柴田南雄(1916-1996)


 私にとっては岩波書店のマーラーの解説本(スゲー面白くてためになる)でおなじみの柴田だが、作曲家としてはなかなか12音を駆使したシビアな音楽を作っていたりする。
 
 1960年に作曲された「シンフォニア」と、1975年に作られた、唯一交響曲と銘打たれた「ゆく河の流れは絶えずして」がある。それぞれいきましょう。


シンフォニア(1960)

 50年〜70年代といえば、日本はまさに12音技法の真っ只中であり、柴田はその最先端をゆく人物だった。これは純粋な交響曲というものではないが、シェーンベルクあたりの最良の模倣ともいえる。10分ほどの音楽だが内容は濃く、アレグロ〜アダージョ〜アレグロと、3部に別れているから、その意味で古典的な交響曲を模している。

 厳密に構成された幾何学的な音楽世界が心地よい。

 次の「ゆく河〜」よりは、私はずっと好きだなあ。


交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」(1975)

 「絶へずして」だったらいとをかしなのに、などとバカなことを思いつつ、1種類しかないfontecの録音を聞いてみる。

 昭和50年記念作品で、国家とか人間とか社会の讃歌を書かずに、柴田は日本の昭和50年間における西洋音楽の受容史のようなものを自分史とも重ね合わせ、アンソロジーとして描いた。

 時の流れは悠久なものにして、けしてあとには戻らない。人の出会い、生死もそうだろう、すべては泡沫のよう、というような、独特の厭世観というか、無常観を鴨長明へ託し、己の作曲技法のすべてを使った大作だ。

 1楽章から5楽章まででなる第1部は、アダージョの序奏〜古典派初期の様式によるアレグロ〜昭和歌謡史によるスケルツォ〜ロマン派のスタイルによる緩徐楽章(青春の想い出。)〜12音による大戦後の悲惨さと、調性による60年代の即興、が書かれている。

 6〜8楽章による第2部においては、いよいよ方丈記がカノンやシュプレッヒシュティンメによって歌われ、語られるが、7楽章は観客の眼の前で歌ったりするシアターピース式であるとのことで、CDではイマイチだが、音だけ聞いてもまあそれなりに楽しめる。最後に音楽は冒頭へ回帰し、静かに閉じる。
 
 第1部と第2部の模様がずいぶん乖離していると感じるのだが、それが不安定さを現しているのかもしれない。昭和50年はつまり1975年。80年代より徐々に調性音楽が回帰する前の最後の前衛時代の大作にも思える。そうなると武満の絵巻物形式のような1楽章冒頭へ音楽が回帰する様式は、大きな日本音楽界の調性〜12音〜調性という回帰の流れを先取りしているとも考えることができる。

 それはつまり時の流れへ人間世界の悠久と無常と大いなる繰り返しを感じた、鴨長明の世界に、通じている。
 
 と、うまくまとまったところで(?)おしまい。




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