12/31

 2014年に行われた、伊福部昭生誕百年記念演奏会の模様を収録したものだが、ようやく聴く。1〜3まで、年末で聴く。

 伊福部昭生誕百年記念演奏会 Vol.3

 斎藤一郎/オーケストラ・トリプティーク L2014

 伊福部昭:HBCテレビ 放送開始と終了のテーマ
 伊福部昭:北海道讃歌
 伊福部昭:「大怪獣バラン」組曲
 伊福部昭:「ゴジラ」組曲 改訂版
 伊福部昭:「モスラ対ゴジラ」組曲 
 伊福部昭:「キングコング対ゴジラ」組曲 
 伊福部昭:「海底軍艦」 よりメインタイトル/ムウ帝国の祈り 
 伊福部昭:「キングコング対ゴジラ」より アンコール 

 3枚のうちでは、自分はやはりこれが白眉。

 まずなんといっても、冒頭、HBCテレビの放送開始と終了のテーマという、珍曲。知られているウポポは、HBCラジオの放送開始と終了のテーマであって、こっちは初めて知るもの。まったく違う曲で驚いた。たまたま楽譜が元ヒカシューの井上誠氏の所蔵品の中に混じっていたようで、急遽日の目を見ることになったという。マリンバ、締め太鼓(あるいはボンゴ?)、ティンパニの打楽器主体に、管楽器のテーマがかぶってきて、絃楽器は伴奏と、かなり南方風というか、エキゾチックな小品。

 続く北海道讃歌。オーケストラ伴奏合唱版。わたしはこれをもう10年近く聴きたい聴きたいと念じていたので、感無量だ。

 しかしながら、はっきり云うが、(久しぶりに字を大きくする)

 
北海道民にとって誇るべきこの讃歌は、遅い、重い、暗い、歌いづらいなどという心底くだらない理由で、いま現在北海道ではまったく省みられていない。

 地元のアマオケに、地元出身のソプラノ歌手をゲストに呼んで、この北海道讃歌と、信時潔作曲の貴重な地元市の歌をオーケストラ編曲して歌ってもらうという企画を薦めたこともあるが、「そういう機会音楽はコンサートにふさわしくない」 などという、おそるべき教養主義で一蹴された。まさにこれを愚の骨頂、野暮の極みと云わずして、なんと云うべきか。

 定期演奏会とは云わない。もうちょっと気楽な、企画演奏会であるサマーコンサートのそれこそ企画としてどうかというと話だったが、あきれ果ててしまった。

 ちなみに、合唱版は原詩の1番と4番の2曲で構成されており、これで正しいのだそうだ。カットではない。ピアノ伴奏版は、1番から4番まで4曲あるとのこと。

 確かに最初から変拍子で、4/4になってもどんどん拍がずれて行き、一般人が歌うには、かなり練習を要すると存ずる。しかし、指揮があれば入りを指示してくれるし、なにより荘厳な音調が、我が北海道にこれ以上ふさわしいものはない。自分はもう、普通に歌えるぞ。

 大怪獣バランもまたマニアックな怪獣映画で、冒頭は放送で使われたたかどうかも不明だというテレビ版のサントラより。これが、かなりモダンな音調。それから、映画の土俗的なオープニングへ突入する。合唱団により、バラダギバラダギと婆羅陀魏山神を讃える。全体に、この演奏会にあがった組曲は合唱入りが前提なので、再演には条件を有する。曲数が多いが、基本サントラなので、短くて数十秒、長くて数分の曲が集まっているのはこれまでと同じ。ただ、テレビ版のオープンニングがあるため、全体で17分以上と長い。

 続いてゴジラは第1回の再演だが、リクエストの多かった平和への祈りが加わっている。ゴジラ組曲はもともとエンディングに合唱があったので、加わっても違和感はもちろん無い。ただ、合唱付だと、こういう企画コンサート以外の、合唱が用意できないコンサートでの再演はにわかに難しくなるので、それが考えものだ。その意味でも、あえて合唱を全部省いたSF交響ファンタジーは、さすがの「編曲」だと云わざるを得ない。

 今更ながら、帝都の惨状、そして平和への祈りはオホーツクの海と共通のモティーフがあるので、「♪モーシーリーバーの〜」 などと歌い継ぎたくなる。

 続いてモスラ対ゴジラ。モスラといえば、モスラ〜ヤの古関裕而だが、モスラ対ゴジラは、伊福部昭である。ここで伊福部は、後世に残る、マハラ・モスラと聖なる泉を生み出した。モスラの歌がポップソングとしての名曲とすると、マハラ・モスラと聖なる泉は、もはや歌曲というまでの格調高さを有している。どっちも、すばらしい楽曲だと思う。メインタイトルの衝撃的な無調からのゴジラのテーマ。すばらしい。三菱未来館と共通の小美人のテーマから、崇高な聖なる泉へ。最後はマハラ・モスラで〆。

 次が、キングコング対ゴジラという、また燃えるもの。ハリウッド版でもリメイクが決定したそうだが、キングコングの本場であるだけに、ちょっと期待だ(笑) オープニングから 「♪アーシーアナロイ アセケーサモアイ」 と燃える! ま、組曲のほとんどはアーシーアナロイという印象。SF交響ファンタジー3番にほとんど採用されているので、ファンには聴きなじみがあるだろう。

 次が海底軍艦より、メインタイトルと合唱によるマンダの歌(ムウ帝国の祈り)を再演したもの。マンダの歌が無いと、海底軍艦とは云えないよなあ、というところ。

 そしてアンコールが、会場と一緒に歌うアーシーアナロイ。


12/30

 2014年に行われた、伊福部昭生誕百年記念演奏会の模様を収録したものだが、ようやく聴く。1〜3まで、年末で聴く。

 伊福部昭生誕百年記念演奏会 Vol.2

 斎藤一郎/オーケストラ・トリプティーク L2014

 伊福部昭:「ジャコ萬と鉄」組曲
 伊福部昭:「佐久間ダム」組曲
 伊福部昭:「ドゴラ」組曲
 伊福部昭:「ラドン」組曲
 伊福部昭:「宇宙大戦争」組曲
 
 第2集というか、第2回百年紀演奏会の模様。藝術映画1作、ドキュメンタリー映画1作、そして特撮映画3作のサントラによる組曲。第2回から、やたらと打楽器類のアタックが強調されて、これが単に映画サントラとしてのBGMではない力強さと魅力を、もともとそなえているのだと認識させてくれる。

 まずジャコ萬と鉄。ニシン漁の漁師歌に伊福部伴奏をつけた独特のオープニングが特徴で、印象深い。7分ほどの小組曲。初期作品はサントラ数も少ないのか、銀嶺の果てと同じく、他の組曲の半分ほどの長さになっている。シレトコ半島の漁夫の歌に共通する漁師歌のモティーフが聴きものだ。

 続いて国鉄に匹敵するドキュメンタリー映画、佐久間ダム三部作(佐久間ダム第一部、第二部、第三部)から自由なセレクト。国鉄にも共通するが、伊福部ファンには垂涎の楽曲だが、やはりどうしてもドキュメンタリー映画はサントラもまじめで地味だ(笑) 映画はすばらしいが、ここでは、伊福部の危惧したサントラだけでは弱いのではないか、という現実がかいま見える。しかも、やっぱり三部作からセレクトするわけで、やや長い。オープニングテーマはなんとジャコ萬と鉄と共通している。プログラム的には、通心をくすぐる。個人的には、影絵劇せむしの子馬と共通のモティーフが、なんかほっこりする。釧路湿原も出てくる(笑) ここいらは、伊福部の国有林というドキュメンタリー映画サントラにも出てくるので、自然系のモティーフなのだろう。

 続いてドゴラ。マニアックな特撮映画だが、サントラは秀逸。なんといっても驚くのはテルミンみたいな、電子音楽めいたこのフィヨヨヨ〜〜〜という音。なんとミュージカルソウ。ライヴでよくやったもんだ。これと、航空自衛隊によるドゴラ攻撃のマーチが聴きもの。曲が短いものが多く、10分ほどの組曲となっている。

 続いてラドン。17分半と、ちょっと長いセレクトになっている。ラドンの恐怖に集約された音調が、サントラだと一本調子になって、逆効果で飽きが来易いかもしれない。これも、伊福部の云うサントラがコンサートで難しい部分だろうか。ここでも聴きものはやはりラドン飛来のマーチ、それに航空自衛隊のラドン追撃のマーチだろう。交響ファンタジーに出てくるトランペットの甲高いラドンのテーマは、ゴジラに出てくるラドンのテーマなのでここには無い。(たぶん) バスドラがデカイw 銅鑼もスゴイ(笑)

 最後は宇宙大戦争。ここで伊福部はタイトル前のオープニングに12音によって無調を書いている。伊福部といえば調性音楽の守護聖人という一面が強いが、映画音楽では数々の実験手法、そして無調もある。ただ、音列ではないので、調性めいて聴こえるだけだ。キングギドラのうねるような冒頭のテーマも、伊福部無調。これは最長の、20分もの組曲だ。だが、ここでは楽曲が豊富で、パターンもいろいろあるので飽きないだろう。なによりタイトルマーチは交響ファンタジーでもおなじみのものだ。これが、戦闘が始まるたびに鳴り渡る鳴り渡る(笑) 合間合間のアンダンテの部分も良い対比となっている。そしてメインタイトル再現からの、宇宙大戦争マーチ!!! たまらん! それをたっぷりと聴いて、ジャー〜ンとエンディング。


12/29

 2014年に行われた、伊福部昭生誕百年記念演奏会の模様を収録したものだが、ようやく聴く。1〜3まで、年末で聴く。

 伊福部昭生誕百年記念演奏会 Vol.1

 斎藤一郎/オーケストラ・トリプティーク L2014

 伊福部昭:「銀嶺の果て」より3つのシーン
 伊福部昭:「国鉄」組曲
 伊福部昭:「ゴジラ」組曲
 伊福部昭:「海底軍艦」組曲
 伊福部昭:「地球防衛軍」組曲
 伊福部昭:交響ファンタジー「ゴジラVSキングギドラ」より

 最初に、自分の考えをば。

 伊福部自身は、バレエ音楽は音楽のみでもコンサートでの鑑賞に耐えられると思っていたが、サントラは台詞や効果音との関係で音楽的に犠牲になっている部分も多く、単純にコンサートでは鑑賞に耐えられないと考えていた。

 したがって、SF交響ファンタジーシリーズも、最初は渋っていたが、どーーーしてもというファンの熱望に答えて、オーケストレーションにかなり手を入れ、構成も練り尽くして、メドレーではあるが、一種の幻想曲・狂詩曲として楽しめるように「編曲」している。

 つまり、このような単純なサントラの組曲化というのは、作者が生きていたら絶対に許可が下りない企画だと思う。

 だが、作者の伊福部はもうこの世の人ではない。故人の意思の尊重も大切だが、残された我々聴き手がどのように楽曲を受容するかという問題も大切だ。

 資料としての価値を残すためにも、単純な組曲化のほうが良いのかもしれない。いや、それならば、もっと単純なサントラ集のように全部演奏して欲しい。いや、やっぱり誰か第三者でも良いので、演奏会用に「編曲」してほしい。

 などなど、いろいろと考え方はあると思う。

 ただ、映画音楽は、コンサートには 「ふさわしくない」 などという思い上がりや、単なる教養主義には、断固反対する。少なくとも私は、劇付随音楽やバレエ組曲などの同列で、なんの違和感も無い。

 作者が亡くなった以上、演奏会用の音楽として他の曲と等しい価値を持ってゆくためには、こういった組曲化は避けられない。私は、単純な組曲化には、単純に賛成だ。あとは、どの曲をチョイスするか、どのように並べるかでのセンスを問いたい。そもそも、ショスタコーヴィチなどにも、単純な演奏会用映画音楽組曲はあるんだし。しかも、ショスタコーヴィチが死んだあとに、指揮者のロジェストヴェンスキーが構成・編曲したものとかもある。

 前置きが長くなった。今回は単純な組曲化と云いつつ、映画音楽用の特殊編成をオーケストラ演奏用の2管編成に直すなどの、最低限の「直し」は行われているようである。

 銀嶺の果ては、ご存じ伊福部昭のサントラデビュー作。サントラ書きとしては新人のくせにこともあろうに監督と喧嘩したり、若かった生徒の芥川也寸志のアルバイトのためにピアノを弾かせてやったり、監督との喧嘩かの原因ともなった、快活な音楽が定番のシーンに、後半のストーリーを予期させる物悲しいアンニュイな曲をつけたりと、逸話が枚挙に暇が無い。

 そこより、メインタイトル、劇中のシーンをいくつかつなげたもの、エンディングの3つの部分を。7分ほどの小組曲だが、急緩急緩の構成も良く、伊福部らしい旋律と展開を味わえる佳品に仕上がっている。ここまでクオリティがあると、音楽だけでも、一遍の演奏会用序曲のように楽しめると思う。ピアノのクラスター奏法も面白い。

 次の国鉄という映画はドキュメンタリー映画で、国鉄三部作である 「国鉄」 「つばめを動かす人たち」 「雪にいどむ」 から自由に選ばれた楽曲による。伊福部ファンにはたまらない幻の作品であるばかりではなく、後の数々の純粋音楽や特撮映画に転用(流用)された楽曲モティーフの数々が次から次に現れて楽しめる構成ではあるが、特撮などのエンタメ映画に比べると、一般の人にはいまいち地味だろう。また、楽想と構成の割にちょっと長い。あくまでちょっと、だが、地味なだけにそのちょっとが飽きにつながる恐れがある。マニア好みになっている嫌いがある。

 次が高名なゴジラの楽曲による。15分ほどなので、組曲としてはまあまあの規模だろう。これは、賛否あるだろうが、私は良いと思う。というのも、特に特撮ファンでない人は、SF交響ファンタジーを聴いても、ゴジラしか分からないからである。というか、私がそうだった。またSF交響ファンタジーに採用されなかった楽曲にもすばらしいものがあって、特に大戸島の神楽音楽や、帝都の惨状、そして決死の放送をこうして演奏できるようにしたのは大きい。今回は入っていないが、レクイエムである平和への祈り入りバージョンは改訂版としてVol.3に収録されている。それはリクエストが多かったからだそうだが、演奏時間は3分ほど伸びている。

 次が海底軍艦組曲。私はこの海底軍艦のテーマが大好きなので、これはうれしい! これも約15分で、だいたい全ての組曲を演奏時間15分を目安に編成してある。これは、やはりそれ以上の大組曲となると、1曲1曲が短いだけに、キリがなくなってくるからだろう。重厚なマーチによるメインタイトル、神秘的なムウ帝国、そして疾走豪快な轟天号のテーマなど、聴きどころ満載。ただ、15分を意識したのか、ややモティーフの繰り返しが多いようにも感じた。

 最後が地球防衛軍組曲。これもきっかり15分でまとめてある。交響ファンタジーでもおなじみのテーマが、たっぷりと楽しめるほか、採用されなかった楽曲もたくさん聴ける。映画を見ていた方がより楽しめるだろうが、別に見ていなくても楽しめる。アンコールで、ゴジラVSキングギドラから、キングギドラのテーマ、マーチ、ゴジラのテーマを。

 演奏は全体にきっちりとまとめてあり、サントラ集のような印象もあるが、ときおりガツンと攻めてくるもの。これが、次回からは攻めまくっているのだが(笑) 


12/26 

 エリシュカ/札幌交響楽団 のドヴォルザーク作品集、8番を未聴であった。

 エリシュカによる札幌交響楽団におけるドヴォルザークチクルスは、5〜9番で、この8番が最後で完結した。現在はブラームスチクルスとチャイコーフスキィ後期交響曲チクルスが進められている。

 ドヴォルザーク:交響曲第8番
 ドヴォルザーク:交響詩「水の精」
 ドヴォルザーク:序曲「自然の王国で」

 高名な曲なので、どういう曲かというのはもうここでは触れない。エリシュカのドヴォルザーク8番。相変わらず……いや、ますます磨きがかかり、透明感と清涼感を増したオーケストラの響き。しかも、ただカルイだけではない。とても淡白だが、しっかりと伝えたいことがあって伝わってくる。

 これはとても日本人好み、というのもあるかもしれない。カロリーが低いというではないが、背脂たっぷり、というものではないので、そういうのが好きな人は、そりゃ物足りないと思うだろう。しかし牛骨出汁の味がしっかりとしたコンソメスープだって西洋料理なんだぞと認識させてくれる。

 冒頭から澄みきった音。これがライヴ録音なのか。濁りがまるでない。金管も絃も木管も、ティンパニですら。フレージングの自然さは、云うまでもない。リズムもノリがよくて弛緩が無い。とにかくフレーズの流れに無理が一切ないので、本当に 「流れるように」 という言葉しか無い。ドヴォルザークを知り尽くした男。

 2楽章のちょっと遅めの進行もたまらない。ここまで詩情と情感にあふれているのに、絶対にお涙頂戴にならない。重くない。ウェットじゃない。むしろ乾いている。ドライ。なのに、瑞々しく初々しい詩情がある。美しいヨーロッパの空気感というか。行ったことないけど。それを再現する札響に誇りすら感じる。

 3楽章もゆったりめ。ゆりかごにゆられるような心地よさ。ここは、スケルツォ楽章に相当するが、スケルツォというよりむしろレントラー。哀愁があって、歌心がある。すばらしい。

 4楽章も、まったく嫌味も無いし、田舎臭さも無い。完璧。冒頭のファンファーレの清々しさよ! その後の主題提示のしっかりした足どり、からの、変奏の活き活きとした演奏! 長い名物フルートソロの自然さと見事さ、それからコガネムシ〜旋律の違和感の無さ(笑) そこからの清楚な部分から、一気にコーダへの対比も最高。

 そらブラボーも出ますわ。

 続く、交響詩「水の精」は英題でウォーター・ゴブリンとある。具体的に何かというと、ヴォドニークという、チェコの醜い水の妖怪だそうだ。チェコの昔話にあるもので、村の娘がヴォドニークにさらわれて、無理やり妻にさせられ、子供を産むが、娘は母親に会いに行きたいと懇願し、無理にいったん地上へ戻る。しかし数年ぶりに現れた娘を母親はけして放さず、水の世界に帰さない。約束を破られたヴォドニークは激怒し、娘の家の扉に子供を叩きつけて殺してしまうというもの。

 ちょっと長い上に、展開が弱く、楽想もおそるべき地味さで、演奏によっては駄曲もよいところとなるが、エリシュカはさすがにうまい(笑) 笑ってしまうほどだ。メリハリが効いて、主題の描きわけに無駄や曖昧さが無く、確固たる楽想の把握と理解に基づき、そしてそれを寸分違わず札響が音にしている。すごい! と、思うものの、はやり曲そのものの単調さは行かんともしがたい部分もある。

 変わって演奏会用序曲「自然の王国で」は、直訳すると「自然の中で」というほどの意味なのだそうだが、人気もあって、明るく楽しい、構成的にも素直に聴ける曲。自然3部作の1曲目で、演奏頻度は2作目の「謝肉祭」が最も多いだろう。こちらはやや地味ながらも、なかなか中間部などは緊張感もあって、こういう演奏にかかると面白い曲だと思う。

 しかし、エリシュカは、あらためて淡白な音を作ると感じる。これが外人の出す音なのだろうか、と思う。確かに最近は外国人でもあまりコッテリとしたしつこい音造りをする人はいないような気もするけども、先輩格のノイマンやクーベリックなどは、もうコッテコテだ。それが正しい西洋の、中欧の音造りかと思い込んでいたが、エリシュカのこのあっさりを究めたような音の出し方はいったい。

 だが味わいが無いわけではなく、なんともいえないニュアンスや詩情がたまらない。それが素よりやや淡白気味な札響と合わさっているのだから、これは透明感が抜群。カロリーが低い、物足りないと感じる人もいるだろうが、そこはもう好みなので。ただ、がむしゃらなパワー重視の演奏では出てこない、この丁寧で優しい、しかし時に厳しい、そしてとにかく美しい音楽を聴ける喜び。


12/12

 別レーベルから出ている、もうひとつのカラビス(1923−2006)の作品集「ヴィクトル・カラビスの音楽」から3枚目。

 カラビス:ハープシコードのためのカノン風インヴェンション(1962) ズザナ・ルージチコヴァーCemb
 カラビス:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ(1967) ズザナ・ルージチコヴァーCemb/ヨゼフ・スクVn
 カラビス:ピアノ三重奏曲(1974) スク三重奏団
 カラビス:トロンボーン・ソナタ(1970) ズデニェク・プーレツTb/ヤン・ヴラーナPf

 3枚目は室内楽である。

 ハープシコードというのはチェンバロの別名なのはいうまでもないが、知らないと意外と混乱する(笑) カノン風インヴェンションという謎タイトル。インヴェンションは、日本ではインベンションと書くのが慣例とのことだが、インヴェンションとする。ドイツやイタリア由来の、バロックの形式で、「原義を離れて、探究・発見されるべき曲想」 といったほどのものだそうである。すなわち、ここではカノンのようなインヴェンションということになっているが、これ以上の専門的なことは分からない。本来バロックの楽器であるチェンバロ。現代音楽で作曲すると、そのメカニカルで即物的な音色を強調し、カクカクした曲になる面白さがある。アレグロもアンダンテも、よく跳ぶ音階で、ピアノとはまた異なる不思議な味わいを出している。6つの部分からできており、組曲風に演奏される。13分ほど。

 2曲目は古典的なソナタ。15分ほど。新古典的な性格の曲。ソナタ形式というわけではなく(と思う)、自由な形式の流れに聴こえるもの。1楽章はアレグロ・モデラート。2楽章アンダンテ。3楽章アレグロ・ヴィーヴォ。ヴァイオリンは古典的だがむしろ伴奏のチェンバロが現代的で、なんか対比が面白い。
  
 ピアノ三重奏曲は3楽章制でこれも新古典的。15分ほど。こちらは新古典的とはいえども、まずまず響きが現代的。無調ではあるが、旋律もあって聴きやすい部類の無調なのはカラビス流。1楽章はヴィーヴォ、2楽章はアダージョ。3楽章はアレグロ・ヴィーヴォ;アンダンテ;テンポ I の3部形式というもの。2楽章のアダージョが深遠な響きがして好きだ。ヴァイオリンの息の長いひたひたと迫ってくる旋律もよい。3楽章の激しい動きもすごい。

 個人的な白眉は、やはりこの最後の曲の珍しいトロンボーン・ソナタだろう。2楽章制で、15分ほど。1楽章モデラート、2楽章はアレグロ・ドラマティーコ;アンダンテ;テンポ I ;アダージョ。2楽章の方が規模が大きい。1楽章はモデラートといいつつアレグロ。トロンボーンの動きはロマン的だが、伴奏のピアノがけっこうガリガリした音を出す。しかし、基本的には吉松隆のような美しい現代ロマン叙情系の曲。2楽章は目まぐるしく楽想が変わって行く面白さ。アンダンテでの静謐な響きは良い。もともとトロンボーンは教会で使われており、神と祈りの楽器である。テンポが戻っての激しいアレグロは、技術的にもピアノとトロンボーンの掛け合いとしても聴き応えあり。またアンダンテに戻り、祈りの呪文で終わる。

 室内楽は感想が短くてすみません(゜ж゜;)


11/28

 別レーベルから出ている、もうひとつのカラビス(1923−2006)の作品集「ヴィクトル・カラビスの音楽」から2枚目。

 カラビス:第5交響曲「断章」(1976) ノイマン/チェコフィルハーモニー管弦楽団
 カラビス:絃楽のための室内音楽(1963) ノイマン/プラハ・チェンバー・ソロイツ
 カラビス:木管五重奏のためのディベルティメント(1952) チェコフィ木管五重奏団
 カラビス:第2絃楽四重奏曲(1963) ヴラーフ四重奏団

 交響曲の他は、室内楽となっている。

 今回、交響曲を目当てに聴き続けてきたカラビスの作品集であったが、2番からはじまり、この5番で、打ち止めとなった。交響曲第5番は、断章(フラグメント)と副題がある通り、15分ほどの単一楽章制の曲。

 豪快な不協和音とカオスの狂乱から第5交響曲は始まり、そのままアレグロへ突入する。絃楽器の主題がフガートっぽく現れ、また管楽器がその合間に異なる主題を奏でる。それらの主題は無調というか、中心音のある分かりやすい無調というか。3分ほどでアンダンテほどの勢いとなって、雰囲気が変わり、緊張感を保持したまま木管をメインとした室内楽的な音調に。それがいったん盛り上がりかけるも、またも音楽は静かな調子で、緊張感はそのままに。ややしばらくひたひたとしたアンダンテが続いて、そこから音調が冒頭に戻る3部形式。だが展開は変化しており、ホルンの執拗なテーマの繰り返しや、新しい動機の出現もある。コーダでは、再びアンダンテ(レントか?)となって、経過部をへて木管の囁き、つぶやきの中に終結する。

 カラビスは2006年に無くなるまで、この1976年の5番以降の交響曲を書いていなかったのだろうか? シベリウスの例もあるから分からないけれども。

 絃楽のための室内音楽という変わったタイトルの組曲というか、シンフォニエッタというか、3楽章制の20分ほどの曲は、叙情組曲っぽい感じ。1楽章はアンダンティーノ。キリキリした音色の中に艶っぽさが光る。穏やかさの中に、たまに音調の変化で速くなる部分が混じるが、一貫してゆったりとし主題が無限旋律の手法で続く。2楽章はアレグロ・ヴィーヴォ。ま、絃楽合奏の現代曲アレグロってこんなもんだよな、という曲(笑)だが、その中に全曲に統一されるある種の儚さ、危うさがなんともいえないアクセントに。ソナタ形式っぽいが、第2主題(中間部?)はアンダンテにピチカート。ここがちょっと長い。アレグロに戻って終了。3楽章はアダージョ、モルト・クイエート。2楽章の中間部のような音楽が続く。緩急緩の組曲風絃楽合奏曲。

 次が木管五重奏曲。定番の、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット。前は、なんで木管合奏にホルン(金管)が入ってるのか不思議だったが、ホルンは木管扱いという謎理由で納得したような、しないような(笑) これはどうしてかというと、大した理由があるわけではなく、古典派時代にそうなった、というだけのようである。(トランペットは宮廷や軍隊で使われ、トロンボーンは教会で使われ、ホルンだけが気軽に大衆のアンサンブル遊びで使えたから、そう定着した、というていどのもの。)

 これも、プーランクを思わせる小洒落た新古典的な作風。だいたい、若いときはこういう作品のようである。5楽章制で、18〜20分ほど。1楽章アレグロ・コンモルトは牧歌的ながら飄々とした風情が、ストラヴィンスキーっぽくもある。同じ主題をオスティナートで繰り返して行く。2楽章アレグロ・ヴィーヴォは軽やかでコケティッシュな舞曲風。3楽章はアンダンテ、ポコルバート。今曲で最も長い楽章で、訥々と笛の音が風に乗って聴こえてくるといった風情。4楽章ヴィーヴォ;アレグロ・モルトは2楽章と同じような主題を使用した、別の舞曲といった感じ。5楽章アレグロ・マノントロッポ、ここも同じコケティッシュで舞曲風な主題の展開である。全体に朴訥とした田舎風情は失われていないが、その中にもパリ楽派に似たモダンさとエスプリを感じる曲。いったん終結してから、1楽章冒頭に戻るというオマケ付。

 最後の絃楽四重奏第2番は、3楽章制で15分ほどのもの。1楽章プロローグ:アダージョ・モルト・クイエート。序奏はまるで邦楽の笙かという音色から、無調でウネウネした主題が展開されて行く。ギヨギヨした無調のアレグロ主題も現れるが、すぐにアダージョへ戻る。2楽章は7分半ほどもある楽章で、アレグロ・モルト;アンダンテ・モルト・クイエート;テンポ I ;アンダンテ・モルト・クイエート;テンポ I と楽想が変わって行く。速いとゆっくりを繰り返しているだけともいうが、楽想は少しずつ変化して行く。3楽章エピローグ;アダージョ、1楽章と同じ主題をやや変化させていると思われる曲調。ボロン、ボロンというチェロの琵琶のような音もある。全体にゆったりとした乾いた無調の音楽となっている。


11/23

 別レーベルから出ている、もうひとつのカラビス(1923−2006)の作品集「ヴィクトル・カラビスの音楽」から1枚目。

 こちらは、室内楽がメインとなっているが、1枚めはオーケストラである。音源は、生誕90周年ボックスと同じくチェコスプラフォン。

 カラビス:第1ピアノ協奏曲(1954) シェイナ/チェコフィルハーモニー管弦楽団/ズザナ・ルージチコヴァーPf
 カラビス:第4交響曲(1972) コシュラー/チェコフィルハーモニー管弦楽団
 カラビス:バレエ音楽「2つの世界」(1980) ビエロフラーヴェク/チェコフィルハーモニー管弦楽団

 なんとも豪勢な、チェコフィルによるカラビスのオーケストラ作品集。ピアノ協奏曲第1番は、録音も1957年のモノラルながら、奥さんのチェンバロ奏者がピアノを担当。

 20分少々で3楽章制のピアノ協奏曲第1番は、完全に新古典。ベートーヴェンの3番交響曲を模したような2つの和音から、おそらくソナタ形式の第1楽章が幕を開ける。軽やかな明るい主題を奏でるピアノ。伴奏も擬古典的な装い。低音に不気味な音色があるのがやや現代風か。第2主題は転調して暗めの雰囲気。展開部は明るく進む。不思議なのは、明確な再現部とコーダが無いように聴こえ、そのままピアノのソロからポツンと終わってしまう。2楽章は伝統的に緩徐楽章。まさにド調性。この戦後の12音の夜明けの時代に、共産圏ではこんな曲が書かれていたようである。たおやかな伴奏と、静謐なピアノ。アタッカぎみな3楽章は、コケティッシュな攻めで。あくまで新古典的、新ロマンな曲調。ちょっとやっぱりプロコフィエフっぽいところも。

 交響曲第4番は、2楽章制で25分ほどの曲。1楽章はグラーヴェ、アンダンテ、テンポ I 。2楽章はアレグロ・モルト・ドラマティーコ、モデラート、アレグロ・ヴィーヴォ、モルト・モデラート、モルト・ヴィーヴォ と、目まぐるしく楽想が変化して行く。

 打って変わって、深刻な無調の叫びから始まる。20年後の70年代には、こういう曲調もアリになったのだろう。無調といっても、ほぼ調性というか、専門的になんというのか知らないが、半調性とでも云うべきか。重苦しい音調から、ヴァイオリンの悲歌のソロに。楽器を増やしながら、じわじわと、この重苦しい音調が盛り上がって行く。狂乱の予兆が出現し、そのまま大混乱へ行くかと思いきや、意外と整然とした音響となる。頂点でテンポが戻り、悲歌が帰ってくるという、3部形式でアーチ状の音楽。

 2楽章は聴き応えがある。ヴァイオリンの悲痛な主題があって、低音が答える。戦闘開始の燃える共産圏アレグロ。ショスタコみたいに、ちがう世界へイッちゃわないのがまた良い。しかしモデラートになっても悲痛さは変わらない。またアレグロになりつつ、モデラートと楽想が次々に交錯する。ここらへんはほぼ調性だが、主題は辛辣なもの。管楽器はもちろん、打楽器も地味に活躍する。何度もモデラートとアレグロが入れ代わって、最後はモルト・ヴィーヴォでガツンと〆る。

 最後は珍しい、バレエ音楽より作られた組曲というより、交響的作品。これも2楽章制で、25分ほどもある。1楽章はアレグロ、アンダンテ、アレグロ・モルト・エ ドラマティーコ。2楽章はアンダンテ、アレグロ・ヴィーヴォ。どのような筋のバレエかわからないので、どの場面の曲というより、純粋に交響楽として鑑賞すべきだろう。というか、するしかない。

 全オーケストラが激しく狂乱の始まりを告げ、リズムに乗って主題を奏でる。合間合間にソロイスティックな静かな部分を挟んで、進行する。速度は変わらないがハープなどのソロも入ってきて、中間部のアンダンテへ。一転して穏やかな中にもリズムの隠されている部分。どう聴いてもハルサイ2部冒頭だが、それは置いといて(笑) 静謐な霊的な怖さの残るアンダンテの後、再びアレグロへ。ここもなんとなくハルサイだが、それは置いといて、オーケストラ曲としての面白さは良く出ている。ここは短く、終結。

 2楽章はアンダンテより始まる。室内楽的な、木管とピアノの調べの中、どのような踊りが踊られるのか想像するのも楽しい。不思議な音調ながら、ワルツめいた3拍子なのが分かる。ピアノが雄弁に語る中、いきなりアレグロへ。ピアノの役割は変わらず、次第に楽器も増えて、1楽章の喧噪さを取り戻して行く。途中でアレグロのままながら再び音楽は静かになり、ピアノのソロも帰ってくる。ここは、なかなか瞑想的な世界観だ。そしてやはりハルサイ音がw これはもう、大先生へのリスペクトということとしよう! じわじわとした音調がやや続いた後、冒頭の歓喜爆発の狂乱が戻ってきて、意外と軽い調子で終わる。


11/22

 チェコの現代作曲家、ヴィクトル・カラビス(1923−2006)の作品集の続き。カラビス生誕90年記念にでたボックスから3枚目。

 カラビス:チェンバロと絃楽オーケストラのための協奏曲(1975) カラビス/プラハ放送交響楽団/ズザナ・ルージチコヴァーCemb
 カラビス:第2ヴァイオリン協奏曲(1978) サヴァリッシュ/チェコフィルハーモニー管弦楽団/ヨゼフ・スクVn
 カラビス:ピアノと木管楽器のための協奏曲(1985) コウトニーク/プラハ放送交響楽団メンバー/ミラン・ランゲルPf
 カラビス:ファゴットと木管楽器のための小協奏曲(1983) フォルマーチェク/チェコフィルハーモニー木管アンサンブル/イルジー・フォルマーチェクFg

 3枚目は、実に興味深い協奏曲集となっている。この人は、協奏曲が多い。正統な編成のものから、ソロと木管合奏のための曲という珍しいものもある。

 チェンバロ(ハープシコード)協奏曲は、奥さんがソロ。この録音では夫婦共演ということになる。

 バロックの楽器であるチェンバロを現代曲として使用すると、どうしてもそのメカニックな構造から響きだされる独特の音を強調する手法になるのだろう。無調的な半音進行で進む絃楽と、メカニカルで無表情なチェンバロのSF的な語りかけがとても面白い。3楽章制で約30分の、本格的なコンチェルト。1楽章アレグロ・レッジェーロ、その通り軽やかに進むも、延々と続く半音進行が美しく不気味。チェンバロのカデンツァもむしろ電子音のような雰囲気がする。2楽章はアンダンテ。民謡を魔改造したような、鄙びているが渇ききっている絃楽が現れ、サスペンスのBGMばりなチェンバロの不気味なソロがなんとも(笑) 3楽章はアレグロ・ヴィーヴォ。こちらはオルガンにありそうな、無窮動的なチェンバロの激しいアレグロに絃楽が斬り込んで伴奏をつける。ラストは渇ききった世界の果てに消えて行く。

 ヴァイオリン協奏曲第2番は、15分ほどの単一楽章のもの。演奏陣が豪華。サヴァリッシュ、チェコフィル、ソロはヨゼフ・スークときた。これも無調であるが、叙情的な世界もかいま見せる。アレグロの激しい部分、ベルクを思わせる叙情的な部分が交錯する。中間部にある長いソロは、瞑想の美を聴かせる。ソロからのコーダ(第3の部分)では、調性ぽく響く。15分という短い時間には感じられない、永久さがある。

 3曲目は、ピアノと木管合奏による協奏曲という珍しい編成。吹奏楽のための、というわけでもない。こちらは20分ほどで、アレグロ・ヴィーヴォ、アンダンテ、ポコ・ヴィーヴォの3楽章制。いや、アタッカのようなので3部制か。これは完全に新古典的な、ストラヴィンスキーの世界のよき模倣。というレベルではない(笑) こりゃ、ハルサイ第2部冒頭(あるいは、管楽器のシンフォニーズ?)に似たフレーズも出てくるし、完全にストラヴィンスキーのオマージュなのではないか? モキュモキュ動く木管(ホルン入り)の伴奏に、ピアノがプロコフィエフも想起させるフレーズを引き続ける。中間部では、ピアノはペトリューシュカっぽい動きもする。中間部はやや長く、残り数分でコーダともいえる第3部となり、激しい動きの中で、フランス音楽をも思わせるおしゃれな終結となる。

 最後はこれも珍しい、ファゴットと木管アンサンブルのための協奏曲。単一楽章制で、演奏時間も12分ほどと短く、コンチェルティーノとなっている。こちちらはもっと、ストラヴィンスキーっぽい(笑) 冒頭からこの無慈悲な渇きは、なんといってもストラヴィンスキーだ。ファゴット首を絞められたような高音を常に行き来し、木管がおどけた様子で伴奏する。やがてファゴットも朴訥な音色にアイロニーを潜ませながら盛り上がってゆき、後半は終始せわしなく動きながら、コケティッシュな音調を崩さない。ライヴ録音なので拍手がある。


11/1

 チェコの現代作曲家、ヴィクトル・カラビス(1923−2006)の作品集の続き。カラビス生誕90年記念にでたボックスから2枚目。
 
 カラビス:大オーケストラのための協奏曲(1966) スロヴァーク/チェコフィルハーモニー管弦楽団
 カラビス:第3交響曲(1971) ビエロフラーヴェク/チェコフィルハーモニー管弦楽団
 カラビス:トランペット協奏曲「ヴィルヴィエイユの太鼓」(1973) コンヴァリンカ/プラハ放送交響楽団/ミロスラフ・ケイマルTp

 4つの楽章からなる30分ほどの大オーケストラのための協奏曲は、いきなりの不協和音ゲンダイ音響大爆発。しかしその後は、割と分かりやすい旋律が続く。やっぱりというか、ちょっとショスタコっぽいのは、この時代そして旧共産圏のご愛嬌だろう。1楽章アレグロは主部に入ると激しい突進となる。ティンパニのリズムに乗って金管の信号音。木管の金切り声。厳しい楽想が続く。穏やかな曲調を一瞬挟んで、鐘とピアノのアクセントが特徴的な部分へ。そのまま終結する。2楽章はアダージョ。絃楽器をメインにひたひたと迫るパターン。ほぼ絃楽合奏曲だが、木管もアクセントで入る。中間部では絃楽はピチカートとなって、木管が旋律を受け継ぐ。金管の激しい咆哮、打楽器の行進調リズムも乱入する。冒頭に戻り、不気味なまま終結。3楽章もアレグロ。アレグロ・アッサイ。木管のコケティッシュな導入部。アレグロというか、スケルツォの変形した楽章のようなイメージ。オーケストラ全体でその旋律を受け継ぎ、展開しつつ、続けて行く。速い部分と、穏やかな中間部の対比。心地よい緊張感。金管の突き刺さる信号音とティンパニの連打もあり、なかなか聴かせる。最後の部分は穏やかさと狂乱の交錯。終楽章もアレグロ。こちらはアレグロ・ヴィーヴォ。いきなりのフガートっぽい無調アレグロw フガートではないけど。オーケストラ全体による、聴きやすいが無調の速い楽章。日本の現代音楽ではなぜかアレグロが少ないのだが、こういうゲンダイアレグロというのは、やはりショスタコの影響か、この当時の旧共産圏に多いように感じる。いったん終結部のような部分が現れるが、終わらない(笑) 再現部のように楽想を繰り返して、緊張感のあるまま終わる。合奏協奏曲であるが、この書法と響きでは、交響曲といってもなんら変わらない作品。

 副題のない3番交響曲は、3楽章制で25分ほど。モルト・モデラートの第1楽章、ひっそりとした絃楽の楽想から始まる。最初はアダージョっぽいが、5分ころよりオーケストラ全体に動きが出て、鬱々とした祈りは激しさを増す。ものの、すぐまた張りつめた静寂が戻ってきて、闇の中に消える。続く2楽章はアレグロ・モルト・ドラマティーコということで、なかなか激しい。何かの戦闘シーンの曲みたい。基本的に無調だが、この人の無調はかなり 「調性っぽくて」 聴きやすい。中間部はほとんど室内楽の様相を呈するソロの部分。それからジャズ調の展開もあって面白い。3楽章は、アダージョとある。絃楽を主体とした、甘くない硬質なアダージョで曲は締められる。

 最後は、新古典的なトランペット協奏曲。チェコフィルの伝説的名手ケイマルをソロに迎えた録音である。2楽章制で20分ほど。副題の詳細は不明(笑) 冒頭からトランペットが軽やかに歌うが、妙な半音で上がったり下がったりする旋律がゲンダイっぽい。しかしリズムがしっかりして、偶発的なものではない。1楽章はアレグレット・モデラートで、6分ほど。序奏的な扱いか。2楽章は緩急緩急の構成による。鐘と、小太鼓と絃楽の厳しいアダージョから始まる。副題と関係あるやいなや。トランペットのソロが、しめやかに登場する。急の部分で、小太鼓と大太鼓のソロに導かれ、トランペットが激しい主題を。再び緩急を繰り返して、順当に終結する。ライヴ録音なので拍手がある。


10/12

 チェコの現代作曲家、ヴィクトル・カラビス(1923−2006)の作品集をしばらく聴いて行きたい。チェコスプラフォンの音源による、交響曲や協奏曲、それに室内楽の3枚組みが2種類なので、6枚組み。しばらく楽しめる。

 カラビスは執筆現在でWikipediaにも情報が無い(奥さんのチェンバロ奏者、ズザナ・ルージチコヴァーはあるのに)、かなりマイナーな作曲家で、自分もこの作品集で初めて知った。なんで興味を持ったかというと、交響曲が5番まであったから。この6枚の中に、2〜5番までの4曲が入っている。

 カラビスはボヘミアの東部で生まれたが、ナチスのプラハ占領により音楽の勉強ができず、戦後になってようやくプラハ音楽院で学ぶも、共産党に入らなかったので、あまりキャリアを積むことができなかったようである。

 これ以上はぐぐっても出てこなかった。CDは意外と大手のサイトでも取り扱っているのだが、本人の情報はさっぱりだった。

 交響曲の方は、いまやろうと思っているベルリオーズの改稿と、大栗裕のシンフォニエッタのシリーズの次あたりに、取り組もうかと思っている。全体としては、現代作家でありながらも、現代技法3調性7くらいのものから、現代7調性3くらいのものまで、という感じで、完全なセリエリではなく、とても聴きやすい。曲によっては、完全に新古典派の流れにある。

 さて、では順番にやっつけてゆきたい。

 まずは、カラビス生誕90年記念にでたボックスから1枚目。

 カラビス:第2交響曲「平和の交響曲」(1961) コシュラー/チェコフィルハーモニー管弦楽団
 カラビス:第1ヴァイオリン協奏曲(1959) カラビス/プラハ交響楽団/ペトル・シュクヴォルVn
 カラビス:交響的変奏曲(1964) ノイマン/チェコフィルハーモニー管弦楽団

 さすがスプラフォン音源、マイナー作曲家にノイマンやコシュラーとは。世界ではマイナーとはいえ、チェコでは、けっきょく高い地位を築いた証拠だろう。

 30分ほど、4楽章制の交響曲第2番は、平和の交響曲という副題をもつ。フルートとグロッケンの微かな祈りからはじまり、全体に暗い雰囲気が漂う。平和の交響曲というより、平和を祈る交響曲といった感じ。作風は調性がメインで、1楽章はアンダンテは激しい憤りも表す。2楽章のアレグロは、ソ連系のアレグロを思わせるが、やや緩いのは衛星国家産であるゆえか。3楽章アンダンテは、悲劇的な音調が漂う。アタッカで続く4楽章、祝祭的な雰囲気になるのかと思いきや、悲劇的な音調は変わらず、激しく進行する。中間部の室内楽的な部分も、テーマは変わらない。コーダでようやく、明るい希望的な兆しが見える。全体に共産主義への憤りの平和の希求という印象がある、聴き応えのあるもの。そのせいか、当時から西側世界ではたびたび演奏されていたという。

 ヴァイオリン協奏曲1番は、冒頭から辛辣な無調の響きがあるも、それにすぐさま続くカデンツァは、けっこう調性っぽい。何調かまでは、私には分からないが(笑) 3楽章制で20分の、演奏時間としては古典派に準じている。ソナタ形式というようにも聴こえなくもないが、自由形式(一種のロンド?)のように進められる。マエストーゾ、アンダンテとあるが、確かに、荘厳な雰囲気を偲ばせる。コーダの神秘的な調子も面白い。2楽章はアンダンテとアダージョの混じる形式。ヴァイオリンソロが悲歌としてひたひたと迫る。アタッカぽく(指定ではアタッカではない様子)続く3楽章、音調は変化無くも、速度が増し増し。伴奏もさらに激しく鋭い。

 シンフォニックヴァリエーションと名付けられたこの大オーケストラのための単一楽章の曲は、12分ほどの演奏会用のレパートリーというもの。フルートソロから始まるテーマをオーケストラで変奏して行くのだと思うが、無調や調性の入り交じる進行がけっこう複雑でよく分からない。変奏になっているのかな?(笑) 変容と行っても良いようにも感じる。各種の楽器のソロとオーケストラの交錯も良い。全体にやっぱりというか、暗い陰鬱な空気に支配されている。ハッピー感はどこにも無い。ラストも、衝撃的な叫びの中に虚無の出迎えめいたティンパニの足音で唐突に終わるのである。

 時代的に、作られたのは共産主義バリバリですからのう。しかしまだこの時代は、共産主義でも食ってけたはずなんだが、逆にソ連の粛清のあおりを食ってた、恐怖政治時代だったかもしれない。遠い過去の話を、現代に教えてくれる、当時の録音。

 曲もなかなか面白いし、なにより演奏がうまくてよかった。さすが往年のチェコフィル、そしてチェコを代表する指揮者の演奏であった。期待できるシリーズ。


9/12

 男声合唱のみでひたすらサントラやアニソンを歌いまくるという異色の同人軍団、不気味社。

 特に伊福部昭、冬木透関連の強みは、圧倒的なものがある。

 そんな不気味社が昨年、なんと臨時編成のオーケストラを募って、伊福部昭の幻のサントラを録音してしまった。

 伊福部昭:国有林 第1部 第2部 第3部
 八尋健生/ウヰアード管絃楽団

 この国有林という記録映画?は、伊福部の映画音楽を研究している人でも、詳細は良く分からない というほどの 「まぼろし度」 で、 1955年ころに製作あるいは公開されたらしい、第1部から第3部まである大作のようなのだが、小林淳の伊福部の映画音楽を網羅した著書にも出てこない。ただ、スコアだけが残っていて、ディープな伊福部の映画ファン、研究者も、誰も見たことが無いのだという。

 そんなわけで、せっかくスコアが残っているのなら、とまず打ち込みで不気味社音楽応用解析研究所において、デモCDのようなものを作り、それを聴いた人から、これは生オケで演奏してみたい、という申し出があったという経緯だそうである。いやはや、スゴイとしか云いようが無い。

 それから約1年して、ようやく配布のはこびとなった。 

国有林:第1部 国有林:第2部 国有林:第3部
M1 M1 lontano M1 山・花・女
M1A M2 Fade in Map M6A
M2 long Fuji M3 M8 Snowfield
M3 Hokkaido M4 Working men M9B Forestation
M4 Autumm M5 Gymnastic
M4B M6 revised
M5 M7 pesante
M6 Asama Larix Zoon M8
M7 M11 Metaboling
M8 M12
M10
M11 Typhoon
M12
M13 Larva
M13A
M14 Storm
M15 Last

 以上のトラックで進められる。第1部の曲が最も多い。第3部が最も少ない。これは、映画の長短からくるものなのか、単純に楽曲数の違いなのか、良く分からない。

 1955年前後の作曲とすると、後年の多くの映画ナンバー等の前身がここに認められる。自分は映画サントラ、特撮系はあまり得意ではないので、全部は分からないのだが、そんな自分でも明らかにわかるものもあって、とても興味深い。

 ピアノ、ハープ、ティンパニの導入から、いかにも雄大なテーマが。オーケストラは映画サントラ用の変則2管編成だが、編成に関係なくこの厚みを出す伊福部の力量。言うなれば室内楽といえる部分からも、あくまでその重さを失わない、伊福部の特徴がよくわかる。

 M1A では、後年の釧路湿原の装いが聴かれる。そして M2 long Fuji にはキングギドラの黒部峡谷に通じるテーマ、さらに三菱未来館にも出てくるテーマと、さらに絃楽のおそらく他に映画にもあるテーマの原型がある。ゆったりとしたテーマの中にピアノのクラスターが出てくる M4 Autumm も面白い。M8 にも特撮のテーマが現れるが、これは雰囲気としては完全に三菱未来館。M11 Typhoon ですら、その雄大さは変わらない。M12 には、女声合唱が現れて荘厳さがいや増す。M13 Larva 続く M13A でも三菱未来館だ。M15 Last も典型的な伊福部終結で、もし演奏会用に編曲されていればティンパニで、ダダダ・ダダダダン! とあっても良いほどである。

 第2部では、同じテーマではじまるが、重厚感がさらに増している(笑) 驚くのは M3 続く M4 Working men で、おもいきり 影絵劇「せむしの子馬」 のテーマが出てくる。M6 revised は珍しくアレグロで、特撮マーチやタプカーラ交響曲(たぶん)等の主テーマの一部が現れる。M7 pesante は文字通りそのテーマを倍のテンポのペザンテでw M8 はなんというか、後年の土俗の乱状ぽい雰囲気。M11 Metaboling でもせむしの子馬のテーマが。最後も土俗ぽいなw

 第3部。4曲しかないのが残念だが、こちらも同じ系列で、三菱未来館、釧路湿原の響きの原型が聴こえてくるが、なぜかやや鮮烈な雰囲気を有していると私には感じられる。

 伊福部は若いころ森林官として道東の国有林を管理していた。その生活の中で、日本狂詩曲を書き上げた。やっつけ仕事も多い映画音楽の中で、この国有林は完全に気合が入りまくっていると感じる。伊福部自身も、ある種、万感の想いがあったのかもしれない。

 全体にアレグロの部分はほとんど無く、いかにも雄大さを強調した狙いがあって、そのテーマと共に釧路湿原の直系先祖といえる。

 ちなみに、このウヰアード管絃楽団は、いわば同人オケであり、有志の集まったものだ。技術的にはセミプロやプロの方も混じっているだろうが、アマも混じっていると思われる。オーボエやトランペットに素人でもわかる明らかな音ミスが何か所かあるが、それは伊福部の曲のほうが難しいのだ、という認識で聴くのが良いだろう。


8/30

 ショスタコーヴィチの15曲の交響曲では、8番が断トツで価値があると信じて疑わないマンなのである。

 で、その8番もいろいろと聴き集めていたが(いまはそうでもなくなった)、やっぱり古い時代録音とも云うべき、作曲者と同時代のソ連を生きた指揮者とオケによる演奏が、生々しい響きがしてとても好きなのだが、別に新しい、ソ連が無くなってしまった後の演奏も良いと思う。そっちは生々しさは少ないが、純粋にオーケストラや録音の技量も上がって、音響交響曲として追求されて楽しめる。

 が、曲の構成とかオーケストレーションとかを純粋に見るとこの8番は明確な終結がなかったり、変にごちゃっとした詰まった楽器法だったりでやや変わっているので、独特の煽り感や切迫感を伝えないと、意外とそうでも無い、いまいち効果の薄い曲になってしまうような気がする。だから、時代録音の方が、この曲は好きだ。

 そんな時代録音では、これはもう、自分が云うまでも無く、ムラヴィーンスキィとコンドラーシンの両横綱に止めを刺す。

 この2人は迫力もあるのだけれど、とにかく生々しい。恐怖感というか、切迫感というか、押しつぶされそうな音響から絞り出される不気味さとか、異様なほどだ。私もオッサンなので、子供のころはソ連がまだあって、とにかく不気味な国だった。道民だから、北方領土で銃撃なんて普通にローカルニュースに流れてた。核戦争の恐怖というものがリアルにあって、そういう核戦争後を舞台にしたマンガもジャンプに載ってたほどだ。北斗の拳に限らず。

 そういう不気味さが、この曲には不可欠なスパイスなのではないかと、思い込んでいる。じっさい、何もそういう音響的には無駄な装飾というか、純粋に鳴り物交響曲としての演奏も良いのだけれど、はっきり言って物足りない。そういう演奏だけを聴いて、8番がそんなすごい曲とは思えない、という意見は、そら仕方のないことだと納得する。また、こういう時代録音を聴いて、音響的に(古いので)曲の構造を判別しきれてない、という意見も賛同する。その通りだから。

 ムラヴィーンスキィが録音したショスタコーヴィチの交響曲は、5番が圧倒的に多いが、次に多いのがこの8番だ。映像作品(放送用にゲネラルプローベを撮影したもの)も含めると、7種類ある。全てCD及びDVDになっているので、現在でも入手できる。私も全部所持しているが、中には同じ音源で廃盤になっているものもあるので、すべての盤は持っていない。

 1.1947/6/2 世界初録音 モノラル
 2.1960/9/23 ロンドンでのライヴ ステレオ
 3.1961/2/21 モスクワ音楽院でものライヴ モノラル 
 4.1961/2/25 旧メロディア発売によるライヴ ステレオ
 5.1976/1/31 スコラ発売のレニングラードでのライヴ ステレオ
 6.1982/3/28 フィップス初出のもの レニングラードでのライヴ 今CDのもの
 7.1982/3/28 上記の、レニングラードでのライヴのゲネだという映像 モノラル

 この7種類で、最も評価が高いのが、6の1982年の3月の演奏会のもので、この曲の究極の演奏として名高い。しかも、同じ音源でディスクが7種類もあるのだという(笑) 

 まず、この演奏の初出のフィリップスのものが、いきなりピッチ(音程)が狂ってるというおまけ付き。フィリップスのものは持ってないので聴いたことが無いが、ところによっては半音くらい高いのだという。そりゃ狂いすぎだろ(笑) 次に、タワーレコードがそれをそのまま廉価版で出したもの。これもそのままなのでピッチが狂っている。

 それからロシアンディスクという、ソ連崩壊後にメロディアの音源を買いあさって出しまくっていた、マニア御用達のレーベルがあって、私も学生時代は買いまくっていたが(笑) このショスタコ8番は持ってなかった。ピッチが直って、音質も良いのだという。
 
 次が、イコンレーベルという、マニアックなのか海賊盤なのか分からないレーベルものもの。これが、私が初めてこの演奏を聴いたもの。これもピッチが狂っている。私はこれを普通に店頭で買った。ピッチが狂っているのは後で知ったが、演奏が凄すぎて没入し、それほど気にならなかった。ライヴではオーケストラ全体でピッチがうわずるのは、よくあるし、絶対音感を持っているわけでも無いので。

 次と次が、私も知らないレジス及びアルトレーベルから2種類出ている。

 それで、今回様々なムラヴィーンスキィ録音を世に出しているわが日本のアルトゥスから、この録音も決定盤が出たのである。

 上記情報はこちらのページを参照 http://www.geocities.jp/planets_tako8_ma_vlast/tako8.htm

 これは、日本のファンや関係者と親密な関係を築いている、ムラヴィーンスキィ夫人秘蔵の音源からのCD化で、それだけで期待できるではないか。ムラヴィーンスキィは日本を気に入っていて、飛行機嫌いなためシベリア鉄道でわざわざレニングラードからこの極東の島まで何度も来てくれた。咳ひとつしない日本の聴衆を、とても評価していたようだ。また、彼のお気に入りのメガネは、日本製だったというのは、高名評論家U野氏の本に書いてあった。

 ソ連のライヴ録音を聴くと、咳だらけなので(笑) 日本の聴衆の態度が良いというのは、ちょっとリアルな印象を持った。(現在では、咳どころか携帯の音すら鳴るが)

 当曲は1楽章が白眉で、5番を深刻化させた冒頭とそれに続く延々としたアダージョなどは、それだけで戦争交響曲に相応しい。絃になんともいえない圧がかかるムラヴィーンスキィの独特の表現は、血がしたたるような恐ろしさがある。これがあると無いとで、この曲の1楽章が冗長かどうかが変わる。この曲はそういう悲痛さと虐げられるストレスを感じる音色を想定して書かれているではないかと思う。

 25分もある当楽章の約半分がまずアダージョであり、この曲の悲痛さを形作っている。ムラヴィーンスキィの透徹した指揮による絃のアンサンブルが凄まじすぎる。凄まじいといえばその後のアレグロで、戦争のカオスがここに極まれる。だんだん管楽器が高い音で悲鳴を上げてゆくさまが不気味なうえに、それへ低音も恐怖を象徴してひたひたと迫ってくるのである。スネアドラムが入ってくるあたりから、次第に惨劇が近づいてくる。ソ連特有のビリビリした金管が、もうね(笑) ショスタコーヴィチにより、そういう音を前提にここの部分は書かれているとしか。アレグロのホルンの狂ったような雄叫びよ。さらには、コーダへの接続部である大音響の恐怖。その後のコーラングレの寂寥感。長い長いコーダのレクィエム。

 そこからの、2楽章の雄々しい進軍調とのギャップ(笑) ムラヴィーンスキィのイケイケ感よw このギャップはショスタコらしい皮肉なのか、否や。なんか剽軽なピッコロ等の長いソロがある時点でどうかと思うが、こういうのは皮肉に関係なくショスタコ特有のものだし、とも思う。

 3楽章がすごい。赤軍の進軍、逃げるナチス。と思わせといて、その戦争そのものを茶化すような、この楽想。容赦ない強奏と、しかし統率されるアンサンブルの出す迫力。迫力がないと、この楽想はただのおふざけと化すのではないか。ムラヴィーンスキィの狂気さえ感じさせる迫力からの、4楽章のラルゴ。他の指揮者に比べて若干遅いテンポともいえるこのじっとりとしたラルゴには、どこまでも死屍累々とした恐怖と硝煙の臭いと空しさがつきまとう。ここをたんなる美の楽章としてのみとらえるのは、逆に無理があるように思う。

 当曲最大の謎がラルゲットの5楽章。フィナーレにしては明らかにカルイ。祝祭気分というわけではないだろうが、普通は戦争が終わったぞバンザイウラーな楽章ということなのだろうが、そうは来ない。ムラヴィーンスキィの指揮はけっこう淡々としているが、ここは初めからそういう音楽だと思う。明らかに、単なる祝典曲ではない。しかし、終盤に来る、あの、あの、あの恐ろしい恐怖の象徴。ここの迫力がもう……。恐怖は、前ではなく後ろにあったんですよ。

 この曲は、単なる暴力と恐怖の曲ではない、という話はまったくその通りで、音楽は音楽以外の何も伝えないのも確かだが、これをただの音楽的なクレッシェンドとして演奏されたのでは、たまらないものがある。それからの幽霊の独白の如きバスクラや、絃楽のコケティッシュな踊り。そして、淡い期待をかけるラスト。

 演奏ももちろんだが、この演奏のこの盤は、とにかく音質が信じられないくらい当時としては良いので、その点からもお勧め。めちゃくちゃ鳴っている。


8/2

 2015年に久しぶりに出た和田薫の作品集、喚起の時III(吹奏楽作品集)を聴くにあたり、2004年の喚起の時(オーケストラ作品集)、2008年の喚起のときII(現代邦楽作品集)、さらには2009年の鬼神(オーケストラ作品集)を全て聴き直した。

 伊福部門下でも、最も民族的な平易な音調を駆使する和田だが、民族調といっても小山清茂など、意外に現代的な手法も多用しており、純粋に分かりやすさを前面に押し出したサントラ調の音楽は少ない。

 そうなると、サントラでも第一人者の和田などは、純粋音楽とサントラとの境がどんどんなくなってしまい、民族調ならぬ民芸調の音楽に堕する危なさもある。サントラ仕事と、純粋音楽とは、明確に分けて、同じ主題を使うにしても、師の伊福部はしっかり構成を建てて区別していた。

 その危うさが、時にげんなりしたり、逆に楽しかったりするが、ここらでいっぱつ、交響曲のような硬派なやつをがつんとやってほしいところだ。伊福部門下にとって、交響曲は重要な曲種となっているので。内容がそれぞれ様々なのが、交響曲は全てを包括する音楽という意味でマーラーの云う通りであり、交響曲の楽しいところ。

 和田薫/田村守(三等陸佐)/陸上自衛隊東部方面音楽隊

 和田薫:吹奏楽のための交響的印象“海響”(1999)
 和田薫:吹奏楽のための犬夜叉(2003)
 和田薫:吹奏楽のための交響的マーチ“空へ〜RESCUE WINGS”(2009)
 和田薫:吹奏楽のための土俗的舞曲(1983/2012)
 和田薫:吹奏楽のための祝典序曲“嶽響(たきゆら)”(2010)
 和田薫:吹奏楽のための二つの断章“海神”(2015)
 和田薫:吹奏楽のための“鷲翔(しゅうしょう)の彼方”(2013)
 和田薫:吹奏楽のための俗祭(2011)
 和田薫:吹奏楽のための“天地人”(1995)

 海響は和田の代表作で、オーケストラ作品であるが、作曲の翌年に自ら吹奏楽としたもの。いや、解説によると当初より両方を意識して同時にオーケストレーションされたもの。オーケストラの録音も多く、聴き比べも容易であるが、やはり元々はオーケストラのための作品であろうから、吹奏楽版は少し響きが窮屈に感じられる。それでも、管楽器が美味しい曲だから、違和感は少ない。9分ほど。

 犬夜叉はもう、チケット売りさばきのために何にでも編曲されているw しかしそれは大切なことで、他の曲を聴かせるためにも、悪く言えば客寄せの曲があるかないかでは、売れ行きが段違いだ。和田にとって犬夜叉は、強力な武器である。またじっさい音楽も良い。何のバージョンで聴いても格好良い。5分半ほど。

 次のマーチはちょっと変わっていて、これも映画「空へ〜救いの翼 RESCUE WINGS」 によるサントラからの交響組曲の終楽章のテーマをマーチとしたもの。ゆったりとしたテーマが繰り返され、流石にカッコイイ。5分ほど。

 1984年の吹奏楽コンクール課題曲、土俗的舞曲。和田が演奏の指導に行った中学生に、中間部が師匠の伊福部にクリソツだと指摘されたとかされてないとか(笑) これは、課題曲として演奏された原典版ではなく、オーケストラとして民舞組曲に再編するさいにちょっと加筆したものを、さらに吹奏楽へ戻した改訂完全版である。しかし、その指摘の話が本当だとしたら、随分マニアックな中学生だと思う。確かに中間部はそのままゴジラの大戸島の神楽のテーマだw それもまた含めて、この曲の魅力に含まれている。ここでの演奏はやや大人しげで、曲の持つ土俗さが洗練されている。課題曲なのでこれも5分ほど。

 嶽響(たきゆら)とは、沖縄の方言を合わせて作られたタイトルで、特に意味はない。沖縄の自衛隊音楽隊のために作曲された序曲。特定の民謡は使われていないが、沖縄音階によるモダンな祝典曲である。テーマがマーチ状に繰り返され、主テーマの派生であるトリオを挟んで三部形式。これも5分ほど。和田の曲は、小曲が多い。

 次は、このアルバムのための新曲で、「金管アンサンブルと打楽器のための海神(わたつみ)」 を吹奏楽に編曲したもの。吹奏楽版は、「かいじん」 と読むのだそうである。それぞれ4分ほどの2楽章制で、静と動、陰と陽を表している。合わせてそれでも8分ほど。1楽章はゆっくりと、迫り来る波のような、夜の海のような。和田は下関出身なので、海峡のイメージはお手のもの。2楽章は荒れた海。低気圧か、台風かw そのうちモンゴル軍が攻めてきて、緊迫感が。静寂が訪れ、それも束の間、再び嵐が訪れ、テーマを繰り返しつつ終結。
 
 次は航空自衛隊中部音楽隊のために書かれたもの。自衛隊関係曲が多く、今アルバムの録音も自衛隊がてがけているのもその縁か。三部に分かれ、ファンファーレからマーチ調になり、主テーマが雄々しく演奏される。第二部は主テーマの展開が重厚な雰囲気で行われる中にも、瑞々しい静けさも表現する。続いてじわじわと冒頭が再現され、一気に盛り上がって祝祭的主気分になる。和田の伊福部門下大先輩の黛敏郎の自衛隊マーチにも比肩するなかなか立派な出来かと。6分ほど。今アルバムで一番のお気に入り。

 バンド維新という、気鋭やベテランの作曲家に毎年新作吹奏楽曲を委嘱する企画があって、最初は期待していたのだが、正直出来上がりの曲がなんだかイマイチで、2、3年で聴かなくなった。その、バンド維新2012年の委嘱作のひとつが和田のこの俗祭。その名の通り、日本の数か所の祭民謡のモティーフによる。三部形式だが、再現部ではなく、序破急形式というか、組曲形式というか、ホルンの導入から、軽快な祭り囃子、ゆったりとした部分がすぐにすぎると、特定の民謡は引用していないが民謡風の祝祭アレグロでフィナーレを迎える。7分ほど。

 最後は、オーケストラのための「交響連詩九州 −天地人−」の吹奏楽版。天地人の通り三部形式だが、やはり第3部は単純な再現部ではなく、発展形となる序破急形式。オケの方がいい(笑) 最初からこの曲しかないのならまあまあだが、オケと聴き比べるとやっぱり響きがのっぺりしている。

 CDになっている中で和田の純粋音楽作品で最長なのは、15分ほどの和太鼓協奏曲「鬼神」であり、これとて半分近くは太鼓のカデンツァであって、長い曲の注文自体が無かったのだろうという憶測もあるが、それでもこの人の構成力の無さは顕著だ。長けりゃ良いというものでもないのは自明であって、無理に長い曲を書く必要もない。しかし、ちょっとさびしい。7、8分の曲はよく書けるのだから、あとはそれを並べて3つか4つの楽章を書いていただければ交響曲のひとつもできるとは思うので、何か機会があれば、ぜひ交響曲にチャレンジしてほしい。

7/19

 不気味社の音楽を久々に聴く。

 と、いっても、何年か前に出ていたものを、初めて聴いたのである。

 我輩はお弟子の方も珍しいと認める 「純音楽から入った」 イフクベニストであり、そもそも映画をあまり見ないので、サントラというのは、参考までにその作者の作品の一部として鑑賞するが、映画という娯楽を含めてそこまで好きではない。ゴジラのテーマなどは、知ってはいたが知ってるだけ、という態であった。ゆえあって邦人作曲家の交響曲からこの道へ入り、芥川と矢代の交響曲から伊福部を知ったら、ゴジラの作曲家だった 「だけ」 だ。

 不気味社は知る人ぞ知る作者伊福部も 「異色」 と認めた音楽集団であり、伊福部音楽を男声合唱で再現するという真に異色の集団である。が、活動のメインはサントラであり、私もここ数年は食傷ぎみで、失礼ながら無沙汰をしていた。

 このたび、ひょんなことで2009年に既に出ているアルバムが、サントラといえどもそのテーマが流用されている伊福部純音楽を網羅したものだったのを不気味社音楽応用解析研究所大所長自らに教示され、遅まきながら入手した。

 豪快なドレミファミソレソ
 伊福部昭/オリュンポスナタール洗脳隊、W少年合唱隊
 古典風軍樂「吉志舞」
 兵士の序楽
 フィリピンに贈る祝典序曲
 遙かなり母の国/バレエ・レッスン
 この旗に誓う/警察予備隊隊歌
 源氏物語/光源氏、馬を駆る
 女中ッ子/運動会
 大怪獣バラン/海外版用音楽3
 倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク
 闘志天翔
 バンドのためのゴジラマーチ
 宇宙大戦争のマーチ

 まずは、少年合唱隊による ♪ドレミファミ〜ソ〜レ〜ソ〜の主題提示の後、この主題の最も古い使用例であろう吉志舞から。相変わらずのボイパまで再現するレベルの高さ。マッカーサーの出迎えに演奏されたという説もファンの間では流布された時期もあったが、それは違うようである。吹奏楽で演奏されるこの素朴な響きを、ゆったりなテンポでよく再現している。

 同じく戦前にルーツを持つ、兵士の序楽。陸軍の依頼で書かれたが、作者もいつどうやって演奏されたかも記憶にないという。よく楽譜が残っていたものだ。伊福部のボレロ、などという人もいるようだが、はっきり言って音楽としては完全にやっつけだ(笑) それはそうと、難しい転調もテンポの変化も完璧に一気呵成で歌いまくる不気味社の凄味よ。
 
 次は今アルバム最長であるフィリピン。2台ピアノと3管オケのために書かれたこの14分にもなる祝典曲を、どのように声楽に落としているのかも興味深いが、複雑な音響がかなりの再現度で歌われる様は圧巻。

 次からは主に特撮以外の映画サントラに現れる当主題の紹介。特撮以外にもこんなに使われている。大怪獣バランのみ特撮で、海外版のみに現れる追加曲である。バラン以外のすべての映画を見たことが無いので、なんともいえぬ。が、バレエ・レッスンにこのテーマはどうなのか、とか、警察予備隊の歌のパトレイバー感がすげえ、とか、源氏物語にそもそも伊福部はどうだったのか、とか、楽しめる。

 ロンド・イン・ブーレスクはもともと吹奏楽曲だったが、改訂されて和太鼓が加わり、さらに改訂されてオーケストラ曲となった。ここに、和太鼓も含めて完全なる合唱曲として新たな魅力と楽しみが加わった。ここにテーマが執拗に使われているので、伊福部は重複を避けSF交響ファンタジーにこの ♪ドレミファミソレソ〜のテーマを採用しなかった。和太鼓協奏曲的な趣もあるため、ボイパの再現度がなんといっても素晴らしい。

 次は怪獣ファンの格闘家、佐竹雅昭が現役当時の入場曲として特別に伊福部に編曲してもらったというレア曲。なかなか燃える編曲であり、原曲では当テーマを使ったシンセでの公式な実用パターンとしてもなかなかレアかと思っている。暑苦しい男声合唱で再現され、燃え度が倍率ドンさらに倍である。

 バンドのためのゴジラマーチは、伊福部監修の元、弟子の和田薫が吹奏楽用に特に編んだマーチ集で、これが秀逸を究めている。3種のマーチが扱われているが、これが燃える。私はこのマーチメドレーが特に大好きで、ここでもノリノリの燃え燃え、倍率ドンさらに倍。シャガー〜 シャガー〜!

 最後(とさらにオマケ)はこのテーマの最も高名な使用例、宇宙大戦争マーチ(正確にはテーマ・アレグロ)で〆られる。ズーン ズーン ズンズンズーン!

 また、音楽応用解析研究所大所長八尋健夫氏が同人誌「特撮が来た」に寄稿したものをまとめた 「八尋健夫不気味社著作集〜豪快な伊福部伝説」 に付属するCDもおまけとして付与する。

 これまで不気味社で出してきたアルバムからさまざまなマーチが集められ、ペッテションばりのワントラック50分でひたすら奏でられる。参りました。

 さらに、おりしも感動の終結から2年たち映画化もされた戦車アニメ「ガールズ&パンツァー」が2年ぶりに地上波とBSで放送が開始されたのだが、偶然にも不気味社から 「豪快&パンツァー」 及び 「キング豪快&パンツァー」 も合わせて聴いたことを付け加える。
 
 豪快&パンツァー
 第参拾弐戦車道大隊声楽隊、北村ティーガー哲郎
 雪の進軍/ブリティッシュ・グレナディアーズ/リパブリック讃歌/カチューシャ/パンツァー・リート/あんこう音頭

 キング豪快&パンツァー
 ごうかいさんチーム、北村ティーガー哲郎 八尋和美/東京混声合唱団
 戦車道行進曲/帰ってきたジョニー/アメリカ野砲隊マーチ/ポーリシュカ・ポーレ/エーリカ/あんこう音頭(正調版)/三浜盆唄/帰ってきたジョニー

 主に高名軍歌やマーチを歌ったものであり、不気味社のガルパンのシリーズは他にもまだ2作(未聴)ある。いやー〜〜良いw 実に良いw

6/13

 デュトワのプーランクセット、最後の5枚目はカンタータ作品集。

 プーランク:グローリア(1959)
 プーランク:黒衣の聖母へのリタニア(1936)
 プーランク:スターバト・マーテル(1950)
 
 シャルル・デュトワ/フランス国立管弦楽団/フランス国立放送合唱団/フランス国立放送児童合唱団/フランソワーズ・ポレSp

 3か月かけてちんたら聴き続けてきたデュトワのプーランクセットも、これで最後である。最後は、まじめな宗教作品となる。

 グローリア(栄光)とかスターバト・マーテル(悲しみの聖母)とか、キリスト教の宗教曲であって、同じタイトルの曲が色々な作曲家で存在する。古い宗教詩に、様々な作曲家が曲をつけた、というかたちであり、スターバト・マーテルは、他に有名な作曲家では、古くはヴィバルディ、ハイドン、シューベルトから、グノー、ドヴォルザーク、ヴェルディ、コダーイ、ペンデレツキィなどがいる。

 グローリアはミサ曲の一部であり、ミサ曲は西方教会の重要な宗教行事で、実用音楽でもあるが、コンサート音楽としても書かれている。通常文では、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイ、イテ・ミサ・エストとなるそうである。またクラシック聴きにはよく引用されることで有名なディエス・イレ(怒りの日)は、固有文のセクエンツィアに登場するもの、とのことである。

 グローリア Gloria

 Gloria in excelsis Deo. Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.
 Laudamus te. Benedicimus te. Adoramus te. Glorificamus te.
 Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam.
 Domine deus, rex caelestis, deus pater omnipotens.
 Domine fili unigenite, Jesu Christe.
 Domine deus, agnus dei, filius patris.
 Qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
 Qui tollis peccata mundi, suscipe deprecationem nostram.
 Qui sedes ad dexteram patris, miserere nobis.
 Quoniam tu solus sanctus, Tu solus dominus.
 Tu solus altissimus, Jesu Christe.
 Cum Sancto spiritu, in gloria dei patris, Amen.

 20分少々の音楽だが、6つに別れ、また詩を繰り返すので、歌詞の規模の割には長いかもしれない。短い序奏から、分かりやすくリズミカルに第一節 Gloria in excelsis Deo. が歌われる。続いて歌は進んでゆくが、全体に明るく、いかにも明朗なリズムと和声で、新古典派の面目躍如と言うか。3曲目の Domine deus,  は、ソプラノのソロが歌い、合唱がそれを繰り返す。基本、短い詩を何回も繰り返す音楽形式。リズミカルな部分と、ゆったりした部分が順番に現れて聴きやすく、また旋律も、厳粛というよりはむしろ親しみやすい歌謡っぽいもの。しかし、完全にチープにならないのは、やはり和声とか、対位法とかの、技術的な部分が支えているからだろうか。ソプラノのソロが随所に現れ、緊張感を与える。 
 
 リタニア(リタニ)も、キリスト教の儀式のことで、日本語では「連祷」という。黒衣の聖母とは、黒人として描かれたマリアや、古くなって黒ずんだマリア像のことのようだが、あまり要を得ない。7、8分のオーケストラ伴奏の女性合唱曲で、祈りの曲だけあってかなり静謐な開始部。ほぼ無伴奏合唱でも良いこの曲に、合いの手として劇的なオーケストラがからむあたりがまた見事。最後まで静謐で美しい合唱が祈りの世界を貫く。

 スターバト・マーテルの歌詞は長いので割愛するが、特に題目は無く、第一節の

 Stabat mater dolorosa     悲しみの母は立っていた
 iuxta Crucem lacrimosa,    十字架の傍らに、涙にくれ
 dum pendebat Filius.      御子が架けられているその間

 冒頭部分 Stabat mater dolorosa (スターバト・マーテル・ドローローサ) からそう呼ばれている。プーランクは友人の死に接し、元はレクィエムの予定からスターバト・マーテルに変更して、当曲を書いたのだそうである。

 短い序奏から、この悲哀の聖母の歌が始まる。全体にやはり重苦しく、美しいが悲痛に満ちた音調。一瞬、切々とした合唱、安らかな部分や、激しい戦闘調の部分、ソプラノ独唱、アカペラ部分などの展開があり、音調に工夫が凝らされている。管絃楽伴奏は大きな三管編成だが、歌を邪魔していない。主に合唱と独唱を主体とし、最後のアーメンで堂々と終了する。

 5枚組のプーランク作品集、フランス新古典派好きには必聴の内容で、また指揮も、各種演奏も素晴らしいものだった。さすがデュトワ。

5/10

 デュトワのプーランクセット、4枚目は独唱とオーケストラ(または器楽アンサンブル)のための初期作品集。

 プーランク:世俗カンタータ『仮面舞踏会』 (1932)
 プーランク:動物小話集、またはオルフェオのお供(器楽伴奏版) (1919)
 プーランク:黒人狂詩曲 (1917/1933)
 プーランク:「リボンの結び目(コカルド)」(器楽伴奏版) (1919)
 プーランク:3つの常動曲 (1919)
 プーランク:喜劇『理解されない憲兵』 (1921)
 プーランク:マックス・ジャコブの4つの詩 (1920)
 
 シャルル・デュトワ/フランス国立管弦楽団/パスカル・ロジェPf/フランソワ・ル・ルーBr/ドミニク・ヴィスC-Tn/ランベール・ウィルソンTn

 これもまた渋いラインナップだ。1899年生まれのプーランクによる、比較的、若い時代の作品が集まっているのも特徴だろう。さっそく聴いてみよう。

 6曲から成る仮面舞踏会は、バリトン(もしくはメゾソプラノ)独唱と器楽アンサンブル(オーボエ、クラリネット、ファゴット、コルネット、ヴァイオリン、チェロ、打楽器、ピアノ)のための楽しい音楽。どの曲も軽やかな音楽による。歌もとてもコミカルな感じ。ただし、2曲目と4曲目は器楽のみ。

 大昔、まじめな神との調和としての教会音楽(ムジクス)と飲めや歌えやの世俗の音楽(カントル)は明確に分けられていて、後年、一緒くたにただの音楽となったが、こういう世俗カンタータ(カンタータ・プロファーナ)という部類は、クラシック音楽に昔の世俗音楽の雰囲気を持ち込むという趣旨で、分かりやすく、楽しげなのが特徴だろう。高名なのは、オルフの「カルミナ・ブラーナ」である。

 続いては、たいそうな名前がついているが、カンタータとかではなく、アポリネールの詩による、6曲の歌曲集である。元々はピアノ伴奏だった。1.ラクダ 2.チベットの小羊 3.イナゴ 4.イルカ 5.ザリガニ 6.コイ という、動物の詩による。標題音楽というよりむしろ、形態模写音楽というべきか。それぞれの動物たちの特徴を音楽で楽しく表現している。1曲1曲がとても短く、30秒から1分ほど。短い詩をワンフレーズしか歌わない。

 黒人狂詩曲は5曲から成る歌曲集。いや、歌入りの組曲か。伴奏はピアノ、弦楽四重奏、フルート、クラリネット。1曲目は序奏で歌無し。2曲目ロンドも歌無し。3曲目ホノルル(フランス語ではオノルル)に不思議な「♪オ〜ノ〜ル〜ル〜」という歌が入る。4曲目パストラーレも歌無し。5曲目フィナーレに、また妙なホノルル音頭w 黒人っちゅうか、ハワイ人だろ(笑) ストラヴィンスキーと似ている雰囲気がある面白い曲。

 コカルドも 1.ナルボンヌの蜜蜂 2.子守 3.サーカスの子 の3曲から成る歌曲集で元はピアノ伴奏だったもの。ゆったりとした情景が見える愛らしく、鄙びた音楽。

 続いての3つの常動曲は、器楽のみ。元はピアノ曲だったものを編曲したもの。ここら辺の作者20代前半の曲は、いかにパリ時代のストラヴィンスキーに影響されているかが分かる。クリソツだ。

 続く1幕もののコクトー台本による約20分の喜劇は、楽譜が失われていたものが1970年代に発見され、これが初録音なのだそうである。輸入盤の解説では良くストーリーが分からないが(笑) もっとも長いセンテンスが台詞劇(音楽無し)なので、ラジオ音楽劇のような雰囲気もあって楽しい。

 最後は 1.もっと孤独になれる場所は 2.舞踏会へ行くために 3.詩人とテノール 4.ミモザの茂みの中 の4曲から成る歌曲。旋律よりリズムを重視した曲に感じるものであるが、それがいかにも現代的な新古典という感じ。

 デュトワといえばストラヴィンスキーなのだが、若い時期のプーランクのストラヴィンスキー(新古典主義)趣味丸出しで、とても興味深いアルバム。もちろん指揮もうまい。独特の響きとリズムの妙が、なんといってもちょっと捩じれた新古典の魅力なのだが、デュトワの棒は精密にそれを描きつつ、遊びも忘れていない。


4/19

 デュトワのプーランクセット、3枚目はバレエ組曲と、協奏曲、バレエ曲小品集。

 プーランク:バレエ組曲「牝鹿」 (1923/1940)
 プーランク:バレエ組曲「模範的な動物たち」 (1941)
 プーランク:「カンプラへの花輪」〜第5曲 プロヴァンスの船乗りの踊り(1954)
 プーランク:「ジャンヌの扇」〜第8曲 パストゥレル(1927)
 プーランク:「六人のアルバム」〜第5曲 ワルツ(1919)
 プーランク:「エッフェル塔の花嫁花婿」〜第3曲 将軍の話(1920)
 プーランク:「エッフェル塔の花嫁花婿」〜第4曲 トルヴィルで水浴する女の踊り (1920)
 プーランク:ピアノと18の楽器のための舞踊協奏曲「オーバード」 (1929)
 サティ(プーランク編曲):2つの遺作の前奏曲とグノシエンヌ (1946編)

 デュトワ/フランス国立管弦楽団/パスカル・ロジェPf

 プーランク生誕100年紀念の約20年前、なぜか国内盤のこれを買って、1回聴いてそれっきりだった。バレエ「牝鹿」を聴きたかった記憶がある。この3枚目の内容はセットの中でもっともマニアックで、いまになって国内盤の解説があったのは幸いだった。

 牝鹿(フランスでは若い娘たち、かわいい子といった意味があるようである)は、バレエ・リュス(ロシアバレエ団)主催のディアギレフの依頼による。特定のストーリーを持たない、現代的なモダンバレエの先駆けのようなものといえる。原曲は9曲から成るが、そこから5曲を選んで組曲としている。約15分。まずは1曲目ロンドー、極短いラルゴの序奏から、いかにも快活なアレグロ主題がトランペットや絃楽で。中間部では物憂げながらも明るさを失わない。三部形式で冒頭に戻る。次はアダージェット、オーボエの美しい、可憐な旋律が、オーケストラの中に溶け込んでゆく。3曲目のラグ・マズルカ、楽しいマズルカから、中間部でラグに。そのリズム変化の妙。アンダンティーノ、明るくも、やや陰のある旋律群と進行。そしてフィナーレのプレストはタランテラ形式の激しくも輝かしい舞曲。全体に新古典的性格のかなり強い作品。

 次のバレエ「模範的な動物たち」も寓話から編まれた他愛の無いストーリーを並べたもののようである。ここでは、6曲から4曲を作者自身がセレクトして、約20分の組曲としている。ただし、このアルバムでは全曲が録音されている。1曲めは夜明け(トレ・カルム)、序奏的な1曲で穏やかな舞踊。序奏の割には長く、最後は深刻な暗さにw 次は恋するライオン(パッションネマン・アニメ)、こちらは躍動的な、明るい調子。次は中年男と二人の愛人(プラスティッシモ)で、これは、第1曲を思わせる暗い調子。続いて第4曲が死と木こり(トレ・ラン)、これも引き続いてまじめな調子で、暗く、全曲の中心を成すアダージョ。二羽のオンドリ(トレ・モデレ)は、一転明るいおどけた曲。リズムと音色が楽しい。コーダでは、讃歌のように盛り上がって、終曲へ。最後は昼の食事(トレ・ドゥ、カルム・エ ウールー)である。穏やかな祈りの音楽で、平和な心持ちで全曲を締める。

 さて、次からがマニアックだ。なんといっても、プーランクが他の作曲家と共同で作曲したバレエ音楽などからの、プーランク担当部分の抜粋なのである。

 まずはオーリック、オネゲル、タイユフェール、ルシェールら7人の共作のバレエ「カンプラへの花輪」の第5曲、プロヴァンスの船乗りの踊り。陽気な1曲だが、どこか酔っぱらったような雰囲気がまたうまい。

 続いて同じく10人の共作であるバレエ「ジャンヌの扇」から第8曲、パストゥレル。ストラヴィンスキーっぽいwww

 次はフランス6人組(デュレ、オネゲル、ミヨー、タイユフェール、プーランク、オーリック)結成のきっかけとなった6人の共作ピアノ作品「6人のアルバム」よりプーランクの部分、第5曲ワルツを作者自身がオーケストレーションしたもの。才気あふれる独特なワルツもさることながら、オーケストレーションが凄くイイ。おしゃれ! パリ!w

 続いては、同じく6人組がスウェーデンのバレエ団から委嘱された「エッフェル塔の花嫁花婿」の第3曲将軍の話と、第4曲トルヴィルで水浴する女の踊り。元々コミックバレエなようで、ここでもコケティッシュな雰囲気、ドリフのようなてんやわんや、どたばたが楽しめる。それにしてもおしゃれ!(笑)
 
 次は、室内楽のための1楽章制のピアノ協奏曲だが、なんと、舞踊協奏曲という、よくわからないジャンル。つまり、この協奏曲をバレエ音楽として、踊りがつくようである。1楽章制だが、9つの部分に別れている。協奏曲といえども、かなりリズミックで、やはり組曲風の作りになっている。また、バレエ音楽も兼ねているので、各所には明確に組曲風のタイトルがついている。オーバードとは朝の歌という意味のようで、狩りと純潔の神ディアーヌ(ディアナ、またはアルテミス)の、毎日の朝の踊りを表現している。協奏曲としては変則的な作りなので、音楽だけだと、ちょっと聴き飽きる感じもする。

 バレエ音楽といえば、デュトワであるからして、リズムといい、フレージングといい、なんの不安も無しの大満足な演奏である。

 最後は、プーランク唯一の他人の曲の編曲もの。それはもちろん、プーランクの心の師、エリック・サティである。自分はサティはあまり聴かないが、サティのピアノ曲を3曲、オーケストレーションしている。ドビュッシーもかのジムノペディをオーケストラにしているが、あの曲は私はピアノの方が味があって好きだ。これはどうか。

 まずは1曲目、若い処女のためにノルマンディの騎士によって催された祝宴(11世紀) という、サティらしい何の意味もないわけのわからないタイトルの曲である。重苦しい雰囲気とうらぶれた感じを、うまく雰囲気に合った楽器に振り分けており、さすがだ。次はナザレ人の第1の前奏曲。しっとりとした陰鬱な音調をこれもまたうまく捕えている。3曲目は高名なグノシエンスの第3番。しかし、やはりこのぽつぽつとした、なんともいえない孤独を表現するには、オーケストラよりピアノだよなあ、などと再確認。

 出来としてはドビュッシーが編曲したジムノペディよりいいなあw

 フランスの6人組というのは、反ロマン主義、反印象主義を掲げていたそうだから、そうなると、新古典主義かセリー主義になるかのどちらかというわけで、見事に新古典主義の一時代を築いた。ちなみに、この後、反新古典を標榜するのがメシアン、ブーレーズ、ジョリヴェ、ディテュユーらの世代である。


4/4

 デュトワのプーランクセット、2枚目は交響曲と、協奏曲、小品集。

 プーランク:シンフォニエッタ(1947)
 プーランク:田園のコンセール(1928)
 プーランク:アルベール・ルーセル氏の名による小品(1929/1946)
 プーランク:牧歌(マルグリット・ロンの名による変奏曲)(1954)
 プーランク:ファンファーレ(1921)
 プーランク:2つの行進曲と間奏曲(1937)
 プーランク:フランス組曲(1935)

 デュトワ/フィルハーモニア管弦楽団/パスカル・ロジェclavecin

 2枚目のメインはやはり、プーランク唯一の交響曲である、シンフォニエッタだろう。詳しくは先に交響曲の項に記したが、4楽章制30分の、元々は普通の交響曲として作曲されたのだが、出版社の意向でシンフォニエッタとなったのだという。内容は確かに新古典的な軽交響曲の傑作といったところで、いかにもシンフォニエッタというべきもの。

 シリアス調な冒頭ではあるものの、すぐに魅力的な明るい主題に移る。主要主題を繰り返しつつ、既に展開している。展開部も、明るい音調ながらも、展開はやはりシリアスで、シンフォニエッタという曲調ながらも、交響曲でもあるということを認識できる。第2主題を悠揚に展開しつつ、ちゃんと再現部まであるが、完全な再現ではなく、回想という程度なのもおしゃれ。2楽章のモルトヴィバーチェも、スケルツォというよりメヌエットに近い優雅さと愛らしさ。6分ほどという演奏時間も良い。緩徐楽章はアンダンテ・カンタービレで、木管主体のお散歩旋律が実に心地よい。いかにも古典的かつ現代的な色彩を持つ元気の良い終楽章も傑作だ。

 デュトワの指揮も、メリハリが効いていて良い。ニュアンスも最高で完璧といえる。

 田園のコンセールという曲は、室内楽編成の、組曲風チェンバロ(フランス語ではクラヴサン)協奏曲で、演奏時間は24分と本格的であるが、コンチェルトではなくコンセール(フランス語でオーケストラ組曲、音楽会などの意味)なので、擬似バロック曲風の合奏組曲である。ロジェがクラヴサンを弾いている。確かに、これはいわゆる「協奏曲」ではないw 曲想自体はとても良いが、ちょっと長い。

 次からは一気にマニアックになる。まずは、ルーセル60歳記念の小品であるピアノ曲を、後年にオーケストラに直したもの、だそうである。2分ほどのコケティッシュな曲で、オーケストレーションが実に渋い。色彩的ながら、しっかりとした芯を持っている。 

 続いて名女流ピアニスト、マルグリット・ロンに冠する小品。これも2分ほどの曲で、牧歌というだけあり、ゆったりとした情景曲。

 次のファンファーレは、3分ほどだが、なぜか重苦しい足どりに葬式のような曲調w その中に、奇天烈なファンファーレが幻想のように響いてくる。

 続いての2つの行進曲と間奏曲というのは、BBC放送からの委嘱だそうである。室内楽編成で、3曲合わせて5分ほど。2つのマーチには、マーチ1889、マーチ1937、とある。1889のマーチはウキウキした舞曲風。間奏曲はちょっと異国情緒のある、流麗なアレグレットの雰囲気。1937のマーチは、特徴的なファンファーレ主題が展開されて行く、マーチよりもっと複雑な曲に仕上がっている。

 フランス組曲というと、吹奏楽のための「フランス組曲」が私には高名だが、あっちは同じフランスの作曲家ミヨーの曲で、プーランクのそれは「マルゴ王妃」の劇付随音楽からの抜粋組曲で室内楽編成。管楽合奏に打楽器、クラヴサンなので、こちらも一種の吹奏楽といえなくもないが、ウィンドオーケストラでは無い。7曲からなり、11分ほど。これは16世紀の作曲家、ジェルヴェーズの音楽を自由に編曲したものだそうで、旋律は古風だが和声や楽器法が斬新という、ストラヴィンスキーのプルチネッラに似ている作りになっている。

 こういった小品にも、いや、小品にこそ、デュトワの緻密な棒は冴える。


3/15

 デュトワ指揮によるプーランクの作品集、5枚組を少しずつ聴いて行く。全て90年代の録音。

 プーランクはフランスの作曲家としても、そして新古典派の作曲家としても重要な位置にあるが、新古典を聴けるようになってきたのは最近なもので、これまであまり縁のない作曲家だった。

 この5枚組の作品集も前はバラ売りしていたものを、1枚だけ持っていたのだが、途中で聴くのを止めてそれっきりだったくらいに、前は馴染めなかった。その他、プレートル指揮の往年の名演集も少し聴いてみたが、やはり馴染めなかった。

 ここにきて、こういう新古典的な曲も、ようやく聴けるようになってきた。

 1枚目は、協奏曲集となっている。

 プーランク:ピアノ協奏曲(1949)
 プーランク:2台のピアノのための協奏曲(1932)
 プーランク:オルガン協奏曲(1938)
 デュトワ/フィルハーモニア管弦楽団/パスカル・ロジェPf/シルヴィアーヌ・ドフェルヌPf/ピーター・ハーフォードOrg 

 作曲順では、2台ピアノ、オルガン、ピアノというものだが、ここでは収録順に。

 アメリカで初演されるべく書かれたピアノ協奏曲は、20分ほどの古典的な形式。いろいろなフランスの他の作曲家の旋律も断片化されて取り入れられているという。

 アレグレット第1楽章、序奏無しで、哀愁漂う魅力的な旋律がいきなり現れる。オーケストラの合いの手、そして旋律の移動。しばし第1主題が扱われてから、分かりやすく第2主題へ。こちらは弦楽が主体。どこかロシア流のたたずまいもみせつつ、モダンな響きはいかにもアメリカン。アレグロになり、展開部。と、いうより解説では、自由な形式で旋律を組曲風につないでゆくもの、とあるので、旋律間にあまり関連性は無いのかもしれない。とにかく優美で見事な旋律が次々に現れ、オーケストラとのかけあいも素晴らしい。中間部にはカルメンの旋律からとられた部分もあるという。高名な歌ではないので、カルメンの全曲にまで馴染みのない自分には分からないが。そのアンダンテの部分が終わると再現部で、哀愁たっぷり。デュトワの棒の繊細さ、表情のつけ方、ピアノのニュアンス、素晴らしい。コーダは、明るく盛り上がる。
 
 2楽章も古典的な三部形式によるアンダンテ。旋律の美しさは変わらず。長くなく聴きやすいし、ドライな響きや映画音楽を彷彿とさせる旋律や展開が、モーツァルトあたりの本格な古典派と一線を画し、個人的には合っている。

 3楽章は表記がいきなりフランス語なわけだが(笑)、ロンド・フィナーレのよう。ここでも愛らしい、素敵で小洒落た都会風な雰囲気の旋律があふれてくる。いい感じに遊びに遊んで、最後はなぜかぷいっと終わる。実にエスプリの効いた、最高級のピアノ協奏曲。

 協奏曲自体、あまり聴かないのだが、ピアノ協奏曲の中では、いちばん好きな曲にしたい。

 続いて、2台のピアノのための珍しいもの。これも、古典的な形式の、3楽章制20分ほどのもの。第1楽章は冒頭より激しい進行、そして跳ね踊るような第1主題、それからたおやかな第2主題。自分はピアノはあまり聴かないので、旋律的に2台必要なのかどうか分からないが、伴奏を受け持ったり、音域を広げたりの効果は判別できる。三部形式的にアレグロへ戻って、また快活な気分が心地よい。が、急にまた静かになって、緩徐楽章っぽい進行。そしてまたぷいっと。素っ気なく冷たく、しかしおしゃれに終わる。

 2楽章のラルゲットがまた、もう素敵なCM音楽一歩手前というか、チープさとのギリギリの駆け引き。けしてチープにならないのは、プーランクの作り方の見事さと、デュトワ、そしてロジェとドフェルヌの気品を失わないフレージングの見事さ。専門的には分からないが、このなんともいえないおしゃれで素敵な和声の聴感が、ベターな大衆音楽と異なり、藝術たるクラシックの所以といえる。

 3楽章は不協和音の導入から、ピアノの超絶技巧主題が飛び跳ねる。ラヴェルほど派手ではないが、むしろシックなオーケストレーションが素晴らしい! それをニュアンス余さず伝えるデュトワよ! 楽章全体が一気に駆け抜ける印象の音楽。

 オルガン協奏曲は、他のCDでは「オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲」などとも書かれているものである。単一楽章だが、5つの部分に別れて、切れ目なく演奏される。この5つの部分が、3つの楽章に相当している、とする解説もある。これも約20分の曲。

 ティンパニと弦楽は強奏の補強みたいなもののようで、管楽器の音色はオルガンのストップ奏法で事足りる、というコンセプトだそうである。

 バッハを意識したような崇高なオルガンのソロ。ティンパニがリズムを補強する。弦楽がおどろおどろしく伴奏。冒頭の雰囲気を繰り返しながら、アンダンテを終えるとアレグロへ。弦楽の小刻みな動きとオルガンの悠揚な響きの対比。

 続いてスビト・アンダンテ・モデラート〜で、緩徐楽章に相当する部分。アンダンテのオルガンのソロだが、音色を変え、木管のような響きを出している。弦楽が絡んできて、ティンパニは縦の線に重しを置いて行く。最後はちょっと深刻な響きとなって、やすらぎのテーマが回帰。

 そこからはテンポと楽想がひっきりなしに変化して行く。まずアレグロ(深刻なもの)へ戻り、それからレント、アレグロ(これはコミカル)、そして最後はまたラルゴとなる。楽章の概念は無いが、全体に循環形式っぽい扱いの主題もあって、組曲というほどのバラバラさは無い。というわけで、冒頭に回帰しつつ、最後の敬虔なラルゴに至る。深刻さ、甘美、コミカル、そして敬虔と、プーランクの全てがつまったような名品。

 デュトワの軽やかな棒と軽妙洒脱なプーランクは実に合っている。続きも期待できる素晴らしいセット。


3/1

 キングレコードの伊福部昭の藝術シリーズの最後、第12弾、生誕100年記念、第4回伊福部昭音楽祭ライヴである。

 伊福部昭:日本狂詩曲(校訂版)
 伊福部昭:シンフォニア・タプカーラ
 伊福部昭:SF交響ファンタジー第1番(アンコールバージョン)
 和田薫/東京フィルハーモニー交響楽団 2014ライヴ
 
 収録内容が札響のものとほぼ重なってしまったのは、致し方の無いところであるが、やはり残念であった。せっかくの記念なのだから、1曲くらいはオホーツクの海の原典版などレアなものをやってほしかったが、経費等の問題もあるので、なかなかうまいことにはならない。

 ここで注目なのは、やはりなんといっても和田薫の校訂による日本狂詩曲だろう。日本狂詩曲の楽譜は、戦前に出版され、もうとっくのとうに廃版となったものしか無くて、それも総譜とパート譜セットであるのは良い方で、演奏されるたびにバラバラな楽譜をなんとか集めて使っているようなのである。

 そこで、今後の再演のためにもここでちゃんと楽譜をきれいに出版し直そう、そのついでに印刷ミス、指示ミス等を直そう、という企画のようである。が、おそらくこれで経費をかなり食ったことと想像する。

 和田によると、主な校訂は以下の通り。

 1.ティンパニの最低限の直し
 2.テンポの設定

 伊福部が日本狂詩曲を作曲していたころ、信じられないような話だが、伊福部は知識では知っていたが、実物のティンパニ(ついでにハープも)を見たことがなかった。従って、ティンパニという太鼓は明確な音程を定めることができるが、演奏の途中で音を変えることはできないと思っていた。そのため、日本狂詩曲では、ティンパニはずっと2つの音(DとA、つまりミとラ)だけが延々と使われる事になった。

 ふつう、オーケストラ曲で、途中で転調すると、絃に合わせて管楽器も転調して、とうぜんティンパニも転調のため音が変わる。大昔は、2つセットを2つ、つまり4つを並べて使っていた時代もあったが、やがて演奏中、少なくとも楽章の間にネジ式でティンパニの音が変えられるようになり、ベートーヴェンなどはそうなっている。

 日本狂詩曲はそもそもティンパニの出番はあまり無いのだが、オーケストラの全員がザッと音調が変わっても、ティンパニだけずっとそのままで叩いているので、「記譜が間ちがっているんじゃないか?」 とか、「叩いていて気持ち悪い」 とか、 「奏者が音替えを忘れたと思われる」 とか、色々弊害があるようだが、正直、客席で聴いている分には、よく分からない部分であるw

 和田はこれを、伊福部の意志を尊重しつつ、「1音加え」 て、最低限、違和感の無いようにした。

 次はテンポである。日本狂詩曲は指揮者によってかなり速い演奏になっていたが、実は、伊福部の設定によるとそんなに速くない音楽だというのは、伊福部の供述から分かっている。また、従来譜では、1楽章のテンポ設定は四分音符96 2楽章は四分音符108で、これはそれほど速くない、それくらいのテンポである。だが、伊福部の直筆譜は、1楽章四分音符120、2楽章四分音符168なのだという。

 1楽章の120というのは、1秒に2つ進む速さであり、「マーチ」のテンポである。はっきりいって、速すぎる(笑) まして、2楽章の168などというのは、演奏不可能のレベルだ。

 あえて言わせてもらうが、伊福部先生、それ、指定テンポが速すぎですww 

 伊福部はテンポ設定をメトロノームではなくストップウォッチでやっていたというのはとあるお弟子から聴いたが、ストップウォッチですら測ってないと思われるテンポ設定だ。

 そのくせ、当初のキングレコードのセッション録音のときですら、「速い」 と言っていたというのだから、直筆譜のテンポなど、なんの参考にもならないのである。

 とはいえ、無視もできないあたりが、もどかしいところだ。和田校訂版には、仕方ないから直筆譜のそのテンポが書かれたようだが、指定通りに演奏した超快速演奏も今後、出てきて、それが正しいと思われるのが心配である。今回の演奏では、下記するが、その当初のキングレコードシリーズ(広上盤)のときの伊福部監修のテンポを参考にした、とある。従って、まあまあノリがあって速い。高関の演奏よりずっと速い。私は、高関のテンポこそが伊福部の意図したテンポだと思う。

 そんなわけで実際の演奏だが、和田の指揮は、流石にこの複雑な曲のアンサンブルの全てを把握というわけにはゆかないが、「指揮もできる作曲家」 のレベルには達しているかんじで悪くない。テンポは速いというものの、高関のものに比べたら、というだけで、昔のキングのシリーズにある広上に習っているとおり、まずまず中庸の設定。特に第1楽章は、ゆったり感もあって、情緒深く迫ってくる。音響としては、高関/札響盤に軍配を上げるが、ライヴ録音ではこんなものだろう。

 2楽章が速い。こっちでテンポは120に感じる。祭りも祭り、相当盛り上がってエッサホイサで騒いでいる印象。全体としてよくまとっており、聴きづらや違和感は無い。速いテンポで演奏もうまい。ラストに向かって速度はどんどん上がってゆき、カオス状態となる。こういう祭も、あるだろう。

 タプカーラは、かなり良い。まず冒頭のテンポは高関もびっくりの、伊福部の口伝を意識したであろう悠然たるテンポ。そこからのアレグロとの対比も良い。速すぎず、恰幅良く、どこか泰然自若さすらも聴こえてくる。展開部からのレントも、冒頭に戻り雄大さを表現。アレグロの再現部でもおちついたテンポで、煽りは無い。ところどころ、ちょっとリズムを引きずるようにベタッと重く感じるのは、個人的な好みの問題だろう。

 2楽章のテンポも素晴らしいが、ここでも、なんかベタッという印象はぬぐえない。これはオーケストラ(演奏方法)が原因なのか、和田の棒なのかは分からない。また、私の個人的な印象で、こういう演奏こそが伊福部だ、と言われても、それはそうだろうと思う。ただ、こういういかにもな重いロシア音楽の日本風のような演奏を、伊福部嫌いは特に嫌がるという事実もある。その辺にまでなると、もう本当に好みの差なので、マーラーが嫌いだ、ブルックナーが嫌いだ、モーツァルトが嫌いだ、ショスタコーヴィチはたいしたことない、などというものと同レベルになる。

 和田の演奏は、郷愁(想い出)の中の冬の原風景、という観点で聴くと、やや生々しい響きがする。まるでいまそこに住んでいるかのような、ストレートな生々しさだ。

 3楽章は、最初からやや速め。これはしかし、これまでのタプカーラというのは、概してこれくらいだったと思う。中間部の長い展開部(経過部)も、やや速に感じるが、フレーズの出入りは、流石に作曲家の目線か。また、このちょっと後ろにひっぱられる感じのする独特の重さは打楽器と低音の重さ(奏法)かもしれない。コーダに入ってテンポはさらに上がるが、走りすぎないのはさすがである。ここでの小太鼓は、スネア(響き線)入りが、スコア通りだったか? ラストは逆に、盛り上がりつつも、ヤマカズや高関のものより落ち着いて、石井真木に近い。

 (SFはカット版だし、記述は割愛します。)


2/21

 引き続き、キングレコードの伊福部昭の藝術シリーズの第11弾「生誕100年記念・札幌交響楽団ライヴである。土俗的三連画の続きで、ライヴ録音。

 伊福部昭:ヴァイオリン協奏曲第2番
 伊福部昭:タプカーラ交響曲
 高関健/札幌交響楽団/加藤知子Vn 2014ライヴ
 
 2014/5/30-31の札響のライヴでは、日本狂詩曲 ヴァイオリン協奏曲2番 休憩 土俗的三連画 タプカーラ交響曲 というプログラムで、全てCD化されたことになる。画期的なことだ。

 若いときの大作から変遷を経て改訂を繰り返したヴァイオリン協奏曲1番と違い、この2番は最初からこの姿に落ち着いている。伊福部の協奏曲は多楽章性の当初のもの(協奏風交響曲と協奏風狂詩曲)から、リトミカ、ラウダ、このVn2番、エグログという中・後期の1楽章制のものに変わっている。これは伊福部の協奏曲という音楽に対する趣味が変わったためだろうと思う。

 Vn協奏曲2番は演奏される機会も少なく、また、録音も古いアマオケのものや、演奏がいまいちのもののみで、プロオケで、ライヴといえども録音も秀逸のものが出たのは暁光だった。

 序奏もなくヴァイオリンソロから滔々とはじまり、オーケストラの導入部を経てまたソロ……と、協奏というよりソロとオーケストラが対話しながら順々に進んで行くという不思議な構成で、その繰り返しの中で盛り上がってゆき、コーダを迎える。物語のような構成と、ヴァイオリンのモノローグ的な語り口の味わいが秀逸な作品。

 札響と高関の抑えた響きと、溌剌として、かつ渋い音色の加藤のヴァイオリンが最高。この曲の模範演奏に思われる。もっと濃い表現もできるのだろうが、伊福部の中でもかなり薄いスコアである当曲の、このあくまで淡々とした、しかしけして軽く無いどっしりとした演奏が新しい伊福部解釈に思えてくる。

 タプカーラ交響曲の序奏から、思い入れはたっぷりと響いてくる。しかし重すぎず、粘りすぎず。この曲のもつ意外な明快さを引き出してくる。まるで新古典主義のような曲だ!w(棒)

 伊福部が大好きだったハープもよく聴こえて、膜物打楽器の迫力も良い。なにより、リズムが立っている。面白い対位法的な部分も強調され、漫然と流れない。このタプカーラはすばらしい演奏。中間部(展開部)の雄大さも格別。再現部からの勢いをつけすぎないが、ほどよくある勢いも好感。

 2楽章の、情感ともいえぬこの情感たるや。歌いすぎず、鳴らしすぎず。ここをコブシ付で歌うと伊福部はクドすぎて逆にだめになる。一面の雪景色にコブシはいらない。そもそも、音がない世界(雪が音をすいとるので、田舎の雪景色は「シーン……」という音すら出てこない無音空間)の音。情景は少しずつ気温が上がって、春を迎えるような温かさに到達するが、現れるのは飲み会である(笑)

 アタッカめいて3楽章が始まるも、ここでも当初は抑えた響き。が、ノリはそうではない。ノリノリでありつつ、初めから飛ばしすぎない高関の手腕よ。中間部の、勢いで流しがちな楽器の丁寧な描き分けも、理想的。中間部の落ち着いた感じや、低音の迫力も凄い。荒々しさもちゃんとある。荒々しいところは荒々しく、丁寧なところは丁寧に。高関のスコアの読みの深さの現れ。

 再現部ヴァイオリンソロからがまた凄い! ここからは怒濤! これまで抑えていたテンポが解放され、一気に来る。ここで初めてこの曲のカオスが解き放たれる! 人々は次々に立ち上がり、踊りだす。コーダではさらにスピードアップ!! だが崩れない!! 興奮と端正の坩堝となる。

 自分にとって完全に理想のタプカーラ交響曲。


2/7

 キングレコードの、伊福部昭の藝術シリーズの第10弾「生誕100年記念・初期傑作集」である。ライヴ録音とセッション録音が混じっている。

 伊福部昭:音詩「寒帯林」 
 高関健/東京交響楽団

 伊福部昭:日本狂詩曲
 伊福部昭:土俗的三連画
 高関健/札幌交響楽団 2014ライヴ

 1945年に満州国が委嘱した音詩「寒帯林」の楽譜が90年ころ北京で発見されたが、政治的な諸事情により中国外持ち出し不可状態であるのは、伊福部ファンなら既知のことであろう。

 しかし、そこは何においても入念な伊福部、なんと満州国へ送った楽譜の「控え」(手書きコピー)を、ずーっと手元にとっておいてあったのだった。

 それが、没後に発見されたため、日本で演奏できるようになった。内容が、ご本人にとってイマイチと感じられたようであるためなのと、楽想が後の作品にモティーフとして散見されるため、伊福部は、例によって楽譜は無い無いと言い張っていたようである。

 じっさい、当地のオーケストラの技術などにあわせて、素朴で、あっさりした作りになっている。それでいて、演奏時間は30分近い大規模な楽曲で、シベリウスの初期の音詩にも通じるものがある。3楽章制で、第1楽章「薄れ日差す林」 第2楽章「杣の歌」 第3楽章「神酒祭楽」 とある。

 既にオーケストラニッポニカによって本邦初演が行われているが、これは初のプロオケによる、しかも昨今贅沢なセッション録音。演奏が格段によいし、音もきれい。この演奏なら、充分に交響詩として通用すると感じた。高関の指揮も冴えまくっている。これはとても良い。

 1楽章はもっとも規模が大きいが、もっとも薄い。平原と地平線と、冷え冷えとした針葉樹の森。1つのテーマが独特の伊福部和音を支えに延々と引き継がれて行く。ここで表されているものは何か。単なる情景から、そこで生きる人々の魂、そして大自然の厳しさと、満州国の一抹の寂しさか。10分間、まるで盛り上がらない、茫洋とした音の地平線。高関の厳しさと優しさが伝わる。

 2楽章は森で生きる人々の素朴な歌。林務官として生きた伊福部の生き生きとした描写力よ。ここでは、実際の民謡というより、伊福部のイメージした歌が奏される。高関のテンポはこれがまたゆっくりと時代の向こうを探るような、いかにも心地よいもの。第1主題の踊りの様子、第2主題のしっとりとした望郷の想い、すばらしい。

 3楽章は酒宴の模様。やおら景気の良いテーマが鳴りまくるも、他の伊福部作品と比べると、どこかおとなしい。それはやはりオーケストラの技量を鑑みて、ややレベルを落として書いたという所以か。

 重要なのは、いわゆるゴジラのテーマの最初期のもの、原型中の原型が初めてここに現れる。しかし木管によるもので、重量感は無い。トリオというか第2主題の鄙びた感じも最高。これくらいの精度の演奏でないと、鳴りが充分に伝わってこない音楽だったのだろうか。いつもの伊福部経過部を経て、踊りが再開。冒頭からが再現され、ゴジラテーマ原型2回目。しかしこれはゴジラではない。扱いの難しい主題だろう。高関のさりげない自然な流れはさすがである。徐々に盛り上がって、初期伊福部にある、唐突な終結。モダンだねえ。
 
 続いておなじみの日本狂詩曲は、私も現地で聴いた5/30-31の札幌交響楽団定期演奏会のライヴ録音。

 これがいい。最高だ。

 日本狂詩曲は、最初にヤマカズの高名な情熱ライヴを聴いたので、ああいう曲だと思っていたが、実は違っていたのは、キングの作曲家臨席のセッション録音からだった。実は、あれでも本当は 「速い」 のだという。伊福部の想定していた音楽は、かなり遅かったようである。遅すぎてもだめなのだろうが、そこは単なる速い遅いではなく、テンポ感の問題だ。この第1楽章の淡々とした情景描写、第2楽章の騒ぎすぎない、まさに祭見物の様子。これは祭をやっている方ではなく、それを沿道から見ているような感覚。

 それこそが、絶対音楽たる日本狂詩曲なのだろうと強く感じる。自分で騒ぐのも良いが、あくまで、端から見ている感覚。それを体現している究極の演奏がこれだ! これは、ヤマカズ最晩年の似たような境地となった1990年のライヴに匹敵する、究極の演奏。☆

 そして土俗的三連画。これも札響のライヴ。オーケストラの演奏会では珍しいもの。あっても絃楽を2管編成のままにしたオーケストラバージョンで、原曲そのままを、こうしたオーケストラの定期でやるのは珍しいと思う。本来的には、室内楽曲であるから。
 
 しかも、これが難しいw 偏執狂的な演奏指定や、無理な音形が続く難曲だ。プロでもきつい。特にトランペット。酔っぱらいを表すトランペットは、ストラヴィンスキーを手本にしていると思われる。1.同郷の女たち 2.ティンペ 3.パッカイの3つの楽章からなる組曲で、全部で10分少々の小品である。これは編成や時間構成もストラヴィンスキーの小オーケストラのための組曲をよく意識しているように感じられる。

 ここでも情感たっぷりの演奏も良いが、なにより録音がいい。この札響のシリーズは、とても録音が良いのも特徴で、まるで全てセッションである。リハーサルの録音も混じっているのかな?

 しかしフランス風のエスプリに北海道の土俗を絶妙にブレンドした、すばらしくモダンな楽曲である。まさに日本のクラシック曲。


1/17

 昨年、2014年の3月30日に行われた、第3回伊福部昭音楽祭の模様がCDになっているのでそれを聴く。

 これは、吹奏楽による伊福部の音楽会だが、なんか、最初はふつうの伊福部演奏会だったが、ばたばたと急に第3回伊福部昭音楽祭になった気がする。

 内容は以下の通り。すべて2014ライヴ録音。

 伊福部昭:バンドのための「ゴジラ」ファンタジー(和田薫 編)
 今井重幸:交響組曲「神々の履歴書」より(清道洋一 編) 

 〜伊福部昭 生誕100年によせる讃〜
 永瀬博彦:リズミックプレリュード - 祝賀会前奏曲 -(初演)
 藤田崇文:伊福部昭のモティーフによる北の舞(初演)
 和田薫:伊福部BOLERO(初演)

 伊福部昭 
 EXPO'70「三菱未来館」より嵐、火山(堀井友徳 編)
 マリムバとウインドアンサンブルのためのラウダ・コンチェルタータ(和田薫 編)
 交響ファンタジー「ゴジラVSキングギドラ」より(堀井友徳 編)
 SF交響ファンタジー第1番より(福田滋 編)

 指揮:福田滋・和田薫・永瀬博彦・藤田崇文/伊福部昭記念ウインドオーケストラ/篠田浩美Marimba

 自分は吹奏楽はオリジナル曲主義なので、ふだんからあまり編曲物は聴かない。たとえ伊福部曲でも、安易な吹奏楽編曲ではあまり意味がないとすら思っている。しかし、そこは伊福部の専門家たちの集まりで、吹奏楽にしても違和感の無い曲をちゃんと選び、かつ、演奏効果も高く、聴く人も演奏する人も楽しいものに仕上がっている点は評価できる。

 なにせ、吹奏楽の世界は聴く人よりもアマチュアで演奏する人がメインなので、奏者へ伊福部を浸透させる目的もあるのである。

 とはいえ、これはCDなので、音楽鑑賞として聴く。

 まずはむかし、和田薫が編曲したゴジラのテーマの正統吹奏楽。ゴジラの足音と鳴き声入り。1999年当時、吹奏楽世界への伊福部浸透を目的にこれと3種類のマーチを合体させた吹奏楽曲と、バーレスク風ロンドの3曲が入ったシングル盤みたいなCDが出て、マーチの方は特に気に入っていたが、あまり浸透しなかった(笑) その後も良く分からない、当然海賊版の謎編曲のゴジラ吹奏楽(しかも出来悪し)が跋扈していたようなので、根深い問題になっている。

 初代ゴジラの鳴き声と足音からはじまり、重々しくゴジラのテーマ。吹奏楽とはいえ、出来はかなりいい。絃楽器の部分もうまく木管に移している。ゴジラのレクィレムもあって、6分ほどと短いが交響組曲としても良い。

 次が、演奏会の前の2014年1月に亡くなった、伊福部昭の古弟子の今井重幸を偲んで、代表作でもある 「神々の履歴書」(ドキュメンタリー映画音楽) よりテーマ音楽。今井らしいほがらかでおおらかで、てらいの無い民族的で素朴な特徴が良く出ている佳曲。これぞ今井重幸という、大声で歌いたくなるような旋律がすばらしい。

 次が、伊福部昭に捧げる3人の新弟子(東京音楽時代の弟子)たちによる、小品。これはもちろん、古弟子たちによる、伊福部昭賛という、14人の奏者による1分半ほどの作品にあやかって、ここでは吹奏楽でやったというもの。伊福部のモチーフを使い、それぞれ1分半ほどの曲を作っている。北海道出身の藤田の作品がゴジラとソーラン節を混ぜて面白い。これは、古弟子の1人三木稔が徳島出身で阿波踊りとゴジラを合わせた作品を書いたのにあやかっている。

 続いて、新弟子の中でも、伊福部最後の弟子とされている堀井の編曲によるエキスポ70の 「三菱未来館」 より吹奏楽でも映える嵐と火山。この編曲の経緯は、私と堀井さんの座談に詳しいので紹介する。豪快な響きが日本の自然のダイナミックさを良く表しており、選曲も良く吹奏楽でも違和感は無い。演奏も良く、ハイトーンのトランペットも、頑張って吹ききっている。火山のテンポはやや遅めで、もう少し荒々しくても良かったかな、というところ。

 次が、委嘱者のマリンバ奏者安倍圭子の要求により和田薫が吹奏楽編曲したラウダ・コンチェルタータ。

 演奏は若い確かな技術のマリンバ奏者、篠田浩美の手堅い演奏が魅力。吹奏楽でもまったく違和感は無い。が、たとえば吹奏楽伴奏のマリンバ協奏曲というのはけっこうあるが、伴奏が吹奏楽でなくてはならない必然性まで聴こえるものは少なく、つまり、ただ吹奏楽でと作曲を頼まれたから吹奏楽で書いた、というような響きのものにしか聴こえないものばかりである。まして、このように元はオーケストラ曲を上手に移しても、なかなか吹奏楽でしか聴こえない、吹奏楽ならではの響きまで創造するのは難しいというのを再確認するし、無理に原曲を崩して元の魅力を壊しても元も子もないので、難しい。また、そもそも、この吹奏楽ラウダ・コンチェルタータは本来伊福部曲の普及のために書かれたものであるから、そこまで求める必要もないし。
 
 次は、交響組曲「ゴジラVSキングギドラ」から、吹奏楽でも演奏効果の高いキングギドラのテーマ、マーチ、ゴジラのテーマの3曲。こういう、吹奏楽でも演奏効果の高い という理由があるだけで、そういう選曲は価値を増す。そういう、些細なものでいい。それが価値だ。あと、我輩のキングギドラのテーマ大好き補正。

 最後に、アンコールでSF交響ファンタジーの抜粋で最後のマーチ部分。この曲も、いつも抜粋やリピートカットで、どれが本来の姿なのだか良く分からないが、きっとどうでも演奏できるように伊福部昭がそうしたのだろう(笑)


1/11

 先日のEテレでもその指揮妙技を見せてくれた、エリシュカ/札響だが、ブラームス交響曲チクルスの他に、チャイコフスキー(チィコーフスキィ)後期交響曲チクルスというのもやっていて、その第1弾である6番「悲愴」の定期演奏会の模様がCD化された。また、悲愴も良いが、なんといってもチェコの隠れた名作曲家、ヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェクの交響曲が入っているのが魅力だ。

 ラドミル・エリシュカ/札幌交響楽団 2014ライヴ
 チャイコフスキー:第6交響曲「悲愴」
 ヴォジーシェク:交響曲 ニ長調

 悲愴はもう、「どんな曲か」などと書く必要もない。エリシュカの静謐で、ヨーロッパ的な濃いチーズと肉の味というより、それらを洗練し尽くした究極のメニューのような、極上の解釈と音の出し方を味わうのみ。カロリーが低いというのではないが、あまりに洗練され尽くしているので、聴く人によっては淡白で味気ないと思うかもしれない。それほど灰汁が抜けきっている。

 従ってきれいすぎて、美しすぎて、ロシア音楽の持つ生々しさが薄れている嫌いはあるが、しかし、この悲愴の洗練と、その底に流れる情熱は、これまで聴いたことの無いものだ。一気に、熱さが溢れ出る快感。アレグロからのしっとりとした情感と流れの良さも、すばらしい。第2主題のおもいきりテンポを落とした情感たるや、美の極致。札響の音も最高だ。バスクラからの、怒濤のアレグロの迫力! この荒々しさ! しかし上品! これだけで昇天幽体離脱白目鼻血。

 2楽章のさわやかさも特筆だが、なによりすばらしいのはフレージングの確かさ。長年、信念を持って20年も指揮の教授を勤めていただけある、確信を持った解釈。フレーズとフレーズの合間の差し抜きが完璧! それを日本の田舎のオーケストラに惜しげも無く伝えてくれる有り難さよ。なにより、それを最高の録音で聴ける喜び。行こうと思ったら、すぐ行ける道民の嬉しさ。

 3楽章もその路線なので、荒々しさは欠ける。しかし後半の激しい行進曲の迫力は、いささかの不満もない。打楽器の重々しさもよく録音に入っている。エリシュカの耽美主義がよく出ていつつ、低音や金管も頑張って鳴っている。

 4楽章では、お涙ちょうだいになりすぎず、かといってドライになりすぎず、ちょうど良いさじ加減が心地よい。心地よすぎる。エリシュカはとにかく金管を美しく鳴らせる。トロンボーンのアンサンブルなど、実に丁寧。絃楽器ももちろんそうだが、特に気を使っていると感じる。それだけ、日本のオケの金管はパワー不足で、適当というでも無いが、気楽に吹いていると感じる。もっと神経を使って吹く和音が、こういう曲にはたくさんあるのに。エリシュカはそこを伝えている。

 続いてヴォジーシェクであるが、これは初めて聴くので、どんな曲かもご紹介。生没年が1791-1825であり、古典派だ。ベートーヴェンに憧れて、かなりベートーヴェンふうの音楽である。チェコの生まれだがヴィーンで音楽や法律を学び、ベートーヴェンの知己をえたが結核で若くして亡くなった。4楽章制、30分前後の佳品。

 1楽章から、いかにもヴィーン古典派な響き(笑) 第1主題、第2主題ともベートーヴェン風ではあるが、全体の曲調は良い。適当な展開部の後のしっかりした再現部も順当w さらに再現部が展開するのもベートーヴェンっぽい。それにつけても、エリシュカの一点の狂いも迷いも無い手練の棒捌きよ。

 2楽章はアンダンテだが、この切々とした短調の情感は実にいい。中間部の悲劇的なところなども、木管と絃楽のからみがたまらない悲哀さを醸す。3楽章はスケルツォで、この荒々しさはまさしくベートーヴェン流。トリオはなんか可愛い(笑) 

 4楽章の祭典! 喜びの爆発。正しい交響曲の姿! 楽理的にではなくとも、古典派の交響曲の構造や展開をよく理解すると、その後の後期ロマン派やそれ以降の現代の交響曲がどう変化して、発展しているのかが分かって二度面白いです。


1/1 

 皇紀二六七五年 あけめましておめでとうございます。

 昨年は3月から9月までの更新でしたが、今年はちゃんと正月に更新します。

 伊福部昭生誕100年ということで、伊福部にはじまり、伊福部に終わった感のある2674年でしたが、今年もその余波がまだあるようです。また、来年は伊福部昭没後十年祭(仏教でいうところの十回忌)とのことで、また何かしらの企画があるようです。昨年の企画はほとんど参加できなかったので、来年は落ち着いているといいなあと思っています。

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 というわけで、正月は伊福部昭喜寿記念演奏会の模様が、1992年当時VHSのビデオテープ(10,000円!)で出ていたものが、なんと先年末にDVD(4,000円!デフレ万歳!)になったので、それを鑑賞することにする。

 CDは当時、初めて買った伊福部のCDの1つで、レコードで云うならばすり切れるくらい聴いたものだが、映像があるのはまったく知らなくて、最近になって、YouTubeに一部が上がっているのを見て初めて知った。DVD化はファン待望垂涎のもので、特に伊福部のコンサートにおける指揮姿は、たいへんに貴重なものであるうえに、コンサート作品の指揮も、としても珍しく、解釈の上で重要な示唆になる。

 監督は実証時昭雄、インタビュアーは(伊福部作品には辛口だったという)秋山邦晴w と、一部石井真木。

 伊福部昭:タプカーラ交響曲 交響ファンタジー「ゴジラVSキングギドラ」より バレエ音楽 日本の太鼓「ジャコモコ・ジャンコ」
 石井真木 伊福部昭 /新星日本交響楽団

 芥川也寸志:ゴジラの主題によせるバラード
 石井真木/新星日本交響楽団

 黛敏郎:Hommage a A.I
 黛敏郎/新星日本交響楽団

 時間の関係か、9人の弟子による伊福部昭オマージュ作品(オーケストラ版)の収録は、芥川と黛の2曲のみである。このDVDで初めて気づいたが、これはもともと伊福部の叙勲記念演奏会での企画作品で、土俗的三連画と同じ編成で書かれたものだが、今企画では、絃楽器をオーケストラ用の絃5部にしてあった。

 タプカーラ交響曲は、当時、伊福部のテンポをもっとも忠実に護っていたのが、弟子の石井真木であった。インタビューが演奏の合間にさしこまれ、石井もタプカーラのテンポについて特に2楽章など、悠揚なことに言及していた。この西洋のいわゆるクラシックにあまり無い悠揚があって、このタプカーラのノスタルジックがひきたつ、と。伊福部も満足そうに頷いていた。CDでむかし聴いていたときは、テンポが速かったり、音量もビビッドでやかましく感じたが、そのほかの指揮による演奏を聴くにつれ、ヤマカズとか、井上ミッチーとか、そういう盛り上がる演奏に比較すると、今日に通じる正統な解釈であるといまになって気づいた。

 とくに盛り上がって速くなる3楽章のコーダも、速度を抑えて、悠然として進むのが印象的。スコアによると、本当はここだけは速くなるのが本当らしいのだが、この石井テンポというのもは、作品の真実の一端をかいま見ることができる。

 名監督:実相寺昭雄の手によるが、ゴジラVSキングギドラの合間にインタビューを差し込むのは、ドキュメンタリーとしてはうまい手法だろうが、音楽鑑賞としては、なんじゃそりゃという感じだったのは否めない。私は映画とかドキュメンタリーより、純粋に音楽鑑賞をしたい口なので、しかもカットされてるし、そこはどうなのよ、と思った。

 白眉はとうぜん、伊福部指揮の日本の太鼓である。DVDパッケージ裏のうたい文句に、「まるでクナッパーツブッシュを連想させる悠々たるテンポで迫り、聴く者をおもわず圧倒します。」 とあるが、このDVDを買う人でクナッパーツブッシュを聴いた事がある人が、何人いるんだろうと考えるとなんか可笑しかった。

 この演奏を聴きまくっていたものだから、実はスコアの指定はもっと速くて、伊福部の振るテンポが 「遅い」 というのを知ったときは驚いた。しかし、それは楽譜を書いたのも当人の伊福部なのだから(笑) なんとも不思議な再現藝術の感覚である。

 弟子たち9人(芥川は既に物故、永富が加わって9人)が、最上段で日本の太鼓の太鼓を叩いている。バチ捌きは素人だが、作曲家たちはリズムが読めるからなんとかサマになっている。弟子たちの出番が来て伊福部がサッと指示を出すときに、ニコッと笑っているのがとても微笑ましく、印象的だった。

 





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