ユン      イ  サン
 尹 伊桑(1917−1995)

 
 戦前の日本併合朝鮮・現在の韓国は忠武(当時は統影といったそうで、忠武がどこかは調べましたが分かりませんでした)で生まれ、日本と朝鮮でチェロと作曲を学び、大戦中は独立闘争に参加した後、戦後は韓国で教鞭を取っていたが西ドイツへ留学。自らのルーツを求めて北朝鮮へ遺跡を見学に行くが、それへ韓国の朴正煕政権がスパイ容疑をかけ、なんと西ドイツで韓国の公安当局に拉致られる。
 
 その後スパイ罪で終身刑を言い渡され、服役していたが、拉致られたドイツを筆頭に国際社会がこの事件へ対し猛然と反発。ユンは釈放され、西ドイツへ戻り、韓国籍をあっさり捨ててドイツ人となり、ベルリン芸術大学の教授等を歴任する。(当時から拉致問題はあったのですね。)
 
 日本人の弟子では、三枝成章や田中賢、細川俊夫がいる。
 
 いまもって世界に通用する唯一の韓国を代表する作曲家であるが、残念ながら当時の韓国政府がそれを認めず、本人は怒りをこめて韓国人を止めてしまった。そのことは示唆に富む。
 
 作風は韓国民族主義ではあるが、作曲技法はバリバリのゲンダイオンガク。12音技法も使っているのだろうが、オーケストラ曲ではむしろ、力強い躍動感や奥行きの大きな響きなど、クセナキスにも通じるようなパワー型の音楽を作る。たいへんに硬派な作曲家だ。
 
 交響曲は5曲残っている。

 ※なお、拉致られて当然の親北だったというハナシもあるので、容易には判断できぬ。音楽には関係ないが。


第1交響曲(1983)
  
 ベルリンフィルハーモニカー創立100周年を記念し、委嘱される。当時は冷戦時代の真只中。ドイツも、東西に別れていた。本当にいつ全面核戦争が起きても不思議ではない世界で、ユンは核戦争と人間という壮大で重いテーマを、この音楽へこめた。
 
 4楽章制で古典的だが、内容としては、これまでの交響曲形式を特に踏襲したものではない。作曲者本人が語るには、各楽章には以下の通り意味がこめられている。
 
 1楽章では核兵器によって破壊される人間社会の恐ろしさを描く。ここでは破壊がテーマで、無秩序な管弦楽が一切の壊滅を示す。冒頭のホルン6本による警鐘が、人間の発する声の代表を意味する。マーラーの第3番への鋭い対比にも聴こえる。

 各主題はけっこう調性的ではあるが、次第にいろいろな楽器が登場し、カオスを形成する。しかし、純粋に混じり合う数学的音響として混乱を目指している音楽とは異なり、滅びゆくものの歌ともいえるものが現れては空しく散って行く。そこらへんの無常さを感じ取ると良いのだろうか。旋律に、東洋的で韓国的な響きがする。カオスとはいえ、止めどなく流れる進行方法が良い。
 
 2楽章では人類の美しい限りない遺産の数々へのオマージュが描かれているのだそうです。せつせつと流れる東洋的でありつつ普遍的な旋律のバックで、あらゆる不協和音と打楽器が万華鏡を奏でる。緩徐楽章に相当する。
 
 3楽章はスケルツォへ相当し、マーラーリストベルリオーズばりの悪魔の踊り。死神の鎌には核弾頭が飾られているのだ。

 打楽器の先導により不気味なダンスがはじまるが、いわゆる偶発性サウンドでは無く、聴きやすい。ホルンの表す人間の声も、帰ってくる。
 
 4楽章へは1楽章への回帰と人類への警告の再開。全体を通す非常に鋭い響きが、人間への永遠の警告となるのだろう。

 とってもゲンダイオンガクだが、テーマがしっかりしているからか、根底に朝鮮民族旋律がひそんでいるからか、その中では聴きやすい。どこぞの解説では「最後のストロング系作曲家」とあったが、その面目躍如たる音楽だ。


第2交響曲(1984)

 ユンの交響曲は、いろいろな音響が塊として激しくぶつかりあうタイプのもので、その音としてのグループ同士のせめぎ合いとかが面白いのだが、なかなか、激しい音響の中でそれを聴きとるのは、難しい。現代曲が苦手な人が、真っ先にやり玉に上げそうな曲だ。
 
 わけがわからん、と。

 たしかに、分からないんですが(笑)

 ユンは1980年代に集中して全交響曲をかき上げ、以後は書かなかった。80年代とは、どのような「時代」だったろうか? 東西冷戦、バブル、環境破壊では地球温暖化よりむしろ氷河期か。今のような「グローバル化時代」からすると、当時はマクロ的な視点で全てが動いていたような気がする。
 
 2番は3楽章から成る。1番作曲後すぐに筆がとられた。
 
 欧州では、東洋的思想の「輪廻」による音楽と称されたとの事だ。打楽器を伴う導入部により1楽章は幕を開けるが、激しいアレグロ楽章で(ただし表記には速度記号は無い。)一貫して音響がめぐるましく動く様子を聴くことができる。
 
 2楽章は一転して緩徐楽章となる。朝鮮の古楽からとったような東洋的な旋律が、聴こえてくるが、鳥の声のような音形もあって、半島の美しい自然へ想いをよせているようにも聴こえる。各楽器群のせめぎ合いは、緩徐楽章でも衰えることは無い。
 
 そして3楽章では再び、激しくオーケストラが絡み合うアレグロに戻る。その転回方式をもって、輪廻というのならば、まあ、ヨーロッパの学者程度では、そう思ってしまうのは無理もないか。
 
 1番に比べると、かなり小規模なものになっているが、音響構造の複雑さは、むしろ増しているように思える。


第3交響曲(1985)

 作曲者自身が「哲学的」と評したこの曲は、1楽章制のもので、20分ほど。東洋・中国的なタオイズム、つまり道教的な観念に基づいて作曲された。
 
 哲学的というか、道教の観念そのものが確かに哲学的ではあるが、それにしても道教ほど現世利益追求の俗教的なものも無い。
 
 冒頭より神秘的な和音がさらに東洋の呪術的な雰囲気を伴って、まあなんとも……。
 
 音楽の展開も不規則で、儀式的というよりか、めぐるましく変化する人々の祈りの思いそのもののようでもある。
 
 雰囲気としては、スクリャービンを硬派にして、ちょっと打楽器や旋律に東洋的なものが聴こえるといったふう。特に作曲者も云っていることが、東洋的な神秘性はもちろんのこと、流動性を意識しているということ。西洋的な白黒ハッキリして必ず何かに帰結した音楽ではなく、そこにあるのは東洋的な、終わってみたら初めに戻っているといったような、不思議な力場とベクトルなのだ。松村禎三にも似た、細かな動機が増殖しつつひたひたとせまってくる迫力は、すばらしい。中間部の美しい韓的旋律も良い。

 大きく、3部形式


第4交響曲「暗黒の中で歌う」(1986)

 4番は、サントリーホール落成記念に委嘱された作品。岩城/東京都響により初演されている。
 
 2楽章構成だが演奏時間は2番や3番よりやや長い。
 
 注目されるのは1楽章が朝鮮の古い音楽様式を参考にして書かれていることだろう。詩調(シジョ)という形式よりインスピレーションをえたというその音楽は、作風は現代風であり、特にその短い動機を行き来する集中力が凄い。まさに凝縮! という感じ。

 アレグロであるが、大きく、急−緩−急の3部形式になっているように思える。最後の朝鮮メロディーが印象的だと思う。
 
 2楽章は緩徐楽章とフィナーレ。オーボエによる特徴的な動機によってはじまる。緊張感の持続はつづき、最後まで、濃密な音響世界が繰り広げられる。最後は室内楽的になり、楽章初めのオーボエが回帰して、静かに終わる。

 と、思いきや……。

 最後まで緊張感ある、問題提起の曲。


第5交響曲(1987)
 
 カンタータ的な、大規模なオーケストラとバリトンソロのための作品。ユン最後の交響曲。5楽章制の大作で、1時間を数えるもの。ナチスのホロコーストを生き延びたユダヤ人ネリー・ザックスの詩をテキストに、ユンの作品が朝鮮半島の題材を離れて、まあいわゆるグローバル化したもの。世界平和を歌う意味では、1番へ回帰している。歌詞はドイツ語。
 
 1楽章は長いオーケストラの序奏に続き、静かにバリトンが登場。伴奏する打楽器の硬質な響きと、歌の抒情的な旋律が、対照的で良い。歌を転換点として、また器楽に戻る3部形式。2楽章は、アダージョ的な音楽だが、バリトンの豊かな旋律と、伴奏の厳しい現代音楽が、これもなかなか良いバランスで対立している。3楽章になり、再び長い器楽の間奏がつく。バリトンが激しく登場するが、この楽章は、ちょっと無調的かもしれない。4楽章では再びアダージョ楽章となり、ここでこの交響曲はマーラー的なシンメトリー構造をしていると分かる。最後はまた長い序奏の後、詩がせつせつと恒久平和を歌い、幕を閉じる。

 しかし、ユンから韓的な色をとったら、急にふつうの現代作家になってしまった。確かに、ユンならではの響きというのは生き残ってはいるが。やはり、音楽のグローバル化は、単なる平均化、つまらなくなってしまうものなのか? 






前のページ

表紙へ