ルトスワフスキィ(1913−1994) 


 現代ポーランド楽派黎明期の最重要な作曲家ルトスワフスキィは、ワルシャワに生まれ、1937年にワルシャワ音楽院を卒業後、39年の秋にパリでブーランジェに師事すべくポーランドを出発したが、おりしもナチスが国境を越えて雪崩こんできて、留学は取りやめとなってしまった。

 戦争中はワルシャワのカフェでピアノを弾き、レジスタンスに参加した。

 戦後はバルトーク流の民族主義に目覚め、商業音楽を作曲しつつ、ポーランド民俗音楽を研究。その成果が、まったくバルトークを範とする管弦楽のための協奏曲(1954)で、世界的な知名度をえる。その後1960年にケージを知り、いわゆる偶然性を取り入れてゆく。が、ケージのように完全に偶然性に任せるのではなく、意図的に操作された、人の手のはいった偶然性というべきものを構築し、偶然性と非偶然性とが入り交じったような構築性を実践。「管理された偶然性」という。これは、アドリブ部分の長さや入りのタイミングを指揮者が演奏の都度、指示する方法である。

 また12音和声という、独特で専門的な和声法を取り入れている。12音をいっぺんに鳴らしたのでは、ただのクラスターとなる。それぞれ、12個の音を重ならないように使って論理的に定義づけられた音の塊(和音)を幾つか用意し、それらを順次鳴らしてゆく、といったもののようである。普通の和声学も素人には攻略が困難だが、それが12音和声というのだから、小理屈は各自調べてもらうとして、ここでは聴くだけにしたい。と、言っても、聴くだけにしてもどこでどう鳴っているのやら……だが。

 さらに、その中に元々持っていたバルトーク流の剛性と、ドビュッシー、ラヴェル的なフランス流の精緻さ(ブーランジェに師事するべく、フランスへ向かおうとしていたのを忘れてはならない)、民俗音楽の研究の成果、が加わっている。

 さて、ルトスワフスキィは古典的なタイトルの曲を多く作り、交響曲は4曲ある。しかし、中身は上記した計画的に管理された偶然性も充分に扱われ、けっこう難解ながら、それと対比する伝統的な響きとの対比が楽しめる。


 ※この頁の姓表記について

 ロシア人の名前の〜スキィは、元はポーランド由来のもので、ポーランドでも〜スキィと発音するようですが、なぜか日本語表記は〜スキです。指揮者のスクロヴァチェフスキとか。同じく、〜ツキィも〜ツキです。これはなぜなのか、諸説あるようですが、本来はスキィ(スキー)ツキィ(ツキー)にするほうが自然に思いますし、ポーランド系のストコフスキィがスキィで、スクロヴァチェフスキがスキや、ポーランド系カナダ人アイスホッケー選手のグレツキーがツキーで、作曲家のグレツキがツキなのは個人的におかしいと思いますので、ロシア風に準拠して、伸ばしたいと思います。(他の頁で先に書いたものはめんどくさいので直しませんw)


第1交響曲(1947)

 年代的には、まだ管理された偶然性に到る前の作品。4楽章制で、演奏時間は約25分。構成も古典的であり、第1楽章はソナタ形式。5分半ほど。完全に調性。冒頭の衝撃的な和音から続くおどけた雰囲気が楽しい色彩感のあるギャロップ的な第1主題の後、弦楽が流れるような第2主題。映画音楽のような音調が、後年の作風とのギャップを際立たせる。展開部は、第1主題の細かい音形を料理してゆくもの。後半は無調に近い複雑でカオス的音響に至り、長々と続けず、サッパリと再現部へ。第1主題を再現し、小展開で盛り上がった後、次第に音量が下がって行き、サッと潔く終わってしまう。

 第2楽章緩徐楽章でアダージョ。約10分ほどと、同曲中、最大の楽章。楽想が色々と変化して飽きさせない。ホルンを主体とする茫洋とした浮遊感のある旋律が主導して進み、それが弦楽に移って、不安げなムードで推移する。ファゴットの高い呻きも、特徴的だ。短い経過部の後、音調は第1楽章第1主題のおどけたものへ変わり、ヴァイオリンや木管のソロが無調的かつ虚無的な旋律を奏ででゆく。中間部でテンポを上げてシリアスに盛り上がり、頂点でホルンの咆哮。弦楽合奏へ戻り、アダージョが乾いた祈りを捧げる。そして最後はオスティナートめいてワンフレーズを執拗に繰り返し、木管やヴァイオリン、ヴィオラなどがその断片を途切れ途切れに奏して、やがて沈んでゆく。

 第3楽章、スケルツォ。4分ほど。序奏は、12音技法で書かれている。と云うものの、中心音がしっかりしていて、かなり調性感がある。管楽器のみで、短い動機の音列が提示される。そして歪んだワルツのような、ふにゃふにゃした妙な主題が現れる。独特の和声が光る場面。忙しく音調は移り変わり、おどけて諧謔的な調子も現れる。主要主題と序奏主題の関係は、聴くだけではよく分からない。後半はソロイスティックな動機の提示がなされ、やはり次第に静かになって終結を迎える。

 第4楽章はアレグロ・ヴィバーチェ。5分ほど。やはり、明るく道化師的な主題が、さまざまな楽器で縦横無尽に駆け回る。ヴァイオリンソロがまたしても登場。一瞬にしてその主題は他の楽器に受け継がれ、移ろいゆく。短い動機が現れては消え、精緻かつ大胆な手法により、骨太ながら細かいという初期ルトスワフスキィのバルトーク+フランス流の特徴が良く現れていると思う。疾走した後に、終結間際になってテンポが落ちついて夜の雰囲気となるが、すぐに速度が戻って、最後まで道化の音調で終わる。

 ナチスの大惨禍に覆われたポーランドで、戦後すぐにこのような、どちらかというと明るいおどけた音調の交響曲が作られたという事実が興味深い。音楽に、感情は無くただ音楽があるのみという姿勢にも感じられる。

 なお、ジダーノフ批判の影響を受けたポーランドで「形式主義的」と批判され、作者は商業音楽で食いつないだ。


第2交響曲(1967)

 2楽章制で、演奏時間は約30分。第1楽章は「ためらいがちに」、第2楽章は「決然と」と、指示されている。

 第1番の作曲よりおよそ20年が経っているのをみても分かる通り、1番とはまったく趣を異にする。1番はまだシマノフスキィのような、近代音楽の響きを延長させているが、この2番ではルトスワフスキィがケージにより影響を受けた偶然性が導入されており、それが作曲者により厳格に管理されている。確定的な部分と不確定な部分が混じっており、楽譜を見たわけではないので詳細は不明だが、ここからここまでこの楽器が、指揮者がキューを出し止めるまでアドリブをやれ、と全編にわたって指示されているイメージである。従って同じアドリブによる偶然性でも、偶然をいつ誰がどこまで行うかが決定されているという意味になる。

 つまり、録音によって、演奏というより曲そのものがかなり異なるパターンなので、このような文藝的表現による曲の紹介などという企画には、完全に不向きな音楽だろう。

 第1楽章は金管と打楽器のみ。いわゆる不定形な現代音楽的音響に支配されるが、動機自体は凄く細かく、リズムは放棄されていない。「ためらいがちに」とはよく指示されたもので、アドリブが行われる楽器群はどこかつかみ所がなく、不安げで、浮遊感があり、しっかりとした意志がない。芯が無いというか。打楽器と金管のみというが、中間部よりピアノが混じる。ピアノの演奏もたぶんアドリブなのだろう。こういう旋律の無い(ホントはある)音楽を文章でどのように表現するかは、かなり難易度が高いが、もそもそ、ぼそぼそという動機の連続であるとしか云いようが無い。ここでカタルシスが溜まるのはおそらく作者の狙い通りで、そこで第2楽章の「決然と」という指示表現へつながるのだろう。打楽器アンサンブルによる厳格なアドリブもあり、緊張感は持続される。ラスト数分で、音価が伸ばされたブーブーという音が印象的となる。(が、どこがどこまで即興なのかは、演奏を聴いているだけでは不明。)

 第2楽章はオーケストラ全体で、その響きが引き継がれる。縦のアンサンブルが放棄され、各楽器群は重層的にずれながら横の動きを自由に行って行く。弦楽の唸りに、1楽章と同じく管楽器群が自由な動きで重なって行く。分厚い音響は一転して骨太となり、まさに「決然と」響きわたって行く。4分ほどから打楽器も加わって、音響が炸裂を始める。そのうち、音響自体が塊となって彷徨いだし、ちょうど半分ほどより、またピアノが少しジャジーに加わる。管打楽器たちが騒めきを大きくし始めて、10分をすぎていよいよヒートアップして、リズムが支配的となり、縦のアンサンブルが復活。ザムザムと時間を刻むが、しかしすぐにカオス。速度を増し、いきなり大きな和音が終結を示唆するが……どういうわけかそれで終わらずに、何度か終結(のような)和音が繰り返される。そこから地を這う低音がゲロゲロと蠢いて、それが唐突に消えて終わる。

 ※参照したのはエサ=ペッカ・サロネン/ロスアンジェルス・フィルハーモニック 1994年の録音です。


第3交響曲(1983)

 作曲に10年をかけた。管理された偶然性が全面にわたって使用されている。入りや止め、長さの指定されたアド・リビトゥムすなわちアドリブ「部分」が多く、従って2番よりも録音により、様相が異なる。はず。

 1楽章制で30分ほどの作品だが、細かく楽想が指定されており、それでトラックを区切っているCDもある。列記すると、Vivo - Lento - Vivo - Stesso movimento - Vivo - Stesso movimento - Vivio - Stesso movimento - Adagio - Vivo - Tempo I - Meno mosso - Vivo - Poco ritenuto - Poco lento となる。

 緊張感のある連打動機から、すぐに自由に木管や金管が短いモティーフを連ねて行くシーンとなる。連打動機が何度か繰り返され、弦楽器や打楽器も入ってくる。ピアノもある。とにかく、短く細かい雪の結晶のような動機がひたすら舞い散る。4度目の冒頭連打動機から、やや動きがある。

 ゆったりとしたテンポで、楽器群が自由に短い動機を奏で、そして重ねて行く。そしてまた冒頭連打動機。ホルンの唸り。各楽器群がソロイスティックに扱われて、膨大な編制のわりに響きはスッキリしている。打楽器のアクセントから、フルートの長いソロ。さらにトランペット。弦楽。そして木管と経過部を経て、やおら冒頭の連打動機が展開され、しばし連打される。

 そこからテンポが上がって、無調フーガ。……っぽいもの。ヴァイオリンやクラリネットなどの難しそうなソロが連続して現れて、なんとチューバのソロまである。面白い。そしてオーケストラ全体によると思われる、アドリブ。それが数十秒続いて(指揮者によって長さが異なるが)、弦楽器のアンサンブルにより微細な動機がしばし蠢く。

 再びテンポが上がって、オーケストラ全体にカオス的な騒めき。全ての楽器が好き勝手に演奏しているようで、それらは全て作曲者の手の中にあるのだ。さらに、それらを強烈にまとめ上げているのがアンサンブルというより、ルトスワフスキィ独特の和声感である。ときおり調性感も醸し出しながら、しかし、そして軟派な響きにはならない。鋼の塊のような剛性を持って、迫ってくる。20分をすぎたあたりより、金管群のアドリブ。指揮者は厳格に、アドリブの入りと止めを操作し管理する。

 そして浮遊感のある弦楽から、木管が短い動機を長い息の弦楽に絡めて行く。弦楽は、雄大にして複雑にして精緻にして神秘的にして豪快な響きを構成し、やがて少しずつ少しずつ静まる。最後に、民謡動機を思わせる鄙びた動機の断片が奏されて、どこか懐かしい精神世界へ誘われる。そこから鐘も鳴って、再び緊張感がじわじわと膨れ上がり、激しい鍵盤打楽器達の動機から全オーケストラに昇天の準備が整って、一気に竜が天へ昇る如く上昇して、終結和音が連打される。

 まさに現代の交響曲。確かに難しいけど面白い。響きの多彩さ、多様さ、多重さという点で、超神クラス。たくさん受賞するだけある。

 ※参照したのはヴィトルド・ルトスワフスキ/ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 1985年の録音及び、ハンヌ・リントゥ/フィンランド放送交響楽団 2015年の録音です。


第4交響曲(1992)

 ルトスワフスキィ最後の交響曲は、まさに亡くなる2年前の最晩年の作品だ。2楽章制で約20分の作品だが、第1楽章と第2楽章はアタッカで進められる。(作者にしては)より古典的となり、得意の管理されたアドリブ部分は、全体の1/4ほどだという。

 冒頭、静寂の中を弦の波がゆらめいて、クラリネットやフルート等のソロが漂う。トランペットのつんざきを挟んで、長いソロが続けられる。時折、さまざまな楽器による騒めきを加えながら、じわじわと光が差してくる。弦楽による長い旋律が現れる。その弦楽が行き詰まったところから、全楽器が速いパッセージで動機を羅列しだし、それもすぐに終わるとまた弦楽が不思議な音調の部分を演(や)る。短い動機群が次から次へとさまざまな楽器により現れては消える中で、弦楽の主導機だけが形而上的に「スガタ」の維持を許されている。そこから速度の速さは変わらずにピアノも登場して、無窮道的なパッセージを提示。管楽器もそれを模倣し、甲高い警告音をまき散らしながら、一気に速度と音程を落として行く。

 引き続き第2楽章は、テンポが落ち弦楽のモノローグめいた旋律によるアンダンテ部分から始まる。風のように「うねり」が去り、木管のささやきと共に戻ってきて、さらに渦を巻く。静寂が訪れ、微かな吐息と囁きのみが残る。ここでアドリブと思わしき箇所がしばし続き、細かいパッセージが自在に繰り返される。そこから弦楽の旋律が再び現れるが、響きは明るく力強い。その背後に、管打楽器が細かい動機のアドリブで重なっているように思える。弦楽の動機を金管楽器が受け取って、高らかに鳴り響きながら、響きは次第に深刻さと緊張感を増してゆく。その頂点で長い和音が轟き、いったん終結してから、再び訪れた静寂の中でヴァイオリンがソロを奏でる。しばしひっそりとした独白が続いて、やおら、オーケストラが雄弁に動機の羅列を提示しだす。が、それがものの数秒で終わって、そのまま全曲を終えてしまう。

 ※参照したのはアントニー・ヴィト/ポーランド国立放送交響楽団 1994年の録音及びエサ=ペッカ・サロネン指揮/ロサンジェルス・フィルハーモニック 1993年の録音です。




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