六方剣撃 ソーデリアン 〜黒き血脈〜 第2章

 九鬼 蛍


 二 白銀の鷲の騎士


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 かつて、王都カルパスを高く城壁がとりまいていたころはむしろ都の外よりも都内に多く魔物が出没していた。百八十年ほど前、第七代ガブリエル朝へ執権宰相として仕えていたアルンディーノ ルキアッティが城壁を全て取り壊し、環状道路を整備するよう献策したとき、保守的な国王は激しくそれへ抵抗したと伝えられている。その後、国王と執権の間でどのような確執があったかは(おそらく意図的に)残されていないが、結局その後十年を経ずして王家は断絶し、第七代アデルナ王国は自由都市連合アデルナへと変貌した。

 以後、アデルナに形式上の王はいない。古来より続く種々の制度が廃止され自由化されたことにより皮肉にも経済流通は活発化し、アデルナはより富み栄えることとなった。カルパスを中心とした物流は川の流れが落ち葉を集めるように都へ人材と資金を集め、首都の整備は加速度的に進み、世界的にも有数の大都市圏を形成する強力な原動力となった。

 しかし、問題が無かったわけではない。発展と引き換えに魔物の出現率というのが異様に増え、被害は周辺の農村部はおろか、他の都市国家にまでおよんだ。都内でひしめいていた魔物たちが一気に都の外へ溢れ出た。大凱旋門と城壁は、実は魔物を都へ封じていた結界だったのではないかと噂されている。発展と同時にカルパスは魔物退治の一大産業都市ともなった。近代化に弊害はつきもので、社会的にそれが成されたからには住民はそれへ対応せねば新しい世界で生きてゆくことはできない。新時代へとり残された敗残者として、旧時代の価値観を引きずったまま、忘れ去られ、消えてゆくのみである。

 カルパスは住民税が非常に高い。しかし、その金の一部は永世執権国王代理ルキアッティ家の厳重な管理下におかれ、ハンテール協会を通し、魔物退治の報酬としてハンテールたちに支払われている。この厳格な特定財源による還元は一種の国民保険制度であり、都民は些少の出費で(最大で十分の一)強力な魔物退治を凄腕の退治屋へ依頼できる。税金としては高いが、例えばマンティコアのような魔物を退治するのに、地方ならいざしらず首都価格では何百アレグロもする。それを、肩代わりしてくれるのが協会だ。この制度を利用して、他の都市国家においてもルキアッティ家傘下の登録所に記名されたハンテールに退治を依頼する。いまやルキアッティ家に登録されるということは、正式な公的機関への登録を意味し、表のハンテールと呼ばれている。ルキアッティ家から金の出ない退治を裏の退治と呼び、厳重に区別されている。しかも、ルキアッティ家では別に裏の退治を法的には禁じていない。ルキアッティ家が裏社会にも願然たる支配力を有しており、時にはルキアッティ(すなわち都市国家=行政)自体が裏の退治を依頼しているからに他ならない。

 カルパスにおいて、退治屋たちは事務所を構えているものが多い。他の都市国家では登録所から個人的に報酬を受け取るが、首都ではそのような小口の退治では退治が間に合わない。ハンテールは組織だって黙々と魔物を退治し、事務所へ協会を通して役所から巨額の報奨金が支払われる。カルパスでいう退治業とは、まさに公共事業のことを指す。

 事務所の数は大小合わせて三百を越え、ハンテールの数は約千五百人。人口三十万のカルパスで、それはむしろ少ないほうだ。それを補うべく他都市よりも充実した都市軍をもっている。ハンテールたちは他都市よりやって来たり、事務所の見習いから資格をとったりして常に新人が出ているのだが、絶対数があまり増えない。なぜなら、魔物や魔導士により返り討ちにあい、消えゆく数も多いためだ。魔物退治とはまさに命をかけた誇るべき仕事であり、都市軍を含め、ハンテールはカルパスの子どもたちの憧れの職業である。

 ハンテールは、昼となく夜となく、日々街のどこかで魔物を退治している。その風景へ溶けこんで初めて、カルパス人といえるのかもしれない。カルパスにおいての死因の一位は、魔物による被害だ。それなのに人々はカルパスへ集まる事をやめようとしない。炎へ群がる蛾のようだと皮肉る者もいた。危険の中にひそむ魔都の魅力へとりつかれた者だけが、この街へ住む資格がある。

 八月下旬。月が高くカルパスの尖塔の上に輝くこの季節、人々は魔よけに柊の葉やハシバミの枝を戸口に飾る習慣がある。しかしそれは俗習で、じっさいに魔物を追い祓う効果はない。石畳と漆喰と無数のレンガにおおわれたこの大都市で、森の奥に潜んでいるような魔物の居場所は逆に無いようにも見える。が、人間の作る心の闇の中にこそ、その闇の部分の象徴である魔導は巣くっているのかもしれない。カルパスでは夜もかがり火が消える事はなく、闇をあまり作らないようにしている。かつて周辺森林の伐採が問題となったが、天然コールタールを利用した特殊な松明も開発され、夜景が素晴らしい。もっともそれも迷信に基づいたもので、ただ人々が夜に明るいところを歩くと安心するというていどのものだ。都民は心得たもので、特別に用がないかぎり夜半はけして外を出歩かない。暗くなってからウロウロするのは、生粋のカルパスっ子ではないというわけだ。もちろんそれは堅気の人間の話で、魔物のフリをして人を殺し、犯し、金品を奪うやつまで出るこの街で、人間の心の闇こそが魔物なのではあるまいか。

 「ぐうッ…!」暗がりで何者かが短い蟇(ひき)の唸り声のような悲鳴を上げ、倒れた。ランタンが地面に落ちて燃えあがった。巨大な影がいま仕とめたばかりの獲物をひきずっていた。ナイフのような歯で解体し、五体バラバラにして何処かへと順番に持ち去る。仲間が寄ってくる場合も多い。彼らにとって人間とは餌であり、また、種類によっては敵だった。彼らがいったい、いつからこのカルパスへ現れだしたのかは、彼らにも分からない事だった。ただ云えるのは、彼らとて生きてゆかねばならぬ。

 「また、おまえか」ハンテールのフルトは、静かに魔物へ問いかけた。魔物は突如として現れた天敵に身を震わせた。いつのまに近接を許したのか、まったく分からない。フルトは松明をかざした。ゆらめく濃いオレンジの明かりにまず浮かび上がったのは、きらっ、きらっと光を映す巨大な目玉だった。その目玉へ映る自分を見ながら、彼はさらに一歩、近づいた。背が高い。手甲、革の脚絆に丈夫な都会歩き用の革の短ブーツ。腰に両手用の長剣があったが、男の脚が長く、ふつうの片手剣に見えた。魔物を眼前にしているが、装甲は、都市の退治屋らしく平服の下に鎖帷子を装備しているだけの軽装だった。

 フルトは松明をさらに近づけた。魔物の目玉に自分が映って見えた。魔物は、動く絨毯にも見えた。見かけはムササビとまったくよく似ているが、体長は二リートに近く、獰猛な肉食獣なのだ。音もなく上空より滑空し、ナイフのような牙をもって一撃で頸椎や頸動脈を切断して人間を仕留めるその業は、昨今のカルパスのもっとも現実的な脅威だった。彼らにかかれば、人間はフクロウに狙われたネズミといえる。なによりやっかいなのは、どういう原理かまるで分からないが、忽然と姿をかき消す隠形術を駆使することだった。彼らは今年に入って急激に数を増やし、都民と退治屋たちを悩ませていた。協会では撲滅キャンペーンを展開していたが、報奨金があまり高くないのも手伝い、ハンテールたちの評判も悪く、キャンペーンは形だけで退治は追いついていない。腰の重い都市軍もついに出張りだしているが、状況は変わっていない。そもそも軍にやる気はない。彼らは、このようなどこにでもいる「小物」を退治するとカルパス正規軍としての名誉が汚れると信じていた。この魔物は、ハンテールたちは大モモンガ、人食い絨毯、兵士たちは消える旗などと呼んでいたが、いつしかバレンと呼ばれるようになった。由来は定かではない。

 フルトはそのバレンへ対峙した。街路松明の灯すら届かぬ裏通りで、右手に火をもったまま、慎重に近づいた。空中で最もその破壊力を発揮する爪や牙も、地上ではさほど役に立たぬとはいえ、おそるべき威力を秘めているのにはちがいなく、一人で相対するには少々荷の重い相手である。たいていの退治屋は、最低でも二人でバレンを倒していた。ふつうは三人以上だ。が、フルトの威圧に、バレンは動くに動けなかった。彼らバレンは非常に敏捷かつ強力だった。フルトは松明を左手に持ち替えた。瞬間、バレンが走った。逃げたのだ。彼らは滑空するため、高いところまでは自分で移動する。皮膜が風に揺れ、通路の奥の闇へ向かって溶けるように消えた。フルトはその方向をじっと見つめていたが、腰のナイフへ手をやると、一本とって、刃を持ち、柄を下にして下段投げに構え、風の音を聴いた。バレンの皮膜は音をたてず、最良の暗殺者といえたが、ごく一部の腕のたつハンテールたちは彼らが滑空するときに「チッチッチ」という極々微量の鳴き音を発することに気付いていた。それはかなり注意して、そして接近しないと聴こえないものだったが、フルトはこの退治法で既に三十匹のバレンを退治していた。もちろん業務機密に属するので、誰にも教えていない。

 振り返り、フルトはナイフを上空に向かって投げつけた。「ギイィ」とドアの軋むような鳴き声がして、そのまま、衣類が舞ってきたように、ふわりとバレンが落ちてきた。ナイフはバレンの顔面をとらえ、骨の薄くて脆い彼らは、ナイフ一本、矢一本で簡単に絶命するのだった。ただ、その一本を確実に命中させるが、至難なのだ。

 「くそおもしろくねえ」舌をうち、悪態ついたフルトはバレンの尾をつかむとそのまま引きずって事務所へ帰還した。このバレンが襲った人物はそのままだ。魔物の死体はハンテールに処理義務があったが、身元不明死体までは無い。その処理は、役所の仕事である。


 「いま帰った」

 「おつかれさまです、フルトさま」

 「こんなもの、いくら退治したってきりがねえぜ」

 フルトは玄関の隅に置いてある専用の箱へバレンの死体をまるでタオルを棄てるように放り投げた。バレンは焼却処分にする。そのための業者もいて、退治協会から委託されて魔物を処分しているが、バレンは数が多く燃料費がどうとか処理が間に合わないとか云い出し、最近は引き取り料も高い。手強さの割にあまり利益の上がらない、最低の魔物だった。この「フルト&セルジュ魔物退治請負」事務所では、五月からずっとバレン退治に終われていた。フルトの弟子でハンテール見習いであり、事務所の会計の一切を握っているセルジュ少年は、そろばん片手になにやら計算を始めた。

 「引き取り料がまた値上がりしまして、来月から一匹当り八十アンダントだそうです。報奨金は二アダー据え置きですから、差引一二十アンダント、必要経費をのぞいて、月に十匹は退治していただかないと………」

 「ふざけるなって」まったくもって赤字です、という気分の悪いセリフを聞くまでもなく、渋面でフルトは椅子に座り、棚からとったワイン瓶のコルクをかじって開け、喉を鳴らしてラッパ飲みにした。香りの強い、味が薄めの白発泡ワインで、一息に、瓶の半分を空けてしまった。フルトもセルジュもウガマール人らしく肌が浅黒いが、顔だちはやや北方系で、髪もフルトはシルバーブロンド、セルジュは茶金でどこか判別のつかぬ不思議な人種にみえた。

 「あれだってホンキで歯向かってきたら強え。協会はすぐおっ死ぬから弱い魔物とぬかしやがる。冗談じゃねえ。こっちの身がもたねえよ。こいつは、対処療法じゃ埒があかないとマリッツィオの旦那に云って、アンダルコンでもなんでも本格的に動かしてもらってよ、大本の魔導士を退治しないと。ちんたらやってたってダメだって」

 「魔導士ですか?」そう云ったのはセルジュではなかった。事務所にはもう一人いた。ただし奥の客間に。云われてみれば、奥の部屋に明かりがついている。フルトは不覚にもまるで気がつかなかった。ドアが開き、人物が現れた。フルトはあわててテーブルの上へ乗せていた足を下ろし、バツが悪そうに椅子から立って会釈をした。「マリッツィオさん、こんな夜半にわざわざ、ご苦労さまです」

 「マリオでお願いしますよ、フルトさん」

 その若者は、身なりは地味だったがその衣服の生地自体は非常によいもので、権力の象徴である赤で統一され、ふんだんに絹や金糸、銀糸が使われていた。切れ長の眼と細い顎が特徴的であり、年齢はフルトたちもくわしく知らなかったが、数えで二十八歳のフルトよりも若いのだけは確かだった。

 「無理を云いまして、セルジュに入れてもらったのですよ」

 「しかし、なんでまたこんな」

 「もちろん、バレン退治の打ち合わせに。こんな時刻でないと、なかなか自由時間がとれませんのでね」マリオは勝手にテーブルへついた。乱雑に乗っている書類を適当にとって、次々と眺める。「セルジュ、ここの計算が間ちがっていますよ」

 セルジュは赤面し、書類を受け取った。

 「さて、バレンですが、数が増える一方で、都民の苦情も多い。しかし、あんな安手の魔物などアンダルコンはまともに相手をいたしません。数が多いので、報奨金も上がりません。ましてや、魔物の強い強くないは、退治屋がきめることではありません。金を出すほうが決めることです。ですから、フルトさん方のような民間の退治屋さんには、もっともっと頑張っていただこうというわけです。しかし、いま、興味深い言葉を聴きました。魔導士を退治せよと?」

 「くわしくお話ししましょう」

 フルトがいざなって、マリオは再び客間へ入り、フルトも席へついた。セルジュが手早く、来客用ワインとゴブレット、それにチーズを切って出した。ワインは既に客間で一本開けていたが、新しいものを出した。

 「バレンは、魔導士が影で操っているのですか? だとすれば、いったい、何のために?」

 「質問は一つずつお願いしたい。しかし、いきなり確信をつくその性格は、わたしは気に入っていますよ、マリオの旦那」

 「商人にも政治家にも向いていないと父は云いますがね」マリオは声を出さずに笑った。フルトはまじめな顔をして、身を乗り出した。「春先からこっち、いきなりどこからともなく現れ、瞬く間に増殖したあの人食いムササビの野郎は、図書館や、旦那のツテで公文書館、さらに市役所やルキアッティ家の伝書まで、いろいろ調べましたが、過去のどんな文献にも登場していない、新種の魔物です。今まで隠れていたとも思えねえ。最近になって、魔導士が作り出したといっていいでしょう」

 マリオの細い目が、さらにナイフの刃のようになった。「しかし、フルトさん、魔導士が関与しているとはいえ、あのバレンは既に魔導士の手を離れ、勝手に殖えて暴れている。いまここで魔導士を割り出し、退治する理由はあるのですか?」

 「いいや、離れちゃいませんね」フルトはゴブレットを一口で空けた。

 「バレンのガキをおれはまだ見たことがない。あいつは、繁殖しているとみせかけて、まだ魔導士が造っているんだ。あの姿のまま、最初から生まれているんですよ」

 マリオの細い眼が、やや、大きくなった。

 「一匹、一匹ですか?」

 「そうです!」フルトの顔つきが変わった。マリオはまた眼を細めた。「確かに、あれだけいるのに、巣も見つかっていませんが………」彼は数のうえからいって、信じられないでいた。「そんな手間のかかることを、どうしてまた」

 「魔導士のすることですからね」フルトは鼻で笑った。「常識では、なかなか」

 マリオはしばらく考え込んだが、やがて意を決し、うなずいた。

 「まあ、よろしいでしょう。フルトさん、その線で探ってみてください。協会には話をつけておきますので、バレン退治はひとまずお預けということに。さあ、私はそろそろ戻らなくては。明日も早いのでね」

 マリオは席を立ち、裏口へ向かった。セルジュが見送りに出た。裏口には小さいが戦車みたいに頑強な馬車が停まっていた。マリオはそれへ素早く乗り込むと、馬車が間髪入れずに動き、闇へ消えた。セルジュが戻ると、フルトはもうワインを一本、空にしていた。

 「野郎、きっちり調べ上げてるぜ。アンダルコンを使ってな。バレンの巣なんざ、誰も探していない。探そうとも思わないんだ。ただ目先の利益のためだけに魔物を狩る連中はな。相変わらず侮れねえ兄ちゃんだぜ」

 「そうでしょうか」

 「ねるぜ」

 フルトは二階の自室へ向かった。セルジュはそれから少し書類の整理をし、階段下の物置を改造した自分の部屋でベッドへもぐり込んだ。ヤモリがたくさんいる部屋で、彼は別にそれを不快と思っていなかった。「明日からもっと残業だあ」フルトが本格的にバレン退治に乗り出すようなので、セルジュはそうつぶやいて、早々に寝息をたて始めた。


 魔都カルパスにおいて、魔物の出現数というのは、まさしくアデルナ随一であるばかりでなく、それは世界一をも意味した。しかしカルパスに人は絶えない。三十万カルパス人は、魔物で死ぬことを事故か病気で死ぬことのように日常としてとらえている。戦争や天災、または殺人事件などのほうがよほど非日常だった。魔物に襲われるのは不幸なことであるが、だからといってカルパスで暮らさぬ理由にはならない。他国や他の都市国家の人々は、そんなカルパス人の気質を魔物ボケといって皮肉っている。

 古来より首都カルパスはアデルナ地方の政治経済の中心にして交易の中継地点、そして情報発信地であり、人々の集まりと交わりの中に大きな利益が生まれ、それが人を惹きつけてやまない。

 そのカルパスの防衛を担う都市軍は三つに別れていて、第一軍は最も規模が大きく、主軍であり、主に街道の警備や周辺田園地帯の防備を担っている。魔物もさることながら、アルモルドの分岐点よりカルパス側の街道筋の盗賊団など犯罪者を取り締まるのもここだ。軍隊であり、特別機動警察でもあった。第二軍は情報担当であり、アデルナ中を駆け回って都市国家間の連絡を密にしている。変装していたり、商人へまぎれていたり、独自のルートを駆使してアデルナの原野を縦横に走っている。忍者のような特殊部隊といっていい。そして第三軍が通称「アンダルコン」古アデルナ語で「アデルナを護る者」を意味する対魔導機動軍であり、アデルナ最強のハンテール軍団だった。アンダルコン軍は兵数こそ少なく、一個大隊三個中隊総勢百五十三人からなっているが、隊員は連絡員や事務員に到るまですべてが凄腕のハンテールで、高含有率のテトラ=ジギ=タリス武器を装備し、独自の捜査網と機動力を持って都内の強力な魔導を専門に退治する。

 また軍の他に通常の警察組織があるのもカルパスの特徴で、他都市では軍が軍警察として兼務しているが、カルパスでは二種類の警察があった。一つは通常警察で人間の犯罪者を取り締まる。魔物退治はアンダルコンで、犯罪者退治はカルパス警察というわけだが、こちらは警察力が都内限定であり、第一軍と任務を分け合っている。もう一つは特務警察で、これはハンテールによる魔導退治サギや強盗、殺人等の「ハンテール犯罪」を専門に取り締まっている。軍は評議会(内閣と国会を合わせたようなもの)の直轄で行政組織として軍令部があるが、警察はカルパス市役所の管轄で市の警察局がそれを統括している。市役所は代々行政職内より選出された人物が君臨しており、他都市もそうだがカルパスに公選の市長というのは存在せず、市役所自体も評議会とは別に動いており、独立した、軍令部とはちがう役所の縦割り行政構造だ。したがって警察と軍は予算をとりあい、縄張りを争い、連携も仲も、何もかもすこぶる悪い。


 フルトは翌日から、たとえ繁華街の高い建物の間をバレンが音もなく舞っていようとも無視をきめこみ、魔導士退治に乗り出した。カルパスには大きな公園が三つあり、その中の一つは旧王宮(現評議院)から伸びる大通りに通じている。一岩彫りの大理石彫刻もすばらしい大きな噴水が三つあって、見事なコントラストを形作っている。そこにはよく大道芸人が集まって、昼間は憩いの場として市民に親しまれていた。フルトは家族連れや観光客、休憩中の商人たちに混じって芸人を見物し始めた。しかし一か所に止まることはなく、次から次へと流し見だった。なぜなら、特に芸を観ているというわけではなく、人物を探しているからだ。しかし目当ての人物はいなかった。

 フルトは公園を後にした。

 別段、困ってはいなかった。家を知っていたからだ。公園から路地に入り、裏通りのアパート街をめざした。しばらく歩き、浮浪者を何人か蹴散らして、子どもと犬が走り去るのを遠く見送り、街独特のにおいを嗅いで、まるで桃源郷にでも迷い込んだような心持ちで整然としているようでどこか不規則な通りが交錯する、迷路みたいなカルパスの下街を進んだ。やがて、とあるアパートで止まり、ドアを開けて入った。暗がりに白と茶色の猫がいて、大柄なフルトに驚いてギャアと叫び、矢のごとく足元をすりぬけた。階段を登り、三階に到達した。表札の無い、知らぬ者が見たら無人と思うほどにくたびれたドアの前で、フルトは四回、特徴のある付点音符のリズムでノックをした。ややあって、ドアが開いた。金髪の、暗みをおびた瞳を上目づかいにした、口がへの字の青年が現れた。

 「フルトの旦那………」

 「入るぜ、スティック」

 「こ、こまるよ、家にくるなんて」

 「おめえが公園にいねえからだろ」

 「子どもむけの芝居はやめたんだ。ちょっと、勝手に入らないでよ」部屋の中は人形の嵐だった。ありとあらゆる手製の人形が並んでいて、知っている者が見ても不気味というほかはない。「マレットはどこいった?」フルトは人形を見渡し、尋ねた。「人形くせえ部屋でおめえに用はねえ。マレットを出せ」

 「ボクに用ってことは、また新しい退治をはじめたんだなッ?」

 突如、部屋に甲高い声が響いた。スティックが肩を震わせて驚き、その声を制止した。「でっ、でしゃばるな、マレット!」しかし声は止まらない。

 「いいジャねえか、さいきん芝居がウケなくて、物入りだったんダロッ!?」

 それは一人芝居、いや、腹話術だった。それもかなり見事である。への字口は、まるで動いていない。スティックは、新たに造る途中や修理予定の人形の山の中から、みすぼらしい、黒ボタンが眼の古ぼけた熊の指人形を出し、手へはめた。なんと、これがマレットである。

 「よう、フルトの旦那、今日はまた、どんなネタを仕入れにわざわざこんなクズ野郎の部屋まで来たんダイッ?」

 「クズ野郎ってだれのことだ」

 「ケエーッ!! テメー以外にだれがいるってんダヨオーッ!」

 「まじめな話だ。スティックは黙ってろ」怯えたように、スティックが肩をひそめて黙り込んだ。上目づかいがとても嫌らしい。しかし、マレットは異常にけたたましく笑い、ますます饒舌となった。

 「ウケケーッ、フルトの旦那にかかっちゃア、まるでかなわねえナッ!」フルトは、そんな調子の強力な悪魔を知っていて、思い出していつも気分が悪くなる。「まあ適当に座りナッ。座るところがあればの話だがな。なんの話がイイ? さいきんこいつがウケないのを客のせいにして商売仇の少ない夕方に逃げ出したから、いろんなネタが溜まったままダゼッ! ボクがネタを売るのは、ごく限られたハンテールだけだからネッ! このボクのことを知っているネッ!」

 「座る必要はねえ。バレンか、それに類した名前の魔導士はおまえさんの名簿に載っかっていないか?」思わずスティックが眼をむいた。への字口を開きかけて、すぐに左手のマレットへ眼をやった。

 「どうしてその名前を? バレンったら、あの人食いモモンガだロッ!?」

 「はやく名簿を調べねえか。そのアタマの中につまっている名簿をよ」

 不敵にフルトは笑みを見せ、腕を組んでスティックを見下ろした。「およそカルパスの闇にひそむ魔導士で、おまえの名簿に載ってないやつはよほどの大物かモグリだからな。まったくおめえはとんでもねえ情報屋だぜ」

 スティックもマレットも、しばし黙り込んだ。彼らがどこからどのように情報を仕入れ、いったいどれだけの数の魔導士を把握しているかは、おそらくだれも知らないし、フルトにはどうでもいいことだった。彼らのことはアンダルコンでも知らないはずだった。フルトを含め、極々一部の退治屋のみが彼らを知っている。その中には裏の退治屋もいるらしい。一節には、スティック&マレットは引退した大物魔導士であるともいわれているが、フルトはそうは思っていなかった。

 「いくらだい? いくらで買ってくれるんだ? エッ!?」マレットは必ずこうきり出してくる。かれの情報に値段はない。同じ情報でも、より高く買ってくれる場合とそうでない場合によって、与える量や質が異なる。それは、そのハンテールがいかにその情報を必要としているかによって、必然、出すほうの気持ちも変わってくる。

 「二十五アレグロ」フルトは丈夫な野外戦闘用のバックパックから財布袋をとり出し、財布ごとスティックへ渡した。中身の金貨を見たスティックのへの字口が、物すごい形相でにやりと笑ったのを見て、フルトは安心した。二十五アレグロともなれば、スティックほどの庶民の数年分の収入になろう。スティックは革の財布を大事そうに宝箱へ入れた。

 「ではお売りいたしましょう」それは珍しくスティックの声だった。

 「バレンティーノという名の魔導士がいたはずです。うだつの上がらない、魔導士仲間でも目立った存在ではなかったはずです。私は、あのような魔物を創り出せるほど気の利いた術を開発できるとは思えません。よく出没していたのは、街の西側にある裏通りの界隈で、地下都市への入り口があると云われています。研究所があるとすれば、そこでしょう。これでよろしいか?」

 「もうひとつ。別料金か?」

 「いいえ、聞いてみてから」

 「最近の、そのバレンティーノというやつの動向は分かるか?」

 「五アレグロ」フルトは別の財布を出し、すぐに払った。

 「春先より、異国人とおぼしき連中との接触が盛んになりだしたとのこと」

 「異国人? どこの国だ。ストアリアか」

 「東方………太天帝国」

 「なんだと」さしものフルトも、しばし言葉を失った。腕を組み、唸り声を上げ、考え事をした。スティックはそんなフルトをじっとみつめた。急に静寂が部屋を支配して、外より人の声が聴こえてきた。スティックがふとその窓を見やると、カラスがいきなり激しく鳴きながら窓へぶつかるかと思うほどに迫ってきて、ぎりぎりで羽ばたいて去っていった。スティックが眼を戻すと同時に、フルトは顔を上げた。

 「いや、ありがとう。三十アレグロに足るすばらしい情報だった。きっとその魔導士は退治されるだろう」

 「どうも」

 「しかし、気になる」

 「ターティンですか」

 「ここしばらく見たこともねえ。むかしはよく商人がアデルナやウガマールまで来ていたそうだが………」

 「商人ではありますまい」

 「そうだな」長居は無用と、フルトは暇の挨拶もそこそこに、部屋を出た。スティックは、見送りもしなかった。ただ、今もらったばかりのアレグロ金貨を急いで再び箱から出し、引きつって息を吸い込み、甲高く声を裏返えらせて笑いながら、いつまでも厭くことなく数えだした。


 フルトはその足で、環状道路を走る乗合馬車の停留所へ向かった。しかし馬車へ乗るためではない。信号を律儀に待って、渡れの旗が上がると大股で素早く大通りを横断した。それから路地に入り、いくつか暗い角を曲がって裏通りに出ると、周囲を気にしつつ、とあるコーヒーショップへサッと入った。入ったとたん、座っていた客や店員が驚いて彼を見た。中にはあまりの驚きに立ち上がった者もいるし、一目散に裏口から逃げ出したものもいる。

 「これはこれはフルトの旦那………旦那みずからお出ましとは、こりゃいってえ、どういうお風のお吹き回しで………」小ぎれいな服を着ているが、隻眼の、足の不自由なマスターがわざわざカウンターから出てきて用心深げに云った。足どころか、右手も義手だ。元ハンテールで、魔物にやられて引退し、ここでネタ屋専門の喫茶店を開いている。店内はやけに薄暗く、煙草やそれ以外の煙が充満し、商談とゲームの音が響いていたが、いまはフルトのせいで静寂そのものだ。ここはネタ屋同士の情報交換場だった。ハンテールが直にやってくるのは、ルール違反である。

 「急ぎだ。魔導士の居場所をしりてえ」

 フルトは無造作に、カウンターの上にアレグロ金貨をばらまいた。マスターがアゴをしゃくり、若い店員が素早く金貨をかき集めた。

 「旦那だから、大目に見ますがね。二度とごめんですぜ」マスターは足を引きずりながら再びカウンター内に入った。魔導士も何も、ネタ屋の相手はハンテールだけとは限らぬ。魔導士にネタを売る者もいる。フルトでなくば、命の保証も無い行為だった。

 「で、なんて魔導士で?」マスターは無愛想に、豆を挽いた。

 「バレンティーノ」

 「ビンゴォ!」角の席にいた歯欠けがガッツポーズをした。何人かが、舌打ちをした。何人かは歯欠けの情報を聴くために耳へ全神経を集中させた。彼の情報より優れた情報を自分が持っていた場合、すかさず商談に割り込むために。「イヒヒ」歯欠けの笑い声は、フルトの気に入るものではなかった。その後の低くて小刻みな話し方もそうだった。

 「私は、きゃつめの研究所へ行く詳しい道を知っております。よろしければフルト様、ご案内役を買って出てもよろしゅうございます。もちろん、私めの身の安全を保証し、全額前払いでお支払い頂けるのであれば」

 「案内はいらねえ」

 「えっ」

 フルトの即答に、何人かのネタ屋が笑いをこらえた。歯欠けは仲間の反応に舌をうちつつ、続けた。「で、では、研究所の位置と道をお売りいたします。十五アレグロで」

 「十だ」

 「ごじょうだんを。十三」

 「十一」

 「十二」

 「どっちにしろ、手持ちがねえ。さっきの迷惑料でパーだ」

 「後で事務所へ組合から請求書を。私はネタ屋組合の正式な組合員ですから、ガセはつかませません」フルトは驚いた。「おまえら、本当に組合なんか作っているのか」

 「もちろんでございますとも。まあ、組合とは聞こえがよろしいですが、ようは相互補助組織で。ハンテール協会ほどではございませんが。我々のような立場の弱い職柄は、互いに助け合わないと。組合にもいろいろありますがね。詳しいことは申せませんが」

 「ふうん」きっと裏で魔導士ともつながっているにちがいなかった。

 「では、十二アレグロで」

 「ああ。事務所へ回しておけ」

 歯欠けは羊皮紙の切れ端に、素早く羽ペンで某かを書きつけると、フルトへ渡した。「毎度アリィ」そのまま、目もくれず、出て行ってしまった。フルトも、メモを確認もせずに、コーヒーも飲まず、店を後にした。

 今夜、さっそく急襲する。


 その日、フルトが夕刻に戻ってくるや攻撃開始を宣言したので、セルジュは大忙しで書類の整理をし、フルトの装備を手伝った。見習いの重用な仕事である。フルトは個人事務所であり、いつも退治は一人だ。大体は魔物を退治しているが、たまに魔導士も退治する。魔物退治の装備と、魔導士退治のそれはおのずと異なる。とうぜん対魔導士の方が重装備だった。フルトは攻撃重視型で、防具よりも武器へ気を使う。愛用の長剣のうち、特に頑丈で攻撃力のある聖呪文の刻まれたもの(ジギ=タリス含有率七〇%以上)を選び、また手甲にも伸縮式の短剣が埋め込まれ、いざというときはそれで殴り刺して攻撃する。手持ち用の短剣は腰へ長さの異なるものを二本、ナイフに到っては脚から靴から、額を護る鉢がねのベルト部(こめかみ)の飾りが実はナイフになっているという隠し武器まで、何本装備しているか自分でも数えていない。もちろん楯など装備せぬ。装甲はいつもの軽装甲へ隠し武器入りの鉢がね、手甲と脚絆、それに戦闘用ブーツが追加されるだけの完全駆逐型の重ハンテール。カルパスの退治屋はたいていが都内での退治であり、糧食等、旅の装備はしない。退治は常に一撃必殺の心がけだった。

 セルジュがペスカという個人契約の小型馬車を呼びに行っている間、フルトは食事をした。食事といってもほとんど戦闘食だ。堅パンにハム、チーズに作り置きの野菜の肉汁(ブロート)煮を片っ端からかぶりつき、ワインで流し込んだ。しかしけして食べすぎない。それから部屋の隅へ行き、戸棚の横で影に隠れるように飾ってある小さなタペストリーの前で祈るような仕種をした。

 フルトの強さの秘密の一ツは、強襲だった。特に情報を得てから攻撃までの疾さこそが、退治屋フルトをフルトたらしめる所以だ。いつも頼んでいるペスカが到着し、慣れたもので、フルトが跳び乗ると間髪入れずに出発した。金持ちや高級官吏が乗るようなものではなく、地味で目立たぬ馬車だった。しかし、その貧相な外観からは想像もできぬ特注車で、まず板張りの下にはモンテールの熟練職人の手による軽くて鉄より頑丈な特殊合金が張りめぐらされており、車輪もその合金による。車輪は、目立たないようわざと汚されている。馬は軍馬と荷馬をかけあわせた専用のもので、黒毛で脚は短く、いかにもこの貧相な馬車を引くようなものであるが、よく走り、闇を恐れず、頑丈で、まさにうってつけのものだった。大きな蹄をガッガッと鳴らしながら馬車は進んだ。速度はさすがに競走馬とはゆかないが、戦車馬の血を引くだけあって、一心不乱に路を往く。環状道路を避け、直線と曲線を使い分け、御者はフルトを運んだ。御者はフルト専用となってもう四年になる。彼はこの仕事へ誇りをもっていた。フルトは御者を気遣い、名も知らぬし顔もよく知らなかった。言葉もかけ合わさぬ。いつ魔導との戦いに倒れても、御者へ報復がゆかぬようにするためだ。御者はフルトを心底信頼し、尊敬していた。なんの言葉をかけられなくとも、まるで主家へ忠誠を誓う騎士のようにフルトへ絶対の想いを抱いていた。御者の報酬は、他のペスカ相場の三倍であった。その破格の待遇だけでも、フルトの思いやりと信頼を感じる。御者も全身黒づくめで、端から見るとまるで悪魔の馬車だった。事実、フルトの地味な馬車が出動するとき、魔導にとって地獄の使いが出立したに等しい。

 彼は、メモにあった住所のひと区画前までくると、馬車を止めた。そのまま闇へ消える。すると馬車は移動を始めた。朝まで、近くの神殿へ避難する。

 そこはクルシェネッ区というカルパスの暗黒街のようなところだった。治安が極端に悪いため、夜盗や犯罪組織の人間がウロウロしているのだが、この夜はすでにだれも歩いていない。ウソのような静寂と闇だ。空気は重くたちこめ、緊張していた。個別の魔物の気配というわけではない。すでに通り全体がフルトへの敵意を抜き出しにしていた。

 「上等だ」

 フルトは指の骨を鳴らした。それを合図に、通りの奥から兵士の行軍のような足音が近づいてきた。続けて抜剣の音。月光に剣身がきらめいた。フルトも徐々に走り出した。

 現れたのはヤクザ組織の護衛をしているような、傭兵崩れの用心棒だった。数は八人。はじめは固まって一列になってきていたが、やがて通り一杯に広がって鶴翼の陣を布いた。フルトを包囲しようというのである。フルトは容赦なくその中心へつっこんで行った。かざされる剣身をかいくぐり、「ぬらあ!!」目の前の一人へ肩当てぎみにタックルするや、隣を前蹴りに蹴り飛ばし、それから適当に近いやつへ目をつけて右の正拳一撃、そしてその隣へ左フックと強烈な連携パンチでたちまち二人を昏倒させた。あまりの強さに呆気にとられていたが、遅まきながら囲むように距離をつめた傭兵たち、しかしそのときにはフルトは行きがけの駄賃にもう一人連続パンチと蹴りの連携をお見舞いするや、もう振り返りもせずに猛然と現場を走り去っていた。「おっ、追え、追えッ!」一人が云ったが、仲間たちが我先にと逃げ出したため、「待ってくれえ………」と、慌てて後を追った。

 メモにあったのは、ビレットという名の小料理屋だったが、そこは既に廃墟だった。建物そのものが陰気をまき散らし、窓に鬼火もゆらめき、口を開けた魔物にも見えたがそれは虚仮脅しだ。熟練のハンテールには、なんの意味もなかった。

 ただ、どんな罠があるか分からないのでそれだけは慎重にならざるをえぬ。フルトは照明も持たずに闇の中を進んだ。まるで見えているようだった。瓦礫を踏みしめ、厨房の奥まで来ると、大きなパン焼釜の横の壁を拳で三度、叩いた。すると、レンガがスーッと割れ、扉が現れた。隠し扉だ。扉を開けると下へ続く階段があった。

 まったくの暗闇の中へ、フルトは臆する事なく消えた。明かりも持たず平然と進んだ。狭い階段が続いて、階段は何度か直角に曲がり、どんどん真下へ降りて行った。やがて石を掘った通路は天然の岩石がむき出しとなり、出口が現れた。ドアも無く、ポッカリと穴があいて、さらに進むといきなり洞窟のような場所へ出た。広い。大戦当時、魔都カルパスへ聖導皇家が攻め込んだとき、魔導軍はこの広大な地下空間へ逃げ込み、籠城して占領軍へ地下よりゲリラ攻撃をしかけ、なお七年を持ちこたえたという話だった。その名残の洞穴へ現代魔導士たちが好んで秘密基地を作るのは、当然といえた。

 足場は悪く、湿って滑った。洞穴の壁へ手をそえつつ、剣を持ったまま、フルトは慎重に先へ向かった。この奥に、魔導士バレンティーノの研究所があるはずなのだ。

 しかし、フルトは何の妨害も無く進むことができた。かすかに、水の滴る音とコウモリの羽音しか聴こえない。空気は冷え、微風が頬をかすった。やがて、岩影が消えゆく闇の向こうに館らしき建物があるのを確認した。建物には明かりがついており、中に人がいるのは明白だった。フルトは剣の柄を握りしめ、強襲の体勢をとった。構え、一気に突撃する。しかし、フルトが低い姿勢のまま突進していると、やおら建物のドアが開いて中から二人組が跳び出てきた。彼らはそのまま、フルトへ向かって走ってくる。フルトは驚いたが、その後にすぐ建物から出てきた小柄な人物がいきなり照明の呪文を発動させたのには参った。神官だ。神官がいたのだ。

 「うわあああッ!!」叫んだのはフルトだった。フルトは暗視の術を使っていた。闇を見通す特殊な視力を得るものだ。そこに光弾を当てられたのでは、たまったものではない。視界が真っ白になり、激痛が走った。フルトは眼をおさえ、ほんとうに何も見えなくなってよろめいた。すでに誰か他の退治屋が、魔導士たちを追い詰めていたのだ!

 「くそッ、照明の呪文だ!」

 「おい、前にも誰かいるぞ」

 フルトは舌をうった。とんだ誤算である。

 「野郎、冗談じゃねえッ!!」

 そのまま呪文を唱えた。彼もまた、神官戦士だった! フルトが唱えた呪文は、照明の呪文へ対抗する、光を消す暗闇の呪文だった。彼はそれを洞穴の天井を煌々と照らす照明へぶつけた。対抗呪文は高度なものだ。特に神聖力による闇は………すなわち真に神聖なる闇というものは、非常に高度だった。

 たちまち光は消失し、洞穴は再び暗闇におおわれた。「お、おい、あいつは味方か? それとも頭脳がマヌケかッ!?」

 「どっちでもねえ!!」涙をぬぐいつつ、フルトは剣を振り上げた。フルトが何者かを確認しようとしていた二人組は、闇に煌めく聖刻の波動を確認して、彼を敵だと悟ったようだ。鬼のような形相で迫ってくるフルトに驚愕し、慌てて他の方向へ逃げ出した。「あっ、あいつは………あの剣は!」魔導士たちの顔面は恐怖でゆがみ、汗で濡れた。

 「フッフ、フルトヴェングラーだ!!」

 「に、逃げろ、研究所へもどれッ!」

 「だめだあッ、やつがいるううーッ」

 二人はパニックに陥り、完全に竦みあがって魔術を使うことも忘れ、そこらじゅうをヤモリのように這って回った。二人は離ればなれとなり、互いの位置も確認できずにただ逃げまどった。荒く息をつき、やがて一人は、何者かの脚につかまった。「お、おい、無事だったか、まいたか、ヤツをまいたのか!」

 「誰をまいたって?」

 「ぎゃああーッ!」

 それはフルトの長い脚だった。魔導士は知らずに猛獣にでもすがったように泣きだした。

 「死ぬ前にひとつ質問に答えな。おまえの名は」フルトの瞳は、闇にぼんやりと青く光っていた。暗視の術のためと、瞳から神聖力がもれているのだ。魔導士の眼もまた、魔力により紅く光っていた。しかしその瞳は恐怖におびえ、もはや戦闘の意思はない。滝のような汗をかき、泣きながらふいごのごとく荒く息をついて、声をしぼりだした。

 「バ、バレッ………」

 「あんたがバレンティーノかい。まあ、あの世でまだ魔導士をやるってんなら、くだらねえ功名心で魔物に自分の名前をつけるのは、やめるこったな!!」

 うなり声と共に剣がふり降ろされた。切っ先から三寸ほどが右の首筋から胸にかけて深々と食い込んだ。肉の裂ける音と、骨の砕ける音が同時にして、魔導士バレンティーノは一撃で絶命した。

 「もう一人いたな………」

 フルトは気を弛ませず、バレンティーノを蹴飛ばし、剣を抜くや、まだ明かりの点いている建物へ向かった。近づくにつれ、暗視の術を解いていった。やがて建物の窓まで来るころには視界は通常に戻っていた。窓よりのぞくと、誰もいなかった。先ほど照明の術を使った神官もいないようだった。入り口へ回り、静かに中へ入った。入ってすぐは生活空間で、物が転がり、雑然として椅子やテーブルは激しく乱れていた。争った跡だ。奥へ行くと、台所があり、さらにちがう部屋には書斎があった。フルトは慎重に書物を確認した。古の魔導書があると期待したが、それは無かった。それから、研究ノートがたくさんあった。魔物の培養や育成に関する研究だった。バレンを造っていたのだ。

 フルトは書斎を出て、さらに奥へ向かった。通路は岩壁の中をくり抜いた部屋へ続いていた。窓も無く、魔術による薄い照明が廊下を照らしていた。奥は研究室だった。ドアは開いていた。中は広く、天井が高かった。フルトのこれまでの経験では、魔術でなにか魔物を育成(たとえばマンティコア)する施設というのは、ビーカーや水槽がズラリと並んでいたりするものが多かった。液体の中で魔物を細胞辺より培養するためだ。しかしここにあるのは、まるで植物園を思わせる、うっそうとした不気味な植物の姿だった。フルトは察した。木々には、スイカのような大きな実がたくさんついていた。ためしにそのひとつを剣で叩き落とし、割ってみた。案の定、中には、タネや果肉ではなく、できかけのバレンがいた。バレンは脈をうって震えていたが、フルトは左手に神聖力を集めると、電撃を発するように魔物へ手をかざし、蒸発させた。そして、天井を見上げた。木は蔦植物のように研究室一面にひろがり、天井からは無数に実がなって瓢箪のように鈴なりに垂れていた。

 さしものフルトも息をのんだ。「………魔物がなる木とはな………!!」

 聴いたことも無い魔術だった。さっそくフルトは呪文を唱え、腹で神聖力を練った。それを今度は右手の剣へ集めた。剣身へ打たれた聖刻が内側より青白い光を発し、剣自体がガタガタと鳴り出した。息を止め、足をふんばり、さらに剣へ神聖力を込めた。それから一気に走り寄り、木の根元へ剣をつきたてた。瞬間、光が弾け、バシバシと音がし、木へ剣によって増幅された神聖力が伝っていった。そこから木の幹は裂け、煙が出て、幹はやがて連鎖的に爆発した。連続して木の蔦はすべて蒸発し、あるいは融解し、吹き飛んだ。そして実は次々と地面へ落ち、砕けちった。フルトはもう、研究室を後にしている。もう一人の魔導士を探すために。

 建物より出、暗闇の中をフルトはゆっくりと歩き回り、探索した。岩は壁のようになって張り出していて、空間を迷路にしている。天井からは鍾乳石が伸びている。フルトは慎重に岩影から岩影へ移動した。やがて、彼は血の臭いと魔力の臭いを敏感に感じ取った。特に、魔力の臭いは彼がよく訓練された神官戦士であり、優れたハンテールであることを意味するのだが、魔導士個人個人によって微妙に異なるものなのだ。したがってバレンティーノの臭いと、いま嗅いでいる臭いとは、ちがうものであることに気付いていた。すなわち、もう一人の魔導士だった。しかし、彼は察していた。この血と魔力の臭いの強さというのは、とても生きている者から発せられているのではない事を。おそらくすでに、先ほど照明の呪文を使ったちがう退治屋に倒されているだろう。

 その推察は正解だった。岩影より大柄な身体を音もなくのぞかせたとき、彼の目の前には、向かって左からの袈裟がけに切り裂かれたもう一人の魔導士が、岩柱の根元へ寄りかかったまま、絶命していた。その傷口から血煙が立ち上っていて、火山の、硫黄蒸気の噴出を思わせた。臭いもまたそれによく似ている。そしてなにより凄絶だったのは、魔導士はすでに傷口より半ば白骨化していて、まだ肉体の蒸発する勢いは止まっていない。

 「この傷口は………よほどの神聖力が込められていないと」

 フルトは唸った。いま自分が使っている家伝の聖剣とて、ただ斬りつけたのではこうはならぬ。先ほどのように、何らかの術を使わないと。しかしそのような術が使われた形跡は無いし(すなわち神聖力の残留が無い。)この傷口はかなり強力な対魔導武器によるものと推察された。これほどの武器を持ち、さらに神聖呪文すら駆使するハンテールをフルトは何人か知ってはいたが、どれも先ほどの小柄な人物とはちがった。新しいハンテールだろう。強力な商売敵というわけだ。

 「まあいい、おれの仕事はバレンティーノの退治だ。こっちは知らん。そんな凄腕のハンテールならば、いずれ………会うだろう。帰ってマリオの旦那に報告しなきゃア」フルトはもう壊れたオモチャに興味が無くなった子どものようにこの魔導士へ決別すると、もと来た道を早足で帰った。そのころにはこの魔導士は、骨も崩れて跡形もなく消えてしまっていた。


          2


 フローティアがカルパスの住民登録を終えたのは、八月十五日だった。市役所の職員は暗い中でボソボソとものを云い、顔も上げなかった。若いのか年寄りなのかも分からない女で、「ちょっと、フローティアってどんな綴り?」と云った時だけ一瞬顔を見せた。フローティアがアデルナ文字で一つずつ教えた。ありがとうも女は云わなかった。それから、座ってて、とぞんざいに云われ、なんと二刻半(五時間)ものあいだ、そのままだった。申し込みをしてから半刻ほどで昼になり、職員たちは勝手に食事に行ってしまったので、自分もそうした。昼食は役所の傍にあったスタンドでオープンサンドとコーヒーを買った。いない間に登録証が出ても困るので急いで帰って来れば職員はまだおらず、かなりたってからようやく現れた。それからしばらくして職員が立ち上がったのでやっと出来上がったかと思い期待したが、ウロウロしてまた席へ戻った。そしてずーっとひそひそと同僚としゃべってばかりで、あれが仕事なのかと思った。何度か、自分の証明書がどうなっているのか聞いてみようかと思ったが、専門用語で云い返されてもよく分からないし、我慢していた。他に市民もおらず、なによりウガマールでも役所などこのようなものだったので、フローティアは指示されたまま座っていた。ただ、明日になるのならそう云ってもらえたほうが有り難かった。なにせ彼女は、今日カルパスに来たばかりで今夜の宿も決まっていないのだ。しかし、いよいよ名前が呼ばれ、サインと引き換えにカードをもらった。(あとで知ったが、この街の人々は昼休みを長く取り、仕事は夕刻近くから再開する。)

 フローティアが市役所を出たとき、もう日は西に傾いていた。その太陽を確認したとき、日光の中を「すうっと」よぎる物体を発見した。今朝方観た魔物だろうか。そう思っている矢先に、また、流星のように影が午後の日差しをよぎるのだった。あまりによく見えるので、フローティアは思わず辺りを見渡してしまった。周囲の人々はそのような影には目もくれず、ひたすら動いている。自分の見間ちがいか、はてはあれがふつうの光景なのか。影が魔物だとすれば、雀が飛ぶように魔物が飛んでいても、カルパスでは当り前だということなる。フローティアはさすが名にし負う魔都だと、妙なところで感心した。

 そんなことより、自分の住居を決めるほうが大事だった。このままこの都会で野宿など考えたくもなかった。野っぱらで文字通り野宿するのとでは話が違う。魔物に襲われるより人に襲われるほうが、彼女にとって恐怖だった。魔物は退治しても褒められるが、人を勝手に退治する権限は彼女には無いのだから。

 アパートよりまず宿だと判断し、市役所の門を警備する兵士へ声をかけた。衛兵は真っ先に「おまえは市民か?」と聞いてきたのでフローティアは今もらったばかりの証明書を見せた。衛兵はうなずき、「市民なら宿になど泊まるものではない!」といきなり怒りだした。フローティアは意味が分からず、事情を説明した。「なに、ハンテール!? じゃあハンテール協会で家を世話してもらえ!」

 「ハ、ハンテール協会ってどこですか」衛兵は舌うちし、「おまえが市民でなくば、とっとと牢へぶち込んでいるところだ。公務執行妨害と無宿人保護条令でな! この通りをまっすぐ行って、右側の三つ目の通りを曲がって、そうしたら看板が見える!」

 「ど、どうも………」

 「ン! ン!」フローティアが行こうとすると、兵士は咳ばらいをして、指を一本出した。フローティアは何か分からなかったが、兵士がまだエホン、エホンとやって、いきなり苦しそうに屈みだしたので「だ、だいじょうぶですか」と近よったところ、フローティアの服をつかんで引き寄せ、ものすごい形相でささやいた。

 「スッとろいやつだ! もうすぐ仕事が終わるのに話しかけてきやがって! 仲間を呼ばれたくなかったら、一アダーでいいんだ! 教えてやったんだから、礼をするのが筋ってもんだろうが! ええ!?」

 「はッ…?」その(まるで自分が悪いような気分にさせる。)迫力に圧倒され、フローティアは小銭入れから一アダーを払い、逃げるように通りを走った。仲間を呼ばれたからなんだというような考えすら持たせない迫力で、一刻も速く離れたいとはこのことだった。云われたとおりに行き、角を曲がると、通りへ垂直に突き出している小さな看板が見えた。「アデルナハンテール協会」

 入り口は狭かったが、入ると中はもっと狭かった。モンテールの紹介所のような場所を想像していたフローティアはあまりのちがいに驚いた。退治屋たちは基本的に、本部には用がないのだ。縦長に狭い部屋の奥へカウンターがあり、その向こうには階段があった。事務所は二階のようで、受付らしき場所には女がうつむいて書類を書いていたので、近づいた。外の雑踏がうそのように静まり返っていて、フローティアが自分の足音が申し訳なく思った矢先、いきなりその女性がチンチンチン! と卓上ベルをけたたましく鳴らし、フローティアは立ち止まった。

 「ちょっとその………」女性が顔をあげた。三十前後の、茶色い髪を無造作にまとめた、メガネの奥で瞳が異様に光っている、物憂げな雰囲気がこの場所へ溶けこんでいる女性だった。フローティアはその瞳にみつめられて、妙に動悸が激しくなった。女性はフローティアの藍色に暗く映る眼をジッと見た。

 「ちょっとそのランタンをとってくれる? 通りのこっち側は、もうこの時刻だと日が入らないから、暗いのよ………」

 フローティアが壁にかけてあるランタンをとると、女性が立ちあがった。「芯を出しておいてくれる?」そう云うと奥へ行ってしまった。フローティアは云われた通りにランタンについている摘まみをひねって、ネジ式の芯をランプの中で出した。「だしま……」フローティアがそう云いかけた時には、女性がいつの間にか戻ってきていて、フローティアの顔のすぐ傍で佇んでいた。

 フローティアは短い悲鳴と共に後退った。

 「はい」

 「えっ、えっ?」

 「火をつけるから。ちょうだい」

 女性の手には火口があった。ランタンを差し出し、女性はランタンの蓋をとり、火口を打って火をつけた。火はすぐにつき、炎が明かりとなって女性の顔を照らした。

 女性はランタンを持ちそのまま席へ戻ると、机の隅にランタンを置いて、またうつむいて書類へペンを走らせ始めた。フローティアは気まずいのかどうかも分からずにただ立っていた。やがて意を決し、声をかけようとしたとたん、女性が書いていた書類をサッと差し出した。フローティアはわけが分からぬ。

 「………?」

 「あんたの家よ。退治屋がよく使うアパートメント。馬車で送らせるわ。もう夜になるからね。遠いし。駆け出しのようだから、一部屋、風呂ナシ、トイレ付き、家賃は月一アダー。町民長屋ならいざ知らず、ハンテールが使うには、安くもなく、高くもなくといったところかしら?」

 フローティアが書類を受け取ったので、女性はまた下を向いた。

 「はやくサインしてちょうだい」

 「あっ、はい」完全に気押されし、机の上の来客用のペンで、フローティアは云われるがままにした。「住民証は?」「は、はい、これです」「ハンテール登録証」「はい……」

 女性は黙り込んだ。フローティアは口を半分開いたまま、女性がまた異なる書類にいろいろと書いているのをただ見つめていた。

 証明書が返却され、アパートの書類(契約書だった)の写しと部屋の鍵を渡された。

 「おい、こっちだ、はやく乗りな! あんたで今日の仕事が終わるんだからよ」

 振り向くと既に表は馬車がいるようだった。御者が、協会の入り口のドアを開けて不機嫌そうにまくしたてたのだ。「ど、どうも………」フローティアは女性に礼をし、その場を去った。どうもカルパスに来てからまったくペースをつかめぬ。馬車は箱型一頭立てで四人乗り。ただし客は彼女一人。女性はフローティアが出ると、もうランタンを消していた。

 フローティアが乗り込むと、馬車は勢いよく出発し、まだ座っていなかったフローティアはよろめいておもいきり背を打った。しかし文句をたれる気にもならなかった。都会流というものがあって、何かと気ぜわしいものなのだ。それへ馴れずして、都会で生活なんかできやしない。フローティアが小窓から外を見ると、夕日がまぶしく光っていた。そして、その赤い光の中を、やはり流星のように透明な影がよぎるのだった。


 馬車が止まったとき、フローティアは眠っていたようで、「おい、起きてくださいよ、ちょっと!」と身体を揺り動かされたので、あわてて身を起こすと、周囲はすっかり暗くなっていた。前の小窓より声をかけても出てこないため、御者がドアを開けたのだ。

 「二十五アンダントです」

 「えっ、お金?」

 「チッチッチッ! 新人を乗せるのはこれだから嫌なんだよ、あんたまさか、無賃乗車じゃないだろうな! ハンテールがオレたちペスカを敵に回してやってけるとでも思っているのなら、さっさと田舎に帰りな!」

 「あります、ありますとも。払わないなんて誰も云ってません!」気分を害したフローティアは小銭を叩きつけるように支払い、馬車を降りた。御者はありがとうございますも云わずに、矢のごとく暗がりに消えてしまった。後で分かることだが、夜には夜間専用の馬車があって、昼用の馬車で暗くなってから盗賊や魔物に襲われても誰も助けてくれないのだった。ゆえにこの御者は身の安全のため早く帰りたくてしょうがなかったのだ。ぼったくらなかっただけ、まともであろう。

 ちなみに夜間専用馬車とは、完全な武装馬車のことである。フローティアは急に魂が抜けたようになった。通りに松明が一定間隔に並んで燃えているのがとても不思議だった。街灯のつもりなのだろうか。その松明の、木ではない「何か」が燃える匂いも気になったが、もう暗いし、とても疲れていたので、よろめくようにアパートへ入った。アパートは五階建てで、部屋は三階だった。階段や通路には小さなロウソクがあった。鍵をあけ、入ると、すぐに居間になっていて、ドアからの薄明かりで脚の長いベッドがあるのが微かに見えた。二段ベッドのようにも思えたが、下に物を収納できるようになっている。ドアを閉めると部屋は真っ暗で、フローティアはもう面倒くさいので照明の呪文を唱えた。ただし、明度はかなり控えて。窓はすりガラスが入っており、カーテンは無かった。狭いトイレと洗面台のような台所。台所は小さく、料理には不向きなようで外食が中心となるだろう。フローティアは食事をとるのも面倒になり、そのまま顔と口だけ洗って服を脱ぎ、照明呪文を解除すると、ベッドへもぐり込んだ。

 そして何刻たっただろうか。ものすごく眠く、夢も見ずに熟睡していたはずだったが、突然眼を覚ました。その唐突さに、自分でもどういうわけか分からなかった。まるで誰かに起こされたようだった。それも、夢の中で。本当に、朝まで寝返りもうたずに眠っているはずだった自分の眼を覚ましたという行為の意味が分からず、ベッドの上で半身を起こしたと同時に、ダンと音がして、何者かが部屋から出て行ったのが理解できた。

 「えっ………」

 いやな予感がした。

 ベッドから飛び下り、再び呪文。見るからに荷物が漁られている。ベッドの下へ無造作に置いておいた少ない荷物が。散乱しているといっていい。「どッ……!!」信じたくは無かったが、いきなりやられた。カルパスにきて初日から、いきなり。「泥棒だアーッ!!」

 フローティアは蒼白となり、荷物をまとめた。しかし、なぜか財布は無事だった。彼女の本当の財産であるヴァンダー金貨と、リピエーナからもらった古代アデルナ金貨。それも無事だった。その代わり小銭入れがない。泥棒は小銭入れだけを先に見つけ、それで全財産とでも思ったのか。金貨はバックパックの二重底の中に入れてあるのだ。

 しかし、もっと重要なものが無いことに、すぐに気付いた。それに比べたら金貨など、何程のものでも無い。

 「けっ………」フローティアは震えだした。

 「剣が………剣が無い!! あたしの剣が、黒剣が無いーッ!!」

 まさか、剣が自分を目覚めさせたのだろうか。だとすれば、こんな場所で叫んでいる場合ではない。フローティアは下着姿のまま、部屋を飛び出た。「あああの野郎オーッ!!」出て分かったが、寝るまえに鍵をかけるのを忘れていた。しかしそれは、いまは思い出さないことにした。

 「どこッ、どこだッ、あいつ!!」フローティアは路を照らす松明の前で震えた。「どこへ行ったーッ、チキショオオーッ!!」

 正直、心の底で、もうダメだ、という感覚が芽生えてきて、自分で打ち消すのに躍起になった。剣あっての自分であり、剣はもはや分身以上の存在だった。これまでの放浪生活で、さすがに盗まれたことなど一度も無く、何をどうして良いのか分からない。とにかく今は動くことだったが、身体は正直で、気がつくと両膝を地面についている。「な、なにをしているの………立って………立ってあいつを追いかけなきゃ………」そう心の中でつぶやいたが、云う事を聞かない。

 そのフローティアを、いきなり後ろから羽交い締めにして立たせた者がいた。そして、もう一人がすかさず前に現れた。

 「おいおい大胆なヤツだなあーッ、この界隈で商売は認められてねえーッ」

 「…!」

 前の男がいきなりナイフを出し、フローティアへつきつけたが、にらみつける眼が変態だとか酔漢とかではなかった。犯罪者には変りないが、ヤクザというか、ギャングだ。しかも下っぱのチンピラではない。そこいらの魔物などよりはるかに凄味があった。

 「おい、ねえちゃん。誰の指図で立ってるんだ? 信じられねえことだぜ。いいか、知ってるとは思うが、ここいらはコンネーロ家の縄張りだ。まさかてめー一人でやってるってわけじゃあるめえ。ルキアッティか? フォンコートか?」

 当然だが、意味がまったく分からない。

 そして、さらに続けて混乱が起きた。通りから横に伸びる路地の奥で悲鳴があったと思ったら、何人か転げるように飛び出てきた。「兄貴ッ、やべえッ、魔物、魔物だ!!」

 「魔物だと!」

 兄貴とは、いま自分の前にいるやつらしい。

 「ミラーノがやられた!」

 兄貴は舌をうち、ナイフを持つ手が一瞬、躊躇したが、それをひっこめ、叫んだ。

 「今日はいい! 次ィ見つけたらそのまっ平らな胸ェさらにえぐってやるァッ!! せいぜい魔物に喰われねえよう気をつけな!」

 フローティアは突き飛ばされた。ギャングたちはまとめて、あっと云う間に消えてしまった。あまりに速い展開に、フローティアは逆に震えがすっかり止まって、呆然とその場に座っていた。眼だけを動かして、やがて怒りが沸いてくると跳ねるように起き上がってギャングが逃げた方へ指をさし、叫んだ。

 「まっ平らってどういうことだーッ!!」

 そして叫んでいる場合では無い事に気づき、とにかく走り出した。脚がよく動く事に、逆にあのギャングに感謝もした。だが、結論から云うと、剣は帰って来た。

 「だれか、だれかーッ、だっ、誰もいないのか? おいーっ、クソーッ、ギャングのくせに逃げちまったのかよおーッ!?」

 若い女の声だった。自分より若そうだった。フローティアは聞かない事にして盗賊を探しにゆく事もできた。しかし彼女は、その声の方向へ向かって走っていた。フローティアはまるで気付く余裕も無かったが、そこは先ほど下っぱが転がり出てきた路地だった。暗がりへ入ると、まだ松明の明かりが届く範囲内に、そいつはいた。案の定、へたり込んで震え上がっているのは、フローティアより少々年下のような女性だった。しかし、アデルナ人らしく、背もあり、肉感があった。その彼女の頭上で建物の壁にはりついていたのは、大きな虫だった。大きいといっても、尋常ではない。通常の概念のものではない。人間ほどの大きさの、巨大昆虫だった。魔導の勢力下にある森ではよく見かける魔物であったが、ここはそんな魔の森ではない。自分のアパートのすぐ近くである。さしものフローティアも度肝を抜かれた。しかし、クモではない。ムカデでもない。このサイズで人を襲う虫の魔物では、フローティアは初めてお目にかかった。それは、巨大な水生昆虫タガメだ。

 タガメは肉食の獰猛な昆虫で、羽があるため夜になると空も飛ぶが、本来は水の中にいる。水中でカエルやドジョウ、小魚を好んで襲い、その口針に刺されると消化液が流され、身体の中からドロドロに溶かされて、シェイクのように吸われてしまう。この大きさだと、人間一人ぐらいは手頃な獲物であるにちがいない。じっさい、麻痺して口から血の混じった赤い泡を吹きながら、大の男が、がっちりとその腕に抱えられて、内蔵を吸われていた。チンピラの仲間だろうか。

 「あ、あっ、助けて、退治屋さん?」

 少女は涙ながらに笑顔を見せたようだった。誰かが現れたというだけで嬉しく、フローティアが丸腰の下着姿であることにへ気付いている余裕はない。フローティアとて、笑顔どころではない。素手でこんな怪物虫と戦う技術はもっていないのだ。

 戦いの経験の無さが、嫌というほど身に沁みた。このカルパスで生き抜くためには、こういう修羅場を幾多もくぐりぬけなければならないのだろう。いまさらながら、黒剣に頼りすぎていた自分に嫌気がした。これは経験値を上げるチャンスなんだ、これは試練なんだと心で自分に云い聞かせたところで、何も大層な知恵など浮かぶものではない。今ここで必要なのは、腕力ではなく機転だ。

 タガメの前脚は自分の股ほどにも太く、微塵も動かなかった。ああやって彫像のように身を潜め、近づく獲物を狩る。少女は座り込んだまま固まっていたが、それが幸いしているのか。タガメの薄茶色い背は表通りの松明のオレンジを映してゆらめき、黒い眼にも炎が映っていた。壁にはりついているというより、空中へ水中のように浮いていると云うべきか。フローティアは自分が使える呪文の全てをおさらいしていた。照明、腹話、金縛り、着火、傷の治療。残念ながら、化け物タガメに効果のありそうなものはひとつも無い。

 しかし、だ。よく考えたら、ジャングルの奥地の生まれ故郷では、タガメなど晩飯のおかずである。そう思い出すと、頭が急激に冷えた。

 フローティアは静かに息を呑みこんで、ゆっくりと動き始めた。これは彼女が故郷で虫を捕える時のコツだった。虫というのは、素早く動く物体によく反応する。ゆっくり動けば、もしかしたら逃れられるかもしれないと思ったのだ。ゆっくり動き、座り込んだままの少女へ手を差し伸べた。少女は意味が分からなかったようだった。そこで、ゆっくり動いて、ゆっくり、とささやいた。少女は涙顔のまま頷いて、抜けた腰を引きずったまま、ゆっくりと這ってフローティアへ近づいた。そのとき、動いた少女の影より、長いものが地面へ落ちているのが見えた。フローティアはアッと思って、身を乗り出した。

 もう、フローティアの手には、盗まれた黒剣があった。フローティアへ既に先ほどの動揺は無い。サッと鞘より抜き払い、松明の光が黒曜石のように艶やかに輝く黒いエッジへ反射すると、鞘を投げ左手を添えて両手へ持ち替え、大上段よりタガメへ向けて斜めに叩きつけた。少女は呆然とそれを見つめた。一瞬の電光が走り、剣が届いてもいないのに、タガメは胸からまっ二ツにされて、体液を吹き出しながら地面へ落ちた。少女が瞠目したのは、衝撃がタガメの貼りついていた建物の壁まで及び、亀裂が走って細かいレンガの破片がバラバラと自分の足元まで落ちてきたことだ。湯の沸くような音がして、眼を上げると、タガメの化け物は燃え上がり、蒸発して、既に消えていた。

 「す………」少女は感嘆した。しかし「すげえ!」と云う前に、その喉元へ、黒剣の切ッ先がつきつけられた。

 「う………」

 「あなた、これをどこで?」

 「いや、あの、どうして?」

 「これはあたしの剣よ」

 少女は察したようで、たちまち両手を上げ、弁明を始めた。「ち、ちがう、ちがうの、これは………たしかに盗みもするけど、その、こいつは、たまたま魔物にやられちまったやつの傍に落ちていて、魔物はもういなかったし、死体だけが転がっていたんだ。それで、高そうだったから、つい………そこをね、その、コンネーロの連中に見つかって、そう、こいつ、こいつに取り上げられたんだ………そうしたらさっきの魔物がいきなりこいつを襲って………そうだ、向こうに、剣を拾った場所があるよ。魔物にやられたやつがまだいると思うなア。そいつがきっと、あんたから剣を盗んだやつさ!」

 少女はひきつって精一杯の笑顔を造った。フローティアは剣をひっこめた。

 「じゃ、そこへ案内して」少女は立ち上がり、やや震えながら案内を始めた。少女が恐れたのは、先ほどの黒い剣よりもそんな強力な剣を軽々と扱うフローティアのほうだった。

 「なんなの………眼が光ってる………それに、剣も………」

 神聖力が、闇に瞳よりこぼれているのだ。フローティアは闇の中で青白く光る眼と、それに黄金の線模様が脈打つように光を発している黒剣で、少女へ無言の圧力をかけ続けた。少女の云う路地はそう遠くはなく、すぐに到着した。そこには死体が転がっていた。フローティアは暗がりながらも、よく観察した。死体は男で、なるほど、盗賊だと云われればそのような雰囲気である。しかし奇怪だったのは、死体はすでに五体がバラバラにされていて、一面は血溜まりがすさまじく、腕が二本とも無かったことだった。フローティアはピンときた。夕日に流れる影の魔物を。

 「バッ、バレンだ、バレンだよ、バレンにやられたんだ。いまも近くにいるかもしれない。あんた、退治屋なら、退治してよ……」

 少女が後ろで不安げな声を出したが、フローティアは毅然として振り返ると、「あなた、退治の依頼料を出すわけ?」

 「えっ!?」

 いままでの半泣きな表情はたちまち消え失せ、少女は喚いた。「まッさかア、金なんかあるわけ無いだろう!」その現金さに、フローティアは逆に彼女を信用した。

 「まあいいわ。信じてあげる。あなた、盗賊といっても、そう、さっきのギャングみたいな連中とは関係なさそうね。別にあたしは剣が戻ってくればそれでいいの」

 フローティアは剣を鞘へ納め、安心して表通りを歩きだした。剣はちゃんと戻ってきた。それが安心だったし、いまどんな魔物が現れようとも黒剣さえ手にあれば、何も恐れることはないという自信も湧きあがっていた。

 そのフローティアへ、少女がついてきた。フローティアは無視していたが、少女(といっても横に並んだらフローティアよりやや背が大きい。)が横から話しかけてきた。フローティアが許してくれたので、急にこちらも安心したのだろう。

 「ね、ね、あんた、すごい武器を持ってるじゃんかよ。あんたみたいな退治屋、この界隈にいたかなあ。いつ引っ越してきたんだ」

 「今日………いや、もう昨日だわ」

 「なあ、おいら、トリーナってんだ。ケチなネタ屋さ。退治屋さんの名前は?」

 「………フローティア」

 「フローティア? 不思議な響きだね。な、な、フローティア、あんた、おいらを専属のネタ屋にする気はないかい? けっこういいネタがあるのさ。あんたとその剣だったら、いい退治ができると思うよ。ぜったいに失敗のしないね。ネタ屋としては、そういう人とこそつきあいたいんだ。あがりは、おいらが三で、フローティアが七でいいよ。これは破格の割合だぜ。勉強、勉強。ニヒヒ」

 「な………」なんて図々しい、と思って、フローティアはとたんに不機嫌となり、口をつぐんだ。

 「おっ、黙ってるってことは、OKってこと? よっしゃ、きまりィ!」

 フローティアはびっくりした。なぜにそうなるのか。「ちょっと、何を勝手に決めつけてるの。あなた………」

 「トリーナだよ。トリーナ」

 「トリーナさんねえ」

 「呼び捨てでいいって、そんな、他人行儀なさァ」

 「他人だろ」

 「待って待って待ってよ、ねえ、フローティア。あなたカルパスにきたばかりだから知らないでしょうけど、ここで退治屋家業するんだったら、ペスカとネタ屋とだけはうまくつきあわなきゃ、ぜったいやってけないぜ。ピンでなんて、無理だってば。どこで修行したか知らないけど、カルパスでやってくのならね。だから、これも何かの縁じゃないか。魔物から助けてもらってさあ。フローティアがおいらを助けなかったら、その剣だって帰ってこなかったよ、きっと。だから、損はさせないからさア」

 フローティアは立ち止まった。たしかにそうだ。あの盗賊が魔物に襲われなかったら。トリーナが剣を拾ってなかったら。ギャングにつかまらなかったら。そして、あの時、フローティアが彼女を助けにゆかなかったら。

 「まさか、ぜんぶ黒剣が………?」と、悟った。いままでの剣の動向から鑑みるに、盗まれたところで剣が勝手に盗賊を退治して知らぬ間に帰ってくるはずなのだ。それが、最後まで剣は何もしなかった。つまり、剣の導きなのではないか。そうすると、このトリーナと導き合わせてくれたということになる。剣がそう判断したのだったら、フローティアに異存はない。

 「まあ………いいわ。分かった。よろしくね、トリーナ」

 「そうこなきゃア!!」トリーナはむりやり握手した。

 「ところで、あなたは幾つなの?」

 「十五………もうすぐ十六だ」

 「じゃあ、あたしほうがよっつも年上なのだから、それ相応につきあってもらいますから。仕事仲間と友達はちがうのよ」

 トリーナはまるで聞いていなかった。

 「ところで、フローティア、あんた、なんでそんなかっこうなわけ?」

 またフローティアはムッときた。

 「寝てたのよ!!」

 「あっそう、まあいいさ、また、明日、くるから。仕事しよ、ね、ね、いっしょに。じゃッ、よろしくゥ!!」

 なにやら歓声を上げながら、トリーナは暁闇の通りへ消えた。「ネタ屋って………あんなに騒々しくっていいの?」

 ネタ屋はウガマールにもいたので、だいたいは素性が想像できたが、あのトリーナというのは、勝手がちがうと思った。まあ、新人なのかもしれない。自分より若いのだから。(自分も新人だが。)

 アパートへ戻ったフローティアはドッと疲れて、今度こそ本当に泥のように眠りこけた。鍵をちゃんとかけて。


 起きたのは何者かによる激しいベル音でだった。太陽はすでに正午近くの位置にいた。小窓からのぞくと、嬉しそうにそわそわして立っているトリーナがいた。フローティアは素早く中へ導き入れた。

 「おッはよう、フローティア」

 眼が腫れ、フローティアの顔はだれが見ても不機嫌そのものであったが、トリーナはまったく気にしていなかった。家主を押し退け、容赦なく入り込んだ。フローティアは両手を上げて抗議を始めた。

 「勝手に入らないで。いきなり仕事の相談ってわけ? 顔を洗ってもいい?」

 「早く洗いなよ。そのとおり、さっそく仕事だよ。ホラ、どうせなにも食べてないと思って、ブロートサンドを買ってきたよ。お茶はフローティアがいれてね」

 「どうやってこの部屋が?」

 「調べた」

 「どうやって!?」

 「秘密」

 「………この部屋で、お湯はどうやって沸かすのかしら?」

 「しらないよ」

 「水で我慢して」

 「しょうがないなあ、早く着替えてよ。先に食べてるからね!」

 トリーナは勝手にテーブルへつき、牛モツバーガーともいえるモツ煮込みをはさんだブロートサンドへかぶりついた。茶がかった金髪の巻き毛を後ろに束ね、鳶色の瞳をまんまるにしてよくしゃべる。アデルナ人らしく鼻が高く、ふっくらと肉感的だった。四つも年長のフローティアであったが、雰囲気が落ち着いて見えるだけで、身体的にはまるで逆に思えた。

 フローティアは洗面所兼流しで顔と口を洗い、まだカップも買ってないので流れる水道水を手ですくってのんだ。腰ほどまである髪を無造作にこちらも後ろで縛った。しかし、まるで眼が覚めず、もそもそと着替えるとトリーナの前へ年寄りのように座り、ため息をついて腫れぼったい眼をこすった。トリーナが親切心でサンドを押しつけてきた。

 「ほら、食べなよ」

 「まだ食欲がない」

 「食べないともたないよ。今日も暑いんだから。無理にでもさ」

 「いいって。後でいただくから。………で、仕事ってなんの?」

 「そうそうそう!」手にしたサンドをひっこめて、トリーナは口からものを飛ばしながらまくしたてた。しかし、まるでもう報償を山分けしているかのようなはしゃぎ方であり、話にまったく要点がなく、あっちへ飛び、こっちへ飛び、フローティアは自分で想像し、補って、整理する必要があった。ようするにこういうことだ。

 「バレンの秘密の繁殖地を破壊して、一網打尽にしよう」

 これだけを云うのに、やたらと話がそれた。どうも、アタマに浮かぶコトが自動的に口から出るタイプのようだった。しかも、些細なことですぐ高揚する。

 「いやね、これはめっちゃくちゃ絶的に貴重な情報なわけよ! これを知ってるのは自慢じゃないけど都内で何人もいないだろうなア。あ、ネタ元は聴かないでね。それがルールってもんだから。フローティアならできるよ! 探してたんだア、そういう凄腕のハンテールを! 報酬は高いし、一石二鳥だね!」

 カットメロンのように口を曲げ、肩を揺らしていかにも楽しそうに笑うのだった。フローティアは心配になってきた。まるで自分とは正反対の性格だ。こんな人物とコンビなんか組んで大丈夫だろうか。来た早々、憂鬱な朝食だった。

 フローティアはせっかくだからサンドをかじりだした。味がしない。のみこむのに苦労した。そもそも、話の最初から分からないことがある。

 「で、バレンってなに?」

 「ムササビみたいな魔物さ! いま都内で一番やっかいなやつなんだよ。飛んでるうちに、こう、パーッと消えちゃんだ。それにけっこう強いんだ。だけど退治料は暴落してみんな困ってる。依頼人が独自にいろんなハンテールに頼んでるんだけど、なかなかうまくいかない」

 「依頼人はだれなの?」

 「匿名さ。ネタ元と同じという事だけ云っておこうかなー。フフン、これもホントは秘密なんだけど! フローティアだけ特別だよ! おいらが賞金を仲介するんだぜ。こんな仕事はまず無いね! おいらと知り合って良かったねえ〜」

 「………」フローティアは怪しくってしょうがなかった。眉を押えてしまう。

 「で、報酬はいくらなの?」

 待ってましたと、トリーナは声をひそめた。

 「聴いてオドロキな。二百五十!」

 「二百五十………アンダント?」

 「アホか!!」トリーナは目をむいた。「二百五十アレグロ!!」

 「まさか!」フローティアは身を引いた。「そんな大金の退治なんて、あなた、本当の話なの?」

 「心外だなア」トリーナは立ち上がった。「あるよ。カルパスだよ? どっかの田舎都市とはちがうんだ。マンティコアの相場が、一匹、百〜三百だからね!」

 フローティアは聞き逃さなかった。「ちょっと、ちょっと待ってトリーナ、マンティコアって」コルネオ山の、あの魔物である。「その………カルパスに普通にいるの!?」

 「いるよ。たまにね。強いぜ。悪いけど、フローティアにその剣があってもまだ早いと思う。出会ったら、運がなかったと諦めるんだね。だから、この退治は、マンティコア退治に匹敵する凄い仕事ということさ!!」

 フローティアは考えた。どちらにせよ、仕事はせねばならぬ。

 「やってみましょう」それを待っていたかのように、トリーナの笑顔がはじけた。

 「だけどその前に、あたし、買い物がしたいのだけれど。お店知ってる? 仕事は、明日からにしてくれると助かるな」

 トリーナの顔が、さらに、日が差したように明るくなった。「えっ、買い物!? いーねえ、買い物しようよ! お買い物大好き! いい店たくさん知ってるよッ! なに買う? 家具? その前に食器? 服は? 寝具もそろえなきゃねッ」

 「それと、ワインと、常備食も、少し」

 「まかせなさいな!!」

 トリーナはふんぞり返って胸を叩いた。そして、ぼそりと、云った。

 「お金は………あるんだよね?」

 「ええ、いちおう」

 「じゃあ行こう!」

 二人は連れ立って表へでた。トリーナは上機嫌で、常に何かしら鼻唄をうたっていた。路地を歩いて表通りまでゆき、そこで環状線まで歩いて乗合馬車へ乗った。半刻ほど揺られて到着したのは、カルパスの大衆階級がよく集まる繁華街で、いろいろな店が連なっている商店街のひとつだった。ここでフローティアは替えのシーツや下着を含む衣類を買い込み、荷物を抱え、再び乗合馬車へ乗っていったん部屋に戻ると、アパート近くの大衆食堂へ入り、ニンジンを練り込んだオレンジ色のパスタへ焼きチーズをかけたものと鹿肉のローストを食べて、ワインをたくさん飲んだ。それから雑貨屋へ行き、石鹸、タオルその他を買い込み、チーズ屋では各種のチーズとハム、ソーセージ、サラミやバターを買いだめ、パン屋でも何種類かのパンを買った。最後に酒屋へ行ってテーブルワインを二ダースも買い込んだ。アデルナには全土に渡って小さな醸造所ごとに二万種もの銘柄があるのだが、もちろんフローティアには区別がつかぬ。高級なのかそうではないかは、値段をみれば分かった。その程度だ。トリーナがいうには、最高級は各自由都市につき一つの銘柄で、当然カルパスでは「カルパシーナ」となる。ふだん庶民が水のごとくガブガブと呑むのは、その下のまた下のさらに下のクラスで、カルパスだけでも千数百種類はあるとのことだった。安くてまずまず美味が持ち味で、値段は一ダース半アダーだった。瓶で買う者などいないため、値段は箱ごとだった。ちなみに最高級銘柄カルパシーナは、一瓶で五十アレグロも百アレグロもする。年代物だと想像もつかぬ。ワインは木箱のまま、台車を借りて二人で運んだ。店の小僧が手伝ってくれた。ちなみに、木箱や瓶はリサイクルする。アパートの前に出しておけば、酒屋が勝手に回収するのだった。小僧は荷物を部屋へ運ぶのも手伝ってくれ、フローティアは駄賃に十アンダントも気前良くやった。小僧ははち切れんばかりの笑顔でよくよく礼をいい、空いた箱と荷台を真っ赤になって押して帰っていった。

 その夜は二人で引っ越し祝いに近所の店へ行き、リゾットやパスタと共にチキンカツのような鶏肉料理を食べた。カルパスは内陸なので、魚料理は少なく、あっても、鮮度の問題でお世辞にもうまいものではないとフローティアは看破していた。あのコレッリの街で食べた新鮮な魚介の味を覚えているものにとって、このようなところまで運ばれる塩漬けやオイル漬のイワシだの、サケだの(それはそれで独特の風味があるのだろうが。)は、あまり食べる気にはなれなかった。こればかりは、好き好きの問題である。

 二人はよく食べ、話をし、理解を深めた。夜も更けると客や店員らがめいめいに楽器をとりだして、歌や合奏が始まった。楽器は自前のものから、店にあるものまで、いろいろだ。笛と弦楽器がメインで、太鼓類は少なかった。その代わり手をテーブルで叩いて調子をとる者もいた。ウガマールは太鼓や鈴などのリズム楽器がメインだったので、フローティアは本当に新鮮に聴こえた。もとより騒ぐのが好きなトリーナはこういう場ではさらにヒートアップし、しゃべって歌って踊ってまたしゃべって大活躍だった。フローティアは騒ぐのは苦手だったので、その光景をまるで幻灯でも見ているかのようにして、ランタンの下で頬へ手をあてていた。


 翌日、フローティアは午前中、やおらリピエーナからもらった呪文ノートの存在を思い出し、赤ワインの瓶を片手にラッパ飲みしながら、読んだ。退治は夜だ。午後に仮眠をとるつもりだった。ノートは薄かったが古いアデルナ語で書かれており、ほとんど読めなかった。これはぬかった。

 アタマをひねりながらも、ようやく理解できたのは、どうやら、いま読んでいるのは自分が空中へ浮かんだり、物体を空中へ浮かばせたりする呪文のようだった。空中浮遊は物体の質量、もしくは大地へ立ち、物体の引きつけあうパワーの根本(重力)をコントロールするもので、とある物語形式の魔導書によればあらゆる物理魔術の基本であるという。もちろん、聖呪文にも同じものがあって、魔術と聖呪法は表裏一体で基礎は同じというリピエーナの言は正しい。彼女のノートは魔力の使い方を指示しているが、それを神聖力へ置き換えれば、まったく事足りるのだ。フローティアはいまさらながら、あの老婆のすごさを知った。司祭の身でありながらも、彼女の最後の弟子になったことを、誇りにさえ思えてきた。彼女は、真に正統なる最後の誇りある魔法使いなのだ。

 それは別にして、苦労して解読できた秘術が空中浮遊であることには、我ながら失望した。まだ経験の浅い彼女にとって、自分が空中へただ浮遊すること(自在に飛行するわけではない)や物体を宙へ浮かせることがどれだけ重要なことなのか、理解できなかった。これならわざわざリピエーナより教えてもらわなくとも、いずれ覚えると思った。

 フローティアは呪文の練習もせずに、神聖力の動かし方だけ頭の中で適当に反覆すると、ノートをほっぽりだして寝てしまった。


 飛び起きたのは、またも、ドアベルの音でだった。眼をこすったが、目の前が真っ暗で驚いた。なんと日が暮れている。仮眠のはずが、熟睡したらしい。いま何刻かも分からずに、フローティアはとにかく暗中を玄関へ向かった。小窓を開けると、廊下のランタンがまぶしく刺さった。トリーナのふだんと異なる低い声がした。

 「ちょっと、まだ寝てたの? 寝過ごしたのかい?」

 「いや、ちょ、おっかしいな………いますぐ準備するから」

 あわてて暗闇の中を手さぐりで歩き回り、ワインの空瓶を蹴飛ばして悲鳴を上げ、呪文を唱えて照明とし、用意してあった装備をなるべく急いで身につけた。彼女にとっての完全装備とはそのまま再び旅立てる様相であったから、身の回りのもの一切合切を帯びているといってよかった。黒剣とガルネリのナイフ、そしてカルパスで買い求めた手甲のような革の手袋と軽金属の臑当て、新しい都市型の靴と衣類。ただしクレンペラー神官長よりもらった薄い金貨が背中に縫い付けられている上着はそのままだった。これはウガマールの神官着を改良したもので、クレンペラー神官長より金貨と共に贈られた物だった。頑丈で、しかも魔術に対して些少の耐性がある。マントはリピエーナのものを愛用しているため、これは都市型ではなく、野外型だった。他に装備品は特にないが、同じくリピエーナよりもらった金のメダルの首飾りは、かかさず身につけていた。

 しかしどういうわけで眠りこけたのか。独立して初仕事から、腑抜けている。ヴァーグナーがいたら怒鳴りつけられるだけではすまないだろう。フローティアは気合をいれた。鏡の前で、ナイフを抜き、黒鉄色に輝く髪を、首筋でバッサリと切ってしまった。冷水を頭からかぶり、けっきょく四半刻ほどで出立の準備が整った。「お待たせ、トリーナ」ドアを開けると、トリーナは薄暗い月明かりの下で腕を組んで壁へ寄り掛かり、厳しい表情で宙をみつめていたが、その大きな眼だけをぎろりとフローティアへ向けた。そして肩をすくめた。「ペスカが帰っちまった。新しい馬車を呼ぶか、さもなきゃ歩き」そしてトリーナはフローティアの髪に気づいた。

 「どうしたの」

 「ちょっと、邪魔だから」フローティアはひきつるように云った。

 「馬車を呼ぶのなら、早くしましょう」

 「当てがあるよ。それで、フローティア………お願いがあるんだ」トリーナはいつになく深刻な声だった。

 「おいらも、その、退治に連れてってくれないかな」

 フローティアは絶句した。ややあって「………えっ?」と聴き返すのがやっとだった。

 トリーナは踊り場で、フローティアへ頼み込んだ。「な、お願いだから、迷惑はかけないって、邪魔もしないから。おいらさあ、ホントはおいらもハンテールになりたかったんだ。だけど、その、なんの取り柄もなくって。ネタ屋がせいぜいなんだ。だけど、フローティアとなら、なんかこう、やれると思うんだよ。剣や呪文はだめでも、なにか退治の役にたてそうな気がするんだ。盗みの修行も積んでいる。斥候の技術も勉強した!」

 フローティアの即答。

 「だめよ。ぜったいだめ」

 「なんでだ!!」頭から否定され、トリーナは足を鳴らした。「理由を云いなよ!」

 「なにかあったとき、私じゃあなたを護りきれないのよ」

 「そんなことはないよ」

 「なんであなたに分かるわけ?」

 「そういうの、自分じゃ分からないんだよ。おいらが観るかぎり、フローティアは大丈夫だ。というより、おいら、自分のことは自分でするから!」

 「ムチャいわないで」

 「いいからつれてっておくれよ」

 「困らせないでちょうだい!」

 「じゃあ、もうネタは売らない、仕事もナシだ!!」

 「ちょっと、もう………」フローティアは混乱した。時間もない。「もう、知らないわよ、どうなっても。そんなについてきたいのなら、どうぞご勝手に!」

 と、急にトリーナは騎士がお辞儀をするようにしてフローティアへ礼をとった。フローティアは何事が起きたかと身を引いた。

 「………これは、おいらの誇りの問題なんだ。ありがとう、フローティア。きみだけだよ。この恩は、一生わすれない」フローティアは何も答えることが出来なかった。ただ、「な、なによ、おおげさな………」と聴こえないようにつぶやくのが、精一杯だった。

 とにかく、出発した。


 トリーナは、ネタ屋と云う割には、年季の入った革の防具と腰にはナイフや見たことも無い道具、それにポーチがあった。「修行は積んできた。こんどこそ、親父や兄貴たちを見返してやるッ」そう、心の誓いが彼女をいつもの雰囲気と変えていた。しかしそれとは知らぬフローティア、大タガメの前で腰を抜かしていた彼女の姿を忘れてはいない。さき程は勢いに呑まれて随行を許したが、今日は、最悪の場合は退治を断念し二人で逃げてくるつもりだった。そうすれば、自分もそれほど褒められた腕前ではないし、今後トリーナも諦めるだろう。

 人通りの絶えた通りを二人はひそやかに小走りして、環状通りへ向かった。犬の遠吠えがして、上空を音もなくバレンが舞った。松明の明かりの届かぬ小路の奥では、餓鬼や幽鬼が行き来している。それでなくとも、夜は密売、暴行、誘拐強盗の絶えぬ街だった。しかし彼ら犯罪組織の人間も、出陣するハンテールだけは手出しをせぬ。それどころか、ときに闇より指笛を吹いて鼓舞するのだった。

 二人も、そのような音だけの応援を何度か受け、無人の通りの中央を走り抜けた。環状通りまでは休みを挟みつつ一刻ほどかかった。月が雲に見え隠れして、なんとも冷え冷えとした雰囲気だったが、その実はとてつもない熱帯夜だった。

 通りが尽きるとそこは地平線まで見渡せるような大通りで、幅が七十リートはあり、往復の乗合馬車の路線がある。そこでトリーナは目敏く待機しているペスカを発見し、雲間に月が出た瞬間に手を振った。相手も心得たもので、すぐにやってきた。こんな時刻に客を待っている御者はみなハンテール目当てで、昼間の三倍から時に十倍の乗車賃をとるが、安いものだ。御者は引退したハンテールであることも多く、御者台の傍らにジギ=タリス剣を備えている者も少なくない。二人はドアを開け、素早く乗り込んだ。「アルネードへ」トリーナが小窓より行き先を告げた。「三アリェーグヒョ」御者が、唾をすすり、聞き取りにくい声で答える。トリーナは窓より金を渡した。アルネード区は、クルシェネッ区の隣である。いわゆる貧民街に近く、魔物の発生率も高い。退治屋御用達の街といっても良かった。とうぜん、駄賃も高い。

 馬車が動きだした。トリーナは窓を開けた。夜風が入り、少しは暑さが和らいだ。揺られること半刻。唐突に停まり、二人は降りた。アルネードへ往く小路の入り口にあたる三叉路だった。ひん曲がった標識に、アデルナ語でこれよりアルネード区とあるのを、フローティアは確認した。この三つの通りのうち、二つの通りとそれへ挟まれた区域が、アルネード区なのだった。「帰りは、ちがうのをひろうから」トリーナがそう云ったが、御者は行かなかった。馬を止めたまま、「あんたひゃち、地下に潜るんだひょろ」すっぽりとフードをかぶった奥より、発音がおかしいが、意外と若い声がした。フローティアは行き先をまだくわしく聞いてなかったので、トリーナを見た。トリーナが「あ、ああ………」と濁すように答えると、御者はフードをとった。小路の松明と月明かりに、顔面の半分に大きな爪痕が刻まれ、片目をえぐられた………いや、顔半分が崩された男性が現れた。さしもの二人も、鋭く息をのんだ。そして予想した。「元はおれも、ハンテールひゃ………魔物にやらひぇれ………」言葉の端より空気がもれるたび、開きっぱなしの唇の端よりよだれが垂れた。御者はそのたび、それをすすり、赤ちゃんの涎掛けのようにして頸に巻いてあるタオルで、ぬぐった。「これ、から、あんたひゃちが行くところで、やられたんだお」予想していたとはいえ、二人は拳を握り、口をひきしめた。彼は、きっと生きているだけ幸せな部類なのだろう。「か、帰ってくるまひぇ、待ってるよ………」御者はまたフードをかぶった。二人は無言で、闇へと走り出した。が、ふとフローティアが止まった。

 「あなた、名前は?」

 「………レ、オ、ヒャルド………」

 御者は身じろぎもせずに答えた。

 「待っていて、レオナルド。これからも、よろしく頼むわ」フードがフローティアを見た。もう、フローティアは走り出していた。そのマント姿を、通りの角に消えるまで、レオナルドは、暗闇の奥の隻眼でみつめ続けた。


 しばらく小路を進んで、トリーナが止まった。フローティアの腕を引っ張り、区域を縦横に走る建物と建物の溝のような路地へ連れ込んだ。ただでさえ松明の少ないこの通りで、路地へ入ると、とたんに視界が無くなった。互いの眼だけが、微かに最も近い松明の火で光った。表情がようやく確認できるほどに密着して、「説明するよ」トリーナがささやいた。そのとき、眼の前を何人かの退治屋がどやどやと走り去った。ちがう退治の途中のようだった。「きっとバレンか屍肉喰いでも追ってるんだよ。はした金でご苦労さん」そう云いつつ、フローティアはトリーナの手が震えているのを見逃さない。しかし今さら帰れとも云えぬ。黙って、説明を待った。

 「さっきの御者も云ってたけど、これからおいらたちは地下へ行く。地下街があるんだ。このカルパスの地面の下にね。遺跡みたいなところで、魔物と魔導士の巣窟さ。このことは知っているやつは多いけど、じっさいに潜ったことのあるハンテールは少ない。よほど大きな退治の依頼が無いと行かない。それほどに危険な場所だよ。または行きたくても、降りる場所を知らない。カルパス中にあるんだけど、巧妙に隠されているからね。これから行くのは、その内のひとつなんだ」

 そんな「危険な場所」に、ハンテール無資格者と、初心者が、何をしに行くというのだろう。フローティアの心を、激しく後悔が揺さぶった。それが顔に出たのだろうが、トリーナは無視したようだった。

 「さ、こっちだよ。道案内もネタ屋の大事な仕事さ。その代わりネタ代は高いし、ちゃんと護ってくれないとね」

 フローティアは答える気にもなれなかった。

 トリーナが身を低くして、そのまま暗がりから続く路地の向こうへ小走りに進んだので、後へ着いた。真っ暗だったが、トリーナは道を知っているかのように迷いも躊躇もしなかった。フローティアのほうが暗い地面へ蹴躓いて余計な物音をたて、トリーナに無言でたしなめられた。たまに、目印のように松明がポツンと灯籠のように立っていた。とても暗い、鬼火のような松明だった。じっさい、そのうちのいくつかは鬼火にちがいなかった。

 「こっち、こっちだよ」

 トリーナはそう云うが、暗闇の中でマントを何者かがひっぱったり、首筋へ息を吹きかけたり、耳元でささやいたりと、たいへんだった。ここの住所は、カルパス市アルネード区冥界通り一丁目にちがいないと思った。トリーナは何ともないのか、不思議でたまらなかった。いや、もしかしたら、前を行くのはトリーナではなく、自分は幽鬼にでも本当にあの世へ案内されているのではないかという不安がよぎってきた。「ち、ちょっとトリーナ、もう少しゆっくり進んでちょうだい」そう云ってみたが、トリーナは止まらぬ。「こっち、こっちだよ」声と気配だけがするのだ。たまらず、フローティアは抜剣した。

 ザッ、と気配が散ったのが分かった。黒剣は闇に溶け、何も見えなかったが、妖魔たちには光り輝いて観えたのだろうか。「トリーナ? トリーナ?」フローティアがささやいた。「おい、フローティア? こっちだよ?」かなり見当違いの方向から声がして、返事をすると、やがてトリーナが心配そうに現れた。

 「どこ行ってたんだ。こんな一本道で迷わないでよ」

 「ごめん、方向音痴なの」フローティアはそう答え、二人はまた進んだ。やがて、T字路となっているところの真ん中で、止まった。

 「もうすぐだ。ここは下町の通りの中でも本当に奥のところで、建物の向こう側はすぐ表通りなんだけれど、誰もここまではこないのさ。あっちに、店があるんだ。飲み屋だよ。ぼんやりと明かりが観えるだろう? 店の中は、退治屋も何も関係がない。客に魔導士が混じっていようとね。その店のさらに奥に、秘密の階段がある。地下への階段さ。通り賃は五アレグロ。二人だから十だ。おいらがもってきたよ。これも、必要経費で落ちる」

 「ねえ、トリーナ、店があるのなら、あなたは待っていて………」

 「だめだよ、フローティア。約束だよ。おいらも行くんだ!!」

 嘆息しかでぬ。

 トリーナが歩きだしたので、フローティアも続いた。いまにも消えそうな店の灯がだんだんと近づいてきて、壊れかけたランタンだと気付くほどになった。眼の錯覚のように暗黒の壁へ薄く光るドアが出現し、真鍮の文字で「時計がとろけるまで」とあった。

 「意味わかんない」フローティアが思わずそうつぶやいたとたん、ドアが開いた。そして中より、全身血まみれの男が倒れるように現れて、二人の度肝を抜いた。「お大事にィ………」歌うような抑揚でハンケチを振りながら、見送りに出てきた、小洒落た細身のバーテン服にオールバックが波うち、髪の端が二つに分かれてうなじから物掛けのように突き出て、異様なほど細長く仕立てたカイゼル髭がいやでも見る者の眼に焼きつくマスターらしき中年が、高い鼻を上げ、大きな眼を魚のようにギョロリと向いてフローティアを見つけた。「おやまあ。いらっしゃあいませ。さあどうぞ。ふうん、立派な剣ですね。退治屋さん? 地下へ行くの? お嬢さんなのに勇敢ですねェ、ムホホ………」

 二人は血まみれの男を見つめていたが、ふらつきながら男が闇へ消えてしまうと、振り返ってマスターを見た。「こ、こんばんは、アルフレートさん」

 「あァら、トリーナさんじゃないですか。さいきんマリオさまがとんとごぶさたで。地下へ行くのでしょ? その前に気付けでも一杯いかがですか? まずはどうぞ」

 「あ………あの人は?」

 「あァ、はじめて地下に行ってみたのだけど。まあ、最初は六人だったけど、あの人しか帰って来なかったから、生きてるだけ良かったってこと。表通りまで無事に辿り着けるかどうかは、知りませェん。まあとにかく中へ。どうぞどうぞ、いらっしゃあーい」

 剣を納め、フローティアはトリーナへ続いた。中は、意外と(失礼だが)ふつうの店だった。カウンターがあり、席があり、混んではいないが客がいた。客たちはみな無言で、酒を運ぶお姉ちゃんたちは恐ろしく肉感的で美しかったが、フローティアには亡霊か人形にしか観えなかった。バンドがいるようで、静かに弦楽四重奏が流れていたが、音しか聴こえなかった。しかも、ひどい不協和音がリズムも無くただ響いている。下水かと思った。

 「とオォォッても、ふあァんになる音楽でしょうッ!?」急に顔を近づけてマスターがそう云ったものだから、フローティアは思わず悲鳴を上げた。そこではじめて、店じゅうの客がじろりと新客をにらみつけた。「す、すみません………」フローティアが心臓を押さえながらつぶやいた。

 「当店専属作曲家が作曲したのよ。宮廷作曲家なんか眼じゃないね………」

 「な、なんという方なのですか?」

 「シュトルック=アウゼン先生よ」

 「きっと魔物だぜ」トリーナがいかにも汚物を踏んだような顔でささやいた。マスターはそれを無視した。

 「さ、地下はこっち。なにか呑む?」

 「い、いりません」

 「五アレグロ」

 「十だ」金はトリーナが出した。マスターの丸い眼が細くなった。「トリーナさん。あなた、いつのまにハンテールになったの?」

 「地下まで案内するんだよ」

 「マリオさまはご存じなの!?」

 「ご存じない。関係ないだろ」

 「ハンテールさん。よろしいわけ?」

 「えっ?」フローティアは戸惑った。ここで自分が断れば、きっとこのマスターはトリーナが通る事をけして許さぬだろう。しかし、フローティアは「もちろんかまいません」と云った。云ってから、自分でもどうしてそう思ったか、悩んだ。そのときのトリーナの裁判で勝った瞬間のような表情は、見物だった。

 「それはそれは………」マスターは不満というわけでも無く、ただ再び眼を丸くして、大きく息を吸った。そしてゆっくりと吐き出しながら「お大事にィ」とだけ云うと、金を受け取り、急に無言となって、二人を案内した。カウンターの横を通りすぎ、なんの明かりもない廊下を歩いた。そのまま、廊下は斜面となって降っているのが分かった。なんともいえぬ良い香りが、空気を満たしていた。香木が焚かれているのだ。もう眼は闇に慣れていた。再び道は水平となり、廊下が終わって、マスターが指を鳴らすと、青白い光が出現した。こんどこそ鬼火にちがいないとフローティアは思った。暗い壁の前で光に照らされたマスターの顔は、まったく、伝承にある地獄大使そのものだった。マスターは二人へ中古のランタンを渡し、「さ、ここからが階段ですよ。お気をつけて。帰りは、ここから出てきて下さい。なァに、ちがう世界に通じる確立は千分の三ぐらいですから、まずまず、ふつうに地下街へ行けますよ」

 「は?」

 「いいから、行くよ」トリーナが、壁へ手を当てた。そのまま、するりと水へ入るように消えてしまった。フローティアも、続いた。

 「あっ」と思わずフローティアが声を出したのは、階段があるとばかり思っていたのに、そこはもう広大な地下空間だったからだ。しかも意外と明るい。明るいのは天井に満天の星空と満月が輝いていたからだ。しかし、ここは屋外ではなかった。「古い、魔術だ………伝承にある、本物だ、これが!」フローティアは身の毛がよだった。大戦以前には魔導士たちであふれかえっていたであろう、大がかりな魔導の遺跡に、いま自分は立っている事を実感したのだ。まさしく、カルパスはいにしえの魔導都市だった。月光に照らされる、冷え冷えとして寂然としつつも、ぴーんと空気の張りつめたその通りより、たちまち、術者の喚く声が、使い魔の行き来する鳴き声が、兵士たちの行き交う臨戦態勢の様子が、古い市民の喧騒が耳を襲った。あまりに濃密な魔力に、フローティアは吐き気がした。急激に目眩と頭痛がして動悸が激しくなり、息も荒く倒れこんでしまった。両手を地へつき、胃液を吐きつけた。マスターの云っていた異次元にでも迷い込んだと思った。とにかくここから逃れようとしたが、身体がいうことをきかぬ。剣がガタガタと鞘の中で暴れた。

 その黒剣にひっぱられるように腰から立ったフローティアは、トリーナを探して岩壁へ手をつき、歩きだした。数歩、行ったところで再び前のめりになって崩れた。すると、見えない壁を通り越したように、ちがう風景が眼前へ広がった。そこは階段の踊り場のような場所だった。「あっ、フローティア!」というトリーナの声で、なんとか我へと帰ったのだった。鈍くランタンが灯り、足音がして、フローティアは人の手で支えられた。

 「また、どこ行ってたんだよ!」

 「どこもなにも………」額を押さえ、フローティアはトリーナへよりかかった。自分の持つランタンの灯へフローティアの瞳が虹色のような不思議な色へ光り、それがギロリと自分をみつめたのでトリーナはゾッとした。フローティアにつかまれた腕を思わず引き離してしまった。それを取り繕うように、「ま………まさか、オッサンの云ってたことが、本当になるなんてさ、まさか………」

 「いえ、あれは、きっと私のせいだ」

 その言葉は声になっては出てこなかった。二人はまったく無言となって、ただランタンの灯がじりじりと焼けつく音だけがした。ここは地下へと続く長く幅の広い階段の踊り場であり、トリーナは一人で素早く階段を降りていたのだが、しばらく行きふと後ろに誰もいないことへ気づき、あわてて駆け上がってきたのだった。すると、上から数えて七番目の踊り場でフローティアがよろめいているのを発見し、転げるように近よったが、まるでいま冥界から帰って来たばかりのようにフローティアが消耗しているため、非常に戸惑い、かつ、恐怖したのだ。いまから退治になど行けるのだろうか、と。

 「ち………中止するかい?」

 それはトリーナにとって、最高に勇気のいる決断だった。ゆえに、その言葉は、喉のところで再びのみ込まれ、空気を震わすことは無かった。彼女は、頼みの綱のフローティアが少なくとも立ち上がれるまで回復するのを、ただ待つしかなかった。

 しかしフローティアはついにその場で倒れ伏し、さらに息も荒く天井を向いて床へ転がってしまった。トリーナは絶望し、早々の帰還を覚悟した。そして最も恐れたのは、自分が無理を云ってついて来てそのせいでフローティアが不調になったと思われることだった。「じょうだんじゃない、フローティアが勝手にいなくなって、勝手に具合が悪いのに………おいらはまだ何もしていない!」そう心でつぶやいた瞬間、再びフローティアが強力な力で腕をつかんできて、心臓が口からとび出た。まるで亡者につかまれたような気がした。その手は、氷のごとく冷たく、枯れ木のように乾いていた。血の気がごっそりと引いて、足から流れてしまったように思えた。事実、フローティアが上目をむいてゆっくりと起き上がったとき、トリーナは悲鳴も出ず、気絶しそうになって固まりついた。しかしフローティアはそのまま立ち上がって、逆に座り込んでいるトリーナを助け起こした。

 「だいじょうぶ、行くわ」

 その声は力に満ち、トリーナをつかむ手も暖かく、とても柔らかかった。「階段は、まだ下がるの?」

 トリーナは自分で何を云っているのか分からない返事をして、涙をふいた。火の消えかけたランタンを再び掲げ、立ったのだった。

 「そうよ、まだ、もっと下。おいらも正直、行ったことがないから、どれだけ下か分からないけど、少なくとも、いまいるところは、半分よりちょっと上って部分」

 「急ぎましょう。朝までには戻りたい」

 フローティアが先に立って階段を走り降りた。後ろからトリーナが追う。別に数えているわけではなかったが、七番目の踊り場よりさらに九つの踊り場を経て、ついに二人は最下層へたどりついた。明かりが手持ちのランタンしかなく二人はまったく気付かなかったが、各踊り場には、巨大な壁画が描かれていて、それは、かつて繁栄したアデルナ王国と首都カルパスの様子、千年前の聖魔の大戦の様子、そして、ついに十三聖導皇家連合軍が魔導都市へ攻め込み、吸血鬼王と共に魔導の軍団とカルパス市民が地下へ逃げ込んだこと、七年間を抵抗したこと、それらが壁画で現されていたのだ。フローティアは、実は、その七枚目の壁画の中から踊り場へ戻ってきた。壁画の最後は魔導軍団が全滅し王が討ち死にした場面であるはずなのだが、何者かによって破壊され、岩壁がむき出しになっていた。

 階段の最後に出口が現れ、二人は遺跡へ到達した。区画された道路と、壁のみとなった建物。中には壁も崩れた場所もある。彼女たちは、その街の出入り口の一端へ至ったのだ。長い階段は、地上との連絡用のひとつに、間ちがいはなかった。その光景はフローティアがさきほど見たものと似ていたが、もっと生活臭にあふれた、本当の市街区に思えた。

 「さっきのところより、ぜんぜん、魔力が薄い………」まず彼女が考えたのはそれだった。息もできるし、身体の異常も感じられない。「ど………」フローティアの声が空間に響いた。天は闇ではなく、かといって星空でもなく、明かり取りの窓が神殿の天井のように整然と並んでいて、柱のような光が降っていた。天井は見上げるほどに高く、光柱も長い。モグラですら来ないような場所に、どうやって地上の光を注いでいるのか、見当もつかなかった。高度な魔術にちがいない。しかも、それがまだ生きているのだ。鳥肌がたった。フローティアは抜剣した。

 「どこに行けばいいのかしら」

 トリーナも戸惑った。そこまでは、主人より聴いていない。

 「その、なんとかという魔物の大きな巣は、どこにあるの? まさか一件一件、この壁だけの家をまわるのかしら?」

 「いやっ、その………」トリーナは焦った。汗が吹き出た。このままではなんのために無理を云ってついて来たのか。己の存在価値が音をたてて崩れてゆく。今すぐ帰ってよいと告げられても、断る理由すら思いつかぬ。

 しかしそれは無理もないことで、依頼主はまさかトリーナが退治へ同行するとは思っていなかったので、そこまで詳しい情報を与えていないのだ。もっとも、与えようにも、最初から無かったのかもしれないが。フローティアは、それすら理解していた。

 「どっちにしろ、探すってことよ。それも仕事のうち。行きましょう、トリーナ。一人より二人のほうがいいんじゃない? それに、場所探しはあなたのほうが上手そうだしね」

 「そっ………そうだぜフローティア! あっ、そうだ、待ってな、いいものをもってきたんだ。そうそうそう、忘れてたよ」トリーナはポシェットより、複雑に折りたたまれた羊皮紙を出した。それはなんと、地図だった。

 「ここの地図なの!?」

 「ここっていうか………ここから帰って来た数少ないハンテールから聞き取り調査して、おいらが造ったんだ! だから、本当に合ってるかどうかは分からないけれど」

 「ないよりマシね」

 「その通り」トリーナは生き返ったように続けた。「さて、ここが、いまの場所さ。街全体はそうは広くないのだけど、こっちのほうに川があるっていう話なんだ。地下を流れる川さ。とうぜん街なのだから生活水は必要だし、人工の用水路だと思う。魔導士の研究施設なら水は必要だし、ふつうに生活するにも、そうでしょ、ふつう」

 「なかなかいい推理ね。行ってみる価値はあるわ」フローティアに即決採用され、それだけでトリーナは満足した。「無理を云ってついてきた価値がある」と。そのことを認めてほしくフローティアを期待の瞳でみつめたが、フローティアはトリーナが早く案内してくれるのをただ待っていた。トリーナはそれへ気づき、まだ仕事は終わっておらず、この程度で何を自分は勘ちがいしているのかと恥ずかしくなって、それを隠すように歩きだし、かつ話した。

 「この街をごらんよ、フローティア。地図のとおりだ。整然と通りが交錯している。まったくのまっとうな居住空間だってことだ。昔ね、カルパスとアデルナを治めていた吸血鬼の王さまが地下に軍勢と共に逃げ込んで、聖導皇家と戦ったっていう伝承がある。これはその名残とされているんだ。だけど、戦闘防衛都市ならば、地下要塞ってことだから、もっと敵の進入を防ぐために、こう、入り組んだ街を造るはずなのだけれど………」

 バチーン! と眼前で凄まじい音がして、トリーナは身をすくめ、落ちるように尻餅をついた。フローティアの剣が某かを撃退したのだと理解するのに、しばし時間を要した。迎撃され、地面へたたき落とされたそれは、薄明かりの中ですでに黒剣の力により蒸発していた。魔物なのか、魔導士の術なのか、それとも古代の罠なのか。それが一体なんだったのかは、フローティアにも分からなかった。ただ、彼女は剣の動きへ身を合わせただけだ。とにかく侵入者を撃退する何かがいる(もしくはある)ということだけは、確かだった。

 「だいじょうぶ、トリーナ」

 「………」トリーナは何も云えなかった。立ち上がり、震える脚をパンと叩いた。それから彼女はまったく無言となった。歩きながら、地図と通りをひたすら見比べた。

 そうすると、もとより静寂が支配している空間にて、水の流れる音というのは、どうやっても意外によく聴こえるものだった。トリーナは先ほどの自分の大声がいかにやかましく響いていたか、自覚した。二人は自然にその音へ向かって歩いていた。地図の上では右下の方角で、そこが北なのか南なのかは分からない。角を曲がり、道を行き、光の柱の間を縫って歩いた。黒剣がかざされると灼熱の棒でも向けられたように何者かの影がサッと引くのを見た。幾度と無く、そのような人影が見え隠れするのを確認した。しかし、そこには間ちがいなく誰もいないのだ。往時を偲ばせる住人の亡霊か、地下の悪霊か、魔物か、それとも錯覚か。自分たちの邪魔をしなければ、どれでも良かった。水音がさらに近くなり、最後の角を曲がると、街の隅を斜めに横切るように流れがあった。

 川は、定間隔に水汲み場が整備された地下水路で、澄んだ水が止まるところを知らずひたすら流れていた。川幅は二リートほどであり、花崗岩のブロックで三面に護岸工事が成されている。トリーナは石段を降りて、水汲み場より川面を覗いた。暗く、ほのかな明かりにキラキラと反射していた。手を入れてみると、氷のように冷たかった。その手を水より出した瞬間、スッと誰かが掴むようにして水の中より暗い手を出したが、トリーナは気付かず、手もまたすぐに水中へ没した。「トリーナ、流れの向かうほうに洞穴があるわ。行けそうよ」フローティアが小さくそう云ったので、よく観てみると、確かに、排水口のように水がさらなる地下へ呑まれてゆく場所には、流れの横へ人が通れるように道がついていた。水路が続いているのだ。また川上を見やると、暗く大きくカーブを描いていてその向こうは見えなかったが、さかのぼってゆく道はなさそうだった。話によると、この川はさらなる地下より水を機械的に汲み上げて造られたもので、巨大な噴水より発しているのとのことだ。「どうする? 奥へ行ってみる?」フローティアはそう尋ねられ、即答はせず、剣先をスーッと流すようにして川上と川下へ向けた。引っ張られるような感覚が、川下にあった。剣は、川下へ導いている。「トンネルに入りましょう」トリーナは水汲み場の階段をあがった。彼女が先を行き、川下へ向かって進んだ。川の傍へ整備された小道を歩き、水汲み場を四つほど過ぎると、水路へとつながる小道があった。気のせいか、流れも速くなっていた。二人は階段を降り、水音だけがさらさらと耳へまとわりつく洞穴の口の前に立った。光の柱もそこまでは照らしておらず、行く先はまったくの暗黒だった。流体をひたすら飲み込み続ける魔物にも思えた。とはいえ、彼女たちに闇を恐れる感覚は無い。退治の業界は、闇といかに上手につきあうかによって長生きできるかどうかが決まってくる。洞穴は天然のものではなく、きれいにくり抜かれたコルク栓のように整備されたトンネルだった。

 「行きましょう」

 消え入りそうなランタンをかざし、今度は、フローティアが先に歩いた。トリーナは影のように後へ続くだけだった。水の音と、彼女たちの足音だけが、耳へ入るものだった。目は、照明と自分たちの動く足以外は、ただの真っ暗闇だけを映した。どれだけ歩いたのか分からなかったが、そんな何刻も進んではいなかった。その闇を正確に進む感覚も、退治屋には必要だった。なぜなら、闇は人の感覚を麻痺させるからだ。やがて、明かりは水の出口を示した。人の歩ける通路は、出口までしっかりと続いていた。おそらくこの道は保守点検用なのだろう。しかし、出口は檻のように錆びぬ合金の棒が柵となって塞いでいた。その先は、また異なる風景が広がっているように思えた。水は滝となって下へ落ちて、通路はそこで途切れていた。フローティアはランタンをトリーナへ渡した。滝の下は遠いようだったが、柵から出られるのならばそこには梯子があった。「どうやって行くんだ?」トリーナがささやいた。フローティアは無言で、両手で剣を振りかざした。ガッ、ガッと金属を断ち切る音がして、合金の檻は、難なく切断された。トリーナは思わず口笛を吹いた。二人は身を横にして隙間を通り抜けると、通路を進み、そこから檻と同じ材質の合金を曲げて岩へ打ち込んだ梯子を伝って、滝の下へ至った。滑りに気をつけ、無事に降りきって、再び地面を踏んだ。二人は息をつき、トリーナが滝と梯子を見上げた。「こいつをトンネル滝と呼ぼう。今後、何かの合図に使えるかも」トリーナの提案に、フローティアは沈黙をもって承諾した。それから、二人は行き先の方向へ視線を転じた。そこは街ではなく、本当に洞窟の内部だった。人の居住した様子は無く、まったく天然の洞穴空間だった。湿気が多く、足元はよく滑った。水はそのまま滝壺から再び流れとなって、暗闇へ消えていた。二人は慎重に歩きだした。至る所で鍾乳石がシロアリの塚のように地面より生えていた。天井は、闇に覆われて見えなかった。流れにそってしばし進むと、空気も流れていることに気がついた。地下に風が起きている。二人は風へ導かれるように、水の流れから空気を流れへと従った。二人で助け合いながら水に入って流れを超えた。水は身を切るように冷たかった。水へつかった脚の下からが、そのまま切断されて持って行かれても気付かないと思った。幸い、水は浅く、脛の中程までしかつかることはなかった。川から出て、丘を登るようにして斜面を行き、そこから再び降りた。下りは思っていたよりもずっと急で、暗く、濡れた足元では非常に滑った。と、案の定、トリーナがバランスを崩し、豪快に転んで、そのまま瞬く間に雪上を滑り降りるように坂の下まで行って(悲鳴を上げなかったのはさすがだった!)しまい、フローティアはあわてて後を追った。自分も転びそうになり、必死だった。闇の向こうを行くトリーナの尻滑りの音だけが頼りだった。やがて坂を降りきると、トリーナがうつ伏せになって倒れていたので、フローティアは剣を置いて抱き起こした。トリーナは目眩を起こしていたようだったが、フローティアの腕をつかみながらつぶやいた。

 「ご、ごめんよ、肝心なところで………」

 「どこか痛めたの?」

 「右の足首が………」

 フローティアは精神を集中し、呪文を唱えた。治癒の神聖呪文だ。暗くてよく見えないが、擦り傷もあるにちがいない。

 「呪文を!? フローティア………!」

 「いいから! 黙って」

 トリーナは初めて目の当たりにする神聖呪文に興奮した。痛みが温かい感覚と共に消えて行く。だが、立てるまでには到らなかった。「ごめん、まだうまく………」フローティアは動揺した。トリーナは何も気にしなかった。痛みが和らいだだけでも助かった。フローティアはトリーナをそこへ残し、先を行くことにした。

 「だいじょうぶ、ここまで来たら、剣が導いてくれる。敵は………近いわ」

 「フローティア」

 「なに?」

 「おいら………おいらは」

 フローティアは微笑みながら、こう云った。

 「貴女のお陰で、ここまで来れたのよ」ランタンを残し、そのままサッと向きを変え、フローティアは颯爽と走り去った。トリーナは何も云えず、ただ、とても涙が流れてきた。喜びとも、安堵とも不安とも、何ともいえぬ感情のほとばしりだった。

 フローティアは、闇にもう迷わなかった。右手の黒剣が、ビリビリと空気を震わせた。幾多もの鍾乳石が不規則に建てられた石柱のようにそびえていて、まるで奇門の迷路だった。あらゆる門に意味があり、死の道や発狂の道へ通じていて、愚かな侵入者を迎え撃っている結界のようにも思えたが、フローティアはただ、剣の示す通りに進んだ。コウモリが飛び交い、足元を巨大な地虫が這っていた。風へ乗るように脚が勝手に動いて、一目散に進んだ。高揚して、瞳が光った。黒剣の黄金の線模様が脈動した。フローティアは何も考えられなくなり、このままどこまでも風へ乗って天空を駆ける古代の戦いの女神か、天地を創造した大気の乙女にでもなったような気分になっていたが、とある柱を曲がって勢いよく飛び出たとき、いきなり眼前へ出現した建物と窓の明かりに息をのんで驚いて、滑ってひっくり返ってしまった。

 したたか地面へ尻と肘を打ちつけ、剣を放りだした。転んだ瞬間は時間がゆっくり流れて、地面へぶつかった時には眼から星が出たのを確認した。身体の動きが止まって、時間も止まったように感じた。何が女神か。アホくさい。痛みと衝撃で我へ帰り、息もできず、手足も動かせずに、ただ、自戒するだけだった。人は転んだだけでかくも凄まじいダメージを負うものかと恐れ入った。痛みを押さえ、ゆっくりと周囲を見渡すと、剣は窓のすぐ下まで飛んでいっており、そっと這って行って柄を握った。そのとき、窓の向こうより人の声がした。ただし、窓はしっかりと閉まっていたので何を云っているのかまでは、判別できなかった。見つかってもいないようだった。フローティアはどのように攻め入ろうか思案した。ここは魔導士の館だと信じて疑う余地もない。このような地下洞穴の奥へ好きこのんで住まう一般市民が、どこの世界にいるだろうか? 建物は平屋で、一方の壁が完全に岩盤に接していた。きっと洞穴の壁を掘削して、部屋が続いている構造なのだろう。興奮し、痛みがどんどん引いて、頭がボンヤリとしてくると同時にとある感覚だけキリキリと冴えてきた。その感覚とは、もちろん、殺気である。

 フローティアは歯を食いしばったまま、大きく振りかぶり、気合と共に剣尻で窓を叩き割った。そして、ふだんの彼女からは想像もできぬほどの跳躍力と瞬発力、かつ敏捷性を見せ、そのまま、窓より水中へ飛び込むように室内へ踊りこんだ。フローティアはテーブルの上に落ちて、転がって机上の燭台やら皿、食べ物、ゴブレットをなぎ倒しながらすかさず床へ立ち上がると、驚いて身を引いた二人の男と、はたと眼があった。三人は、しばし凍りついていたが、男の内の一人が天井から下がるランプを手で叩き落とし、部屋を闇にした。そこへ、神聖力と気合と殺気に満ちたフローティアの瞳が青白く光った。ついでに黒剣まで電光を放ったものだから、魔導士ども、一瞬にして震え上がった。

 「わあーッ!!」

 「ば、ばかな、そんなはずはない、そんなはずは!!」

 「しかし、こ、こ、こいつの!!」

 フローティアは、なぜ二人がそれほどまでに動揺し、恐れているのか、逆に戸惑った。

 「逃げろ!!」魔術でも使ってくるかと思いきや、二人は呆気なさ過ぎるほどにあっさりと退散した。「あ………」フローティアは息をのんだが、すぐに追いかけた。「待て、このッ!!」二人は逃げながら、いろいろとフローティアへ物を投げつけたが、術は何も使って来なかった。そのような余裕も無いほどに慌てているのか、それとも彼らは実は魔導士ではないのか。どちらでも良かったが、とにかく逃げられるのだけは阻止しようと、躍起になった。二人が玄関と思しき出口より転がるように外へ飛び出たので、彼女も追った。しかし、最後のあがきか、逃げる男の一人が立ち止まり、思い切りカーペットを引っ張って、タイミングよくその上に歩を乗せたフローティアはまたも豪快にひっくり返った。男たちは歓声をあげて今度こそ出て行った。フローティアは急いで立とうとしたが、手足がついてゆかず、もつれて転んだ。踏んだり蹴ったりだ。

 遅ればせながら玄関から出ると、足音だけが遠くへ去ってゆくのだった。迷っている間は無かった。呪文を唱えた。照明の呪文だ。巨大な光球が出現し、頭上高く飛んで、洞穴内を煌々と照らしつけた。逃げる二人がその明かりの下で露となった。まぶしげに振り返り、明らかに動揺していた。フローティアは思わず笑みをもらした。そして走りだした。

 しかし、である。その光球めがけて黒い矢のようなものが飛来して、光球へ命中したかと思いきや、自分の呪文が一瞬のうちに消え失せてしまった。

 「ええッ!?」フローティアは愕然とした。「し………神官がいる………!?」それも、自分よりもかなり位が上の。対抗呪文は、そうそう使えるものではない。魔術で無い事は、神聖術による神聖力の軌跡が観えるので、よく分かった。そうなれば答は神官しかない。自分と、もう一人、何者かが敵を挟撃するかっこうとなったのだろうか。

 「きっと、暗視の術を使っていたんだ………」照明の呪文をわざわざ打ち消す理由など、それしか考えられなかった。暗視の術は、フローティアには夢の呪文だった。彼女はその神官の邪魔をせぬよう、もう照明を発することは無かった。それは正司祭として守って当然の礼儀だった。そして、息をひそめ、剣を頼りに石の柱の間へ消えた。

 それからは静かに、なるべくゆっくりと、泥棒にでもなった気分で進んだ。魔導士たちは挟み討ちにあったせいか、離散したようだった。耳をすませても戦いの音は聴こえない。自分と同じく、対抗呪文を使った神官も敵を求めてひそやかに石の柱を縫っているにちがいなかった。そのとき、息を切らして走り寄ってくる何者かの気配をつかんだ。魔力の臭い。敵だ。黒剣のエッジが鈍く光った。フローティアは柱の影へ隠れた。

 「くそ、くそッ、くそおッ! おのれ、フルトヴェングラーめ、テンシュテットめ! 呪われた聖導皇家の亡霊どもめ!! よくも、よくも再びこんなところまで………!!」そう云って魔導士は息を切らし、柱に片手をついて立ち止まった。後ろを気にしてまったく前の気配に気付かなかった。彼は戦闘に長けた魔導士ではないのだろう。もう、柱の影より出現したフローティアが、両手持ちに構えた剣を大上段より袈裟がけに振り下ろしていた。剣は、スイカにでも長包丁を叩き入れたように、サクッと鋭角に魔導士の身体へ入った。

 「げくっ………」断末魔は、蛙のようだった。フローティアが剣を引き抜くと、魔導士はそのまま膝を崩した。石の柱へ寄り掛かり、すでに息は無い。強力なジギ=タリス効果によって、蒸発するように血煙が上がっている。この古く黒い剣にとって、魔物や魔導士の骨などは小枝ほどの障害にしかならぬ。フローティアは剣を納め、すぐにその場を立ち去った。もう一人の魔導士の気配も無いのを察したからだった。謎の神官とは、会わないほうが良いと思った。


 「トリーナ? トリーナ?」先ほどの場所まで来て、フローティアはつぶやいた。まさかあの足でウロウロしてはいるまい。いちおう魔導士を退治したとはいえ、他に敵がいないと考えるのは脇の甘い仕事だ。

 トリーナは、いた。安堵の笑顔が仄かなランタン光の中へ浮かんだ。

 「やったのか?」

 「ええ。よくわからないけど、とにかく魔導士は倒したわ」

 「魔導士………!?」トリーナはやや沈思していたが、やがてうなずきだした。

 「じゃ、たぶん仕事は終わりだ。帰ろう」

 「そ、そうなの? 立てる?」

 「休んだら、なんとか」

 「長居は無用よ。行きましょう」

 「分かってる」二人は支え合って歩きだした。ランタンを持つ余裕がないので、フローティアはもう一度、控えめに光球を出した。歩きはやはり来たときよりは遅い。トリーナはもとより、フローティアもあちこち打撲や擦り傷があった。二人はあらためて全身を襲う痛みに涙が出てきた。滑った斜面を這うようにして登り切り、再び降りて、地下水脈を渡り、トンネル滝のところへやってくると、痛みも忘れるモノがいた。

 滝の下、トンネルの柵を超えて水が落ちる影の暗がりに、何かがうずくまっている。黒剣が低く唸った。フローティアはトリーナを横へ押しつけた。トリーナにもそれは確かに観えた。背筋の底から震えがきて、フローティアに戦闘から除外され(戦力外通告だ)ても、むしろそれを有り難いと思った。トリーナは天敵に発見され、今まさに食われんとしている哀しい小動物のように固まりついていたが、それを人間の意思をもって打ち払い、断固として避難した。それは臆病とはいえぬだろう。

 闇が動いた。それが小屋のような大蜘蛛だったと分かった瞬間、トリーナは、再び電光を見たのだった。フローティアの、あまり間の合わぬ斬撃によって黒剣の発した雷撃が大蜘蛛の剛毛を焦がしつけた。効果はあり、大蜘蛛はひるんだ。続いてフローティアがなにやら叫び声をあげて走り寄ると、たまらず蜘蛛が川へ逃げた。水蜘蛛なのだろうか。フローティアは光球の明度を上げた。トリーナは目を細めた。一帯に光が満ちあふれ、蜘蛛の不気味な姿を浮かび上がらせた。トリーナは背筋に氷をつっこまれたようになったが、フローティアはちがった。彼女にとっては、かの大タガメと同じく、ウガマールの奥地で現地民が好んで食す「美味な食材」のでかいやつにすぎぬ。怯まず川へ入った。が、とたんに引っくり返った。水の中へ既に罠が仕掛けられていたのだ。もう少し彼女たちが冷静でさらに観察力に優れていたならば、蜘蛛が水中へ腹の先を浸けていたことに気付いたかも知れない。川には既に、幅いっぱいに網が仕掛けられていて、フローティアは哀れな獲物だった。ブ、シュ、シュ………と蜘蛛が笑ったようにトリーナは思えた。しかし、不思議と、負けるとは思わなかった。なぜなら、黒剣がいまだ力強く輝いていたからだ。蜘蛛が器用に脚を使って網を束ね、フローティアは網袋へ入った芋虫のようになったが、剣はたやすくその網を裂いた。

 「こおおのおおッ!!」神聖力により青白く光る眼がまんまるに見開かれ、暴れて荒い息づかいが洞穴全体に広がって聴こえた。ザンバラの黒髪が逆立って、トリーナは逆にそんな鬼のようなフローティアのほうへ身震いした。網から転げ落ち水につかりつつも、水面で水平に剣を振った。横のひと薙ぎで蜘蛛の脚は軒なみ切断され、哀れな大蜘蛛は見事に転倒し、水しぶきを上げた。フローティアは立ち上がり、それぞれ自分を映す八ツ眼のど真ん中へ黒剣を突きたてた。バシバシと電光がほとばしり、蜘蛛は、真っ二つに裂けて爆発し、蒸発して闇へ溶け、消えてしまった。

 「や、やった、フローティア!!」と、トリーナは叫ぼうと思ったが、自らの真横を、さらに冷たく濃い闇が音も無く通ったので、それは無理な相談だった。光の中で、そこだけが黒く抜き取られているようだった。トリーナは全身の体温と精気を奪われたように感じた。膝が笑ってその場へ崩れ、腰も抜けた。あまつさえ、たちまち失禁し、涙も垂れ流した。体中の穴という穴が一気に開いたという感覚だった。

 「孕みの果術を破りし輩と、どちらを追おうと思うたが、殿下のお気にかけられる、いにしえの黒き剣を追った。しかし、我が式鬼を易々と討ち滅ぼすとは、我が出張らねばなるまいて。その黒き剣を見極めるためにはな」

 フローティアは、その声………いや、言葉に聞き覚えがあった。コルネオ山で、彼女が出会った九人の異国人。彼らの言葉だった。闇が融け、凝固した中より、黒く、儀式を司る者の纏う絹の装束に、地に足のつかぬような、異様な爪先立ち歩きの人物が登場した。すると、どこからともなくまたコウモリが数多く飛来し、水脈の上やフローティアの周りを、気持ち良さそうに舞った。ちなみに蝙蝠とは、川守より転じたという説がある。川の上を飛ぶ姿がそのように見えたのだろう。国によっては悪魔の使いであり、国によっては幸福の使者である、不思議な動物だ。

 「我は地来蟲」中肉中背、肩幅の広い、壮年の男性だった。顔がずいぶんと四角かった。手をすり合わせるようにして、印を結んでいるのはフローティアにも分かった。妙な形のかぶりものをし、数珠を幾重にも首へかけていた。フローティアは身構えた。かの異様な声の女の仲間、九人の中の一人だろう。「風水火雷天地山沢、八卦道士が一人也」そう云って、組んだ手を顔の前まで上げ、お辞儀をした。

 「ク、クッ………言葉がちがうゆえ、お互い、術にかからぬな。名乗っても、良いのではないかな、黒剣を持つものよ」

 「私はフローティア」

 道士は、息を呑んで驚いた。からかったつもりだった。まさか。しかし、もっと驚いたのは、誰あろうフローティアだ。

 「ラル=フローティア=フルール=フライアルク=………フローレセンセス………?」

 手を口へ当てた。

 「何を云っているの? あたし」

 「す、既に覚醒してるてか!?」道士が動いた。眼と口、それに両手より光が漏れる。ドーン、と洞穴全体が地震のように揺れた。ややして、バラバラと鍾乳石が天井より降ってきた。それがそのまま、フローティアめがけて加速する。道士の手が糸を手繰るように揺れた。鍾乳石は天然の手槍だった。

 フローティアは時間が止まったと思った。闇より飛来する何本もの石の手槍が、ゆっくりと観えた。「やああああッ!!」剣が動く。一撃、また一撃と、鍾乳石は全て命中寸前で砕かれた。

 「なぜ分かる!」道士がたじろいだ。「わが術を見通す眼力を持っているのか!? その青白き眼がそうなのか!?」

 「動かないで、地来蟲!」

 「ゲッ………!!」金縛りの術だ。道士は歯を食いしばったまま、川より上がるフローティアを見続けた。「しまった………」などと心中でつぶやいても、後の祭だ。二人とも、同じ言語を使用しているわけではない。フローティアはアデルナ語だし、彼は故国の言葉だ。しかし、音の意味を理解しているため、効果があると考えられる。フローティアを侮った罰だろう。

 青白く神聖力があふれる眼は、暗い中で爛々と輝いていた。それが二つの人魂のように宙を舞って近づいてくるのを、ただむざむざと迎える我が身が呪わしかった。しかし強烈な金縛りの術だった。彼ほどの術者ならば金縛りなどという初歩的な術にそうそうかかるものではないし、万が一かかったとしても抜け出す術も心得ている。それがこの様だった。

 フローティアは両手で下段に剣を構えたまま、無言で間をつめた。人形へ向かって歩いているのと同じだった。そのまま、吸い込まれるように剣先が道士の胸を貫いた。瞬間、道士はバッサリと砂となって地面へ落ちた。

 「動くな、フロオレセンセス」

 次は道士の番だった。「………」フローティアの体はまったく凍りついたように動かなくなった。いきなり彫像の自分の中に魂が入ってしまったようだった。彼女は自分が金縛りをかけられるのは初めてだったので、その感覚に戸惑った。地来蟲は首尾よく術が効いたので満悦した。「フ、フフ、あの山で、水蓮が身代わりの式鬼を使って九死に一生を得たというのでな、我も準備しておいたのよ」

 「な……んで………」

 「く、口がきけるのか」道士はまたも、少なからず動揺した。自分の金縛りの術下で口をきいた者は初めてだった。「しかし………さしもの其方も動くことはかなうまい。我の目的はその黒き古剣よ。しばしあずからせてもらう」

 道士の手が伸びた。そしてなにやらひと言唱えると、金縛りの中で、しかも自らは望んでいないのに、ゆっくりと自分の指が開いた。「ダメ………ダメ………」必死になって念じた。その念が通用したのかどうか、それは分からなかったが、フローティアは再度、己を護る剣の不可思議さと恐ろしさを認識したのだった。

 フローティアの指が完全に開き、剣が地面へ落ちたので道士が拾おうとしたその時、黒剣は、ひょいと剣先を上げ、風鳴りをあげて自ら宙へ舞い上がった。「ウオッ!!」道士が唸った。紐で引っ張られてすっ飛んでいったように見えた。闇にまぎれた黒剣は、まったく把握できず、戸惑った。ただし、バチッバチッと怒っているようにほとばしる電光は別だった。カーブを描き、剣は道士めがけて鋭くせまった。

 「ぬ…!」袖の内より自らも剣を出し、身を低くして両手を拡げ、鳳凰に構えた。気合一閃、唸りをあげて下方より迎撃したが、黒剣は物理的にモノが飛ぶ運動法則を無視して寸前で直角に曲がり、道士の剣をかわすや、頭上を跳びこえ、道士の背中めがけて突き刺さった。道士はその場で跳躍し、宙返りをしてそれをかわし、同時に地面めがけて菱形の飛び道具を投げた。それは地面を跳ねて鋭角に黒剣めがけ飛んだが、剣は全て避けた。

 「さすが………だが………」着地した道士はゴクリと喉を鳴らした。「なるほど、水蓮が出会ったのはコレか………こやつを捕らえるのが仕事というわけか。殿下もお人が悪いわ。しかし、ならば手はあるというもの」

 道士は剣を再び袖内へしまい込むと、次に細い糸を出した。その先端には、短剣がついていた。剣というより、太く長い針というべきか、大きな釘というべきか。彼は隠し武器たる「暗器」の達人だった。六角に削られた釘剣ともいうべきそれは、そのままするすると地面まで伸び、さらに伸びて、ストンと地面の中へ入ってしまった。まるで水の中に入ったように。すかさず浮いていた黒剣が、放たれた矢と寸分変わらぬ勢いで道士めがけて飛んだが、道士は動かなかった。ギリギリまでおびき寄せ、スッと今度は自らも地面へ入ってしまった。黒剣はそのまま飛んでゆき、とある鍾乳石へぶつかると、雷を発してそれを砕いた。それから再び孤を描いて宙へ舞い上がり、ぐるぐると道士が消えた地面の上を回って飛んだ。その瞬間、ビーンと黒剣がいきなり尾をつかまれた馬のように反っくり返った。じっさい、柄の部分に糸が絡まっていた。絡まった糸はまっすぐ地面へむけて垂れ、その先には釘剣があった。釘剣は黒剣と同じく、自らの力で糸を引っ張っているように見えた。すると地面の中から六本、周囲の闇より八本の釘剣が出現し、黒剣へ向かった。そして、動けぬ黒剣を瞬く間に雁字搦めにしてしまった。黒剣は刃を立てて糸を切ろうとしたが、ただの糸ではないのか、なかなか切れなかった。

 「ク、ククッ、丹生と呪を溶いた血墨によって加工した我が縛糸、そう簡単に切れては沽券に関わる!」そう声がして、地面より道士が現れ、糸を強引に手繰った。黒剣は懸命にもがいたが、じりじりと引っ張られた。

 その瞬間、バチバチという音が連続的にして、黒剣に電光が走った。とたん、糸が焼き切れた。道士は反動で尻餅をついた。フローティアの体が、ガクッと揺れた。術が解けたのだろうか。走った。剣も飛び、合体するようにフローティアの伸ばした手へ納まった。

 とたん、剣が、姿を変えた。ギュウンと伸びて、形を変えた。長くなった代わりに手から逃げるように細くなり、棒となった。長い。長さはフローティアの背を超えている。いや、棒ではない。棒の先に黒光りしているのは、細く尖った、剣………いや、穂先だ。剣だったときと同じく、一体形成に黄金の線模様の光る、一条の手槍が出現した。

 「げえっ!!」道士は息を呑みこむしかなかった。さしもの彼も、自在に可変する武器は見たことも聴いたこともない。いくら高含有率のジギ=タリス武器だとて、そのようなことが可能なのか。いったいどれだけ、古代の秘術を施されていると云うのか。

 そこへフローティアの呪文が炸裂した。動揺していた道士はまともにそれを受けてしまった。

 「ウッ…!」一気に、自らの体重が無くなるのを感じた。急激に周囲が無重力となった。浮遊の呪文である。「ワ、あっ………!」足元から浮き上がり、人の目の高さほどの宙に止まった。彼は暴れたが、その反動で、グルグルとその場で回転してしまった。「まっ………間合いがッ………!!」天も地も無く、端から見ていると滑稽なほどだった。

 フローティアは気合を入れた。「おおおおお!!」電光が全身にみなぎり、眼光も鋭く、スパークした。槍の穂先へ雷が集中して、ドリル状に収束した。そして突進した。

 「あああああッ!!」

 「………!」道士は奥歯を割れんばかりに噛んだ。もはや為す術はなく、今、彼にできることはなんとしても逃げきって恐るべき黒剣とフローティアの力を報告することだったが、無理な相談だった。

 「うおおーッ、おおのれエエエーッ!!」道士は血走った眼をむいて袖より暗器をバラバラと出したが、空しく周囲に浮くだけだった。最後に自決用の爆弾を出したが、先にフローティアが道士を貫いた。強烈な電光がほとばしり、プラズマが炸裂した。瞬間、道士の爆弾が誘爆した。

 つき刺すような轟音と閃光、衝撃と爆風が洞窟内をゆるがし、フローティアは豪快にふっとばされた。正直、死んだと思った。黒剣(いまは黒槍だが)が護ったとしか説明がつかなかった。フライパン上の食材のように地面を転がって、しばし動けなかった。ややあって、トリーナが泣きわめきながら走り寄り、助け起こした。

 「い………生きてるわよ………」埃と血にまみれ、フローティアは立った。今度はトリーナがそれを支えた。

 「あ、あいつは?」

 「死んでるさ!」しかし、なんと、死んではいなかった。槍に串刺にされ、感電し、焼け焦げてしかも爆発の中心にいたのに、横たわり、まだ生きている。

 「………なんという………おまえは………いったい………何者………だ………!」

 「我はいにしえのルオンノタール………天地成す大気の乙女………」

 トリーナは驚いてフローティアを見つめた。いま、フローティアはアデルナ語でも、ウガマールのことばでもない、まるで未知の言語を口走ったのだ。(ただしフローティアは自分で云っている意味が分かっているのかどうか、トリーナには読み取れなかった。)

 それを聴いた道士がニヤリと笑った。同時に、ごっそりと吐血した。

 「さすがだ………さすがは黒き稲妻………其方こそまごうことなき………ドゥ………」

 それが、八卦道士が一、地道士・地来蟲の、いまわの際の言葉だった。


 二人は葬送の行進のように、または地獄へ連行される罪人ように、疲れ切り、絶望の渕を観たような顔をして黙々と歩いた。長居したくなかったので、休まず出発した。トンネル滝の脇の梯子を登るのが最も苦労した。足を引きずり、話す力すらない。はぐれてしまうのを防ぐのがやっとだった。黒剣はまだ槍のままで、それを支えにできるのが助かった。フローティアは自分の武器にこんな特殊能力があるなど、今のいままで知らなかったが、そのことを考えている余裕も無かった。

 トンネルを抜け、街を横切った。心なしか道案内の仄かな照明呪文も力なくふらふらと、今にも死にそうな蛍のようだった。ここで魔物と出会っていたならば絶対に二人は生きて日の目を見ることは無かったであろうことを考えると、非常に強運がついてきたともいえた。結果として、何にも会わなかった。飲み水を用意しなかったことが最悪的にこたえた。地下水脈の水を渇きに耐えかねて不用心に飲まなかったのは、褒めてしかるべきだった。この冷たく地下の陰気を吸い込み、殲滅の憂き目をみた暗き淵の住人たちの怨念が硫黄ガスのように融けた恐るべき水を飲んだせいで地上へ戻れなかった者は、数えきれぬ。

 やがて、ついに階段まで到着した。これから十六の踊り場を全て登りきらなければならない。二人はここで少し休み、浅く眠るとやがて意を決し歩きだした。その辛かったことといったら! 今まで十数年間生きてきて、これほど肉体的に厳しい状況に追い込まれたことは無かった。トリーナはまだしもフローティアですら、どんな砂漠やジャングルを踏破してもこれほどの苦痛は無かった。疲れているだけならまだしも、戦闘の後というのが効いた。なぜなら今まで、ろくに戦いらしい戦いは未経験なのだ。槍を杖代わりに、這うようにして階段を登った。二人は足元のみを不乱に見据え、手で足を動かしてまでして、止まらずに動いた。階段を登る一歩一歩が帰還への遙かなる旅路だった。二人が途中で挫折しなかったのは強靱な精神力もさることながら、降りてくるときにはまったく気付かなかったが、階段や踊り場のそこかしこに力尽きた白骨がゴロゴロと転がっているのを認識したからだった。二人の足を支えているのは、ほかでもない、恐怖だった。自分たちも無残にああなるのかという。しかしそれで良かった。戦場で恐怖に麻痺した者は、死ぬ。

 どれだけそういう状況で歩いていたのか、時間を数えるのも段数を数えるのも嫌になりながら、ひたすら歩いて、ついに二人は長い階段を登りきった。出口の暗闇へ手をかけるころには、立つこともままならなかった。倒れ込むように最初の部屋へ戻ると、そこからアルフレートの店までまだ通路が続いている。しばしそこでそのまま横になって、動けるようになるとフローティアはトリーナの腕をとり、肩を支えて進んだ。トリーナは道士・地来蟲によって奪われた生気が、まったく回復しないまま、よくここまで来たものだとフローティアは逆に感心した。もし地下でダウンされたら、フローティアは完全に気絶したトリーナをつれて帰って来る自信は無かった。

 店へ通じる扉を開けると、たまたまそこにいて長いパイプで不思議な香りの煙草を燻らせていたマスターが、幾分か驚いた顔で二人を迎えた。

 「あァらあ、トリーナさん、お帰りなさあい! よく帰ってこれましたこと」

 トリーナは云い返す気力もなかった。店内は変わらず暗く、何人かの客が彫像のようにいた。不協和音の垂れ流しは、幾種類もの太鼓やシンバル、管楽器の音が加わって、戦場のようになっていた。この音楽(!?)は目眩と頭痛に拍車をかけた。

 「み………水………」

 「上質のミネラル水ですので、二杯で一アダーになります」

 店の隅の長椅子へ座り込み、フローティアはアレグロ金貨を数枚、投げつけた。生き人形のような美貌の店員(瞬きをまったくせぬ)が銀のゴブレットと大瓶ごと冷たい水を盆へ乗せて持ってきたので、二人でむさぼり呑んだ。生き血を啜る魔物のようだとマスターは思った。

 「ところで、仕事はうまくいったのですか、お嬢さん」飲み終え、ゴブレットを手にしたまま長椅子へ引っくり返ったトリーナに口をきく余力が無いと観て、マスターはフローティアへ話しかけた。

 「え、ええ、はい、まあ、なんとか………」

 「初挑戦で、健闘したほうでしょうよ。もう少し、休んでお行きになりませんか?」

 「いいえ」この頭痛のタネの音楽をいますぐ止めてくれるのなら、明日の朝までいたいと思ったが、ここはそういう音楽の愛好家が集まっているらしかったので、期待もせず口にも出さなかった。とにかく家に帰りたい。

 「トリーナ、行きましょう、起きて」

 「合点承知」トリーナは起き上がった。水を飲んだら、ものを云うだけ回復したらしい。

 二人は支え合って、店を出て行った。

 「常連さんになりそうだわ〜」

 見送ったマスターは満足げに眼を細め、首を振った。

 「おい、いまのやつ………?」

 やおら、マスターへ、奥より立ってきてそう話しかけた者がいた。マスターと同じほどに背丈のある女性で、暗い店内でもそれと分かるほど、緋色でくせ毛の髪をしていた。衣服は男物を改造したような動きやすいもので、装甲は無かったが短剣を三本も装備していた。その物腰だけで、屈強の女剣士だと分かった。フル装備ではないため、いまは連絡員か何かの仕事中だと察しられよう。マスターは既にこの女性と顔見知りだった。

 「なんとおっしゃったかしらねえ。新人の退治屋さん。今日、初めて下に行ったのだけれど、足手まといをよく生かして連れて帰ってきましたよ。たいしたもんだわ」

 女は前髪をかき上げ、フローティアが出て行った扉をにらみつけた。

 「ほんとうにいやがった………!!」

 恐るべき殺気と怒気が怨嗟となってとぐろを巻き、女より立ちのぼったが、マスターは無視した。そんな人間模様、この店では朝から晩まで腐るほど眼にする。いちいち携わってなどいては、仕事にならぬ。

 「ところで、あなたのお連れのお方………あの異国の男性、遅いですねえ」舌を鳴らして女は再び席へ戻った。しかしそのまま朝になっても、昼近くになっても、彼女の連れとやらは地下都市より戻ってはこなかった。


         3


 キャスリーンの家は、代々ハンテールだったが、裕福だった記憶はない。むしろ清貧な暮らしをしていたといってもいい。兄もハンテールで、一家で誇りあるまっとうな魔導退治を常に心がけていた。古い家であるらしかったが、家族の誰も多くは語らなかった。曾祖父のときにその肝心要の姓を失っていたのだ。歳は、家族がそのような話を一切しなかったので自分でも実はよく知らないのだが、どうも今年で二十四ほどになるらしい。このまま結婚もせず子もできなければ、古い家とやらも自分で途絶えるはずだったが、苗字も失った家になんの意味や価値があるものかと思っていたので、むしろせいせいしていた。

 さて………。

 ドラゴンの恐怖にさらされ、まともでいられる者は少ない。ましてアデルナ赤竜である。しかも彼女は、自らのハンテールとしてのプライドを完全に粉砕された。ドラゴンと、黒髪の見習いに! 部下と誇りと精神の拮抗を失った彼女は、しばしモンテールのハンテール療養院にいたが、やがて脱走した。トラウマで剣を持てなくなり、街道を着のままでさまよった。生きていたくなかったのだろう。しかし、どうやら死ななかった。

 そして、カルパスへ着いていた。

 カルパスは生まれ故郷だったが、まるで好きになれない街だった。表も裏も、栄光も挫折も、光も影も、あり過ぎる。巨大な人生模様の坩堝であり、もうこれ以上厚く塗るとカンバスが台より落ちてしまうというほどに塗り固められた何にも見えぬ絵画だった。混濁した汚物へ群がるハエの大群を思わせるほど通りに溢れかえる人という人を見るだけで具合が悪くなった。

 彼女は裏街を這いずり回り、やつれ、犬にすら追い立てられた。典型的な退治屋崩れの浮浪者だった。ハンテールのナレノハテ。この街ではいくらでもいる。やがて魔物に食われるのがオチで、だれも相手をしない。そんな、通りの隅にうずくまり死を待つキャスリーンを、ある夕刻、一人の異国人が尋ねた。

 「キキキ………やっと見つけた。古く暗い血脈を保つ者………」

 ふだんなら声をかけられても罵倒と哀れみと憎悪しかなく、無視するのだが、その声は妙な訛りのあるカルパス語で、壊れたヴァイオリンのように調子っぱずれに甲高かったため、思わず虚ろな眼を上げたのだった。

 「お前のその気脈、血脈、魂の色、因縁、殿下はとうにお気づきだ。我々は手を組む用意がある。しかるべき盟約を結ぶべし。互いに望むものは、同じものである」

 「………なんだ?」ヒラヒラとコウモリが何匹も自分の周りを飛び出したが、キャスリーンはその妙な空気の甘い匂いが気になった。急激に眼が覚め、精神に冷気が入ってきた。

 異国人は、背は低いが妙な威圧感があり、なにより見開かれた大きな目玉がギラギラと光っていた。キャスリーンは実に何十日ぶりかに、すっくと立ち上がった。

 「だれだ、どこの国のやつだ」

 「ターティン帝国………かつてこちらではタルタルとかティーナとか呼ばれた地だ」

 「あの野蛮人の国かね!」

 「我らからみればこちらは西狄。人外魔境の地。お互いさまだよ、赤毛の女剣士殿」

 「どっちにしろ、世界の奥から、わざわざご苦労なことだ! あたしはあんたなんぞに用は無い。消えな」

 「用はある。いろいろとな。話だけでも聴けば得をすると思うぞ、キャスリーン………キャスリーン デル アルデセイ殿」

 「………!!」全身が泡立った。髪が逆立ったようにも思えた。さきほどの冷気が一瞬にして消えうせ、血が煮立ち、眼から火が出た。呆然としつつ、女を指さした。

 「なんだ、なんだその名前は………それを、それをどうしておまえが知っている!!」異国の女は歪んだ目つきで笑った。「キーッ、ヒ、ヒィ! 知っているとも! 大戦当時の魔導王国を少しでも学んだ者ならば、誰でもな! 旧アデルナ王国筆頭宮廷騎士、第一騎士隊長・アラン グランドール デル アルデセイの正統なる末裔、それがおまえだ。吸血鬼王の名のひとつを与えられた、最強の魔導騎士だ。その栄光の血を引きつつ、落ちぶれ、辛酸を舐めた一族の歴史を一心に背負っているのが、おまえだろうがッ!?」

 キャスリーンはいつの間にか泣いていた。両手を口に当て、嗚咽をこらえた。女はさらに目をむいた。

 「アルデセイ家の物語はーッ、この国の人間なら誰でも知っているッ! 聖導皇家へ最後まで抗った、最大の反逆者にして英雄だ!! キーッヒヒ! 泣くやつがあるかね! 勘ちがいするなッ、我々が用のあるのはアルデセイの名ではない。その、おまえさんの身に流れる血液と、血液の成せる事柄だ。少なくとも、我とおまえは、憎しみを共有することになろう。これをみろッ」

 女は、左手を差し出した。長い袖口をまくると、そこにあるはずの手首はなく、少し骨の飛び出た荒い切り口が、まだ生々しく光っていた。女の眼はいっそう見開かれ、飛び出てきそうなほどだった。怒りと怨念の炎が燃えた。唇の端がキュッといびつに曲がったまま、さしものキャスリーンも息を呑むほどの形相となった。

 「問題はーッ!」女の声がさらに高まった。「肉体的な傷の深さや大きさ、ましてや痛みなどではない、精神だッ、精神の問題なのだーッ! 我の精神が受けた傷というものは、このような手の一本や二本を失った程度ではすまされぬわ! これは、戒めを受けた手を我が己で断ったものだッ、そのときの屈辱たるや、言語には尽くせぬ!! お前にはそれが分かるはずだ! なぜなら、同じ傷と同じ痛みがおまえの精神にもあるからだーッ!!」

 ぴたりと、キャスリーンの涙が止まった。心の底に、火が着いたのが分かった。たちまち、その目つきがかつての強力なハンテールのものとなった。

 「………そういうことか。経緯は知らない。知りたくもない。結果だ。結果だけが価値のあるものなんだ。あんたもあのふざけた黒髪の見習いに、してやられたってわけかい」

 「あやつも、この街にいるはずだ」

 「まさか………! ほんとうか!!」

 「少なくとも、共に仕事をする気にはなったようだな、アルデセイの末裔よ。さあ、再び剣をとれ!」水蓮が、後ろに隠していた長剣を差し出した。柄頭に、真っ赤な石が埋め込まれている。キャスリーンはややためらったが、しっかとその剣をとった。

 「キーッヒヒ! そうだ、それでいい。前金として、五十アレグロを用意しよう」

 「………文句は無い。名前を教えてほしい。あんたの名前を」

 「我は、水蓮」

 「よろしくな」

 水蓮の顔が、ニッコリと、また別人のような笑顔となった。袖と袖を合わせ、笑顔で会釈をした。「立ち話もなんだ。出会いと契約の締結を祝して、一杯いきたいがどうか。やっとこちらの、葡萄酒や麦酒にも、慣れたところなのだ」

 「いいじゃないか。ところで、わたしは何をすればいい?」

 「いまに分かる」

 こうして、キャスリーンは、東方よりの来訪者たちを手伝うこととなった。もっとも最初は、彼らの行う仕事の補佐や連絡、それに主に買い出しの都合だった。依頼主は姿を見せず、いつも水蓮やその仲間と共に行動した。全部で、十人ほどの一団ということだったが、彼女が会うのは、水蓮と、地来蟲というガッシリとした壮年の男、火撰という背の高い面長の女、そして沢奥という髭だらけの太った中年の男だった。

 その後、一か月もたたぬうちに、キャスリーンは目指す仇(まさにそのように呼んでも差し支えぬほどの怨みが、彼女を支配していた。)とめぐり会ったのである。


 フローティアは、レオナルドの馬車まで辿り着いた経路をまったく覚えていなかった。トリーナも同様だった。夜が明けかけていた。暁闇の中へ不気味に浮かび上がる馬車を観た時、二人は歓声をあげた。まるで戦場で希望の塔でも発見した心持ちだった。レオナルドは何も云わず、素早く降りて馬車のドアを開けた。二人が転がるように乗り込むと、発車した。トリーナが何事か小窓より云い放ち、馬車は行き先を変えた。二人が向かったのはとある屋敷の離れだった。離れといってもその屋敷全体の規模からみれば、まるで鳥小屋だったが、二部屋、風呂付きの豪勢なのもで、特権階級の子弟がよく利用しているものだった。馬車が到着したころには、既に屋敷の使用人が仕事を始めていて、ボロ雑巾のようになったトリーナを発見して驚愕した。

 「トリーナさん! まさか、退治に!? 旦那さまに知れたら何を云われるか!」

 「チクったら承知しねえ!!」

 メイドの一人は天を仰ぎ、そして呆然と周囲をみつめているフローティアを見つけた。

 「まあ、こちらは、もしかして………? トリーナがご迷惑を………ここは、旦那さまの離れの一角です。我々使用人が住んでいる場所ですので、どうぞ、しばし疲れをお癒しになってください。トリーナさん、このことは報告せざるをえませんからね」

 「勝手にしやがれ! さあ、フローティア、こっちだよ、迷惑かけたね。少しでいいから、休んでってよ。遠慮はいらない。せめてものお礼だよ」フローティアはちらりと振り返った。レオナルドの馬車は、既に、去っている。

 しかし、この大都会にこのような場所があるとは、連れて来られるまで想像もしえなかっただろう。緑におおわれた広々とした空間、高く澄んだ天、泉の煌きと、鳥の声。およそカルパスの雑踏や喧騒とは無縁の世界だ。通りの途中途中にも同じような邸宅が集まっていたように記憶している。つまりここは都の中でも特別な上流階級の屋敷の建ち並ぶハイソサエティ地区なのだ。

 「あんた、こんなところに住んでるの」

 「正確には、住まわせてもらっている、さ。土地の隅っこに。使用人だからね。けど、そういう人に使ってもらえるというのは、恵まれてるんだろうね」

 「ふうん………」そういう割には、肝心の建物は見えぬ。フローティアは後に庭師のような使用人へ尋ねると、このように返事が来た。「あの丘の向こうの池の向こうの林の向こうにお屋敷がございます」

 二人は、まず小さいがしっかりとした湯殿で順に身を清めると、近所の医院へ向い、傷の手当をした。カルパスでは田舎と違い神殿と医院が同じではなく、専門の薬草師や医者がいるのだった。二人の傷は打ち身と捻挫が主で、特にフローティアは全身打撲ということで身体じゅうに軟膏薬を塗られ、湿布を貼られた。女性の医助手が包帯を巻いて入院を勧めてくれたが、ベッドの上でまるっきりウガマールのミイラのようになったフローティアは断った。次に医師はトリーナを診察し、眼の奥をのぞいて精気がごっそりと抜けているのを看破し、とにかく滋養をつけろと云い、強心薬の薬草をくれた。煎じて飲む。

 「安静にしていろっていうんなら、部屋を用意してやるよ」

 使用人長屋へ戻り、フローティアはメイドの一人に案内されて三階建ての建物の一室へ通された。この建物はつまり離れの離れであり、使用人の住むアパートなのだったが、彼女の住む安アパートより大きい。包帯だらけのままベッドへ横になると、フローティアはたちまち意識を失った。昏睡するように眠りこけた。


 トリーナは昼少し過ぎまで眠ると、フローティアを見舞い、彼女がまだ深い寝息を立てているのを認め、専用の馬車に乗って邸内を走った。母屋へ到着すると執事部屋へ行き、主人の行方をきいた。彼女の主人、マリッツィオ ルキアッティは、ルキアッティ家の三男であり、カルパス評議会の永世議員であり、評議会公安委員会魔導部の総裁を務め、第三軍・通称アンダルコンを含むカルパス都市軍の総司令であり、カルパス=ハンテール協会の理事長でもあった。つまり、かれはカルパスの魔物退治業界の表裏のドンであり、事実上の退治業界の支配者で、毎年、カルパス評議会で多額の予算をぶんどって業界へ流通させている。その利権は計り知れなく、アデルナの魔物退治業界を一人で操作していた。

 したがって激烈に忙しい。移動の護衛には常に最強のハンテール軍団アンダルコンが付従い、影武者は七人いると云われている。トリーナは、いつも会っている主人のうちの何人かは、その影武者にちがいないと思っていた。

 執事室では、中年で常に額に皺をよせた人物が、その日も皺の間にペンでもはさめるのではないかというほどに眉をよせて、茶髪をオールバックにし、書き物をしていた。彼は、この別宅を預かる執事・ドンコニールである。彼は、トリーナを含めたこの離れの全使用人のボスだ。

 「こんにちは。マリオ様とはどこで? 例の、魔物退治の件で………」

 「トリーナさん、ちょっと、こちらへ来てお座りなさい」

 「どうしてだよ」

 「旦那さまのお云いつけを破った罰でございます」

 トリーナは顔をしかめた。しかし、致し方のないことだった。珍しく素直に、云われたとおり部屋の中まで進むとぽつねんと用意された椅子へ座った。ギシリと音がして、トリーナの大きな尻を支えた椅子は、古い時代のとても貴重な家具だった。

 「それで、結果は、いかがでした?」お茶が運ばれてきた。もちろん、ドンコニールの分のみだった。トリーナは真面目に説明をした。「残念ながら、わたしは、退治の途中で足を痛めまして、あ、もうだいぶん歩けるようになりましたが、魔導士を退治した現場は目撃しておりません。しかし、見事に退治したと確信しております。それから、帰還の途中に、もう一人、魔導士を見事に撃退いたしました」

 ドンコニールは詳細に書き留めた。

 「ハンテール フローティア氏はどうでしたか、あなたを連れて帰って来たという事実は非常に評価されるべき点です。あなたを導き、護ってくれましたか?」

 「それは、もう。このようにして、生きて帰って来ました。彼女のお陰です」

 「旦那様には、既にお考えがあるようです。フローティア氏の持っている剣については、どうでしたか。何か、報告は?」

 「剣ですか? あの例の黒い?」

 「そうです」ドンコニールは顎の下で手を組んだ。ひと言も聞き漏らさぬという姿勢だ。

 「槍に変わりました」

 「………槍に? 剣が? 変わった?」

 ドンコニールはすぐにその通りに書いた。

 「けっこうです。お伝えしておきましょう。それから!!」ドンコニールはさらにいっそう眉間の皺を深くして、トリーナをにらみつけた。「それから、あなたはしばらく外出禁止です! お給料も三か月減俸! もう行ってよろしい。旦那様からは、しばらくお沙汰は無いでしょう。せっかく黒剣の情報を仕入れてきたのに、帳消しです!」

 トリーナは、ショックで、しばらく動くことができなかった。


 フローティアは、丸二日眠りこけた後、翌日には急激に痛みが襲ってきて、さらに三日ほど動けなかった。世話は、メイドがしてくれたのでほんとうに助かった。これが安アパートの自室だったと思うとゾッとした。四日目にはそのまま動かなくなっている可能性もあった。薬や包帯も、例の近くの医院より毎日新しいものが届けられた。特に食事が良かった。彼女は、ゲストとして扱われていたのだ。

 六日目に、フローティアは無事「退院」した。トリーナが見送りに出てきてくれた。いつにもまして神妙だ。「そのー、あのね、しばらくおいらは謹慎なんだ。仕事はね、もし良かったら次のがあるって旦那様がおっしゃっているらしい。あと、ここに行きなよ。おいらはよく知らないけど、すごく腕のたつハンテールなんだって。個人事務所なんだけど、見習いはいるけど助手がいなくて、旦那様が紹介してくれるってさ。はいこれ、紹介状」

 フローティアは受け取った地図と事務所の名前を見て、つぶやいた。「あたしなんかが、そんな凄い人の助手がつとまるのかしら」

 「それは、やってみないと分からないじゃないか」

 「まあ………ね」

 それから、トリーナはずっしりと重い革袋をフローティアへ手渡した。

 「二百五十アレグロだよ」

 本当に出た。それほどの仕事をしたつもりは無かった。トリーナはそんなフローティアの気持ちを看破していた。見開かれた藍碧眼をみつめ、「フローティアにそのつもりはなくても、旦那様にはあるんだ。フローティアは、旦那様にとってそれだけ価値のある仕事をしたということなんだ。凄いことだよ! 屋敷でもちょっとした噂さ。ノーノの店へ預けるといいよ。ルキアッティ系列さ」

 「なんの店?」云いながら、袋を覗いた。五十アレグロ束の金貨棒が五本、確かに二百五十アレグロだ。

 「ホントにもらっちゃっていいのかしら。なんか………恐いわ」

 「なにが? それは、正当な報酬だよ」

 「そうなの………」

 いま考えても答は出ぬ。フローティアは受け取った。「で、預ける? どこに?」

 「銀行だよ」フローティアは意味がわからなかった。「なにそれ………質屋?」

 トリーナは、フローティアの云う意味がわからなかった。世界でカルパスにしか銀行システムが無いとは、彼女は知らぬ。

 説明が面倒くさいので、トリーナ、「行けば分かるよ。案内させる。大金を家の金庫にいれとくのはお薦めしない。この街じゃ」

 フローティアは屋敷の馬車に乗せられた。

 やがて到着した通りは、カルパスの金融街で、店が十件ほどあった。みな地味な看板を出しているが、人々はアリのように出入りしている。「なんのお店ですか?」フローティアの問いに御者は答えた。「フローティア殿はどちらから? ウガマール? では、貨幣を両替しなければものが買えませんよね? カルパスには、六方じゅうから貨幣が集まります。ウガマール、ストアリア、ヴェンドルフ、ラズバーグ、それにアデルナと、少なくとも六方西域だけでこれだけの主要な国家と通貨があります。ターティンやガーズラバンドの商人も昔はよく来ていました。金貨や銀貨を両替しております。このカルパスは金融の中心ですし、貨幣価値の信用もあるから、物価も安定します。ルキアッティ家公認両替商は他の店や個人にお金も貸して、利子で儲けて、それをまたお金を預けてくれた人に金利として返します。もちろん、その中から、自分たちの儲けもとります」

 一介の御者がそこまで知識があるのもさすが大ルキアッティの使用人だったが、フローティアは五分の一も理解できなかった。

 「ここがノーノの店です」

 御者に連れられ、フローティアは恐る恐るドアを開けた。暗い店内には七人ほどの客がいて、書類を書いたりカネを預けたり受けとったりしている。みないっせいに(店員までも)フローティアをにらみつけた。つまり、フローティアの腰の物を観たのだった。

 「お客様、店内では武器類の携帯を禁じられております。どうぞこちらに」

 フローティアはその天井にアタマがつきそうなまでの大男を見上げ、云っている事に筋が通っていたので腰の革サックより黒剣を外して、大男へ預けた。モーニングの男は丁寧にお辞儀をして、店の奥へ消えた。御者がカウンターで某か云うと、女性店員が襟を正して「少々お待ちください」と緊張した声を出した。すぐに上司のような男性店員が現れ、フローティアのみを奥へ通した。そこは個室で、ドアには厳重に鍵がかけられ、密室になっており、調度品も豪奢で、重要な商談をするところだとフローティアでも分かった。

 「これはお客様、はじめまして。店長のノーノでございます。いつもいつもマリオ様にはごひいきに」腰の低い、灰色の髪を流した、鼻がとても高くて鼻眼鏡が似合う初老の男性は、フローティアとつつましく握手をした。すぐに高級なコーヒーが用意された。

 「あ、あの、お金を………」フローティアは革袋より金貨の束を出した。そのときの店長の笑顔は、そのまま溶けてしまうのではないかと思われた。

 書類にサインをし、フローティアは正式にノーノの店の顧客となった。「当方は、正式にルキアッティ家より両替商・預金商・金利貸付商の認可を受けております。無認可の店とは、お客様の信用がちがいます」フローティアは眉をひそめた。「に、認可………?」ノーノはすかさず答えた。「他店との大きなちがいは補償です。盗難、火災、店になにかあったとき、政府が補償してくれます。安心して、お預けくださいまし。また、貸し出しの際、相手方の身分、商売の具合、つまり返済の確定性などなど、厳重な審査をパスしたお客様にだけ、お金を貸し出します。無認可のように誰かれかまわず貸し付けません。従って回収率も高く、安定した金利補償をお客様に確保できるのです。今では、この通常型定期預金の利率は………」その説明はフローティアにはまるで未知の呪文だった。


 ところで、黒剣である。

 彼女もトリーナもまるで気づかなかったが、レオナルドの馬車に乗ったころには、すでに槍より剣へ戻って鞘へ納まっていたようだ。物心ついたころより黒剣と共にあったが、ついぞ、そんな能力があるとは知らなかった。

 「いや………たしか………」幼いころ行方不明となった一番上の兄が、ちらりとそのようなことを云っていたかもしれぬ。しかし今となっては記憶の奥の幻想にすぎない。

 ノーノの店を出て黒剣を受け取った時、彼女は改めて見つめてしまった。「なにか、お客様、不手際でも」店員が心配した。

 「いいえ、なんでも」フローティアは馬車に乗り込んだ。「どちらへ参りますか」フローティアはアパートへ戻ろうとしたが、紹介された退治屋事務所へさっそく行ってみることにした。羊皮紙のメモは二つあり、蝋で封印がなされている方が紹介状だった。もう片方を開き、事務所の名と住所を確認した。

 「フルト&セルジュ魔物退治請負」

 そこには、そう書かれていた。


 フルトのもとへマリオが再び訪れたのは、フローティアが離れの一角で寝こんで二日目のことだった。今回は、アデルナ特有の午後の長い昼休みのときだった。閑散とした通りを駆け抜けて装甲車のような馬車がきた。フルトはその日、退治は無く、たまたま事務所にいたため応じることができた。

 「おや、これは、マリオの旦那、昼間っからお珍しい」

 「先日はどうも。今日はいろいろとお話がありましてね」

 「儲かるものなら、いつでも喜んで」

 たまたまと云ったが、実はフルトの事務所は定期的に見張られていて、そのためマリオは在宅を知り、予定を変更してやってきたのだった。オファーをとらないのは、いろいろとある中での、自衛策だ。それはつまり、主に政敵との関係で、自分の居場所を知られたくないとか、何を画策しているか読まれないためとか、いろいろとである。

 「お話は二つ。ひとつは報告。ひとつは仕事の依頼」

 見張られているのは、フルトは知っていた。時折、おそらくアンダルコンの間者らしき者が事務所の周囲をチラチラと嗅いでいるのだ。何人かは見知ってしまった。しかし、仕事の依頼のためとあっては苦にもならぬ。あえて指摘してこのすばらしいパトロンの気分を害し、見切られるのは得策ではない。

 セルジュが、マリオ専用のカルパス最高級のワイン「カルパシーナ」の白より造られたこれも最高級ブランデー「カルパシオン」二十年物の瓶を開けた。

 「あなたが退治した魔導士と、その行われていた魔術。バレンを産み出すという、木のことですが………アンダルコンの資料部へ調査を命じました。その結果、そのような魔術はまるで前例が無いということです。およそ記録が残っている約千二百年間に、まるで無いと。紀元前の古文書まで掘り起こさせました。それでも無い。つまり、我々とはまったく異なる思想によるのです。それは、私が考えるに、この国のものではない」

 「それでは、ウガマール? それとも、ストアリアですか? もっとも、この魔導王国アデルナに記録が無いのでしたら、六方西域のどこにも無いでしょうがね」

 「その通り。すなわち、結論は、東方、南方域、あるいはまったく未知の世界」

 「その場合の『世界』というのは、この世の事ですか?」

 「そうです」

 「東方………」フルトはスティックの言葉を唐突に想いだした。「ターティン?」

 マリオの表情は変わらない。「こんなところまで東方の魔導士がふらりとやってくるとは思えません。大きな勢力の先兵と考えるのが妥当です。犯罪組織? 否、帝国政府自体でしょう。あの強大国が、直接そのような勢力を送り込んできているというのであれば、由々しき事態です。表立てば外交問題。いま、あの国とまともに戦争をして、勝てるところはありませんよ。たとえストアリアでも」

 「戦争にはならんでしょう」

 「人間同士のは」

 「………意味が分かりませんが」

 「とにかく、ターティンが動くのであれば周辺国は否応なく巻き込まれる。それほとの影響力です。あの国はね。いま世界戦争をするほど、人間に余裕はありませんよ。千年前の大戦ならいざしらず。もっとも、あれとて人が始めたものではありませんが。無差別に世界を巻き込む戦いなど、今の世でできることではありません。つまり、ターティンの目論見が見えてこない。何を考え、カルパスを訪れ、そのようなことをしたのか。そういえば、皇帝が代がわりした。新帝は世界中を恐怖と混乱に貶める滅亡主義者なのでしょうか?」

 「旦那に分からないものが、わたしに分かるはずもございませんや!」

 「くだらない謙遜と見え見えの皮肉はけっこう。ご存念を」フルトは軽く肩をすくめた。「あの魔術は、確かに、我々の発想より生まれるものではない。魔物を産む樹など、前代未聞です。しかしあれは大量生産に向いている。ありゃア、開発中の新商品でしょうよ」

 「なんと!」マリオは珍しく満面の笑みを浮かべた。「なるほど………!」細い顎に華奢な手をあて、何度もうなずいた。「魔物を売りつけるとなれば、買う相手はカルパスの中にだっておりましょうね。例えば、ルキアッティに対抗しようとする愚かな評議員、裏社会の組織の連中。じっさい、闇市場では魔物の売り買いが半ば公然と行われている。だがそれは特別な、強力な魔物の話で、数はけして多くはありません。鶏でも買うように売買されるとあっては、話は別です。魔物の大量生産。しかも、牧場ではなく、云うなれば果樹園というのが付加価値なのでしょう。そしてこちらの魔導士へ技術を提供している………現地生産というわけですか。フフフ、ターティン皇帝、まさかこの魔導の本場で我がルキアッティに堂々と対抗し、闇市場を開拓しようと? だとすれば、未然に阻止できた事は大きな意味がある」

 一気に云うと、マリオは眼を細め、フルトを見た。フルトは酒を舐めながら、そのナイフのように油断なく光る眼をみつめ返した。

 「ご満足ですか。それで、仕事というのは。また、退治ですか」

 「それもあります」マリオは鞄より資料をとりだした。羊皮紙の巻物をガサガサと開くと、一振りの剣が描かれ、古い文字で文章があった。フルトはその言葉をよく知っていた。ウガマール古文だ。巻物を手にとって、しげしげと眺めた。

 「これは古剣ですね。知っていますよ。銘はセクエンツィア。サティス語で儀式の最中に歌われる続唱を意味します。魔導・聖導を問わずにね。旧アデルナ魔導王国筆頭騎士の家に代々伝わっていたと記憶しております。切っ先の鉤と柄頭の大きな目玉のようなルビーが特徴だ。こんな正確な資料が残っているのですか。さすがですね。写しですか」

 「もちろん模写です。本物はご存じの通りウガマールで書かれましたが、大戦で失われたとのことです。資料はね。剣そのものは、長く保管されてきました。ルキアッティ家の蔵の奥の奥に」

 「………えッ………?」フルトは驚愕した。「なんですって? いま、なんと!?」

 マリオがニヤッと笑った。

 「セ、セクエンツィアが、カルパスに!? 失われたと聞いていましたが………保管されていた!? ………まさか………!!」驚愕の後、フルトの顔へ子どものような好奇心が浮かんできた。「ぜひ観てみたい」と書いてあった。

 「ええ」だが、マリオはそこで、声を低くし、フルトへ顔を寄せた。

 「しかし、先般、盗まれました」

 「………は!?」

 「盗まれたのです」

 「ぬ………」フルトもまた、口を押さえ、身を屈めた。好奇心などどこへやら。事の重大性を認識し、咳払いをした。もはや声は囁きとなった。

 「結論から申し上げる。その剣を探してくれというのではありますまいな」

 「いかにも。できれば、迅速に。目覚めさせてはならない」

 「旦那、何をおっしゃっておられるのか理解できませんな。アンダルコンをお使いなさればよろしいでしょうに! なぜこのような一介の退治屋に」

 「察してください、フルトさん。ルキアッティ家の私蔵品に都市軍は動かせません。評議会へ報告するわけにはゆかないのですよ。セクエンツィアの捜索だなどと」

 「聖導皇家の手により、葬られたことになっていますからね。それがどうしてまた、ルキアッティの蔵にあったのか」

 「ご想像におまかせしますよ」

 「律儀に議会へ報告などしなければよろしいでしょうに。そういうの、分かりませんが、よくあるのでしょう? 握りつぶすというか、闇へ消すというか。それとも、適当に誤魔化すというか」

 「それも、ご想像におまかせしますよ。とにかく! 今回の件は表沙汰にするわけには参りません。きっと、いろいろな関わりが大きくなるでしょう。見つかってからルキアッティ家と関係ないとシラを切っても、切り通せるようなシロモノではないのですよ、アレは。それに、ずっと、忘れられていたのです。このまま朽ち果てるはずだったのです。あの不吉な赤剣は」

 フルトは椅子の背へ深く身体を預け、息をついた。

 「しかし、盗まれたとは尋常ではありませんな。いったいどうやって」

 「蔵に大穴が空けられていましたからね。賊はこっそり盗んだのではなく、いや、もしかしたら盗んだつもりもないのかもしれない。とにかく、堂々と入って堂々と持っていったというしかありません。他の宝物(ほうもつ)には目もくれずにね。数日前のことです」

 「お兄上や、お父上方は、なんと?」

 「セクエンツィアの重要性を認識している者は、兄の中にはおりません。父は、これで家は終わりだと塞ぎ込んでいます」

 「分からないことがふたつほど」

 「なんでしょう」

 「アンダルコンが警備している屋敷から、何者がどのように。また、なんのために。あの剣は持ち主を選ぶ。代々の紅蓮の騎士以外に、あれを使えるものはないと聴いています。紅蓮の騎士以外にとって、あれはただの文化財ですよ。ジギ=タリスの含有率は高いでしょうがね。売ろうったって、市内では足がついて無理だ。国外へ持ち出す?」

 「いいえ、おそらく、カルパスからは出ないでしょう。目的が紅蓮の騎士の復活にあるのならば」

 「なるほど………」フルトは眉をひそめた。「しかし大胆不敵な………何者が………」

 「未知の術を使い、私たちの概念や常識の通じない土地の者たち。さきほど、話していた者たちが、思い当たりますがね」

 「………」

 フルトは口を半分開けたまま、無言となった。そして口を閉じ、沈思にふけった。マリオはそれがフルトの依頼受諾の合図だと判断した。しばし、酒をなめていたが、時間も迫ってきたので、こう切りだした。

 「剣を取り返す、または破壊する。成功報酬は千五百アレグロ。そのうち、前金で三百お支払いいたします」

 フルトはテーブル上の一点を凝視していた眼を、眼だけ、マリオへむけた。

 「………破格ですね」

 「それほどの仕事ですよ、フルトさん。おそらく剣は正当な主人の下へ行っているでしょう。手強いですよ」

 「アルデセイ家の末裔が? 千年の時を経て、探し出したのでしょうか」

 「おそらく」

 「能力は、剣が教えるだろう。紅蓮の騎士の復活か」フルトの顔へ、少しだけ笑みが浮かんだ。「………こいつは、面白くなってきた………フ、フフ………」

 マリオはそれを見て、満足げに微笑んだ。

 「期待しておりますよ。ハンテール フルトさん。いや、神官戦士フルトヴェングラー殿。それともエクソイル フルトヴェングラー? または、聖騎士フルトヴェングラー卿でしょうか?」

 「旦那、最後のはちょいとちがいますぜ」

 「?」

 「元聖騎士です」

 それは、自戒とも、嫌悪とも、皮肉とも、真面目とも、どうとでもとれた。マリオはもう無言となり、用を終えたので席を立ち、目礼だけして馬車へ乗りこんだ。帰り際、思いだしたように見送りのフルトへ云った。

 「今回の退治に、助手を一人推薦しますよ。使ってやって下さい」

 「へえ。旦那が。お珍しい。どんなやつですか」

 「そのうち、事務所を尋ねて来るでしょう。私の紹介状を持たせてあります。代筆ですがね。サインは私の本物ですよ。ひょっとすると、お探しの方かもしれませんよ」

 ドアが閉まり、重い馬車は素早く通りへ消えた。フルトは馬車が見えなくなってもしばし立ち尽くしていた。

 「………まさか!!」

 それだけ云うのに、半刻近くもかかった。


 トリーナの宿舎より帰る途中、フローティアはまっすぐメモにある住所を訪れた。「バルトー区南ブルガ通二丁目………」環状道路を進み、都をちょうど四分の一もまわって、そこから似たような雰囲気の、迷路のような通りを進み、目標のレストランを発見してその前で降りた。近くの小さな商店街で道を聞いた。すると意外にもすぐ判明した。レストラン「ドミナント」の裏だという。

 レストランはまだ閉まっていて、昼の準備中の様だった。裏へゆくためには大きく通りを回るか、路地を行くしかない。フローティアは不精せず、通りを歩いた。しかし、区画を一周してレストランの前へ戻ってきてしまった。「?」幻惑の術にでもかかったような顔で佇んでいたが、もう一度、歩いた。再び一周して帰って来た。たまらず、先ほど道を聞いた八百屋の老婆を再び尋ねた。「看板が無いからねえ、あすこはねえ。セルジュ坊が仕事で出てくれば、すぐにも分かるのにねえ。フルトの旦那は、夜の退治以外、滅多に外を歩かないからねえ。それより今朝、都市農場からきたばかりのトマトはどうだい? ズッキーニはいらないかい? いい形だろ」老婆にはこの腰の剣が見えないのだろうか。それとも知っていて、ハンテールがわざわざ帯剣して野菜を買いに来たとでも思っているのだろうか。フローティアは丁重に断ると、三度目の正直で通りを行こうとした。とたん、老婆の声がした。「おや、セルジュ、昼食の買い出しかね、感心なこと。トマトとズッキーニを買っていきなよ。ネギはどうだい? ブロッコリーとキャベツはカルパス人の常食だよ。ジャガイモの買い置きはあったかい? そろそろ無くなるころだろうに。ナスはまだ早いね。もうすぐしたら、ポルチーニも出てくるからね。あんたんとこの旦那は、もう少し野菜や果物を食べないと、いまに魔物に返り討ちだよ、ハッハァ!」

 フローティアはすぐさま振り向いて、その少年を確認した。十四、五ほどの、背の高い少年で、灰色の髪と四角くて面長な顔が特徴的だった。老婆に云われるがままにトマトとズッキーニとポテトを買い込んでいた。フローティアは近づいて話しかけた。

 「あ、あの、あなた、もしかしてフルト&セルジュ退治事務所の方?」

 「はい?」セルジュはフローティアを見て、すぐにその(いまは逆光で暗く藍色に光っている)眼に息をのんだ。そして、キラキラと光を反射する髪にも。

 「あ、あなたは………」

 「わたしはフローティア。ウガマールから来た、ハンテールなんです。あの、とある人より、フルトさんの事務所を訪れてみなさいと云われて………」

 「ウガマールですか」

 「あらっ、あなたもウガマールの訛りがあるのね。ご同郷かしら? それで、尋ねてみろと云われたのかしら?」

 「すみませんが、買い物の最中なので、先に事務所へ行ってくださいませんか。フルト様がおります。今日は退治が無く、事務所で控えておりますので。ハンテールの資格はお持ちなのですか?」

 「はい、もちろん………」フローティアはくわしい場所を聴き(事務所は裏通りの反対側、つまりレストランの真裏ではなく、真裏のさらに通りをはさんだ、向かいにあるということだった。ずっと事務所の入り口に背を向けて場所を確認していたのだ。)その通りに歩いて行った。歩きながらさりげなく後ろを確認したが、セルジュ少年がうっかり袋を放して買ったばかりの野菜をすべて道路へぶちまけていたので、そうとう動揺したとみえる。自分を見たときの眼が泳いでいたので、そうではないかと思った。もっとも、何に動揺したのかは、見当もつかぬ。

 行くと、なるほど、目立たぬ入り口がレストランの裏の真正面にあった。看板は無いが小さな表札があった。

 ドアを開けた。

 ドア上部に取り付けられている鈴が鳴り、奥から野太く低音でよく響く声がした。

 「おう、早かったな。酒はあったか」

 「あ、あの、ちがいます」

 「なんだ、お客か」ヌッ、と背がとても高く体格の良い男が出現し、フローティアは声をつまらせた。フルトだ。浅黒い肌に灰色の瞳。銀色の髪は刈り上げていた。肌の色と彫りの深い顔だちはまぎれもなくウガマール人だが、どこか北方の雰囲気も漂わせていた。古い家の出身なのだろうと思った。かれは独特の雰囲気があり、物腰が日常から何事にも身構えているように感じた。フルトはフローティアを見下ろすと、どこか遠いところを見た様に眼を細くした。

 「あんたは………?」フローティアは緊張した。眼前の男が何者かは知らずとも、すばらしく腕の立つハンテールであることだけは看破できた。感覚であり確信では無いが、おそらく師ヴァーグナーより強いだろう。

 「あ、あの、わたしはフローティアといいます。とある方より、ここを訪れてみなさいということを云われまして。こ、これが紹介状です。たぶん………」

 フルトは少なからず意表をつかれたようだった。「あんたが………そうなのか?」

 「えっ」フローティアはドキリとした。「なにがですか?」

 「いっ、いや、なんでもない。話は聞いている。どうぞ、こちらに。面接でもしたいと思いますので」

 「面接ですか!」

 「申し訳ないが、いかにマリオの旦那の推薦でも、誰でも彼でも助手に使えるような身分ではないのでね。そんな余裕は無いんだ。ウチには。それなりに使える人材でないと。何か特技は? 本事務所で魔物を退治する上で、役に立つことはなんだ?」

 応接室で、フルトはフローティアを席につかせ、自分も正面についた。背筋を伸ばし、両手をテーブルの上に重ねて置いて、刺すような視線を目の前の女性へ投げた。藍碧の眼に、自分の顔が写っているのを確認した。

 「せっ、せ、せ、正司祭の資格を持っていますので、神聖呪文が少々、使えます」

 フローティアは緊張の中でも、臆さずに答えた。黒剣は腰の革サックより外し、隣の席へ立てかけた。フルトはちゃんと、剣を確認していた。

 「あんただから云うが、実はおれも司祭の資格を持っているんだ。ウガマールのね」

 「あっ、えっ、そうなのですか?」

 「気がつかなかったか?」

 「はい………」

 「この眼を見ても?」

 「えっ? 眼?」

 「………神聖力は、ふだんはよく押さえているつもりだが、同時にふだんからよく練ってもいるんだ。正司祭に、まるで気づかれないというのは、自信をなくしますな」(もちろん、自信など無くしてはいない。逆にフローティアの正司祭の資格とやらを疑った。)

 「も、もうしわけありません」

 「あなたのせいではない。ところで、その剣は? ジギ=タリス剣ではありませんか? どこで手に入れました? もしよろしければ、見せてもらえませんか?」

 「は、はい、どうぞ。家に、代々伝わっているものなんです」

 「へえ………お家に………」フルトは中腰となり、フローティアが差し出した剣をとった。そして立ったまま観察した。抜剣はしなかったが、鞘の上からでも、手が痺れるほどに充分に威力が伝わってきた。柄頭に埋め込まれている大きな黒ジギ=タリス石に瞠目した。某か古い呪文でも中に刻まれているかと思ったが、よく見えなかった。このようなものを代々伝える家とは。

 「失礼ですが、お名前をもういちど伺っても?」

 「フローティアです」

 「いえ、苗字は? なんと?」

 「いやっ、その………」フローティアは恥ずかしそうに顔を伏せた。耳が赤くなった。「もうしわけありません。姓は失われました」

 「左様で」フルトは首をかしげた。「思いちがいか? するとこれは贋作か? そうは見えないが………」心の中でそうつぶやくと、ビリッと手に衝撃が走って、思わずテーブルに剣を落としてしまった。騒音が鳴り、フローティアも立ち上がった。「失礼した!」「いいえ………」フローティアは素早く剣を取り上げると、もう見えないようにテーブルの下へ隠し、座って膝の上へ置いて握りしめた。

 フルトは、きまりが悪そうに立ったまま咳払いをして、お茶でも入れましょう、と残し台所へ去った。フローティアはふさぎ込んでうつむき、剣を強く握りしめた。フルトは台所で朝の残り火へ薪を入れ、湯を沸かし、茶葉を刻んだ。手慣れたもので、かつては召使の仕事だったが、いまでは上等の茶やコーヒーを入れることができる。「しかし、あれがそうかどうかは知らないが、黒い剣の話は………たしか、むかし、聴いたことがあるような、ないような………なんという家だったかな?」フルトは茶を用意しながら、ずっとそのことを考えていたが、ついに思いだせなかった。聖典や聖導皇家の勉強は聖騎士の必修中の必修だが、彼がどうにも思いだそうとしている部分だけ、スッポリと暗黒なのだった。「半分以上は失われ、なおかつ封印されている家もあるということだから、それなのかもしれないな。どちらにせよ、アイツとはちがうようだ。ウガマールでは重要な人物なのかもしれないが、ここはカルパスだぜ。知ったこっちゃねえ。もしかしたら、おれと同類なのかもな」

 フルトは急に、フローティアへ親しみを覚えた。「マリッツィオめ、抜け目のないやつ。いつのまにあんなやつを見つけ出して、しかもぬけぬけとおれに紹介するなんざあ、ふざけた野郎だ。フフ………復活した紅蓮の騎士と戦うのに、あの剣は使えるかもしれねえ。持ち主はちょいと不安が残るがね」上機嫌となって、にやにやしながらケトルをみつめた。

 フローティアはフルトが湯を沸かしている間、そわそわして席にいたが、やがてそっと立ち上がると室内を見回った。セルジュ少年は帰って来ぬ。いつもならこのようなはしたないマネはせぬのだが、どうにも動悸がして、たまらなくそわそわした気分だった。何が自分をそうさせているのか知りたかった。なんとなくは分かっていた。ヒントは彼がくれた。彼はウガマールの正司祭資格を自分も持っていると云った。かれも神官戦士なのだ。しかし彼の身のこなしは、どう観ても、司祭というより武人だった。しかも、ただの兵士ではない。ウガマールの騎士だった。それぐらいは分かった。クレンペラー神官長の周囲に、いつも彼のような騎士がいたから。すなわち、彼は、騎士は騎士でも宮廷騎士、司祭位を持つ騎士、騎士位を持つ司祭、つまりウガマールの護り、聖導皇家の楯と剣、ハイペリアスことウガマール聖騎士だ。

 「ハイペリアスが、なんでカルパスに!?」それが不安の元だった。ウガマールの言語でそれは心の中に沸き上がった。その不安を払拭するものが、この部屋にはあった。彼女は、神聖力と黒剣に導かれる様にフラフラと部屋の隅へ行くと、タンスの影に隠された小さなタペストリーを発見した。「アッ」小さく声を上げ、凝視した。それは、紋章だった。旗の一部を切りぬいたもので、角に小さな焼け焦げがあった。濃い青の生地に銀の鷲が二匹描かれていて、鷲たちの脚がクロスして斜めに十字(×字)を形づくり、かつその脚は大きな剣を紐で吊り下げている。剣身には古ウガマール語で細かくこう書かれてあった。「来レ神代ノ剣 銀杏ノ葉 銀ノ爪 黒キ稲妻ノ傍ラニアリテ風ヲ舞ヒ起スベシ」フローティアは心中でそうつぶやくと、身震いした。これは、彼女ですら知っている、「宮中某重大事件」の当事者の紋章だった。廃騎士フルトヴェングラー家の。主殺し、妹殺し、禁忌の愛、謀叛、そして脱走。クレンペラー神官長より聞かされた「たった五年前の伝説」は、さしもの彼女を嫌悪と恐怖と怒り、そして哀しみで震えさせた。その伝説の紋章がその前にある。この鷲の銀十字は、ウガマールにおいては呪われた印だった。

 「ど、どうしよう………」フローティアは痙攣するように後ずさり、気がついたら、元の席について、茶があった。紅茶の芳香で我へ帰ったらしい。

 「どうされました?」

 「えッ、いやっ、その………」明らかに動揺し、態度が異なっていた。フルトは不審には思ったが、まさか自身の素性を知っているとは気づかなかった。それに、そもそもいま自分がウガマールでどのような扱いをうけているのか、見当もつかぬ。

 「どうですか、事務所で働きませんか。私の助手で良かったらね」

 「あ………」

 フローティアは膝の上に置いた黒剣が、暖かく熱を帯びていることに気づいた。これが何を意味するのかは分からなかったが、昂りが急激に終息してゆくのに気づいた。ここはウガマールではない。自由都市国家カルパスだ。ウガマールでは犯罪者なのかもしれないが、あくまで伝聞で、さきほどは急に感情的になったが、よく考えたら特に実感も無い。彼を故国へ通告する義務もなければ、捕縛する義務もない。もっとも通告だろうが、捕縛だろうが、やろうとしてもできないだろうが。それに、いざというときは黒剣がある。彼女は、頭を切り換え、さきほどの紋章は見なかったこととした。ここで誘いを断り、マリオの紹介も無視して砂を蹴って帰ったところで、これからカルパスで生きるにあたり、何か得するところがあるだろうか?

 ない。

 「は、はい、ぜひお願いします!」

 フローティアは勢いよく、申し出を受けた。


 「さて、早速だが、お住まいは………いや、もうおれの部下なのだから、ざっくばらんにいこうか。いま、どこへ住んでいる?」

 「住まいですか? ええと」

 フローティアは住所を云った。フルトはこの近くへ引っ越してくるよう指示した。

 「出動の時にすぐ呼べるようにな。仕事は夜が多いが、ここに詰めている時はいいが、そうでないときはセルジュを呼びにやらせる。近くがいい」

 「はい、良いアパートメントでもあれば」

 「あるさ。裏の裏に。どうせ、いまのところは協会事務所で紹介されたんだろう? あそこの受付はろくなもんじゃねえ。まあ、いまにセルジュが帰ってくるだろうから、手続きはまかせるとしよう。さっそく、大きな仕事が入っていてな。手伝ってもらう」

 フルトは説明を始めた。フローティアは喉が渇いたので遠慮なく茶を飲んだ。彼のような凄腕のハンテールが行う退治というのは、いったいどのようなものなのだろう。まさか首都でもドラゴンを退治するというのではあるまい。

 「いま、ちょいと捜し物を頼まれている」

 「捜し物? ですか?」フローティアは意表をつかれた。拍子抜けした。「魔物を退治するのではないのですか?」フルトはその質問を待っていたかのようにニヤリと笑って答えた。「探す途中で魔物が邪魔をすれば、とうぜん退治する。そういう類の、捜し物だ。ただの失せ物探しじゃない。忘れるな。我々はハンテールだぞ。おれくらいになると、なにそれという魔物を排除してくれなどというふつうの退治はあまり無い。先日までは空を飛ぶボロ雑巾を退治していたが、それももう無い。あんたも、しばらくは一人で探索しろといっても無理だろうから、おれといっしょに歩こうか。正式な助手だからな。あちこち紹介してやるよ」

 「あちこち………ですか」フローティアは少しだけ、いやな予感がした。この上司は、きっと退治の裏社会にも通じているのだろう。ひょっとしたら、この間の妙なマスターとも再度会えるかもしれない。地下への入り口を護っているあのマスターに。

 「それで、何を探すのですか?」

 「剣だ、剣だよ」フルトはまくしたてるように答えた。「カルパスに伝わる、古い剣が盗まれてね。公にはされない。だから我々が探す。あんたもウガマールの司祭なら、旧アデルナ王国筆頭魔導騎士のアルデセイを知っているだろう?」

 「いいえ」

 フローティアがあまりに真面目に、かつ即答したので、フルトは話の腰を折られ、しばし言葉につまったが、何を追求するでも無く続けた。

 「剣が、その、盗まれてね。探すんだ」

 「それはいま聴きましたが」

 「………引っ越しが終わってから、ここに詰めろ。それから指示をする」

 「はい」

 そこへセルジュが戻ってき、フルトの指示で慌ただしく契約書の用意がされ、フローティアは雇用契約書にサインをし、その瞬間から正式に事務所の職員となった。引っ越しの手続きは明朝以降セルジュと行うこととなった。フローティアは一旦事務所を辞し、翌日、再び訪れ、さっそく新居を探すこととした。

 フローティアが帰って後、フルトは新しい酒瓶をセルジュの買い物袋より出すと、すぐに空けた。この事務所はなんといっても酒代が経費の大部分を占めている。

 「フルトさま、よろしいのでしょうか? その、あの方ですが」セルジュはある種の心配をしていた。「あれはちがう」フルトが眉をひそめてそう云ったのを見て、セルジュはますます不安となった。「ちがうといっても、その、ウガマールより来たのでしょう? もしかしたら………」フルトはそこで、セルジュの心配に気がついた。そして、自分の想像とセルジュの心配とが異なっていることにも気づき、笑った。

 「あんな追手がいるか!!」

 「ですが!」

 「だいじょうぶだよ。クレンペラー神官長は、そのようなことをするお方ではない。おれの心配は他にある。それより気合を入れていかないと、こんどの仕事はおおごとだぞ」

 セルジュはすねたように主人を上目で見上げた。「それは、剣を探すというやつですか? 探す物が、古く強力な剣だからですか? それとも、剣の持ち主が現代に復活したからですか?」

 「ぜんぶだ」フルトは赤いテーブルワインを一本、ジュースでも呑むように、一気に空けてしまった。

 「それに、敵はアルデセイだけじゃない。ターティンの怪しい魔導士も、ことによっては相手になるだろう。マリオの旦那がアンダルコンを動かさないのは、ターティン国と事を構えたくないからだ。議会がどうとかなんて、ヘタな云い訳だぜ。相手がいくら間者とはいえ、いや、間者だからこそ、正規軍でお相手はできませんというわけだ! 何を仕掛けてくるかわからないからな。しかし、いいかセルジュ。そのために、おれたちがいる。そして金儲けもそこにある」

 「はい………」セルジュは浮かぬ顔のまま、仕事部屋へ向かった。今の契約書を整理しなくてはならない。なにせ、カルパスに来てより人を雇ったのは初めてなのだった。それが会計上どのような手続きをすれば良いのか不安であったし、また、ずっと主従二人でやってきたのにいきなり他人を雇うというのが、嫉妬も含めて、不満だった。

 フルトは、重く息をついて、珍しく二本目には手をつけず、窓から外を見てずっと考え事をした。


 翌日、朝早くに再びフローティアが事務所を訪れ、セルジュと連れ立って新居を確かめにでかけた。その諸手続きもセルジュの仕事だった。彼は大家の事務所で算盤片手に忙しそうだった。フローティアはそういうのはまるで分からないので、云うがままとした。横から口出しされないので、セルジュは事務所の勘定方として大いに面目を保ち、少しだけ、機嫌を直した。

 その間、フルトは珍しく朝より外出した。気になるところがあり、それを確認したかっのたのだ。彼は本当に珍しく、マリオへ会いに行こうと思った。気になるというよりすでにそれは確信で、マリオへ確約をもらいに行こうと思ったのだ。しかもそれは急いでいた。文書ではなくとも、口頭で良かった。つまり、本当にアンダルコンは動かないのか、ということである。

 「金の問題じゃねえ。横から仕事に手を出されちゃたまらねえ」

 表立って動かさないと彼が云うのであれば、それは本当にそうだろう。しかし、万事が表の通りとはゆかぬのが、世の習わしだ。ましてや、剣がアンダルコンの防備する蔵より盗まれたとあっては、彼らの名誉も傷ついたろう。主人に内密で動くメンバーがいるかもしれぬ。それを先に釘を刺そうと思ったのだ。

 「たしか、第三軍(アンダルコン)にはそういう裏の部隊があったはずだ………なんとかっていうふざけた通称名の掃除屋部隊………やっかいだぜ」

 しかし、事態はすでに予期せぬ、そして切迫した方向へ動いていた。

 フルトがペスカを利用しようとして通りを歩いていたとき、事務所からそう離れていない場所で、一人の密使が息せき切る様子で近づいてきた。それは、マリオよりの密使だった。フルトは彼を知っていたし、密使はまったく関係ない様子で走ってきたが、すぐにそれと察し、人目につかぬ場所へ移動して密使を待った。路地裏の角で腕を組んで壁へ寄り掛かっているフルトへ、しかし、先ほどの密使ではなく、場違いな人足態の中年男がのこのことやってきた。まったくふつうの、汚れた人足だったが、眼だけが鷹の様に光っていた。「マリオさまより、伝言です」フルトは何も答えず、ただ、聴く姿勢で答えた。密使からさらに連絡がつながれてきたのだった。

 「例の物が、人を斬りました」

 それにはさしものフルトも、思わず声を出した。「なんだと!?」男は眼光で、本当です、と答えた。

 「手当たり次第にか」

 「いえ、そこまでは」

 「なぜわかる」

 「斬り傷に加え、焼死体となって発見」

 「魔導の可能性は」

 「ジギ=タリス反応が出ております」

 フルトは舌を打った。男は続けた。

 「しかも、ハンテールによる殺人事件ということで都市警察が動いております。もちろん、通常警察ではなく、ハンテール犯罪専門の特務警察部です。ご存じの通り、旦那様は警察には手が出せません。例の物が警察に渡っては一大事。ことは急を要します。どうか、どうかお急ぎ、早急に例の物の回収か破壊をッ………」男の眼光が、さらによく研がれた鏃のように鋭くなった。

 マリオの管轄は都市軍だ。警察と軍は機構が異なり、予算と縄張りを奪い合い、すこぶる仲が悪いのはカルパス人なら子どもでも知っている。市役所に所属する警察の長はレオナルド コンネーロ市長とその甥にあたるアラン コンネーロ警察局長であり、コンネーロ家はルキアッティ家と激しく対立している。面倒なことになってきた。

 「それから、お先に申し上げます。旦那様はご把握ないことですが、アンダルコンより何名か、独断で動いております。既にお察しかもしれませんが」

 「ああそうかい」フルトは諦めたようにそう悪態をついた。「それで、どこの誰が動いているか分かるか。どうせ、三三部隊だろう? 部隊名はなんといったか?」男は声を低くし、肯定も否定もしなかった。ただ、ボソボソと名前だけを云う。「カンツェリ卿………アラーウ卿………ジュリーニ卿………」顔をしかめた。アンダルコン第三中隊。探索方。第三軍の第三中隊(アンダルコンは一個師団一個大隊三個中隊より成る。ただし、第一・第二中隊はそれぞれ三個小隊から成るが、第三中隊のみ、少人数の一個小隊で構成されている。)であるため、知られたものには三三部隊と呼ばれているが、正式な通称名は「セッコフリッタータ」という。直訳すれば乾いたアデルナ風オムレツとでもなるが、特に意味はない。彼らは少人数の特殊部隊で、今回の様な表立ってアンダルコン隊が動けぬ退治になると必ず出てくる、一騎当千の強者ぞろいだ。花形の退治部隊より、裏の探索方のほうが純粋な強さだけでいえばたいそう強い。メンバーは十五人前後と聴いていたが、全貌は明らかにはなっていない。その中より、隊長のカンツェリ卿を含め、凄腕が三人も出張っている。冗談ではない。

 「おい、知ってて、マリオの旦那へ報告はしないのか」

 「いたしません」

 「どうして!」

 「それは、お答えできません」

 「………わかった、もういい」フルトはあっさりと引き下がった。何のことはない、マリオの預かり知らぬこと、ということになっているだけで、マリオの密命が降りているのだと看破した。だとすれば、釘を刺すも何もない。マリオはフルトへ自分の兵は動かせぬとして内々に依頼をし、密やかに動かせぬ筈の己の手兵も動かしている。どちらが本命で、どちらが保険なのか。それは当人たちの名誉の問題であって、マリオにはなんの関係もないことだった。支配者とは、そうでなくてはならぬ。男が行こうとするので、フルトは呼び止めた。「おい、これだけは伝えてくれ。おれは聴かなかった。名前も知らねえ。私服でおれの前に出てくるやつで、邪魔するやつは容赦しねえ」男はチラリと振り返っただけで、何も云わずに去って行った。フルトは男を見送り、歩きだした。事務所へ戻るのだ。

 「チッ…! 魔物じゃなく、人斬り退治とはな!! みんなで特警の獲物を横取り合いかい。人斬りの後ろにゃターティンもいる。こいつは只じゃすまねえ。なにが起こるか、予測もつかねえ。ふつうのハンテールがうらやましいや。まったく、エクソイルってのは、因果な商売だぜ!! ………」


 フルトが立ち話をしているころ、フローティアとセルジュはひととおり空きアパートを確かめ、近くに良い物件があったのでそこへ決めた。事務所よりは通りを二つ挟み、二階建ての二階の隅で、南東へ面し、事務所は見えない場所だった。もちろん上下水道完備。シャワー、ベッド付。フローティアを喜ばせたのは、モンテール製の例の湯沸器が完備されていることだった。テーブルと椅子は無かったので、これは買わなくてはならない。とにかく、すぐ部屋がきまって二人は安心した。引っ越しといっても荷物はいまだカルパスへ来た当時の旅装束と、トリーナと共に買い揃えた些少の家具、寝具、着替え、什器のみで、荷馬車一台の一回で済む程度だった。そのため、午後よりさっそく引っ越してしまうこととした。二人で乗合馬車へ身をゆだね、環状大通りからは歩いて、フローティアのアパートへやって来た。大家へ事情を話し、こちらの賃貸契約を年度の途中で解約することとなったため、その手続きをした。それはセルジュが行った。途中解約による解約保証金は事務所の都合による引っ越しのため、事務所持ちだった。大家に荷馬車を手配してもらい、馬車が来るまでに二人で荷物をまとめた。二人で持てる木箱に入れても、物はそれだけだった。家具といっても食器棚だけ。ベッドとテーブル、椅子は備え付けだ。荷物を二人で下ろしてしまうと、時間が余った。馬車はまだ来ぬ。近くの喫茶店でコーヒーブレイクとなった。(フローティアがおごってやることにした。)フローティアは苺のタルト、セルジュはセサミヌガーとそれぞれミルク入りのコーヒーで、のんびりと暇をつぶした。既に昼休みへ入った通りは再び午前中の喧騒がウソみたいに閑散とし、カルパスの光景を形作っている。やがて一陣の夏風と供に、想像していたよりも大きな四輪の荷馬車が現れ、フローティアはお茶代を払って店を出た。荷物を積み込み、大家に挨拶をして、二人は出発した。御者はいいかげんに引退しても良さそうなほどの老爺で、フローティアが挨拶しても耳が遠いのか、日溜まりに瞑想して何も答えなかった。しかし、荷台へ飛び乗ると自動的に動きだした。それは御者ではなく馬が判断して動きだしたように思えた。二人は荷台へ座り、道に揺れた。御者ほどに年季の入った車輪が、石畳をガラゴロと踏んだ。


 しばらく進むと、馬車は速度を上げた。急に揺れが大きくなったので、フローティアは老人が何をそんなに急いでいるのか、いぶかしがった。だが老人は、変わらず彫像のようにその場で手綱を握っているだけだ。馬が勝手に走り出しているように思えた。まさか眠っているのではないかと思った。

 「ちょっと、おじいさん、いくら通りが空いているからといって、危ないですよ!」

 そう声をかけたとたん、御者はそのまま横へ倒れ、台より落ちてしまった。フローティアは驚いて立ち上がった。セルジュは日向ぼっこをしつつ、居眠りを楽しんでいたが、フローティアに叩き起こされた。その側から、荷馬車が御者の横を通り過ぎる。フローティアは轢いてしまわないかを第一に心配した。しかし心配は無用だった。荷台より見下ろしたものは、御者ではなく、御者の服を着た麦藁の人形だった。老人の姿をした人形が、道へ転がって馬車が通り過ぎるのをじっと見ていた。「………ええっ!?」フローティアは目を見開き、唖然としつつ、そこでさらに馬車の速度が早まったので、よろめいた。ちょうどセルジュが何事かと立ち上がろうとしていたので、そこへ思い切り尻餅をついた。

 「痛い、痛いですよ!」

 「ご、ごめんなさい………」

 「御者がどうしたんですか?」

 「わからないわ!」

 「とめてくださいよ」云われなくとも、である。フローティアは御者台まで這うようにして進むと、乗り移り、手綱を握った。しかし、乗馬はおろか、馬など触ったこともない。「ちょっと、ねえ、どうやってとめるの? これは」セルジュも事態をなんとかのみこめたようで、叫び返した。「知りませんよ、ハンテールなんだから、馬ぐらい乗れるんでしょう!?」

 「残念ながら、世の中そううまくはできてないのよ」フローティアはとにかく手綱を引っ張ってみたが、駄馬はひたすら速度を上げ、荷馬車を引っ張った。暴走だ。

 「わあああッ!!」

 坂道となり、いよいよ尋常ではなくなってきた。少ない通行人がなにやら喚いていたが、すぐに後ろへ消えた。駄馬は普段走り慣れていないので、坂を転がる荷馬車の速度のほうが勝ってきた。このままでは馬車が馬を轢いてしまうと思った。フローティアは御者台で立ち上がり、抜剣すると、馬と荷台を繋いでいる部分を気合と共に叩き切った。馬は助かったと云わんばかりに、そのまま荷馬車を見捨てて横へ行ってしまった。馬車は独走をはじめた。セルジュが絶叫した。

 「フローティアさん、何てことを!」

 「だって、馬が………」

 「どうやってとめるんですか!!」

 「飛び下りるのよ!」

 「無理ですよう!!」

 「だらしがないわね、それでも見習いハンテールなの!?」

 「ぼくは経理担当なんですよ!!」

 「あっ………」

 坂の到達地点は、残念ながら水平となった道の続きではなかった。坂は大きくカーブしていて、まだ続いていた。カーブの向こうは崖のようになっていた。悲鳴をあげる間もなく、馬車は簡素な柵を突き破って、崖下へ落ちた。フローティアは青く澄んだアデルナの空と、白い雲と、カルパスの街の密集した建物の屋根や尖塔とを順番に見ながら、落ちた。

 「………!!」

 落ちた先は、木の上だった。枝を突き抜けつつ、太い枝へひっかかったのだ。腹を打ち、くの字に折れ曲がってぶら下がった。そこは、公園の一角のようだった。木は樫や松の類で、高かった。そのお陰で地面へ激突するのを免れたわけだが。馬車と荷物はしかし、真下でバラバラになっているのを確認した。黒剣をまだ手に持っていたので、フローティアはなんとか鞘へ納めてしまうと、枝を伝って降りはじめた。「セルジュ、大丈夫? ケガはない?」降りながら叫んでみたが、返事は無かった。「セルジュ!?」フローティアは絶句した。地面へ横たわり、まったく動かないでいる彼を発見したのだ。急いで木を降り、駆け寄った。息はしていたが、どこを打ったものか、眼を半分開けて宙をみつめたまま、まるで動かぬ。迷わず彼女は、呪文を唱えた。神聖力が集中し、集束し、凝縮されてセルジュへ注がれた。昼間であるというのに、彼女の瞳は強く青と藍を合わせた白に光った。治癒の呪文は完璧に作動し、効果を発揮した。セルジュが、たちまち意識を回復させた。

 「………あっ?」

 「よかった、だいじょうぶ?」

 「荷物が!」記憶がどうなっているのかは定かではないが、彼は勢いよく立ち上がると、体中にひっつく落ち葉や土を払いのけもせずに、散乱したフローティアの荷物を集め始めた。フローティアは自分も立とうとして、そのまま目眩を起こして膝を崩してしまった。治癒の呪文はまだ自分には早いのかもしれない。

 「フローティアさん、何をやってるんですか、早く集めないと」

 集めたところで、馬車はもう無い。フローティアは額を押さえ、息が整うのを待ちつつ、自分たちの身に何が起こったのかを整理した。結論から云うと、答はみつからなかったうえに、新たな展開をみせる。

 林の奥よりセルジュの女子のような高い悲鳴がして、フローティアは嫌でも立ち上がらざるを得なくなった。什器を抱えたセルジュが、転がるように走ってきた。

 「フローティアさん、ガ、ガウクだという声が!」

 「ガウク? こんな街中に?」

 「ぜっ、前例はあります!」フローティアはにわかには信じられなかったが、確かに「そっちへ行ったぞ!」というハンテールらしき大音声と聞き覚えのある魔物の叫声がしたため、ザッと抜剣するや、身構えた。セルジュは急いで後ろへ下がった。木々の奥より、落ち葉と土を踏む複数の音がやってきた。フローティアは緊張した。両手で下段に剣を構え、彼女もジリジリと間合いを詰めた。足音がどんどん大きくなってきたので、息を殺し、木の蔭へ隠れた。瞬間、大きな黒い影が躍り出てきたので、無我夢中で切りかかった。

 「うわあッ!!」

 苦痛にうめく声がして、ドッと倒れたのは、しかし、ガウクではなかった。

 「あっ!? ………」フローティアは驚愕と動転のあまり、立ちすくんだ。

 「な、何者だ、貴様!!」追ってきたハンテールの仲間が叫んだ。フローティアが切り倒したのはガウクではなく、人間だった。「ガッ、ガウクはどこだ!!」それはこちらのセリフだった。どうやら彼らは三人で追ってきたようだったが、ガウクのガの字も忽然と消えてしまったのだ。「おい、しっかりしろ!」その相手のことばで、フローティアは我へ返った。いまならまだ間に合う。連続だが、呪文を使うしかない。

 「ちょ、ちょっと待ってください、わ、私に………」

 「うるさい、この人殺しめ!」

 「まだ死んじゃ………」

 「警察を呼べ!」一人が脱兎のごとく走って行った。一人はフローティアを指さし、こう叫んだ。

 「おまえが最近巷を騒がしている、ハンテール殺しの犯人だな!!」

 「………はあッ!?」

 度肝を抜かれた。意味がわからない。「い、いやっ、ちっ、ちがっ………なんの犯人ですって?」フローティアは頭が真っ白となった。しかも、「お巡りさん、こちらで!!」

 「あっ……」という間に、数人の武装警官が現れた。「運良く、警邏中の皆さんを見つけたんだ! お巡りさん、こいつが、仲間をいきなり斬り殺したんです。きっと、最近ハンテールばかり狙っているっていう辻斬りですぜ。犯人は女だという噂ですし」

 「あっ、いや………」

 警官隊の隊長は鋭い眼で、目敏く血に濡れた黒剣を見据えた。六人の警官隊は既に、彼らを包囲していた。フローティアが何かアクションを起こそうものなら、すぐさまサーベルを抜き払えるようにしている。隊長は、威圧しつつフローティアへ近づいた。

 「まずは剣を納められよ。そして、事情は、署で聴きましょうか」

 フローティアはセルジュを見た。什器をまだ抱えたままのセルジュは、蒼白になりつつ、冷静に対応しようと懸命に息を整えていた。フローティアの泣きそうな藍碧の眼を見て、小さく、うなずいた。

 フローティアは剣を納めた。警官に促され、歩きだした。それを見送っていたセルジュが思いだしたように続いた。セルジュは勇気を出して、フローティアが誤殺したハンテールを通り間際に確認した。一瞬だが、傷は浅く、出血も少なく、よって顔色も良く、とても死んでいるようには見えなかった。

 フローティアと警官隊が全員、林より去ってしまうと、残されたハンテールたちが、声を殺して笑いだした。

 「ちょろい仕事だァ。おい、もう起きてもいいぞ」フローティアに斬られた男が、ゆっくりと起き上がった。やはり、死んではいなかった。

 「おお、くそ、いてェ、おい、血止めを頼むぜ、痛え、くそ、あの女………」

 「おい、傷の手当を急げ。服を脱ぐんだ。しかしうまく切られたな」

 「ああ………」

 「うまく、あの方の幻惑の術もきまった様子だったからな」

 そこへ、物陰より音もなく、一人の小柄な人物が現れた。三人はその者を見ると、態度を低くして上々の仕事を褒めてもらおうとした。報酬の上がることを期待して。しかし、彼らへ与えられたのは一瞬にしての死だった。人物の手には何も握られていなかったが、右手を軽く動かしただけで、三人は深々と胸を切り裂かれ、落ち葉の上へ崩れた。人物の右手には、水が滴っていた。水が刃物のように鋭く飛んで彼らを襲ったのだ。人物は再び音もなくその場を去った。何匹ものコウモリを従えて。

 カルパスには、市役所警察局が管轄する都市警察があり、魔導によらぬ通常の犯罪を取り締まっている。このような独立した警察機構があるのは、アデルナ広しといえどもカルパスだけだ。たいていの都市国家では、都市軍が警察を兼ねている。カルパスはそれだけ、人間の犯罪が多いということである。

 警察本局はカルパス市庁舎内にあったが、市内にはそれぞれ数区を管轄する警察署があって、警察官が勤務していた。フローティアはそこへしょっぴかれた。

 フローティアが驚いたのは、意外と人で混んでいたことであった。つまり、たくさんの人がしょっぴかれていたのだ。大抵は盗みや暴力、それに詐欺ということであるらしい。

 フローティアはまず黒剣を没収された。致し方ない処置だと思った。ただし、それが証拠物件であるということまでは気が回らぬ。彼女は、署内ではただ単に武器の携帯を禁止されているからだと思ったのだ。

 フローティアは真っ先に、特別に頑丈な取調室に通された。セルジュは、待合室でぽつねんと座り、不安げに周囲を見渡した。まだ什器を抱えたままだった。彼は警察官からは無視されていた。縄をうたれた盗賊や強盗が、次々に側を通ってセルジュをにらみつけた。彼はただもう、フルトを思うことで勇気を振り絞っていた。

 フローティアは部屋で、何人も警官に囲まれ、いろいろな質問をされた。しかし、それは事件とは特に関係のないことのように思われた。よって、フローティアは素直に答えた。つまり、名前、出生地、カルパスへきた経緯、経路、そして、黒剣の由来、ああだ、こうだ。

 その後、そのまま、留置場にぶちこまれた。

 「ええと………」フローティアは檻に鍵をかけて去りゆく警官に、語りかけた。

 「あのう、いつ出られますかね」

 あたりまえのように、無視された。

 「あのう、連れの子に伝言をお願いしたいのですが」

 それには、警官が立ち止まった。彼女は聴いてくれると判断した。

 「事務所へ帰って、わたしの上司に事情を説明してくれと。それだけでいいです」警官はそのまま、立ち去った。フローティアは天上際の小窓がひとつだけ空を青く切り取っている、留置場というより独房のような部屋の隅に静かに腰を下ろし、髪をかき上げた。嘆息はしたが、悲痛なものではなかった。剣がそのうち、なんとかしてくれると思っていた。しかし、彼女の黒剣は調べられることもなく、とにかく強力な封印を施された箱に入れられ、何重にも施錠されていた。

 署長室で、その儀式は成された。

 ふだんは威張り散らしているが実情は臆病者を絵に書いたような署長を横に、本庁のコンネーロ警察局長と、レスピーギ特務警察部長、そして、何人かの警察幹部。その前には、東方人の女術者、すなわち水蓮がいた。署長が恐れているのは、目の前で起こっている事態が呑み込めない事ではなく、このお偉方の前で粗相でもしたらたいへんだ、と、ただその一点のみであった。彼は部屋の隅で手を前に組み、へつらい笑いを浮かべるのがいまの仕事だった。

 箱はオークの板で作られ、釘をうたれる代わりに墨壺で直線が格子状に引かれた。それをさらに大きめの箱へ入れ、今度は朱で文字の書かれた呪符がベタベタと貼られた。それをさらに大きな箱へ入れ、特別に呪文を込めて練られた縄でグルグル巻きにし、また大きな御札を一枚、張った。

 「キーッ、ヒヒィ!!」仕事が終わると、水蓮は眼をむいて笑い転げた。「ヒーッ、ヒッ、ヒッ……ついに、ついにこの憎き黒剣を封じた!!」

 まだ四十代のコンネーロ局長は水蓮を気味悪げに眺めていたが、水蓮が局長を見たので、自分が話すしかないと覚悟した。

 「そ、それは良かったですね。ええと、それで、本当に貴女へ協力することが………」

 「あの女の背後にはルキアッティがいる。ルキアッティの蔵からある物が盗まれた。そのうち派手に出てくるだろう。ルキアッティをつぶすのに充分なシロモノだ」

 「それを手にすることが、わたしの仕事というわけだな。局長、それでよろしいな?」

 レスピーギ特務警察部長はそう云い放つと、部下を引き連れ、不機嫌そうな顔で退室してしまった。彼は、まるで東方の術者を信用していなかった。ただ、ハンテール連続殺人事件の犯人とルキアッティが関係しているとあれば、彼にとっては願ってもないことだった。

 「化け猫め………何を考えているか知らんが………こっちもせいぜい利用させてもらうだけだ」

 そんなことは、しかし、水蓮にはどうでもいいことだった。彼女の目的はただひとつ。主人のために黒剣を入手し、フローティアへ復讐することだった。

 「あの女は二度と生きてここを出ることはない。そうだな、局長殿」

 「えっ、は、はい」ぎょろりと血走った眼に睨まれて、局長は震えあがった。「地下牢があればそこへ閉じ込めてしまうのだが………剣が殿下の手に渡ってしまえば、我が直に手を下す事としよう。地来蟲の仇討ちだ!!」水蓮はそれから楽しげに笑い続け、局長たちを困惑させた。


 フローティアが警察署に拘留されたころ、フルトも、敵と遭遇した。彼らの周囲には、幾重もの罠が仕掛けてあった。彼は連絡員と別れ、一旦事務所へ戻ろうとしたとき、通りから別の通りへ出ようと路地を進んでいると、あまりにもあからさまな気配に惑わされた。と、いうのも、まったく目的が分からなかったからだ。

 「おい、どういうつもりだ。おれに何の用だい」路地の角の向こうへ、彼は語りかけた。殺気が凄まじい。「悪いが、いちいち覚えていないんだ。退治し損ねた魔導士か? それとも、おれに痛い目にあわされた、どこぞのハンテール殿かね?」

 「どれもはずれだよ、フルトの旦那」女の声だった。女のハンテールと揉め事を起こした記憶は、少なくとも今の時点では無い。

 しかし、通りの角より現れたのは、女ではなかった。平服だが、右手に剣を持った三十前後ほどの男性で、傭兵というよりかは、この街ではハンテールであろうと思われた。男は、無精髭が濃かったがなかなかの男前であり、体つきはガッシリとして、茶金の巻き毛がその流し目と相まって艶があり、かなりの男前だった。ただし、いまは小刻みに震えながら口より血を流して、腹を押さえていた。腹よりも、赤いにじみが滴りとなって地面へ落ちている。

 「お、おい、どうした」

 「気をつけ給え………辻斬りだ」

 「えっ!?」

 男がそうささやいて、フルトが聞き直したとき、突如、信じられないことがおこった。男が苦悶の悲鳴を発したと同時に、口と、胸の辺りより火が吹き上がって、そのまま一瞬の内に火柱となった。「うおおッ!!」フルトは驚いて後退った。熱い。そしてもう一歩近づいていたら、危なかった。男は地面へ倒れ、油布のように燃え上がった。しかも、外側より燃えているのではなく、体の中から皮をつき破って炎が吹き出ていた。何らかの術が使われたと観てよかろう。

 「しかし、魔力の動きはなかった!」

 「その通りだよ」

 「出てこいよ、お姐ちゃん」通りの角より、緋色の軽装甲に革の鎧を装備した長身の女が現れた。赤毛が、炎へ映えてさらに赤い。陽炎を通して、二人は厳しく対峙した。人体の焼ける臭いというのは相当な物だが、火の勢いが強すぎて、熱の感触しか感じられなかった。跡も残さず完全燃焼するほどの勢いなのだ。周囲の空気を根こそぎ奪うように、炎が逆巻いていた。

 「話もできねえ。火を消したらどうだ」

 女が左手をかざすと、たちまち火が消えた。徐々に消えたのではなく、本当にスッと「消えて」しまった。右手には赤い剣があった。赤銅色に光り、剣先の片側には鋭く反り返った鉤があった。剣身には樋が掘られ、そこには文字が刻まれているようだったが、フルトからは判別しかねた。柄頭には、大きなルビー(実は赤ジギ=タリス石である)が見えた。あれぞ、古剣セクエンツィアだった。

 フルトは半歩引いて、身構えた。

 「どうしてこんなことを!!」

 「どうして………練習だよ。ただの練習じゃないか。剣の練習は、剣士なら誰でもする」

 目つきがおかしい。既に剣に精神を「呑まれて」いるのだろうか。フルトは神聖力の解放を始めた。

 「名乗りな」

 「キャスリーン………キャスリーン アルデセイだ。ハイペリアス=ヴォルフガング フルトヴェングラー卿………」

 「紅蓮の騎士殿よ、あんたの個人練習が、その銘物が人を斬っていい理由にはならねえぜ」

 「さあて………そうかねえ。かつてはお互いに聖導騎士と魔導騎士という身分と立場で、斬り合っていたのではないのかね。大戦当時は! まあ、いまは試し斬りの期間だよ。練習………練習さ」

 「試し斬りの仕上げがオレというわけか」

 「あはッ、冗談だろう! あんた、丸腰じゃあないか! まさか………エイソイルにしてハイペリアスのフルトヴェングラー様を丸腰のまま死なせるわけにはいかないよ。そんな護身用の短剣ごときを相手にしてさ、ご先祖に申し訳がないからね。だけど、私の前に魔物にやられちまったんじゃあ、これは仕方がないよねえ」

 ウッ、とフルトは鼻をつく異臭に顔をしかめた。何度も嗅いだことがある。獰猛な獣と、死臭と、血と肉と魔力の臭い。凶悪な魔獣の臭い。現れたのは、案の定、マンティコアだった。それも二頭だ。キャスリーンは二頭の魔獣に挟まれて、古く貴い騎士の血がまったく完全に蘇ったように、顎をあげて己よりずっと背の高いフルトを見下した。

 「せいぜい気張りな! フルトの旦那」

 フルトは目をむいた。「やかましい。そんな魔物をどうやって手懐けた。買ったのか」

 「買った? カルパスじゃ、こんなものまで売っているのかい」

 「ふざけるなよ」

 「いちいち怒るな。もらったんだよ。仲間にね。仲間は買ったのかもしれない。わたしは気に入ってるよ。前は退治してたけど、なついたらけっこう可愛い。臭いけどね」

 「ケッ、悪趣味な女だぜ」

 「なんとでも云っときな」

 「狙いはなんだ」

 「自分で考えなよ!」キャスリーンは剣を納め、やたらと響く哄笑を残して、角の向こうへ行ってしまった。

 残されたフルトは、二頭の凶悪魔獣へ対峙した。いまこの短剣のみで、逃げる自信は無かったが、突破する自信はあった。しかし、さすがに無傷は無理だろう。

 魔獣どもは、二種類のタイプの異なるマンティコアだった。この魔物は一種の複合生物であり、生まれるたびにタイプが異なって、同じタイプが量産されるというのはむしろ少ない。彼らは便宜上「マンティコア」という古い伝説上の怪物の名前を冠されているだけで、本当のマンティコアではない。あくまで古伝にある魔物マンティコアを形状だけ復元した現代の魔物で、しかも一匹一匹が別種といって良い。本来ならそれぞれに○○マンティコア、××マンティコアと固有名詞がつけられてしかるべきだが、あまりに雑多に造られ過ぎて、魔導分類学でも追いついていないのが現状だ。向かって右側は、獅子の身体に大きな人間の老爺の顔、たてがみが肩と腹側まで生えていて、裂けた口には二重に黄色い牙が生えており、尾は生きた大蛇だった。左側は、大きさは右側より小さく、身体は豹柄で、顔は若い男性だった。額に大きく突き出た角があり、豹柄ではあるが体系は突進しやすい様にイノシシのようになっていた。背にも刺が並び、尾もまた二本あって、黒く細く、革の鞭のようだったが、尾の先は栗のイガのごとく刺の塊だった。二匹とも眼が赤々と光っていて、よだれと鼻息が凄まじかった。彼らは、人の相貌を有しているがゆえに、人間の心の闇を象徴する魔物だった。

 フルトは腰の後ろへ回してある二口の短剣を素早く抜いた。身幅が厚く、フルトのパワーならば板金の胸当てを貫通する威力をもっていた。またジギ=タリス五〇%であり、神聖力と合わせれば眼前の魔獣にも充分通用する。両手へ持ち、右手は逆手に、左は順手に構えた。低く息をつき、神聖力を完全に解放。同時に、瞳へ青白く光が宿った。

 狭い路地で、二頭に挟みうちにされるのがもっとも恐ろしかった。このまま後ろへ逃げてもだめだ。やはり正面を突破するしかない。そのためには、初手から大業だ。

 フルトは素早く呪文を唱え、神聖力を凝縮した。この凝縮する時間を超短縮するため、ふだんより静かに神聖力を練り上げている。ゆえに、ウガマールのハイペリオン・ハイペリアスたちは、爆発的に強大な呪文を一息で行使できることで高名だった。神聖力の練り上げ法は、秘伝とされている。

 マンティコアたちが間合いとタイミングを図っている間に、既にフルトの両手より伝わって、短剣には青白い火花か焔でも散るように神聖力が弾けていた。そこだけ濃密なガスが高音で燃えているようにも見えた。この鋭い光の束は熱くも何ともないのだが、魔導にとっては灼熱の針に匹敵した。フルトが身を低くして、いつでも飛び出せるようにした刹那、まず光球の呪文が炸裂した。魔獣たちは鼻面で光の塊が爆発したため、驚いて怯んだが、とうぜんそれを逆光にしたフルトの攻撃にも対処が遅れた。フルトは駆け寄って、向かって左の小さい方より急襲した。

 この時ばかりは、フルトのほうが獲物へ飛び掛かる猛獣と化した。抱きかかえ、挟みつけるようにして右手は上から、左は下から攻撃した。一撃で深刻なダメージを与えねば、接近戦では不利になる。盾を装備せぬ駆逐型のフルトは、常に一撃必殺だった。ただし、この場合、最低でも長剣が必要だった。マンティコアは一瞬のうちに身をひねり、よじって、顔の角と刺の尾をフルトへ向けた。フルトの、下から突き上げた左の剣が偶然にもマンティコアの喉元をとらえ、そのまま首を落とす勢いで引き裂いた。神聖力がスパークし、沸騰したトマトのように鮮血をまき散らしてマンティコアの上半身が爆裂した。その効果はフルトも予想外で、溶解毒を有する毒血を思い切り眼に浴びてしまった。「しま…!!」これは彼らしからぬ失態で、断末魔の土産に尾の刺球も右肩へ食いついた。刺の塊はそういう草の実が衣服に着くように尾の先端よりポロリととれ、肩へ毒を流し込み続けた。しかも刺先には細かな鉤があり、抜けぬ。その時、後ろより、生暖かい息と気配と咆哮がした。残る一頭が、二足立ちとなってフルトへ踊りかかったのだ。フルトも予想外の反撃に対処が一瞬、遅れた。生死をかけた戦いでは、一瞬が勝負だ。こうなればもはや突破もかなわぬ。死に物狂いでこやつも退治するしかない。フルトは振り返りざま、全身の神聖力を額へ集め、そのまま頭突きをくらわせた。近距離で爆発が起き、マンティコアはどッと後ろへ倒れたが、フルトは仁王立ちのままだった。神聖力が毒血をも吹き飛ばしたせいか、眼は焼けるような痛みはあるがなんとか見えた。それよりも、右肩へまだ食いついている刺球が重要だった。右腕が動かぬ。魔獣はどうなったか。

 強力な神聖力の効果により、魔獣の身体を構成する術が解け、肉体は崩れていた。フルトは、油断はしなかったが限界だった。全神聖力を一気に放出する咄嗟の大業で効果はあったが、消費が激しすぎた。立ちくらみがしたが、かまわずその場を離れた。一歩進むたびに大きく深呼吸をして、なんとか路地を抜け、通りまで出た。そこで彼を待っていたのは、なんと、三頭目だった。

 「やんぬるかな………!!」

 フルトは青ざめた。奥歯を食いしばり、わなないた。左手を前に半身となったが、意識を失う寸前の状態だった。三頭目はさらに大きく、路地まで入って来られないほどだった。牛かと思った。背には血の色をした鳥の翼があり、三本の鉤爪が生えていた。巨大な顔に、ずいぶんと人間じみた眼があった。たてがみは針のようで、その牙の並んだ口は血に染まっていた。足元に、ゆっくりと食事中だったのだろう、通行人らしき食いちぎられた死体が数体(バラバラで正確な数はすぐには把握できなかった)があった。

 「よ………よ………よ………」それはマンティコアが云ったものだった。彼らの中には言語を発するものがいた。しかし、ちゃんと思考して話しているのかどうかは、誰にも分からなかったが。

 「よ、よ………? よ………ようこそ!!」

 そこまで云えたのがそうとう嬉しかったらしく、マンティコアは満面の笑みを浮かべた。べろべろと口の周囲をなめ、鼻息を荒くした。フルトは冷や汗をかいた。さすがに短剣でマンティコアを一度に三頭は、経験がない。

 「ターティンが………おれをそこまで買ってくれていたとはねえ!」思わず笑みを浮かべたが、死を前にして狂ったとしか見えないだろう。しかし、幸運が彼を救った。

 音もなく、それはマンティコアへ突き刺さった。大きな釘というべきか、針というべきか。矢のようにまっすぐではなく、初めは立ったまま、大きく孤を描いて飛んでくるそれは突き刺さる瞬間に水平となるので速度も方向も威力も非常に予測しづらいものだった。続けざまにそれは三本も、マンティコアの壁みたいな胴へ食らいついた。しかも、ジギ=タリス加工がしてあるようで、まるで火薬が仕込んであるように爆裂し、マンティコアから体液を奪った。激痛を通り越した苦痛に、マンティコアが発狂したように暴れ出した。フルトはその武器を知っていた。太天ではないが、東方の武器だ。そしてその武器を使いこなす人物が、ただ一人、カルパスにはいた。優れたハンテールであり、同じ祓魔士であり、しかも裏の退治屋だった。神無比(カンピ)の秘術を使うそのハンテールはしかし、東方人ではない。

 フルトはかすむ眼で、凄まじい速度で走り寄って来るエクソイルを見た。あの走り方そのものが秘術なのだ。フルトは故郷の草原を跳走する草食獣を思い浮かべた。マンティコアは翼をはためかせ、逃げようとしていたが、さきほどの特製棒手裏剣の一本が翼の付け根へ命中していたため、翼が千切れかけ、無理だった。エクソイルは、刀の柄へ手をかけた。短く刈り上げた癖のある黒髪と、黒い軍服のような服が見えた。カンピの銘刀、ジギ=タリス九九%の秘物が、白刃をきらめかせた。それは一瞬の光の筋にも見えた。居合だ。最後の踏み込みと共に逆袈裟に抜刀され、返す刀で、パッと身を半身を返し、V字に斬った。フルトは、大マンティコアが胴切りに一撃で三つに分断されたのを確認すると、気絶した。


 セルジュが息せき切って事務所へ戻ったとき、既にフルトはベッドへ横たわっていた。セルジュは卒倒せんばかりに驚いたが、事務所で彼を待っていた人物には、もっと驚いた。

 フルトは奥の部屋の客間のようなところにあるベッドで、意識を失っていた。ケガをしており、水で冷やされたタオルが眼のところに当てられていた。しかし、ケガの治療は完璧だった。

 事務所でセルジュを待っていたのは、軍服というより地味な灰色の隊服に身を包み、立派な剣を事務所の剣立てに納め、張りつめた雰囲気の二人で、肩と胸にはカルパスで知らぬ者は無いほどに高名な紋章が目立たぬよう縫い付けられていた。すなわち、カルパス都市軍第三軍・通称「アンダルコン」だった。セルジュはことの成り行きがまったく呑み込めず、ただ狼狽して立ちすくむだけだった。

 「きみが、セルジュ………くんかね?」

 壮年の軍人が、鋭く刺す猛禽類の眼でセルジュを見た。セルジュは恐怖と緊張で、声も出なかった。

 「フルトヴェングラー氏は、魔導に不意討ちをうけた。剣を所持していなかったのでダメージを負ったようだが、それでも護身用の短剣でマンティコアを三匹も倒した。さすがの腕前だよ。我々が発見し、保護したのだ。命に別条はない。安心したまえ」

 「あ、あ、あなた様は?」

 「わたしはカルロ カンツェリ。アンダルコン第三中隊を率いている。任務中に、フルトヴェングラー氏を発見して………我々の仕事と関係しているので、見捨てるわけにもゆかず、ここまで連れてきたのだよ」

 「あッ、ありがとうございました!!」セルジュは泣き叫ぶように云った。カンツェリ卿は少しだけ、笑って、満足げにうなずいた。

 「それで、もう一人、女性のハンテールが事務所へ入ったとのことだが、今後についてその方とお話がしたいのだが、どちらに?」

 「そ、それが………」本当にフルトに報告するはずだったが、仕方がない。アンダルコンならフローティアを助け出せると思い、セルジュは手早く説明した。ふだん、交渉を引き受けている彼だ。昂奮しつつも、的を射、簡潔に説明することができた。カンツェリ卿はそれにも満足したようだった。

 「きみのような有能な事務方は、我がアンダルコンにも滅多にいないよ」セルジュは赤面した。街の子どもがみな英雄と仰ぐアンダルコンの隊長に褒められたからだ。とうぜん、セルジュを信用させるための話術であるのだが。

 「しかし………事態は困った方向へ動いているな………わかった。我々が動こう。フルトヴェングラー氏があの様子だし、あれでは使い物にはなるまいて! 我々が動かねばならぬ。きみは、ここにいてくれたまえ。連絡員を定期的によこすからね。彼が目覚めたら、事情を話し、我々へまかせ、よく休むように云ってくれたまえ。もっとも、何か云うようであれば………その時は、逆らってはいけないよ。では、御免」

 カンツェリ卿は席を立ち、部下がとった剣を受け取って腰へ吊り、部下と二人で事務所を出た。通りを少し進み、すぐにアラーウ卿へ耳打ちした。

 「これで事は動くだろう。赤剣を回収する。黒剣所持者もだ。ターティンの狙いは赤剣か、黒剣か。それとも両方か。早急に見極めよ。とにかく、赤剣は既に人を斬っている。ハンテール犯罪だ。特警が動くぞ。連中にだけは赤剣を渡すわけにはゆかん!!」

 アラーウ卿は眼を細め、答えた。「フルトヴェングラーを利用しましょう」

 「むろんだ。さきほどは、ヤツへ聴こえるように、わざと大声を出したのだ! 我々より先に警察署へ乗り込むだろう。我々が表立って警察局とコトを構えるわけにもゆかん。ターティンともだよ! すべて、フリーの退治屋に表立ってもらうこととしよう。そのように、手配するのだ」

 「赤剣は出てきますかね」

 「わからない。いつ出てきてもいいようにしておくのだ。短期で片づけるぞ。いつまでも事態をいたずらに伸ばしておくのは許されん」

 アラーウ卿はうなずいた。二人はそこで別れ、別々の方向へ消えた。


 時刻は、夕刻に近かった。セルジュは昼前にフローティアとタルトを食べたきりであることを思いだし、とにかく夕食を作り出した。フルトのために、柔らかいチーズのリゾットを作ろうと思った。アデルナ米をとりだし、堅いチーズを用意した。湯を沸かして、大鍋を用意し、大量のリゾットを作った。隣の鍋では、レンズ豆、キャベツ、ブロッコリー、ニンジン等の野菜スープを作った。料理が完了したころに、フルトが起き出してきた。

 「あっ、フルト様、もう起きてもよろしいのですか?」

 「話は聴いてたぜ」フルトの顔は険しい。

 「マーラーに貸しができた。あの薄気味の悪ィ裏ハンテール野郎にな。とんでもねえ。それとこれ以上、アンダルコンやマリオの旦那にも貸しを作るわけにはいかねえ。分かるな」

 「は、はい………」

 「めしだ!!」

 セルジュは大鍋のリゾットをごっそりと皿へ盛ってテーブルへ出した。半裸で包帯だらけのフルトは、スプーンではなく木のしゃもじで口中がヤケドをしないのだろうかというほど一気にかっこみはじめた。

 「生ハムがあったろう、その野菜スープをくれ。チーズもそのままありったけもってこい、パスタも茹でろ、牛の臓物を買ってこい、特にレバーだ! 赤ワインで煮込んでくれ、それから酒!!」

 「お酒は………」

 「うるせえッ!!」

 セルジュは云われたとおりにした。フルトは嵐のように食事を終えると、すぐにまた寝てしまった。とにかくいまは、体力を回復させるのだ。フローティアの救出は、明日以降だった。セルジュは夜もすっかり深けてから自分の食事を取ると、気絶するようにねむりにおちた。


 翌日、セルジュが目を覚ますと、フルトはもう暗いうちから起きていて、細く長いパスタを茹でて、隣の鍋では牛肉とネギやナス、ズッキーニ、乾燥キノコ(アデルナ・ポルチーニ)などの野菜をトマトソースと赤ワインで煮込んでいた。「あっ、もうしわけございません」セルジュが寝惚けた様子であわてて台所へ駆けてきたが、フルトはかまわず炊事を続けた。「すわっていろ」云われたとおりにしていると、すぐに、山のようなパスタのクリーム煮と飼い葉桶で馬が呑むほどのスープができあがってきた。オリーブの実の入ったパンや白く柔らかい朝のチーズも、焼き立てや出来立てを買ってきてあった。ミルクも新しい瓶があった。二人は黙々と、しかし素早くそれらを胃に納めた。

 鍋皿とワインの瓶を空にして、フルトは水で口をゆすいだ。着替え、セルジュへ留守番を命じ、愛用の長剣を携えて手甲をはめ、タペストリーの家紋へ祈り、準戦闘装備で出発した。セルジュは不安げにそれを見送った後、台所で洗い物をはじめ、それから洗濯と掃除をし、最後は溜まっている書類を次々と整理した。何かで気を紛らわせぬと、たまらなかった。なぜなら状況がまったく見えないのだ。

 フルトはセルジュより聴いた、アレッド西区とフロンズ公園とバルトー区を管轄するバルトー中央警察署へ向かった。署には公共交通を乗り継いで昼少しすぎに到着したが、中には入ろうとせず、入り口を見張れる場所のカフェの二階の個室に陣取り、借り切って窓から監視を続けた。フルトは金を多めに払い、剣を部屋の剣立てに置くと、カプチーノとあまり甘くない味付けの菓子を適当に注文して静かに時を待った。彼には、絡め手や、策を弄するという戦いは合わなかった。そもそも、駆逐騎士の家柄である。戦場においては常に前線突撃を担当する。突撃あるのみの家風なのだ。彼は、突撃の機会を虎のように息を殺してうかがっていた。それが、具体的にどのようなものなのかは、彼にも分からない。ただ、戦士としての勘だけが頼りなのだ。

 その機会は、夕方をすぎ、宵闇が周囲をイカ墨でもスープに混ぜたようにうっすらと覆い、松明が通りと署の正門を照らし出したころになってようやく訪れた。しかも、さしもの彼にも思いもかけぬ姿で現れた。何杯めかのカップをおこうとした瞬間、フルトは大きな炎の塊が通りを横切って警察署へゆっくりと向かうのを見据えた。思わずカップを手より落とし、騒音と共に黒い液体がテーブルと白磁のカップ皿を褐色に染めた。

 「なっ、なんだあ!? ありゃア………」

 人魂にしては大きい。魔物ではない。魔力が感じられぬ。炎は虹色に変化し、時折、鬱憤が噴出するように火柱が吹き出た。

 「紅蓮の騎士………!!」フルトは身震いした。伝承に聴く、あれが使い手と赤剣・セクエンツィアとが一体になった姿であろうか。

 「いや! ちがうな………」フルトは生唾を飲んだ。「あれじゃあダメだ………あいつじゃダメだったんだ………あれじゃ、剣に呑まれているだけだ………あれじゃ魔導を従えられねえ………」フルトは席を立ち、決然と壁の剣をとった。「今のオレで止められるか………!?」顔がゆがむ。しかし、やるしかない。やるしかなかった。フルトは、生まれてはじめて、出陣の前にセペレールの神々へ戦勝と必勝を祈願した。

 フローティアは出された粗末な夕食を平らげ、大胆にも寝台で何事も無かったかのように横になって衛士へその胆力を見せつけていた。野に寝、砂漠に食を得てきた彼女にとって、ここの待遇など、ウガマール街道の安宿よりはるかにマシに思えた。黒剣が召し上げられたのが少し不安だったが、すぐに釈放されると信じていた。フルトがいるし、フルトの後ろにはマリオもいる。ただし、都市警察を管轄しているのが、ルキアッティ家と対立しているコンネーロ家だということ、さらには水連までも関与しているとは、さすがに思いもしなかったが。

 横になってはいたが、眠ってはいなかった。警察署へ接近する、異様な気配を彼女も感じとっていたからだ。それが近づくにつれ、釈放の不安などどこかへ吹き飛んでしまい、純粋に自分を襲う身の危険をひしひしと感じた。その不気味で熱い気配は、明らかに、警察署ではなく、その内部にひそむ自分へ向けられていたからだ。

 「あの………」起き上がり、衛士へ声をかけようとしたとたん、建物が揺れた。この地域では地震など千年に一度あるかないかであるが、これがそうかと思った。しかし揺れはただの一撃でおさまり、続いて、警報の鐘が夜を裂いて鳴り渡った。

 「火事だ!!」

 確かにそう聞こえて、フローティアは火事ならば一時放免されると思って期待した。衛士へさっそくその旨を伝えようとしたが、衛士はそれどころではなく、狼狽していずこかへと去ってしまった。「あっ、ちょっと!」フローティアは叫んだが、どの衛士も彼女へ耳を貸さず、牢の前を通りすぎるだけだった。しかし、驚いた事に、いま走り去ったばかりの衛士たちが、息せき切って再び戻ってきたのだ。そしてまたも彼女の前を走り去り、通路の奥へと避難してしまった。瞬間、熱気が襲ってきた。何事かと、フローティアは小窓へよじのぼって外を確認した。外はまるで燃えていない。振り向くと、牢の前に、炎の塊が立っていた。瞠目すると、炎の中に人がいる。まるで火柱だった。人が燃えているのだ。

 「ちょ………あなた、熱くないの!?」

 「久しぶりだねえ。元気だったかい?」

 フローティアはぜんぜん記憶になかった。

 「………だれ?」

 「なッ…!!」キャスリーンは怒気と共に剣を振り上げた。一撃で牢が破壊される。フローティアは熱気と威力で、悲鳴を上げる事すらかなわなかった。ただ、持ち前の神聖力が自然に発揮された。強烈な閃光が幻惑の効果となってフローティアを隠した。「…ッ!」キャスリーンが眼を押さえた隙に、フローティアは這うようにして狭間を通り抜け、通路へ出た。キャスリーンはかまわずフローティアが立っていた場所めがけ、一撃を加えた。炎風が渦を巻いてレンガを吹き飛ばし、壁へ大穴を空けた。火花が散って、蝶のように炎がちぎれて庭の立ち木を焦がした。「ねずみめ、どこだ!!」キャスリーンの叫び声が、火の逆巻く音と混じって響いた。フローティアは必死になって逃げまどい、黒剣を探した。彼女は押収物の保管庫にあると信じていた。既に建物は煙が充満し、そこここで火が上がり、職員たちが消火や書類の避難に懸命だった。署長室では、署長が黒剣の入った箱を抱えて右往左往するばかりだった。箱は署長室に厳重に保管されていた。あと少しで勤務が終わり、帰れると思っていたのに。火事を出すとはいったいどういうことなのか。箱は、用意ができたら水蓮が引き取りにくる手筈だった。火事とはいえ、ここから勝手に持ち出して良いのかどうか、その判断もつかぬ人物であった。

 「もう良い、署長殿。我は既に到着している」署長は腰を抜かさんばかりに驚いて、周囲を見渡した。かれ以外にだれもいなかったからだ。ただ、開け放っていた窓より、コウモリが入ってきていた。瞬間、コウモリが水面へインクを垂らしたように、じわりと空へ融けて水蓮へ変身した。「やれやれ、こんな事態に陥ろうとは………あの女を買いかぶっていた。ヒヒヒ、だが既に用はない。黒剣さえ手に入ってしまえばな。署長殿、紅蓮の騎士もどきは元聖騎士殿が始末をつけてくれるだろう。その機を逃さず、赤剣を手に入れるのだぞ。さすれば、ルキアッティ家もただではすむまいよ。これだけの騒ぎを起こした元凶なのだからな。もっとも、評議会での追求次第だ。逆に足元を掬われぬよう、用意周到に臨み給え。確証もないカラ追求は身を滅ぼすぞ」しかし、それをこの署長に云うのは酷というものだった。署長は彼女の云っている意味がまるで分からなかった。

 署長の手より箱を奪い取り、抱きかかえるようにして水蓮は窓より躍り出た。壁を蹴り、二階より地面へ降りてそのまま行こうとしたならば、なんとしたことか! 壁を突き破って炎が爆発し、見知った二人が躍り出てきたではないか。水蓮はぎょろ目を見開いて舌を打った。まずフローティアがアッと声を上げ、水蓮を凝視した。視線が、直感的に、水蓮の抱えている箱を刺した。その後ろより、もはやことばにもならぬ唸り声をあげて、キャスリーンが火を吐いた。「あのバカッ」水蓮はたまらず、跳んだ。フローティアが追おうとしたが、火は地面を走り、壁となって燃え上がって、二人を阻んだ。「おいッ、貴様、我をも襲うとはどういう………」水蓮は諦めた。もうダメだ。人間ではない。剣に呑まれた怪物だった。魔物と化したのだ。それは、退治の対象であることを意味する。恐るべき古代のジギ=タリス剣は、その大きすぎる特殊能力により使い手を蝕む。特に神聖力を持たぬ者がそのような剣を使いこなすには、神聖力に匹敵する強靱な精神力が必要なのだ。キャスリーンにはそれが無かった。そう、ただ、それだけだ。

 水蓮は術を唱えた。同時にバラバラと右手で菱の実を蒔いた。すると実が弾けて、水がほとばしった。しかし、火壁を制するには至らなかった。その時、フローティアが水蓮へ掴みかかって、二人はその場でしばし箱の奪い合いを演じた。熱気により風が舞い、それが炎をさらに拡散させた。「ぎゃあ!!」吹きすさんだ炎に巻かれ、水蓮は叫んだ。フローティアも転がって離れた。キャスリーンはますます猛り狂い、地面から土塀から、そこらじゅうを剣と火で砕き始めた。「フローティアッ!?」その声はフルトだった。フローティアは大声でフルトを呼んだ。口を押さえながら、署内より、火の中をフルトは走ってきた。建物をつきぬけ、裏通りまできて、三人を発見したのだ。

 「フルト!」

 「だいじょうぶか」

 「あ、あれはいったいなんなの!?」

 「紅蓮の騎士、魔導騎士長アルデセイ」

 「アルデ!?」

 「の、なりそこないだ!!」

 フローティアは眉をひそめた。「意味が分からない、急にあたしを!」

 「ここはオレが。フローティア、タルタル人を逃がすな!」フルトは雄叫びをあげ、キャスリーンへ討って出た。だが、キャスリーンはもはや完全に火炎魔人と化しており、フルトですら、うかつには近づけなかった。一刻を争う。「退治」の時間が遅れれば遅れるほど、被害は甚大となるだろう。「しかし、この剣じゃもたねえ!!」フルトは愛用の長剣ですら恨めしく思った。あの剣があれば。


 水蓮は、術で己を包んだ火を消したが、既に戦闘は困難だった。そこへ、火を裂いて救援が現れた。火撰と、沢奥だった。

 「水蓮ッ」

 「我はいい! こ、これを殿下に!!」

 火撰の火術をもってしても、赤剣の炎は容易に操れなかった。沢奥は素早く、水蓮へ水気を与え、ダメージを軽減した。そのまま水蓮を背負い、火撰が箱を持った。「ま、待って!!」フローティアが駆け寄った。「下がれッ」火撰の鉄扇が飛んだ。それは周囲の炎も巻き込んでフローティアを襲った。本能的に身を護るべく放出した神聖力のお陰で、上着が切り裂かれただけですんだ。火撰はその驚くべきバリアに少なからず息をのんだ。「この炎の中で………水蓮が火達磨と化し、我ですら危うき凄まじき火術の中で、あの聖騎士やこやつが平気なのは、あの不思議な力のせいか………!!」それも報告せざるをえまい。三人の道士は、素早く、その場を去った。つまり、黒剣は、奪われたのである。


 フルトは、ためしに何度か打ち込んでみたが、話にならなかった。炎を裂いて火炎の中心の本体へ攻撃するには、とても剣の威力が足りない。フルトの、強大な攻撃用神聖術の威力を完全に発揮させるためには、この剣では役不足なのだ。

 「くそったれ、こんなときにアンダルコンは来ねえのか! このままカルパスが燃えたら、オレのせいじゃねえか!!」

 フルトは、状況的にも、後へは退けぬ立場に立たされていた。そこへ、フローティアが走ってきた。「ご、ごめなんさい、逃げられたわ!!」フローティアはまくしたてた。「け、剣も、あたしの剣も!」「………あの黒剣がか!?」フルトは目眩がした。ふんだりけったりだと思った。しかし、事態は、そうではなかった。フローティアは上着が切り裂かれ、だらしなく切れ端が垂れ下がっており、切られた肩や二の腕を押さえていた。そのフローティアの背中に、炎に映えてキラキラと光るものがある。フルトは切れ端を千切り、それを奪った。フローティアは何事かと思った。それは、リピエーナが上着の裏へ縫い付けてくれた、クレンペラー神官長よりの署名入りのウガマール・ヴァンダー金貨であった。食い入るように見つめるフルトの顔が、フローティアは不思議だった。

 フルトは奥歯を食いしばり、そして瞬間、ニヤッと笑うと、金貨をフローティアへ無言で返した。フローティアも、無言で受け取った。「下がっていろ」フルトはそうつぶやくと、呪文を唱え始めた。たちまち、地の底から響いて来るほどの神聖力がフルトの身体の奥底から沸き上がった。フルトが、いや、聖騎士フルトヴェングラーが、その溜め込んだ全神聖力を全解放したのだ。

 「うわ…!!」フローティアは云われなくとも、下がった。巻き添えをくうまいと。魔の炎ですら、フルトの肉体を凌駕するには至らなかった。神聖力は青白い炎と化して、赤い炎を寄せつけなかった。陽炎のようにフルトの肉体がゆらめいた。表通りへ行こうとしていた魔人は、フルトの尋常ならぬ気配に、振り返った。もはや彼女には復讐も何もない。燃えるにまかすだけの、生きた火事だった。フルトは呪文の最後に、家紋と真の愛剣に刻まれていることばを唱えた。

 「来レ神代ノ剣 銀杏ノ葉 銀ノ爪 黒キ稲妻ノ傍ラニアリテ風ヲ舞ヒ起スベシ!!」

 瞬間、炎を裂いて雷がおちたようにも見えた。フルトは両手を思い切り拡げ、それから一気に掌を合わせてパンと音を出した。青白い光が両手に集中する。その両手をゆっくりと開いてゆくと、そこには、召喚された大剣があった。

 「………!!」

 フローティアは炎の熱気も忘れ、いまやフルトの身長にも匹敵する巨剣を見据えた。身幅は通常の剣の倍はあり、丸太のようなフルトの両腕で支えられて柱のように空間へそびえ、切っ先は銀杏の葉か錨のごとく割れていた。白銀色が灼熱色に染まり、剣と斧と棹状武器と戦闘棍のすべての特性を兼ね備えた、フルトにしか扱えぬ最強剣。彼の紋章と同じく、剣身には呪法によりいまフルトが唱えた文句が刻まれている。

 「………あれが、鷲の銀十字………」

 熱いのに、フローティアは背筋へ冷たいものが通るのを感じた。あの巨剣に打ち据えられれば、魔導だろうと味方だろうと、助かる者はいないとされる。大剣・鷲の銀十字、すなわちアードラルジルバークロイツと呼ばれる最凶兵器は、フルトの神聖力を存分に吸い、増幅させ、空気をゆがめるほどのパワーを溜め込んでいた。後はそれを敵へ叩き込むだけである。

 キャスリーンは………いや、セクエンツィアは、千年の時を経て対峙する聖導皇家の秘剣へ気づき、にわかに勢いづいた。

 「ぬおおりゃあ!!」

 フルトは横殴りに、いきなり全力を叩きつけた。キャスリーンは炎の壁を作って防御したが、火の防壁は一撃で砕け、もんどりうって後ろへふッ飛んだ。全身を覆う炎が千切れ、キャスリーンは元の姿となって、炎が逆巻いて崩落した警察署の瓦礫の山へつっこんだ。フルトは容赦なく、それへ追い打ちをかけた。警察署はいまや完全に炎上し、近所でも非常警鐘がひっきりなしに打ち鳴らされ、都市第一軍と警察のそれぞれの消防部隊が出動していた。近くの防水池や水道より、人力だったが機械式の消防ポンプを使って放水し、または怪我人を収容し、周辺住民を避難させた。(ちなみに彼らは、ここでもばかばかしい縄張り争いを演じ、市民から失笑と失望を買った。)

 それは表通りで行われ、フルトたちは裏通りにいたので炎と喧騒に隠れ、見えなかった。

 フルトは炎の中へ飛び込み、大剣を大上段よりお見舞いした。キャスリーンは赤剣でそれを受け流し、横へ跳んだ。大剣が地面を砕き、体勢が崩れたのを観てキャスリーンがすかさず攻撃したが、フルトは剣を支えにして思い切り宙返りをし、それをかわした。着地した勢いで大剣を再び引き抜くや、大きく振りかぶってから再び横殴った。刃風が火を裂き、熱風を巻き起こした。キャスリーンはガッチリと剣で受け止めたが、キャスリーンの体重ごとき、フルトは身体ごと吹き飛ばすパワーを持っている。キャスリーンは再度、宙を飛んで炎に巻かれた。

 しかし、火の中で、キャスリーンはまるで平気だった。まるで火を吸って息をしているようだった。右手の赤剣は、吸いついているみたいに、キャスリーンの手から離れぬ。

 「どうなってやがる………」フルトは咳き込み、いったん退避せざるを得なかった。キャスリーンは、逃げずに追ってくるだろう。

 「熱ッ!!」

 神聖力で護られているとはいえ、さすがに大火の中では限界がある。しかしキャスリーンには無い。フルトは火の中から出てきて、フローティアと合流した。

 「だ、大丈夫ですか」フルトは顔の煤をこすった。たちまち、黒く化粧される。

 「ケッ、野郎、都合のいいところだけ紅蓮の騎士というわけだ。おい、フローティア。なんかいい知恵は無いか」

 「ありませんよ、そんなもの」

 「頼りにならねえ助手だぜ。マリオの旦那の推薦が聞いてあきれらあ!」

 フローティアはムッとしたが、黒剣が無い彼女に、どれだけの価値があるというのか。返す言葉も無かった。

 「お、おい、来たぜ………」

 フルトは大剣を構えた。燃え盛る炎を食べて、キャスリーンは再び火炎魔人となっていた。虹色に噴出する輝きは、ちっとも美しくなかった。むしろ禍々しい。キャスリーンはいまや眼からも炎を出して、息も火だった。あの口より、火の塊を吐きつける。怪物以外の何者でもあるまい。フルトは舌を打った。彼が死を覚悟した大マンティコアですら、この家宝の大剣の一撃で木端微塵となるのだ。この大剣が振るわれるとき、魔導駆逐騎士の本領発揮だった。その一撃を、二度も三度も叩き込んで、まったく無傷というのが、彼のプライドを砕いていた。

 その彼の前へ、フローティアが立った。

 「お、おい………」フローティアは手で制した。試してみたい呪文があった。静かに、焦りと動揺を押さえつつ神聖力を練った。「トーテンタンツ………死の舞踏………あたしの黒い剣………ここにあらずとも、どうか力を貸して………」心で祈りつつ、口では呪文。キャスリーンは、そんなフローティアを認識したようだ。

 「………そこを動くんじゃないよ!! このバカ女ア!!」

 人間のときの記憶か、はては意識か、もしくはそれらのようなもの、それがまだあるのかとフルトは驚いた。キャスリーンは剣を振りかざして、走り込んできた。フルトは息を飲んだが、フローティアに一瞬間だけ立ち上った自分をはるかに超える超弩級の神聖力に、逆にそちらに身体が竦んで、動けなかった。こんな神聖力、彼の元主人以外に、いままで見た事も聞いた事も無い。

 キャスリーンは赤剣に炎を集中させつつ、大きく口を開き、そこよりレンガをも溶かす高温のプラズマ炎を吐きつけんとした。その瞬間、フローティアの呪文が炸裂した。

 「そこへ止まれ!! アルデッセーッ!!」

 それは一条の光とも神聖力の矢ともなって、キャスリーンへ命中し、キャスリーンは瞬時に凍りついたように動かなくなった。

 金縛りの呪文である。

 「アッ!」とフルトが叫んだとたん、キャスリーンは、吐こうとした火球が金縛りで喉から出ずに、体内で弾けて、大爆発を起こした。咄嗟に、フルトは大剣を楯にフローティアの前に出て、神聖力で防御壁を張った。

 その爆発は、後に、警察署の火薬と燃料油へ引火したものだと報告された。


 二人は、現場を離れ、とある四叉路の隅にある井戸で水を汲み、頭からかけた。まだ、屋根の向こうでは夜空が赤く染まっていた。大剣は既にない。役目を終え、元の場所へ帰って行った。その代わり、フルトの手には赤剣があった。爆発の勢いでキャスリーンは跡形も無くなり、そこではじめて、剣は操るべき「人形」を失って、力を終息させたのだ。爆発の勢いで吹っ飛び、通り向いの建物の壁へ突き刺さったのを、フルトはあの爆発の中で見逃さなかった。剣にはまだキャスリーンの右腕がぶら下がっていた。それだけが、彼女の残したものだった。フルトは柄より腕をとり離し、炎の中へ放り投げてやった。せめてもの供養だろう。

 あとは赤剣である。

 「折るのは惜しい。こんな銘物、オレには折れねえ。たとえ再び火炎魔人が現れる事になろうともな。トスカニーニ神官長と、マリオの旦那にまかせるぜ………」

 「では、まかせていただきましょう」振り向くと、小路を照らす松明にぼんやりと影を作りながら、一人のハンテールが立っていた。私服のようだったが、しかし、フルトは肩と胸の控えめな紀章を見逃さなかった。まったくの私服ではなく、ささやかな隊服だった。アンダルコン第三中隊。通称セッコ・フリッタータだ。アンダルコンの裏を支える特務部隊である。

 「名前ぐらい云えよ」

 「ジュリーニと申します。フルトヴェングラー卿。わが中隊長より、話はうかがっております。何卒、セクエンツィアを………」

 「用意のいいやつらだぜ。ずっと見ていたのか」

 「はい」澄んだ声で、悪びれもせずにジュリーニは答えた。フルトは無言で赤剣を投げつけた。厭味を云う気にもなれなかった。「このオムレツやろう」そうつぶやくのがやっとだった。ジュリーニはすかさず暗がりへ消えた。こうして、赤剣は無事ルキアッティ家が回収した。

 煤で汚れた顔を洗い、水で身体を冷やしたフローティアは、呆然と赤剣とアンダルコン騎士を見送って、放心状態だった。とにかく、いま認識できるのは黒剣が無いということだった。赤剣は元の場所へ戻るのだろうが、黒剣はどうだろうか。首から下がるリピエーナの黄金のメダルが、やけに熱く感じられた。そこではじめて、まだクレンペラー神官長の金貨を握りしめているのに気がついた。フローティアはそっと手を開いた。

 「ねえ」

 「あ?」

 「どうして、この………」

 「おまえは聴く権利があるな」フルトはいやそうだったが、そう云うと嘆息を連発しつつ、低く小さな声で、しかし素早く、続けた。

 「フルトヴェングラー家は代々、とある聖導皇家の守護聖騎士の家柄だったが、オレの代で廃絶された。あんたが知ってるかどうかは知らねえ。理由も云いたくない。あの大剣を大戦以前より伝え、白銀の騎士と云われた家系が、オレの代で呆気なく消えた。信じられねえほどの大馬鹿野郎だ、オレは。死刑にならなかったのは、こっそり逃がしてくれた方がいたからだ。表向きは逃亡ということになっている。大剣は没収され、凶剣としてウガマール奥の院で厳重に封がされている。しかし、クレンペラー神官長の許可があるとき、オレが退治で使用して良い。魔導を退治するときにな。その目的外や、無許可で使おうとすると、ウガマールの恐るべき呪いが発動する………三つの死という、聖導皇家の威信をかけた呪いが。その金貨、おまえさんがどこで手に入れたか知らないが、運命か、はては神官長の策略を感じるぜ。許可とは、クレンペラー神官長の印と署名を意味するのだから。どのような形であっても、オレの前にそれが示されれば、オレは大剣・鷲の銀十字を使用することができるんだ!!」

 フローティアは、良いからぜひ持ってゆけとニコニコしながら金貨を渡してくれたクレンペラーの顔がまざまざと脳裏に浮かび、驚きを通り越して戦慄した。なんという深謀遠慮か。彼女がカルパスでフルトと出会う事を、予知していたとでもいうのか。

 「フローティア。おまえが望めば、その金貨をオレに示せ。さすれば、オレはいつでも大剣を召喚できる。………ただし、さっきも見た通り、ずいぶん使ってないんで、だいぶ腕が鈍っているのと、オレが大剣を使うことにおまえさんが責任を負う事になるということは、肝に命じておけ。めったやたらと、見せないことを薦めるぜ」

 フローティアは無言で、金貨を握りしめた。

 「………帰ろう。疲れた。今後の事は明日以降に考えよう」

 「ね、ねえ、フルト」

 「黒剣のことも。ターティンのことも。アンダルコンもだ。いま考えても、何も浮かばないぜ。ただ、アルデセイ卿とオレは紙一重だということ以外はな。あれは、オレの姿でもあるんだ。古い栄光ある騎士の哀れなナレノハテだ。オレは、自分で自分を退治したというわけさ。………行こう」

 フローティアは再び無言となった。二人はしばし歩き、二度ほど、退治へ向かうハンテールと無言の挨拶を交わすと、乗車待ちをしているペスカを発見し、事務所へと帰った。


 道士たちは、闇から闇へと通りを駆け抜けた。家が密集するとある丘の上でようやく振り返り、眼下に燃え盛る警察署を確認した。

 その時、大きく何かが爆発した。

 水蓮は既に気絶していた。火撰と沢奥が眼を合わせる。「………凄絶なる最期というわけか。しょせんは滅びた王国。魔導騎士の末裔ごとき、あのような最期が相応しい」

 沢奥の野太い声が暗く響いた。「行くぞ。殿下がお待ちだ」再び、闇へ走ろうとした彼らは、しかし、立ち止まらざるを得なかった。

 たちまち、通路の両端を塞がれた。その動きは、けして素人ではなかった。

 「何者か!!」

 星明りの下に、黒とカーキー服の者たちがいた。数は、十数人。みな、ヘルメットを被り、ひきしまった非常に機能的な軍用服装だった。彼らに比べれば道士たちの服は、まるで民俗舞踊のための伝統装束だろう。

 人垣をかき分けて、代表らしき人物が前へでた。

 「その箱に用がある」声は壮年の男性のものだった。火撰の眼は、人物の帽子の紋章と階級章を看破した。

 「ストアリアの軍隊が!! 市内で夜間演習とは聞いていないが。ちゃんと市役所の許可をとっているのだろうね!?」

 「許可はとっている。演習ではなく、実験のな」

 「なにィ!?」

 「これは作戦の一環なのだよ。ターティンの秘術使い殿」

 「そこをどけ! 死にたくなくば」

 「どかないね。それに君たちこそ、死んでしまううえにその箱の中身を我々へ渡す事になるのだ。ヴァーグナー大尉!!」

 「ハッ」それは、ハンス・クーゲルシュライバー大佐と、その部隊、そして大尉となったジークフリート・ヴァーグナー、その両脇には、少尉で彼の直属であるレナ・ロジェストヴェンスキーと、ゲオル・シュツルムフォーゲル。三人は並んで、暗がりにその武器の光沢を映した。

 火撰と沢奥は見慣れぬ武器に瞠目した。背中へデイバッグのように何かを背負い、それから太いコードが伸び、彼らの手にある銃のようなものへつながっている。銃器は一部の軍隊で既に実用化はされており、太天にもある。軍事大国のストアリアが所持していてもおかしくはないが、とても、まだ彼ら道士を倒すようなシロモノではなく、火薬式の弓矢と同じような感覚しかない。

 火撰は思わず鼻で笑ってしまった。

 「ばかばかしい。行かせてもらう」火撰が赤いぼんぼりの下がった鉄扇を出した。炎がチラチラと扇の上で燃えだした。しかし、彼らは、背筋を貫く悪寒と、彼らを押しつぶさんばかりの生命力に、慄然とし、圧倒された。恐るべき気配だった。巨大で古い生き物の。ハンスの笑みが夜の闇の中で光って見えた。どこより現れたのか。そして、そんな怪物がこの都会のどこに潜んでいるのか。まして、彼ら軍隊などがこの怪物を使いこなしているというのか。

 それはドラゴンだった。

 火撰は頭上を見た。星明りも月明かりも、その黒い巨体に遮られていた。沢奥が咄嗟に水蓮を背負ったままなにか武器を出そうとしたが、闇が振ってきて、彼は一撃で張り倒された。ストアリア黒ドラゴンは、絹のような黒い羽毛を夜風にたなびかせ、静かに喉を鳴らした。その声は本当に木管楽器のようだった。火撰は初めて間近に観て聴く美しいまでの恐怖に、身動きひとつできなかった。そこへ、ジークが銃剣突撃を繰り出してきた。火撰は驚いて振り返ったが、その動きは既に道士のそれではない。銃剣が硬直した背中へ深々と突き刺さった。「あ………!!」うめいたが、それだけではなかった。ジークは引き金をひき、機械を発動させた。剣の樋にある特殊な機構が、火撰の血液を急激に吸引した。

 「あがッ、うッ、うあッああああ!!」

 採血だ。これは採血銃なのだ。

 「………!」火撰は、為す術なく、生乾きのサラミみたいになって横たわった。ドラゴンに倒された沢奥には、シュツルムフォーゲル少尉が銃剣をつきたてた。ハンスの哄笑がドラゴンの声をかき消した。

 「たわいもない! タルタル人など! 異境の蛮人めがッ。実験は成功だなッ。大尉、リングの作動状況を報告したまえ」

 「何も問題はありません。しかし、まだ採取血液の保存に限界がありますので、早く教授へ提出するのをお薦めします」ジークは直立し、仏頂面で答えた。ハンスは相変わらずの鈍さで、その答えに満足した。

 「そうだな。箱を回収せよ!」

 周囲の兵士たちが素早く動いた。しかし。「た、大佐殿!」ハンスは我が眼を疑った。火撰の落とした木箱が、ずぶずぶと地面へ沈んでゆく。

 「なんだとォ!?」ハンスはあわてて自ら木箱へとりついたが、時すでに遅し、箱は水没するように影へ消えてしまった。その傍らで、水蓮が、地面へ突っ伏したまま右手の人指し指と中指を使って、血文字で地面へなにか書いていた。

 「ヒ、ヒヒヒ………ストアリアの夷狄ども………そう思い通りにはさせないよ」

 水蓮は震えながら顔をあげ、そのガラス玉のような眼をハンスへ向けた。ハンスの顔がゆがんだ。

 「ヨハネース!!」ドラゴンが首を伸ばした。「喰えッ、喰ってしまえッ、こやつを喰うことを許可するーッ!!」

 獰猛にして最強の肉食獣、ドラゴンの動きは山のように大きく風のように素早い。水蓮は丸呑みで、その黒い腹の中へ消えた。

 「残った死体は焼却しろ!!」兵士たちへ後始末を命じ、ハンスは不機嫌をまき散らして、ジークたちを連れて引き上げた。





 第3章へつづく


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