織だった退治屋が多くて、そこで師匠をみつけても、組織の一員としての退治屋にしかなれないよ。ハンテールは、ほんらい一匹狼さ。群れたって意味がないんだ。いいかい、何度も云うけど、数自慢にゃろくなのがいないからね。それから、フローティアさん。これだけは云っておくよ。資格をとるまでは、滅多やたらと魔物を退治するもんじゃないよ。モグリの退治屋として、裏の仲間に眼をつけられるからね。あとあとやっかいさ」

 「そ、そうなんですか?」

 「それでも退治をするのなら、こっそりとおやり。そんな金貨も、滅多に見せちゃいけない。小銭を稼ぐ程度で、やっていきな。途中の村じゃ、それくらいの魔物退治はよくある話だからね。ハンテール見習いとかいって、小遣い稼ぎをさせてもらいな」

 「おかみさん、わたし、ウガマールでは司祭として魔物を退治していたんです。その、もちろんそんな大物ではないけれど。向こうで退治屋といえば、まず司祭なんです」

 「あんたは、司祭の資格は持っているのかい? ウガマール人だからって、正司祭の資格はそう簡単にとれるものではないだろう。それも、あんたの歳でさ」

 「わたしは、家に神官と司祭の資格があって、代々受け継いでいるのです」

 「へえ、そうなのかい」そのことの重要さを、とうぜん、さしもの女房も知らぬ。ウガマールにおいて家に司祭の資格が固定されているというのは、その家系が強力な神聖力の保有者を代々輩出する紀元前までさかのぼる古い家だということを意味している。

 「しかし、フローティアさん。ウガマールじゃどうかは知らないけれど、ハイペリオンも、アデルナでは滅多に見ない。戦闘司祭だよ。神聖呪文だけで魔物を退治する人たちだ。あんたみたい若いのがそう名乗ったところで、誰も信じない。退治屋商売は信用が大事さ。たとえ本当にすごい呪文を使えたってね! だから、悪いことは云わないから、ハンテール見習いとして、小物を退治しておきな。あの剣も………」

 女房は壁の剣掛けにある黒柄の両手剣を横目でチラリと見た。「そうそう人前で抜くものじゃないよ」

 「わかりました」

 「今夜は壮行会だね。大金を預かったからね。他の客にも、酒を振る舞おう」

 女房は立って、フローティアの頬へキスをした。

 「きのう、あんたが倒れながら飛び込んできたときは、どうしようと思ったが………あんたと知り合えて良かったと思ってるのさ」

 「わたしもです、おかみさん」

 女房は涙ぐんでいた。フローティアを、すっかりわけあって身分を隠し、ウガマールより逃れてきた悲劇のヒロインか何かだと思い込んでいるのだ。その思いは、まるっきりのはずれというわけではなかったが………。

 「まだ別れには早いね。ゆっくりしていな。夕食は、六刻半にしようか」

 「休んでいます」

 「じゃ、あとで」

 女房は巨体を揺すりながら出ていった。

 フローティアはドアの閉まった後、ゆっくりと呼吸をして、潮の香に嫌な思いがして窓を閉めた。まったく、傭兵練習所にいたときも、あまり良い記憶がない。海だけは、彼女は自分にとって禁忌だと思うようになっていた。だから、このような場所で海の魔物を退治するなどと、考えることもできなかった。そもそも彼女は泳げぬ。

 風が止まり、急に室温があがった。まだ五月だというのにこの暑さ。南方生まれ、砂漠育ちの彼女にとって暑さというのは特に問題はないのだが、肌に染みつく潮気だけは我慢がならなかった。女房は良い人だが、できれば今夜の内に旅立ってしまいたかったのだ。

 しかし、いろいろ世話になっているし(その分の金も払ったのではあるが。)古着から進路から、みな世話してもらっている。こういう心よりのもてなしは、金を払えばよいというものではない。フローティアは、やはりもう一回女房やマスターの手料理を食べてゆっくりこの宿のベッドに眠りたいと思った。


 「フローティアさん、起きてるかい?」

 ドアが叩かれ、フローティアはふいに身を起こした。窓の外は、宵の薄闇が訪れていた。気温がうそのように下がっている。眠っていたらしい。女房へ返事をする代わりにくしゃみをした。

 「食事ができたよ」

 「わかりました、いま行きます」

 「みんな待っているから、はやくおりてくるんだよ」

 フローティアは急いで部屋をでた。女房のランプを目印に狭い廊下と階段をおり、食堂ホールへゆくと、どこから出したのかたくさんのランプが煌々と照っており、人々のざわめきが耳についた。一同はフローティアを見ると、まずは歓声と拍手を送った。

 食堂には、先日の老人たちのうちの幾人かと、たまたま宿に泊まっていた行商人たちが何人か、しめて十人ほどの客がいた。テーブルのところ狭しと並べられた豪勢な料理と酒の数々に、みな何事かと驚いていたが、特別な会に招待されたということが分かると、アデルナ人らしく遠慮会釈なしに会話と飲み食いを楽しもうと心を踊らせている様子が、異国人のフローティアへも伝わってきた。

 コレッリは港町でもあり、肉類よりは魚介が豊富で、自然、料理も魚介料理が主だった。この時代、まだ料理は上流階級等の高級で正式なものは別にして、こういう下町の小料理屋では造られた順から一斉にならぶもので、いまはコースでいう前菜と第一皿のパスタ類と二皿のメイン料理、庶民の味方である雑穀と豆を含んだ多様な野菜類、それにチーズとハムと果物がもう山盛りにならんでいた。具体的には、鍋にはたっぷりの魚介のトマトスープ煮、つまり港町名物の特製ブイヤベースが湯気を立て、貝類と手長えびのパスタ、豆と雑穀のミネストラ、ミートパイ、スズキの網焼き香草風味、香草のサラダとタコのカルパッチョ、アーティチョークやズッキーニ、ブロッコリーなど、初夏の数々の新鮮な野菜がハムなどと共にオリーブオイルで炒められたり揚げられたり魚の出汁で煮られたりして皿に乗り、山のような高級白小麦パンに上等のバターとチーズ類、等々であった。アデルナワインは紀元前より高名で、ワインの大地という古文書の記録もある。いまは各自由都市ごとに十二の主な銘柄と、それを頂点にして次のクラスに上級百二十種類、そして地方の極小醸造所の作るテーブルワインをあわせると二万もの品種があった。ビールはウガマールやストアリア、ラズバーグなどの外国人がよくのむので、一部では造られていた。これも質がよく、うまい。もちろん、アデルナ人にもビール党はいる。ウガマールにおいて「飲むパン」とさえ云われるビールの価値そのものは、ここアデルナにおいても何ら変わるところは無い。

 マスターはまだフローティアへ対する不審を完全には解いていなかったのだが、もう明日にはいなくなるという事と、大金を払ってくれたという事実に、その料理のうでを出し惜しむということは無かった。

 女房は乾杯を前に大声を張り上げた。

 「いいかい、こちらは、ウガマールより来られたハンテール見習いのフローティアさんだよ。これから修行を積んで、エクソイルとしてまたこの宿に帰って来られるんだ! 今夜はその壮行会だからね! この料理という料理と、酒という酒をみな食べ尽くして飲みつくすまで、ねむることはおろか、休むことだって許されないんだよ!」

 「いいから、はやく乾杯だ!」

 「黙りな!! あいさつがあるんだよ」

 女房がまだ眼を丸くしているフローティアの背中を押した。フローティアはみなの視線をあびてドギマギしていたが、意を決し、短く、云った。「みなさん、はじめまして、そして、ありがとう! もう、明日には発ってしまうのですけれども、せめて今夜は、おもいきり、楽しんでください!」

 いっせいに歓声があがり、ビールとワインをもう勝手に掲げあって、あわてて女房が、

 「乾杯だよ!」

 「乾パーイ!!」

 景気よく指笛が鳴らされ、テーブルを打ち、拍手が起こり、その後はもう、めいめいが食べて呑んだ。宿に泊まっている客はみな行商人で、旅の噂話や、一人旅のコツ、各地のいろいろな情報など、みな気前よくフローティアへ伝授した。この会の礼だった。それらはいわゆる行商の秘伝で、おいそれと他人に話すものではないのだが、一同は自分でも分からなかったが、どうしても教えておきたい衝動にかられた。

 また、誰もフローティアの過去へ触れるものはいなかった。いま初めて会って、もう明日には別れる人物に過去の詮索をしたところで話の種にもならぬ事をよくわきまえている。

 「いいかね、フローティアさん。アルモルドの分岐点までは、特に最近は変わったことはないというが、それでも、つい一か月前も隊商がガウクの群れに襲われたということだ。退治屋を用心棒に七人も雇っていたのに、全滅したというウワサだよ」

 「そいつはわたしも聞いた。ガウクの首領が、なにやら術を使ったという」

 「ガウクが魔導術だと!? それは、おれは初耳だが」

 「本当だ、にわかには信じられんね」

 一同の話は尽きなかった。

 フローティアを囲み、また、もともとそう広くはないホールである。あちらこちらの席より、酒と料理に舌を鳴らしながら、会話が容赦なく飛んできた。

 「フローティアさんや、あなたは、ここではハンテール見習いだが、ウガマールでは、れっきとした退治屋だったのでしょう?」

 「しかし、ウガマールの砂漠と、アデルナの原野とでは、やはりちがう」

 「コルネオ山では、ここのところ妙な獣がよく出没しているというはなしです」

 「妙、とは?」

 「ガリアンですよ。魔狼です」

 「いまとなっては珍しい魔物だ。危険なやつだ。山は迂回したほうがいい」

 「去年、コルク村に行ったときは、そんな話は聞かなかったがね」

 「コルク村?」

 「コルネオ山の麓の村でして、コルク樫がたくさん生えていて、上等なコルクの産地なんですよ」

 あまりに情報が多すぎて、フローティアは酔いも手伝い、訳がわからなくなってきた。そもそも地図も無いのに、そのような土地の話をされても、分かるものではない。

 フローティアはその細い身体の割に食べるほうで、それは食べられるときに食べておくという生来の慣習に基づいている。ワインやビールを飲みつつ、いい気持ちの常連客の話を聞きながらも、フローティアは料理の数々へ伸ばす手を止めることはしなかった。それを見たアデルナ人たちも、面白がってさらに薦めるのだ。

 「この、ホタテ入りのラビオリをどうぞ、フローティアさん。クリームソースで煮てあります。おいしいですよ」

 「このほうれん草を練り込んだ緑パスタは珍しいですよ。こっちに、イカスミの黒もある。これはニンジンの赤。粉チーズを雪のようにかけて。ウガマールだから、雪はご存じ無いか」

 「い、いただきます」野菜による緑や赤は理解できたが、イカの墨が練り込んであるという漆黒の麺は、さすがに瞠目した。とても食べ物には見えない。

 「カジキマグロのステーキは、コレッリの名物だ。たっぷりとレモン汁をかけなさい」

 食べるといっても、線の細い子女である。量には限界があろう。

 それでも、一同の想像していた三倍は、フローティアは食べた。

 ウナギのぶつ切りのトマト煮は、フローティアは一人で一匹を平らげた。ウナギはウガマールでは揚げ物にする。滋養に富み、暑い地方では重要なスタミナ元で、ウガマール人の大好物だった。ここは港街であるが、都市周辺の田園地帯の用水路や小川にウナギがたくさんいて、農家がつかまえて朝市へ売りに来るため、よく食べられている。また海ではアナゴもよくとれた。巨大なロブスターは、みなでむしゃぶりつくように殻にした。この殻を煮出し、あとでスープやソースを作るとうまい。

 話は続いた。「とにかく、分岐点までは歩きで行くのなら、途中の村で宿を借りるか野宿しかないだろうな。この季節はまだ夜はちょっと寒い。防寒の用意をしておくといい」

 「生水はのむなよ。アデルナで水道水を飲まずに腹を壊したのでは、そいつは壊したほうが悪いんだ。水筒を忘れずに」

 「村の粗末な井戸もできれば、やめた方がいい」

 「しかしフローティアさんはウガマール人だ。云っちゃア悪いが、ウガマールの泥水で平気なら、アデルナの清水は、まったく清潔で清浄だと思うがね」

 夜もかなり深けてきた。ランプの灯も落ちてきた。フローティアは眠いというより満腹で意識が遠くなっていた。いよいよ料理がつきてくると、デザートとなった。

 デザートには、アデルナ人が大好物のイチジクが山のように出た。本来は秋の果物だが、品種改良が進み、夏から秋にかけて出回っている。この季節は早生種の高価なもので、それだけに一同は感激した。

 「おおッ!」急に無言になり、手に手にとってかぶりついた。ウガマールでもイチジクはよく実るが、フローティアは、あれだけ騒がしかった食堂ホールがイチジクをむさぼる音だけになったことへ戸惑った。盆を置きに来た女房がまだそこにいたので眼をむけると、女房はにっこりと笑ってこういった。

 「みんなあんたのおかげだよ。この時期にイチジクを口にできるなんて、しがない行商人には無理な話さ。初イチジクを食べると寿命が三年のびるってね」

 デザートが終わっても、一同は解散することはなかった。また酒が用意されて、それは消化を助けるための度の強い食後酒のカルバドスだった。そして一同がめいめいに楽器をとりだした。木や金属の笛類、種々の太鼓にハープやギター、バイオリン属の弦楽器と、種類も豊富で、誰からともなく演奏しだすと大声で各地の民謡や都会の流行歌を歌いだした。アデルナ人はまた音楽をイチジクと同じぐらいに愛するのだった。

 宴は深夜半まで続き、そのころには、フローティアは完全に舟を漕いでいた。


 フローティアが目覚めたのは、翌日の日もだいぶん昇ったころで、行商人たちはみなもう出かけていた。かすかな記憶で、女房とマスターにつれられてベッドへ潜った。

 フローティアは夕べの宴会とはうって変わった静けさに支配されている食堂ホールでぽつねんと食事をすませると、部屋へ戻って旅支度をはじめた。女房がやってきて、フローティアのために用意したものをいろいろと出した。

 「これは着替えだよ。こいつにつめとくといい。この鞄はウチの宿六の手作りでね、馬革と厚い綿生地の丈夫なやつだ。二重底になっているから、大事なものはそこへ入れときな。水筒にはうちの水がつめてある。携帯食料には焼きしめたパンがいい。乾パンだが、わたしの特製さ。蜂蜜やオリーブの実が入っているからね。ロープも忘れずに。砂漠じゃ必要なかったかもしれないが、山川を歩くのにロープはぜったいにいる。マントも新しいのを買ってきた。防寒にも虫よけにもなるし、藪では肌を護ってくれるよ。靴も新調した。野外用ブーツさ。あんたは足が小さいから、合うのを探したんだ。本当はオーダーがいいのだろうけど、そんな時間は無いだろう。こいつは旅の小道具キットだよ。火とか起こせる。なに、あんたの金貨で買ったんだから気兼ねすることはないんだよ。そして、これを当面の工面として持っておいき。小銭だ。遠慮することはない。おつりのほんのほんの一部なんだ。何度も云うが、あの金貨は滅多やたら見せるもんじゃないよ」

 フローティアは驚きと嬉しさでことばも無かったが、よくよく礼をし、「また戻ってきます、おかみさん。必ず戻ってきます」

 「わたしの名は、コリーンっていうんだ」

 「コリーンさん、ありがとうございます」

 「退治屋は身軽さが勝負なんだ。それに、ウガマールの砂漠とアデルナの原野じゃ、勝手がちがう。気を抜くんじゃないよ」

 「はい」二人は階下へ下りた。

 仏頂面のマスターが待っていて、フローティアへ大小二種類のナイフを渡した。

 「おれが造ったやつだ」

 「………名前が刻んであります」

 「コレッリのガルネリといやあ、まあ余所でもいろいろと、通じるだろう。あんたのナタみてえなヤツはもうだめだ。とり替えた方がいい。アデルナの野外で生活するにも必要だ。まったくあんたが、船が苦手じゃなかったら………いや、いい。しょせん、おれも、もう船にはのれねえ」

 「ありがとうございます、ガルネリさん」

 「これはおれの勘だが、一年もしないうちに、あんたの名前はこの港町にも聴こえてきそうな気がするよ。カルパスで、せいぜい暴れるこった」

 二人は表通りまでフローティアを見送った。フローティアは三度、振り返って手を振り、通りの角を曲がると、そのまま街の表門へ向かった。

 門は関所でもあり、街へ出入りする人々を厳重に管理している。アデルナは十二の自由都市の連合国家であり、各都市が都市国家を営んでいる。街の門や城壁は、国境に等しい。

 コレッリからは、アッピア街道という古い街道がアデルナの大地を縦断している。紀元前にまでさかのぼる由緒ある街道で、カルパスとコレッリをつなぐ。途中にいくつも分岐点があり、モンテールやガラドネス、ポルネーラなどの都市へ通じている。

 門でフローティアは通行のための税金を払い、役人より許可証をもらった。街道の通行許可証だ。これがあればいわゆる「旅人」だった。街道で盗賊や放浪者と区別がつく。村で宿を探すにしても話が早い。身分証明書である。

 門といっても扉はなく、巨大な城門の跡だった。槍や矛を構えた城兵が絶えず警備しており、魔物もそうだが、なにより人間の賊の侵入を防いでいる。

 毎日、ここは朝早く行商人や隊商で賑わっている。昼時の今は港へ向かう人々や彼女と同じく海より到着した人々が出入りする時間帯とも少々はずれ、門前は閑散としていた。

 「傭兵か? それとも?」フローティアの一人旅の装束と、マントの下の剣を見て、兵士がそう尋ねてきた。

 「いいえ、ハンテールの資格をとりに、モンテールまで」

 兵士の顔が変わった。不審者を見る眼から、同業者のそれとなった。フローティアと、強く握手をした。

 「頑張れよ。オレもあそこで資格をとったんだ」

 彼らはフリーの退治屋ではなく、国家に雇われて魔物を狩るいわゆる公務員の退治屋だった。戦士であり、コレッリ軍であり、衛兵であり、そしてハンテールである。

 「無資格のまま、街道で剣は抜くなよ」

 「はい、お気遣いありがとうございます」

 「ただし、自己防衛はその限りではない」

 「わかりました」

 フローティアは許可証をしまい、門を出た。眼前には広大な丘陵地帯と、田園と森林と青く高い空があった。ついに、彼女は遙かなるアデルナの大地へと、足を踏み入れた。


         2


 五月であったが、かなり日中の気温は高かった。コレッリはアデルナでも南部であり、すでに緑は濃い。田園や丘陵、森林を抜ける街道は歴史あるもので、幅は馬が二頭はゆうに往復できた。延々と古代の白い石が両脇に敷きつめられており、定間隔に黒松が植えられていた。黒松にはアデルナの大きな黒いセミがとまり、激しく鳴いていた。この街道が、アデルナを縦横無尽に走り、いまでも商業と軍事を支えている。

 フローティアは地面からうっすらと蒸気の立つ街道を一人歩いた。松の合間には、野原や木々がしばらく見えていたが、やがてオリーブ畑やブドウ畑に変わった。オレンジの畑もあった。しかしたいていは野菜畑である。アデルナは西域でも古くから各種の野菜が作られて、ワインの大地であると同時に野菜の王国でもある。消費量も多く、肉食いの西方人にしては珍しく野菜食いと称される。フローティアはソラマメ、ヒヨコ豆、レンズ豆などの数種類の豆類、レタス、キャベツ、ブロッコリー、ホウレンソウ、アーティチョーク、ダイコン、ナス、カブ、ニンジン、トマト、ズッキーニ、パセリ、ネギ、その他諸々の苗などを流し見ながら、先を急いだ。しばらく歩くとそれらが麦畑へ変わった。麦はもともと南方の植物で、アデルナより北ではライ麦や大麦が主で小麦は高級品であり、アデルナでもかつてはソバやヒエ等の雑穀が主食で、パンはおろか小麦を丹念に加工するパスタ類などは貴族の食べ物であったが、官が主体となって生産技術を改良し、現在では良質の小麦を大量に産することができるようになっている。

 街道はほぼ無人で、先をゆく者もすれ違う者も滅多に無かった。ただ青い空に鳥の声がして、農民がひたすら畑仕事をするのを横目に見ていた。まだこの辺りは都市国家の防衛圏内で、賊や魔物もそうそう出る範囲ではない。道筋には近所の農家が営んでいる物売りの小屋もあって、野菜や果物、それに肉や卵の加工品が旅人用に売られていた。無人の小屋もあったが、たいていは老婆や老翁が古代の道祖神のようにそこへいて、旅人とささやかな会話をしつつ物を売っていた。夕方までフローティアは孤独な旅を続けた。日が沈みかけ、麦畑を赤く染めると、フローティアはやっと水筒から水を飲んだ。さすがに砂漠の出身だけあって、乾きには異様に慣れていた。まだ街道筋の宿場村までは遠く、旅人は農家へ泊めてもらったり野宿したりする。フローティアは街道からそれると、畑と街道の合間の地面へ腰を下ろした。松の大木の側で枯れた松ぼっくりや小枝を集め、小道具キットから石を出すと火を起こした。三日ほどで、アレンダール村へ着くはずだった。アレンダールから数日でアルモルドの分岐点となる。

 農家の物売り小屋で、彼女は鶏肉と鶏卵の燻製、オレンジ、干しトマトを買っていた。燻製肉を火で軽く炙り、コリーンのオリーブの実入り乾パンと燻製卵、それにオレンジが夕食となった。宿では見事な大食を見せたフローティアだったが、飢えにも慣れていた。アデルナ地鶏は質が良く、とにかくこの国の食べ物は海産物も農産物もみなうまいとフローティアは感心した。

 食事を終えるとマントへくるまり、フローティアは夜空を見上げた。ウガマールの星もアデルナの星も、そう大差ないと感じた。ちゃんと天狼星も隼座の蒼い心臓も確認できた。たださすがに星座や星々の位置は異なっていた。常に天空高きところへあるはずの隼座が、南の地平ぎりぎりを飛んでいる。何年も放浪している彼女にとって、むしろ宿屋のベッドより、こんな道端の方が妙に落ち着くのだった。

 月だけが、ウガマールで見るより、とても赤く感じた。

 アデルナは気候がよく特に夏は雨が少ない。しかしウガマールに比べたら、夜の湿気は多少フローティアを驚かせた。それでも、彼女は冷たい空気を肺に入れつつ、ねむっていた。

 翌日は、一面が霧だった。突如として出現した雲海に、フローティアは鳥肌がたつ思いがした。ねむっている間に何者かによってどこかにつれて来られたと思ったのだ。

 しかし霧は見る間に晴れた。風ではなく、太陽がそれをまさに霧散させた。

 水を舐めパンを少々かじると、清水の流れる灌漑用水でタオルを濡らし、それで顔をふいた。

 荷物をまとめ、旅は続く。

 丘陵部の田園地帯から街道は原野へ到達した。遠くに落葉樹の森が見え、道はその森を迂回するように蛇行して見えた。街道の両側に延々と続く原野の端は、はるか向こうの山脈の裾まで達している。鬱蒼と下草が生い茂り、藪が多く、池や沼もあって灌木もたくさん生えていた。いまにもその草むらより獣が出てきそうな雰囲気で、アデルナにヒョウやライオンは果たしていただろうかと彼女を不安にさせた。少なくともワニだけはいるまいと思って、無意識に歩を早めた。しかし彼女が目にすることのできた生き物は鳥と街道を横切る蛇、それに狐だけで、鳥は幾種類ものそれが鋭く空を横切り、そこいらから突然飛び出てきた。鳥はやたらといたが、原野はまったく無人だった。しかしかつてアデルナに強王国があった時代は、こんな原野の真っ只中にも集落や砦が建てられ、人が集っていた。いまはその史跡だけが夢の跡として草木にうずもれている。

 その日は一日歩いて、森の手前まできた。

 街道はここで森を迂回している。街道を護る松も枯れ木が目立っていた。街道より小さな道が分かれて、森へ入り込んでいた。標識はなく、地元の猟師か何かが利用している裏道なのだろう。

 フローティアは街道をそのまま進み、森を右手に見ながら夜を迎えた。間近で見るアデルナの森は本当に暗かった。街道からは半里もなかったが、そこへ暗い水が横たわっているようだった。気の鋭いフローティアは、ウガマールの南方奥地の密林との差を如実に感じていた。同じ暗さでも、もっとずっとアデルナの森は陰気だった。人を近づけさせない気配を感じた。

 フローティアはここで夜をすごす気にはなれず、深夜半まで歩いてみようと思った。朝起きて、いきなりあの森にいたらどうしよう。そんな不安に襲われた。月明かりと星明りだけで、彼女は充分に夜道を歩けた。ウガマールの神官がつかう照明の呪文を彼女は会得していたが、このような開けた場所では自分の居場所をわざわざ知らせるようなもので、森からドラゴンでもその灯めがけて飛んできたら冗談ではないと、本気で思った。アデルナにドラゴンが本当にいれば、の話だが。(ウガマールでは絶滅していた。)

 しばらく、夜の一本道を歩きに歩いた。一刻ほども歩いて、月が西へ落ちてきた。相変わらず誰にも遭遇せず、聴こえるものといったら夜の鳥の声と虫の音だけだった。

 と、そんな夜の静寂を、低い雄叫びのような物音がやぶった。フローティアは跳びあがるほどに驚いて身構えた。森や原野からいっせいに鳥が飛び立って、黒い染みとなって夜空をおおった。鳥の羽音のなか、ブンと弓弦が響く音と、ピューン、と空を裂く音が連続して鳴った。矢の飛ぶ音だ。幾人かの弓兵が射ているのだ。この夜に弓を射られる人間などそうそういるはずもない。

 ガウクである。

 まさか見つかったのか。それにしても、フローティア一人に対して射ているにしては矢の数が多すぎはしまいか。

 矢は、飛んでくるのではなく、街道より離れた藪の中より次々と行く先の方向を目掛けて放たれていた。街道の奥の宵闇で人の声があがった。射られた一団のようだった。そして、突如、灌木が揺れて、何者かが複数で移動するのが分かった。なんとフローティア(街道の方向)めがけて走ってきた。

 剣よりも速く、フローティアは呪文の準備に入った。この事態では、四の五の云っている場合ではない。ガウクたちが草木の中より飛び出てくるのと、フローティアの照明呪文が炸裂するのが同時だった。ストロボのような閃光が走り、光球が出現した。強い光を嫌うガウクにとって、この不意打ちは効いた。地鳴りみたいな悲鳴をあげて、弓もなにも手放して顔を抑え、魔導の番兵たちはみなひっくり返ってしまった。

 「なんだ、誰かいるのか!?」

 「明かりだ、神官がいるのか!?」

 闇の奥より、人の声がした。フローティアはなぜか、その場を立ち去りたい気分になった。「誰か知らんが、速くトドメを!」そう云われて初めて、フローティアは黒剣を抜いた。未資格だが、自己防衛は処罰の対象外である。フローティアは無防備のガウクたちへ剣をつきたてた。その瞬間、身震いした。赤黒い血を吹き出して、ガウクは絶命した。ガウクは三頭だった。革と金属板を合わせた粗末な鎧を着て、ざんばら髪の頭には大きな角があった。牙が鋭く、肌も赤黒かった。眼は黄色で猫眼だった。この闇をとらえる眼であのストロボはさぞ苦痛だったことだろう。先ほどは瞳孔が完全に開いていただろうから。

 同じガウクでも、ずいぶんウガマールと異なるとフローティアは思って、転がるガウクの死体をまじまじと見下ろした。ガウクにも種族があり、また、種類もあった。ウガマールではガウクとは黒い地獄の犬のアタマをしたいわゆる「イヌ人間」で、その身体はミイラのように乾燥していた。生き物というよりは古い呪いに支配された人形のようなもので、己の意志ではなく呪われた紀元前の命令によって、よく人を襲った。また、北部山脈を超えたストアリアとその周辺の地では、ガウクとはアリとハチを合わせたような、二足歩行の昆虫人間を指した。彼らもまた、食料として人間を襲った。それらにしてみれば、ここアデルナ方面のガウクは宝物(ほうもつ)を愛し、人語も解するとあってまだ人間に近かった。フローティアは無防備の人間を殺したような、苦い感覚にとらわれた。

 「………」フローティアはしばし立ちすくんだが、やがて、奇妙な事に気がついた。さきほどの声の主が、いつまでたってもやって来ぬ。頭上の光球の向こうに、さきほどは確かに声がした。男だったような気がしたが、覚えてはいない。フローティアは意を決し、抜き身のまま歩きだした。呪文は、フローティアを自動的に追う。

 やがて、どれほども歩かぬ内にフローティアは衝撃に打ち震えることとなる。そこには、五人ほどのハンテールとおぼしき人間が倒れて絶命していた。一人は矢に倒れていた。ガウクにやられたのだろう。しかし、残る四人は鋭い刀傷があった。しかも見事に首などの急所を切り裂かれている。フローティアは血海の中、慎重に死体を検分したが、まだ温かかったので、ついさっきまで生きていたことが予想された。「………」異なる恐怖が込み上げた。このような手練、魔物か、盗賊かは知らないが、自分の適う相手ではない。また、このようなところを煌々と己を照らす照明呪文の下、誰かに見られてあらぬ嫌疑をかけられても損だ。フローティアは剣を納めると、一目散に逃げ出した。


 翌々日。午前中の内に、フローティアはまずはアレンダール村へ到着した。ここで、先般のハンテールの情報を聴けるかもしれない。もっとも聴いたところで、どうすることもできないのだが。

 街道沿いへ隠れるようにあったその村は、草木に埋もれた、本当にささやかな集落で、山羊を飼い、些少の畑と旅人の宿泊が全収入の、およそムラというには規模が小さすぎた。しかし水や食料の調達ぐらいはできるだろう。フローティアは丘を超え、坂を降りて街道からそれると村の方へ歩いた。とりあえずもっとも手前の家でも尋ねてみよう。それとも神殿から広場へ向うか。

 だが、ここでも様子はちがった。

 早朝から正午までの時間はアデルナでは働き盛りの時間で、夏ともなると午後は暑くて何もできなくなり、人々は夕刻まで昼寝をする習慣があるほどだ。いまの時間は一日中で最も忙しいといっても良い。なのに、誰もおらぬ。家畜の声すらしない。家々はまだ新しく、生活の跡もあるが、人気はない。奇妙な廃墟だった。

 フローティアは嫌な予感がして、目標の家の周囲を一周すると、静かに中へ入った。ドアは開いている。家の中には、誰もいなかった。裏の台所へ立ってみたが、人がいたような火の気配もない。しかし、チーズやパンなどの保存食料は、古いがそのままであった。ワインも飲みかけの瓶があった。勝手口より外へ出て、井戸の横を通り、水筒へ水を補給するのを忘れず、村の広場へ向った。数件そのようにして家を回り、最後に神殿へ到ったが、どこも状況は同じだった。ただ、昼間からコウモリがたくさん飛んでいる地域なのが気になった。そのコウモリは何かしら甘い芳香を運んでいるようで、フローティアは鼻がしびれてきた。神殿の小さな食堂に比較的新しいパンとチーズがあったので、フローティアは短く聖典より感謝の祈りを唱えると、それらをいくつか失敬して、走って逃げた。


 フローティアは転がるように街道へ戻ると、道を東へ進んだ。コリーンの話によると、あと三日も歩けばアルモルドの分岐点だった。分岐点のところにも、アレンダールのような宿場村があるはずだった。そこへ期待するしかない。分岐点を北へ行くと、コルネオ山とコルク村がある。山道と、山を迂回する道があり、コリーンのお薦めは迂回だ。迂回するとコルク村を通る。その先にグライツェス川があって、どうやら橋が無いらしく、その代わり渡しがある。

 川を渡ると、目指すモンテール市。師匠を見つけ、ハンテールの資格をとらねばならぬ。無資格では、アデルナではどこだろうと魔物退治は違法となる。違法のまま魔物を退治する裏ハンテール、つまりモグリの退治屋もいるとのことだが、何かと面倒そうだったので、そうなるつもりはなかった。

 確認事項を反芻しながら、フローティアは夜も明け方近くまで闇の中を星明りのみを頼りに歩くと、また街道脇へ降りてマントにくるまり、横になった。これまでの出来事を思い出している暇は無い。思考は、常に常に先へと進んでいた。数刻寝て、辺りがすっかり明るくなっているのを認めると、彼女は水筒から水を飲み、革の袋より干しプルーンと干しトマト、それにアレンダールで失敬してきたパンを出して食べると出発した。その日も晴だった。この時期、アデルナは雨が少なく、旱魃の危機すらある。灌漑用水の発達していない地方の農家では、気をつけねばならない季節だ。しかし乾燥した夏の気候は、フローティアにはもってこいだった。街道の周囲は一面の野原で、ところどころ湿地も見えた。小虫が多く、これだけはフローティアを辟易させた。

 炎天下となったが、フローティアは汗もあまりかかずどんどん歩いた。それは体質的なものだった。宿でゆっくり休み、たらふく食べてのんだときは別にして、こういう時は自然に排泄も少ない。彼女の服装はウガマールの砂漠装束からアデルナの旅装束に変わっていたが、似たような気候からか、風通しが良いということに代わりは無くて非常に助かった。地平線の向こうには遠く山脈が見えて、風はときおり南より強く吹いた。手前のほうに山脈と重なってとんがり帽子のような高い山が見えた。たぶんあれがコルネオ山だろう。かなりの高さを持つ山で、木々も深く、山越えをするのは骨が折れそうだった。とはいえ、すそ野も広く、回り道も遠そうに感じた。陽炎が出て、行く先を蜃気楼のようにゆがめた。天気はずっとよく、太陽が強く照って、昼間はただ追い水を追いかけるだけの旅が続いた。夜は街道の脇へ降りてねむった。そのような単調な三日がアッという間にすぎ、彼女はアルモルドの分岐点へ到達した。

 分岐点というからには道が分かれているのだが、彼女の想像とはまるでちがって、戸惑った。フローティアは宿場街の真ん中で堂々と街道が別れていると想像していた。記念碑があり、名物となっていて、土産物屋が乱立しているのだ。しかし、荒野の真っ只中でただ道がY字になっており、蹴とばせば倒れてしまうような木の標識と旅人用の井戸があるだけだった。しかも標識に書かれているのは文字ではなく、絵というか、記号だった。

 「………?」フローティアは眉をひそめ、絵を凝視した。板に白ペンキで描かれ、ホタテ貝の絵、金槌の絵、そして王冠の絵だった。ホタテ貝の絵が、いま来た道を指していたので、それはたぶんコレッリを現すのだろうと想像した。すると、このトンカチがモンテールだろうか。職人街で、自前の武器を造ってもらいに退治屋が集まっているという話だから。王冠は、かつてアデルナ王国の首都であったカルパスを意味するのだろう。

 確かに、トンカチの絵が示す先は、北へ向かっていた。また彼女がなにより不安に思ったのは、あるはずの宿場街が、どこにも影すら見えない事だった。糧食は尽きてしまった。

 フローティアは飢えにも強かったが、歩きながらでは三日が限度だ。水は再び井戸で補給した。問題は食料で、虫でも野草でも畑のものでもとって食わねばならぬ。もっとも彼女の故郷であるウガマールの奥地では虫は重要なタンパク源だったし、畑があるのだったら農家で食料を分けてもらえるだろう。

 しかし荒野では、虫も野菜も何も期待できそうにない。蛇でもネズミでも探すか。

 それなら山地のほうが得意だった。鳥もいるだろう。ここはコルネオ山へ急ぐことに決めた。頭上を時刻の外れたコウモリが行き交う中、出発した。アレンダール村と同じく甘い香りがしたが、空気の匂いと勘ちがいした。

 やや進んで後、街道はずっとゆるい下り坂で、だんだん斜面が急になった。行く先にコルネオ山が見えていたが、陽炎でゆらめいていた。遠くの山でアデルナ蝉が狂ったように鳴きわめき、フローティアの精神を疲労させた。街道の両側は見るかぎりの原野で、草の高さが気のせいか高いような気がした。木々の背も高くなっており、遠くに広葉樹の林がずっと広がっていた。はるかなるむかしは、ここいら一帯はすべてあのような林におおわれていたのだろうが、古代アデルナ人が街道を整備するために伐り払ったのだ。汗を拭き、街道脇へ座り込み、水筒より水………いや、ぬるま湯をのんで休憩すると、フローティアは信じられない現象に出会った。

 雨だ。

 しかも大雨である。

 今まで、太陽が照りつけていたのに、一瞬で昼から夜にでもなったように暗くなって、滝のような大粒の雨が痛いほどに落ちてきた。

 「な………!?」アデルナでは、よくある気象現象なのだろうか? フローティアは雨宿りする場所も見つけられず、マントのフードをかぶり、小走りに急いだ。大木でもあれば良いが、無い。フローティアは恐怖に震えた。そして彼女が、最高に恐れていたものが、ついに訪れた。雷光。そして間髪入れずの雷鳴。

 「ギャバアア!!」フローティアは喉の底より絞り声をあげ、転んで泥にまみれた。あとは声にならぬ。彼女はカミナリが大の苦手だった。いや、苦手を通り越し、死ぬほど怖かった。恐怖だ。閃光と轟音がするたびに、股間から背筋を通って脳天まで竦み上がり、失禁しそうになる。というか、した。濡れ鼠のまま、地面を這って、なんとか恐怖より逃れようとし、街道から落ちて、草むらに子鹿のように身を隠したまま、幾度かめの雷鳴と空気の振動で、ついに白目をむいて気絶した。


 目が覚めたのは、太陽の熱で、全身が蒸されているような感覚に襲われたからだった。先ほどの雨はなんだったのか。再び、乾燥と照射熱に大地がさらされていた。草木もまるで濡れておらず、自分だけが不快な湿気に包まれていた。フローティアは訳がわからなかった。アデルナという土地が。

 しかし見知らぬ土地というのはえてしてそういうものだ。人々の文化習俗、そして今のような気象。未体験だからと、いちいち否定していてはしまいには気が狂うだろう。

 フローティアは息をつき、立った。この天気なら、歩いている内に乾くだろう。出発しようとして、異変に気づき、息をのんだ。なんと、剣が無い! 鞘のみ残されて、剣が、無いのだ。

 「まさか………!」盗まれたのだろうか。故郷を出てよりずっと共にあった黒剣。何度も剣に意思があるかのごとく命を救ってくれた。もはや分身であり、腕である。それが、いきなり無いなど、初めてのことで、にわかには信じられなかった。

 しかし剣は意外にアッサリと見つかった。剣が彼女を呼んでいるようだった。眼を移した先に、草むらの中、剣が地面へ突き刺さっていた。安堵し、ガルネリのナイフを取り出して下草を払いながら、フローティアは近づいた。そして黒剣を抜こうとして、またも息をのんだ。剣は、ただ突き刺さっていたのではなかった。剣先には何者かの掌があり、剣が大地へ串し刺にしていた。色白で、小さく、子どもというより女性だった。アデルナ人のものではない。血の気が失せて白いだけで、肌はむしろウガマール人に近かった。なにより、手首に衣服の切れ端が残っており、黒い、絹装束だった。フローティアは口へ手を当て、しばしその残された左手首を見つめた。

 その彼女の周囲を、激しく何匹ものコウモリが飛び交った。また独特の匂いが鼻につき、鬱陶しくなって、叫んでナイフを振りかざした。「なんなのよ、あんたたち!」コウモリは答えず、いずこかへと散ってしまった。

 フローティアは息をついてナイフを腰の後ろの革ケースへしまい、地面の剣を抜いた。とたん、剣へ刺さっていた左手は崩れて、骨となり、バラバラと草の中へ落ちた。彼女が意識を失っている間に、剣が独りでに鞘より抜けて飛び立ち、何者かを襲ったのだろうか。

 「………」考えても、何も分からない。分かるはずも無い。無知の恐怖。そういう時、彼女は、考えない事にしていた。剣を納めると、街道へ戻り、歩き始めた。

 さて、それからである。

 フローティアを、誰とも云えぬ鋭く不気味な視線がずっとつきまとった。敏感な彼女は、それが耐えられず、何度も振り返ったり立ち止まったりしたが、どうにもならぬ。だいたい、アレンダール村もさることながら、街道をこれまで誰ともすれ違っていないのも気になる。アデルナではこの時期、旅人はいないのか? 午後になると、あれほど強かった初夏の太陽が、なにを思ったかいきなり遠くへ行ってしまい、上空からの温かい光がきれいに失せた。薄曇りが立ち込め、周囲に湿気が現れた。霧だ。ヒヤヒヤする空気の中、フローティアは心臓が高鳴った。こんな、まるで話に聴く北国の夏のような気象が、アデルナにはあるのだろうか? そうでなくば、こんなものは魔術か何かに違いない。フローティアは無意識の内に、歩を速めた。霧は急速に生息域を拡大し、彼女をついにすっぽりと白夢の世界へ連れこんでしまった。

 フローティアはもちろん、このような濃霧に襲われた経験など、無い。寒さもあって、小さく震えながら、ひたすら下を向いて歩いた。道を確認しながら。知らぬ内に、草むらに迷いこんでいないように。

 だが、それも無駄だったようだ。彼女は、深い水たまりにいきなり片足をつっこみ、頓狂な悲鳴を上げて後退った。池だ。池が眼前にある。振り返ると道も無い。周囲は草だ。いつ、荒野へ迷いこんだのだろう?

 戻ろうにも、真っ白で何も見えぬ。腕を伸ばすと、伸ばした先の手も見えぬのだ。

 「泳げってかあ………」気が遠くなった。泳げない。死ぬ。

 「水の上を歩く神聖呪文」たしか、そんなものがあったような気がしたが、会得してはいなかった。聖典の記述によれば、かつて聖導皇家の強力な騎士や神官たちは、魔物と戦うために、その秘術を編み出したのだ。こんな水たまりを越えるためのものではない。水上で陸と変わらず戦闘を行なうための難しい呪文だった。

 水面を音もなくコウモリが飛び交っている。アデルナに、こんなにコウモリがいるとは聞いていない。霧と関連があるとでもいうのか。

 池の上も、濃霧だった。何も見えない。前も後ろも白の世界。進退窮まった。

 どうにもならぬ。この場で霧が晴れるのを待つか。いや、待つのは得意ではない。フローティアは池の縁を歩きだした。

 いやな気分だった。霧は濃くなる一方で、本当に雲の中のようだった。もっとも彼女は雲の中など歩いたことはなかったので、あくまで想像だが。自分の歩いている部分の地面しか見えず、いつしか池も消えた。また荒野へ戻ったのか。無風で、霧がまとわりついてきてとても不快だった。あまりに同じ景色がただ白々と続いているので、思考回路がマヒしてきた。水分が容赦なく肺へもぐり込んできて、息もつまるように感じた。鬱として気が晴れず、眼もしょぼしょぼした。フローティアは、道が斜面となって、登っているのに気付かなかった。街道の脇に高い木々がせまり、すっかり森の中に入ってしまっていることに、まったく気付かなかった。食事も忘れ、ただ歩いているうちに、彼女は、あたりが暗くなってきたことへ気付いた。

 「あっ…?」驚き、突如、不安に襲われた。頭上をいきなり大きな鳥がかすめて飛んだ。鳴き声でカラスだと分かった。周りはすっかり森となっていて、自分はコルネオ山の麓を通りすぎ、山の入り口あたりまできたのだと直感した。夕刻せまり、カラスがねぐらに帰らんと、頭上を黒い河のようにおおっていた。

 とたんに、流れるように霧が晴れた。

 なにがどうなっているのか、見当もつかぬ。

 とにかく、あと二日はかかるだろうと思っていたコルネオ山まで、一気に来てしまった。

 「………!?」戻るべきか、進むべきか。

 進むしかあるまい。

 ところが、いつのまにそこにいたのか。眼前へ尋常ならぬほどに大きな狼がいたのには、さしものフローティアも息をのんだ。まるで牛である。それほど大きい。瞬時にそこへ出現したように思えた。フローティアは咄嗟に、剣の柄へ手をかけようとしたが、巨狼が一声唸った。この距離では、剣を抜く間もなく彼女の手首はパンのようにかじりとられてしまうだろう。狼の眼はルビーのごとく赤く燃え、毛は逆立って漆黒、わずかに茶色い縞が見えた。狼はウガマールの北部にもいるが、もっと灰色か茶色で、なにより小さい。アデルナ狼はこんなにでかいのかとフローティアはさすがに胆を冷やした。

 「魔狼………」フローティアはコリーナの宿で聴いた話を咄嗟に思い出した。長く舌を下げ、よだれが凄まじかった。牛のように顔が長く、前脚が頑丈そうに太い。なにより薄気味悪かったのは、赤い大きな眼が人間のように表情が強かった。彼女と狼はしばらくそのまま対峙していたが、黒狼がやがてふんすんと鼻を鳴らし、大きく口を開け、なにやら吐き出さんとしているようにも見えたその瞬間、吐き出されたのは、人語だった。

 「ここまで来ちまったもんはしょうがないだろう。つっ立ってないで先を歩きな。招待してやるよ」

 「へえッ」フローティアの驚きの声は、自分でそんなふうに聴こえた。

 「へえ、じゃないよ。このぼんくらめ。押されてきたとはいえ、結界を超えてくるだけの力があるんだったら、いちいちこんなことぐらいで驚いてるんじゃないよ。さあ、いいから歩きな。こいつの前を歩くんだよ」

 老婆を想像させる嗄れたアルトの声だった。眼を丸くしながらも、こうなったら云われた通りにする他はなさそうなので、フローティアは歩きだした。歩きながらも腹が鳴るところが、彼女の妙に胆が座っているところだった。狼の口を借りて何者かが話しかけているというのも分かった。魔狼を「こいつ」と呼んだからだ。

 山道をただ歩き、日は落ちて、やがて周囲はまったく闇となった。月明かりも星明りもなく、足元もおぼつかなぬ。山道は長く使われていないようで、石ころや木の根があり、とても歩きづらかった。フローティアは照明の呪文を唱えかけたが、「やめな。亡霊どもが騒ぎだすじゃないか!」と云われたので、しぶしぶ止めた。振り返ると、闇の中に赤い眼だけがふたつ浮いて、ハッハッという息の音が連続して聴こえた。仕方なく、彼女は山道をただ歩き続けた。何度も蹴躓き、非常に不満だった。えらい災難に思えた。しかしその災難の元がどこにあるのかは、さすがに見当もつかぬ。どうやら自分は招かれざる客のようで、声の主が自分を迷い込ませたのともちがうように感じた。夜になってまた霧が出てきたようで、空気の匂いがとても水っぽかった。やがて、坂道がずいぶん緩くなり、平らな場所へ出た。中腹の広場に思えた。広場の隅に、ヒュッテのように小屋があって、灯がともっている。フローティアは灯へ吸いよせられた。魔狼は消えていた。ドアの呼び鈴を鳴らそうとして、一人でにドアが開いたので、また「へぇッ」と云った。

 「まあお入り」声の主がいた。

 夏だというのに暖炉が燃えていた。しかし小屋の中はまったく暑くはなく、むしろ快適だった。暖炉の前に、さきほどの狼よりもさらにひと回りもふた回りも大きな黒い獣が一匹、寝ていた。小屋はけして広くは無いはずなのだが、暖炉の前で寝そべっているその魔狼は、とても小さく見えた。遠近感がおかしい。空間がゆがんでいる。フローティアは眼をこすった。そして、暖炉横の安楽椅子に、ものすごい老婆がいた。古代ウガマール王朝のミイラかと思った。小さく、椅子へ埋もれるようにかけていた。黒い衣服におおわれ、白カビのチーズのような顔だけが見えていた。老婆は髪の毛すらなく、眼も開いていなかった。口元がむにゃむにゃ動くと、信じられないような大きな声が響いた。

 「ガリアンを前にして、なんの動揺も恐れもないなんて、たいした玉じゃないか。気に入ったよ。名前は」

 フローティアは戸惑った。

 「お入りといったろう」

 「うひゃッ」見えない力に背中を押され、そのまま彼女は椅子に座らされた。この小屋の中ではすべて老婆の念力でものが動くように思えた。宙を浮いてティーポットとカップがやってきたと思うと、お茶が勝手に入れられたのだ。

 「名前はなんというね」

 「フ、フローティアですが」

 「わたしゃリピエーナだよ」

 「古い名前さ」

 「いまさら真正直に名乗ったところで、なんの意味も価値もありゃしないんだ」

 「フローティア、ねえ………?」

 声が反響するように何度も聴こえたが、すべてリピエーナ老婆が話しているのだった。しかし、それは耳に響くというよりは、頭の中へ響くように思えた。

 「まあお茶をお飲み。聴きたいことが山ほどある。五十年ぶりのお客だよ。しかしその前に、腰の物を預けてもらおうか」

 独りでに留め具がはずれ、フローティアの腰より黒剣が鞘ごとすり抜けて宙に浮いた。が、ビーンと音がしたとおもうや、剣が鞘から抜けて、くるりと舞い、剣先が床へ突き刺さって落ちた。とたんに、老婆の眼が見開いた。完全に白濁し、盲いていたが、何かをはっきりと見ているのはフローティアにも良く分かった。暖炉の前で寝ていた巨大な狼が、黒剣が抜けた瞬間にギャンと吠え、小屋の隅にある樽の後ろへ隠れ尻だけ出して震えた。長箒のような尾は、もちろん丸まっている。黒剣はぎらぎらと暖炉の火を映し、黄金の線模様が脈動していた。老婆は荒く息をつき、顔は上気していた。暖炉の炎が異常に爆ぜ、火花が散った。しかし、リピエーナが眼を閉じるのと同じく、それらもおさまった。老婆は大きく息をついた。

 「なんだってまあ………」

 「なんというものを見せてくれるんだろうね………」

 「なるほど、それで、きゃつら、わざわざ………?」

 フローティアはまたもや何度も反響するリピエーナの声を聴いた。

 「無礼をしましたね。御剣はしまってくだされ、フローティアさんや」

 こんどは、剣は独りでには動かなかった。フローティアはゆっくりと椅子より立ち上がり、剣をひき抜くと鞘へ納め、椅子のかたわらへ横たえた。そこでやっと、くうんと甘えた声を出して、魔狼が樽の陰より出てきた。眼は伏せられ、針山のように逆立っていた毛が、みな濡れ髪のように垂れ下がっていた。鼻がピスピスと動いて、さかんに何かの匂いをかいだ。

 「この子はコルネオ山………いいや、アデルナのガリアンの王ですよ。その王が、まるで小犬のように怯えて。さもありなん。長生きはするものだ。いま、御剣からお聞きしましたよ。なんと、4Fとは。直系も直系。最後の御一人にございますよ。そのような御方が、なぜ、やつれたお姿で、このアデルナの大地を徒(かち)で」

 フローティアは戸惑った。「いや、その、なぜと云われましても」やつれた、というのが気にかかった。余計なお世話である。

 「ただの、地方司祭の娘です………その、なんだかとか、最後の一人とか………直系だとか………わたしには分かりません」フローティアは視線をそらし、云った。

 リピエーナはぶつぶつと少し呟き、顔をしかめた。「では、そういうことにしておきましょう。お茶をお飲みください。疲れがとれますよ。私の素性をお話しいたしましょう。それから、先般より御身へ術をかけている不届き者へ、仕置きをいたしましょうか」

 「空腹でございましょうや」

 「大鍋にシチューが煮上がっておりますよ。兎肉の香草入りシチューですよ」

 さっきまで鍋などかかっていなかったはずだが、大きな銅鍋が火の上にあり、おたまが自動で動いていた。テーブルと、食器と、水差しと、すべてが独りで動き、たちまちフローティアの前に食事の用意がととのった。

 「どうぞ、どうぞ。毒など入ってはおりませぬ。ソーデリアン………古い言葉ですよ。御剣の御加護のもとにある御方へ、大いなる懐かしき剣撃士へ、わたくしめごときが、なんの小細工ができましょうや」

 どうやら、また、黒剣のおかげで事が良い方向へ進んだようだと思い、そうなるといきなり安心した。唾が口中へにじんだ。フローティアは遠慮なくスプーンを手にとった。彼女にとってまったくこの由来の謎である形見の剣は、しかし、常にこのような調子なのだった。この世でもっとも信頼している。だが、リピエーナの次の言葉には、さすがにいま口にしたばかりの物を吹き出しそうになった。

 「わたしは、旧アデルナ王国正魔導士の、生き残りですよ」

 「………!」フローティアは我が耳と我が眼を疑い、愕然と老婆を凝視した。

 「第二次大戦の後、もう一千年ちかくも、この山にひそんでいるのですよ」

 「おそらく、わたくしめこそ、大戦当時の最後の一人でしょうなあ」

 「だいぶん力は消え去り、もはや、死を待つのみの身となっておりますよ。かつてはずいぶんと官位も高く、正二位までいったものです。古い時代のアデルナには真正の魔導王がおられまして、お仕え申し上げていました。その最後の吸血鬼王による正二位ともなれば、いまのストアリアの宮家にも匹敵するでしょう。そんなわたくしめでも、死と老いを超えることは、さすがに、できなかったようですな」

 フローティアは唾ともシチューともいえぬものをのみ込んだ。驚きで眼がまんまるだった。リピエーナは続けた。

 「その瞳のお色………ああ、忘れておりました。その御髪(おぐし)。懐かしい。とはいえ、かつては恐怖の対象だった。われらにとって。おそるべき力の象徴だった。その御剣も。いまは滅びた十三聖導皇家に、それぞれ十三振の聖剣、神剣、魔剣があり、それぞれにソーデリアンがいたということですが………。魔剣というのは、魔を喰いつくす剣という意味で、もっとも恐ろしい力を秘めた、祟り神の剣でございますよ。トーテンタンツ、すなわち古いストアリアの言葉で死の舞踏と呼ばれたその黒剣が刎ねた魔導士の首、そして駆逐、屠殺した魔物の数は、万やそこらではおさまりませんでしょうよ………ヒ、ヒ………」

 フローティアは床の剣をちらりと見た。

 「………コレがですか?」

 「さよう。この呪われた身を最期に滅ぼすのが、伝説の魔剣というのも一興」

 リピエーナの身が深く椅子に沈んだ。部屋の照明が、心なしか暗くなった。魔狼が悲しそうな声を出して眼をあげた。

 「それはありませんよ。だって、わたしが、そんなことはしませんもの」

 こんどは老婆の白い眼が見開かれた。「なんだってまあ………」リピエーナは呆れて、篭の中に残っていたパンをテーブルの皿へ置いた。ワインも、樽の栓が抜け、液体が宙に躍り出て、ほの暗い明かりの中、宝石が溶けているようにグラスへおさまってテーブルへ乗った。フローティアはなんの遠慮も躊躇もなしに、それらを満足そうに口にした。

 「魔導士を見るのは初めてなのでしょう? 恐ろしくはないのですか。ハンテールの資格をとりにモンテールへゆくのでしょう? アデルナでもっとも古い魔導士を倒しておけば、資格なんかあっという間ですよ。そうしておこうとはおもわないのですか」

 「いえ、べつに」

 リピエーナの代わりに聴こうとしているかのように、魔狼が耳をピンとたてた。

 「だって、こんなにおいしいシチューやワインをごちそうになって。そんなことをする道理がありませんもの」

 魔狼がくしゃみをした。リピエーナはさらに呆れて、ついに椅子から身を起こした。針金のような、白骨のような手を衣服よりのぞかせて(すばらしい宝石と金銀の指輪だらけだった。)なにやら呪文をとなえた。棚の上より真っ黒くて四角い塊がおりてきて、フローティアの前で浮いて止まった。塊に光の線が走ると、それが蓋となって、ぱかりと開いた。中には、リピエーナがしているような、豪快な指輪から首飾りから、石、水晶、ブローチ、櫛、黄金のメダル、金貨、それに小瓶などがぎっしりとつまっていた。

 「フローティアさま。これらはみな、わたしが大戦後にかきあつめた古アデルナ魔導王国の財宝や強力な魔法の逸品の、ほんの一部です。これの模造品が、何点かルキアッティの蔵におさまっていますよ。模造品です。あの盗賊の家は、魔導王の御蔵よりごっそりと宝物(ほうもつ)を盗んだのですが、呪われもしないでのうのうと王国を継いだ気になっている。呪われるはずも無い。みな、模造品ですのでね。模造品のさらに模造品が市中に出回っているでしょうが、お眼の毒ですので、かまわないでください。さ、どうぞお好きなものを」

 フローティアはスプーンの手を止め、光り輝く宝物へ見入っていた。

 「そう、云われましても」

 「その金貨などは、正真正銘の古アデルナ金貨です。大戦後に、ずいぶんと処分されてしまいました。ルキアッティがひそかに数枚、盗み出して家宝にしています。いまの価値で、一千アレグロとも、二千アレグロともいわれています。一枚がですよ。もっとも、これがぜんぶ市場にでたら、大暴落してしまいましょうがね」

 「この黄金の櫛などは、聖なる御髪(おぐし)によくお似合いでしょう。身代わりとなって砕け、命を救ってくれます。この指輪は、人を魅了する力がそなわっていますよ。だれでも貴女さまのしもべになりましょう。こちらのメダルは、貴女さまに危害を加えるものへ死の呪いをかけます。この石は、人の心を見透かすことができます。こちらは………」

 「お待ちください。まがりなりにもウガマールの司祭が、このような魔導の物品を持てるはずもありません」

 リピエーナは笑った。「心配はご無用でございますよ。なぜなら、かつて聖導皇家だって、同じような物品で人心を支配したのですから………」

 「分かっています。リピエーナさん。大丈夫です。いりません。じつは、わたし、ウガマール大神殿の奥宮で、神官長さまより同じようにたくさんの宝物を見せられましたが、ぜんぶ置いてきました。わたしのものだと云われたのです。でも、そんな紀元前から伝わるような宝物を持ち歩いて、どうしようというのでしょう。博物館にでも飾っておくべきです。わたしには、この剣だけで充分です」

 「なんと!」リピエーナは楽しそうに再び身を起こした。

 「まあ、なんだって? さもありなん。その御剣にくらぶれば、こんな宝物などガラクタに等しい。これはたいへんに失礼をいたしました。しかし、後生大事にしまっておいたところで、もうこのババめにも無用の長物。わたしが死せば、永遠に失われる。かといって、昨今の似非魔導士どもには宝の持ち腐れ。とうてい使いこなせるものではありません。どうぞフローティアさまを正統なる相続人とすることを、お許しくださいませ。いつか、必要となる日がやってきましょう。それまで、お預かりさせていただきます。では、せめて、この金貨なりとも、数枚でけっこうですのでお手にとってください」

 「いいえ………ウガマールでも、そのように金貨をいただいてきました」

 フローティアは腰の小物入れより、ヴァンダー金貨を出して見せた。リピエーナはそれをうやうやしく手元へ引き寄せ、裏表をよく観察して、大げさな声をだした。

 「こは、いかに! さいきんのウガマール金はこんなにも質が落ちたのですか! 見なされ、この薄さときたら! そしてこのくすんだ色艶! 二百年ほど前は、こんなものではありせんでしたよ。この刻印は、オトマール クレンペラー神官長ですね。ああ、あの若造めが、おそれ多くもフローティアさまへなんと説教をたれたのですか? あんなやつばらの云うことをまともに受け取ってはいけませんよ。五十年前に、意気揚々とわたしを退治しにやってきましたが、ケツをひっぱたいてやりましたよ。キ、ヒ、ヒ………」

 「神官長さまがですか?」

 「貴女さまがここへ来られるのを、もしかしたら、見通していたのやもしれません。わざわざ金貨へ己の名を刻むとは………粋なことをする小僧だわい」リピエーナはむにゃむにゃと口を動かし、しばし考えていた。

 「そうだ、フローティアさま、この金貨を護りにしてください。あやつめが名を刻むのには………きっと理由があるはず。常に身につけておくとよろしいでしょう。心臓を裏から護るように、上着の背中へ縫い付けて差し上げましょう」と、上着がひとりでに脱げて、針と糸が飛んできた。瞬く間に、金貨を背中の裏地へ縫いつけてしまった。上着は再び、フローティアの袖を通った。

 「さて、次はババめの金貨です。三枚、金貨をお手にとってください。フローティアさまの今月の運勢では三が幸運の数字ですよ。色は黄金が吉。この金貨を三枚、どうかこのリピエーナの顔をたてると思って、受け取ってください。もう死ぬだけの年寄りに、どうかお慈悲をくださりませ」

 まったく同じようなことを神官長にも云われた気がした。こうなっては、年寄りはなかなか引かぬし、断ると心のそこから悲しむ。フローティアは金貨を受け取った。ヴァンダーに比べたら、小さく、指先ほどの大きさで、厚みがあった。古い文字が刻まれていて、彼女には読めなかった。

 「偉大なるアデルナ吸血鬼王の名ですよ。最後の正統なる魔導王グランドール=ヴァリニエ=リゾルート=ホーランド=マエストーゾ=アデルーナさまですよ。いまの字でGとAが刻まれています。魔導文字ですが、古いもので、いまの魔導士には使われていません。本当に古い、ただの大昔の金貨でして、現代の、こざかしい、真なる魔導の真似事のような馬鹿馬鹿しい小細工の魔導術となんの関係もございません。司祭が持っていても問題はございません。むしろ、換金するよりもっと他の使い道があるでしょう」

 「そう………ですか」まだよく意味が分からなかった。退治屋としてだとは思った。なによりそれは、ハンテールの資格をとった後の話のようだった。

 「さあて。そろそろ、しびれを切らした不届き者が、様子を探りにきたようですぞ。わざわざ大地の果てより、なにを探りにやってきたものか。千年前より、あの地の連中は変わっている。ずっと東の、古い王国です。かつてモードンと呼ばれたオルト=ラ=ガシュより、ガーズラバンドより、まだ向こうに人が住んでいるのですよ。連中め、御身と御剣を私にぶつけ、その力でも見極めんとしていたのでしょうか? 何のために? どうせくだらぬ野心に決まっていましょうが。ヒ、ヒヒ………久々に腕が鳴るわいな。しかし、あなどってはなりませぬぞ、フローティアさま。このババめの体力と魔力では、もはやあの屈強な異郷の術者に対抗はできまい。そこで、御剣さま。どうかよろしければこの哀れな魔導士のなれの果てに、御ちからを貸してくださりませぬでしょうか………」

 また、黒剣が一人でに動いた。今度はリピエーナが動かしているようではなかった。だとすればフローティアは、黒剣が自から動くのを初めて見た。アデルナへ来てより、黒剣がにわかに活性化しているように思えた。

 剣は鞘からほとばしり出て、一回転して宙に浮きあがると、剣先を下にしてブーンと唸りをあげた。リピエーナがなにやら呪文を唱えた。魔狼は、こんどは逃げなかった。垂れていた毛は再び総毛立って、眼が爛と光った。鼻から煙が出ていた。魔剣はしだいにバチバチと火花を散らしはじめた。

 「砕け、雷!!」

 すごい大声でリピエーナが叫ぶのと、小屋の外に天地開闢のような閃光が走るのと、小屋を吹き飛ばすのではないかというほどの雷鳴が轟くのと、フローティアがひっくり返るのが、同時だった。その雷鳴と衝撃波は小屋を揺るがし、棚から物が落ちたし、天井から吊ってある物もいくつか落ちた。小屋内の金属製品に、ビリビリと電光が走っていた。

 空気の振動と余韻が収まり、剣は静かに鞘へ納まり、床へ横になった。楽しそうにリピエーナが笑っていた。

 「こんな大業を使ったのは、何百年ぶりでしょうか! 気が晴れましたわ。御剣さま、ありがとうございます。フローティアさま、どれ、外へ観にいきましょうか」

 しかしフローティアは、ひっくり返ったまま、完全に眼を回していた。

 「なんだってまあ、御剣さま、そういうことでしたか。この子はまた、雷が………」

 安楽椅子が滑るように動き、小屋のドアが勝手に開いた。外は焦げ臭さと、甘酸っぱいがすえたような匂いが充満していた。落雷は小屋のすぐ側で、数リートも離れていなかった。白煙がたちのぼっていた。森の闇のなかでも、リピエーナの魔法の眼は、完全にものが見える。

 椅子は音をたてることもなく地面をすべり、アデルナで最後の真なる魔女は現場を確認した。てっきり侵入者の焼け焦げた死体があると思いきや、転がっていたのは、頭より胴の途中ぐらいまでばっくりと裂け、一部が炭化した小さな木の人形だった。

 「ふうん………」リピエーナは念力で人形を拾い上げた。まだ白い煙がたっていた。頭と胴体しかない簡素なもので、胴体にはなにやら呪文が墨で書かれていた。

 「身代わりの術にしては高度なものだ………。してやられたわい。このアデルナ魔導王国正二位魔導侯爵リピエーナが、こんな木の人形に、ねえ」

 ふん、と鼻をならし、人形を手に、リピエーナは小屋へ戻った。「まったく、なんだってまあ………長生きはするものだよ」フローティアがまだ気絶したままだったので、彼女をベッドへ移し、自分は、いつものように暖炉の前で、火の爆ぜる音を聴きながら、黙然と時を過ごした。そのうち、リピエーナは鼻唄とも囁きともとれる小さな調子で、歌を歌い始めた。フローティアは、その歌でかすかに目覚めた。そして、夢見心地の中で、その歌を記憶した。


 目が覚め、フローティアは、あまりの清々しさに、自分がどこにいるのか、一瞬わからなかった。窓より差し込む日はとても柔らかく、けしてうるさくない心地よい小鳥の声が幻想のように遠くより響いていた。ベッドは、リピエーナの小屋の屋根に近い場所で、中二階になっていた。小屋は表から見たときより、ずっと中が広く感じられた。昨夜はこの部分は暗くてわからなかったのだろう。毛布をどけ、木の枝を組み合わせて作られた梯子を下りた。野鳥の肉や幾種類もの乾燥ハーブもぶら下がり、暖炉には相変わらず盛んに炎があった。しかしリピエーナも魔狼もいなかった。テーブルの上には既に朝食の用意がしてあり、焼きたてのパンと生ハム、オムレツ、山羊乳の白チーズとトマトとアデルナセロリのサラダ、オレンジジュースがあった。フローティアは遠慮なくそれらを平らげると、ゆっくりとドアを開けて外へ出た。空気が既に生ぬるく、今日も暑そうだった。森の中に、こんな広場があるとは思わなかった。下草はよく手入れされ、地面も均されていた。鶏が放し飼いになっており、山羊もいた。小屋から数リートも離れていないところに、大きな焦げ跡があった。フローティアは落雷を思い出し、背筋に電気の走る想いがした。その微細な黒髪が、ひっぱられるようにざわっと逆立った。

 井戸があるかと思ったが、井戸はなかった。そのかわり、小屋の右手の、広場を横断した離れたところに森へ続く小道の入り口があり、ふと見やると、そこにあの大きな狼がいた。熊かと思ったが、赤い眼が陽光の下でもよく光って見えた。彼女は顔を洗い、水も飲みたかったのだが、魔狼はそのことを分かっているかのように立って大きな尾を見せ、チラリと振り返って道を進んで行った。フローティアは、なにとはなしにその後を追った。道は急な坂となって、斜面を下りた。もうわかった。せせらぎの音が聴こえ、斜面の下は谷川となっているのだ。水の匂いがして、彼女は川原へ到達した。水は澄んでおり、泉といっても良かった。日光がすばらしく川面に反射して、まぶしかった。顔と口を洗い、両手で掬って清水をのんだ。魔狼も、彼女の横でがぶがぶと水を飲んでいた。あらためて近くで見ると、その大きさにフローティアは驚いた。牛のように大きいのだ。いや、ドニゼッティに限っていえば、牛どころではない。牛の倍近くはあった。こんな動物が本当に小屋の中にいたのだろうか。フローティアは瞠目した。また、身体全体に比べて顔(頭)がとても大きく、全長の五分の一ほどもあるだろうか。耳は木の葉の形だった。鼻面の大きさから舌も長いと想像されるのだが、その想像以上に舌は長く、器用に動いた。毛並みはビロードみたいに艶やかで、全身が漆黒、茶色い縞は陽光が当たったときより、むしろ闇にまぎれたときに目立つようだった。両目は血かルビーのように赤く、深かった。牙は大きくとがって、厚く鋭かった。ひきしまった身体は同時にしなやかで、前脚が大きく、肩がとても盛り上がっていた。だから前から見ると、上半身が下半身に比べて大きく、下半身が隠れて見えた。尾は長く伸び、先に魔女箒のような剛毛があった。フローティアは犬の仲間というより、ウガマールの洞窟ライオンを思い出した。そして彼女は結局気付かなかったのだが、その足にある爪はライオンのようなカギ爪でも狼の爪でもなく、堅く大きな蹄で、指は四本だった。つまり、かれらガリアンは狼と呼ばれてはいるがイヌの種類ではなく、肉食の偶蹄類である。あえて仲間を探すなら、クジラをあげることができるだろう。そして、超常の能力を有する魔物でもあった。古代のアデルナにもともと彼らのような動物がいて、それを魔導士が魔術で改良したのか、それとも、魔導士が魔術でこのような生物を生みだしたのか、いまとなっては分からない。

 フローティアがまた山道を登り、小屋へ戻ると、魔狼も後をついてきた。小屋の前ではリピエーナが安楽椅子に座ったまま、待っていた。椅子の横には、彼女の荷物と黒剣があった。マントはオリーブ色で、自分のものとはちがうものだった。フローティアはゆっくりと歩いて、ゆるい坂となっている土地を横切った。

 「フローティアさま、新しいマントを用意しておきました。厚くて軽く、暑さも寒さもしのげますよ。じょうぶで、敵の攻撃を遮ります。それから、この堅焼パンを持っていってください。力になります。この飴玉は疲れをとりますよ。街道までこの子に案内をさせます。ドニゼッティ!!」

 魔狼が背筋を伸ばして、座り直した。

 「無礼をしたら、御剣さまがたちまちおまえを切り刻むのだからね!」

 その赤い眼が緊張に泳ぐのを、フローティアは気の毒に思った。かれはアデルナの魔狼の王であるというのに、こんな自分の道案内とは。

 「街道から少し戻りますが、コルク村に寄りましょうや? 村からは数日でモンテールの門をくぐるでしょう。ハンテールの資格は、適当にやっておけばとれましょう。フローティアさまならばね。ヒヒヒ。師匠は、街の西の方角で探すと、よくも悪くも運命的な出会いがありましょうよ。それから、これはお護りでございます」

 リピエーナが差し出したのは、黄金の小メダルのついた首飾りだった。

 「昨日の宝物ではありませんよ。あれよりずっと後の世に作られたもので、ただのお護りです、ただの。さ、どうぞその御首にかけてくださいまし」

 ただのというわりには、なにやら読めぬ文字が円周に刻まれ、表には見たこともない紋章が刻まれていた。裏には、一面に大きなうずまきが彫られていた。

 「そしてこれは、呪文集です」リピエーナは手帳サイズの薄いノートを出した。羊皮紙のもので、丈夫な留め金があって、しっかりと閉じられていた。

 「むかしは魔導術も聖呪文も、あまり区別がつかなくて、いろいろと同じような術を使いあっていたものです。また、我々もよくセペレール聖典を研究し、対抗呪文の開発をしておりました。それは、いまは失われた呪文の幾つかで、神聖呪法としても応用がきくものです。フローティアさまにも使えそうなものを選んでおきましたよ。ときどきつぶやいて、練習をしておけば、それほどの神聖力ならば、コツさえつかめば、すぐにでもお役にたてましょう」

 「ありがとうございます」

 しかしフローティアは、そんな急に呪文をほいほい覚えることができるとは思っていなかった。剣は確かにからっきしで、ウガマールでは呪文で魔物を退治していたとはいえ、その呪文とて実に初歩的なものを何種類かを使えるにすぎない。(ということはつまり、退治してきた魔物というのも、その実に初歩的な呪文で退治できる程度の魔物ということになろう。)

 彼女はそれを素直に顔へ出したようだった。

 「なんだってまあ、フローティアさま。自信をお持ちになって。貴女さまならば、きっと、ちゃんとたどりつけることができましょう。もしくは、見つけることができましょう。それが何かは、さすがのわたくしめも、わかりませぬが。呪文や剣の勉強など、そのための道しるべ、もしくは単なる道具にすぎませぬ。使いこなしてこその魔術であり聖呪でございましょう。それは、どのような凄まじい術であっても、単純素朴な小さなものであっても、なんら変わることはありません」

 「しかし、リピエーナさん。私、思うのです。この世で、この世界を生きてゆくために、私は私しか信じられません。でも、そういう自分が、ときに、最も信用ならないのです。私は、どうも、この………ただ世の中の大きな………眼に見えないものに流されているだけのような気がして、とても不安なのです。私はまだ前というものがまったく見えてきません。私は、わたしとして生きてゆくうえで、本当に正しい道を進んでいるのでしょうか?」

 老婆は即座に答えた。まるで、いつだってそういう質問を若者から投げかけられているようだった。

 「人は、みな、いにしえの聖人でも魔人でもありません。我々真の魔導士や、聖導皇家の聖人どもなど、単純なものですよ。ええ、聖だの魔だのと、実に単純きわまりない。なんとも、良いですか。この世に、人間ほどあやふやなものはない。善いことをして悪いことをするのです。弱いのに強いのです。頭が良いのに悪いのです。それが当り前です。矛盾こそが人間であり、人間こそが矛盾なのです。正しいとか正しくないとか、いったい誰が判定するというのでしょう。便宜的に自分たちでそうルールを決めて従っているにすぎない。フローティアさま、それが人間なのですから、どうぞお悩みになって、先を進んでください。見えずともお進みください。正しい路などというものは、そう思いたい輩が思い込んでいるだけの独り善がりにすぎない。誰にも分からなくて正解です。過去を学ぶのは大切でしょうが、まだ、振り返るには早すぎますぞ。人間とは、人間ゆえに、おもしろいのではありませんか!」リピエーナは白い眼を細くし、愉快げに笑った。

 フローティアは、意味は分からなかったが心はよく落ち着いた。頭では分からずとも心が理解したような気がした。マントをつけ、荷物をせおい、剣をベルトの留め金へつけた。

 「お気をつけて。さいきんは、ババめの力が衰えたのをよいことに、質の悪い魔物が入り込んでいます。それを追って村や街の退治屋もウロウロして、ガリアンたちも結界の見張りに大忙しです。御剣さまがついておりますが、それを手にするのは貴女さまです。過信せず、しかし自信を持って」

 「はい」

 「それでは、いつかまた会うことがありましょう。お待ち申し上げております」

 「ありがとうございます。おばあさま、お元気で」

 「わたしゃいつまでだって元気ですとも、ヒヒヒ!! これからも、フローティアさまのような素敵なお方といつ出会えるか分からない。死んどる暇はありゃしません。フローティアさま、よい旅を」

 「ありがとうございます」

 もう一度そう云うと、フローティアは出立した。ドニゼッティがすぐに前を歩いた。フローティアは云われた通り、振り返らなかった。リピエーナは、ずっとその後ろ姿を白濁した眼で見つめていたが、フローティアが見えなくなると笑顔が消えた。

 「黒剣が………帰って来た!」心なしか、呆然としたような声だった。「あの子はいい子だよ。ねえ、そうだろう。あんな、狂った皇太子とは別人だ。剣の本当の力へ本能で既に恐怖を感じている。あの子が持っているかぎり、剣の思い通りにはならないだろうさ。しかし、黒剣め………油断はならない。どんな手を使ってくるか………いまはあの子の信頼を得る段階か………なんと狡猾な剣だよ!」リピエーナの顔が紅潮し、怒りに震えた。「魔導憎しと、聖導皇家めが、あんな武器を作った………役に立ったように思えたが、まさに諸刃の剣だった………人々を苦しめ………持ち主を破滅へ導く。それがいまも生きている………何がソーデリアンか!」しばし黙然と沈思していたが、やがて、小屋へ戻り、熱心に手紙を書き始めた。ただし、それは紙ではなく大きな黒い石盤へ一心にペンを滑らせているのだった。独りでに動き続ける羽ペンを見つめながら、リピエーナの心は、約千年ぶりに波立ち、興奮した。


 魔狼は、フローティアをリピエーナの支配する領域の出口へ案内した。魔術の結界といっても、特別な壁があるわけでもない。空間が歪んでいるわけでも無い。ただ木々と道の特殊な交錯がリピエーナの土地を隠しており、それこそが穏形の術であった。神話・伝説のように桃源郷や異郷の類へ紛れ込む人の話は、偶然にもその交錯を順当にたどった結果であって、出てきたら時が何百年も過ぎていたとかいうあたかも異空間に紛れ込んだような説話は故意に創作されたものだ。いわゆる神隠しも交錯が天文学的な確立で天然に仕上がる場合にあって、そこへ紛れ込み出て来られなくなった結果である。たいていはそこで飢えて死ぬ。魔術による結界は、それを一種人為的に行なう点で、術たる所以だろう。

 ドニゼッティの案内がなければ、確かにフローティアは森で死ぬまで歩き続けることになっていた。なにせ、道と景色が侵入者をそうさせるように仕組まれているのだから。土地の猟師は、千年にわたる経験と伝説で、逆にリピエーナの結界を完全に避ける道を見つけているほどだ。

 森の深部は昼なお暗く、道は曲がりくねって、いくつも途中で別れていた。鳥がとても多かったが、四つ足の獣は一匹も遭遇しなかった。もっとも、目の前を巨大な魔狼が歩いているのだから、鹿だろうと猪だろうと、熊だろうと、すき好んで現れるとも思えなかった。またフローティアは、道に沿った森の中を何匹もの黒い獣がついて来ているのに気付いていた。ドニゼッティの部下だろう。

 数刻も歩き、頭上をおおっていた木の葉が薄くなって、陽光が見えるようになってきた。空気の質も変わったようで、ずいぶんと軽く感じた。道も広く、枝道も少なくなった。結界のはずれに来ていると彼女は思った。ふと、大きな岩棚の前で、ドニゼッティが立ち止まり、振り返った。岩から清水が流れている。

 「ここでおしまいなの?」

 魔狼は清水を飲んだ。フローティアものみ、顔をぬぐった。清流で、冷たく、心地よかった。この清水は下草が刈られ、岩も削られ、明らかに手入れがされており、人間の領域に思えた。となれば、ドニゼッティが自分をこの水飲み場まであえて結界を超えて案内してくれたのだと思った。

 「ありがとう。いい子ね」

 フローティアは魔狼の顎を撫でてやった。ドニゼッティの眼が細くなって、照れたように笑った。フローティアは別れを惜しみ、その大きな顔を抱擁した後、山を降りた。それから一刻も歩かぬうちに、道端へうつ伏せに倒れるこむ人物を発見した。手には剣があり、服装は制服ではなく自由な傭兵のたぐいで、このような山中では退治屋と判断するのがもっとも正しいと思われた。

 「し、しっかり」フローティアは肩を起こして、息をのんであとずさった。顔面がつぶれていた。もちろん、すでに息は無い。

 「魔物だ………!!」人間の顔面が楕円形に陥没している。鉄か石の球をきれいに当てたように。これが武器だとしても、自在に操るのは巨人の類だろう。リピエーナの云ったそばから魔物と遭遇しようとは。思わずドニゼッティを呼ぼうかと思ったが、呼んだところでどうしようもない。己で解決しなくては、ハンテールになどなれはしまい。たとえ、少し自分には荷が重そうな気配だとしても。

 「誰か、誰かいるのか………助けてくれ!」道をはずれた森の中より声がした。フローティアは急いでその方向へ向かった。

 「どこですか、どちらですか!」

 「こ、ここです、こっちです!」

 森へ入り、草をかきわけ、フローティアは声のほうへ向かった。山の斜面を降り、十歩ほども歩くと、草にまぎれ、人が倒れていた。無精髭にまみれた中年で、黒い髪はきれいに刈りそろえられていた。近寄ると、右足のブーツがズタズタに裂かれていた。男は苦しみにうめき、大量に出血していた。草の緑に不気味なほどの赤がほとばしっていた。

 「あ、だ、じょ………」フローティアは声にならなかった。

 「だれか………だれか………」大声を出した事で男は急激に意識朦朧となったようで、呻くのが精一杯に思えた。それでも、右手に剣を離さないでいたのは、さすがだった。

 「血、血、血止め………!!」フローティアは男のブーツを脱がせ、自らの荷物の中より白布を出して膝の上を縛った。そして動揺をおさえつつ呪文をつぶやいた。

 司祭・神官の呪文の中で、やはり最も重要かつ需要があるのが、傷を癒し、体力を回復させる効果のあるものだろう。この奇跡ともいえる呪文は術者の個人的な神聖力の質の差にもより、誰でも彼でも都合よく傷や病気を治せるというものではない。そこは才能のある者が修練し、修行し、経験を重ねる必要があるし、同様の呪文でも術者によっては回復の程度に差がある。神聖力とは、あえて定義をするならば、プラスの生命エネルギー、陽の気、オーラ、精神エネルギー、生体波動、強力な暗示、それらが複合的かつ総合的に干渉し合ったもので、いちがいに「これ」と断定できるものではない。呼吸と密接に関係があり、その大きさ、強さ、質の良さは個人的な資質に左右され、才能や血脈=遺伝に大きく左右される。同じ呪文でも神聖力(魔導術ならば魔力)の差で、効果に遥かに差が出てくる。呪文が道具とされる所以だ。神聖力はあまり強くなくとも、その効果への変換率が非常に高い術者ならばそれは優れた術者といえるし、術があまり得意でなくとも、生まれつき神聖力がとても強い人間ならば、それもまた優れた術者といえる。強力な神聖力をそのまま惜しげもなく効果へ変換する者がいたならば、それは神の使いとして崇められるだろう。かつての聖導皇家がそうだったように。

 フローティアは聖典の文句による奇跡の再現、回復の呪文を唱え続けた。緊張と動揺のせいか、あまり神聖力が集約されず、焦った。血はとめどなく流れている。この血の流れが、すなわち男の命の流れだ。赤い液体が地面へ吸い込まれるのは、命が吸われているのと同じだ。眼をつむり、精神を落ち着かせた。ようやく身体の芯の方でエネルギーが流れるのを感じることができた。それは自分の血液の流れとも思えたし、自分の身体を通して天から地へ見えない光が通ったようにも感じた。また大地から天へ泉が沸き上がっているようにも感じた。大気から空気以外の物質を吸い込んでいるみたいだった。傷口へかざした両手より熱いものが放出されるのが、実感として分かった。ゆっくりと眼をあけると、血は止まっていた。

 フローティアは緊張で乱れがちな呼吸を整えた。呼吸の乱れは神聖力の乱れであり、術の乱れとなる。再び眼をつむり、肝心要のところでミスをするまいと懸命だった。ここで気をぬいて、噴水のように血が吹き出さないともかぎらない。せっかく血が止まり、傷が少しでも塞がりかけているのだ。汗が額を容赦なく流れ、動悸が激しかった。さすがに、自分が耐えられなくなり、立ち膝だったのが、崩れるようにしりもちをついた。とたん、眼をあけていても真っ暗となって、百リートも全力疾走したようなほど激しく息をついた。頭がクラクラして、倒れそうになった。

 やがて視覚が戻ってきて、木漏れ日がまぶしかった。男の傷は見事に塞がっていた。だが、失われた血液が戻ったわけではない。傷をふさいだだけだ。とはいえ、今まで止めどなく流れ出ていた命が止まっただけでも、ちがう。

 「し、しっかり、だいじょうぶですか」

 「う、う………」男は薄目を開けた。

 「立てますか」

 「あ、ありがとう、司祭さまか、神官戦士どのか。このような山奥で、神の奇跡だ………セペレール神と聖導皇家に栄光あれ………」

 男は出血が予想以上に進んでいたようで、意識はまだ完全に戻ったわけではなかった。立ち上がっても、足元はおぼつかなかった。フローティアはふらつく男へ肩を貸し、山道まで歩いた。が、それはたいへんな重労働で、男は重心が安定せず、ものすごく重い荷物だった。それも、ただの荷物ならば動かないが、男は膝が笑っていて、しかも剣士の本能か、右手の剣もけして手放そうとはしなかった。たったの十数歩であったが、かれを山道まで戻すのは、かなり骨がおれる作業だった。非常に時間をかけて山道まで戻ったのだが、男と共に道へ倒れ込んでしまった。フローティアとて、呪文でかなり気力を消耗していたのだ。天をあおいで息をついていると、地をなめながら、男が語りはじめた。意識が戻ってきたようだった。

 「め、面目ありません。私は、モンテール市より来た退治屋です。な、仲間と四人で、逃げたマンティコアを追ってコルネオ山に入りました。コルク村の常駐ハンテールとも連携して、追い詰めたと思ったのですが………このような森はヤツの独壇場、仲間はバラバラとなり、私も、足を………」

 「マンティコアですって!?」フローティアはとび起きた。「アデルナには、マンティコアが出るのですか?」

 男がうつ伏せからごろりと仰向けになって、天を見た。息も落ち着いてきている。

 「貴女さまはどちらより?」

 「ウ、ウガマールです」

 「ウガマールでは、確かに、マンティコアは伝説の中の魔物でしょう。しかし、アデルナでは、ちがう」

 男は起き上がった。

 「無理をなされては」

 「いいえ、はやく、山を降りましょう。こんなところを襲われては、私も貴女も、命は無い。せっかく助かった命、そう簡単にとられてなるものか………!」

 男はまだ剣を握ったままだった。戦闘態勢なのだ。フローティアが左に肩を貸し、二人はゆっくりと山道を歩いた。森の静寂の中、二人の息づかいだけが大きく響いた。

 「か、かつて、アデルナ三大魔導といえば、ガウク、アデルナ赤ドラゴン、ガリアンでした。最も数が多かったのは、ガリアンです。ガリアンや赤ドラゴンに乗ったガウクの大部隊は、アデルナの伝説です。しかし、大戦後、ガリアンは大量に狩り出され、ドラゴンも山脈や湿地の奥地へ戻っていった。いまでは滅多に見ない。変わりに台頭してきたのが、マンティコアです」

 「マンティコアは、しかし………」

 「はい。あやつは人造の魔物。魔導士どもが魔術で生み出した、新しい魔物です」

 「聖典では、魔導士マンテールが初めて作り出すのに成功したとか。また、サティラウトウの古王国において、砂漠の魔物として伝承が残っています」

 「聖典や歴史のことは不勉強でよく分かりません。うんと昔は天然のマンティコアがいたのかもしれません。魔導士が、それを元に新種を作り出したのかも。なんにせよ、アデルナではいま、マンティコアがとても多い。大戦の生き残りの強力なものから、最近生み出されたものまで………ウガマールの司祭様には、信じられないでしょうが」

 信じられなかった。男は脂汗がすごく、息づかいが再び荒くなってきた。

 「休みましょう」

 「いいえ」男は話し続けた。「とにかく、我々が追っていたやつは非常に狡猾で、獰猛、格闘能力に優れており………全長は二リート、すなわち十尺近く。やつら特有の翼はなく、地上を駆け、地へ潜るタイプ。尾の先が鉄の球のようになって、伸縮自在。背中には甲羅が。額に角があり、とにかく、剣や槍ではなかなか………。これはジギ=タリスが六割強という家宝の対魔導剣なのですが、一度も致命打を当てることができなかった!」

 テトラ=ジギ=タリスは古代の石で、魔導に効果がある霊石とされる。現在では、その原石は希少で、純度の高い精錬の加工法も失われて久しい。剣はふつう鋼で金属だが、ジギ=タリス剣はジギ=タリス粉と触媒、それに剣土という鋼のごとき強度となる特殊な土を超高温で焼き硬め、研ぎだす一種のセラミックソードだった。

 「し、司祭様、私が死んでも、ど、どうかこの剣だけはモンテールへ」

 「し、しっかり」

 「お、おお………セペレールの神々よ………われらにお慈悲を………」

 男はそう言うと、歯を食いしばり、フローティアを押し離して剣を構えた。道の行く先に、件の魔獣が待ち構えていた。ゆるいカーブを曲がったその先に、道の真ん中へ堂々といた。マンティコアだ。

 フローティアはその異形に息をのんだ。マンティコアは一種のキマイラ、つまり合成生物で、古い伝承に残る標準的なものはライオンの身体、コウモリの翼、人の顔、牙は三列に連なり、尾はサソリという見るからに猛悪な怪物で、非常に手ごわい魔物である。しかしいま、眼前にいるのは、背には翼の変わりにカメというよりはダンゴムシのような装甲板、手は爪が巨大で、不気味な翁面には一本角もあり、尾は長くしなやかで、その先が瘤になっていた。長い舌をべろべろと出して、幾重にも連なった牙がものすごかった。頬や額に新しい傷があり、眼が人の眼で、笑っていて耐えられなく気持ちが悪い。体長は二リートといっていたがもっと大きい。獣と人の体臭が混じったような、独特の臭いを発し、近づきがたい嫌悪感を周囲に振りまいている。知能が高く、邪悪で狡猾。人間を純粋に食料や己の快楽の一環として好んで襲う、もっとも質の悪いバケモノのひとつであり、こんなやつがそうそう現れるのでは、確かにたまったものではない。

 フローティアは抜剣した。しかし、今まで相手にしてきた魔物とはケタがちがった。瞳孔まで開かんばかりに眼を見開いて、手も足も震えが来た。その前に心臓が口から出てきそうなほど脈打った。

 「司祭様、下がって!」

 「あ、む、む」無理をなさってはいけません、とでも云うつもりだったのだが、男はもう突進していた。無謀にも真正面からだ。が、それ以外にどうしようというのか。

 マンティコアの腰がグッと上がった。とたん、頭上よりハンマーが旋回してきた。尾が伸縮性の構造で、倍近くもしなやかに伸びる。男は慎重に見極めてそれを避けた。瞬間、マンティコアの前足が伸びた。恐怖の二段戦法で、ハンマーに気を取られていると足をやられるのだ。地面をどんどん掘って行く巨大な爪で足元をひっかけられては、たいていの者でも転倒する。そこを襲いかかって牙でトドメというわけだ。

 男は先の戦いで、足をこれでやられたのだが、死に物狂いに剣をつきたて、なんとか逃れたのだった。ジギ=タリス剣だったのが幸いした。今回は、前足攻撃も避け、その鼻面に剣を突きたてた。しかし魔獣も、その剣の効果を覚えていた。素早く後ろへ下がると横なぐりに尾の攻撃をみまった。男は剣で防御しつつ下がって避けた。しかしその攻撃が、見事に剣を握った手へ当り、剣が木々の合間へすっ飛んでいった。「あッ!」と、指をつぶされた痛みも忘れて男が叫んだときには、喜々としたマンティコアの顔が眼前へ迫っていた。巨体にのしかかられ、容赦なく倒された。「あっ、うわっ、ああッ、あーッ、うおおおーッ!!」凄まじい悲鳴が山中に轟いた。マンティコアはなんと、男へトドメを刺さずに、生きながら腹を裂いて臓物を喰いはじめた。顔を傷つけられた復讐もこめて。

 フローティアはあまりの光景に凍りついていた。腹へ大穴をあけた魔物がコリコリと肋をかじりながら、爪で体内より心臓をほじり出し、丸呑みした。男は、歯も折れんばかりに食いしばった形相のまま、絶命していた。それを認めたとたん、フローティアは心の底から絶叫のごとき雄叫びをあげ、黒剣を振りかざし、斬りかかった。頭が真っ白だった。顔を新鮮な血液だらけにしたマンティコアの眼がフローティアを捕らえた。黒剣が陽光にぎらりと光った。マンティコアの顔が驚愕に色めきだった。ザッと地面を鳴らして、怪物の身体が反転した。ぐうんと伸びる尾がフローティアを襲い、それは黒剣が勝手に動いて迎撃した。そのまま、マンティコアは喰いちぎった退治屋の上半身を、振り向きざまに投げてよこした。

 「ぎゃあ!!」血とはらわたが飛び散って、さしものフローティアも動揺する。避けようとしてバランスを崩し、ひっくり返った。怪物がすかさず突進した。フローティアはなんとか起きようとしたが、身体がついてゆかぬ。その彼女の上を黒い塊がサッと横切った。すさまじい唸り声。

 「ドニゼッティ!」

 魔狼の王がマンティコアへ襲いかかった。二匹の魔物の戦いは凄まじかった。吠え合い、爪と牙で牽制し合った。ドニゼッティのほうがマンティコアよりひと回り以上も大きかったが、マンティコアはなんらひるむことはなかった。ドニゼッティが背の毛を針のごとく立てさせて射出すると、マンティコアが背甲を丸めて防御した。次に尾のハンマーが唸ると、ドニゼッティは素早く避け、反撃に口から地獄の火炎を吐いた。炎に巻かれたマンティコアが一瞬のひるみを見せ、すかさずドニゼッティはその首筋に牙をつきたてた。咬みついたままジャンプして身をひねり、マンティコアをひっくり返して着地した。体格で勝っている利点を利用したのだ。マンティコアは無様にもフローティアへ腹を向けて暴れた。しかし、ドニゼッティの怪力に完全に押さえつけられていた。フローティアの藍碧の眼と、魔狼の真紅の眼が合った。

 「いまです!!」そう云っていた。フローティアは無我夢中で跳ねおき、両手で腰に黒剣を構え、突撃し、マンティコアの心臓の辺へ剣をつきたてた。

 喉をつぶされているため、声もあげず、怪物は絶命した。彼女は知らぬが、ジギ=タリス九割強という驚異の魔剣を心臓にくらっては、たとえマンティコアといえども、ひとたまりもない。

 ジギ=タリス効果により魔術が解け、マンティコアの身体はグズグズと崩れて、白い煙をあげた。フローティアは咳き込み、しり込みするように、魔物より離れた。涙があふれてしょうがなかった。ドニゼッティはフローティアの側へ来ると、その頬をぺろぺろとなめた。

 「なんてこと………」

 フローティアは目をつむったまま、吐き出すように呟いた。脳裏に浮かんでいるのは、投げつけられた男の死相だった。自分が、必死の思いで初めて救った退治屋の。

 「人間なんて、簡単に死んじゃうのね」

 フローティアは脚が震えていたが、かまわず、剣を納めた。魔物の死体と、名も知らぬ男の千切れた肉体。とたん、ドニゼッティが唸り声をあげ、大きく開いた口より再び巨大な炎をマンティコアの死体めがけて吐きつけた。フローティアは驚いたが、瞬間、魔物の死体が燃えあがって、その中より炎にまかれ、何かが転げ出てきた。「こおッ、こぉのッ、この獣めェーッ!! クソババアめ、どこまで邪魔ぅをヲーッ!!」

 フローティアは、いきなり出現したその者もさることながら、その異様に甲高い声に、さらに驚いて背筋を伸ばした。何が現れたのか、魔物か、人間か、人間だとしたら、果してこれが人間の声なのだろうか。

 炎の中より小柄な人物が現れた。フローティアより頭一つも小さい。大きな眼がつり上がって光っていた。女性のようだったが、子どもでは無い。肌の色と顔だちで、話に聴くはるか東方の人種と分かった。漆黒の絹装束に、首には翡翠や珊瑚の数珠の装飾をつけ、不思議な形の帽子を頭上へ乗っけていた。そして、その左手は、失われていた。

 「あんた………!?」フローティアは唐突に、コルネオ山へ入る前、街道の側で黒剣が何者かの左手を刺し貫いていたのを思い出した。

 「なアーッ、生意気なやつ!! 殿下の御命が無くば、今すぐにでもこの手の恨みを雪いでくれるものを!!」脳天から絞り出して声を発しているような、凄い金きり声だった。眼が狂犬のようだった。ドニゼッティが、フローティアの前で脚を踏ん張った。

 「黙れ、水蓮」人物がギョッとして、振り返った。「で、殿下………!!」

 「お前はツメが甘すぎる。ことごとくババアに見破られていた。その手も自業自得と知れ」

 「ハッ………」水蓮は低く腰を折り、脇に避けた。フローティアは目が霞んだように感じた。再び、妙な芳香を放つ不気味なコウモリが何匹も舞い始め、そのコウモリたちの中心より、なんと八人もの一団が登場した。全て、水蓮と同じ人種だろう。その言語は理解できなかったが、不思議と云っているニュアンスが読めてとれた。老若男女が全て同じ黒装束だったが、中央の若い女性だけが、同じ黒にも金銀や臙脂で花や蝙蝠の刺繍が施されており、かぶりものも無く、見事に結われた黒髪にはそれを飾るに相応しい髪飾りがあった。その髪は、なんとフローティアと同じ色だった。

 その姿といい態度といい立ち振る舞いといい、フローティアと同じほどかやや若いが、見るからに身分高き頭目とおぼしき女が、前に出でアデルナ語を発した。

 「どけ、魔狼」ドニゼッティは一歩も怯まなかったが、全身でガタガタと震えだした。「いいわ、ドニゼッティ。私は大丈夫だから」

 フローティアは不思議と、驚きはあったが恐怖は無かった。しかも、なにかしら、懐かしさもあった。二人は、鋭く眼を合わせた。

 「アレンダール村のころより眼をつけていた。貴様と、その黒き剣にだ。剣を見せてもらおう」女が手をかざすと、黒剣が自然に鞘より走り出て、女の手へ納まった。フローティアは黒剣を信じ、何もしなかった。

 黒剣が陽光に光った。女が木漏れ日の太陽へ透かすと、黒曜石のようにその部分だけやおら透明度が増した。細く彫り込まれた黄金の線模様が、生き物のように光へ反応した。見た目よりずっと軽く、その剣身はどこまでも漆黒だった。女は、線模様の中を血液みたいに循環する何かを確認した。

 「なるほど………」女は剣を自らの足元へ突き刺した。「貴様とは、これから色々と関わり合いになるだろう………お互い、望もうとも、望まなくともな。邪魔をした。行け」

 「あんた、だれ」フローティアは眉をひそめて云い放った。背後の術者たちが、色めいて動きかけたが、女が手でそれを制した。

 「我はターティン帝国の使者だ。はるか東の大陸より、視察も兼ねて友好親善のため訪れた。そういうおまえは、何物だ?」

 「私はウガマールの司祭よ。旅の途中の」

 二人の眼は、同じ色を反射した。藍と碧の混じったような、不思議な色だ。

 「では、お互いに、そういうことにしておこうか。旅を続けるがいい」

 「云われなくともね。ここは公道ですから。そちらこそお気をつけて」

 フローティアは女の前で黒剣を抜き、鞘へ納めると、小走りに街道を進んだ。ドニゼッティが後をついて行こうとしたが、フローティアはそれを制して、山へ帰させた。

 道を行き、フローティアが木々の合間にすっかり見えなくなると、頭目の女が、微動だもせずに、氷のような声を出した。

 「しかと観たか。おそらく真物である。トーテンタンツ………すなわち死の舞踏と呼ばれた、もっとも古い魔剣。古剣中の古剣。紀元前の強力な剣。煌石(ジギ=タリスのこと)の含有率は、九割を超えておろう。我らが譚帝家へ伝わる太極神明剣と、同じ時代の代物であるぞ」

 八人の色が変わった。

 「そんなものが、旅の女の腰にぶらさがっているとはな………。ババアに邪魔はされたが、少しは収穫があったか」

 女は振り返り、居丈高に続けた。「わが八卦道士たちよ。我らが太天へ残る聖導皇家の血と、この西方の大地へ残る血と、どちらが濃いか見極めるべし。それが太天皇帝の勅命である。古の吸血鬼王が復活するとの託宣、よもや忘れてはおるまい。聖導皇家と魔導王との戦いは三度起こり、第三次大戦の後、太天帝国がこの地上のすべてを版図とする。一千年の悲願である世界帝国の達成なるのだ。その日のため、我らはここにいる。機、到らば、敵の内部奥深くより狼煙をあげるために!」

 道士たちは両手を前へ合わせ、無言で深々と礼をした。

 そして影が行くように、一行は消えた。


 フローティアは混乱したが、彼らターティン人との関わり合いがもうこれ以上は無いと思っていたため、どうでも良かった。あの助けたがすぐ死んでしまったハンテールも、彼らの術による幻だったのか、はては本当に犠牲者なのか、確かめようも無い。リピエーナのいう通り、今は振り返っている時ではない。進むだけだ。

 街道を戻らず、自由都市モンテールを目指した。コルネオ山の向こうの平野部に比べて気候は穏やかとなり、気温も安定していたので進み易かった。三日も進むと、大きな川へ出た。何人かの行商人や役人が、やっと街道を彼女と共に歩きだしていた。しかし、モンテールよりやって来る者は一人もいなかった。フローティアは、その理由を知った。

 グライツェス川は、アデルナでも高名な急流で、川幅も二十リートはあり、天然の防壁となって城砦都市を古代より護っていた。したがってアデルナ魔導王朝時代よりこの川へ橋をかけることは禁じられており、それがいつしか橋をかけると災いを成すという迷信に取って代わり、現代においても橋はかけられず、そのかわり川渡しが名物となっている。

 渡し場は閑散としていた。二十戸ほどの集落があって、宿泊施設があった。旅人を泊める宿だった。地面はよく整備されていたが、雰囲気はどこか悪かった。人気がなく、ただ暑い日差しだけが降り注いでいた。集落より川までは四半刻も歩けば着き、川原沿いには無宿者が利用するような掘っ建て小屋も多かった。川は流れが速く、深く、よく泳げる者でも流されれば命はなかった。ましてフローティアは泳げぬ。

 「渡し」というのは船ではない。一種のロープウェイで、川の両岸に幾つも塔やうてなが建てられ、丈夫な綱がそれらをつなぎ、そこを滑車のついた箱というか、乗り物というか、それがつり下げられて行き来し、物資や人や、ときには家畜までも運ぶのだった。

 川の周囲はアデルナの明るい緑が取り巻いて、背の低い松のような木々がまばらに生えていた。川は急な土手が深くえぐれていて、川を直接渡るのは無謀に思える。フローティアは土手から下を見下ろし、ゴウゴウと逆巻いて流れる清流に驚怖した。ウガマールの河というものは、水は泥の粒子を含んでもっと黄色く、流れは沼のようにゆるやかで、幅は湖のように向こう岸すら見えないものだ。

 フローティアが渡しへ到着したのは午後の初めごろであったので、そのまま渡ってしまおうと人を探した。しかし、ロープウェイもまったく動いておらず、人のいる気配もなく、ただ空に雲がゆっくりと動いて、川の流れる音以外は閑寂としているのだった。そこへギャアと突然カラスの鳴き声がし、彼女が肩を震わせてその方向を見たが、鳥の姿はどこにもなかった。

 これ以上ここにいても仕方がないようなので、彼女は集落まで戻ることにした。小道を歩いている途中、一人の中年男とすれ違った。フローティアは渡し場の人間と考えて、声をかけた。

 「ああ、お客さん?」男は薄い作業着に身を包み、日焼けした肉体は筋肉質だった。無精髭の割に頭は額がずいぶん広がっている。

 「しばらく、渡しはでないよ。おれぁ、滑車の点検にいくだけだ」

 「出ないって………どうしてですか?」

 「役所の命令でね」

 「役所?」

 「モンテール市の交通局だよ。その出張所がここを管理してるんだがね、なんか、役人がいうにはね、二日前から上流に魔物が出ているそうで。危険だから、ハンテール協会から許可がでるまで渡しは中止だとさ。みんな知ってるから、街からもだれもこない。ま、魔物にゃかなわねえよ。命あっての物種だからね」

 「魔物って、なんの魔物でしょうか?」

 「しらないよ」

 「その出張所というのはどちらに?」

 「あそこだよ」男は、川の向こうを指さした。塔が立ち並ぶ合間から、森の隙間へうずくまるように石造りの建物の一部が見えた。

 「向こう側ですか」話も聞けないようで、さすがにあきらめた。

 宿場まで戻ると、適当に宿をとった。宿の中には、フローティアと同じく渡しを待っているものが何人もいた。みな魔物警報(彼らはそう呼んでいた。)が出たため、閉じこもっていたのだ。しかし、渡しを止めてしまうほどの魔物とは、いったいどれほどの怪物なのだろう。

 遅めの昼食と早い夕食を同時にとろうと、荷物を部屋へ置くとフローティアは一階へ降り、食事を注文した。アデルナという土地はこのような場末の飯屋でもウガマール人の感覚からすればかなり上等な食事が出て、フローティアを感動させた。アデルナの豊かさ、アデルナの大地の豊かさの証拠であろう。

 地鶏の炭火焼きを挟んだ厚い濃厚な味のパンのサンドイッチには、これもまた味の濃い地野菜のトマトと白チーズがイヤというほど挟んであったし、香草で風味をつけた新鮮なオリーブオイルも良かった。同じく地鶏ガラで出汁をとったスープは具が香草とソラマメ、タマネギ、ニンジンとポロ葱で、いわゆる野菜スープだったが、シンプルだが深い味わいが絶品。なにより、水みたいに飲まれるワインの全てが、ウガマールでは貴族がのむような高級品なのだ。アデルナのワインには等級があり、万とある銘柄の大部分がこのように水のように飲まれるふつうのものだが、けして不味いものではない。最高級な十二銘柄(すなわち都市国家ひとつにつき一銘柄)はさすがにウガマールでは入手できないが、いま彼女が飲んでいるようなテーブルワインでも「アデルナ産」というだけで高価なのだった。

 またここでフローティアはその線の細さに比べて尋常ならぬ量を平らげ、それらの他にもいろいろ小料理を注文して三人前は食べてのんだ。あまりに食べたので厨房から料理人が顔を出したほどだった。食事代は一アダーと十三アンダントで、財布からアレグロ金貨を一枚出して釣りをもらった。それから、給仕の若い女へそれとなく小銭をやって情報を仕入れた。

 「ここ最近は、軍隊が出るような強い魔物なんかまるで出なかったんですけども、何日か前から役所がいきなり魔物警報をだして、正式に軍隊が出動しんですけども、注意報じゃなくって警報は久しぶりで、みんな宿にひっこんじゃったんですよ」

 給仕はフローティアより年上だったが、話し方がやや舌ったらずで、フローティアは戸惑った。「警報ってことは、お客さん、すごい強くておっかない魔物が、すぐ近くに出たんですよ。でも、軍隊が来ましたから、まあ、あと少しで解けるとは思いますけどもねえ」

 「どんな魔物ですか?」

 「いやあ、そこまでは知らないんです」

 「ありがとう」

 「ごゆっくり」

 給仕は行ってしまった。フローティアが食後酒をゆっくりなめていると、ちがうテーブルより、旅人と思しき二人連れがやってきた。

 「お姉さん、どんな魔物が出たか、知りたいかね?」

 「あなたがたは?」

 「カルパスからの商人でさ。モンテールへ金物の買いつけに行く途中です」二人はいかにも話好きそうな感じで、杯とワイン持参で、やってきた。すでに少々酔っている。

 「なにせ、暇なもんでね」

 「お姉さんの、魔物退治のお話しも聞かせてくださいよ。退治屋さんでしょう? さきほど、お腰に剣があるのをみましたよ。お姉さんの話を聞く前に、珍しい魔物の話を聞かせてあげますよ」

 「上流に、なにが出たと思います?」フローティアは首を振った。

 「赤ドラゴンですよ」

 「ドラゴン………竜ですか」フローティアの意表をつかれた表情は、二人を満足させたようだった。

 「何年かぶりですよ」

 「本当にいるんですね」

 「おや………失礼ですが、どちらから?」

 「ウガマールです」

 「ウガマールには、たしか、灰ドラゴンがいたはずですがね」

 「とっくに絶滅しているのです」

 「へえっ。そうですか。アデルナでも確かに数は少なくなったようだが、いますよ。しかも人をよく喰うんだ。並のハンテールじゃ何人集まったってかないやしない。………あすこの連中のようなね」

 商人はこっそりと、眼で離れたテーブルで呑んだくれている数人の退治屋を指した。

 「軍隊が出たといっていたが、下手をしたら返り討ちだよ。むかしは、大戦当時ですがね、術を使ったり、話をしたりする竜族もいたということだが、それは伝説だ。魔導王と盟約を結んで、聖導皇家とも戦ったそうだが。いまいるのは、もっともっと下等な、野生動物ですよ。ただし、どういうわけか魔物のように火を吐くんだ」

 「魔物だよ、あいつは。どんな動物だって、ああなりゃ立派な魔物ですよ」

 「お姉さんもむやみに外に出て、食べられでもしたら損だよ」

 「そんな強いんですか」

 「強いとか弱いとか、そういう問題じゃないんだなあ。あいつらは、なんというか、この………とにかく、危険なんだ。いろんな意味でね」

 「警報が解除されるまで宿にいるのが賢明さ。そこらの退治屋じゃ、まず手に終えないんだからねえ」

 「おい!」振り返って、商人たちは息をのんだ。さきほど、彼が目線で指した向こうのテーブルの退治屋たちが、いつの間にかこちらへ来ていた。その渋い面相から、機嫌が悪いことが伺われた。

 「だれが、そこらの退治屋だと、あ?」

 「いや………その」

 商人たちは、一気に酔いが醒めた。

 「ドラゴンごとき、なんだっていうんだ」

 「おれらはなあ、ただなあ、軍隊がでるっていうし、だれも依頼して来ねえから、しょうがなくひっこんでるんじゃねえか。それをなんだと? おれたちじゃドラゴン退治はできないとでもいうのか?」

 「いいえ、なにもあたしたちは、旦那がたのことを云っていたわけじゃあ………」

 「ああ? ああッ!? じゃあ他にだれがいるっていうんだ、このやろう、ああッ!?」

 「だ、旦那、ちょいとばかし、酒が悪いようで………」

 退治屋の一人が赤ら顔で、商人の胸元をつかみあげた。

 「てめえ、こら、だれが魔物を退治してやってると思ってるんだ。おれたちじゃねえか。こちとら、いのちがけでやってるんだよ。そのおかげで、てめえらあきんども、マヌケ面で街道を歩けるんだろ? ああ!? ちがうのか!?」

 「ごもっとも、ごもっともでございます」

 「いや、旦那がた、いまのところはひとつ、これでご勘弁を」相方が素早く、アダー銀貨を一枚ずつ握らせた。五人だから五アダーだ。

 「ふん」

 退治屋たちは、またフラフラと席へ戻った。商人たちはバツが悪そうに、部屋へひっこんでしまった。「ちょッ、大損だ………」

 フローティアは呆気にとられ、それらを見ていた。

 「口は災いの元だわ」自分も気をつけようと心に誓い、酒の続きをはじめた。

 「ドラゴンにご興味が?」次に話しかけてきたのは、フローティアと同じ外国人だった。

 「えっ、あ、いえ、別に興味というわけでは………」

 「ウガマールからの旅で?」北方の訛りがあった。ストアリア人だろう。軍服のような制服を着込み、帯剣していた。装束は高級将官のものであり、騎士だろうか。

 「はい、モンテールに」

 「では、ハンテール?」

 「見習いですが」

 「左様で」席に着いた中年の剣士はフローティアへ酌をした。「では、早くモンテールへ渡りたいでしょう」

 「ええ、そりゃ、まあ」剣士の視線が、素早く黒剣を確認していることには、フローティアはまったく気づかぬ。

 「実はわたしは、独自のツテで渡れるのですが、あなたもどうですか?」

 「えっ」フローティアの顔が上がった。「本当ですか?」

 「その代わり、よろしかったら、わたしの仕事を手伝ってくれませんか」

 「仕事? どのような?」

 「ドラゴンの調査ですよ」

 「ドッ………」フローティアは杯を持ったまま、固まってしまった。ハンスと名乗った剣士はストアリアの騎士階級の者であること。なにやら、ストアリアの大学の調査に随行してアデルナへ来ていること。先日よりここら一帯を見て回っていたが、モンテールへ戻る前にドラゴンが現れ、川が封鎖されてしまったこと。出没したドラゴンを調査し、報告する必要があること、などを語ったが、フローティアはぜんぶ聴いているようで耳から耳へ抜けていた。

 「ドラゴン………?」

 半ば呆然としつつ、ただ、うなずいた。


 その日も、朝から快晴だった。湿度は低く、気温は高かった。アデルナ蝉は何種類もがどこにでもいて、フローティアは耳がどうにかなりそうだった。こんなに大きな音をだす虫は、ウガマールにはいない。グライツェス川にそって林を歩き、上流をめざした。ハンスは木漏れ日と草いきれの中で、歩きながらドラゴンの講義をはじめた。

 「………ストアリアは、別名、重竜帝国、すなわちシュベーアドラゴナルライヒと呼ばれているように、ドラゴンがたくさん生息しています。研究も盛んだ。彼らはそもそも我々と同系統の生物かといえばそうではない。しかし、マンティコアのような、まったく魔術で合成された魔物かといえば、それもまた必ずしもそうではないのです。おそらくこのアデルナのガリアンと似たような進化の軌跡を辿っているではないかというのが、最近の定説です。ストアリアではいくつかドラゴンの化石も出ているし、その祖先のものと思われる化石も出てきている。これは重要です。ストアリアこそが、世界のドラゴンの発祥の地なのです。彼らの最大の特徴、つまり、我々の系統の生物とまったく異なる特徴は、背中の翼手が、腕や肋骨と連結しておらず、まったく独立して存在しているという、六肢構造骨格であるという点です。これは、自然界の現世生物では、ドラゴンだけが有する特徴です。かといって彼らは虫かというとそんなわけはなく、まあトカゲに近い生物です。鳥や、ドラゴンとは似て非なる翼竜・飛竜のたぐい、コウモリ、彼らはみな腕が翼です。また肋骨が発達して翼を構成し、滑空するトカゲも知られています。南方で発見されている。フローティアさんが住んでいたという、ウガマールの奥地にもいたはずです」

 「えっ、ええ、まあ………いたような」フローティアはぜんぜん聞いていなかった。いや、途中まで聞いていたのだが。どうにも話が小難しい。彼女の頭脳では情報を整理しきれぬ。

 「だから、ドラゴンは自然生物であるという説と、魔術による合成生物であるという説が長年対立していました。ストアリア学会だけが自然生物説をとっていました。しかし、いまから二十年ほど前、ストアリア西部ですばらしい化石が発見されました。コエルロサウラヴィスと名付けられたその小さなトカゲは、なんと背中に二対の帆のような翼を持っていたのです! それは肋骨とつながっておらず、完全に独立したもので、その帆のような皮膜より、翼が進化したのでしょう! これは革命的な大発見です。その後、各国のドラゴン研究家たちの間でも、徐々にドラゴン自然生物説を支持する学者が増えてきています。もっとも、その化石自体を偽作されたもの、つまり捏造であると主張するやからもいますが、我々はそれらの仮説をさらに強固な説とするための調査隊の研究員であると同時に、護衛なのです」

 いまが歩いている最中でなく、例えば机の前での講義だったならば、フローティアはまったく舟を漕いでいただろう。

 ハンスは楽しげに話を続けた。

 「ストアリアはドラゴンの楽園です。皇室ハイゼルヴェンシュタウフェン家の紋章も、もちろんドラゴン。北部山岳地帯に白ドラゴン、南部湿原地帯に黒ドラゴン、中部草原地帯に草ドラゴン、西部海岸地帯には南北に別れて海ドラゴンが三種類生息し、それぞれ厳重に保護されています。昔に比べて、さすがに激減していますのでね。大戦当時の十分の一ほどになっているとされています。ルーランドとの国境付近に広がる森林地帯にはルーランド青ドラゴンもいます。アデルナ赤ドラゴンの目撃例だってありますよ。彼らはどうやら、渡りをするらしいのです。もしくは、縄張りがとても広いのか。帝国博物院では、それらのストアリア類ドラゴンの他、ターティンやカンピ島の長(なが)ドラゴン類の大きな標本………これら長ドラゴンはストアリアのドラゴンとはまったく別種で、すばらしく美しいのですよ。現地では水や逆に日照りの神として崇められている。………それに、絶滅したウガマール灰ドラゴンの貴重な骨格標本も蒐集してあります」

 フローティアは話を変えた。たまらぬ。「ところで、調査は良いとして、襲われたらどうするのですか」

 「逃げますよ」ハンスは笑った。フローティアは笑えなかった。「逃げる!?」

 「煙幕をたきます」ハンスは振り返り、マントの下、腰のベルトについている陶器の玉を見せた。四つほど、紐で縛られている。

 「ストアリア竜使い特製の、ドラゴン花火です。連中が酔っぱらう特製の薬草配分になっていて、この煙を吸うと、やつらはぼやぼやするんです。その隙に一目散というわけです」

 「ホントですかあ!?」

 フローティアは立ち止まってしまった。「それに、ドラゴンは火を吐くと?」

 「ええ、吐きます! 腹に可燃性ガスの袋があってね。また、喉のあたりに発電細胞があって、火花を散らして発火させているらしいのだが、くわしくは分かっていない。ガスもどうやって発生させているのか不明。食物を発酵させているのか、ガスの材料を特別に食べているのか。体内で合成しているのか。死んだドラゴンのガス袋の中は、常にカラッポなのです。だから、体内で合成しているという説が、いまもっとも有力です。もしかしたらガスではないかもしれない。なんにせよ、魔力でなく生体的な機構で火を吐く連中は、ドラゴンだけだ。もしかしたら、昔、魔術でそのように改造されたのかもしれませんがね!」

 フローティアはドニゼッティがマンティコアへ向けて炎を吐きつけたのを思い出した。彼女の想像によれば、ドラゴンは小屋のように大きい。それが吐く火となれば、たぶんすごい量にちがいなかった。山火事にでもなったらどうしよう。

 「なんであたしはここにいるんだろう? そんなに自分一人だけ特別に川を渡りたかったのだろうか?」自問したが答は出ぬ。

 ハンスは森の奥へ行くほどに、嬉々として、足どりも軽くなっていた。逆にフローティアはどんどん重くなっていた。

 「おっ、滝だ!」木々の合間より、水しぶきをあげる白い帯が見えた。「こんなところに滝があったなんてね、フローティアさん。降りてみましょう。道はないかな。赤ドラゴンが隠れていたりしてね、ハハハ!」ハンスはあくまで上機嫌だった。まるでピクニックに来ているようだ。

 「ドラゴンマニア」フローティアは舌を出し、天を仰いだ。ここまできては仕方がない。一人で戻っている最中に、それこそ赤竜に遭遇してはたまらぬ。あとに続いた。ハンスは草をかきわけて、土手を降りていった。急流もここは流れがややゆるやかで、川原が広がっていた。川幅は広く、川底は深く、緑に光っていた。大きな魚が住んでいるようで、ときおり魚鱗が輝いた。

 「赤ドラゴンはふだん鹿や熊、野牛、猪なんかを襲っているのだが、たまには、あんなのも食べるようなんだ。大きなマスかナマズの一種でしょう」

 「そして人間もですか」

 「いまは好んでは襲わないのじゃないかな。昔は、それこそ、村ごと全滅したという話もあったようだけれど」

 皮肉も通じぬ。ハンスは慎重に川原を歩いた。滝音がドウドウと腹へ響いた。水しぶきの甘い匂いが漂ってきて、心なしか気温も低かった。滝の音以外は、静まり返っていた。ハンスは、滝よりも周囲の森が気になるようで、何度も見回していた。フローティアは滝の中にただならぬ気配を感じ、足がよく動かなかった。

 「ハ、ハンスさん、おかしいですよ、ここ………戻りましょう」

 「この雰囲気が分かりますか。いい感覚を持っていますね」

 ハンスはフローティアを手招いた。フローティアはあわてて近づき、川原の石につまずきながら、マントにしがみついた。ハンスがすぐに身をかがめて歩きだし、川原を横切って土手に近づくと、そのまま木や藪に隠れながら、滝へ近づいた。とたん、滝の奥より水の落ちる音よりも太く、突き刺すような、地響きのごとき低音と金切り音みたいな高音が混じった独特の吠え声がして、水を割って大きな生き物が飛び出てきた。滝の中ごろの裏に洞窟があって、そこから出てきたようだった。ハンスは「やった!!」と叫び、フローティアは恐ろしさと美しさで声もなかった。

 アデルナ赤ドラゴンだ。

 背中は真紅に鱗が輝き、背にそって生える黄色と白の長い毛が水に濡れて光っていた。鋭い刺のような背びれが三列に並んであった。腹は白銀で、装甲のようだった。その生き物はいったん滝壺に落ちて、悠然と長い首をもたげて泳いだ。後頭部に大きな二本角があり、顎や首の回りに細かい刺がたくさんあった。鼻面が長く、フローティアは即座にウガマールのワニを思い出したが、それよりは太く、嘴のように縦に幅広く短かった。頑丈そうな顎は、彼らが魚食ではなく主に肉食であることを意味していた。眼が大きく、よく動いていた。瞳は丸く、美しい青だった。ドラゴンは向こう岸の川原へ上がり、たたんでいた背中の翼を開いた。独特の形で、コウモリと翼竜の中間のようだったが、昆虫の羽根にも見えた。複雑に折られた帆にも思えた。半透明で、黒と黄色の見事な模様があった。「オスです」ハンスがささやいた。「翼に独特の斑紋があるでしょう。メスには無い」胴体が酒瓶のように太い。後脚が大きく、脛の長い鳥脚状。爪先立ちに前傾で、二足歩行。足の爪は前三本、後ろにわずかに二本と巨大な蹴爪が見えた。尾は長くしなやかで、バランスをとるためにまっすぐ後ろに伸びていた。前脚も太く、六本の指があった。ただし小指の外にある六本めは、後ろ足の蹴爪のような、刺状の爪だけだった。全長は十リート以上あるだろう。家どころか要塞ですら突進するだけで壊して行くようなパワーをその身に秘めていることは、容易に想像できた。そして口から火をごうごうと吐くという。通常の、魔物とか怪物とかという概念を超越した神秘的な力と恐怖を秘めていた。「あんなのに襲われて、どうやって生き延びればいいのか」フローティアはあらためて震え上がった。

 「飛びますよ」

 身を震わせて水を払うと、翼をさらに大きくひろげ、見事な赤ドラゴンは羽ばたいた。頑丈な後ろ脚で川原を蹴り、巨体がぐうんと中に浮いた。ガクンと一回失速したが、腹を震わせると、ウソのようにふわりと浮いて、風に乗った。

 「腹のガスが浮遊性なんだろう!」ハンスは藪から飛び出た。フローティアは驚いて叫んだ。

 「見つかりますよ!」

 「だいじょうぶですよ。アッ」

 ハンスは急に立ち止まった。そして、ザバンとドラゴンの水に落ちる音がした。

 「射て! てェ!」

 向こう岸の土手の上から、巨大な攻城用の弩が放たれた。人ほどの長さのある大きな矢の先には鋼鉄製の鏃があり、綱がのびている。車体に載せ、人馬で運ぶのだ。片岸に並んで四基、配列され、木々で隠されていた。その一発目を、ドラゴンは土手っ腹にくらったのだ。(しかし、よろめいただけだった。)

 「あんなものをわざわざ運んでいたとは。モンテール軍もご苦労なことだ。ここにドラゴンが隠れているというのを見抜いたのはさすがだが………あの成獣を相手にするには、数も足りないし大きさもまだだな」

 「あれより大きな弩でないと、歯がたたないのですか?」

 「あれより大きいと、その前に当たらないのだがね」ハンスは眼が輝いていた。フローティアは泳いでいた。

 残りの三発が、すべて川面めがけて発射された。綱がひゅるひゅると舞い、やがて、滝の音が戻ってきた。そのとき、赤ドラゴンが水中より直接、宙へ踊った。さっきまで青かった眼が、己の体躯のような赤に光っていた。

 「怒ってるぞ!」

 水しぶきを振り払いながらグンと急上昇し、急下降、木を押し倒しながら、あわてふためく兵士たちの陣中へ降り立った。背筋も凍る咆哮。あとは、土手の上は地獄。尾を振ると弩が車体ごとひっくり返って崖より転げ落ち、ジギ=タリス製槍剣の攻撃をものともせずに手で屈強の魔物退治専門兵を薙いだ。鎧通しのごとき牙にくわえられた兵の悲鳴が、山中に響いた。

 「退け、退けえ!」

 ホルンが吹き鳴らされた。「遅いね」ハンスが呟くのと同時に、紅い光が土手の上に光った。火を吐いたのだ。「ぎゃあ!」何人かが火達磨となり、川原へ落ちてきた。赤ドラゴンは怒り狂って、そこらじゅうに火を吹きつけた。しかし、一回に吐く量が少ないのか、木々には、あまり燃え移らないのだった。

 ハンスの、ドラゴンを見る眼は、まるで芸術品でも見るかのように惚れ惚れとしていた。フローティアは、今後、二度とあんなものにお目にかからないようにというのが、顔に書いてあった。ドラゴン討伐隊は、瞬く間に全滅したようだった。ハンスが振り返り、肩をすくめた。フローティアは怯えた瞳でそれを見返した。

 「あっ、ハンスさん、あれは………」

 それはフローティアが発見した。最初、カラスかと思った。滝の上空から、黒い鳥が飛んできた。それはものすごい速度で近づいて、滝の真上で旋回した。

 「あれは………」ハンスもさすがに絶句した。「黒ドラゴンじゃないのか?」

 赤ドラゴンより一回り小さく、細身の身体。ただし尾は長く翼が大きい。長い毛に全身がおおわれ、背も腹も角も翼もすべてが漆黒。まるで影が飛んでいるような印象を与えた。

 「こんなところにどうして?」

 「知りませんよ!」フローティアはドラゴン同士がケンカをはじめたらどうしようと思った。黒ドラゴンは上空を大きく旋回し、独特の声を発した。それは山間に響きわたり、フローティアは驚きと共に聴き入った。トゥロロロロロ………と澄んだ音色で、楽器のように倍音をよく含み、とても心地よかった。まるで語りかけてくるように抑揚があり、長短のはっきりしたシグナルを形成していた。飛んでいることで空気をとりこむ不思議な管楽器のようだった。フローティアは、一度聴いただけでその音色が耳から離れなかった。黒ドラゴンは誰に話しかけているのだろうか。それは赤ドラゴンとしか考えられまい。

 しかし、赤ドラゴンは、上空の黒を意識もせずに、まだ人間が残っていないか慎重に周囲を探っていたが、やがてぷいと顔をそむけ、歩いて森の奥へ行ってしまった。そして、鳴き声がぷつりと止んだので上を見上げると、黒ドラゴンも、忽然と消えていたのだった。


 あれほどはしゃいでいたハンスが、帰りは黙然と歩き、人がちがったようだった。フローティアは生まれて初めて見たドラゴンという魔物の衝撃に、頭がクラクラしていた。さしもの黒剣があっても、あのドラゴンだけは、いかんともしがたいと思った。二人は無言のまま宿場まで帰り、宿へ入った。別々に食事をとり、最後まで口をきかなかった。

 翌日、支度をして食堂へ向かうと、ハンスがいた。挨拶の後、「フローティアさん、渡しがでるようですよ」という。

 「ドラゴンがいなくなったのですか?」

 「うん、まあ、そうとしか考えられないがね………」

 いなくなったといっても、あんな街の近くで大暴れしたドラゴンが、急に山脈の奥地へ戻ったとも考えにくい。また、二匹目の黒ドラゴンもいたではないか。

 「意外と簡単に、警報とやらが解除されるのですね」

 「まあ、役所のすることだからね。その基準は、よく分からないですよ。………ところで、見習いハンテールのフローティアさんがモンテールへ行くということは、もしかして資格をおとりに?」

 「はい」フローティアは朝食のセットを注文した。「ハンテールの師匠のツテとかは、おありですか?」

 「いいえ、適当に探そうと思っています」

 「それはいけません」ハンスは食後のコーヒーを飲みながら続けた。それは、フローティアにとっては懐かしい、ウガマール産のコーヒーだった。ただし、輸出用の高級品である。「私はハンテールではないので、あなたの師匠となるのは無理ですが、知り合いにちょうどよい人物がいる。ストアリア人ですが、腕が立ち、アデルナ歴も長い。なにより、魔物退治の履歴がちがう。ストアリアでも名うての、ドラゴンの退治人ですよ。もしよろしければご紹介を」

 フローティアは素直に驚いた。「それは有り難いですが、渡しといい、どうしてそこまで私に便宜を?」

 「いわゆる、これも何かの縁というやつです。私はあなたに興味がある。それだけです。貴族の道楽とお思いください」ハンスは、本当に特に他意は無いように見えた。むしろ、断ったほうがストアリア軍の不気味な影が見えてくるような予感がしたので、それを快諾した。

 ハンスは満足そうだった。


 半刻後、二人は宿の前で待ち合わせた。魔物警報でずっと待たされていた人々はすでに、渡し場へ急いでいた。

 川原は、人でごった返していた。向こう岸も同じだった。あの静まり返った宿場のどこにこんなに人がいたのだろうかとフローティアは驚いた。商人がほとんどだったが、観光客や、退治屋も少なからずいた。みなお目当ての「渡し」の前に並び、順番を待っていた。渡しは十基ほどあって、ひっきりなしに往復して人や物を運んでいた。主に人力で(中には風車や馬の力でカーゴを動かすところもあった。)動いていた。だいたい、一回の渡しが一アダーなのだった。

 「高いよ!」

 そう叫ぶ者もあちこちにいた。一アレグロもあれば庶民が一か月は暮らせるのだから、その四半分は確かに高いかもしれない。

 「勝手に川を渡ったら犯罪だぜ、渡れるものならな! 税金が高いんだからしょうがないだろう!」

 そう反論する渡し主もいた。税金が高いのか、役所への付け届けが高いのか、よく分からないとフローティアは思った。どちらも大して変わらないだろうが。しかし、混み合っている、とある行列の前でハンスを見た渡し主が、驚くべき行動にでた。

 「さあ、ストアリアの旦那はこちらで!」

 ハンスは悠々と行列を抜いて(フローティアは驚きつつ、申し訳なさそうにそれへ続いた。)先頭へ来ると、やっと乗れると思っていた商人の三人連れを押し退けて、カーゴ搭へ入った。二人が入ると、渡し場の若い職員が、入り口へロープを張った。

 「おい、どういうことだ!」という声が上がったが、ほとんどの者はこの理由を知っているようで、声を出した者も仲間にたしなめられ、奇妙な無言と視線だけが場へ漂った。二人は階段を登り、搭の上まで来ると、カーゴの前へ立った。

 「おいくらですか」フローティアが料金を払おうとしたが、渡し主が首を振った。「えっ」と思ってハンスを見た。ハンスはすでにカーゴの腰掛けへ何事も無かったように陣取っており、戸惑っているフローティアをちらりと見た。フローティアはとにかく急いでハンスの向かいに座った。「発車オーライ」渡し主がなんともいやそうな声を出して扉を閉め、搭の中へひっこんだ。ガタンと揺れて、カーゴが進んだ。滑車が回り、ロープが進んで、カーゴは急流の上を渡った。なんのことはない、あっと言う間にカーゴは川を渡りきった。途中で復路のカーゴとすれ違った。向こうのカーゴに乗っていた商人たちも、動揺したような眼で二人を見ていた。フローティアはなにか不気味に思ったが、ハンスは平然としている。カーゴは到着し、二人は降りた。反対岸の乗り場の職員も、二人を腫れ物にでも扱うような感じでさっさと塔から追い出した。ハンスは人々の視線をものともせず悠然と歩きだした。フローティアが振り返ると、渡し場の男が胸をなで下ろしているのが目に見えた。

 「ハンスさん、お金、いいんですか?」

 「いいんですよ」ハンスはそれだけ云った。グライツェス川を渡ると、もう、半日ほどでモンテール市へ到着する。街道は斜面が多くなり、山間にさしかかっているのが分かった。城砦工房都市モンテールは、アウラネード台地の中腹にあるのだ。旅人が訪れやすいよう、街道は山あいをジグザグに走り、ゆっくりと都市へ至っていた。人の数はいよいよ多くなり、やがて遠く緑と茶色に彩られた丘陵付近に、巨大な燕の巣のようなものが見えた。

 「モンテールですよ」ハンスが云った。

 「夕刻までには着くでしょう」

 「長かったなあ」

 フローティアの素直な感想だった。アデルナに来てより、何年も経っているような気がした。心なしか足どりも軽くなって、弾む息も流れる汗も心地よかった。途中に休憩所もたくさんあって、清水や乾パン、干しフルーツやフルーツのハチミツ漬け(疲れをとるために甘いもの)が売られていた。みやげ物屋もあった。何度か水や菓子を買って休憩しつつ、二人は歓談をしながらゆっくりと台地を登った。ちなみに水は大きなカップに一杯が五アンダントであり、ハンスの言によると市内の五倍の値段とのことだった。市内の値段とはもちろん「水道料」である。ここでは水は、ワインより高い。

 台地をのぼる道は、旅人が使う中央街道だけではなく周囲にもいくつか畝のような細い筋があり、農民が荷物を担いだり、この地方独特の山岳牛に台車を牽かせたりしてアリのように斜面を歩いていた。また、のぼる道とは逆に、台地のずっと東側の高いところから順繰りと降りてくる山道もあり、大量の石炭を積んだ台車が連なっていた。モンテールの支配する衛星都市のひとつに、アウラネード炭鉱街があり、千年前より石炭が露天掘りで掘り出されている。その様子はいまや、巨大なクレーターのようになって天をにらみつけていた。鉄鉱石やジギ=タリス石は、台地を超えた国境の向こう、ラズバーグの鉱山よりやってくる。

 やがて、日が山間に近づき、暗くなってくると共に巨大な釜を下側から見上げたような外壁がそそりたってきた。釜は石垣とレンガが組み合わさったもので、その表面には無数の窓が開いていて、地下の集落部であることが分かった。釜の奥や表面からは白い蒸気や黒煙がまるで釜を煮立てているように常に吹き出していて、工房独特の金属と火と煤の匂いが漂っていた。

 城門に松明が掲げられる前に二人は到着することができた。衛兵へ身分証明を見せ、入城許可証へサインをもらい、フローティアはモンテール市へ入ることを正式に認められた。


          3


 モンテール城の様相は、同じ都市国家でもコレッリとはまるでちがっていた。複雑な、迷路のような立体都市であり、門は釜の最底部にあるため、まず階段を登って地上の都市部へでなくてはならない。しかし地下といっても、大きく吹き抜けになっているところも多数あり、いまは夕暮れだから暗いのだが昼間は充分な明かりが注ぎ込むようになっていた。また、いたるところに照明用のランプが設置されていて、異様なほどの明るさで宵闇を切り裂いていた。フローティアには想像もつかぬことであったが、なんとそれは、ガス灯であった。巨大な石造りの基礎と壁が幾重にもなってモザイク状に全体を支え、そこから大きな木の梁や柱が幾何学的に合わさり、漆喰やレンガで補強されていた。通路と階段が入り乱れ、合間に人が住んでいた。居住区であり、倉庫郡や貯水タンクもあった。アデルナの全ての都市国家がそうであるように、モンテールも水道が完備されていた。台地の奥より涌きでる清水を蓄え、風車により汲み上げて縦横に送っているのだ。

 そうなると下水も必要となる。下水道が上水道に比べるとやや未発達ながらも整備されていて、裏道のさらに奥を通り、下部の汚水槽に貯められ、定期的に森の浄化用溜め池へ運ばれていた。都市の人口は六千人ほどで、汚水は生活排水と工房排水が厳格に分けられ、およそ三十の汚水槽が完備されていた。生活排水は森の池で発酵させ汚泥とし、農村部で肥料にされた。工房排水は専用の沼にためて金属の微粒子を沈殿させ、上水を台地の奥深くに流していた。いずれも、深い森があっての浄化装置で、旧アデルナ王国からの遺産に歴代の人々が知恵を加えたものだった。モンテールからの汚染が台地の下部を汚すと、その汚れがまた農産物や森を汚しモンテールへ返ってくることを、この工房都市の人々は千年以上の時の経験で充分に把握しているのだった。ハンスにそう説明され、泥水の大河になんでも垂れ流しのウガマールとは雲泥の差だとフローティアは感じ入った。

 長い階段をのぼると地上へ到り、そのまま表参道にでた。そこは通りの両側が一面の工房兼販売所で、奥に高い建物がいくつかあった。それは行政機構の集まる部分で、市役所や裁判所、都市軍の本部等であり、いまはもう明かりは消えていたが市役所庁舎正面の高いところには巨大な時計が埋め込んであり、モンテールの技術力を証明していた。それを正面にして左側は照明がふんだんに使われた強い光が、右側は照明というよりは炎の色が直接夜空に映っているように見えた。青地に金や銀で金槌をあしらった旗があちらこちらに立っている。そして、参道のほうはまるで祭がいま始まったばかりのような期待感と興奮があふれており、ざわめきが空気に満ち、ガス灯も勢いよく燃えはじめたばかりだった。店舗にはあらゆる刃物、鍋釜、器具に道具、日用雑貨、武器防具が山のように積まれており、それらを求める人間であふれ、その繁盛ぶりにはフローティアも驚いた。ウガマール首都ガルマン=ガルマスの市場においても、このような規模の金物市は無いだろう。

 「正面の役所を北にして、東側に主に工房や商社が、西側に旅人用の宿泊施設や高級アパートメントがあります。地下が、労働者用の安い住宅街になってるんです」

 ハンスがそう説明した。フローティアはとある刃物屋の前で、無造作に積まれたナイフや包丁に見入った。手にとってすぐ強盗に使ってくださいと云っているように思えた。

 「よく、犯罪がおきませんね」

 「なくはないですけど、みな、外部の人間ですよ。この街の人間は、自分たちで作った刃物や金物に誇りをもってますから。強盗するのなら、こん棒ですかね」

 そういうものなのかと、フローティアは妙に納得した。所が変われば人の考え方も変わるのだ。

 ハンスは参道の途中から脇へそれて小道に入った。この一角に、外国人用の高級アパート群があるのだ。急に暗くなり、ハンスは私を見失わないようにとフローティアへ告げた。フローティアは前をゆく緋色のマントと、腰の剣が鳴る音を頼りに続いた。石畳が常に湿っていた。狭い路地の両側にアパートが並び、その中であまり目立たない場所の某アパートへ二人は着いた。

 階段を上り、三階の角の部屋へハンスはフローティアを導いた。表札に、アデルナ語でこうあった。「Gワグネル」

 ベルを鳴らし、ハンスはあまり大きくない声で言った。

 「ハンスだ。ジーク、私だよ。開けてくれたまえ」

 「あいている」

 中から太い声が帰って来た。ハンスがノブをとると、その通り、ドアは開いていた。

 「不用心なやつでね」ハンスがフローティアへつぶやいた。

 部屋は明るく、ランプが三つも四つも置いてあった。玄関からすぐ居間のようになっていて、二人はそこへ入った。テーブルと、タンスと、あと隅のほうに(おそらく武具のたぐいが入っているであろう。)大きな櫃があった。また、ある一方には、床中に酒瓶が転がっていた。

 その男は、居間でテーブルへ無造作に座り、うまそうな茹でたてのソーセージとブロッコリーを肴にビールをのんでいた。中肉中背の、線の太い体つきをし、髪は黒かった。歳は、三十中ほどだろう。いかにも叩き上げといった雰囲気が漂っていて、貴族然としたハンスとは対称的だった。

 男は笑いながら「よお」と手をあげ、それから中佐殿、と云おうとし、目敏くフローティアを見つけた。「………ハンス」

 「久しぶりだね、ジーク。フローティアさん、こちらは私の知人でハンテールの、ジークです」

 「は、はじめまして」ハンスは緊張するフローティアへそう男を紹介し、それからハンスへフローティアを紹介して、いきさつを軽く話して聞かせると、フローティアへ椅子に座って待っているよう云い、うち合わせがあるといって二人で奥の部屋に入ってしまった。フローティアはまだ緊張しており、ぎこちない動作で椅子へかけると、室内を見回したり窓から外の通りを見下ろしたりした。部屋は殺風景で、人の住んでいるアパートというよりはなにかの事務所のようだった。通りから見る人々は夕刻だというのにランタン片手に忙しく歩き回り、たいていが職人と商人だった。特別な油でも使っているのか、ランプの光がとても光っていた。もう慣れたが独特の工場の臭気がこんなアパートメントにも充満していた。窓を開けようとしたが開けたら臭いが酷くなると気づき、やめた。扉の向こうではなにをうち合わせているのだろう。ノコノコとついては来たが、本当に大丈夫なのだろうか。ハンテールの師匠なのだから、人生を左右する。もっとちゃんと探したほうがよくはないのか。ところで、テーブルの上の茹でたてソーセージがとてもおいしそうだったので、思わずひとつつまんで頬張った。

 奥の部屋にひっぱってこられたジークは、不機嫌そうにその腕をはらった。杯のビールがこぼれてしまった。

 「いったいどうしたね、中佐殿」それはストアリアの言語だった。

 「ジークフリート ヴァーグナー中尉。どうしたもこうしたもない。黒ドラゴンが飛んでいた。どういうことかね?」

 ジークは太い眉をひそめた。「さあね。教授からは何も報告をうけていないが。ヨハネスは中佐殿の管轄だと思いましたがね」

 「そうかね。そうだとも。ヨハネスは私の管轄だ。だから聞いている。私の知らないことだ」

 「リヒャルトは?」

 「リヒャルトはいた。いたよ。美しかった。リヒャルトはきみの管轄だ」

 「いかにも」

 「ロジェストヴェンスキーは? 彼女はどうした? シュツルムフォーゲル曹長からは何も聞いていないかね?」

 「いない」ハンスは不機嫌となった。次はジークが尋ねる番だった。「それより、あの女はなんだ。おれにどうしろというのかね」

 「ウガマールから来た、ハンテールの見習いだと云ったろう。面倒を見てくれないか。資格をとらせてやってくれ」

 「なんだそりゃ」ジークは舌を出した。「なぜおれが。何度も云うが、階級は貴公が上でも組織がちがう。我々は帝国と皇帝陛下のために互いの任務を遂行し、お互いの利益のため協力しあっているにすぎない。本来ならば命令系統が異なる。貴公に指図されるいわれはない! 共同作戦中とはいえ、あまり無茶はやめてもらいたいものだがね」

 「分かっている。我々は、別組織の人間だ。そしてこのことは作戦とは直接関わりがない。きみは私の命令に従う義務はない。だから、その無礼な口のきき方も、今のところは不問にしておきたい! これは、命令ではなく依頼だよ、ヴァーグナー皇帝軍中尉殿」

 ジークの顔があからさまに不愉快にゆがんだ。ハンスの碧眼が、冷たく光っている。

 「………教授に報告するのか。許可がおりるはずがない」

 「あの剣を見たか! あんな古い特殊な剣を持っているなど、ふつうの人間ではない。それに、ウガマールにあんな人種はいない。乳白色の肌、妙な光沢を放つ黒髪に、藍碧の眼………」

 「テンシュテットと云いたいのか」ジークは笑った。

 「悪い冗談だ。テンシュテットの呪いだなどと。ソーデリアン? 黒い稲妻だなんて。伝説だ、神話だよ。確かに、うまく育てば、いいサンプルになるだろう。しかし忘れるなよ。どうなろうとおれの責任じゃないぞ。わかった。いいぜ。魔物を退治しながら、小銭でも稼いでおくさ」

 ハンスは満足したようだった。

 「ところで、こっちの剣はどうなったね」

 「三日前、試作品を持ってきたが、まだダメだよ。まだかかる」

 「発注先を変えたらどうかね」

 「いまから? むりだよ。それに」ジークの眼が、細くなった。「犠牲は少ないほうがいい」

 ハンスはそのジークの眼を見つめ、しばらく無言だったが、やがて何度もうなずいて、そのままフローティアの待つ居間へ戻った。ジークもあとへ続いた。

 「お待たせしました、フローティアさん」

 びっくりしてフローティアは固まった。最後のソーセージを口へ入れたところだった。

 「あ、あの、ふみまへん!」

 口中いっぱいにものを入れながら、赤面してそう言った。ハンスは呆れて絶句し、ジークは笑いだした。

 「気に入ったぜ、フローティアさんよ。よろしくな。このアパートの地下室に、空き部屋がある。安くていい部屋だぜ。日当たりは悪いがな………見習いにゃあ充分だ」

 「は、はい」

 「それから、その腰の剣は、観たところ特殊な剣のようだが、使用は禁止する」

 「えっ」

 「見習いにゃ不釣り合いだ」

 「えっ、あの………はい」

 フローティアは、震えがくるほど不安になった。黒剣が、放浪してより初めて、自分から離れるのだ。ジークの指示は続いた。

 「おれのことはマイスターとよべ。ストアリア語で、まあ師匠とか親方とかいう意味だ。マイスタージークだ。分かったな。代わりの剣はおれが用意してやる。なに、ジギ=タリスが三割もあれば上等だ。晴れてハンテールとなったら、自前の剣を使ってよし」

 その様子を満足げに見て、ハンスは挨拶を残して退室した。ジークはこのアパートの一階へ住む大家へ掛け合い、さっそく地下室を借りた。地下室といっても、地下室を改装した、ちゃんとした部屋で、ワンルームではあるがトイレとバスがついていた。キッチンはなく、食事は外食となろう。「こいつに剣を入れておけ」ジークがそう云って、どこからか木箱を出してきた。フローティアは黒剣をそれへ入れた。するとジークは蓋をしめ、なんと巨大な南京錠をかけてしまった。

 「これはおれが預かっておく」

 「ええッ!」

 「文句があるのか」

 「いえ、その、いちおう、それは家宝の剣なもので………すから」

 「師を信じられんというのなら、遅くはない。別なやつに師事しろ」

 「いいえ、けっこうです。マイスター」

 「明日からさっそく仕事だ」

 「仕事………ですか?」

 「魔物退治だ! おまえ、そのためにモンテールへ来たんだろうが?」

 「そっその通りです。来ました」

 「明日は六刻半(すなわち七時ごろ)に、玄関前で集合する」

 ジークはそう云い放つと、黒剣の入った木箱を持って出て行ってしまった。フローティアはそれを見送り、うすぼんやりと自分を照らす古いランタンを見つめ、室内をゆっくりと見回した。牢獄とまではゆかずとも、急に囚われの身となった気がした。のろのろと荷物を部屋の隅に置き、ベッドへ座り込んだ。そうすると今日の疲れが急に出てきて、肩や足が痛いことに気付いた。ブーツを脱ぎ、ベッドの下にあったサンダルのようなものへ履き替えた。マントをとり、壁のマント掛けへつり下げた。上着とシャツ、パンツは、バスルームにあった洗濯桶へつっこんだ。モンテールは城砦都市であり、アデルナの遺産である上下水道が完備されている。バスルームは石造りだったが、バスタブは木製だった。下水溝があり、ここしばらく誰も使っていないのか、乾いており、汚れも目立たなかった。トイレは水洗式だったが、水は自分でバケツから流すのだった。その水道は、バスタブの上に栓があって、それを抜くと静かに清水が流れた。表に井戸もないようなので、これが生活用水のすべてのようだった。ということは飲めるらしい。洗濯も、ここでするようだ。それにしても、ここの市民はずっと水あびをするのか。冬はどうするのだろう。ウガマールに冬は無かったが、アデルナにはあるということぐらいは知っている。コレッリのような、湯が用意されるようなものが彼女はとても気に入っていた。いろいろ見渡してみると、ルームの隅に木戸があり、開けると大きな器械が入っていた。煙突があり、なにかを燃す部分と、その上に釜のようなものがある。モンテール特製の「湯沸器」であることは、彼女にも想像できた。こんな地下で使えるのかどうかは別として、さっそくそれを引っ張りだし、バスタブの横へ設置した。それほど大きくもないし、鉄なのか何かの合金なのか、見かけの割にはたいして重さも無い。車輪と把手がついていて、女手でも簡単に動かせるのだった。煙突は合金を丸めてできており、細く、まっすぐに伸びて取り外しができるようになっていた。バスルームの壁の低い位置に丸い穴があり、そこへセットするというのは容易に理解できた。壁とバスタブに挟まれる形で湯沸器は設置され、釜の下に炭を入れる部分があった。これといっしょに置いてあった袋には木炭がたくさん入っており、中へ入れた。フローティアはそこでこっそり発火の呪文を唱え、炭へ火をつけた。発火の呪文は放火犯と間ちがわれぬよう、初歩技術ながら扱いが厳重注意の呪文だった。栓を抜いて水を出し、釜へとって火にかけた。同時に、バスタブへ水を張った。熱湯と冷水を混ぜて自分好みの湯を作り出すのだ。そして彼女がなにより感心し、モンテールの技術の高さを思い知ったのは、器械にはハンドルがついていて、それを回すと内蔵されている羽根が回り、二重構造の煙突から吸気と排気が同時にできるという構造だった。面白いように火がおき、すぐに釜の湯が煮え立った。火起こしハンドルとはちがう小さなハンドルを回すとゆっくり釜が傾いて、注ぎ口から湯がバスタブへ流れた。あとはそれを繰り返し、ほんの少しの燃料と四半刻強ほどの時間で、彼女が望んでいた温度と量の湯が、用意されたのだった。熾火でまだ湯を湧かしつつ、彼女は半身浴に近い形で汗をかき、とりあえず疲れを癒した。まったくこのアデルナ式のバスタブには、魅了されてしまった。香料入の石鹸や湯に入れる香材とかを買っておけばなお快適になるだろう。温まったのち部屋にあった洗濯用みたいな石鹸でかまわず髪と身体を洗うと、残り湯と釜の湯で流し、排水して入浴を終えた。ルームの上部には排気口もあって、地下だが湿気をよく逃すようになっているのにも感心した。もっともこの乾燥したアデルナの気候では、地下といえど湿気に襲われる心配はあまり無いだろう。

 ベッドのシーツや毛布も新しく(替えはないようだったので、これもあとで買ってこなくてはならない。)フローティアは水をきったタオルを部屋の隅へかけると全裸で横になり、シーツへくるまったとたんに、深い眠りに陥った。


 「おい、おきろ!! 初日から寝坊するやつがあるか!!」

 すごい剣幕で呼び鈴を鳴らす音と怒声にとび起きて、もう無意識に荷物から着替えを出しながら、フローティアは叫んだ。

 「ももも申し訳ありません、マイスター、ジーク!」

 「やる気がないのならウガマールへ帰ったらどうなんだ!!」

 「ただいま参ります!」下着をつけ、適当に替えのシャツとパンツへ手足をつっこみ、髪も適当にまとめると、顔も洗わずにドアを開けた。

 「顔ぐらい洗いやがれ!!」

 「は、はい、ただいま!」

 フローティアはひっこみ、バスルームで頭へ清水をかけ、タオルで水気をとり、カップで二杯水をのむと、取って返した。

 「おはようございます」

 「よし、今日からこれを使え」アパートの玄関前で、ジークは何事も無かったかのようにフローティアへ剣を渡した。ジギ=タリス含有率三割の対魔導剣だ。フローティアはそれを受け取ったが、あまりの重さによろめいた。この鋼にも匹敵する剣土が重い。すなわちジギ=タリスの含有率が低いほど重いのだった。

 「ふだんからぜいたくな剣ばかり使っているから、そういうことになるんだ。おれは、あの大きさでおまえが軽々と腰にぶら下げていることと、柄頭の特殊石を見て、すぐにあれが銘物だとわかったぜ。おそらくあれは古剣だな。そうだろう」

 「特殊石?」

 そのフローティアの反応を見て、ジークはきびすを返した。「なんでもない。いくぞ」

 剣を留め具で腰のベルトへ装備し、フローティアは続いた。重くて腰が曲がりそうだ。

 「あ、あの、私の剣の柄に、なにか宝石でも埋まっていましたか?」

 「ちがうちがう、ジギ=タリスの原石を加工したものが取り付けられていて………もういい、そんなことより、あんな剣を軽々しく腰につけて歩いていると、いろんなヤツに眼をつけられる。気をつけるんだ」

 フローティアは意味がわからなかった。

 早朝ということもあり、夕べとはまったくちがう雰囲気が通りを支配していた。人気はなく、空気も心なしか澄んでいた。しかし、某かの配達人や、工房の弟子たちがすでに忙しそうにはたらいている様子を、あちこちで見ることができた。ジークは路地を幾つも通りすぎ、角を曲がって、裏道を選んで歩いた。この道をまず覚えることが、自分の最初の仕事であるとフローティアは思った。「ええと、どちらに」そっと尋ねてみた。「仕事の紹介所だ。仲間を探す」割と気安いふうで、ジークは答えてくれた。

 「カルパスあたりじゃハンテールの商会や結社、それに個人事務所が多くて、客のほうから魔物退治の依頼がくるんだ。それだけあそこは、魔物が多い。ここはそうではなく、退治屋の方から仕事はありませんかと職探しにいく必要があるということだ」

 それは、街の北の端にある官庁舎の近くにあった。役所のひとつだという。正確には、モンテール市退治依頼紹介局というらしい。ここへ市民は魔物退治の相談をして、退治屋を紹介してもらったり、退治屋が逆に依頼者を紹介してもらったりしている。

 歩きながら、ジークはこれからの日程を確認した。「いいかね、ハンスの紹介だから引き受けたが、おれは他に仕事を抱えていて忙しい。今の仕事に助手もいらないし、本当なら、弟子なんかとっている場合じゃないんだ。だから、資格はあっという間にとらせてやるぞ。ただの一回の退治でな」

 「えっ、そんなことができるんですか?」

 「できるさ」ジークは笑った。「大物を退治すればいいんだ」

 「おっ………」フローティアは、とてつもなく嫌な予感がした。動揺で足がもつれそうになりながら、声をかけた。

 「あ、あの、マイスター。それは、いったいどのような大物で………」

 「いま、すごいやつが現れているだろう。ハンスから聞いたが、都市軍が全滅したんだって?」

 「ぎええ!!」それは心の叫びだった。血の気が下がった。この師匠はいったい何を云い出すのか。

 ショックで手足が震えた。「す、すみません、ジークさん」

 「ジークさんとは何事だ!」

 ジークは振り返った。フローティアが立ちすくんで震えていたので驚いた。

 「おい、どうしたね」

 「すみません、わたし、弟子をやめます。あのドラゴンだけは、とてもかないっこありません」

 「おいおい、なんだ、どうした! ドラゴン退治といったって、べつにあんたに戦えと云ってるんじゃないよ。おれはストアリア人だぜ? ドラゴンの恐ろしさはよく知っている。あんなのはな、正面から剣を振り回してどうにかなる相手じゃないんだ。ハンスだって、ドラゴン花火を持っていたろう? しかも逃走用にだ。つまり、我々がすることは、ドラゴン捕獲調査の手伝いというわけさ」

 ジークはフローティアの肩を力強く叩いた。

 「安心したか?」

 「………ええ、はい………少し」それはウソだった。少しも安心していない。手伝いといって、まさか囮になれというのではないか。

 「そ、その手伝いだけで、資格がとれるのですか?」

 「退治にゃ変わりないからな。いいか、殺すだけが魔物退治じゃない。退治にもいろいろある。覚えておけ。金儲けのコツだ。命あっての物種だろう? 栄光を優先して死を選ぶなどというのは、時代後れのすることだ。大戦当時の夢物語さ。さ、行こうじゃないか。紹介局が開く時間だぞ」

 ジークはふたたび歩きだした。フローティアは口をとがらせていたが、意を決し、後をついた。ジークは鼻唄をうたいながら、混み合ってきた通りを、人をかき分けて進んだ。


 紹介局は合同庁舎の一階にあり、すでに開いていた。二十人ほどのハンテールやその見習いが、窓口で係員の説明を聞いたり、壁に貼ってあるチラシへ眼を通したり、依頼人と役所立合いの元に交渉したり、情報交換をしていた。ジークはフローティアを椅子に座らせ、窓口で役人らしき壮年の男性と話し込み、書類をもらい、戻った。

 「既に集まっているようだ。数人、探していたんだが、三人もおあつらえ向きのが見つかったぞ」

 「なんの話ですか?」

 「ドラゴン退治だよ」ジークは会議室の一室に入った。既に、待ち合わせの人物達がいた。「はじめまして」リーダーらしき女剣士が席を立って挨拶をした。三十前後の、背が高く、赤髪で、同じく緋色の軽装備をした、手練のハンテールのようだった。残りは仲間というか部下の、男のハンテールだった。

 「キャスリーンだ。こっちは、ジョルジーノとセッコ」

 「私がジークだ」二人は握手をした。「これは助手のフローティア」

 「よ、よろしくお願いします」フローティアも手を出したが、無視された。

 「さっそくだがね、ジークさん。ドラゴン退治というのは、本当なのかい?」

 席に着き、打ち合わせが始まった。

 「ああ、本当だ」

 「成功報酬で、一人につき五十アレグロというのは?」

 「それも本当だとも。ドラゴンだぞ?」

 ジョルジーノとセッコが顔をほころばせて眼を合わせた。キャスリーンも明るい。

 「あたしたちを、ぜひ使ってくれないか。役に立つよ。ドラゴンを退治するのは夢だったし、飛竜なら、何度か退治したことも!」

 「まあ飛竜とドラゴンなら、カラスと怪鳥ほどの差があるがね」とは、ジークは心の中の声としてすませておいた。「それは頼もしい」と愛想笑いだ。フローティアはそんなジークの態度を見抜き、ますます不審に思った。

 「なるほど、囮はこっちか………」フローティアも声には出さなかった。

 「もし良かったら、前金で十、払うぞ」ジークは気前よく、金貨を机の上に出した。キャスリーンは三人分、三十アレグロを受け取った。契約成立だった。書類にサインし、三日後の待ち合わせ場所を打ち合わせた。「あと一人、案内人がつくから、ドラゴン退治の護衛は全部で五人だ」

 「了解だよ。………ちょっと待った、退治の護衛ってなんだい」

 「ストアリアの調査隊が捕獲調査して、山へ逃がす。その護衛だ」

 「やっつけるんじゃないのかい」

 「やりたかったら止めはしないがね。薦めはしないね」

 キャスリーンは片眉を上げ、肩をすくめた。

 「まあいいさ。現場では従うよ。しかし、相手はドラゴンだ。自由戦になったら自衛のため勝手にやらせてもらうよ」

 「ご自由に」

 一行は別れた。

 不安で、フローティアは泣きそうだった。

 「連中は何も分かってない………。無理もないがね。いいか、調査が終われば山へ返す。ドラゴン使いがいるからな。結果としてドラゴンがいなくなれば、それも立派な退治だ。殺す必要は無いし、あんなものは殺せない。三日後、朝の六刻にアパートの前で集合だ。それまで自由行動。おれはまだ用事があるから、一人でアパートに帰っていろ」

 「はい、マイスター」ジークは庁舎の前でフローティアと別れ、何処かへと人込みの中へ消えていった。フローティアは街の大通りを歩いて、生活雑貨より、やはりいろいろな珍しい武器や防具の数々を見てまわった。剣やナイフにも大きさやタイプがあり、用途によって変わるのだった。ナイフは戦闘用から日常品まで、じつにさまざまな種類があり、百種類以上は最低でもあった。武具は、幾種類もの穂先の槍や、薙刀のようなもの、斧、弓、見た事もない鎖の武器、メイスと呼ばれる戦闘棍、棒から鎖がのび、その先に刺のついた鉄の球や棒があるもの。それは、元は脱穀用の農機具で、鎌と同じくそれが武器へ転用されたものだった。楯に鎧もさまざまで、それになんといってもジギ=タリス。ジギ=タリス武器は、やはり値段は数倍に跳ね上がった。魔物を倒す以外にはあまり役にたたないので、ハンテールだけが買い求める。実戦用から装飾用まで、幅広い品揃えだった。フローティアは時間も忘れて、通りを隅まで見に行って、往復して反対側の店をすべて見た。それから他の通りで衣料雑貨やワインを買い込み、屋台で適当に食事をした。役所の大時計が暮れ六刻(午後の五時ごろ)を打ったので、アパートへ戻った。


 フローティアが表参道での見物を終えたころ、ジークはハンスを訪れていた。ハンスはストアリアの学術調査隊の一員として、とある高級ホテルへ泊まりつつ、モンテール市役所の一部を借り受けて仕事場としていた。ジークは誰かに尾けられていないか慎重に路を選んで、やがて役所の裏口から入ってハンスを尋ねたのだ。ハンスは自室にはおらず、一室で、なにやら採集した標本を観察していた。学者やその助手たちがそれらを並べ、克明にスケッチしながらメモを取り、寸法を測っているのを嬉しそうに眺めていた。「中佐、クーゲルシュライバー中佐」ジークの低い声を聴き止め、ハンスは部屋を出た。二人は廊下でぼそぼそと話し合った。

 「どうだったね、ヴァーグナー中尉」

 「五人ほど集まりました」

 「それはフロイラインフローティアも含めてかね?」

 「はい」

 「何人生き残ると観る」

 「まあ、二人がいいところでしょう」

 「きみも含めてかね」

 「そうです」ジークは眼を細めた。ハンスは満足げに何度もうなずいて、廊下の窓から外を眺めた。

 「九月までには、我々もカルパスへ行く。それまで、せいぜい活きのいいハンテールを見繕っておくことだ」

 「分かっています。私の『リング』も、それまでには」

 「アレは今作戦の要だ。教授も期待しておられる。うまく試験できたら、量産も視野にいれる。テスト騎士として、よろしく頼むよ。ヴァーグナー中尉」

 「かしこまりました、中佐殿」

 ハンスは、ジークが厭味たらしく上官へ云うような物云いだったのに気づきもせずに、再び標本室へ戻った。ドアの隙間から中が見えたが、ジークはもう見まいと顔をそむけた。部屋の中で台の上にゴロゴロ転がっている標本というのは、明らかに真新しい人間の頭蓋骨であった。

 「口癖ばかり教授に似やがって」ジークは何度も舌うちし、役所を早々に出払った。


 当日の朝、フローティアは準旅装でアパートの前にジークよりも早く立って待っていた。ジークは満足げにうなずき、出発した。紹介所の前が待ち合わせ場所になっており、六人のハンテールたちと、ストアリア人のグループがやがて集合した。ハンスはいなかった。六人のハンテールは、フローティアとジーク以外は、キャスリーンと仲間の男の剣士二人、体格は良く矍鑠としているがドラゴン退治で何をするのか分からない七十に近い老爺が一人だった。ストアリア側は、ドラゴン使いの男たちが五人と、学者が三人。そして護衛の騎士一人と衛生兵を含めた兵士が六人だった。調査隊の隊長は、四十半ばほどの金髪の学者で、背が低く、なにより頭が異様な形で、額がとても前にせり出ていて、ハンマーのようだった。名をシュタイン博士といい、ストアリア帝国大学のうち最も権威ある、帝都ストアリスはストアリス帝大の准教授であるという。専門は古生物学およびドラゴン学とのことだった。

 博士は太い前額部の下より鋭い視線を放ち、通訳担当の兵士を通してハンテールの一人一人に挨拶をした。

 フローティアは、森を歩き、いざとなったら走って逃げるのに重装備のキャスリーンとその部下の二人を心配そうにみつめた。ジークは剣一振りと愛用のナイフ類を腰へ装備しただけで鎧はつけず、フード付マントに頑丈なブーツ姿で、まるで野伏だった。

 一行は出発した。退治屋専用の裏門から出て、グライツェス川めがけて台地を降りた。ここは退治屋が専門に使う道で、街道とは異なる。商人や旅人で混雑している街道を避けて、ハンテールたちは台地を縦横に通っていた。眼下には黒々とした森が一面にひろがり、見え隠れしてグライツェス川がのびていた。遠く街道の行き着く先には、渡しの搭が光って見えた。地平線の中に突如として三角山がそびえていた。コルネオ山だ。フローティアは唐突にリピエーナの顔と、ガリアンたちの紅い眼、そして黒服の一団を思い出した。一行は傾斜した道を歩きつつ途中で何回か休憩し(ストアリアの学者連が、すぐに根をあげるのだった。)昼過ぎに台地を降りきり、平野部に入った。平野は屹立する木々に覆われて、深く濃い緑だった。そこで先頭が入れ代わった。先頭はなんとあの老爺である。彼は猟師あがりの、道案内専門のハンテールなのだった。街道から離れた、地元猟師のみが知る秘密の道を通り、彼らは進んだ。それは猟師にとっては道なのかもしれないが、一行にとっては道なき道に等しく、山中の決死行に思えた。そのような場所を案内の老爺はまるで石畳の路地でも行くように軽々と歩いた。地面は腐葉土でぬかるみ、やおら行く手を塞ぐ倒木、大岩、崖。それらを苔の覆いが淡い緑で隠し、ブーツが何度も滑った。やぶをかき分け、みな大きなナイフや鉈を手に小枝を払いながら進んだ。なにより虫が凄い。休憩に入り、キャスリーンの部下の一人、セッコが地面へ枯れ木を集めて火を起こそうとした。火口を打っていると、猟師のダナンが、それを咎めた。

 「むやみやたらと森で火を起こすものでねえッ。飯でも一人でくうつもりかね」

 「虫よけの香を焚こうと思って………」

 ダナンの深い茶色の眼が不機嫌に光った。

 「蚊よけの線香なんか効くか。だいたい、森ン中で、その金物装備はなんだ」

 ダナンは斥候へ出ると云い放ち、行ってしまった。キャスリーンが舌を打った。

 「ジークさんよ、我々は、いったいどこまでドラゴンを退治しに? あのじいさんはどこまであたしらを誘導する?」香ばしく、柑橘系とハッカ系の香りが混じった芳香が周囲に充満し、一同が順番にその煙を身体へ浴びた。煙は眼にしみたが、虫がよって来ないというだけで我慢できた。ジークはそれらしく博士に聴き、応えを通訳した。

 「情報はすでに把握してある。川の上流を目指す。明日の昼頃には滝へ着く。知っている者もいるかもしれないが。先般、都市軍が壊滅したというのが、その滝なんだ。そこへベースキャンプを張り、アデルナ赤ドラゴンを捕獲調査する。その後は、ドラゴン使いが山へ追い返す」

 「捕獲ねえ………ぶっ殺したほうが手っとり早いんじゃないのかい?」

 ジークは答えなかった。通訳からこっそりその台詞を聴いたストアリア軍のドラゴン使いたちが、鼻で笑っているのをフローティアは認めた。彼らは、ドラゴンを生け捕る高い技術を有している。そもそもストアリア人には、ドラゴンを倒すという概念がはじめから無いようだ。

 一行が黙り込んでいると、ダナンが音もなく帰って来た。誰一人口をきくこともなく静謐な森の中に佇んでいる様子は、彼にはしかし好ましく思えたようだった。「ほい、無駄に騒いでおりませんな。けっこう、実にけっこう。アラホドの滝へ出る道まで見当をつけてきましたので、みなさん、行きましょか」

 土を盛って火を消し、ダナンを先頭に、また歩きはじめた。フローティアは行列の中程を歩いた。ジークは明日の昼頃滝に到着すると云ったが、ダナンの道はその予想よりはるかに早く、一行を目的地まで導いた。夕方がせまり、西日に茜色が刺さってきたころには、一行は森を抜け、灌木がまちまちに生えるアデルナ独特の原野へさしかかった。振り返ると自分たちが降ってきた台地が黒々とせまるようにせり上がっていて、モンテール市は山あいの向こうに隠れて見えなかった。灌木をすり抜け、草を踏み分けて調査隊は進んだ。やがて、夕闇がうっすらと迫ってきたころ、耳に滝の音が聞こえてきた。「このまま行けば、夜半には到着するだろうが、闇の中で川へ近づくのは危険だ。ここで今日は休もう」ジークが博士の言葉をそう通訳すると、一行はめいめいに腰を下ろしはじめた。キャスリーンたちは装具を下ろし、三人で固まり、ダナンは一人で闇に消えた。ストアリアの兵士たちは輪になって、シュタイン博士、それに二人の助手が離れた場所で腰を下ろした。ドラゴン使いたちは博士とその助手たちの近くで、打ち合わせがてら薪を集めて火を起こした。ジークとフローティアが二人で座った。ジークは芝を手早く刈り集め、火口を叩いた。油を染み込ませた火付け布へ火を移し、それから芝を燃え上がらせるのはコツが必要だったが、ここにいるメンバーでそれができないものはいない。携帯してきた水を飲み、乾パンや干し果実の糧食をかじった。キャスリーンたちは酒(カルバドスに思われた)を小さな真鍮製の水筒へつめてもってきていて、それをチビチビやりながら干した鹿肉や、マスの干物を炙ってかじっていた。歩きづくめの一日だったが、みなこの程度の行軍で疲れを口にするものはいなかった。月がのぼるころには、話も尽きて、めいめいマントにくるまり、休んだ。

 フローティアが目覚めたのは、偶然ではなかった。まだ暁闇まで間が若干あるような、夜明けぎりぎりの時刻に、何人かが眼を覚ました。闇の中で彼女が確認できたのは、自分とジークだけだったが、他にもいるようだ。フローティアはこの感覚は、かつて経験していた。あえて云うならプレッシャーだ。あの、滝の向こうからひしひしと感じた、とてつもなく強大な生命力の。フローティアは金縛りに合ったようにマントの中で動けなかった。闇中で、ピカリと黄金が光ったような気がした。眼だけ動かすと、ジークの影があった。彼は半身だけ起きて、息をひそめているようだった。物理的ではなく、感覚で、尋常ならぬ大きさの気配がとにかく彼らの上へのしかかっていた。しかも非常に攻撃的で、かつ近かった。いまにもとって喰われそうなほどに、近いのだ。息をすることもはばかられた。天敵が近くにいて命からがら身を隠す小動物になった気分だった。見つかるのではないかという強烈な不安に襲われ、それへ耐えきれず、フローティアはついに気を失った。

 翌朝は早かった。寝た気がせず、フローティアは不機嫌だった。吐き気がした。周囲の反応を観れば、昨夜の事に気付いていたか、いなかったか、一目瞭然だった。彼女の観たところ、ジークと自分以外では、まず猟師のダナン。ダナンは離れた場所で休んでいたはずだが、朝にはもう合流していた。しかし、顔面は青ざめ、恐怖が顔へ張りついていた。眼が一点を見つめて動かず、小刻みに震え、一気に顔の皺が増えたように見えた。ストアリア人たちは、何事も無かったように振る舞っていたが、それは外見だけで、騎士と兵士が博士たちを護るようにそれとなく展開していたし、ドラゴン使いが一人もいない。既に偵察へ出ているのだろう。

 ジークは無言だったが、やがて、食事をしながら、フローティアへこう耳打ちした。

 「向こうさんはとっくにこちらへ気付いている。山の奥のほうへ行っているとふんでいたが、ここら辺をうろついていたとはな。とんだ誤算だ。計画を変更する可能性もある。調査はおそらく失敗する。いざというときは、逃げ出す準備をしておけ。いいから、こいつを持っていろ」ジークは、陶器の筒を、こっそりと渡した。それはまぎれもなく、ドラゴン花火だった。

 「ピンを抜いて一、二、三で投げろ。できれば鼻面に」

 「こ、こ、こ」フローティアは何を云って良いか分からないくらいに、動揺した。

 「落ち着け。とって喰う気なら夕べ既に全滅している。数が少ないし、殺気が無いから様子を探っているんだ」

 「あ、あの、みなさんに教えたほうが」

 「あの気配に気付かないような連中、教えたって無駄だ。いきりたって向こうさんを怒らすだけだよ。こっちの身が危ない。放っておけ」

 フローティアはキャスリーンを見た。三人で、今日はやってやるぞと気合に満ちている。

 「逃げるときは誘ってあげようか」迷った。(そんな余裕があればの話だが。)

 この季節は天候が安定し、その日も晴れだった。一行は日が高くならぬうちに出発し、無言で草をかき分けた。フローティアがよく観察すると、ドラゴン使いは歩いているうちに一人、また一人と合流していた。兵士の顔つきが、非常に鋭かった。博士たちも緊張しているのが分かった。ダナンの行く速度があからさまに遅く、妙に周囲を気にしていたのが印象的だった。林は続き、水の音がハッキリと聞こえてきた。近くに川があるのだ。ダナンの道は蛇行し、川音は大きくなったり小さくなったりしたが、無くなるということはなかった。そして二刻も歩き、昼を少々すぎたころ、唐突に開けた場所へ出て、眼下に滝を見下ろす崖の上に来ていた。フローティアは息をのんだ。よく観ると、そこかしこに木々の焼け焦げた跡があるし、車の滑った跡もあった。そう、ここは都市軍が全滅した、まさにその場所だった。フローティアは先般、眼下の川原よりここを見上げていたのだ。遺体は既に回収されている。

 一行の中で、それへ気付いたのは、またも少なかった。シュタイン博士は、わざと気付いていないふりをしているように見えた。何やらジークへ指示し、ジークが通訳した。

 「ダナンさん、下へ………川原へおりる道はないかい」

 ダナンは呆然と、崖の端近くへ立ち、滝を見下ろしていた。

 「おい、じいさん、ジークさんが聴いているんじゃないか!」キャスリーンがダナンを怒鳴りつけた。瞬間、ダナンは、ふわりと、崖より身を投げてしまった。

 「あっ…」と声を上げる間もない。一瞬にして消えたようにも見えた。「じいさん!!」ジョルジーノが崖へ近づき、下を確認したが、絶句して、後退って帰って来た。「………倒木の枝に串刺しだ」

 「いったいどうして………」当惑げに顔を見合わせるものは、少なかった。フローティアは分かった。彼は絶望し、そして恥じたのだ。老い先短い生涯の最後に、彼は偉大な生物を軽んじていたことを恥じた。そして、猟師として、獲物に喰われることを恥じた。そしてけして助からないと自覚し、自らの人生の幕を自分で引いたのだ。

 シュタイン博士と兵士が何やら打ち合わせを始め、すぐにジークへ兵士が何やら伝えた。「調査は続行する。川原へおりる道をみんなで探そう」ジークがそう云って先頭を歩いた。しかしまるで、葬送の行進のように気が重かった。フローティアは頭の中で、重厚な二連拍子が支配するウガマールの葬送行進曲がどうしても鳴り響いて、我ながら嫌になった。


 「ジークさん、こいつは無理ですよ。どうしても先ほどの滝壺へ行きたいというのなら、死んじまったじいさんの代わりに、新しい案内を雇うことを薦めますぜ」セッコがそう云ったのは、しばらく歩いても、まるで川を越えられるような場所が見つからなかったからだ。ジークは博士と二人で話を始めた。一行はその内に、川辺で休憩することとした。火は起こさず、みな携帯用の糧食を少しだけかじった。川音だけが悠久の時間の一部に感じられて、フローティアは思考が止まりそうな気分に襲われた。音というのは時間の流れと密接に結びついていて、いま鳴った瞬間にはもうその音は同じだけの長さの時間といっしょに過去となる運命にある。ザアザアと続く川の流れは時間の流れに等しい。しかし、川で水の流れる時間と、いまフローティアが堅パンをかじりながらぼんやりと眺めている空の雲の流れる時間とは、おなじ時間なのに、長さも速さも異なるのだ。

 フローティアは無言で、水を少しだけ飲んだ。ちらりとジークを見たが、話はまだ続いていた。何やらとたんに嫌な予感がした。

 やがてジークが退治屋たちの前に立った。

 「今回の調査は中止にする。セッコさんの云う通り、道案内が無いままでは、これ以上の調査はより難行するだろう。一回、街までもどって、新しい案内を募集する」

 キャスリーンが手を上げた。「ジークさん、そいつはいいが、募集した後は、すぐにまた出発するんだろうね。そして、その時も、あたしたちは呼んでもらえるのか?」

 「契約は、今回で終わりだ。その通り書いてある。前金は払ってある」

 「ちょっと待っておくれよ。ストアリアじゃどうかしらないが、ドラゴン退治なんてアデルナじゃ、一生にあるかないかなんだよ。次も頼むよ」キャスリーンは気色ばんだ。ジークは、彼女らの思惑など、とっくにお見通しだった。

 「ドラゴンを倒して箔をつけ、カルパスあたりでうまくやっていこうと思っているようだが、無理な相談だ。あまり欲張ると、その代償は高いぞ。身の程を知るのもハンテールの資質だろう」キャスリーンの顔が見る間に赤くなった。

 「どういう意味だいそりゃあ! あんたたちがいったいどれほどドラゴン退治に詳しいか知らないが、雇い主ったって、云っていい事と悪い事があるだろうが! このストアリア人どもが、アデルナのハンテールを侮辱すると許さないよ!!」

 「おい、大声を出すな、ここはもうヤツの縄張りだ、落ち着けよ、お姐ちゃん」

 「出させているのはどっちなんだい!」

 さすがにジークも顔色を変えた。が、遅い。

 「マイスター」ジークとキャスリーンが、ふいに立ち上がったフローティアを見た。フローティアは藍碧の瞳を大きく見開き、今の二人の喧騒へ驚き、それを止めようとしたというよりむしろ、いままで息をひそめていた大きな気配がにわかに膨れ上がったことを敏感に感じ取り、驚いた猫のように、立ちすくんだのだ。

 「きた」

 博士たちはもう、動いていた。対岸の森より突如として飛び出てきたアデルナ赤ドラゴンが、水を跳ねて急流を渡っているのが見えた。ジークはもちろん逃げ出した。驚いたことに、ドラゴン使いはとっくにいなくなっていた。兵士が、博士連を護って陣を組み、ゆっくりと下がった。明らかに真っ先に狙われた哀れなハンテール組は、キャスリーンの号令一過、ジョルジーノが前衛に立ち、セッコがそのすぐ後ろで剣と楯を構えた。彼女は思いもよらぬチャンスに歓声を上げたが、立ち向かう相手が相手だ。「死んで後悔とは割に合わねえな!」走りながらジークは叫んだ。「時間稼ぎにもなりゃしねえ」

 そのキャスリーンも、瞬時のうちに、今まで退治してきた飛竜とのちがいを至近距離でまざまざと思い知った。まず迫力がちがう。飛竜は翼竜の一種で、翼は大きいがとにかく細い。骨も軽く空洞で、一撃で折ることができる。魔物ゆえ炎を吐くが、翼を狙えばだらしなく地面へ這い、トドメもさせた。巨大な脚の爪と、尾の毒針だけに気をつければ対処できた。しかし真正面から迫る赤ドラゴンは、爪といい牙といい、身のこなしといい、とにかく隙がない。おそるべき肉食の陸上生物なのだ。こんなものは魔物を通り越している。この「怪獣」に比べたら、飛竜はおろかマンティコアなど物の数ではない。ドラゴンは威嚇のためか(こんな虫けらのような相手の人間を威嚇するとは考えられなかったが、もし威嚇だとしたら、まさに獅子は兎を倒すのにも全力をつくすとはこのことだろう。)半透明の翼を大きくひろげた。それは太陽光を反射し、波紋が浮き出てさらに巨大な何かに見えた。また光が逆光となって巨体をシルエットにした。しかも翼の堅い部分を背中の刺に擦り合わせ、ギリギリギリギリ………!! とすごい音をたてた。それと、地を揺るがし大気を震わせる咆哮が合わさっているのだから、たまったものではない。

 「あ………」キャスリーンの頭は真っ白となった。硬直している間に、前衛のジョルジーノが前脚でなぎ倒された。一撃で十数リートも吹っ飛び、血を吐き散らして、くの字にひしゃげて転がった。即死だろう。楯をかざしたが、火など吐いてくるような気配はなく、彼女は、後退るのが精一杯だった。角だらけの顔で真紅の眼が光っており、外からはよく見えないが、開かれた口中には短剣みたいな牙がずらりと並んでいた。舌は黄色かった。ガスの臭いがたちこめた。死を覚悟した。

 そのドラゴンが、ぷいと顔を向けた。キャスリーンもつられて見ると、セッコが一目散に逃げ出していた。しかし責められまい。ドラゴンが、逃げるものを追う習性があるのか、それを追った。気絶しそうなキャスリーンの手を、フローティアがつかんだ。

 セッコは振り返らなかった。振り返らずとも、自分の死が音をたてて後ろから迫ってくるのが実感できた。とたん、膝が笑って、両手をついて崩れた。「ミランダ、ミリーナ、すまん」それは妻と子の名だった。足音と気配がみるみる近づいてきた。「あああああ!」恐怖が声になって出た。瞬間、腰のあたりに凄まじい衝撃があって、たちまち身体が宙に浮いた。くわえあげられたのだ。断末魔というべきか、ありったけの声を出して抗ったが、声は本当にでたかどうかは疑わしい。いやむしろ、硬直して息も止まった。手足はほんの少しだけ動いたが、その前に意識が無くなった。最後に見たのは、どこまでも蒼いアデルナの空だった。

 「ちくしょう、あんな場所でいきり喚き散らしやがって、だからアデルナ人は!」

 ジークは、ドラゴンと間合いとりつつ、けして見失わないよう注意した。ドラゴンのおそるべきところは、あの巨体をいともたやすく森の中に隠してしまうのだ。そうでないと獲物がとれない。野生動物をも欺く隠形術に、人間など無力だ。

 「ヴァーグナー中尉!」

 「プリングスハイム、博士たちは?」

 「下がっていただきました。大丈夫です」

 兵士とジークは連れ立って、赤ドラゴンの後を追った。つい今しがたまで大きな尻が木々の間に見え隠れしていたが、いまちょっと気をそらした隙に、もういない。「おい、どこだ、どこいった! 探せ!」兵士は冷や汗をかいて先行した。そこへドラゴン使いの一人が脇から走って現れた。「上です、いま飛びました」ジークは舌をうった。地面と空と両方に自在なのがやっかいだ。走りながらそのドラゴン使いは消え、別の一人が現れた。「中尉、お連れのウガマール人が」「フローティアがどうした、まさか!」そのまさかだった。「あいつにはまだ無理だ、急げ、花火を急げ!!」ジークは殺気だって叫んだ。それを兵士の一人が止めた。「中尉、お気をつけを、リヒャルトと我らの関係が………」

 うっ、と唸り、ジークの声が止まった。フローティアは、頭上をゴウ、と風が行き、梢が揺れ、眼前の木々を押し分けて紅白と黄色の巨体が上空より現れたときも、恐怖はあったが動揺は無かった。キャスリーンと二人で、完全にドラゴンの攻撃の射程内にとらえられた。キャスリーンは子どものように悲鳴を上げ、フローティアの後ろに下がって腰をぬかした。赤ドラゴンは臭いをかぎ、わずかに首をかしげて片目で交互にフローティアの姿を確認した。両眼がほぼ前をむいているが、鼻面が邪魔で立体視はできないため、そのようにして距離をとる。よく見ると耳が角の合間にあって、パタパタと動いていた。

 「フローティア、剣を抜くなよ!!」ジークは心の中で叫んだ。周囲をすでにドラゴン使いが囲んでいる。シュタイン博士が、ジークの腕をとった。彼は振り向いたが、博士が首を横に振ったので、苦虫をかみ、拳を握りしめた。いま、この状況では、彼にはどうしようもできなかった。ドラゴン使いたちも、きっかけがないと動けない。恐ろしいほどの緊張感が、時間を止めたように場を包んだ。すべて、フローティア次第だ。

 フローティアは自分の心音が耳の奥で聞こえるほど、異様に昂っているのが分かった。しかし、殺気は無かった。だからドラゴンは襲って来なかった。フローティアは小さく呪文を唱えていた。剣など抜く気は毛頭なかった。抜けば死ぬと思った。昂っているが、しかし、とても落ち着いていた。サッと手を上げ、神聖呪文が発動した。

 「トゥルルルルルル………」

 我を失うほどに驚愕したのは、ストアリア人たちだった。まぎれもなく、それは黒ドラゴンの鳴き声だった。どうしてこんなところに、このタイミングで!? だがそれはなんと、フローティアの呪文だった。腹話術というか、離れた場所へ声や音をうつす、単純な呪文だった。彼女は前に聴いて覚えた黒ドラゴンの鳴き声を、赤ドラゴンの後ろから流した。

 案の定、ドラゴンがひょいとそのほうを向いた。フローティアはもう無我夢中で、花火のピンを抜き、一、二で投げつけた。三のとき、ドラゴンが振り返って、顎のあたりで花火が砕けた。赤い粉が舞って、おもいきりそれを吸いこんだドラゴンが、大きなクシャミを連発した。「行け!!」すかさずジークが指示をだした。ドラゴン使いたちはいっせいに自らの花火を投げつけ、赤い粉が大量にたちこめた。それは甘く鼻をつく独特の香りで、人には何事もおきないが、たちまち、まるで猫が顔を洗うようにアデルナ赤ドラゴンは眼を細めて顔を手でこすりはじめた。フローティアはそのあまりに絶大な効果に瞠目した。すぐさまドラゴンは腰を抜かして座り込み、次に両手をついて、ついに横倒しになると、心地良さそうに、ゴロゴロと喉を鳴らしたのだった。ドラゴン使いたちが、笑顔で手を上げた。

 「よッしゃあ、よくやったあああーッ!!」

 ジークがとび跳ねながら走ってきて、フローティアを抱き上げた。そして首を抱え込み、頭をガシガシとなでた。「マイスター、い、痛い、痛い!」ジークは聞かなかった。「なんというやつだ、お前は! お前がドラゴンを退治したんだぞ、このアデルナ赤ドラゴンを、お前一人でやったに等しいんだぞ! 大手柄だ、こんな話は聞いたことがない!」

 ジークは歓声をあげ、大声で笑いだし、腹を抱え、痛快でたまらない様子だった。プリングスハイムを含む兵士たちは、素直に感動し、呆然としつつ、拍手でフローティアを讃えた。シュタイン博士と助手たちも、まったく驚き、興奮した様子でストアリア語をまくしたて、顔を真っ赤にして拍手をしていた。フローティアは安堵感と虚脱感で、笑顔でそれへ応えるのが精一杯だった。しばらく、彼女は皆の握手攻めにあった。


 調査は、ドラゴン使いと博士たちが行なうというので、フローティアとジーク、それにまだ放心しているキャスリーンは、離れた場所へ腰を下ろした。ジークは興奮さめやらず、フローティアを褒め続けた。

 「まったくもって、たいしたやつだ。それに呪文を使うとは聴いてなかったぞ。お前のようなやつは、たとえ一時的にせよ、弟子にできたことはおれの生涯の自慢だ。誇りだ。いや、云うなフローティア。ストアリア人にとって、ドラゴンというのはそれほど特別な存在なんだ。ハンテールの資格なんか、へでもねえ。ここが帝国だったら、おれはお前を重竜騎士見習いへ推薦する!!」

 フローティアは正直、まだ動悸がおさまらず、それどころではなかった。彼女にとってドラゴンはやはり恐るべき怪物にかわりは無く、アデルナでハンテールとなり、することがあった。ストアリアの竜騎士など眼中にない。ジークはご満悦で、荷物から携帯用の酒瓶を出すと、一杯やった。そして、座り込んで、虚ろな瞳を宙に投げたまま震えているキャスリーンへちらりと眼をやった。フローティアも、キャスリーンの様子が妙なのに気付いていた。

 ジークは、小さく首を横へ振った。ドラゴンに見据えられ、心が竦んでしまったにちがいない。元へ戻るのは、難しいかもしれない。正気となっても、はたしてハンテールとしてやってゆけるか。それほど、あの怪物は神々しいまでに恐ろしい。絶対的な力の象徴で、眼力には魔力があると強く信じられているのは、そのためだった。気配を察しただけでダナンは自ら死を選んだ。人の魂を敗北させてしまうのだ。無敵の魔物である。

 「やっぱり、おれとフローティアだけが事実上、残ったな。だいたいこいつは、若いくせに胆が座っていやがる………」いま死にかけたというのにけろりとしているフローティアを観て、ジークはつくづく思った。

 しかし、ジークは、フローティアの二十年にみたぬ人生というのは、きっと自分などが想像もできないものにちがいないと確信した。そうでなくては、初めて目の当たりにしたドラゴンの恐怖を乗り越えることなど、できようはずがない。まして、ドラゴンを魔導の乗用怪物として忌み嫌い、巨大な犠牲を払いつつも、徹底的に狩りつくし、ついに滅ぼしてしまったウガマール人がだ。

 調査とやらは夕刻までかかり、博士たちが戻ってきたころには、暁闇が迫っていた。林の奥から音がして、ドラゴンが起き上がったのが分かった。フローティアは緊張したが、ジークが、森の奥へ帰すのだと説明してくれた。「これで安心だ」ジークは満足げだった。プリングスハイムがやってきて、ジークヘストアリア語で耳打ちした。「この作戦で最後です。リヒャルトは帝国へ帰します。あとはヨハネスをカルパスへ………」「分かった。今日は粉を吸いすぎたな」「お連れの花火が、うまく当たりました。良い素体となるでしょう」プリングスハイムはフローティアへ会釈をし、下がった。ジークの表情は先ほどとは変わって、あまり冴えなかった。彼らはその夜、そこでキャンプを張り、翌日、帰路についた。

 帰り道は、緊張感もなくめいめいが歓談しながら、モンテールへ向かった。ドラゴン使いは山奥へドラゴンを連れて行っており、この場にはいなかった。キャスリーンはまだ虚ろな表情をして、フローティアは心配した。ジークはその横でぼそぼそと話しかけた。

 「ドラゴン退治の第一の功として登録局に推薦する。ハンテール隊は全滅、案内役も死んだ。おれは別にして、事実上、生き残ったのはお前だけだ。文句なしで資格がとれる。ハンテールになってからは、どうするんだ。モンテールでやってくのか」

 「いいえ、カルパスへ行きます」

 ジークの顔が、心なしか曇った。

 「そうか。カルパスへな。まあ、あすこは魔物が多いからな。稼げるだろう。ツテでもあるのか」

 「それは、ありませんが」

 「お前は、組織でやっていくタイプではない。個人事務所を探すんだな。腕のいいハンテールとコンビを組むのを薦める。ただし、裏のハンテールとは関わりあいになるなよ」

 「マイスター、その、裏のハンテールというのは、前にも聞いたのですが、いったい………?」

 「モグリのことだ。無資格の連中だと思えばいい。ただの無資格者は、大したことはない。風来坊だ。やっかいなのは、資格を剥奪されたものだよ。ルキアッティ家によってな。大体が凄腕だ。一筋縄でいくやつらじゃない。中には、エクソイル級のやつもいるとのことだ。表で魔物を退治して、裏で魔導士とつながっているようなやつばらさ。まあ、そんなやつらはどの世界でもいるもんだがね、退治屋でそれはちょっと、質が悪いわな」

 まちがっても関わりあいにはならないだろうとフローティアは思った。

 「中には有資格者のくせに、コソコソと裏でつながっている者もいる。こいつらは、いちばん質が悪い。最悪だ。何も考えない、無分別のチンピラがいちばん手におえないもんだ」

 翌日、彼らはモンテール市へ到着した。

 まる一日、フローティアは風呂へ入ったり眠ったり酒をのんだりして部屋でゆっくり休み、その次の日は、ジークと共にハンテール登録局へ向かった。ジークが推薦書をしたため、登録の書類と宣誓書へサインをし、許可証を発行してもらうのだ。諸手続きをすませ、交付までまた二日ほどかかるというので、フローティアは部屋で転がってすごした。二日後に役所へ向かい、ジークの目の前で、ついにハンテール資格証と魔導退治許可証を手にしたのだった。これがあれば、魔物を退治して報酬や公金がえられる。

 「これがそうかあ」

 フローティアは不思議な気分だった。もっと豪華なものだと思ったのだ。例えば金で装飾が施されているような。それはただの厚い羊皮紙のカードだった。

 ジークはフローティアを食事へ誘った。居酒屋での食事で、ビールとワインが飲み放題の店だった。「しゃれたレストランより、こっちのほうがおれにもお前にも似合ってら」ジークはご機嫌だった。「ストアリア隊のドラゴン退治で、唯一生き残り、一回の退治でハンテール資格をとった。新人王だ」

 「何も出ませんよ」モンテールの料理は加工肉が多く、フローティアは生ハムとメロンの前菜を大量に小皿へ盛って、頬張っていた。ジークはアデルナカサタケという乾燥キノコとハムを茹でたパスタと共にチーズソースで炒めたものをガツガツと口中へ溜め込み、ビールで喉の奥へ流し込んだ。ビールの本場ストアリアにも高名なワインがあるが、やはりジークはビール党だった。二人の共通点はとにかく食べることだった。ここだけ、似たもの師弟というべきか。

 フローティアは次にトマトソースでハムと炒めた野菜をあえた山盛りの長いパスタへ粉チーズを雪のようにかけ、フォークをつっこみ、豪快に口へ流し込んだ。

 対抗しているわけでもないはずなのだが、ジークはオリーブオイルでニンニクを炒め、唐がらしの効いたシンプルなパスタをこちらも山盛りで大皿から直接かっこんだ。

 「まあ正直、おれも暇ではないから、一回の退治で資格がとれるよう仕組んだもつりだった。しかし、あれほどの活躍は、期待してなかった。推薦書は適当に書こうと思っていた。新人がドラゴン退治に同行し、生き残れたら、それだけで資格はとれるからな」

 「そうなんですか?」ラムのバラ肉のローストを手づかみでかぶりつき、ジークは鶏の脚をグリルしたものをこれも手づかみで頬張って、互いにビールを一気呑みした。ワインの大地アデルナにも、うまいビールはあった。

 「ドラゴン退治とは、それほどということだ。それから、退治料は一人五十アレグロだったが、六人参加して三百アレグロ。三人の前金分を差し引いて二百七十。三人助かったから三等分して一人九十アレグロだ」

 キャスリーンは、最後の退治かれしれない。年金には、少々安い。

 それから巨大な牛モモ肉の赤ワイン煮を平らげると、二人はブルーチーズのリゾットを大盛りで頼み、最後にデザートのオレンジを黙々と剥いて二人で合わせて八つ食べた。給仕の若い男が呆れて肩をすくめた。

 食後酒のカルバドスをなめながら、「しかし、これで晴れてハンテール フローティアというわけか」ジークの笑顔は、いつになく輝いていて、満面の笑みとはこのことだった。

 「お前はたいしたやつだ。ほんの数日の間だったが、楽しかった。別れるのが惜しい。しかし忘れるな。おまえの師匠は、このおれだけだ。たいしたことは指導してないが、ジーク ワグネッリただ一人だぞ」

 「分かってます」

 「あの呪文のタイミング………そして選択………完璧だった。見事だった。おれは心臓が破裂しそうなほど緊張していた。どうしすればお前が死なないか、申し訳ないが考えつかなかった。それをお前は自力で解決した。素晴らしい。あの一瞬だが永遠の時間は、忘れることはないだろう」

 「褒めても何もでません。偶然ですよ」

 「いいかフローティア。魔物退治においてはな、偶然も実力のうちだ」

 フローティアは答えなかった。確かに、それはそうだと思った。アデルナへきて、にわかに魔物の質が変わった。ウガマールでの魔物退治が遊びか練習に思えた。街中や街道の退治でマンティコアだの、ドラゴンだのは、さすがにレベルがちがうと云わざるをえない。この中で生き残るには、偶然をも味方につけなくては、とうてい成しえない事に思える。

 次の店へ行き、二人は度の強いグラッパ酒をなめなめ、退治や、魔物、故国の話で盛りあがった。明け方近くになり、やっとアパートへ帰り着いた。翌日、二日酔いにもならずに、フローティアはさっそく荷物をまとめた。もともと旅装しかなく、それは簡単だった。昼前にジークへ暇の挨拶をしにゆき、ジークは不覚にも涙ぐんだ。

 「たった十日かそこらで本当に資格をとりやがって………部屋代はおれが払っておく。気をつけてカルパスへ行くんだぞ」

 「ありがとうございました」

 「フローティア」

 「はい」

 「いつかまた会うかもしれない」

 「会いましょう、ぜひ」

 「そのときは、お互い手加減なしだ」

 「えっ?」

 ジークはもう、何も云わなかった。フローティアは戸惑ったが、ジークの厳しい視線が問いを拒絶していたので、彼女も何も云わず、席を立った。ジークは奥の部屋から彼女の愛剣をとってきた。二人とも無言でその受け渡しの儀式を行なった。黒剣は再びフローティアの腰へおさまった。フローティアは最後にかたく握手をし、深々と礼をすると踵を返し、退室した。余計な言葉は無用だった。ジークの部屋も、アパートも、振り返らなかった。


 糧食を買い込み、モンテールの門を出た。半日がかりで台地を降りきった。ここからカルパスまで、さらに半月からひと月近くはかかるだろう。夕刻近くまでに渡し場へ着き、渡ってしまえば、またあの渡し村へ泊まることができる。ハンスと出会ったことが、ずっと前に感じられた。ハンスが話しかけてき、ドラゴン見物に誘われなければジークと会うことも無かった。人の出会いは偶然と必然がまこと入り交じり、繊細な織物のようになっているのだと、感じ入った。

 渡しもまた、相変わらず混み合って、皆ちゃんと並んでいた。こんどは彼女も金を用意し、列に並んだ。と、共に並んでいる客の一人が、小声で「よう、今日はストアリア人といっしょじゃないのか」と云ってきた。フローティアはびっくりして、その男を見た。商人体で、背はあまり大きくなかった。歳は二十代半ばに思えたが、髪はすっかり五十代だった。目つきが悪く、印象も暗そうな、およそ商人には向いていないタイプだった。「え、ええ、はい」とだけ答えた。男は下卑た笑みを浮かべた。

 「あんた、ストアリア人の仲間かね」不躾な物云いを、フローティアは不快に思った。

 「それが、なにか、あなたに関係があるのでしょうか?」

 「仲間じゃないから、並んでいるんだな」

 「どういう意味ですか? 失礼ですが」

 「この渡しは………」男は周囲を気にし、もっと声をひそめた。

 「モンテールは、もう、ストアリア人に牛耳られているんだ」

 「ええっ?」フローティアはにわかに理解できなかった。「何を云っているんですか?」

 「ストアリアの大きな軍隊がやって来て、モンテール市当局へ圧力をかけている。ストアリア帝国は軍事国家だ。軍がからんでいるのなら、背後に帝国政府そのものがいる。やっかいな相手だ。しかも、惜しげもなく金をばらまいて、市の財政を助けたんだ。買収された市の高官もいる。市長も評議会も云うなりさ。何か、裏で大きなことをやっているんだ。それもヤバイことだ。まちがいない」

 「くわしいですね」

 「役人だったからな」

 「へえ〜」

 「そのことを糾弾したら、クビになった。前にあんたを見たときは、交通局の出張所で、この渡しの職員だったんだ。ほんの前だがね。あれで、あんたといっしょにいたストアリア人………騎士だか軍人だか知らないがね、いつも威張りくさって、頭に来て、上司に云ったらあっさりクビさ。ストアリア人が裏から手を回したか、上司が巻き添えを恐れておれを切ったか。どっちにしろ、命があるだけマシだ。それぐらいヤバイ。裏を探ろうとして、何人かいきなり消えた仲間もいるんだ。ほんとうだ。もう、みんなストアリア人の云うがままだ。いま、おれは親戚を頼ってカルパスへ行くんだよ」

 「………」

 フローティアは唖然として、何も云うことができなかった。最初は腹いせか何かで、でたらめを並べていると思ったのだが、どうやら話に真剣みがあり、信憑性が高い。

 「あんたも、あんまりストアリア人と深く関わり合いにならないほうがいいぜ」男はそれ以上、何も語りかけて来なかった。渡しへ乗り込み、一アダーを支払って、暗くなるころには渡しの村へ到着した。考えても分からないので、ぱっぱと夕食をとり、酒を飲んで寝てしまった。翌朝には、もう、忘れた。早々に宿を引き払い、街道へ出た。

 コルネオ山を遠目に、迂回して数日歩き、また分岐点を見ることができた。だだっぴろい原野へただ案内板が立っているだけの、アルモルドの分岐点だ。板には白いペンキで絵が描かれており、王冠の印のカルパスへ、これから向かう。


 アルモルドの分岐点より、アデルナの首都ともいえる都市国家カルパスまで、さらに十日以上を要する。途中、やはりモンテールへ行くのと同じように街道宿が整備されていて、二つほど村があった。都市へ近づくほど原野が田園地帯に変わってゆき、都市国家の食料を賄っていた。アデルナ最大の人口を満腹させるため、田園の規模も大きかった。フローティアは両方の村へ寄った。

 太陽の輝きは日増しに大きくなっているように感じた。とにかく曇の日というのが無い。たまに、三日に一度の割合でどこからともなく薄い雲が流れてきて、やや涼風が汗を冷やすていどだ。村から半日程の、ゆるい丘を越えたところから、コレッリ地方とはまた異なる田園地帯が現れた。灌漑設備は変わりなかったが、ブドウ棚がものすごく多かった。ワインの消費量が凄まじいことを意味している。醸造所もいたる所にあった。家畜を飼う家もたくさんあったし、農家の出店で話を聞くと、この街道から見てカルパスの向こう側にさらに巨大な穀倉地帯があるらしい。古代よりアデルナ文明を支え、アデルナの語源ともなった大アーデルンの穀倉地帯だ。

 かつて王都カルパスは巨大な城砦都市で、中心には搭がそびえ、吸血鬼王の居城だった。しかし魔都とも魔導暗黒都市とも謳われたカルパスも、その実は高い文明を誇る洗練された都会だったようだ。吸血鬼王は政治には手を出さず、象徴的な存在だったという。優れた魔導士が、宰相や各国務大臣として国を治めていた。役人もみな魔導士だった。

 大戦後、カルパスは焦土と化し、王国は分断された。商人の出だったルキアッティ家が進駐した聖導皇家に取り入り、やがてカルパス統治の委任を受け、現在に到っている。聖導皇家の遠い分家筋より王をいただき、ルキアッティ家は代々の王国を補佐する永世執権という役職にあった。ゆえに、影の王とまで云われた。いまより百八十年ほど前には大戦後再建された城砦を取り壊し、環状道路を整備してカルパスを近代化したのも、宰相として国王に仕えていたルキアッティだった。街道の先へ都市が近づいて来るに連れ、行き来する人々の数は多くなり、荷駄、騎乗の者、浮浪者、旅人、商人、兵士、芸人、屋台、なんだかよく分からない者、そして退治屋、なにからなにまでいた。道幅はそれへ比例して広くなった。高い建物が、丘陵線の向こうに次第に見えてきた。ウガマール首都ガルマン=ガルマスにも匹敵する大都会がその全貌を明らかにしつつあった。街道の到る先は、二人の巨人と赤ドラゴンが護る山のような凱旋門だった。かつてこの門から城壁が都市を取り巻いていたが、いまは門だけが往時を偲ばせている。城砦の内側にはさらに堀があったとのことだが、いまは埋めたてられ、門のすぐ傍まで都市が拡張されていた。門にはいまだに大戦当時の傷が残っている。旧魔導王国首都の荘厳で壮大な彫刻がそのまま残されており、千数百年間カルパスを護り続けている大門なのだ。

 門の前に、カルパスの象徴色である黄色と赤と白(すなわちそれはアデルナ赤ドラゴンの色である。)に王冠をあしらった旗が幾重にもたなびき、甲冑も重厚なハルバードと楯装備の兵士が何人もいて、人々を見守っていた。しかし入城の手続きをしているというふうでもない。彼らは衛兵だったが、儀仗兵でもあった。人々は門を素通りしていた。フローティアはさりげなく傍の者に語りかけた。「すみません」それだけでその者は行ってしまった。しかしフローティアは都会人の対応など慣れきっていた。次々と話しかけ、七人目でようやく答が返ってきた。頭に布を巻いた、色の黒い手ぶらの中年男だった。

 「初めてかね、外国のお方。ここは人の出入りが多いから、入城審査なんかナシだよ。勝手に入って、住みたきゃ勝手に役所で住民登録をするんだ。住民税は高いぞ。そのかわり、無宿人なんざ、あっという間に強盗か魔物のえじきだろう。住民じゃ無いものを都市軍は助けてくれない。住民登録カードは命の次に大事だぞ。まあ、偽造カードも売ってるがね。とにかく、人と魔物がいっしょになって住んでいるのがこの魔導都市さ。ンフッ、見たところハンテールかね? 新人さん? いい事務所を紹介しようか? それとも、裏でやってゆくか? 裏にもツテがあるぞ?」

 「い、いいえ、けっこうです」フローティアは男の視線を振り払うように人込みに紛れた。フローティアはそうして、カルパスの大凱旋門をくぐった。うつむき加減に、小股で素早く歩いた。他の観光客や旅人とちがい、儀仗兵も門の彫刻も何も見なかった。門を抜けると、ねっとりと都会の空気が彼女へまとわりついた。いや、都会というより、独特の陰気だった。このような気配を放つ街は世界でもここだけだろう。彼女はとたんに気分が悪くなった。いままでに感じたことの無いような、すごく嫌な気配だった。やはりここは、噂に違わぬ暗黒都市であると確信した。

 しかしゆかねばならぬ。この街で彼女はすることがあった。人を探さねばならない。物心ついたころ、ただ、カルパスへゆくと云って消えた人を。それが、黒剣以外すべてを失った彼女がいま生きている理由だった。彼女はあの南方の奥地で、死にたくないと思った瞬間、それをする以外に生きる目的が無かった。何とは無しに、目的も無く流れるようにただ生きることが可能なほど、彼女は恵まれてはいない。

 フローティアはまっすぐ役所へ向かい、カルパスの住民となった。戦後に再建された塔が高くそびえ、旗が暑さにやられてだらしなく垂れていた。そして、既にもう、その旗へしがみつくサルの様な、なにか手足の間に皮膜をもった奇妙な生き物を確認した。それは空気のゆがみに隠れ、神聖力が無ければとうてい観ることのできない生き物にも思えた。何か細い曲がった棒のようなものを口にくわえていて、それが人の腕だと気付くのに時間はかからなかった。目玉が異様に大きく、陽光を反射していた。とたん、パッとそれは空に舞い、皮膜を広げて滑空した。一瞬、隣の尖塔の影に隠れると、そのまま、出てくることは無かった。消えてしまったのだ。まさに未確認飛行物体というわけだ。

 フローティアはブルッと震えて、伏魔殿のような市役所の暗い廊下へ入っていった。





第2章へつづく

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