細川俊夫(1955− )

 
 ポスト武満として世界的にも活躍している作曲家、細川は、個人的には、苦手な作家である。というわけで、作品をそんなにたくさん聴いているわけでは無いのもあるのだが、それは茫洋としたリズムと色彩と響きが武満にあまりに近いというだけではなく、なんともつかみづらい、正体の無い靄のような音響と、いわゆる現代的最先端の技法との融合と、その根底にある日本的情緒が、不思議な効果を上げているのだが、この効果が、私にはあまり届かないことによる。

 ドイツへ留学中にかのユン・イサンに師事したのだが、なるほど、ユンとは正反対の作風であるが、その融合性がよく似ている。

 作品目録で、シンフォニーと名づけられたものが、2007年初頭現在で、1曲、あるので紹介する。


記憶の海へ −ヒロシマシンフォニー−(1998)

 広島生まれの作曲家が広島を題材に曲を書くのは、宿命のようなものか。

 しかし、これはいわゆる「原爆もの」ではない。原爆関係では、70分に及ぶ大作 ヒロシマ・声なき声(ヒロシマ レクィレム)という、独唱者、朗読、混声合唱、テープとオーケストラのための全7楽章にも及ぶ作品がある。これを交響曲「広島」としても何もおかしくは無いだろう。

 しかしそれはシンフォニーとは名づけられなかった。

 この20分程度の大規模なオーケストラ作品は、広島交響楽団・プロオケ改組25周年記念として1998年に書かれた。作曲者の、瀬戸内海における幼少時の風景の記憶、というプライベートにして情景的な作品で、類似のテーマを求めるとドビュッシーの交響詩「海」に近いのかもしれない。

 さてしかし、ネットで、初演の様子や、CD評を眺めるに、どこが情景描写? とか、海の力強さは伝わってくる、とかいうのが多い。風景の記憶という観念はむしろ逆で、記憶の中の風景、だった。

 って、タイトルは実はそのようになってるのだが(笑)

 「ただの現代音楽」、などという身も蓋もない意見もある。

 現代音楽論は云い出すとキリがないので、曲を聴き進めたい。

 冒頭よりバスドラの響きが海鳴りを予測しているように思える。ただし瀬戸内海でも、深夜の霧の瀬戸内海みたいだが(笑) 打楽器、管楽器、弦楽器が、時に独立し、時に渾然となって、ありとあらゆる現代技法をもって介入してくる。問題は、その、この世の全てを表すような膨大な響きの洪水から、我々聴き手が何を聴くか、なのだろう。

 そこにあるのは武満流の水のイメージ。そして夢のイメージ。あくまで捉えどころのない空間性と時間性。形式は、時空形式というか、夢幻形式というか、武満の絵巻物形式より、ずっと抽象的で、精神的に発展したものと云えるかもしれない。

 20分程度という時間配分も絶妙で、長いと感じる人、短いと感じる人、それぞれだろう。

 私は、10分ほどまでは意外と短く感じるのだが、それから10分がやや長いか。後半部はやおらスネアドラムの響きより緊張感が増すのだが、展開が弱いような気もする。15分ほどで波の盛り上がりのような頂点に達し、再び、冒頭の再現が来る。

 「ただの現代音楽」 としては、かなり構成に凝っていると思う。タイトルや、広島交響曲という副題にとらわれても、とらわれずとも、面白く聴ける音楽だと思う。

 ただし、多少の現代モノの免疫は必要だろうが。武満を聴ける人は、問題ないでしょう。武満楽派という派をあえて作るとしたら、細川はその中枢にいまいる人でしょう。


 シャンドスに、武満徹の「波の盆」「乱:組曲」 尾高惇忠の「オーケストラとオルガンのためのファンタジー」と共に尾高忠明/札幌交響楽団で録音があります。





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