12/ 19

伊福部昭:ピアノリダクション版「ラウダ・コンチェルタータ」 ピアノ組曲 日本狂詩曲 北海道賛歌
ピアノ:川上敦子/マリンバ:高田みどり/メゾソプラノ:金子美香

 本年9月に発売になったものだが、年末にようやく聴く運びとなった。聴く前から多大な期待を抱いていたが、期待以上の感銘と感動があった。特に北海道賛歌は幻の曲となっていただけに、ピアノ伴奏版とはいえ歌詞も4番までフル収録で全容が明らかになったのは、意義がある。

 まずピアノ伴奏版のラウダだが、これは作曲者の編曲ではなく、東京音大時代の1番弟子である永瀬博彦氏が担当している。自分は何を思っていたのか、このピアノリダクション版というのを、マリンバもピアノにした2台のピアノのための曲と思っていて、マリンバがそのままだったのでやや不思議な感じを受けた。ピアノ伴奏版のマリンバコンチェルトというわけだが、意外とそれは多くこの世にあって、馴染みはある。やはり当世はコンチェルトといえども現代曲はカネがかかるため、なかなかオーケストラで演奏されず、ピアノ伴奏版を作っておくと、演奏されやすい。ましてマリンバ(木琴)などという、一般にはまだマイナーな楽器では尚更だろう。

 しかし、ただでさえ分厚いオーケストレーションの伊福部曲をおいそれとピアノにするのは難しい。下記するが、作曲者自身の編はこれは見事なもので、ピアノからオーケストラが聴こえてくる。
 
 ラウダは、オケは特に大規模というのではないのだが、なにせ響きが重厚で、冒頭のヴァイオリンの雄大きわまる主題が切々と鳴り出すだけで 「キターーー!!」 というほどだが、そこはスコア的にはヴァイオリンがユニゾンで弾いているだけで、逆に見事な音楽だが、それを単にピアノの単音でポーンポーンと弾いてもねw 

 なんというか ズコー! というか(^^;
  
 従ってまだ自分はピアノ版とオケ版では別モノとして聴くのに時間がかかるといったところ。

 演奏は、ピアノは硬質で心地良く響き、マリンバもピアノに合わせて、あまり厚くしていないように聴こえた。本曲は、元はシロフォン協奏曲で、ソリストの諸事情でお蔵入りになっていたところをマリンバに直した経緯があり、和音は奏者のオプションのようになっている部分があって、本来はスッキリした味わいなのだそうで、そっちのやり方で演奏しているようにも聴こえた。

 ちなみにシロフォンとマリンバは、同じ木琴だが本質的に異なる楽器で、マリンバのほうがオクターヴ広く演奏でき(つまり楽器がデカイ)、共鳴管も大きくて深い響きになる。シロフォンは共鳴管は短く、鍵盤も薄くて硬質でとても乾いた音が鳴る。どっちも木琴なので、木琴奏者はどっちも普通に演奏できるが、マリンバはボロンボロンというニュアンスの音が鳴り、シロフォンはカキンカキンという感じで、明確に用途や効果が異なる。
 
 次にピアノ組曲を。

 伊福部が、川上敦子のピアノ組曲の演奏をたいそう褒めて、川上と最晩年の伊福部との交流が始まったのだという。ピアノ組曲の録音は何種類かあるが、全員女性ピアニストというのが不思議な現象。しかし、この音楽はむしろ男性にウケ、シューマンアだ、モーツァルトだ、シューベルトだ、ドビュッシーだをやる人、聴く人(特に女性)にはウケが悪い。

 はずなのに、市販CDで録音に残っているのは全員女性という怪。

 堀陽子
 滝澤三枝子
 萱原祐子
 山田令子
 遠藤郁子
 川上敦子

 自分が所持しているのでは、この6人で、川上は2回目の録音。みなさん、うまいし、テンポや力感、なによりピアノの表現がまちまちで面白いが、川上と山田は硬質でパワフルな演奏が印象に残る。特にペダルを使わないで、音がしっかりと止まる演奏は、くっきりと音楽の輪郭が際立ち、聴きやすいし、情緒に流れず、時に行き過ぎたジャポニズムに溺れてしまいがちなこの音楽を引き締めていて非常に好感がもてる。盆踊りのテンポは、もう少しペザンテでも良かった。指示が「アレグロ」なのでつい快速になりがちだが、本来はペザンテ気味なのだそうだ。(アレグロも本当は快活に、であって、快速に、ではない)

 七夕も普通はお涙頂戴になるところだが、音の美しさのみが表現されている好演奏だった。この曲で感傷は逆に音楽の魅力を削る。残る2曲はリズム感が大事だが、急いだりもたったりすること無く、澱みない演奏がとても心地良い。

 日本狂詩曲のピアノ独奏版は、賛否あるだろう。

 ただでさえ巨大編成に打楽器9人の曲を、ピアノ独奏にするのはどうしても表現に限界と問題を孕んでいるからだが、しかし、本当にムリなら伊福部は平気で断る作曲家だ。それがこのように自分で編曲したのは、表現に限界も問題も無いと判断したからに他ならない。そもそも、日本狂詩曲を師・チェレプニンがスコアの初見でいきなりピアノで弾き出し、それがまたうまくて若き伊福部はド肝を抜かれたというエピソードを考えても、日本狂詩曲のピアノ版は、伊福部なりに思うところがあったと推察される。ただ、最晩年まで機会が無かっただけで。

 これは2004年に川上へ献呈され、初演も川上なので、自家薬籠中かと思いきや、そうは問屋が卸さない。
 
 やはり大編成管絃楽の日本狂詩曲を、ピアノ1台で表現するのは至難だ。

 初録音の演奏は、いかにしてオケの味わいをピアノで出すかに腐心したのか、何か逆効果でチグハグになっている嫌いがあったが、今回はさらに逆の発送でこれは最初からピアノ独奏曲であり、オケの表現とはまったく異なるとふまえて、むしろオケ版の日本狂詩曲の原曲なんだというくらいに自由に演奏しているのが、演奏効果を高めるのに成功しておりとても面白い。
 
 そうなると、ツギハギのようにセレクトされた旋律が素直に耳に届いてくるし、オケでは聴こえない内声部も際立つ。なるほどこれが、伊福部が聴いてほしかった日本狂詩曲のエッセンスなのかと想いを馳せて楽しめる。オケの日本狂詩曲は、打楽器の多用も含めてカオスな表現をこそ聴いてほしかったらしいのだが、後年の伊福部はそういうのを 「若気の至り」 などと表現する事もあったので、いろいろ考えていたのだろう

 これは、さすがの名編曲だし、演奏も硬く力感がありどっしりといて、繊細な部分もよわっちくなく、凛として頼もしい。生命力がある。これぞ伊福部。また非情緒的とも自分には聴こえるドライな表現もむしろ音楽を活かしている。ドライすぎて都会的になるのは伊福部としては難だが、そこまでは行っていないのは、音更在住の川上が、時は違えど伊福部と同じ風土に生きているからだろう。

 さて個人的に大本命で今アルバムの白眉なのが北海道賛歌。何をどう編曲したかは分からないが、編曲は東京音大時代の生徒である石丸基司氏。

 これはまともに録音が無く、演奏も地域限定でしかも昨今は滅多に歌われない、伊福部ファンにはレア中のレア曲で、こうして4番まで一気に録音されたのは福音とすらいえる。道民としても、まことにうれしい。どんな曲かも分からなかった。

 そして、これはさすがに重い(笑) 重厚すぎる。テンポも遅く、低音で、譜面が無いから何ともいえないが裏拍を多用し、合唱経験者等でなければ、かなり歌い辛いのではないか。少なくとも耳コピで歌うのは骨が折れそうだ。

 この曲はアンダンテ・グランディオーソ(Andante grandioso=壮大な/堂々としたアンダンテ(の速度で))の指示があるそうなのだが、60年に来たる北海道開拓百年祭で天皇皇后両陛下の御前で初披露し、北海道知事町村金吾(当時)の 「いつまでも歌い継がれる、普遍的な、壮大で重厚な」 賛歌を、という注文となれば、こうなるのは仕方ないというか、これこそ真の北海道賛歌であると云わざるを得ない。

 当世風ともなればえてしてポップ調の歌いやすいもの、親しみやすいものを作りがちだが、儀式で歌う賛歌ともなれば、格調高く、藝術的で、重厚なものが相応しい。北海道賛歌をポピュリズムから護り伝えてゆく義務と責務が、道民の伊福部ファンでありクラシックファンの我々にはあると感ずる。

 また、昔は、聴いたことがなかったので、この曲はオホーツクの海のような10分〜15分のカンタータかと思っていたが、普通の歌曲形式と知り、なんだやはりよくある校歌や市歌などと同じ部類か、などとも思ったが、4番までで7分を数え、賛歌に相応しい最重量級の「歌」だと実感できる。演奏も素晴らしい。メゾソプは大地をしっかりと踏みしめ、伴奏も負けていない。

 北海道賛歌をじっくりと聴いていると、しみじみと心に染み入る。自分は我が祖国が大好きなのだが、チェコ人が聴く我が祖国はこんな感じかと錯覚する。染み入りすぎて幽体離脱するようだ。

 願わくば次はオーケストラと合唱で、聴いてみたい。


12/13

 いやはや、このコーナーももう、滅亡寸前(笑)

 しかし意地でもやりますぞ。

 不気味社の夏のアルバムをようやく聴く。

 不気味社 音楽応用解析研究所 所長の八尋健生氏の編曲による、純音楽と、特撮からの編曲による伊福部昭の合唱もの。

 八尋和美/揃 洋子Pf /ヴォーカルアンサンブル津山
 伊福部昭(八尋健生 編曲):頌詩「オホーツクの海」〜合唱とピアノのための〜 SF合唱ファンタジー 〜伊福部昭作曲のSF映画音楽より〜
 2006年ライヴ
 
 オホーツクの海は元はストラヴィンスキーの詩篇交響曲と同じ編成であるヴァイオリンとヴィオラを除く3管編成の大オーケストラに混声合唱というステキな曲で、他に作曲者自身の編曲によるソプラノ独唱とファゴット、コントラバス、ピアノによる室内楽版がある。ここでは、不気味社において数々の名編曲をなし遂げている音応解所長八尋氏による、ピアノと混声合唱の為の編曲で届けられている。
 
 元々厚いオーケストレーションによる格別に重厚な音楽であり、作曲者の編曲でも、ピアノだけでは足りず、特に低音をファゴットとコントラバスで補強している。せめてピアノ2台は必要なところであろうが、ここは八尋氏の編曲技術が光る。歌詞のある部分の他に、ヴォカリーズにより、低音を補強。つまり 「器楽部を歌わせて」 いる。これは伊福部のオーケストラ曲ですら全て合唱で表現してしまう不気味社ならではの素晴らしいアイデアだった。

 冒頭の茫洋とした部分と、後半部に現れるホルンによる特徴的な音形を男声がゆったりと歌う部分は本当に感動的であった。ラストの圧巻の怒りも素晴らしい表現。ラストはこれくらいでないと、怒りが伝わらない。

 合唱も上々で、感情もこもり、やはりこの曲は独唱よりも合唱の方が断然に良い。私は伊福部の合唱曲ではこの曲が最も好きだし、オーケストラ伴奏付合唱曲(というか合唱付オーケストラ曲)でも、マーラーの8番に匹敵するくらい好きです。

 続いてSF合唱ファンタジー。

 2007年、所長とお会いし歓談する機会があった際、「実は昨年(2006年)このようなものを企画しまして……」 と、MDでこの音源を聴かせてもらったことがある。その際はじっくりとは聴けなかったのだが、一聴するだに、マハラモスラや、ムー帝国のマンダの歌が脳にこびりついてしまい、これはぜひとも不気味社でCDとすべきだ、と云った。

 それから5年。

 2012年に至り、ようやく日の目を見た。本当は夏に出ていたのだが、諸事情あって冬に聴いた。

 これは、SF交響ファンタジーに使われている合唱曲の元ネタを勉強するにも最適であり、伊福部の隠れた合唱の名曲を堪能するにも最適だ。マハラモスラ、聖なる泉、バラダギ神の歌、キングコングのテーマ曲など、SF交響ファンタジーでお馴染みのメロディーだが、本来は歌詞のある合唱曲である。特撮ファンやサントラファンは当然知っているだろうが、SF交響ファンタジーのみを聴いている人は、案外知らない。マンダの曲は特に交響ファンタジーに採用されなかったので、貴重。

 音楽はモスラ対ゴジラよりモスラの旅立ち−マハラモスラ−聖なる泉、大怪獣バランより婆羅陀魏山神、ゴジラVSメカゴジラより古代の子守唄、海底軍艦よりムー帝国亡歌、キングコング対ゴジラより巨大なる魔神、と続く。

 やはり白眉はマハラモスラと、ムー帝国のマンダ、最後のアーシーアナロイアセケーサモアイと豪快に歌われる魔神の歌である。

 ボーナストラックに 「水夫の小夜曲」 という、初代ゴジラに出てくる小曲が、指揮の八尋和美によるハーモニカ、伊福部作品の演奏には定評のある哘崎考宏のギターで納められている。

 ちなみに所長のアーシーアナロイアセケーサモアイに対するこだわりは、こちらのページで。 


9/30

 テンシュテットのマーラーで、前にDVDで出た8番の録音が、CDになったというので聴いた。

 テンシュテット/ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
 マーラー:第8交響曲

 1991年、1月27日、ロイヤルフェスティバルホールでのライヴ録音。圧倒的な迫力で第1楽章から迫ってくる。DVDを観た人は分かるだろうが、テンシュテットの指揮はかなり分かりづらく、ただ単にテンポをとるというよりは、音楽全体を練り上げて行くような、(ただし、細かい指示は常に入る)壮絶なもの。合唱用に副指揮がいて、テンシュテットを見ながら懸命に合唱の遠い部分へ指示を与えていた。したがって、「ライヴならではの細かい瑕疵」 などというものは、よくぞこのていどで収まっているというべきもの。

 それくらいオケと合唱の集中力が凄まじい。

 特に1楽章は濃密で、エキセントリックな表現もあり、マーラー藝術の醍醐味の1つである豪華さ、豪勢さの究極の発露である8番の醍醐味をストレートにつっこんできてくれる。これは、8番ではなければ味わえない。2番だ3番だでは、けっして到達できない熟成と成熟の極みがあって、とてつもない高みに連れ去られる。

 マーラーの8番が苦手な人は、やはり2楽章が、長い上にほとんどカンタータなので、なんとも陣容が掴みづらいというのがあるだろうが、そもそもマーラーそのものが苦手だったり、「こんなの交響曲じゃなーい」 とかいうレベルなので、8番の凄さや魅力を伝えるのは、なかなか難しい。自分も、8番はやはり、苦手な部類だった。今では大好きだが。2、6、大地がマーラーの中では好きな曲だったが、それはそれで今でも好きだが、7、8がやはりマーラーの中でも傑作の部類であると感じるようになっている。

 ちなみに9番は別格である。

 2楽章は当初はゆっくりとしたテンポでテンシュテットはじっくりと聴かせて行く。1楽章も全体としてはややゆっくりめだったが、2楽章はフレーズをちゃんと聴かせて行く。ここは、やはりカンタータ形式なので、歌が重視される。特に、3人の女の贖罪の歌の遅さは凄い。ここをここまで遅くするかね。

 最後の昇天の部分、最高にピアニッシモから、最高にフォルテッシモまでの、この強力な磁場!! テンシュテットの上昇気流、光の力! 音楽が天国へ立体的に聴衆を導くなんて、マーラー以外に誰がやってしまうのだろう!!

 それをただの音楽としてではなく、マーラーの意図まで再現してしまうテンシュテット!! 最高のマーラー指揮車の1人!!

 マーラーの8番は、この世で望みうる最高の到達点といえる。この8番を経た後のマーラーの交響曲世界は、つまり、もう別世界に逝ってしまっている。

 ★5つ。前にDVDで感動したのとはまた違った感動がありますね。


9/9

 テンシュテットのマーラーの3番の正規ライヴ盤。

 テンシュテット/ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
 マーラー:第3交響曲

 1986年10月5日のライヴ録音で、以前にCD-R盤で出ていたものと恐らく同じ音源。BBCからのCD化なので、録音状態はかなり良い。また、なぜかMEMORIESから3、4、5、6、7の選集で出たものとも同じ。けっきょく買ってしまったという。

 あまり奇をてらったものではなく、どちらかというとストレートな、スタンダードな、 「歌」 を重視したいかにも3番らしい演奏。1、2、3番って、やっぱりホモフォニー的な面白さが重視されていて、あまり和声や構造がどうのこうのと言われても、なかなか一般の聞き手には難しいかと。

 1楽章はそれでも、かなり大仰なソナタ形式が鑑賞の対象になるだろうが、2楽章以降はもう、大規模な歌曲を聴いているのと同じ。3楽章は特に向かい頃の習作歌曲とのつながりかあって、旋律が楽しい。やや、長いとも感じられるが……ポストホルン(演奏では主にトランペット)のなんとも物憂げで、郷愁を誘う音楽も良い。テンシュテットの歌い回しは、ドイツの正統を告げる。

 まして、4、5楽章は管絃楽伴奏付の歌曲であったりして、もう、まさに、歌を聴く他は無い。4楽章のしっとり感、艶っぽさ、悠久感、テンシュテットらしい演出だが、けして甘くない。5楽章は、妙に緊張感があるw
 
 6楽章は、声楽こそ無いが、ベタベタの愛の讃歌であり、9番の終楽章へ通じる特大のアダージョであり、しかも、珍しくストレートな幸福感のある感情表現である。マーラーも若いころは、素直に音楽へ希望を見いだしていたのだろうか。

 テンシュテットはここも、やや遅めのテンポでじっくりと音符を積み上げてゆくが、直球勝負で歌いあげる。固まりとしてとらえ、ひっぱって行く。声部の分析とか、アンサンブルの妙味とか、そういうタイプではない。ましてライヴだし。

 結局は好みの問題となってしまうのだが、テンシュテットのマーラーにはマーラー表現の1つの終着点と、究極があると断言できる演奏。★はもちろん5つ。


8/12

 既発売の、テンシュテットのマーラーを買ったので、聴きました。

 久しぶりにこういうの聴くな(笑)

 テンシュテット/ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
 マーラー:第2交響曲

 テンシュテット晩年の1989年のライヴ録音で、発売時にはとかくその演奏時間の長さ(トータル約94分)とスケールの大きさが話題となったが、確かに、こりゃクレンペラーを彷彿とさせる雄大な表現じゃわい。

 長い(遅い)ったって、この曲はまともな演奏でも速くて80分弱、だいたい85〜87分ていどだから、数分しか違わないのだが、やはりクレンペラーと同じ原理で、フレーズの1つ1つが少しずつ息が長いので、全体でかなり大きく引き延ばされて聴こえる。

 1楽章からそれは顕著で、聴く人によってはかなり遅く聴こえるだろう。しかし、劇的な部分は一気に進むし、全体のタイムは実はあまり他の演奏と分からない。それなのにこの巨大な感じはなんだろう。

 2楽章はじっさい、遅いと思う。それでも、じっくりと歌いきっているのが素晴らしいし嬉しい。やはりテンシュテットは別格と云える。この人のマーラーはもう、別格だ。

 3楽章は最初こそ激しいが、後の展開は意外や平安的な歌い回し。これは、かつての北ドイツ放送響との地獄の底での説教みたいな演奏の印象があるからか。もちろん、そのような狂気的な演奏も面白いが、こういう元々歌曲だったというのを彷彿とさせる技術的に巧みなフレージングの妙は、例えようも無い耳福の境地である。後半の追い上げも良い。

 4楽章はしっかりとした太い歌唱で、存在感がある。ここを線が細くナヨっている演奏が好きな人もいるだろうが、西洋音楽の本質としては、こういうガッシリとした声がいい。

 白眉は5楽章。ただでさえ長くて聴かせるのに工夫のいる5楽章(笑) 38分とはどういう了見か。冒頭からアレグロまでの長い道のり。そして、正邪入り交じる、怒濤の地獄の行進。それが地獄の釜の底が抜けた崩壊の嵐で終了。トロンボーンからのコラールに、舞台裏のバンダが虚無的に響く。地獄の向こうに落ちた人々の絶叫である。そこでもう一度劇壁の崩壊が起きて、今度こそ天からの声が降り注ぐ。これは救いの声か。ただの鳥の声か。

 合唱が入ってからは、実にゆっくり。これでもかとゆっくり。じっくり。オケ止まっちまうよ(笑) 

 2節目の合唱からは、やや動きがある。そしてラストの大合唱の凄まじさはなんだ。こりゃ8番か。2番ってこんなにとんでもない威容の音楽だったか。

 こりゃスゴイや。嵐のようなロンドンの客の拍手。

 このようにまるでオペラのようにストーリーが進行する(ように聴こえる)マーラーの音楽を、その手腕でぐいぐいとひっぱって行くテンシュテットの指揮。別格の別格たる所以。ただ譜面通りにきれいにならしても、マーラーはちゃんと面白く聴けるが(マーラーがそのように書いている)、そこに当然のように構成力をぶち込んでくる流石。

 これは完全に★5つ。気絶級の
でもいいが、★5つにしておこう。


7/22

 知らぬ間に、佐村河内の室内楽のアルバムが出ていたのであった。

 佐村河内守
 無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ
 ヴァイオリンのためのソナチネ
 絃楽四重奏曲第1番
 絃楽四重奏曲第2番
 大谷康子vn 藤井一興pf 大谷康子絃楽四重奏団

 佐村河内の第1交響曲ではまずまずクラシック界を風靡したさすがの日本コロムビアも、大規模な管絃楽作品を連続で録音するほどのご時世でもない。2弾目は室内楽作品集となった。それでもこうして連続で出るのだから、有難い話である。

 1番交響曲より、佐村河内の作風は基本調性で、ド調性というわけでもないが、その中に現代的な精神性の発露としてささやかな現代技法が導入される。その意味で、前衛的な作曲技法がまず優先される作曲賞にノミネートされるはずもない。しかしそれは、精神的表現として、やはり前衛であり、現代的表現であろう。

 シャコンヌは、尊敬するバッハへのオマージュに溢れているものの、20分という長さを感じさせない。少なくとも私はバッハで20分も耐えられない。色々な意味で。バロックに馴染みがないのもあるし、凄すぎて魂が抜けてしまうからというのもある。バッハにハマると死ねる。

 そこにはやはり同時代人としての感性がそれを馴染みやすくしている。ここには、少なくともこれに感動し共感する人は西洋音楽の偉大な技法を借りた現代の魂の連結を感じるはずである。それが、日本人かどうかというのは、そうかもしれないし関係ないかもしれない。その名の通りテンポの遅い変奏曲であり、前半は擬古典形式の調性ものだが、拍子は複雑で、なんの違和感も無く鬼のように転調を繰り返し、後半からベルクっぽくなったり、無調っぽくなったりして、大きくドラマを作り上げ、そして前半の調子に戻り、唐突に集結する。

 ピアノ伴奏を伴うヴァイオリンのためのソナチネは、佐村河内の弟子であるという手に障碍をもった子のために書かれたもので、コンクール用にそれなりの難易度を求め、かつ子供でも引けるように作曲されている。8分ほどの音楽で、大変に聴きやすいもの。小さなソナタ形式であり、むしろド調性と云って良い。しかし、そこらの妙なムードミュージックのような甘さは無く、実にキリキリしている。つまり厳しい風が吹き抜ける。哀調ですらある。小学生にこんな曲を書いてやる佐村河内の本気を見た。

 佐村河内の音楽は3を基調とし、交響曲も絃楽四重奏曲も3楽章制で、3番まであるのだそうだ。

 交響曲は手加減なしで1曲70分だが、絃楽四重奏はやや短い。しかし、それでもそれぞれ30分はあり、特に2番は今アルバムに収録のため全面改訂されて短くなった。(そのため、絃楽四重奏曲3番が生まれた。)

 テーマは、1・2番共に慈愛であるという。

 第1四重奏曲。第1楽章は武満の絃楽合奏も彷彿とさせる。佐村河内の作曲技法はテーマ(主題)を徹底して、作者曰く 「骨までしゃぶり尽くす」 ほどに使い倒すことにある。ありとあらゆる変奏、変容。音列ではないだけで、ベルクやヴェーベルンにも相当する分解と再組み立て。1楽章はアダージェット・クワジ・アンダンテであり、ゆったりとした中にもテーマの徹底的な使い倒しが聴かれるが、響き自体はけして後期ロマン派から逸脱していない。現代の後期ロマン派であり、20世紀のネオロマンとも異なる。21世紀ロマンとでもいうべきものだが、激しい苦悩と祈りに満ちている点で、現代社会に生きる構図をかいま見れる。
 
 2楽章はグラーヴェ。ますます、暗く重い(^ω^; やおらショスタコばりのアレグロが差し挟まれるも、やはり狂気的というより、苦悩の中にありながらも優しい。それはショスタコのような人非人的な虚無ではなく、佐村河内の人の心だろう。アダージョからラストには60年代風の表現的手法も現れる。
 
 アンダンテ・トランクィロの3楽章。構造としては2楽章に似ている。ゆったりとした序奏から、激しいアレグロ。ここも、理知的ながらも、情熱的で、けして突破するようなものではなく、歌心が底辺にあって、あくまで優しい。優しさに溢れている。

 2番に到っても、アダージョ楽章がメインに来る。

 アダージョ・モルトの第1楽章。シャコンヌにも通ずる哀愁溢れるテーマが切々と流れる。それが切々と変奏されて行く(笑) 切々と。切々とである。一切の妥協が無い。誰がなんと言おうと切々と流れ行く。悠久の流れの果てに見えるのは何だろうか。センチメンタリズムに陥る寸前の情緒。これはペッテションに通じる悲歌である。が、ペッテションほどは絶望しきっていない。

 2楽章「コラール」アダージョ・モルト・トランクィロ。1楽章から引き継がれた主題が、変形されて流される。調子がやや明るい。まさに光が降り注ぐといった心象が与えられる。祈りと慈愛が想起される。やはりコラールはそう聴こえてしまうのであった。執拗に繰り返される主題と変奏。ここは、かなりメロディアスだが、緊張感を失っていない。詳しくないが和声に工夫があるからではないか。旋律は完全にメロディアスだが、響きがまったく弛緩しない。

 3楽章は5分強と、1・2楽章の半分ほどの規模。グラツィオーソ−コーダ・アンダンテ。アレグロでもの悲しい旋律が、擬古典的に示される。まさに後期ロマン派。そこからフガートになり、変奏されて行く。あくまで、佐村河内の興味の内は西洋音楽の基礎中の基礎、主題と変奏なのだと分かる。テンポを落とし、アンダンテへ。主題の展開は続く。変奏は突飛なものではなく、充分に関連づけが分かる程度なので、マーラーとかシュトラウスとか好きな人にはやや物足りないかもしれないが、そこがまた奥ゆかしい日本人的な部分かもしれない。

 今アルバムは前作の交響曲第1番よりも、かなり深い出来であると推察する。


7/1

 ヤマカズ作品集をやっと聴く。

 山田和男(一雄):
 大管弦楽のための小交響詩『若者のうたへる歌』
 交響組曲『呪縛』
 もう直き春になるだらう
 日本の歌
 おほむたから
 大管弦楽のための交響的『木曾』
 田中良和(指揮)/オーケストラ・ニッポニカ/山田英津子(ソプラノ)

 ヤマカズが作曲もしていたというのは、ここのところにきてようやく広まってきた感がある。ナクソスでは、発売のめどが立たず、ニッポニカのライヴ盤が先になった。色々と面白い曲や、良い曲もあるが、やはりオーケストレーションや展開が半分素人な部分もあって興味深い。

 まず12分ほどの交響詩「若者のうたへる歌」だが、歌曲か何かかと思ったら、純粋なオーケストラ曲。作者25歳の、まさに自らの作曲家決意宣言のような、若々しい音楽。マーラー信奉者らしく、タイトルからしてマーラーの「さすらう若者の歌」へのリスペクトにも感じられる。内容もマーラー(や、リヒャルト・シュトラウスあたりの)の技法をかなり参考にしている。さまざまな動機が同時に変形、変容しつつ、一本筋が通っている。しかも、オーケストラは、どこまでも厚く、聴き辛い部分も含めてそのもどかしさも効果。和風なアクセントもヤマカズらしい風合い。この規模なら立派な交響詩だが、マーラー、シュトラウス流儀で「小」としている意気も高揚する。最後に現れるサックスの官能的な響きもフランス風で良い。

 呪縛というのは、貝谷百合子バレエ団の委嘱によるインドを題材にしたバレー音楽。それからの組曲で、4曲からなり、17分ほど。非常に分かりやすい楽想とリズムで聴きやすいが、深みは無い。踊りの伴奏に深みなど必要もないかもしれないが、やはり組曲(管絃楽曲コンサートピース)としても残るには、音楽が踊りを凌駕せねば。2楽章でソプラノ独奏があるのも再演率を下げる(笑)

 もう直き春になるだらう は純粋な歌曲で、3分ほど。ピアノ伴奏で聴いたことがあるような無いような。高名な歌らしい。初演は7重奏(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、絃バス、クラリネット、ファゴット、ホルン)で、録音のオーケストラ伴奏は山田自身による。これがまたマーラーぽい(笑) どこがどうマーラーっぽいというとうまく言えないが……子供のふしぎな角笛に通じるものがあるような気がするw 管楽器の使い方や、管との絶妙なカラミ方が。気のせいかな? あるいは、フランス風のしゃれた雰囲気か。

 歌曲、あるいは小規模なカンタータである日本の歌は戦前のよくある戦意高揚、皇国賛美ものだが、音楽として真面目に作られているので鑑賞のし応えがある。山田は戦後も当曲を改訂し、1959年に決定稿をあげた。冒頭よりいかにもジャポニズム。和歌調の格調高い歌詞にうまく音楽がついてゆく。

 そして今アルバムの白眉にして、山田最高傑作、怪作、珍作がこの「おほむたから」。意味は大御宝で、天皇から見た臣民、国民を表しており、同じく、戦争末期の国威発揚音楽だが、中身は一筋縄ではない。なんといっても、あからさまな和の楽想に、これもあからさまにまざまざと刻まれた、マーラー5番、1楽章・2楽章のパロディ。パロディの名人マーラーへの完全なるオマージュ。リスペクト。大東亜戦争への葬送行進曲。しかも天台宗の声明まで引用されているという。これは委嘱した朝日新聞(笑)へのあてこすりか。戦争への決別か。犠牲者への祈りか。
これは立派な反戦争音楽であろう。

 逆に、なんとも煮え切らないのが最後の交響敵「木曽」。若書きではあり、外山のラプソディーにも影響を与えたという、重要な曲ではあるが、なんといっても構成が弱い。そもそも、民謡を主題にした音楽というのは、西洋音楽の王道たる変奏曲形式にしなくては、短い。それは洋の東西を問わないと思う。キルギスの民謡だろうが、アゼルバイジャン、ノルマンディーだろうが、日本だろうが、民謡というのは主題しかなく、その主題を繰り返すか、メドレーにするか、民謡を主題とする変奏曲にしなくては間がもたない。たいてい、○○の民謡による交響的ナントカとか、○○の民謡の主題による序曲とかになっているのはそのため。

 そこで木曽は2部形式で、複数の民謡を取り上げている一種のメドレー形式だが、なんとも長い。15分もある。半分、あるいは2/3ほどで良かった。楽想は良いが、構成がちと弱い。同じくメドレー形式のラプソディーが(アンコール用なのもあるが)6分ほどになっているのには理由がある。


6/14

 ナクソスのNHK「現代の音楽」アーカイヴシリーズで、さいしょになぜ松平頼暁を買ったかというと、マリンバ協奏曲の「オシレーション」を聴きたかったからである。フォンテックのものは長く廃盤であるので。しかも、こちらは初演。

 NHK「現代の音楽」アーカイヴシリーズ
 松平頼暁
 室内オーケストラのための「コンフィギュレーション I 」
 弦楽四重奏とリング・モジュールのための「分布」
 コンボのための「オルタネーション」
 マリンバとオーケストラのための「オシレーション」
 テープのための「アッセンブリッジス」
 (各曲奏者割愛)

 いやあ、久しぶりにこんなゴリゴリの60年代、70年代のゲンダイオンガクを聴きましたわ(笑) 面白いけど、カネだして会場まで聴きに行くかったら、2012年ではよほどのマニア以外、行かないでしょうね。面白いんですけどね。音楽として面白いかと云われれば、どうだろう。響き、すわなち音響として面白いが、これは音楽なのかという命題が、作曲から50年たって、ようやくまともに問われ始めてきているのではないか。

 なんてったって、当時は、こういうのが理解できなかったら音楽ファン失格みたいな空気があって、みな一般聴衆、若者がこういうのを聴きに大挙していたというのだから、おそれいりやの鬼子母神である。

 コンフィギュレーションはいかにも偶発性のゲンダイオンガクで、松平独自の理論に基づくが、聴いている客にはハアーサッパリサッパリ。それでもよく考えられているからか、7分という時間は感じさせない。

 分布はそもそもリング・モジュールってなんじゃらほい、であり、シュトックハウゼンあたりの得意の手法も、いまや誰も使わなくなってしまった。そりゃねえ、当時の最新鋭の機械も、いまや動体機がひとつもない、じゃ、再現の仕様もない。残された録音を聞くのみ。しかし、こういう音響ものは会場で聴かないと、立体音響は真価は分からず、なんともはや。

 オルタネーションは面白かった。パロディ手法も生き生きとして、ユーモアもあり、小難しいゲンダイオンガクも楽しく聴けるね。ただこの、やはり、エレクトロニクスが、現代ではどんなソフトで再現するのか。

 やはり、生き残るのは生楽器だけなんですよ。テープとか、当時のシンセサイザーとか、残らないもの。むしろ、オンドマルトノが残っているのが、あれはまだ半分生楽器だからだろう。

 そして、松平最高傑作と誉れの高いオシレーション。14分ほどのマリンバ協奏曲だが、これはかなり面白い。オーケストラが合成音響を再現する試みは、やはり再演しやすいし、残るでしょうね。初演のマリンバ奏者・高橋美智子で、何回か再演しているはずです。マリンバは独自のリズム理論でオスティナートを繰り返し、思っているよりずっと旋律的。3群に別れた伴奏のオーケストラは、絶妙にズレた音程とリズムでヘテロフォニーを作る。音響としては見事だが、演奏する方はかなり「気持ち悪い」みたいで、尾高賞を受賞後、N響での再演時にN響団員が演奏を拒否したのだとか(笑) 曰く「こんな曲やってられるか」 

 テープ音楽は、わけわからん(爆) テープなんかもうのこってねえし。当時は真面目に音響変調で新しい試みだったが、今となってはただの雑音にすぎないヨ。電子音楽、テープ音楽は時代に「敗北」したと思う。いま、こんなもの放送したら放送事故だ(笑)


6/7

 マニアックな音源をコピーしていただいた。

 知る人ぞ知る、大木正夫のグランドカンタータ「人間をかえせ」1と2である。

 大木正夫といえば、ナクソスの第5交響曲の凄惨な響きで衝撃的な印象を与えてくれたが、そこで解説にも書いてあるのがこのカンタータ「人間をかえせ」で、まさに、大木の最高傑作なのではないか。

 LPになっていたのは知ってる人は多いが、CDになったのはあまり知っている人はいないという。規模が大きく、カンタータ1、2共に45分の大作で、合わせて90分にもなる膨大なカンタータだ。

 大木正夫:グランドカンタータ 人間をかえせ I  人間をかえせ II  (峠三吉:詩 「原爆詩集」より)
 東京労音委嘱作品
 佐藤菊夫/東京交響楽団 他

 グランドカンタータ「人間をかえせ I 」

 序   人間をかえせ
 第1章 八月六日・死
 第2章 仮繃帯所にて
 第3章 眼
 第4章 ちいさい子
 第5章 呼びかけ
 終 曲 人間をかえせ

 時代がリベラル全盛だったとはいえ、これほどの規模の邦人作品をセッション録音とは恐れ入る。いまとなっては音質は悪いが、逆に生々しい。音楽は第5交響曲の方向と同じで、現代音楽的な激しい曲に、シュプレッヒシュティンメや、激しい歌唱法で絶叫にも等しい独唱が悲劇を歌う。

 それでも、全体に無調もある調性というかんじで、合唱は分かりやすく音楽をするので、5番交響曲より聴きやすい。また詩がなんともリアルな描写だ。忘れてはいけない歴史はある。どう頑張って考えても、日本への原爆投下は必要のない攻撃なのは明らかで、サヨクだろうがウヨクだろうが、これを語るのは間違いではないし、アメリカへその罪の意識を想起させるべく活動するのも必要だろう。(私が憤るのは、その意識が日本が悪いので原爆を投下されました仕方がありません恨むなら日本を恨め、という、すりかえの手法である)

 こういう音楽を、右派の人も避けては通れない。黛のカンタータ「なぜ憲法は改正されなくてはいけないのか」は、好奇心以外の興味は無いが(笑) これは聴かなくてはならない。マニアック音源のママになっているのは勿体ないし残念である。

 しかし、いまとなっては描写はリアルすぎるし、感傷的に感じるかもしれない。当時はこれで良かった。このままが現実だったのだから。何回も云うが、現代では こうの史代/夕凪の街・桜の国 の語り口、切り口の方がとっつきやすいだろう。


 グランドカンタータ「人間をかえせ II 」

 人間をかえせの成功に伴い、2年後の1963に再び東京労音が委嘱。前作とはうって変わって、戦後20年を経た広島人民の力強い復活の様子を明るく歌い上げる。

 4楽章制で、交響曲的な作りにもなっている。明確にソビエト社会主義音楽の影響を受けている。4楽章で45分という、これも大作だ。

 第1楽章 宣言
 第2楽章 墓標
 第3楽章 朝
 第4楽章 足音

 1楽章は序奏というか、オーケストラのみでまさにショスタコーヴィチふうのアレグロで明るく、かつ諧謔的な味付けもされながら進む。ここに不協和音も衝撃的な音響も無い。あるのは復興と明るい未来への意志の行進のみ。(トイウカ、コレハモウショスタコダロ)

 2楽章、墓標では20年前の惨劇を振り返る。ここはさすがに雰囲気が暗い。全体にアダージョ楽章で、祈りの鎮魂歌。バリトン独唱に導かれ、合唱が悲劇的な死を迎え、忘れ去られようとしている被災児童たちを歌う。

 3楽章は合唱かメインで、未来を見る。その中にも、しっかりと原爆の傷は消えない。若干、余韻は平安な響きに移る。これも緩徐楽章である。

 そして終楽章、モソーロフばりの重厚な進撃。金管が吠え、ティンパニが鳴るぜ! やがて楽しげなアレグロになり、また重々しいテーマと入れ代わる。重なる唄。合唱と独唱は、全てヴォカリーズである。明るいアレグロが、希望のハミングを彩る。アレグロから、感動的な讃歌。光り輝き、希望と夢のある未来に満ちた、明日への。そして、バリトンによる(笑) ♪ランラララーラ のスキップ。児童合唱もかわいらしい。冒頭の進撃に戻り、大団円。


 さ、それから50年たった。

 半世紀たった。

 世界は、どうなっているだろうか。夢と希望にあふれているだろうか。戦争は無くなっているだろうか。子供たちは悲劇に巻きこまれていないだろうか。

 人間はまだかえってきてないね。


 1と2は連続して書かれてはいるが、別に同時に演奏するものではないようで、1が評判が良かったので、2年後の労音創立10周年に2を委嘱したという経緯である。確かに、90分これを聴き続けるのはかなり労力を要するだろう。1も2も、ショスタコーヴィチふうのイデーに貫かれ、辛辣と平易明朗が等しく扱われている。感動的な音楽と詩だが、時代の流れに消えてしまっているのは残念だ。

 しかし、レコードの解説も時代を感じる。当時のサヨクは今と違って単なる卑屈な反日ではなく、気合が入っていた。まさに革命闘士。なんてったって、平和を願う広島の
人民(笑)

 そんな広島の人民が、行幸された天皇陛下を焼け野原で万歳三唱で迎えたというのも、また皮肉なものである。

 お後がよろしいようで。


6/4

 いやはや、なんとか生きております。このコーナーは終わったわけではありません(^^;

 ほとんど新譜を聴く機会と時間が無くなってしまっているのが原因です。たまに、時々、昔買ったものを聴き直したりしてました。

 今回は、何年か前に買って放置していたフロラン・シュミットの作品集2枚を聴きました。

 フロラン・シュミット:詩篇第47番 組曲『形ばかりの組曲』  バレエ音楽『サロメの悲劇』
 ティエリー・フィッシャー/BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団&合唱団 他
 
 シュミットといえば、吹奏楽出身者には何といっても吹奏楽曲「デュオニソスの祭」。それ以外にもオーケストラ曲に凄いのがたくさんある。これを聴けば良く分かる1枚。

 ローマ大賞によるローマ留学の集大成であるという、舞台作品にしてカンタータ・詩篇47番。若書きで、後世の複雑怪奇さは少ないものの、トランペットのファンファーレ、明るい明朗な合唱部、神秘的なオーケストラと、飽きさせない。30分にもなる大曲だが、弛緩する部分は無く、聴き応えがある。録音も多く、お勧めの1曲。なにより、カッチョイイのよ。アニメのBGMにも充分に使える。

 その代わり、後のシュミットらしいウネウネ感は皆無。あくまで明瞭、明朗。

 続いて、不思議な名前の組曲。調べても何も情報でてこない(笑) どうも、元はピアノ組曲だったようである。5曲からなる。なんとも、ヒンデミットみたいな雰囲気。これがフロラン・シュミットかと云われれば、知らない人はわからないかもしれない。

 最後が高名なバレー音楽「サロメの悲劇」であるが、組曲版。原曲は1時間くらいあるので、よく録音されている30分のものは抜粋による組曲のようだ。恐らくシュミットの録音で最も多いのがこのサロメの悲劇。しかし、高名なワイルドの戯曲ではなく直接旧約聖書等からシナリオを編んでいるので、件の7つのヴェールの踊りとかは無いみたいである。

 30分にしても長いし、若いときの作品でけっこうドュッシーふうなところもあって、実はサロメの悲劇はそんなに好きではない。後半はかなり劇的で面白いが。
 
 演奏は3曲とも上手いと思う。

 続きまして。

 フロラン・シュミット:アントニーとクレオパトラ 幻影
 ジャック・メルシエ/ロレーヌ国立管弦楽団
 
 アントニーとクレオパトラはシェークスピアの戯曲で、それを元にした無言劇にシュミットが音楽をつけたもの。従って、劇付随音楽となる。ここでは初録音ながら、第1組曲3曲と第2組曲3曲の計6曲が続けて演奏される。と、いうことは本当はもっと長いんだろうな。それだけで45分になるのだが。

 1組1曲目は10分もかけるアントニウスとクレオパトラのテーマ。雄々しくも上品なアントニウスの音楽と、エキゾチックなクレオパトラの曲が面白く並んでいる。レスピーギのようなハデさは無いが、じわじわと隠微かつ美しく迫ってくる。

 2曲めは……なんなんでしょうねw 表記がフランス語ってのがミソだな。ポンペイのチャンピオン? なんか勇壮なファンファーレと戦闘の音楽っぽいですが。ちがうな、ポンペーのキャンプ。意味がわからないけど(^^;

 3曲めこそ戦闘の音楽っぽい。頑張って調べたら、アントニウスとクレオパトラの連合軍がオクタビアヌスに負けたアクチウムの戦いのようだ。激しい海戦の様子が表されている。

 2組1曲目は穏やかなアダージョ。エロくもあり、エキゾチックで、どこかドビュッシー的でもあって、いかにもフランス風。夜の宮殿の女王という音楽みたいだが、クレオパトラの事だろうね。

 2曲目、Orgie et danses っていうタイトルなのだが、Orgie をぐぐる翻訳にかけたら 
「乱交パーティー」 って出たんですけどwwww

 そうかこれは乱交シーンなのか(違)

 饗宴の踊り ぐらいが打倒かな。激しく、かつ官能的なシーンではあるが。いやあ、しかしシュミットうめえ。デュオニソスの祭のような雰囲気。いかにもって感じ。ここが白眉か。

 3曲目、クレオパトラの墓 は、重々しい、その通りの終曲。ワーグナーのような仰々しさは無く、あくまで浮遊感のある幻想的なもの。

 シュミットの純粋音楽のような難解さは少なく、かといってサロメの悲劇のような平易さも少ない。バランスの良い濃いい音楽。自分は、これはサロメの悲劇より好きだな。かなり面白いし、なにより組曲として秀逸。長いけど長さを感じさせない。火の鳥の全曲よりいい。

 あと、シュミットの秘曲「ミラージュ」が併録されている。無題の幻想曲みたいなものかしら。これはけっこう純音楽的。


3/12

BS放送録画

黛敏郎 歌劇「古事記」 大友直人/東京都交響楽団 他

 公演を観に行きたかったけど、やはり北海道からの遠征はいろいろ難しく断念。放送してくれて本当に有り難かったです。

 コレは黛自身が古事記を題材に脚本を書いたという、ドイツ語のオペラで、天地創造(w)、天岩戸隠れ、スサノヲの八岐大蛇退治、ニニギノミコトの天孫降臨の4幕から成る。ストーリーが分かりやすいし、何より西欧のオペラにありがちなグダグダな恋愛劇・クソ進展しねえアホストーリーが無いので、自分は鑑賞しやすかった。ドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」も古事記の前に放映されて、それも録画して先に観たが、とてもではないが40分で断念した。

 機械で録画ファイルを分断してルサルカは消したw

 かつでドイツで初演された後、日本では演奏会形式で初演されたのみで、舞台初演だそうな。

 しかし、オペラは金がかかる。マトモにやったら最低1億はくだらない。そのうち、いくら助成がもらえるだろう。チケット収入なんか、いくら高くても2日の公演で例えば平均10000円×1000人×2日で2000万。話にならないw

 なかなか、ひと口にオペラ上演といったって、これは大変な事です。
 
 それはそうと、歌劇の中身だが、2時間半ほどでもかなり急ぎ足。かつて芥川が構想していたという古事記のオペラ化を盟友の黛が成し遂げたかっこうだが、音楽は流石だが脚本はやや在り来りだった。これは、無理も無いところでもあるが。

 しかも、肝心のスサノヲの大蛇退治がなんと観衆(!?w)の説明セリフwww

 「見ろ!スサノヲが剣を突きたてた!」

 「大蛇が火を噴いた!」

 「ああ、危ない!」

 みたいな感じで合唱が歌うだけ(^^;)

 時間の関係か、演出の経費削減か、黛がわざとそうしたのか、分かりませんが残念でした(笑)

 その代わり、岩戸隠れのアメノウズメの踊りのシーンは短いけど良かった。

 このウズメの踊りは、西洋のサロメの7つのヴェールの踊りに匹敵する日本の誇るモティーフだと強く感じる。

 大栗の「神話」、伊福部の「わんぱく王子の大蛇退治」に続いて、黛の「古事記」でも聴くことができたが、面白いのはみんな変拍子。四角四面の、2拍子、3拍子、4拍子を西洋の象徴と考え、自然に反西洋になると変拍子に到るのだろう。

 ※伊福部はサロメとウズメと両方作曲してるのがすげえ。

 ダンサーの人も美人で良かったです。オペラはどうしても歌唱力が先にくるので、設定上若く美しい主人公をベテランが歌ったりするので(失礼)
 
 あと個人的には、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの3貴神誕生シーンにしか出てこなかったツクヨミノミコトが、一言のセリフ(歌)もなくカーテンコールにも登場しなかったのは、これも本当に神話に出番が無いので仕方がないが、なんか創作でもいいから出て欲しかったなあ、と思いました。ツクヨミのファンなのでw (もしかしてウズメとニニギをやったダンサーの高野美智子なのか?)
 
 ツクヨミは高名だけど本当に謎の多い不思議な神様です。古事記では男神だが、世界的に見ても太陽神が男で月神は女がスタンダードで日本は逆で珍しい。またツクヨミを女神とするものもあって、日月どっちも女神も珍しい。これは前に読んだ神道関係の本では、アマテラスはもともと男神で、太陽神の巫女が神格化されて女神になったという説があって、推古天皇の時代に日本初の女天皇の神格化を進めるために太陽神を女神にしたという説である。

 そのとき、もともと女神だったツクヨミを男神にしたが、女神だった名残もあるというもの。

 話がずれたが、オペラ「古事記」は日本ものの代表的な神話ものとして、日本よりもやはり外国で上演されてほしい。ワーグナーの指輪は規模や内容がでかすぎるだろうが、あれに匹敵する指輪の小型版(日本らしいw)としての位置づけが出来ると感じた。


1/24

 やっとこさ、ナクソスの橋本國彦作品集を聴く。

 湯浅卓雄/藝大フィルハーモニア/福島明也Bar

 橋本國彦:第2交響曲、3つの和讃、感傷的諧謔

 藝大フィルっててっきり学生オケかと思ったら、藝大の教官や講師等が集まった演奏技術・教育方法の研究機関としてのオケなんだそうで、ぜんぜんうめえのw

 しかし、半分裏話になるが、ナクソスのこの邦人シリーズはもうジリ貧だ。情けない事だが、なにせ売れないらしい。製作企画は完全に頓挫し、ナクソス主導ではたぶん数年に1回出ればいいほうで、この藝大企画のように外部で企画して(つまり、たぶん金を出してあるいは自主的に)やらないとコンスタントには進まないのではないか。

 そんな事情も垣間見えた象徴的なアルバムだった。

 しかも、内容も問題作である。あえて問題作と云いたい。

 交響曲2番は橋本國彦の交響曲のページにまとめたので簡潔な所感になるが、これが問題であるw

 橋本は相当、根が真面目だったと思う。1番では素直に国の要請、時代の空気を読んで帝国主義の国威発揚音楽を書き、そして2番ではGHQの無言の圧力、世論や時代の空気をまたもや読んでこの平安穏やかな、拍子抜けすら感じる、あからさまに天上典雅な音楽を書いた。新日本国憲法萬歳。

 これが、橋本が屈辱にまみれてイヤイヤ書いたのか、公職追放がトラウマになってここぞとムリをしたのか、それとも存外真面目に空気読んで張り切って書いたのかは分からない。普通の愛国者として真面目に仕事してたらいきなり政府がひっくり返って180度変更方針、自分は軍国主義者でクビである。そりゃ、真面目な人ほどトラウマだろう。次の新生日本への愛国者として、こんな曲を書いたのか。

 そんな感じで曲を聴くと、なんとも平安至極、御気楽極楽な音楽の中に、ひどく哀調の気持ちが沸き起こってくる。
 
 3つの和讃も死ぬ寸前の曲だが、当時、軍国主義への傾倒の反省として、相応の文化人が浄土真宗に帰依して反省の意を示すのが「流行った」という。

 そんなわけで、素直に親鸞聖人の和讃(仏教の徳を日本語=和語で称える声明の一種)を管絃楽伴奏にした。これまた平易極まりない調子だが、中身は薄くは無い。しっかり平安の御世を寿ぎ奉る……といった調子だが、果たして、それもどこまで素直に聞いてよいものやら……。3曲あり、1曲5分ほどの音楽だが、これもまたあからさまに浄土真宗への傾倒が、逆に不審すら覚える。

 感傷的諧謔は戦前の作で、15分を超えるスケルツォ的音楽。元は絃楽合奏のための曲の第2楽章だかだったようだ。やや長いのだが、ニッポニカのようにもっさりしておらず、まず演奏が良い。これなら、15分でも鑑賞に耐えられる。音楽的には、自分はちょっと何をしたいのか良く分からない嫌いがあるが(^^;)


1/8

 またぞろ市販CDではなくて恐縮だが、今回はFM放送音源のエアチェック録音を。(更新しないよりいいかなと思いまして。)

 吉松隆:マリンバ協奏曲「バードリズミクス」

 藤岡幸夫/東京フィルハーモニー交響楽団/三村奈々恵marimba L2011

 吉松隆は交響曲より協奏曲のほうが面白い曲を書くと思っているが、じっさい、コンチェルトはシンフォニーの倍の10曲目である。

 (ギター、ファゴット、トロンボーン、アルトサックス、ピアノ、尺八と20絃箏、チェロ、ソプラノサックス、左手ピアノ、そしてマリンバ)

 吉松は自分でも自覚しているようだが、オーケストラ曲にけっこう大曲嗜好があって、特にシンフォニーだのコンチェルトだのになると構えてしまって、長くなる傾向がある。そのくせ、構成ではなく旋律や響きや勢いで聴かせる作曲家なので、必然、ダラダラ長い(笑)

 マリンバ協奏曲は3楽章で26分あり、現代の協奏曲では長い方だろう。昔のロマン派の協奏曲では、30分も40分もなるようなものもあるが、それは構成力の賜物であって、ソナタ形式とかロンド形式とかを排した現代音楽では、そんなに長くなりようがない。つまり、ソロ付の狂詩曲に近く、10分とか、15分とかで、20分、25分、30分となると、自由形式ではかなり長大な部類だ。

 しかも、1楽章制が多い中、しっかり3楽章制にして来るのがまた、擬古典主義の吉松流。

 1楽章は鳥リズムの偶発的なサウンド。2楽章は熱帯のゆったりした空気を表す緩徐楽章。3楽章はリズムの饗宴。第2交響曲の終楽章みたいな、アフリカンビートの奔流。ミニマルっぽくもなる。
 
 そのリズムの執拗な反復は、まさに祖師・伊福部昭の傑作マリンバ協奏曲、ラウダ・コンチェルタータに通じる精神があると感じた。

 だが、楽想の割にやはり、2楽章などは長い(笑) もうちょっとまとめて、20分くらいだったらなお良かったような気もするが、長くない吉松も物足りない気がして、複雑な気分だ。


1/5

 この新譜紹介コーナーも、さいきん、新譜をほとんど聴かなくなってしまって、すっかり用を成さなくなってきた(^^;

 それでも、ちまちまとやってゆきます。今年は2012年、皇紀2672年です。よろしくお願いしますですです。

 まず、いきなりプライヴェートDVDで恐縮であるが、

 今井重幸:カスタネット小協奏曲「ファンダンゴスに基づく協奏的変容」

 カスタネットソロ真貝裕司、佐藤迪/東京プロムナードフィルハーモニカー
 
 我等が北海道打楽器協会会長 真貝センセのためのカスタネット協奏曲である。カスタネットったって、赤と青のひーらーいてーたーたーいてー、ではなく、両手でカタタンカタタンとやるフラメンコカスタネット。それのための、超絶技巧カスタネットコンチェルト。

 作曲の今井重幸はかの伊福部昭の高弟の1人で、スペインや極東アジアの民謡舞曲の主題による変容曲を得意としている。今回もスペインのアンダルシア地方の民俗舞踊およびその舞曲で、テンポの速い三拍子の「ファンダンゴ」による変容である。

 代表曲を納めた今井重幸のCDもあり、興味のある方はぐぐってみていただきたい。かなり濃いい曲想が特徴だが、さすがに70を越して今井センセもオーケストレーションを含む書法が簡素化してきたというか、枯れて渋くなったというか、そんな印象を受けた。(録画状態と演奏のせいもあるかもしれないが。)

 カスタネットのソロと、伴奏もバトルというより、互いに高めあって共に演奏し合うといったふうで、15分ほどだが曲想も変化があり面白い。

 同時に室内楽用に2台のピアノ版もあるという事なので、それもいつか聴いてみたい。









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