六方剣撃 ソーデリアン 〜黒き血脈〜 第3章

 九鬼 蛍


 三 暗黒の稲妻(ドゥンケルブリッツ)

 六方十国が一にして東方の雄「悠久の時の帝国」たる太天とて、長い歴史の最初からその威容を誇っていたわけではない。大戦紀元前千余年より二千数百年もの長きに渡り、さまざまな国家もしくは共同体が集合離散を繰り返し、統一され、また分裂してきた。広大な大陸の隅々まで民は分散して、それぞれに長い年月をかけて発展し、中央がそこを呑み込むたびに肥大化してきた帝国の様相は、なんとも云えぬいびつさと途方もなさを露呈していた。現在の譚氏王朝は前大戦終結より百五十年ほど後より続き、譚皇帝家は大戦前より東聖導皇家の血をよく引いているとされる。周辺諸国を貪欲に従える様は、あくまで尊大で凶暴。六方世界において唯一の千年王朝を実現している、世界最強最大の国家だった。

  譚春雪は、第九十七代皇帝・譚輝(死後明輝帝と諡される)の母方の従姉の子にあたる。春雪の家は第九十一代宝乾帝の弟である親王・譚開任より発する傍系であるが、族間婚姻により血は濃く、現皇帝とのつながりも非常に強い。道術宗家とも関係を強め、通称「道譚家」として道士たちを束ね、宮中だけではなく民間においても祭祀・呪術をもってよく人心を掌握しており、帝国を影より支え続ける名門中の名門であった。特筆すべきは先帝の暗殺という後宮の謀議を暴き、皇太子や他の兄皇子たちをおさえ、第八皇子にすぎなかった譚輝をついに皇帝としたことだろう。譚輝は生き残りをかけて母方の実家を頼り、実家は譚輝を皇帝とすることでさらなる躍進と繁栄を望んだ。互いの思惑が一致した結果である。その功績で道譚家の官位は上がり、宝物(ほうもつ)を賜り、一族の領地も増えたのであった。譚輝は二十三歳で皇帝となり、急進派の最先鋒として五年をかけて己の兄一族を含む反帝保守派とその数族八百余人をことごとく粛清した後、二百八十年間安定していた帝国の領地拡大に乗り出した。目指すは西方。惰眠惰休と腐敗におぼれ、瓦解寸前だった老帝国はいまここに若き君主を迎え、久しぶりに精気と活気を取り戻した。春雪はその野心あふれる皇帝の特命を受け、先遣斥候・諜報要員として大陸を超え、西域まで精鋭の八卦道士を引き連れ、やってきたのだった。

 しかし、いまやその道士隊は半壊していた。

 「殿下」

 斜視白髪白髭の老爺が、両手を組んで前にして、うやうやしく前へ進み出た。道士たちの長であり、道家の長老でもある道雷仙の後ろには、残る三人の道士たち、すなわち天来花、風結、そして山頭が無言で立っていた。

 「此度の不始末、我ら八卦道士全員の責、どうか名誉を回復する機会を」

 春雪は不機嫌そうに窓よりカルパスの夜景を眺めていた。窓の灯よりも、カルパスの通りという通り、辻という辻に掲げられた松明の火が、なんとも幻想的にまたたき、いっそう魔都を美しく彩っていた。ここは、小高い丘の上にある高級アパートの一室だ。ここに彼らは堂々とアジトを構えていた。春雪は膝の上に白布に包まれた黒剣を抱いていた。

 「殿下!」

 「うぬらになんの責も無い。下がれ」

 「下がりませぬ」

 「老師ッ」

 「殿下、勅命により賜りし我らの役を、ただの斥候とお考えでしょうか」

 「なにを云う」

 「陛下はなんと仰せになられましたか」

 「しれたこと………」春雪は椅子から立ち上がり、白布より滑り出した黒剣を指揮棒のように振りかざした。「来るべく大戦をにらみ、西方諸国の動静と秘匿されし西聖導諸皇家の秘密を探り、秘術をもって各国を攪乱せしめ、我ら太天の世界帝国を築く礎となるのだ。そのために命など惜しんでいられようか。我らが陛下より賜りし恩へ報い、我らの受けし屈辱を雪ぐためには、こたびはこちらから出張らねばなるまい。我も出陣する」

 「よ、よくぞ仰せになられた!」雷仙の斜眼より、涙がこぼれた。「我らの働き如何により、太天の世界制覇は近いやもしれませぬぞ。まずはストアリアの博士どもめがなにを企んでいるのか調べる必要がありましょう。同じく天子皇帝を名乗るハイゼルヴェンシュタウフェンなど聖導皇家の末席の出。かの帝国などはその実、千とも二千ともいわれる小国の集合体。代がわりには権利を持つ侯爵どもが帝を選ぶというありさま。皇帝陛下の御威光が、天の端より地の隅々まで貫いている我ら譚家太天とは雲泥の差。格のちがうことを、思い知らせてやらなくてはなりませぬ」

 春雪は、やおら、その長く美しい黒髪をうなじより黒剣でバッサリと落とした。覚悟の現れでもあったし、秘術の発動でもあった。手に握られた長い絹糸のような髪を、窓を開け放ち、風へ乗せた。するとたちまち、髪の毛の一本一本が、黒色の蛇や、ヤモリ、蝙蝠、烏のような黒鳥、黒犬、黒猫と化して、おそるべき勢いでカルパスの闇へ散った。

 道士たちはすぐさま退室し、それぞれ任務へついた。春雪は窓より入る晩夏の風を顔へうけて、眼下の灯を眺め続けた。


         1


 警察署の火事より一か月がすぎた。原因は不明とされ、フローティアの嫌疑もうやむやのうちに消えたようだった。確かにそれどころではあるまい。あるいは焼死扱いされたのかもしれない。警察署跡地は平地にされ、新しく建物が建つということだった。警察は近くに仮事務所を置き対応していた。ちなみに署長以下、署の幹部全員が更迭されたという。トリーナは意外に早く外出許可が出たので、上機嫌でフルトの事務所を訪ねた。

 十月になっても、まだまだ暑い。アデルナの夏はほとんど雨が振らない。もともとも少ない一年の降水量の内、半分以上が冬だ。冬の降水量(雪を含む)が夏の三倍にもなると、観測結果より導き出した者がいた。農民であったが、都市政府に認められ、アデルナ全土の気象を観測して一生を終えたという。彼の残した膨大な観測データは、現在においてもアデルナの農業へ言語を絶する貢献をしている。まだ十月いっぱいは空気が乾燥し、キノコの収穫にはまだ早いが、オレンジとオリーブが最盛期となる。カルパスにおいては家の庭でオレンジを栽培するのが流行っており、そこここに文字通りオレンジ色に彩られた木々を見る事ができる。イチジクやブドウは、カルパスの近郊でもたくさん栽培されている。特にブドウは世界でも有数の作付面積と栽培と品種改良の技術を誇り、膨大な量と銘柄のアデルナワインを支えていた。それと、なんといってもトマトである。元は南方域より伝ったこの野菜は、さいしょは鑑賞用だったが、とある飢饉の年をきっかけに食用に転じ、数十年をかけて改良されアデルナ全土に定着した後は、一気にアデルナ食文化の主役を担った。以来、アデルナの食卓にトマトは欠かせぬ。

 トリーナは汗をぬぐいながら、荷車に山と積まれたオレンジをひとつ人込みにまぎれて失敬し、皮のままかじりついた。酸味と苦味、そして甘味のまじった独特の味と、胸がすくような柑橘の香り。これが、アデルナの夏を象徴するものなのかもしれない。

 日焼けした顔が、弾む心で自然と笑顔だった。暗記し、穴があくほど眺め続けた地図の通りに道を歩いた。レストラン・ドミナントの前をすぎ、通りの角を曲がって裏へ向かった。その向こう正面に、フルト&セルジュ魔物退治請負事務所があるのだった。

 「チンケな事務所」それがトリーナの感想だった。入り口は狭く、間口も二間もないだろう。看板は申し訳ていどで、およそ凄腕のハンテールがいる事務所とは思えなかった。もっとも、裏の世界にも顔が通じているフルトならではの目立たぬ事務所であるのだが、そこまで理解できるほどの経験や見識がトリーナにあるはずもない。

 「邪魔なんですけど」後ろから声がした。振り返ると少年がいる。買い物袋をぶらさげて。セルジュだったが、トリーナは事務所の人間とは露とも知らず、「この事務所に用なのかい?」と聞いた。彼女はとうぜん、フルトの名は知っていたが、セルジュというのもフルトの相棒のすごいハンテールだと思い込んでいた。フローティアは己の主人の推薦で、そんな凄腕の仲間に入ったのだと。

 「ハッ!?」セルジュが眼を丸くし、そしてプッと吹き出した。「どいてください。邪魔です。入れないじゃないですか」

 「ああ、ここの使用人さんかい? おやっ、背がでっかいね」それにはセルジュもついに顔を赤らめ、眼をつりあげたのだった。

 「失礼な、わたしはセルジュです。当事務所の正式な職員で、経理を担当しています。ハンテールばかりで事務所が動くと思ったら、とんだ認識不足です。あなたこそ、うちに退治依頼に来るお客さんにしては、うさん臭いですね! うさん臭いというのは、こういう意味です。うちの退治料が払えるようにはまるで見えませんね!」

 「生意気なやつだなあ!!」

 「そっちこそ。チンケな事務所とは大きなお世話ですよッ」

 「あ、声に出てた?」

 「何用でしょうか」

 「フローティアに会いに来たんだ。いるんだろ? 友達なんだよ」

 「あなたがですか?」

 「悪いかよ」

 「いませんよ」セルジュはトリーナとはそれ以上は眼も合わさずに、押しのけて鍵を開け、素早く入り込んだ。それへさらに素早い動きで、トリーナ
が割り込んだ。

 「な、なあ、フローティアは仕事に行ったのかい?」

 「ちょっと、入ってこないでくださいよ」

 「おいらはフローティアの専属のネタ屋なんだよ。邪険にするとしょうちしねえぞ」

 本当にうさん臭そうにトリーナをみつめたセルジュだったが、とりあえず入室を許可した。あとでフローティアに叱られたらいやだからだ。「………フローティアさんに何の御用ですか」客間に案内もせずに、台所へ買ってきた食料を置きに行くついでに云い放った。トリーナの返事が無い。いぶかしがって振り返ると、すぐ後ろにいた。

 「だから、勝手に入ってこないでくださいって云ってるでしょう!」

 「あんたがどこに座れとも云わないから悪いんじゃないか」

 「あっちにソファがありますよ!」

 「コーヒーでいいから」

 「な………」まあ、セルジュのかなう相手では無いということか。ニワトリのごとく口を尖らせて、セルジュは湯を沸かし、律儀にコーヒー豆を炒って挽いた。トリーナは事務所を見渡し、フローティアはこんなところで働いているのかとなにやら感慨深げにうなずいた。やがてセルジュが嫌々ながらも手間を惜しまず入れた極上のウガマールコーヒーを持って客間に現れたが、その仏頂面から明らかに自分を歓迎していないのが見てとれた。(しかし、知ったことではない。)

 「なあ、フローティアはどこで仕事を?」

 「知りませんよ」

 「いいから、待てよ」トリーナは盆を持って下がろうとするセルジュを止めた。黙っているのが苦痛な性分なので、彼を当面の話し相手と決めたのだ。セルジュにとっては、いい迷惑なのだろうが。

 「さいきんは、フルト様と色々と出かけているんです。今日も、朝早くから。帰りも遅くて、何日も帰って来ない時もあります」

 「ハンテール フルトか。凄腕だっていうじゃん」

 「まあ、腕は確かでしょうね。僕が云うのもなんですけど」

 「フローティアだって、すごい術を使うんだぜ。知ってるだろうけどもさ」

 セルジュは軽く首をひねった。知らぬ。というより、先日の例の事件の後、ここ一か月は、フローティアは深刻な顔をしてフルトと連れ立って出かけてばかりで、ろくに話もしていない。いったい彼女がどのようなハンテールなのか、まったく知らないのだ。ちなみに火事のこともフローティアがハンテールを斬ったことの詳細も何も知らされていない。

 それをトリーナが看破した。

 「アハッ、なんだ、きみ、事務所の職員といばっているけども、本当に書類の整理をしているだけで、ぜんぜん退治の仕事にはかかわっていないじゃないか」これは直球だった。セルジュは一瞬、奥歯をかみ、それからやおら意味不明なことをわめいて、半泣きになりながら、トリーナを追い出しにかかった。トリーナは可笑しくってしょうがなかった。セルジュは彼女の手を無理やり引き、背中を押して外へ出そうとした。「ごめんごめん、悪かったよ。おいらがコーヒーをおごってやるから、機嫌を直しなよ。でかい図体して、そんな顔をするなって」

 トリーナはこの少年へ急に親しみを覚えたのだった。なぜなら、彼は、某かの理由でフルトにハンテールの弟子入りを認められていないのだ。そしてそのことへ劣等感を抱いている。事務所の正職員へのこだわりは、その裏返しだ。フルトほどのハンテール事務所へこの若さで所属を認められているのに、弟子入りをしていないというのは、特別な理由があるとしか考えられなかった。それは、彼女には想像がつかなかったが、経理担当ということは計算や交渉が得意なのだろうが、大きい身体をして腕力や運動神経は無いのかもしれない。それ以前の立場的な問題なのかもしれない。それは分からなかったが、結果としての境遇だけは、彼女も、同じなのだった。

 「おいらもさあ、ホントはハンテールになりたかったんだけど、ま、いろいろあって。今はネタ屋なんかやってるんよ」

 セルジュは短く息をのんだ。

 トリーナは、それ以上は何も云わなかった。

 二人はまた応接間へ戻った。セルジュはうつむいたまま顔を真っ赤にしていた。トリーナはなんとかフローティアのやっている退治を聴き出そうとした。その退治へ、自分も加わりたかったのだ。何かネタがあれば提供し、フローティアといっしょに仕事をしたかった。それは、セルジュも同じ想いだった。

 「しかし、フルト様が、僕が関わるのを許してくれないんです。今回の仕事は特に危険だとかなんだとか云って………退治に参加しないといっても、裏方として手伝ったことは何度もあるんです。でも、今回は書類ばかりを回してくるんです。フローティアさんも眉毛をひそめて、口を開かないんです」

 トリーナは相談室の職員のような気分となって、セルジュの話を聴いた。「じゃ、その、書類から何か分からないかな。どんな書類かな? 請求書か?」

 「請求書もありますけど、飲食費ばかりです。酒代ばっかり。あと、たまに器物の弁償代。これはフルト様がいつも暴れるんで、珍しくはないですけど。あとは、魔物退治の報奨金の関係書類です」

 「書類からは読めないか………」トリーナは苦虫をかんだ。なんとかして、フローティアの仕事へもぐり込みたかった。しかも気づかれずに思いもかけぬところで協力し、大いに感謝されるのが望ましい。まずは作戦が必要だった。

 セルジュはフルトが恐ろしいのかあまり乗り気ではなかったが、トリーナは無理やりコンビを組むことを諒承させた。「きみがねえ、書類の整理を喜んでやって得意がっているから、フルト氏は、ああ、こいつは経理が適材適所だと決めつけているんだよ、きっと。書類整理以外にもバーンと、こう、退治の仕事ができることをアピールしないと、まあ、ハンテールにはなれないのとちがうかね」このセリフが効いた。

 セルジュは何をどうすれば良いのかを具体的に訪ねた。しかし感覚派のトリーナは、まず何をするにしても、直感が勝負だ。

 「ネタでも探そうか。それには、足で稼ぐんだよ」ハンテールの前に、ネタ屋へ弟子入りしたようなかっこうとなったが、セルジュはフルトとフローティアの、そしてなにより事務所で本当に役に立ちたいという一心でトリーナの考えに賛同したのだった。しかしその実は、自分が除け者にされているという一種の焦りが彼を突き動かしたといって良い。

 トリーナの推理はこうだ。仕事の最中で退治の報奨金の書類が何枚も回ってくるという事は、つまり、フルトとフローティアは退治そのものが目的の仕事をしているのではない。魔物退治は、いま行っている仕事のついでなのだ。セルジュが、二人は某かの探索の仕事についているらしい、と読んだ。何を探索しているのかは、これから探らねばならぬ。

 トリーナがまず向かったのは、隣街にあるとある繁華街だった。

 行きつけの店が何件かあって、それとなく情報を仕入れるのだ。

 隣街までは歩いた。遠回りして乗合馬車を使うより、歩いたほうが早かった。アデルナ人は一日で午前中にもっとも働く。昼食をとってしまえば、あとは外国人に云わせれば「ダラダラしているだけ」だ。いちおう動いてはいるのだが、とても仕事をしているようには見えぬ。中には、生真面目に休みもとらず働いている人もいるのだが、アデルナ人の世間一般的な常識では、そういうのは変わり者だということを知らねば、アデルナでは生きてゆけぬ。むしろひっきりなしに現れる魔物のほうが、人間より働いているのかもしれない。ただしハンテールはその魔物を狩っているのだから、その周辺産業に従事している者と合わせて、それなりに一般人よりはあくせくしている。

 二人は途中、小店で昼食をとり、トリーナは約束どおりほうれん草のニョッキとコーヒーをおごってやった。トリーナの周到な人心掌握術(のつもり)だったが、唯一の誤算は、食べ盛りのセルジュがほうれん草に続いてカボチャにクリームソースのものとニョッキばかり三回もお代わりをしたことだった。

 目指す場所へ到着したころは、街は直射日光も最高に気だるい空気の演出をしている午後となっていた。開いている店はほとんど無く、オープンカフェも出歩いている人間もまばらだった。トリーナのが行こうとしていた店も閉まっていた。しかし彼女は店の裏へ行き、裏口から店内へ入った。

 「おい、おっちゃん、いるんだろッ」

 カーテンが閉められ、薄暗い店内に人気は無く、物音も無かった。空気だけがアンニュイで、トリーナのバカみたいに大きくて陽気な声が、ひどく場違いだとセルジュは思った。

 「おっちゃんってば、どこだよ!」

 「うるせえ。ここは山か。それとも湖か。野獣だってそんな声は出さねえぜ。誰か遭難でもしやがったのか? せっかく寝かけていたのによ」

 「昼寝にはまだ早いよ。仕事だ、ホラさっさと飲み物でも出しなよ」

 「見てのとおり、店は閉まってるぜ」

 そう云いつつも、見事な禿げ頭へ再度愛用のバンダナを巻き、灰色クマのように大きい身体を狭い店内で器用に動かして、マスターはコーヒーを用意し始めた。残り火へ手早く薪を入れ、上質の豆を炒りはじめた。焙煎の薫りが誰もいない店内へただよう。トリーナは適当に椅子へ座り、セルジュは緊張して、トリーナの向かいへついた。「ここのコーヒーはさっきの店とは別物だぜ」二人はコーヒーができあがるまで無言だった。外は異様な残暑だったが、室内はやけにひんやりとしていた。かすかな遮光がカーテンの間より差していた。天上の高いところにある窓より微風が舞い込んできていて、忘れたころにカーテンを少しだけ揺らした。やがて小さなカップに漆黒の薫り高い液体が注がれて、テーブルにやってきた。その鼻をくすぐる快感に、セルジュは自然に手が出て、静かにカップへ口をつけていた。

 「どうだい?」そう云ってニヤニヤするトリーナを、さらにニヤニヤしてマスターは見下ろした。セルジュは、なにか懐かしい味だと思った。ウガマールの風景が、ここよりももっと熱い砂を駈ける風が、首都の空に響くセペレール諸神への祈りの声が、この濃厚で熟した深い漆黒の液体の中よりおぼろげながら浮かんできた。二人は存分にマスターご自慢のコーヒーを味わった。

 「さて、コーヒータイムは終わりだ。仕事だと? トリーナ、他人連れとはめずらしいじゃねえか」

 「まあ、事情があってね。ほら、自己紹介しなよ」セルジュは立ち上がり、丁寧に礼をし、名乗った。

 マスターの目の色がかすかに変わった。

 「へえ、あのフルト氏の。あんたが、セルジュさん。こんな子どもとは………失礼、子どもだよな?」一瞬、意味が分からなかったが、セルジュはうなずいた。

 「トリーナ、なんでおまえがこんな有名な事務所の方といっしょなんだ」

 「いろいろあるんだよ! それでいま、そのフルト氏の仕事を探ってるんだ。なにか聴いてない?」

 「意味がわからねえな。直接聴きゃあいいじゃねえか。同じ事務所だってのによ」

 「だから、聴けない事情があるんだよ」

 マスターの眼が油断無く光った。「感心しねえな。勝手に事務所の方を面倒に巻き込むんじゃねえ、トリーナ。内緒の仕事にはちゃんと理由があるもんだぜ。特に、フルト氏ほどの退治屋ともなるとな。おまえ、何かあったときに責任がとれるのか? 無責任な仕事につきあう気はさらさらねえぜ。帰りな」

 「お堅いこと云ってんじゃないよ」

 「ばかやろうッ!!」

 セルジュはその迫力に竦み上がった。

 「てめえがそんなマヌケだったとは知らなかったぜ。金輪際、てめえに売ってやるネタはねえ。帰れ。二度と来るな」

 ここで何の物おじもせずに食ってかかるのがトリーナだった。「なんだと、この!」立ち上がり、マスターをにらみつけた。「意味が分からないよ。急になんなんだ。わけを説明しなッ」

 「説明しなきゃ分からねえようなら、てめえに初めからこの仕事は無理だ。フルト氏のような超一流の退治屋の仕事に、おまえみたいな素人が余計な首をつっこむんじゃねえ。命あっての物種だぜ」

 トリーナが見る間に紅顔となった。「ネタ屋だって退治の仕事に命かけてるんだ!! 素人ってどういう意味だよ!! バカにしやがって、その云いぐさは納得できない! 今すぐ取り消しな!!」

 「トリーナッ」

 「ふざけてんじゃねえや!!」トリーナはテーブルをひっくりかえし、半泣きになりながら、店から飛び出た。セルジュは、わけが分からず、とにかくあとに続く。ちゃんとマスターに挨拶をするのを忘れなかった。

 マスターはため息をつきつき、トリーナが癇癪をおこしてぶちまけたテーブルや椅子を直し始めた。

 「ずいぶんなじゃじゃ馬を可愛がっているじゃないか。フフ……知らなかったよ」

 そう、奥より現れた者がいた。暗がりの中に狼のような灰色の瞳だけが冷たく光っている。黒髪と、年齢や人種の特定できぬ特異な顔だちが印象的だった。背は、あまり高くない。中肉中背だ。マスターは自重気味に笑って、すぐに懇願するような眼と、厳しい顔つきになった。

 「なあ、マーラーさんよ。頼むぜ。あいつは昔のツレで恩人の娘なんだ。あの通り末っ子で甘やかされている。エクソイル フルトの仕事ってこたあ、どうせ、あんたも別口で一枚からんでいるんだろ? 最近、裏で騒がれている例の事件だと思うんだ。あれは、正直かなりヤバイぜ。ヤバイ臭いがする。なあ、ちょっと面倒みてやってくれねえか」

 「元アンダルコンがそこまで云うのなら、かまわんよ。あの事務員の子もいっしょなら、フルトヴェングラーにまた貸しもできるだろう。あいつに貸し付けは多ければ多いほどいい。フフフ………」

 「ありがてえ。恩にきるぜ。あいつ一人ならオレの問題だが、あのセルジュって子を巻き込むのは見過ごせねえ。オレだって、退治業界の端くれだ。フルト氏ほどのハンテールを敵に回したくねえ。ご覧の通り、云ったって聴かねえんだ。少し痛い眼をみねえと分からねえんだよ」

 「あの子なりの意地ってものがあるのだろうよ」マーラーはそれだけ云って、気がつくといなくなっていた。片づけが終わると、マスターは昼寝を中止し、浮かぬ表情で、カルバドスを開けてちびちびとやりはじめた。


 トリーナが店を出て、奮然と通りを行くのを、セルジュは黙って着いて歩いた。トリーナはよほど悔しかったのか、泣いているようにも見えたが、それを追求する勇気は無かった。トリーナはセルジュを忘れてしまったかのように、一人で先を進んだ。セルジュは声をかけようかどうしようかずいぶんと迷ったが、黙っていた。やがて、トリーナは立ち止まった。「なあ、まだおいらといっしょにいくのか?」セルジュは、トリーナが先ほどマスターに云われたことを想像以上に気にしていることに少し驚いた。あれだけの啖呵を切ってなお、ずっと悩んでいたにちがいない。振り返らずにそう云ったトリーナの後ろ姿に、セルジュは、ただ、「もちろんです」と答えるのがやっとだった。正直、不安がないわけではない。しかし、このまま事務所でただ書類を整理しているのほうが、もっと不安だったのた。

 二人の不安は共通していた。自分の存在するはずの場所に、実は自分はいないのではないかという不安。そして今まではいたのかもしれないが、いま急激に取り残されはじめているのではないかという不安。焦燥といってもいい。それが、二人を無理に突き動かしたのだった。衝動的な行動は、取り返しのつかぬ失敗へ結びつく可能性が高い。しかし、そのことへまだ気づく二人ではない。

 トリーナはセルジュを連れて、例の店へ向かうことにした。いまから行けば、夕方には着く。最近はフルトとフローティアは事務所に戻ってくることも希になったので、セルジュはそれへ同意した。トリーナが向かったのは、都でも数少ない地下都市への入り口のある、アルフレートの店だった。


 馬車を乗り継ぎ、アルネード区へ向い、かつてフローティアと通った狭い路地への入り口に到着したのは夕日も街頭の影へ下りてしまったころだった。鬼火のような街灯が再びぼんやりと暗い通路を照らしていたが、不思議と以前のような雑然とした気配は無く、やたらと整然とした空気、しかも重苦しい規則正しさというべきか、緊張感が支配していた。明らかに前とは雰囲気がちがっていた。トリーナは少々戸惑ったが、いまさら引き返せぬ。はぐれぬよう、セルジュの手を強く握り、ゆっくりと歩いて路地へ入った。セルジュはなぜ急にトリーナがそのようにするのか分からなかったため、驚いた。

 「ひ、一人で歩けますよ」

 「ここはもう、退治の現場なんだ。セルジュ、おいらもあんたも、魔物を退治する資格も技術も無いんだから、二人で一人だよ」

 セルジュは急に心臓が鳴った。緊張で彼女の掌は汗でびっしょりだった。実は二人で一人どころか、二人で半人前以下なのは分かっていた。嫌でも荒くなる息を整え、静かに歩きだした。トリーナは、いつも感じるざわざわする気配がまったく無くなっていたので、それが不気味だった。静かだが、目に見えぬ重圧が場を押しつぶしていた。

 やがて、路地も真っ暗になり、行き着く店へ到着した。店のドアはみすぼらしくなっているようにも見えたが、よく見ると取り替えられて新しくなってもいた。印象と感覚がどうにもちがった。

 ドアを開けると店内の様子は変わらなかったが、いつもの(工房の騒音のような)音楽は消え、代わりに激しい管弦楽が鳴っていた。さすがに驚いたが、それは最新の録音装置によって作成された録音円盤の再生だった。

 「へえー、マスター、そりゃストアリア製の機械じゃないか!? ゼンマイ式か? まさか、電気式!?」

 トリーナはカウンターへ暗い面もちで立っているアルフレートへ近よった。マスターは心なしか、やつれているように見えた。

 「あ、あら、トリーナさん……いらっしゃいな」

 「音楽を止めてよ。話があるんだ」
 
 「いや、その………まだ操作になれていなくて。新しい常連さん方のお好みで置いているのよ」

 「へえ」トリーナはそれとなく店内を見渡したが、暗がりに人の気配はあっても前とそれほど雰囲気は変わっていないように思えた。

 「ねえ、マスター」トリーナはカウンターへ詰め寄った。セルジュも、不安げにその後ろへ立つ。アルフレートは、セルジュをチラチラと見た。

 「この前きた、おいらのツレ、さいきん、ここに来てない? その………有名なハンテールの人とさ」

 「有名な?」マスターはそれとなく店の奥の暗がりを見た。何者かが動いて、手を振ったように見えた。「情報は入っていますよ。その………もしかして、ハンテール フルトさんの事務所に入ったという話かしら? お名前はたしか………」

 「フローティアっていうんだ。ハンテール フローティアだよ」

 「ああ、そう。あのお嬢さんね。ええ、来ましたよ、何度も。何度もね。仕事で」

 「何の仕事をしているか聴いてないか? その、簡単でいいんだよ」

 「トリーナさんは関係者ではないの?」

 「まあ、ね。まだ関係者じゃないんだ」

 「そうなの………そうなのね。ええ、来てますよ。何度も、地下に行っていますよ。前にトリーナさんが行ったところよ。行ってみる? また。お代は、こんどでいいわ」

 「えっ、いまかい?」それにはトリーナも躊躇した。何の準備もないし、今日は同行者がフローティアではなくセルジュなのだ。

 「今日は、いいよ」

 「そうなの?」

 また、マスターが背後を気にするそぶりをみせた。いつも細長くピンとモダンに仕立てた特別なカイゼル髭が、心なしか枯れた蔦のように垂れてだらしがない。眼も充血し、虚ろだ。

 「トリーナさん、その………」

 「もういい、アルフレート。彼女たちは、わたしの部下が案内する」

 はたと音楽が止み、二人が注目すると、店の奥より騎士装束であり軍服でもある衣服に身を包んだ、背の高い女性が現れた。アデルナ語を話しているが、独特の訛りがあった。それは二人も知っていた。彼女はストアリア人だった。

 「し、少尉さん、しかし………その」

 「マスター、我々へ全てまかせておけ」

 長い見事な金髪を後ろでまとめて結い、銀のメガネがキラキラと闇の中で光っている。肩幅が広く、ガッシリとした体つきで、いかにも女戦士という風体だったが、あふれる気品も併せ持っていた。軍服の胸元がはち切れんばかりに盛り上がり、彼女はそれを強調するようにその下で腕を組んだ。

 ストアリアは広大な地域・小国家を束ねる帝国であり、多民族国家であるので、純粋なストアリア民族というわけではなさそうだった。具体的には鼻がやや低く、顔は丸い。どこか東方の雰囲気を併せ持つ。レナ ロジェストヴェンスキー皇帝軍少尉。ストアリアの東隣、ルーランド大公国の騎士を先祖に持つ、ストアリア人士官である。少尉が二人の前に立ったときには、既に二人は数人の兵士に囲まれていた。トリーナは驚きで声も出なかった。マスターを見たが、マスターはもう眼を伏せ、震えていた。レナは二人を見下ろし、機械のように口を動かした。

 「いまより、おまえたちの身柄は我々が拘束する。身の程を知らず、余計なことへ首をつっこんだ報いと理解するがいい」

 たちまち、兵士たちが二人へ掴みかかり、抵抗させる間も与えずに猿ぐつわをかませ、拘束具を取り付け、装備を奪った。二人は混乱し、すっかり動けなくなってからささやかに抵抗したが、拘束具が食い込んで痛いだけだった。その肉体的な痛さと精神的な絶望感で、二人は、まったく、絞められて羽をむしられる寸前の鴨のようにぐったりとおとなしくなってしまった。二人は目隠しをされ、縄を打たれると店の奥の暗闇へ連行された。マスターはおそるおそる、その様子を横目で見ていた。二人の命の保証は無い。そのままスパイ罪で処刑されても軍の正当な権力行使である。

 「アルフレート」

 マスターはビクリと顔を上げた。まだ震えている。レナは眼を細めた。

 「我らの研究が実を結べばおまえの家も復興なる。それが、なぜ理解できない?」

 「い、いまさら、魔導士の家なんか復興して、なんになるっていうのかしら」

 レナは眉をひそめた。「アルフレート ダリィー。かのダリー伯爵家の末裔が、何を云っているのか。かつて銀の月の王宮で吸血鬼王へ側近として仕えた身分が、こんな場末のマスターで良いというの? 地下都市への入り口の番人で」

 「大戦で力と古い秘術のすべてを失い、我が家は代々、地下入口の番人だわ。それが、わたしの使命。地下へは、しかるべき者しか入ることは許されないのよ」

 「なにが使命よ。番など犬でもできる」

 「魔導士なんか、犬以下」

 「卑屈にならないで。現代の、知性や教養のかけらも無いチンピラと比べたらだめよ。教授にすべてをまかせなさい。失われた力、きっと復活なる」

 「教授……ヘルムート フォン…カラヤン教授………」マスターは首を振った。「ムリ………ムリムリ………魔導王、吸血鬼王の復活だなんて………だって王さまは、完全に滅びたとされている。聖導皇家の闇の皇太子によって」

 「暗黒の稲妻!」レナのメガネが不気味に光った。まるで、その瞳が光を発したようだった。マスターはその引きつった喜悦の表情に吐き気がした。「ドゥンケルブリッツ………!」レナはそう吐き捨てた。「ストアリアにとっても、因縁のある相手よ。まあ、見ていなさい………聖導騎士や魔導騎士の血を引く凄腕のハンテールが、この街にはウヨウヨいる。その血その肉を分析し………きっと、復活の手掛かりをつきとめることができる………! 聖導皇家と魔導王は表裏一体。なぜなら古い絶対的な魔導王の血族より生じたのが、聖導皇家なのだから。神話を信じるのならばね。いいこと、おまえにも分かる話だろう。誰にでも分かる簡単な話だ。魔導王とその眷属が根絶しているのなら、聖導皇家を調べるしか手はない。きっと、かれらの血液と血脈の中に、ヒントがあるはず。なんなら、おまえの血を採血してもいいのよ。古い正統な魔導士の血脈のおまえの」

 マスターは震え上がった。眼をつむり、拝むように手を合わせた。レナはほくそ笑んでカウンターについた。

 「さあ、音楽の続きを。冷たいものをちょうだい。よく冷えたワインがいい。アデルナワインを。交響曲第八番、第四楽章アレグロ コンブリオ、拡大されたソナタ形式。ちょうどいいところまで来たわ。これから再現部」

 再び、壮大なる管弦楽が、店内に轟然と響き始めた。「なんなの、あんた方、いったいなにが目的なの? だって、ストアリアは聖導皇家の正統な後継者の国なのに、魔導王の復活………!? あんた方は本当にストアリア軍なの? 本当に皇帝の命を受けて活動しているの………?」マスターのつぶやきは、音楽でかき消え、レナまでは届かなかった。


 トリーナは、まったく意識が混濁していた。精神は混乱し、パニック状態でただ引っ張られて連行される自分を確認するのが精一杯だった。なぜ、このような事態になったのか。自分はただフローティアの役に立ちたかっただけなのに。なぜ。レナの言葉が何度も耳に響いた。自分は、分不相応なことをしたのだろうか。身の程を知らなかったのだろうか。人間には本来分相応というものがあり、それを超えるべく努力をするというのと、それをわきまえず勘ちがいをするのとは異なる。自分は後者だったのか。少なくとも、フローティアの邪魔をしていることだけは間ちがいない。まったく自分が嫌になり、死にたくなった。いまほど彼女の自信と誇りが喪失したことは、無かった。

 知らぬうちに、トリーナは泣いていた。目隠しの布が涙で濡れた。恐怖ではない。悔しいのと、情けないのと、絶望で涙があふれた。ストアリアは軍事国家である。彼らがアデルナで何をしよとうしているのかは知らぬ。しかし迂闊にも軍の機密作戦へ首をつっこんだのなら、それを探っていることになる。間諜は死刑と相場がきまっている。本当に命の保証は無い。自分がここでもし殺されても、それは自業自得といえた。そんなことは、恐ろしくはなかった。ただ、もしいま殺されてしまったら、とても後悔する。それが本当に嫌だった。もう一度フローティアへ会い、名誉だけでも回復しなくては。彼女に誤解されたまま死ぬわけにはゆかぬ。

 トリーナはただそれだけを希望に、泣くのをやめた。セルジュはどうしているだろうか。一行は彼女の知らない道を歩いているようだった。と、すすり泣く声が耳に入ってきた。きっとセルジュだ。彼は不安と恐怖に泣いているのだ。自分がしっかりしなくては。おっさんの言葉が蘇った。セルジュを巻き込んで、いざというときに責任がとれるのかと。いまがそのいざという時だ。「とってやろうじゃないかッ!」トリーナの胸へ、こんどは覚悟が生まれた。

 「泣くな、セルジュ!!」トリーナはじっさいに声に出していた。ストアリア兵が笑った。猿ぐつわがかまされているので、言葉になっていなかったのだ。やかましいと小突かれた。

 しかし、セルジュの泣き声は、止まった。


 ずいぶんと歩いた。足が痛かった。なにより拘束具がつらかった。歩兵どもは歩くのが仕事のうちだから平気なのだろうが、けっこうこたえた。ふだんよりネタ探しに歩き回っているつもりだったが、甘かった。自分でこれだから、事務屋のセルジュはさぞやであろう。そう思ったが、意外や、セルジュも平気で歩いているようだった。彼は事務所では事務勘定方だが、本来はフルトの従者であり、聖騎士たる主人が馬に乗っても彼は手綱をとって歩き続ける。馬が走れば、彼も走る。戦場ではそれへ武器鎧がつく。そのように、幼少より育っていた。

 兵士たちもしばらく無言であり、彼女はかなり冷静になることができた。なにより空気が変わった。匂いだ。これは、覚えのある空気だった。いよいよ、地下都市へと到着したのだ。すると、遠くより雑踏の雰囲気がした。それはすぐに接近し、周囲を埋めつくした。かつての凍りつくような静寂はすでに無い。人々の声、はたらき回る音、トランペットに太鼓の軍楽の音色。陣営地へ到着したようだった。言語はストアリア語だ。少ししか分からない。もっと真面目に習っておけばと、こんなところで後悔した。二人はまっすぐ建物の中に入った。トリーナの記憶では、地下都市のどこにもこのような建物は無かった。石造りで、歩く感触としてはとても古いものだった。だから、遺跡のどこかなのだろう。ただし軍により某かの改修を受けていると判断したほうが良さそうだった。とある部屋で、やっと彼女は拘束を解かれた。目隠しによる暗闇に馴れた眼でも、部屋は暗かった。とたん、「やい、セルジュはどうした!!」とわめこうとしたが、疲労のあまり声が出なかったのには自分で驚いた。気を張っていたが、身体は正直だ。兵士は終始無言で彼女を監禁した。いわゆる独房であり、空気取りの小さな穴が天上近くにあって、そこから外の明かりが入り込んでいた。地下都市の天上より降り注ぐ、あの柔らかい木漏れ日のような不思議な光の一部だ。ここは、非常に古い遺跡の一室だった。狭く、人間一人が横になれる程度で、しかしベッドも何も無かった。土埃が積もり、カビ臭かった。外の喧騒すら聞こえぬ。ただドアは新しく、新たにつけ直されていた。丈夫なオークの木に鉄の張りがあり、少なくとも殴ろうが体当たりしようが無駄なことは理解できた。ガウクの木こりですら、ぶち破るのは至難だろう。ドアには食事を届ける小窓も無く、幽閉部屋以下だと思った。このままここで干からび、遺跡の一部と化しても、まるでおかしくない。むしろその可能性が高い。

 「冗談じゃない」トリーナはふるえあがった。「考えろ、考えるんだトリーナ。盗賊修行の成果をここでみせるんだ。じゃなくば死んじまうぞ!」座り込み、考えたが、疲労のせいか、緊張と不安のせいか、そのまま呆気なく眠るように気絶した。


 「起きろ」トリーナは揺り動かされたので飛び起きた。見知らぬ者がいた。兵士かと思ったが、ストアリアの軍服を着ていないのでちがった。「だ、だれ」小さく云ったが、男は答えなかった。「どうやって入ったんだ?」それにも答えなかった。ただ、「さ、出るぞ」とだけ云って、男は立った。トリーナも急いで立った。小穴よりの明かりの筋に、男が映った。フローティアのような深い黒髪、灰色の眼。年齢不詳、何国人にも見え、何国人にも見えぬ顔だち。そして腰の大きな刀が目に入った。ベルトの上に巻かれた丈夫そうな白布に差しこまれたそれは、ゆるやかに弓反りに曲がっていた。きっと片刃の特殊なものだろう。しかしそれにしては長い。柄が大きく、両手で扱えるようになっているのが理解できた。作りも頑丈そうで、鞘は木造りのようだが艶消しの黒が塗られ、何より質実剛健としていた。「それは、どこの剣ですか」思わず訪ねたが、それが男には面白かったらしい。「このような状況で私の剣が気になるか? たいした胆力だ。逃げるのに依存は無いな?」「あなた、誰なんですか?」トリーナは眉をひそめた。助けてくれるのは良いが、共に行動して良いのかどうか判断がつかぬ。

 「名は、マーラーだ。リール マーラー………」男が開け放たれたドアより外を伺いながらつぶやいた。トリーナは硬直した。分からなかった。彼が自分を助ける意味と状況が。エクソイル マーラー。裏ハンテールの筆頭。闇の退治屋。お尋ね者。アンダルコンから無許可退治行為、公務執行妨害、魔物の違法取扱、騒乱罪、器物破損、無許可営業その他諸々の罪で追われ、さらには特務警察にまでハンテール犯罪者として追われている。賞金は累計九千アレグロ。カルパスはおろかアデルナで問答無用にダントツ一位の賞金首だった。彼を恐れる者、嫌悪する者も当然いたが、憧れる者もいた。その伝説の裏ハンテールがいま、目の前にいて、自分を助ける? 意味が分からない。

 「本物なの!?」

 「逃げるのか、逃げないのか。ぐずぐずするやつは嫌いだぞ。セルジュだけ連れて行くぞ、トリーナ」

 「なんでおいらの名前を知ってるんだ?」マーラーはもう廊下へ出た。トリーナはあわてて続いた。なんでもいい。助かるのなら。

 二人は廊下を進んだ。マーラーが振り向いてささやいた。「足音がうるさい。マンティコアだってそんな足音だったら驚いて逃げるだろう。少し静かに進むんだ。ただし、急いで」

 トリーナは驚愕した。自分は足音をけす技術を持っているのに。しかし、マーラーの云う通りだった。彼はまったく息の音すらたてずに、影のように前を行く。しかも異様に速かった。刀へ左手を当て、下半身のみがすみやかに動き、やや前屈みになった上半身はまったくぶれなかった。彼に比べれば、自分は年老いてよろよろするネズミに思えた。

 廊下の途中に、倒れる兵士が何人かいた。眠っているのか、死んでいるのか。詮索するのはやめておくことにした。何度か角を曲がり、トリーナの部屋と同じく真新しいドアの前へくると、マーラーはどこから調達したのか、鍵束を取り出し、開錠した。室内ではセルジュがうずくまっていたが、顔を上げ、すっ頓狂な声を上げた。「アレッ、あなたは………」マーラーが手へ指を当てた。「フルトの旦那に、貸しは二つ目だとくれぐれも伝えておくれよ」マーラーの後ろからトリーナが顔を出したので、セルジュは安心し、立ち上がった。三人はストアリアの基地より脱走を開始した。

 「フ、フフ………本来ならちょうどいい機会なので、全体の概要のみでも探るのだが………まあ今日は見逃しておくとしよう。連れが二人もいるしことだしな」

 「誰かに情報を売るのですか?」

 「フルトの旦那には売らんよ」マーラーはニヤリと笑った。それからは、三人はひと言も発しなかった。少なくともトリーナとセルジュには、発する余裕が無かった。二人はあたふたと、転がるようにマーラーへ着いて行くのがやっとだった。手筈は、ここへ忍び込むまでにすべて彼がしておいてあり、ドアというドアは鍵が開き、人気(ひとけ)という人気は無かった。ただ静寂と、建物の奥よりかすかに聞こえる物音だけだった。たちまち表へ出て、トリーナは光の柱へ眼を細めた。外もまるで人の気配が無いのが、トリーナは不思議でたまらなかった。振り返ると、自分たちがとらわれていたのは神殿のような大きな建物であることが分かった。地下都市のどのあたりなのか、それは見当もつかなかった。きっと自作の地図には載っていない部分なのだろう。

 すぐさま、三人は基地外へ脱出する手筈へ移った。マーラーの、影から影へ跳び、光の合間を縫って進むさまは、人間とは思えなかった。二人はただ驚嘆した。街は整然と区画されており、マーラーはそこを適格に進んだ。時に、角で急に立ち止まるときがあり、物陰に隠れると兵士たちの警邏隊が出現し、それをやり過ごした。どうして敵の接近が分かるのか、それも謎だった。いちど、一本道で前方より足音がしたときは、後戻りはせずに、なんとマーラーは崩れたレンガを取るといま来た方向へ投げつけた。路の遠くでレンガの砕ける音がして、「なんの音だ!」と兵士たちが走ってきた。トリーナとセルジュは混乱したが、マーラーはあわてず二人を道端の影へ隠し、自らも息を殺した。影といっても道端であり、よく見れば容易に発見できる。しかし兵士たちは遠くの物音に気をとられ、近くの足元などは、まるで見なかった。兵士たちの眼には、自分らは石か何かに見えていたとしか思えなかった。マーラーはニヤッと笑うと、再び先を急いだ。

 「催眠術でも?」トリーナはそう思ったが、マーラーは何も語らなかった。

 三人はそのまま路地を小走りに進んだが、とある角でマーラーが止まった。二人はむしろ助かった。完全に息が上がっていたからだ。一刻も早く地上に出たいのはやまやまだったが、「もう一歩も動けない」状況だった。

 二人は汗をぬぐい、腰に手を当て、天を仰いだ。光の柱が、朧月が幾つも出ているように見えた。マーラーは遠くの匂いを嗅ぐように、眼を細めて首を回していた。

 「なにか?」トリーナがしかめっ面で訪ねた。本当はその次に「悪いことでも?」とつなげるつもりだったが、恐ろしくて聴けなかった。案の定。「意外に早く気づかれた。脱出口を塞がれたようだ。小隊が展開している。警邏部隊じゃないぞ。本格的な追跡部隊だ。さっきみたいな小手先の術は通じない」

 「ええっ!?」トリーナはその意味も分からぬほど、酸素不足に陥っていたが、すぐに意識を回復させた。

 「ど、どうするつもりなんだッ?」

 「ストアリア軍、敵も然る者だな………ちがう出口から出よう。クルター区に通じている路を知っている。ちょっと遠いがね。さらに面倒なことは、正反対なんだ。最短で行くには、基地を横切らなくてはならない」

 何を云っているのだろうとトリーナは思った。もちろん、迂回するにきまっている。

 「こういうときは、裏をかくんだよ。二人とも覚えておくといい」

 トリーナは反論した。「まさか。何を云っているのか分からないよ。あんたはいいだろうけど、おいらとセルジュは、あんたに着いて行くのが精一杯なのに………無理だよ、足手まといになる」

 「私は平気だ。私はただ依頼されているだけだ。金を返して、無理だったと云えばそれでいい。君らを救う責務はあっても義務はない」マーラーの眼は本気だった。こいつは、さらに気合を入れないと、置いてゆかれる。そう思った。彼には、依頼を成しえなかったときのハンテールとしての名誉の失墜も信頼の損失も何も無い。なぜなら、はじめから資格を有していないのだから、それらもはじめから無いのだ。

 トリーナは寒けで汗が一瞬にして引いた。セルジュを見たが、セルジュは今の話に、口を真一文字に結んで真剣な視線をマーラーへ向けていた。「セルジュが行くのなら、おいらだって行くさ!」そう思い、トリーナはうなずいた。マーラーは満足げに二人をみつめると、踵を返し、再び進んだ。しかし、速度がやや落ちていた。それは注意深さの現れなのか、自分たちへの慈悲なのか、トリーナはそこまでは判断がつきかねた。

 ストアリア軍の大きな基地は遺跡の内でもまだ仕えそうな建物を利用しつつ、大部分はテントだった。いつのまにこんな規模の軍隊がカルパスへ侵入していたのか、まったく分からなかった。きっと、カルパス市当局でも知らないにちがいない。トリーナはこれをマリオへ伝えたら、もしかして大手柄なのではないかと思った。「ま、無事に帰れたらの話だけど………」広場として整地された区画に、整然と天幕が張られていた。先ほど自分たちが監禁された建物は敷地のはずれで、それも向こう側にそびえていた。だから、彼らはそこを脱出してよりぐるっと基地内を一周してきたかっこうだ。再びその方向へ行こうというのだった。「最初からそっちへ行っていれば良かったのに」と思ったところで、状況は刻一刻と変わってゆくのだから、致し方ない。それへいかに柔軟に対応できるかで、生き残れるかどうかがきまってくる。

 松明や大きなランプ、それに一部ではストアリアが世界で唯一実用化に成功している電気式照明設備も使われていた。電源は謎である。基地はやや騒然としており、兵士が出たり入ったりはしていたが、そう蜂の巣をつついたというような騒ぎにはなっていない。

 「きみたちの存在は、それほど重要視されていなかったと観るべきか………」それとも、重要すぎて、部隊内でもおおっぴらに動けないのか。重要すぎるというのは、我ながら突飛な想定だとマーラーは思った。

 「さて、悪いがきみたち、私の依頼人は一人ではなくてね………仕事は、きみたちの救出だけではないのだよ。ここまで来たからには、やはりちょっと探ってみたい。このストアリア人たちがわざわざ何をしにカルパスへ来て、なんのためにこんな地下でコソコソしているのかをね」それはトリーナも知りたいと思った。この情報を確実にマリオへ伝えることができれば、自らの地位の向上におおいに役立つことだろう。

 トリーナは武者震いをした。セルジュは不安げだったが、トリーナが肩を叩いてうなずいた。セルジュは、諦めとも決意とも見える不思議な表情をした。マーラーは、また空気の匂いを嗅ぐように、遠くを見渡した。

 「フフ、あっちのほうに、面白いものがありそうだ。行ってみるか?」

 「嫌だっつっても、行くんだろ?」

 「もちろん、行くさ。ここで待っていてもかまわないが」

 「へッ、じょうだんじゃねえよ」

 にやっと笑い、滑るようにマーラーは刀を押さえつつ暗がりへ向かった。二人は、なるべく物音をたてぬようにして続いた。人の慣れというか、学習とは恐ろしいもので、二人は知らぬうちにマーラーの動き方を真似ており、ずいぶんと静かに動けるようになっていたのだった。見張りの兵士はとうぜん立っていたが、数は多くなかった。この部隊自体が、そう多くないことを意味していた。おそらく二百名ていどだろうか。

 「そのわりには、陣容が大きい………それに、あれは、どう見ても兵士ではない」

 マーラーが暗闇より光の方向をみつめる梟のような瞳に、連れ立って歩く白衣の人物が見えた。「研究員か」とすれば、これは軍事研究部隊ということになろう。では、いったい何の研究をしているのか。

 「まあ、軍隊の研究は新兵器の開発と相場がきまってはいるが………こんな外国でそれを行っているのが気にかかる。カルパスでなくばできないこと。それはいったい、なんだというのか?」マーラーの自問は、少しずつある答えを導き出していたが、さしもの彼もにわかには信じられなかった。ストアリア軍が、魔導の研究だなどと。

 「あっちに行ってみよう」テントの合間や、新しく仮に建てられた施設の隙間を這うように進んだ。もうこうなればどうにでもなれと、二人は黙ってつき従った。


 マーラーは宿営地の構造を知っているかのように、なんの迷いもなく先を進んだ。大小のテントの合間を歩き回り、幾つかめの天幕の裏で止まった。テントには明かりが点されており、中に人がいるようだった。かなり大きく、十人以上は入れそうな規模だった。出入り口には、兵士が四人もいた。それだけ厳重なものが納められているのだ。マーラーは腰へぶら下げている袋のひとつより、幾つかの小瓶を取り出した。指を舐めて空気へさらし、微妙な動きを読んだ。息を殺して推移を見守っている二人へ、蚊の羽音のような声でこう云った。「中を探る。これは強力な眠り薬だ。吸い込まないように」二人は急いで鼻口を押さえた。マーラーは刀を腰の後ろへ回すと地面へ這いつくばり、テントの隙間から中を覗き込むようにすると、何種類かの瓶を地面の上で中身をぶちまけた。二種類の粉と、白い液体はたちまち反応し、当初は白かったがすぐに無色の煙を吹き出し始めた。マーラーが手で扇ぎ、すぐにその場を離れた。やや三人は無言で座り込んでいたが、やがてマーラーがもういいだろうと云い放ち、幕の隙間より素早く中へ滑り込んだ。そこは戸棚の裏で、三人はわずかな隙間をようやく通り抜けた。外の衛兵に気づかれぬ用にするのは、骨が折れた。中には、数人の研究者がいたが、みな地面や机へ突っ伏して眠っていた。

 「これは!?」マーラーも思わず眼を細めた。トリーナとセルジュは、声も無かった。連続して並べられた長机の上に大きなガラス容器がズラリと並び、瓶は土台の上に固定されていた。土台より細いホースが何本も伸びて、実験装置らしき機械へつながっている。ビーカーの内部は、常に撹拌されていた。テントの照明は電気式、すなわち電球がふんだんに使われていた。三人はそれよりも、大ビーカーの中身に眼を奪われた。そこにはなみなみと、濃い紅の液体がつまっていた。まさかトマトソースではあるまい。

 「ウエッ…」

 トリーナが吐き気を催した。それは、まぎれもなく血液だった。「マーラーさん、まさか、人間のじゃないでしょうね………」セルジュも、嫌悪の表情だった。「魔物や家畜の血だと思いたいか? 血のソーセージを作っていると? 舐めて確かめる気にはならないが………」マーラーは首をかしげた。さすがの彼もこの部隊が何の研究機関なのか、かいもく見当がつかぬ。

 それにしても量が多い。トリーナはこれでいったい何人分の血液なのだろうかと考えて、考えただけでまた気分が悪くなった。

 マーラーは机の上のノートや書籍へ片端から目を通した。しかし専門すぎて、短時間では理解はできなかった。「まるで謎解きだ」諦め、時間を気にした。あまり探索しているわけにもゆかぬ。「おい、行くぞ。ここはもういい」

 二人は助かったとばかりに踵を返した。と、トリーナが、マーラーが気にも止めなかったみすぼらしい手帳を机の上で発見した。とある中年の研究員が突っ伏したまま、手にしていたのだ。何とはなしにそれを手にとり、開いた。メモ帳のようなもので、アデルナ語やストアリア語でなぐり書きでいろいろと記してあったが、図もあり、面白そうだったのでこっそり失敬した。それを懐に入れると、マーラーが再度促したのでテントの外へ出た。

 三人は基地を横断し、マーラーは時おり立ち止まって建物や天幕の位置を頭へ叩き込んでいた。最後に、現場を離れるとき三人は基地で使用される電源の秘密を目撃した。広場に大きな滑車が組まれており、水平に設置されたその滑車を、横へ突き出た押し棒で回す仕組みになっていたが、数匹のストアリア=ガウクがそれをひたすら押し続け、滑車を回していたのだ。滑車は鋼鉄製で見るからに重量があり、さしものガウクたちも、力いっぱい押していた。滑車からは断続的に低い唸り声のような音がしていた。人間はおろか、アデルナ=ガウクといえども一筋縄でゆかぬシロモノに思えた。ストアリアのガウクは昆虫人間ともいえる魔物で、甲殻類ともいえた。アリ人間と思えばよく、顔の部分には巨大な複眼と触覚、大顎があり、身体は節で別れ、手足は長く、太い脚と、腕が二対四本ある。手先はものをつかめる様になっており、羽のあるものもいる。そのパワーは尋常ではなく、アデルナと違いストアリアでは中堅のハンテールといえども生半可に戦える相手ではない。天然の装甲、刃物のような爪、顎。そしてなにより、己の体重の五十倍もの重さの物体を運べる力。恐るべき魔物といえよう。やろうと思えば人間社会を滅ぼすほどの存在だったが、幸いながらそういう意思は無いのだ。

 それを、魔導士でもなく、軍隊がどのように苦役しているのか。その謎も知りたかったが、いまは諦めた。なにより、彼らが懸命に回しているのは、なんと、発電機だった。マーラーは滑車より伸びる、上空の送電線を確認した。その線は滑車の中心より突き出る銀色の塔へつながっている。きっと施設内のどこかに、電圧を調整する簡易変電所があるのだろう。

 「しかし、あの巨大なコイルを回しているのだから、恐れ入る」

 「こいる?」

 「永久磁石と銅線で、電気が起きるんだ。知っているか?」

 「も、もちろんですよ………」トリーナは咳払いをした。

 「あのガウクは、何を食べるのですか?」セルジュが訪ねた。子どもの質問はいつも唐突だ。

 「うん、まあ、あいつらは虫だから。ものを食べるといっても………あのパワーの源ではない。雑食で、糖類や、蛋白質に脂質。穀物も好きだという。人間を襲うものもいるが、畑でキノコを栽培している種もあると聞く。しかしそれは、日々を生きる為の燃料みたいなもので………スタミナとパワーの原動力は別で、生まれながらに蓄えている。幼虫のときに、親(女王)が与える体内物質だと云われている。自分では生成できない。だからその物質を使いきると、コロリと死ぬんだ。もちろん、ものを食べなくとも死ぬが。機械みたいな連中だよ」

 「ふうん………」セルジュは感慨深げに黙々と働くガウクたちをみつめた。おそらく、交代で働かせ、用がなくなればそのまま廃棄するのだろう。本当のアリの巣のアリがそうしているように。

 「アデルナ=ガウクは、あれに比べると人間くさくていやですね」

 「私は、アデルナ=ガウクは退治しない」

 マーラーはそう云うと歩きだした。二人は、カラクリ細工の時計か何かのように棒を押し続けるガウクたちを尻目に基地を離れた。ちょうど、一匹のガウクがマーラーの云うとおりゼンマイの切れた人形のようにばったりと倒れて動かなくなった。仲間の一匹がその倒れたガウクを、作業の邪魔になるからとまるで自動的に排除するように足を引っ張って引きずって運び去った。その間、二匹がいなくなったわけだが、残りは休むこともなく、いっそう力を入れて、棒を押し続けていた。


 「ここから、クルター区へ行ける。フフフ、まだこっちにまでは手が回っていないようだ。優秀な指揮官がお留守で助かったな。いまごろダリーの店へ通じる出入り口は、厳重に警戒されているだろう。もっとも連中がこっちの路を知っているとも思えないがね」

 と、いきなりマーラーが手から何かを洞穴の天井めがけて投げ打ったものだから、トリーナとセルジュは短く息をもらした。そこより、アデルナでは見たことも無い大きなコウモリが飛び去った。

 「ま、魔物ですか?」

 「いや………」マーラーは沈思した。しばし静寂が訪れる。「まあ、いい。ストアリアではなさそうだ。フフ……ターティンか?」

 逃げたコウモリへ何をするでもなく、マーラーは洞穴へ入った。コウモリはマーラーの放った手裏剣を持ち去っていた。洞穴は、そのまま秘密の通路と化し、他の地下都市へ通じているのだ。

 「クルター区のどこへ出るんですか? ここからあそこまでは、けっこう遠い………」

 セルジュが、さすがに歩き疲れたといった態でつぶやいた。「正確には、クルター区の地下に通じている。あそこは、こんな遺跡じゃないぞ。いまでも、立派な地下都市だ」

 「えっ!?」トリーナが声を上げた。ここは知っていたが、そのような場所がカルパスにあるとは知らなかった。「おたくのご主人様もしょっちゅう出入りしている。闇の市場だからね」それも知らなかった。まあ、とうぜん予測のつく範囲内であるが。

 「なんでもあるぞ。魔導書専門の古本屋………たいていは偽物だが………魔物市場に、魔導薬や秘術道具の店に、それらの材料の店。それに闇の闘技場。見物してみるか? 魔物同士、あるいは喰いつめや一攫千金ねらいのハンテールが魔物やお互いと戦って賞金を稼いでいる」

 トリーナは唖然とした。「それって………禁止の………」

 「地下都市だと云ったろう。ただ地下にあるからというだけで、そうは呼ばれないということだ。カルパスの行政権は、地下には達していない。だから、ストアリアの基地がここにあったって、カルパス都市政府には何もできないのだよ。制度上はね。地下闘技場は旧魔導王国時代より千年の歴史がある。魔導王が滅びても、代々の支配者がパトロンだ。そう簡単に廃れはしないよ」

 まさかマリオがその賞金主の一人なのではあるまいかという疑問が浮かんだ。ハンテール協会の総元締たる人物だ。信じたくなかったが、おそらくそうだろう。ハンテール業界の裏も表も支配している人物なのだから。

 トリーナは話をすり替えた。

 「そんなことより、この暗いのはなんとかならないのか? あんたは闇でも眼が見えるのかもしれないけれど………フローティアは呪文を唱えてくれた」

 「この中に呪文使いがいたとは初耳だ。我慢したまえ。まだ連中から見える位置にいる。見えなくなったら、ささやかだが明かりを用意してあげよう」

 マーラーは洞穴へ入り、二人は再び手をつないで、慎重に歩きだした。なにせ、本当に真っ暗で、出入り口より漏れる微かな外の明かりだけが頼りなのだ。それが後方でだんだんと小さくなり、ついにはまったく無くなって、まるっきり闇だけが自分たちを取り囲むに到り、一歩も動けなくなった。

 「ちょっと、マーラーさん!!」

 ワアーッと何かがざわめいた。トリーナの声に驚いたのだ。洞穴へ住む、小さい何万匹ものコウモリだろうか。

 「こっちだ」鬼火にしか見えなかったが、足元へ気をつけつつ、その遠い光をめがけて進み出した。しかしマーラーは思ったより近くにいた。灯が小さいのだ。

 「すまんね。携帯用のさらに簡易品なものでね、フフ……」

 「ろうそくですか?」

 「そうだよ」掌サイズの、懐中電灯ならぬ、懐中ろうそく立てだった。ろうそくも、とても小さい。近づけると、互いの顔がうっすらと見えるていどの光だ。ただしよくできた物で、ラッパ状の覆いがついており、光は照らす方向にしか向かない仕組みになっている。しかも、ろうそくを立てる台はオートジャイロ方式で、上でも下でも斜めでも、どこを照らそうと、常にろうそくは垂直なのだ。

 「私の秘密道具のひとつだ」マーラーは自慢げだった。そんな表情もするのかと、トリーナは思った。

 小さなろうそくは特製のようで、なかなか燃え尽きなかったが、それでも半刻少々もすると無くなった。マーラーがすぐに替えを出した。数本、常備しているという。これも自動的な機構の携帯火口で、マーラーは素早く点火した。「すごいですね」トリーナは感嘆した。自分の盗賊道具よりもはるかにすごい。

 「私の師匠から教わったんだ。東方の道具だよ。私が独自に改良している」

 「東方の?」

 「地のはて、海のむこうさ………」

 マーラーは、それだけで後はもう何も云わなくなった。さびしそうにも聴こえたし、過去を拒絶するようにも聞こえた。あまり詮索はしないでおいたほうが良さそうだと判断した。セルジュは、ずっと無言だった。ただ、自分の手を握る力が徐々に強くなってきているのに気づいた。たしかにここではぐれるわけにはゆかぬと、トリーナも握り返した。すると、妙な事にセルジュは握る手を緩めてしまった。

 三人は途中で休憩を挟みつつ、ひたすら歩いた。洞穴トンネルの中はまったくの闇だったが、やがて天上に星空がまたたいた。トリーナは知っていたが、セルジュは外に出たと勘ちがいした。夜光虫のような生物が光っているのだ。また、ヒカリゴケもところかしこに見られた。そのどぎつい蛍光色の前では、マーラーのろうそくの光がむしろやたらと人工的に見えるのが不思議だった。

 それから何刻歩いたか分からなかったが、洞穴の先に遠く星みたいな光が見えたとき、トリーナは思わずとびあがった。出口だった。

 急ぐ足ももつれたため、まどろこしかったが、確実にその光は大きくなった。洞穴はいつの間にか足元が整備された石畳となり、トンネルはレンガ造りのしっかりした物となった。やがて目一杯に光が広がったとき、三人は出口へ到着していた。そこは地下空間の山(崖)の途中に鼻の穴みたいにあいた穴蔵で、眼下には先ほどの遺跡がそのまま過去へ戻ったかのような光景があった。整備された区画、街並み。大きな建物もたくさんあり、天上からの光の柱も、もっと強かった。洞穴の周囲は光柱から離れていたため薄暗かったが、暗黒から出てきたばかりの眼にとっては、充分すぎる明るさだった。ここは、まさに千年の時を超えてカルパスの地下に存在している旧魔導王国時代の都市そのものだった。なにより驚かされたのは、その人の数だ! 通路という通路は活気にあふれ、人でごった返していた。よく見ると警察すらいる。私服のアンダルコンもまぎれているにちがいない。地上へ住む者のうち、いったい何人がこの光景を知っているのだろうか。

 「さあ、下りよう。疲れているようだから、今日はここで泊まったらどうかね? いい宿を紹介してあげよう。明日は少し観光しないか? 勉強になるぞ。特に、闘技場はな」

 「で、ですが、事務所が………」セルジュのいかにも心配そうな顔も、マーラーは不敵に微笑んで軽く流すだけだった。

 「大丈夫だ。宿賃や食事をする現金はあるか? 私がたてかえておくか? 事務所に請求書は回すがね、フフフ……」

 マーラーはいつにもまして楽しそうだった。

 二人は急に胸騒ぎがしてきたが、いまはとにかく、マーラーへ着いて行くだけだった。秘密の通路からは道とも見えぬ獣道がちょろちょろとのびており、山猫のようにマーラーは素早く降りていった。二人はその後へ続いたが、とても立って歩けるような角度の斜面ではなく、這い下りて、その様子はまるで地虫といえた。

 とにかく、空腹だった。


          2


 話は戻る。

 フローティアが黒剣を失ってより、その捜索をする間も無く新しい仕事がやってきた。あの「死の舞踏」とかいう縁起でも無い銘の古剣をいつまでも行方不明にしておくのはフルトも気が咎めたが、再びマリオよりの直々の依頼であるからそちらも無視はできぬ。ただしそれは剣の捜索を兼ねて行うことができるとフルトは判断したため、依頼を受諾した。

 仕事は、相変わらず小難しいもののようで、フローティアはくわしい説明を聴くのをやめた。彼女は、フルトに従うだけだった。難しいことは分からぬ。どうしてふつうの退治事務所に入らなかったのか、少し後悔した。

 それより彼女は、急激に体調が悪いことをフルトに報告しようか否か迷った。目眩、吐き気、悪寒。何度かアパートで倒れた。これはふだんより重げな月の物だけではない。風邪気味でもない。精神的なものから来る体調不良とも思えなかった。原因があるとしたらただひとつ。黒剣が完全に自分から離れたことだ。既に黒剣との結びつきは、そこまでのっぴきならぬものとなっていたのか。

 フルトは、しかし、気づいていた。

 「おい、どうした、疲れたか」

 揺り動かされ、フローティアは起きた。出先でフルトが打ち合わせをしている間、待合室で眠っていたのだ。「す、すみません、大丈夫です」その言語は、カルパス語ではなかった。ましてやウガマールの言葉でも。フルトはギョッとした。「………帰るぞ」「はい」その返事はもうカルパス語だ。さきほどはサティス語であり、紀元前の聖導皇家の言葉だった。フルトは聖騎士教育の必修科目で習っていたが、ウガマールの奥地より出てきたという彼女が知っているはずのない言語なのだ。

 帰りしな、フルトはそれとなく訪ねた。

 「フローティア、おまえ、サティス語なんかどこで習った?」古い聖導皇家の言語は、いまや教養の一環としてのみウガマールの上流階層に伝わっていて、多分に学問的なもので、もはや日常の言語としては機能していない。それを、フローティアは起きがけの寝惚け眼で口にした。サティス語の研究者とて、そうはいくまい。

 「何語ですって?」半ば予期していた答えだった。質問を変える。「おまえの生まれは、ウガマールのどこだったか?」

 「センセ=マーヤです」

 「それはまた、ずいぶん奥だなあ」さしものフルトも、すぐには位置が浮かんでこなかった。地図の端の端だ。彼からしてみれば、地のはてと云っていい。

 「しかし、聴いたことがある………」土地でもあった。古く封印された旧皇家の呪われた神官長が百年ほど前に配流された土地だというのを、以前にフルトはどこかで聴いていたのだが、いまは思いだせなかった。

 「そんな奥地では、日常でサティス語の名残があるのかもしれない。原住民の他に、古い地方官の子孫がいるという話だし」フルトはそう納得した。

 二人が帰るとセルジュが事務仕事をしていたが、事務所ではなく奥の会議室で、フルトはセルジュへコーヒーを用意させると、フローティアと今後の仕事の説明をした。

 「あいつには、余計な心配はかけられないからな」

 「危険な仕事なの?」

 「ある意味、危険だ」

 「私がいていいの? その………」

 「そうだ。剣も探さなくてはならない。目撃情報があった。二日前、つまり、あの日の翌日。すでに、黒剣の目撃がな」

 「ほんとう?」フローティアの、いまは室内で暗く藍色に沈む瞳が一瞬、青白く光ったのをフルトは見逃さなかった。

 「ジギ=タリス装具の扱い商の店で、鑑定にかけられたというんだ。若い女が持ってきたと。黒髪の、おまえじゃない、別の女だ。とうぜんな」フローティアの脳裏に、稲妻のように、一人の人物が浮かんだ。コルネオ山で出会った、あの異邦人が。

 その表情を観て、フルトは云った。「心当たりがあるようだな。しかし、じつは、オレにもあるんだ」

 「えっ?」

 「オレのほうは、鑑定屋のほうなんだが………ずっと、探している。やっと情報を得た。オレのほうも、黒髪の女だよ。偶然だろうがね。黒髪の女が二人、おまえも合わせれば三人か、それで情報屋も気になったのだろう。この街で漆黒の髪は遙かなる異邦人の証だからな」

 「マリオさん経由で?」

 「もちろんだ」そのネタ屋とやらは、アンダルコンにちがいないとフローティアは思った。カルパスの、ありとあらゆる裏に通じているのだ。むろん、情報軍・第二軍団とも連絡を蜜にしているだろう。

 「いいか、フローティア。これからオレたちは、地下都市にある地下闘技場で、賭け試合に出るんだ」

 「………えっ?」フローティアは意味が分からなかった。フルトはかまわず続けた。

 「カルパスには大戦前より続いている地下都市があって、裏のハンテールや魔導士の巣窟だ。そこではさしものギャング組織とて、大きな顔はできない。そういう場所だ。魔物が売り買いされ、魔導術の材料が売られている。人の臓器とて、そこでは術の材料だぞ。従ってそこの古いルールへ従わないものは、魔導薬の材料として棚に並べられても文句は云えない。もちろん、アンダルコンもそこではただのハンテールだ。彼らの執行権は地下では通用しない。つまり、カルパスの地下は治外法権だ。ただしルキアッティ家は除く」

 「なによ、それ」

 「裏経済も経済のうちだということだ。マリオの旦那だって、そこの自治会の顔役の一人だよ。だから、カルパスで誰もルキアッティ家へ逆らえない。コンネーロ家やフォンコート家がいくら頑張って粋がっても、表も裏も支配しているルキアッティの前では、しょせん、カルパスという大きな城へ居候している生意気な書生みたいなものさ」

 「話が大きすぎて、そういうのは分からないの」正確には、そんな政治とか支配とかいう身分の人間と関わりをもちたくない、というのが正直な気持ちだった。

 「分かる、分からないじゃない。現実だということだ。理解できなくとも、現実はそこにあるんだ。理解できないからと、逃げる必要はない。逃げても無駄だしな」

 「逃げているつもりはないのよ」

 「そうは云ってない。おまえさんが現実逃避をしているという意味じゃないよ。逆に、フローティアのように、なんでも受け入れて、理解しなくても、有りのままに自分を保てるというのは、立派だと思うがね」

 フローティアは面はゆかった。いままでどれだけの現実から逃げてきたことか。

 「そんな、たいそうなことじゃ………」最後は声にならなかった。

 「自分では見えないものさ」

 フルトはコーヒーを飲み干した。

 「話を戻そう。試合というのはな、裏の賭け試合で、むかし、魔導王の時代にはよく行われていた。それの名残だ。魔物同士が戦ったり、魔物と人間が戦ったり、戦士同士が戦ったりする。王国の正式な競技だったというぞ。今では裏ハンテールのいちばんの稼ぎ場となっている。裏のハンテールなんざ、我々が思っているよりたくさんいてね、たいていは食い詰めなんだ。資格を売ってしまってね。ハンテールの資格は、ここではカネで手に入る。裏の魔物退治は、そりあ危険でなあ。闘技場のほうが、安全に仕事ができる。命が幾つあっても足りないのは、どっちもどっちだから。少しでも安全で補償があるほうがいいだろう? 闘技場に登録すると、ケガは公傷だし、死んでも弔慰金がでるんだ。ほかに犯罪で資格を剥奪された者、はじめからルキアッティの資格なんざ興味のない者もいる。そういうのは、腕がたつぞ。有資格者だって、何人も出場して、優勝者もいる。そういうやつはな、フローティア、協会から依頼されて出ているのさ。なぜだと思う?」

 「………さあ」

 「表のハンテールにもこんな強いやつがいるぞというアピールさ。無資格者ばかりが英雄視されたのでは沽券にかかわるし、商売の円滑化を阻害する。ハンテール協会は登録料で成り立っているからな」

 「うん………」

 「じつは今回、オレはそれで出場することになったんだ。マリオの旦那直々ということは、そういうことだ。久しぶりに優勝をねらう気になったようだ」

 「ふうん」

 フローティアは完全に話に飽きて目が泳いでいたが、フルトはそんな彼女の次の反応を楽しもうと、やや意地悪げに云った。「おい、おまえも出るんだぞ、フローティア」

 「………ハアッ!?」そのビックリ顔は、フルトを満足させた。「当面はオレの助手だが、何回かは一人で試合に出てもらう」

 フローティアは立ち上がった。「冗談」怒ったように思えたので、フルトはやや狼狽した。

 「どうした、大丈夫だよ。おい、呪文で、ちょいといなしてやればいい。勝ち進めば、それだけ地下社会のえらいさんの目にも止まるんだ。黒剣の話も聴けるだろうし。これは、願ってもないチャンスだぞ」

 「あたしは、ふつうの剣なんか使えないのよ。どうやって魔物と戦えばいいの」

 「呪文使いの言葉とはとうてい思えない発言だな。魔物以外にも相手はいるさ」

 「お願い、あなたの助手以外ではダメ。一人でなんて絶対ムリ。そうでなくば、今回の仕事は下ります」

 「なにィ………」フルトは呆れ果てた。「業務命令だぞ」

 「そんなことより、その鑑定屋さん? 試合に出たら会えるの?」

 「地下に行けば、訪ねることになるだろう」

 「分かったわ………」フローティアは小声で続けた。「あなたの助手で良ければ………地下都市とやらに、行ってみてもかまわない。黒剣の行方がそこで本当につかめるのならば………」

 「じゃ、それで行こう」フルトは、フローティアがまた急に眼をこすりだしたのを気にかけた。

 「明後日、事務所へ。試合の前の日だ。オレは装備を整えておくから」

 「はい………」フローティアは再び襲ってきた異様な睡魔に、頭をグラグラさせながら、その日はまっすぐアパートへ戻り、何も口にせず倒れるように寝こけてしまった。


 その日から、フローティアの「やけにぼんやりとした」日々というのは、まったく夢の中で生きているようだった。原因は分からず、これはもう体調の悪さを超えていた。頭の心から痺れているような、意識が落ちる寸前でようやく何かにひっかかっているような。まだまだ気温は下がる気配はなかったが、ただ暑いせいというわけではないし、なにより彼女はもっと暑い気候のところから来ている。暑さ疲れではない。なにを食べても味はせず、なにを飲んでも喉が渇いた。特に牛乳を、枯渇した土壌が水を急激に吸い込むかのごとく飲み干した。肉は喉を通らず、牛乳とパンで生きた三日間だった。

 準備も何もせずに事務所を訪れたフローティアを観たフルトは、あまりに顔が青白いので息をのんだ。

 「ど、どうした」

 「病気ではないようです」

 「ないようですって、おまえ………」

 「だって身体はなんともないもの」

 「医者へは行ったのか」

 「ええ」

 「なんと?」

 「夏バテじゃないかって」

 「じゃあ………」フルトは質問するのをやめた。すでにフローティアの眼が虚ろだった。

 「おまえはいい。休んでいろ」

 「そうはいかないわ。黒剣を探さないと」

 「しかし」

 「きっと地下に行けば少しは良くなる。そんな気がするの。だって、剣が無くなってから急にこんなになったのだもの。剣が地下にあるのなら、少しでも剣と近いほうがいいと思う」その言葉には、フルトはある信憑性を見いだした。強力な古剣はジギ=タリスのパワーも強い。家宝の剣ということは、生まれてからこのかたずっと共にあったのだろう。彼女の神聖力と密接に干渉し合っていた一方が急に無くなったことで、何らかのバランスが崩れていると考えられた。それが何かまでは分からなかったが。

 「分かった。無理はするな。地下にも休むところはあるからな」

 「はい………」フローティアは眼をこすった。まるで子どものころ、明け方に無理やり起き出して、ジャングルへ食用モグラを捕りにいくようだった。セルジュへはただ新しい仕事だとだけ告げ、二人はペスカへ乗り込んだ。(今日は、移動だけなので、フローティア専属のレオナルドの馬車だった。)

 馬車はすみやかに通りを抜け、クルター区へ走った。通りが走り、そこを中心に街が広がって、神殿、区役所、警察署等の官庁があり、公園が幾つかあるという、典型的なカルパスの区の様相だった。馬車は、黙ってその公園のひとつへ向かった。フルトは区内へ到ってより詳しい行き先を告げようとしていたが、その必要はなかった。「クルタイトへの入り口を知ってるなんざ、あんた、やるじゃないか」フルトは降りしな、大めの駄賃を払いながらレオナルドへそう云った。レオナルドは無言で、うなずくだけだった。「かれは、ハンテールあがりなのよ」フルトは余計なことはいっさい云わなかった。「そうかい、今後、ひいきにさせてもらおう」

 馬車は街並へ帰っていった。

 その小さな公園は、周囲は見渡しが良いが、公園自体は木々が深く、まるで漆黒の塊だった。そこだけスポッと穴があいているようだった。ここは、ちょうどよく建物の死角となり、光が届かない。「そういうふうに設計されているんだ」フルトはぼそりと云い放った。鬱蒼とした中を二人は歩いた。フルトはまったく道を知っているようで、難なく歩いていた。フローティアは、何度も蹴躓いた。その内に慣れてくると、通りすがりのモノがたくさんいるのが分かった。ただし、人間かどうかまでは判別つかぬ。魔導の存在も数多くいたように思われた。それは、彼女ていどに正体を悟らせるようなレベルの低いモノではないということだった。フルトも、彼らを観たりしても何もしなかったし、何も云わなかった。それが礼儀であるかのように。やがて公園の一角に忘れられたようにある大きなモニュメントへ着いた。旧王国時代の自然石をそのまま利用したもので、とてつもなく古い石であり、魔力を有するといういわれがあるとフルトがささやいた。カルパスがこの地に存在するはるか以前、人間がこの地に住み着く以前からそこに存在する石だという。彼らには知る由もないことであるが、それは何万年も前に氷河が想像もできない遠いところよりこの地へ運んできた「迷い石」であるのだ。この太陽の光まぶしいアデルナの大地が、かつて氷に覆われた時代があったということだ。フローティアは、すっかり氷によって削られ、すべらかに丸いその石を見つめて、不思議な気分になった。古い石だというのに、いったい誰が削りだし、誰がこんな場所へ置いたのだろうと思ったのだ。古代人か。魔力を有しているというのなら、古い魔族だというのか。それほどに石はすべらかだった。しかも、ここが公園になる前から、いや、都市になる前から置いてあるというのだ。不思議な気持ちにならないほうがどうかしている。石の高さはフローティアの目線と同じほど、楕円形で、卵を横に倒したような形だった。色は暗くて分からず、円周は長そうだった。石は、ほんの少しの部分で地面と接しており、いまにも転がって行きそうに見えたが、試しに押しても引いてもまったく動かなかった。そこだけ、時間が凍りついた感覚だった。じっさいこの卵石は、凍れる時の秘法がかけられていても、まったくおかしくはない。じっさい、何か魔神の卵なのかもしれない。

 「おい、どけ」

 フルトが云った。撫でるようにして石の一部を触ると、いまフローティアが何をしても動かなかった石がゴロリと動いた。フルトがそれほどに怪力なのか。否。本当に小さな面積の設置部分の影が、人が入れるほどに大きくポッカリと穴があいていて、階段になっていた。フルトは、穴へ水が落ち込むようにして入った。たちまち闇に消えてしまったので、フローティアも急いで続いた。石は独りでに、音もなく元の場所へ戻った。もちろん、地下への出入り口はここだけではない。

 かつてアルフレートの店で降りた長い階段と同じように、ここもひたすら地下へ降りゆく階段があった。ただし、以前の廃墟へ続く道より雰囲気が軽かった。陰気さは無く、逆に生活感があった。何人も、常に昇り降りしているようだったが、すれ違うものは誰もいなかった。フルトは黙々と階段を降り続けた。ここには踊り場はなく、ひたすら一直線に階段が降りていた。フローティアは、もう照明の呪文を唱えることはしなかった。ただの闇ならまだしも、魔導の都市へ降りてゆくのに、あの照明は明るすぎるのだ。フルトは、暗視の術を使っているのだろうか。フローティアは、闇の中の気配を頼りにただ着いてゆくのがやっとだった。「神聖力で視るんだ」フルトの声がした。「呪文はいらねえ。眼を凝らせ」そうとも云った。それは暗視の術の教授だった。なんという、短い授業か。なんという不親切な説明なのか。しかしそれは、ぶっきらぼうだが術の奥義を直伝したということだった。フローティアは、ただ云われるがままにした。それで良かった。魔導のモノが観たならば、闇の中に四つの青白い玉が浮かんで見えたことだろう。つまりそれは、神聖力を宿した瞳が浮かんでいるのだ。彼女の神聖力は強力だったが、フルトとフローティアでは経験がちがった。フローティアは、ようやくフルトの後ろ姿を薄ぼんやりと確認した。しかし、闇を見通す眼を会得したことへ素直に興奮した。

 フローティアは、自分で思っていたよりずっと早く、地下都市へ到着した。気がつけばとてつもなく立派な門があった。松明が煌々と燃えており、もう暗視の術は必要なかった。黒大理石の彫刻で飾られ、地獄のような天国のような荘厳な魔導門だった。大きさは高さが三リートほど。フローティアは、アッと小さく声を上げた。この門は、カルパスの正門にあった巨大な凱旋門の正確なミニチュアだったのだ。

 「クルタイトへようこそ」フルトが皮肉っぽく云った。「現代に残る唯一の魔導の都だ。真の魔都だよ」

 「ここが………」しかしフローティアは中へ入り、正直云ってウガマールの首都を思いだした。雑多とした雰囲気と、古い町並みと、独特の宗教的な空気がそっくりだ。


 門からは、空間が大きく広がっていた。天井は高すぎて見えず、光の柱が何本も立っているのはアルネードの廃墟と同じだったが、明るさがまるでちがって、昼のようだった。整備された町並みはむしろ地上より近代的に見えた。そしてこの人込み! 通りをごった返す人の波にフローティアは度肝を抜かれた。

 「魔都といっても、犯罪に満ちた、混乱と狂気の街などという想像は、己の認識の甘さを晒すこととなる。この活気を見ろ! そして平和な様子を! しかしこの町の本当の恐ろしさはじきに分かる。何も、強盗や魔物が隣に暮らしているだけが、恐ろしい街ということではない」

 それは地上のことだとフローティアは思った。地下は、それよりもさらに恐ろしいというのか。

 「自分の身に直接危害が加わることも確かに恐ろしいが、それよりも、もっと恐ろしい社会の仕組みがあるんだ。みんな気づかない」

 「何なの、それ?」

 「地上は表。地下は裏ということだよ」

 フルトはもうしゃべるのをやめた。しゃべっても、雑踏の賑わいに、聞こえないためだ。フローティアははぐれないようにするのがたいへんだった。フルトは背が高いので、それでなんとかその浅黒い肌と銀色の髪を追ってゆけた。フルトはまず宿屋をとった。メイン通りを避け、裏通りの小さな、だがしっかりとした作りの建物だった。「いらっしゃいまし。おひさしゅうございます、フルト様………」出迎えの老婆がそういった。するとフルトはこの宿の常連らしい。フローティアは、出迎えの老婆を、古魔導士リピエーナをあと三十歳ほど若くしたような雰囲気だと思った。少なくとも外見は。

 通された部屋はシングルで建物は二階建て。窓より遠くの大きな建築物を見ることができた。それは四角い箱のような外観をフローティアへ見せていた。フルトが云うには、あれこそ古の呪われた闘技場ということだった。フルトは一休みした後、自分の部屋へ来るよう指示し、フローティアの部屋を出た。

 一休みも何も、フローティアは、ベッドへ腰掛けたとたん、ふらりと横になり、眠ってしまった。フルトに起こされなければ、そのまま明日の朝まで寝ていただろう。

 「す、すみません」

 「どういたしまして」そのフルトのことばに、フローティアは思わず顔をあげた。知らない言語だ。

 「いまのがサティス語だが」

 「………」自分が思わず口へ出した古い言語へ、フルトがそのまま答えただけだった。フローティアは、訳がわからず、もう何も追求はしなかった。

 「時間ですか」

 「今日は、休んでいてもかまわないぞ」

 「いいえ。寝たら楽になりました」

 「説明しよう」

 フルトは短く解説した。試合のルールが主だったが、ルールも何も無いとフローティアは思った。勝てば良い。それだけだ。「おまえは助手だから主装備をすることは許されない。オレの手助けのみをする。ただし、オレが死ねばその限りではない。オレの死体をもって帰るか、オレの代わりに戦うかを選ぶことができる」

 どっちも嫌だと思った。

 勝つには、相手を殺すか、殺さずとも戦闘不能にせねばならない。虫の息にまでしてしまう者もいるし、武器を破壊し、気絶せしめる者もいる。呪文使いは相手を動けなくするのに長けている。フルトは、とうぜん相手を気絶させて勝つ。人間の場合、であるが。

 「とにかく行きましょう。まずは、何事も体験してみないと」

 フローティアは洗面器の水で顔を洗い、フルトに着いて出発した。通りは相変わらず混雑しており、柱の光が弱くなっても(地下の夕刻を意味する。)人の絶えることが無かった。人の波は闘技場へ向かっていた。これらはみな客だった。中には出場者も混じっており、一部は名前が発表されているのだろう。歓声を受けているものもいた。

 「ところでフルト、あたしたちの今日の対戦相手というのは?」

 それは、行ってみなければ分からないということだった。「オレはこれで四回目の出場で、三位が二回、二位が一回なんだ。ハンテール協会からの依頼出場だから、本気の仕事ではない。とはいえ、早々に負けるわけにもゆかない。なかなかその見極めが難しい。今回はルキアッティ家直々だからな。ちょいと優勝をねらっている」そのとき、通りの何人かがフルトへ声を投げてよこした。「おい、久しぶりじゃねえか! ついに上で食い詰めたか? 本気だすなら、フルト、あんたに全財産賭けるぜ!」フルトは笑顔で手を振るだけだった。しかし中には、怒声や野次もあった。おそるべき殺気があからさまに突き刺さってくるときもあった。「もう、勝負は始まっているんだ」フルトが唇を動かさずに云った。フローティアは、緊張はしなかったが、不安だった。自分の想像を遙かに超える利権と思惑がこの勝負にからんでいると悟ったのだ。そんな金権の渦へ否応なしに巻き込まれて、取り返しのつかぬ事になりはしないだろうか。

 やがて、通りは巨大なスタジアムへ彼らをいざなった。フローティアは明らかに宿の窓から観たものより大きくなっていると思われる建築物に、不安も吹っ飛んで見入った。遠くから観たそれは確かに飾り気の無い質素な石造りの劇場のようなものだったが、ここにあるのは、地獄門の装飾をそのまま全面に施したグロッタ様式のおぞましくもすばらしいものであり、奇形の角のようなねじれた塔が幾本も宙へ突き出て、壁からは節足動物の脚のように支柱がこれも突き出て、無機質だった石の壁は格子状に入り組んだ金属とも陶器とも何ともいえぬ素材のもので覆われ、その合間合間にすべて魔導の彫像が吼えて鎮座していた。色は黄、茶、赤が主体で、炎の塊のように見えた。いつのまに、このようなものへ変わったのか。いや、変わるはずが無い。先ほど観たのは、ちがう建物だったにちがいない。フローティアはそう納得した。しかしそうでは無かった。「この建物は、まだ生きていてね」フルトのそのことばを、フローティアは信じることができなかった。「建物が生きているわけがないでしょう?」フルトはしかし答えずに話を続けた。「魔導王直々に魔術で産み出したモノのひとつだ。いまや、そうとうの年寄りだよ。建物なんだけど、建物じゃなくって、でかい魔物だ。こいつ自身がな。変幻自在だぞ」

 どうやら、本気の話のようだとフローティアは思った。確かに、微細に、様相が変化している。(ようにも見えた。)

 「試合の日は張り切るぞ、こいつは。生涯現役でね。年寄りほど張り切るものさ」

 フルトは周囲の通りを廻って選手専用の出入り口へ向かった。そこには衛兵がおり、フルトを確認するとていねいにお辞儀をした。その濃い紫の装備は、旧魔導王国の印が刻まれており、確かに魔導のアイテムだった。本物の。「貴重品ね」思わずフローティアはつぶやいた。間ちがいなく、カルパスでここだけ古い時代の法が生きている。

 「受付はすんでおります、フルトヴェングラー卿。控室にどうぞ。装備もすべて届いております。試合は一刻後の予定です」いつの間にか現れた闘技場の職員が慇懃な様子で云った。フルトは無言で、彼について控室へ入った。石造りの暗い通路を歩き、脈動する光にも案内された。とある部屋に入ると、そこはいかにも古い調度品で埋めつくされた、まるで古代の貴賓室だった。事務所の倉庫にあったありとあらゆる装備が、すでに用意されていた。マリオに頼んであらかじめ送っておいたのだ。フルトは一人で装備を装着しはじめた。手の届かぬ部分のみ、フローティアへ手伝わせた。珍しく重装備であり、板金とジギ=タリス板を組み合わせた胸当て、手甲、臑当てに額当てをつけ、防備を強化していた。完全駆逐騎士たるフルトにしては、本当に防御重視だった。ふだんは鎖帷子すらつけぬ。

 「いつもは、無意識に神聖力で魔力から護っているんだが、今日の相手はたぶん人間なものでね。そんなものはあまり役にたたねえ。その分、攻撃へ全神聖力をこめるんだ。これは、人間相手でも関係ねえ。同じ神聖力でも、攻めと護りでは……」

 せっかくの超一流ハンテール、そして元ウガマール聖騎士の講義も、フローティアは聞いていなかった。闘技場の職員が本日の対戦相手の書かれた紙をもってきた。
 「はい、これ」フルトは嘆息まじりに羊皮紙を受け取り、のぞいた。そして声を上げた。

 「こいつか!」

 「だれ?」

 しばらく、フルトは難しい顔をして机を指で叩いていたが、やがて口を開いた。

 「誰か仕組みやがったか……」

 「仕組むのなら、マリオさんでしょう?」

 「いきなり直球を投げるなよ」

 「だから、だれなの?」

 「ああ、裏のハンテールで、ズービンという。本名は知らん。前に、オレが出場したとき、二回戦でこいつに勝った。トーナメント制なんだ。オレたちクラスになると、予選はパスさ。そのとき、オレは二位だった。表の仕事が急に入って、辞退したんだ。不戦敗さ。その後、こいつが何回か優勝しているが、フルトを倒していないから真の優勝ではないと噂されている。だから、オレへ対する敵愾心はすさまじいものさ」

 「誰がそんな噂を流したのかしら」

 「少なくともオレじゃないね」

 「ふうん……」フルトはニヤニヤ笑っていた。自分で流したにちがいない。「装備を変えるか……」フルトは珍しく、いつもの長めの両手持ちの剣ではなく、片手で使う長さのものを右手に、左手にはその半分ほどの長さの小剣を持つ事とした。二刀流だ。ナイフの両手装備はフルトの十八番だが、剣でもそんな事ができるのか。フローティアは衝撃を受けた。ガリー傭兵訓練所の剣技教官ですら、そのようなことはしなかった。これはもう訓練の度合いというより、才能なのだろう。

 アシスト専門員のフローティアは主武器を装備する事は許されないが、元より愛用の黒剣も無いし、それ以外は持っても役にはたたぬ。ただし護身用のナイフは許されており、愛用のガルネリのナイフを腰へ括りつけた。

 時刻となり、二人は呼ばれた。場内には三つの会場があり、随時、それぞれの試合(見せ物)が行われている。その内の中程度の会場へ、二人は向かった。「大会場では、ガリアン対マンティコアをやっているそうだ」フルトがそう云ったので、フローティアは声を上げた。「ガリアンは、いまは数が少なくなってきているんじゃないの!?」

 「まあ、貴重な魔物だな」

 「見せ物で戦わせるなんて……」

 「まさか、保護しろと? 魔物を?」

 「魔物じゃないわ。もう、人なんか襲わないと思う」

 「数がいないだけだ。増えればまた襲う」

 フローティアはコルネオ山での、ドニゼッティと新種マンティコアの死闘を思いだした。退治の現場であれを観ても、凄まじい迫力だった。金を払っても観たいという者がいても不思議ではないと思った。

 「まあ、ガリアンの敵ではないでしょう」

 「相手によるさ。ガリアンのような古い魔物に、最新の巨大マンティコアを倒すのは、きついな」

 「そうなの!?」

 「腐れ魔導士が面白半分に、メチャクチャにいろんな生き物を合成するからな。もちろん寿命は短いし、繁殖もできない」

 「そういうふうに生まれた生き物も、いかに魔物とはいえ、考えてみれば哀れね」

 「それが分かれば、ハンテールとして、まあまあだ」

 二人は会場入り口前へ到着した。煙が立ち上り、周囲は火山の噴火口の中のように白く蒸していた。ドア係が、四人がかりで重い両開き扉を開けた。とたん、轟然とドラが鳴り渡り、大小の戦闘ドラムと、鐘、シンバルが細かくも激しいリズムを叩き出し、金管楽器群による荒々しい吹奏が続いた。フローティアは息をのんだ。四角い会場の周囲は高くそびえた階段椅子で、人々とその歓声で埋まっていた。なにより、会場自体が刻々と姿を変えていた。地面(床?)はどんどん盛り上がり、壁は蠢き、そして天井が迫ってきて、二つに割れた。すぐさま、地下都市の夜空が眼前へ現れ、風が吹きすさんだ。観客は、中ホールということで、千人ぐらいだろうか。観客席もせり上がり、露天となった。円にゆっくりと回転しながら、会場はそのまま塔のてっぺんとなって、白い蒸気を吹き出し、BGMのファンファーレを伴って、松明と、魔導術によるライトが明滅し、幻想的かつド迫力の演出をしていた。それらはみな滑るように行われた。フローティアは驚きながらも、冷静となってよく観察していた。貴賓席と思われる場所には、マリオらしき人物がいた。ああいう場所には、たいがいはパトロン、主催者、オーナーなどがいるものだ。

 「おい、もう始まっているぞ」フルトに云われ、フローティアは我へ返った。相手は一人で、会場の向こう隅にいた。フルトよりも背が高く、身体も頑丈そうで、まるで古い北方伝承にある巨人族を思わせた。防具は太い鎖帷子で、帷子というより、猛獣をとらえる鎖の網かと思った。両手で大きな鉞を構えており、肌の色は黒く、南方人のようだった。しかし、目鼻だちは、鼻が高く、彫りが深く、ストアリア人のようにも思えた。髪は黒く、やや縮れていて、後ろで結んでいた。

 「混血なのかしら?」

 「いや、東方からきたようだ」

 「あんな人種が?」

 「世の中は広いからね」

 「あたしは何を?」

 「まあ、観ていろよ。何かあったら、遠慮なく助っ人にでろ。呪文でな」

 「何かって?」

 フルトは前へ出た。相手ズービンも前へ出た。観客は興奮の坩堝……かと思いきや、立ち上がってがなり声を張り上げているのはまだ一部で、意外や、飲食などをしている者もいて、ボルテージは半分ほどだった。かけ率の表示が板に張り出された。六対二でフルトの優勢。フルトが勝てば掛け金は二倍、負ければ六倍となる。BGMが再び打楽器のみとなり、大小のドラムが重く勇壮な戦闘マーチ形式のアンサンブルを奏でた。そのリズムと共に場内の動悸も高まり、最高潮でいきなりサイレンが鳴り響いた。低いFの♯が唸り声のように轟き、一気にオクターブ高い同音までうわずった。戦闘開始である。歓声の中へ溶けこむようにサイレンが消えゆく中、二人はゆっくりと歩み寄り、間合いを測った。

 「おい、ズービン、前はそんなにうすらでかかったか? まだ成長期だったとは知らなかったぜ」

 「やかましいぜ、協会の犬め!!」やおら、鉞が唸りをあげた。フルトは大上段から横殴りと変幻自在に繰り出される攻撃を、ステップと両手の大小の剣による受け流しで巧みに捌いた。初手から必殺の攻撃は三連続だったが、全て避けた。

 「おい、いつの間にか逃げ足が巧くなったじゃねえか、ええ?」

 「おまえの資格を剥奪したときも、こんな戦いだったな」ズービンの顔が一気にひきつった。「この裏切り者の、うすぎたねえ山犬野郎ーッ!!」大きく振りかぶって、振り回し気味に下段から巨大な刃物が襲ってきた。

 その瞬間、フルトが右の長剣で瞬時に体を半身に回転させつつ鉞の刃先を受け流して、素早く左の小剣が空ぶったズービンの肩を刺した。細い剣先が鎖帷子の隙間を縫い、肉をえぐった。悲鳴がして、鮮血がしたたり、ズービンが膝をついた。ここで素人は不用意にトドメを刺しにゆくが、すぐさまズービンがなんと片手で鉞を振って牽制した。近づいていたならば、胴へ鉄塊が食い込むところだった。観客が、立ち上がり始めた。ズービンへ口笛と野次がとんだ。

 「でかい代わりに鈍くなったな、あ?」

 ズービンは舌なめずりをした。その舌が、蛇のように割れているのをフルトは認めた。あまつさえ、眼がすでに、人間のものではない。瞼が消え、丸い目玉に透明の蓋がかぶさっていた。

 「さすがだ、さすがのキレだぜ、元ハイペリアスさまよ。てめえを倒さずして、おれの真の勝利はあり得ねえ。さあ、タルタルの秘術、見せてやるぜ」

 「タルタルだと?」フルトは眉をひそめた。

 ズービンの肉体が、荒い呼気と共にさらに膨らんだ。変身だ。変身が始まった。浅黒い肌が見る間に黒黄縞の鱗で覆われた。鋭い牙が口からのぞき、先端からは黄色い毒液が滴った。太くぬらぬらとした輝きの尾が尻よりのびて、肩からはもう一対、腕が出現した。

 「どひぇッ、魔物だァ!」フローティアは仰天した。「ひっ、人が魔物に!!」フルトがフローティアを呼んだ。相手は人間ではなく、もはや彼らの概念でいう「魔物」なのだ。二対一でもおつりが来る。

 ここで観客の声援が一気に高まった。楽団はまさにいまが転機と曲を変えた。激しい戦闘音楽より、さらに重厚な、テンポのゆっくりとしたものとなった。客どもはこれを待っていたのだ。スタンディングでありとあらゆる応援、野次、怒声、口笛、指笛、あるいはブーイングがとびかった。かけ率が逆転した。ズービン対フルトが三対五となった。

 「フローティア、何やってやがる、早く来やがれ!!」

 「い、いやよ、人間が魔物に変身するなんて、気持ち悪い!!」

 「なにを……!!」

 「ガハハ、使える助手だな、おい!」

 手にはナイフのような爪が輝いていた。とたん、ズービンは口から水鉄砲のように毒液を飛ばした。眼へ浴びると失明もする、おそるべきものだ。フルトが避けた。ズービンが身をひねり、尾が飛んできた。足元をすくわれ、倒れるフルト。その上へモグラ叩きのように鉞が振ってきた。

 「やろうッ」

 「いいざまだぜ、フルトヴェングラー!!」

 「調子にのりやがって」しかし、さしもの聖騎士とはいえ、逃げ転がっている状況では神聖力の瞬間解放に不安が残る。必殺の威力を発揮するにはまだ練りが足りぬ。こういう時こそフローティアをあてにしていたのに。

 「マジで頼りになる助手だ!」這いつくばり、フルトは犬のように間合いを取った。その無様な姿に、ズービンは追いかけるのも忘れて笑った。「いい気味だぜ!!」愉快、そして痛快だった。かけ率が二対六となった。貴賓席では、ズービンのクライアントがとびあがっていた。マリオは、冷たい視線で、会場を凝視している。

 「装備を間ちがえたな、フルト」ズービンは、誇らしげにゆがんだ笑顔へ奢りを表した。フルトが対人用装備をしてきたのだ。後は呪文を使わせる間も無く攻めたて、勝つのみである。

 フルトは本当に心配になってきて、間合いを測りつつ、ゆっくりと移動して、視界の中へフローティアを入れた。振り向いてズービンへ死角を造るわけにはゆかぬ。

 すると、フローティアは、座り込んで頭を抱えていた。悩んでいるというのではない、その苦悶の表情から、異変が起こったと観るのが妥当だ。フルトは舌を打った。とんだ誤算だった。自力で時間を稼ぐしかない。フローティアが回復してくれるのを祈って。

 フローティアとて、好きでうずくまっているわけではない。頭痛や吐き気といった体調の不良というより、むしろ、自分にしか感じないもの凄まじいパワー(それとも広範囲にわたる力場というべきか。)が会場を大きく包んでいる事にいやでも気づき、その力場へとらわれたというべきか、共鳴したというべきか、全身が痺れるように動かなくなり、割れるほどの耳鳴りと頭痛それに動悸がして立っていられなくなったのだ。フルトどころではない。試合どころではなかった。息をするのも喘ぎ喘ぎで、大きく見開かれた藍碧色の瞳が、神聖力の変化で刻々と青や翡翠色に変わった。「な、なんなの、これ!?」フローティアは地下の夜空と、光柱の降り注ぐ天を仰ぎ、そそり立つ客席を見た。客席だ。間ちがいなく観客席からこの力が発されていた。しかも、ひとつではない。力は、二つ、客席から発していた。何者かがその力を発している。会場の自分を入れて、三つの力場が干渉しているのだ。もっとも、相手も自分と同じ状態となっているかどうかは分からなかった。自分だけが弱いのかもしれない。フローティアは呻き、原因を探った。自分は神聖力だが、相手はそうでも無さそうだった。本当に古い原始的な力だ。魔力とも神聖力ともつかぬ。それ以前の、人間の持つ潜在的な力が技術的に強化された時代、六方世界有史のごく初期の、荒々しい魂魄の力だった。しかもその力にさらされているうちに、自分の奥底よりも同じ力が振り動かされ、掘り起こされているのを発見した。この苦痛は、そのための苦痛だった。じわじわと魂と記憶、そして何より血液の本当に深いところより、自分でも未知のおそるべき大きな力が背筋を伝って這い上がり、血管が脈動し、心臓をめがけて集約した。その様子が手にとるように分かって、フローティアは恐ろしかった。「わあああ!!」声が出ているのかどうか分からなかったが、とにかく叫んだ。叫ばずにはいられなかった。自分が自分でなくなってゆく。そんな感覚を持った。いま観たばかりの対戦相手のように、変身してしまいそうなほどの精神の変化だった。黒鉄色の髪がさらに光を飛沫した。すると、信じられない事が起こった。地下に、閃光がまたたき、轟然と雷が鳴ったのだ。

 「……!!」

 観客は一瞬にして凍りついた。伝承を知っている者は、さらに恐怖で凍りついた。

 「テッ……!」

 それからは恐ろしくて声にも出せなかった。

 約一千年ぶりに、地下都市へ雷鳴が轟いた。

 「黒剣がいる!!」フローティアは立ち上がって叫んだ。風もないのに髪がざわりと蠢き、ついに瞳が緑黄金に輝いた。これは、神聖力ではない。

 フルトとズービンは、戦いも忘れて、フローティアを凝視した。フルトがようやく口を開いた。「……なんだって?」フローティアが叫んだ。「黒剣がいる……トーテンタンツが、この会場の中に!」「その前に……おまえ……!?」フルトは震えた。武者震いと恐怖と両方だった。そして地下雷と同じく脳の中の暗黒に閃光が差して、彼は何かを思いだしかけたが、それを強引に押さえつける力もあった。それが頭の中でせめぎ合い、彼もまた、すさまじい頭痛と目眩、吐き気に襲われた。

 そして、ズービン。

 「あいつは……まさか……古い聖導皇家の……生き残りか……!!」

 彼の故郷は、古くは魔導連合として聖導皇家と戦い、戦後も生き残りはしたが領土は分割され、王家はやがて滅亡した。必然的に残留貴族たちによる弱い王朝が乱立し、強大で誇りある王国は地方が各個独立してバラバラとなって現在に到っていた。中には交易中継国家として栄えている国もあるが、一部にすぎない。多くは六方でも最貧国に甘んじ、ズービンのように国を出て稼いでいる。東隣のターティンや西隣のガーズラバンドという強大国に併合されてしまった国もあるし、滅亡を免れても完全に軍事外交権を奪われて莫大な貢ぎ物を課せられ、任命権者であるそれぞれの皇帝の使者を迎える際には王が下座につき、感謝するのが習わしという屈辱的な属領となった国もある。その引き金を引いた聖導皇家は、彼らモードン人にとっては、最大のタブーだった。

 「縁起でもねえ」ズービンは目標をフローティアへ変えた。

 「待ちや……」フルトは驚いた。身体が動かぬ。金縛りか。頭痛はさらに酷くなった。

 ズービンは鉞を両手で中断へ構えたまま、もう一方の両手の爪にはてらてらとした黒と黄色い液体が塗れていた。爪からも毒が出るのだ。かすっただけで、死に到る。

 フローティアの目つきが変わった。低く唸るように息をつき、両手を下段に八の字に構えた。ゆっくりと掌を開くと、そこには光の塊があった。プラズマが、微細に動いていた。

 「こやつ、伝承の電光魔人か!!」

 ズービンが走った。かつての故国の栄光を終わらせた相手に対する国家民族の運命とは大げさかもしれない。彼には、そんなちっぽけな愛国心は無かった。ただし、今、自分がこのような場所で怪物に身をやつし、日銭を得るための戦いをしているのは、少なくとも聖導皇家のおかげといえた。己の運命に対する清算はつけても良いのではないか。恐怖もあったが、そう、噛みしめた。鉞を大上段に振りかぶって、すかさず肩の両手が脇から爪をかざした。フローティアは気合を入れつつ、プラズマで迎え撃った。すさまじい破裂音と共に空気が弾け、球電が爆発した。ズービンが引っ繰り返って地面へ転がった。強力な電撃に襲われたのだ。ズービンは衝撃に打ち震えながらも、すぐに立ち上がって、悲壮な雄叫びと共に再度走った。その時には、フローティアの身体じゅうに球電が光っていた。額、喉、胸、へその上、へその下、それに尾てい骨。それがズービンの故郷でいう「チャクラ」の部位であると彼が気づいたときには、フローティアの電光がすべて爆発し、ズービンは悪魔のような電撃をくらって、まるで狂った操り人形のように踊っていた。「げあがががががが!!」眼球が飛び出て、水分が爆発した。電気抵抗がおそるべき熱を生み、筋肉は避け、血管が破裂して、肉体が焦げた。心臓はショックで激しく微細に痙攣し、やがて耐えきれずに収縮して停止した。全神経がパニックとなって、たちまちショートして切断された。つまり、彼は、あっと云う間に死んでしまったのである。

 倒れ込み、ブスブスと音を立てて異臭のする煙がたなびいた。フローティアが軽く手をかざしただけでズービンは倒れた。フルトは、全身を流れる汗が冷や汗である事に気づいて、震える手で己をぶん殴った。

 フローティアはすぐに再び膝をついた。だが、頭痛や体調の不良は、次第に引いていた。それが、力場の発生源であるだろう何かが退場したためか、それとも、自分がその力に慣れてしまったのか、それは分からなかった。なにより、あれほど恐ろしかった雷へ、まったく恐怖が消えているのだ。そして気づいた。これまでの雷への恐怖は、自分のこの力への恐怖だったことへ。

 フルトは歩きだした。フローティアへ向けて。フローティアはゆっくりと立ち上がって、それを迎えた。二人は勝利の喜びも何も無く、そのまま、出入り口より退場した。観客は、夢からでも醒めたようにして、半ば呆然とし、それを見送った。空の雷は跡形も無く消え、静かな地下都市の天井があるだけだった。ズービンのパトロンが放心して座り込んでいるのを尻目に、マリオは満足げな笑みを涼しい顔に浮かべて貴賓席から退席した。

 闘技場の職員は、無言で二人を控室まで先導した。控室には、飲み物や軽食が用意されている。休むベッドやシャワーもあるが、フルトは利用しなかった。部屋に入ると、フローティアがまず新鮮なオレンジジュースを銀製ポットより同じく銀のゴブレットへ荒々しく注いで、一気に飲み干した。フルトは軽い赤ワインを瓶ごと傾けた。二人してひと息ついて、どちらからともなく口を開いた。

 「黒剣が観客席にあっただと?」

 「……見てはないなけど、間ちがいなくそう感じた」

 「持っているやつに、見当は?」

 「まあ……」フローティアは、理由は分からないが、とにかく直感というしかないのだが、ターティンの女頭領を思い浮かべた。「ターティンかな……?」

 「妥当な判断だ」

 「だけど、もう一人、いたのよ。その……剣は関係なくて……なんというか……力が……」

 フルトの表情がこわばった。無言となって、何か云いかけたりするたびにそれを思い止まり、半刻ほど無言のまま、二人は休んだ。

 そのまま、退室時間となって、二人は今日の賞金を受け取り、闘技場を後にした。賞金は、合わせて五百アレグロだった。フルトはフローティアへ四百を渡した。(と、いっても、現金ではなく、書類だ。)

 「多いわ」

 「おまえが倒したんだ」

 フローティアはもらうこととした。闘技場からノーノの店への振込も可能という、高度な経済システムが確立している。
 その帰りしな、ちょうど大会場の試合も終わったようだった。通路を歩きながら、フローティアは何気なく職員へ訪ねた。するとマンティコアが勝ったという。フローティアは衝撃を受けた。すぐ前を、荷車に乗せられた二リート半はあろうかという大きなガリアンが通った。フローティアは走り寄った。フルトは驚いて、後を追った。

 「ちょっと、止まって、しっかりして!」

 「おい、どうした、フローティア」

 「あたしが助けるわ」

 「無理だ、もう虫の息だ。死ぬ」荷車を引く何人もの職員たちが迷惑そうな顔をしたが、フルトが眼で「もう少し待ってくれ」と頼んだ。密かに手持ちのアレグロ金貨を何枚か渡す。フローティアは呪文を唱えたが、ガリアンは紅く大きな眼をフローティアへ向けて、だらしくなく長い舌を出し、荒く息ついていた。頭が大きく、身体の五分の一もある。その頑丈な顎でなんでも砕いてしまう。爪は蹄で、彼らは肉食の偶蹄類である。この美しくも恐ろしい高貴な獣が、なんで人工の魔獣ごときに負けてしまうのか。

 「最近のマンティコアは狂ったように凶暴でね。オレも死にかけるほどさ。これでガリアンの株がまた下がる。処分するオーナーも出てくるんじゃないかな。なにせこいつは大食らいで」

 「かわいそうなドニゼッティ」

 「誰だって?」

 コルネオ山のガリアンの王を思いやり、フローティアは胸が痛んだ。人間の都合は、誇り高い魔物をも滅ぼすのか。

 ガリアンは、もう息をしていなかった。

 フルトが手を上げ、荷車は行ってしまった。

 「おかしいわね。ハンテールなのに」

 「おまえはそんなことはないだろうさ」

 「どうして?」

 「え、いや……」自分でもどうしてそう思ったか分からなかった。先ほどフローティアの変貌を目の当たりにしてより、何かが記憶にずっとひっかかっている。しかしどうしても思い出せない。

 二人は闘技場を後にした。

 すっかり地下の夜も深けていたが、人の数は変わっていなかった。「せっかくだから、魔物市場でも見物していくか?」フローティアは無言で頷いた。もちろん、路上で扱うに足るものだけであるが、魔物が堂々と売られていた。たいていは、魔導士の使い魔ということだが、中には、マンティコアの材料にという名目で、ふつうの動物もいた。トラ、ライオン、へビ、ワニ、その他、見た事も無いような動物類。昆虫も、ウガマールの奥地でしか見た事が無い巨大な虫が、ごっそりといて、フローティアは思わず懐かしくなった。(タガメもいた。)

 そんな折、通りの隅で、真っ黒い小熊のような生き物が紐でつながれていた。ひと目で分かった。大きな頭。紅い眼。黒に混じった茶色の縞模様。牛のような耳。細い尾。なにより手足の蹄。ガリアンの子どもだ。

 「わっ、かわいい!」椅子に座っていた隻眼の店主はコーヒーを吹き出した。

 「かわいい? ヘッ、魔物をペットか何かだと思っているのかね。今日もガリアンが負けちまって、値崩れもいいところだ。知っての通り、今日び、ガリアンなぞ欲しくても手に入らねえ。仕入れ値は二百アレグロもしたのに、二百五十でも買い手がつかねえんだぞ。五百で売ってやろうと思ったのによ!」

 「売れないとどうするわけ」

 「食ったって旨くもねえ。知り合いの魔導士にやるったって、いま魔導士仲間じゃマンティコア流行り。時代おくれの魔物なんだよ。こいつは。外国の研究所にでも、捨て値で売っぱらうさ」

 「そこで、飼われるの?」

 「知らねえよ。解剖でもされるんだろうさ。大きくしてから、骨格標本にするとかな」

 「あたしがもらうわ」

 「おい、また!!」フルトがフローティアの肩をつかんだが、フローティアはそれを振り向きもせずに払いのけた。

 「二百五十……お金はあるけど、いま持ち金が無いの。ノーノの店はこっちにも出ているのかしら?」

 おやじの顔へ笑みが浮かんだ。「へっへ、ノーノの店にカネを預けてあるのなら、本当にあるんだろうよ。カネは後でもいい。預け証はあるか?」フローティアは財布より証書を出した。「おっと、さすがだ。本物だぜ。あんたを見直すよ。上じゃなかなかのハンテールか? しかしガリアンなんかどうする。飼うのか? 感心しないぜ。表でやってゆくのならな。それに、食うぜ、こいつは。とんでもねえ量の肉をな。牛や豚なら高くつく。人にも慣れねえ。知ってるだろうが、家の庭で飼うにはでかくなりすぎる。いまはこんなんだが、熊はおろか、牛より大きくなるのだからな。上でも下でも、都会で個人的に飼うのはどうかと思うがね。そら、サービスで調教棒もつけてやるよ」

 「大丈夫よ。いざとなったら、ツテもあるし……」フローティアはコルネオ山まで届けにゆくつもりだった。「あたし、ガリアンの王と知り合いなのよ」

 「そいつは!」おやじがまた楽しそうに笑った。「伝説のドニゼッティか?」

 「あれっ、そう。よく知ってるわね」

 「ハハハ!」おやじが笑いながらひきつった。「真面目にか」

 「ええ、コルネオ山の……」そこまで云って、おやじの表情が急激にこわばった。

 「本当に」

 「彼は、知り合いのおばあさまと住んでいるのよ」

 店主は震え上がった。「コ、コルネオ山の魔女の知り合いとはな。あんた、正魔導騎士の子孫か? じょうだんじゃねえ。洒落にならねえよ。カネはいいから、欲しいのなら、はやくもっていってくれ」

 「えっ?」

 「な、本当にかんべんしてくれ。頼む、おれが悪かった……殺さないでくれ」

 フローティアはフルトを見た。フルトは肩をすくめるだけだ。

 「お金ぐらい、払いますよ」

 「いや、本当に許してください。無礼は謝ります……おい、フルトの旦那、なんとかしてくれよ」

 フローティアは二度驚いた。この店のおやじも、フルトの知り合いか。

 「そこまで云うなら、もらっておけ、フローティア」

 「でも……」

 「じゃ、こうしよう。次の試合でオレらが勝ったら、店主からのお祝いとしてもらい受けることとしよう」

 フローティアは納得した。「分かった。じゃあ、名前は……アデルナ風がいいわ。モンテヴェルディ! これにしましょう」そこでおやじが悲鳴を上げて腰を抜かした。フルトは引きつった。「そんな大昔の大魔導士の名前を、どうして知ってるんだ? 魔導王国の公爵だぜ。吸血鬼王の一族だ」フローティアは、小首をかしげた。「さあ。……なんで知っているのかしら? 前に、聞いたことがあったのかも」フローティアは意にも介していなかった。もう、モンテヴェルディの頭を撫でている。ガリアンは不用意に撫でようものなら手首を失っても文句は云えないが、フローティアの手へ自ら頭や頬をこすりつけて、嬉しそうに長い舌を出し、耳をパタパタさせ、尾を振っていた。それを観たおやじは、もう我慢ならないと、フローティアを拝みだした。「桑原、桑原……」


 「ところで、次の試合はいつになるの?」

 宿へ戻って夕食をとり、フローティアは訪ねた。「三日後か四日後になるだろう」フルトはパンをむしり、牛の骨つき香草ロースト焼きへ未精製の強烈な香りを放つオリーブオイルをアデルナ風にたっぷりとかけたものを頬張りながら答えた。周囲の客が驚きと感嘆の眼差しを向けているのは、ローストの塊がテーブルにふたつ、乗っていることだ。二人は根野菜とブロッコリーと鹿肉の赤ワイン煮込もまたそれぞれ平らげたのち、大盛りの乾燥キノコとブルーチーズのリゾットが出てきたときは、拍手が沸いた。

 さておき、話は続く。

 「ねえ、上にはいちいち帰るの?」

 「事務所へ戻って処理をしないとな」

 「わたし、こっちへいていいかしら」フルトは食事の間、一度もフローティアを見なかったが、ここで初めて上目で観た。「……まあ、いいぜ。迷子になるなよ」

 「大丈夫よ。きっと」

 「黒剣が?」

 フローティアはうなずいた。「すごく、感じるの。存在をね。地下へ来てから……試合のときは別だったけど……体調がいいのよ。アタマがハッキリしているというか」

 「無理はするなよ」

 フルトはそれだけ残して、その夜の内に、地上へ戻って行った。その意味をフローティアは理解したつもりだった。剣へとらわれすぎると、おもわぬところで足元をすくわれるだろう。目の前の木の葉のみを見て、周囲の木々を観ぬのでは、森は歩けない。


 翌日、フローティアは朝から地下都市内を見学して歩いた。メイン通りがあって、小枝のようにのびた路地にそって街が形成されているのは、地上と同じだった。アデルナでは基本的な都市設計がどこも同じというか、どこの街も建物の配置まで似た造りをしていたので、初めての場所でもどこに何があるのかだいたい見当がついた。前に降りた地下廃墟には神殿のような建物があったが、それは魔導の神殿ではなく、行政庁であることが分かった。地下の役所にもちゃんと役人がいて、地下を管理していた。ここは混乱と無秩序の無法地帯ではなく、厳然たる法治都市だった。きっと上の役所と同じ職員にちがいないとフローティアは思った。カルパス市役所ならやりかねぬ。しかし魔導国家にも法があるとは。もはやフローティアは驚かなかった。

 役所の他に大きな建物といえば、やはり何をおいても闘技場だった。ただし、昼間は、まるで倉庫のように無味乾燥に佇んでいる。ふだんは眠っているのだとフルトが云っていたのを思いだした。試合のある夜は、ここが見せ所と張り切るわけだ。建物が。

 市場は三か所ほどあって、魔導市場と、生活市場と、武器市場だった。フローティアは武器市場をのぞいてみたが、モンテールの専門的なそれを見ているので、あまり目ぼしいものは無かった。ただし、ウガマールでは所持するだけで処分の対象となる強烈な魔導の武器や防具が、無造作に置いてあるのには、さすがに呆れ、ある意味感動した。所変われば品変わるとは良く云ったものだ。

 魔導の武器といっても、魔導術でそれを強化するのと神聖呪文で強化するのと、たいして差は無い。たいていは打撃パワーがアップするといった、攻撃的で単純な、それはそれで戦いの現場では大事な要素であるのだが、表面的な代物だった。持てば呪われるとか、疑似精神にとり憑かれるとか、人格が入れ代わったり、精神が崩壊したりとか、そういう意味での魔術的な物は、昨今では非常に少ない。旧魔導王国の熟練の職人の手によるレアものだ。無くはないが、もちろん値段も飛び抜けていた。

 街の大きさは、ちょうど地上の区画に近かった。上は区画整理が進んでおり、旧王国の面影はもはや無いが地下都市は街自体が文化遺産として保護されても良いほどに、綺麗に昔のままだった。その気品あるたたずまい、町並みの美しさは、ウガマール首都ガルマン=ガルマスですら足元にもおよばない。フローティアは、とにかく、強くそう感じた。どこか懐かしい雰囲気と空気がしてきたのには、我ながら妙な感覚だった。

 時刻が変化するごとに、地上と同じような光の具合が地下の住人を照らしていた。古代の大がかりな魔術か、それとも機械的な仕掛けなのか。光の傾きの加減は、地上と少しズレているように感じられた。フローティアは翌日、ほぼ一日中を窓からその光の柱を眺めてすごした。夕暮れには地下が朱に染まり、ウガマールの遠い夕日を思いだしてとても不思議な感覚にとらわれ、感傷的に泪を流した。夕刻がすぎ、光の柱がうっすらと消えかかるように薄くなって、やがて手にとっても空気に融けてしまうように消え消えとなった。つまり、地下で完全に夜が更けたのだ。寝るものは寝るが、起きているものは起きている。それは地上と同じだ。ただ、意外にも夜は地下のほうが静かだった。気温も安定しており、暑からず寒からず、フローティアは地上よりずっとずっと居心地が良いことに無意識に満足していた。食事もとらずにその夜は静かに寝てしまった。

 三日後、フローティアは好奇心で街を歩くというより、すっかり故郷に帰って来たような気分で住人に溶けこんでいた。小洒落たカフェで軽く朝食をとり、そのまま午前中をゆったりと自分だけが時の流れから外れてしまったような感覚で、窓より黙々と動く通りの人々を眺めて楽しんでいた。

 その自分だけの時間の中へ、突如として訪問客が現れた。フローティアは気分を少々害し、招かれざる客を迎えた。迎えざるを得なかった。なぜなら、本当に結界をするりと超えて来たような、圧倒的な存在感をもって登場したからだ。フローティアは思わず腰を浮かしかけ、またすぐに座った。人物は男女が分からぬ。フードを深くかぶり、顔をみせなかった。背丈は自分とそう変わらぬだろう。深いマントで隠れていても、ずいぶん華奢な体格であることが推察できた。カフェの店員が召使のようにやってきて、フローティアへ聴こえぬように注文をとった。フードの主が意外に高い声をだしたので、女性であるらしいことが分かった。おそらく、間ちがいない。この者は、魔導士なのだ。

 ハンテールと魔導士が、このようにカフェで同席するというものも、あるいは地下都市クルタイトの常識なのだろうか。フローティアは冷えきったコーヒーを飲み干した。

 そして、魔導士の足元には、見知った動物がいた。一リートに満たない小さなものだったが、これも間ちがいなくウガマールの犬ワニだった。ウガマールはワニの天国で、ドラゴンは滅んだが、その代わり他の地域で絶滅した古いワニの種類が豊富に残っていた。聖導皇家で保護したのである。ドラゴンは滅ぼし、ワニは保護するというのも単なる人間のエゴ以外の何物でも無いが、とにかく、そうなのだ。普通のいわゆるワニなどは川という川にいくらでもいた。奥地にゆけばアデルナ赤ドラゴンにも匹敵する大きさの巨大な種類もいて、それは神々の使いと信じられていた。珍しいものでは草食のものがいた。姿はワニだが、川べりに生える柔らかい植物を好んで食べた。それに、海にはイルカやクジラのように進化したものがいた。それぞれ手足が鰭状となり、尾はよく水を漕いだ。魚を食べるもの、あるいは袋状になった喉と櫛状歯を使いオキアミや小魚を食べているものがいた。また、陸上へすっかり適応したのが、眼の前にいる犬ワニだった。四肢が伸び、身体はワニなのだがスタスタと歩くし、ギャロップで走ることすら可能だ。鼻面は短く、大きな犬歯があって、毛が生えれば犬そのものだった。

 ただし、フローティアの記憶が確かならば、この犬ワニは古くは聖導皇家の宮廷内でのみ飼うことが許された動物で、現在でも希少動物だった。一般人が飼うのはおろか、輸出は厳に禁じられている。見つかったら最悪は死刑である。

 その、クレンペラー神官長の部屋で生まれて初めて見たような犬ワニとこんな通りのカフェでお会いするとは、さすがアデルナといったところか。フローティアは人物よりも犬ワニに眼を奪われ、しばし唖然とした。

 「そんなに珍しい?」

 「えっ?」
 
 フードの向こう側のまるで造られたような闇から、こんどは自分へ向けられて発せられる声が、先ほどとはちがって深いアルトなのに、フローティアは驚いた。声色というわけではないが、ギャップがあった。そしてつい、フードの奥をのぞいたが、まったく不自然なまでに暗くて、顔も眼光も分からないようになっていた。つまり正体を隠す魔術がかかっているのだ。ということは、この声も術で造られている可能性があった。男か女か、外見で判断できぬのが魔導士といえよう。

 「犬ワニ? まあ、ウガマールでは」

 「うそだわ」

 「なにが!?」フローティアは眼を丸くした。光柱の斜光に眸が澄んだ青で輝き、フードの人物はその青さを確かめるように身を屈めた。

 フローティアは思わず顔をそむけた。

 「いきなりうそだと云われても」

 「あら、ごめんなさい、でも、許して、わたしはじっさいに何匹も飼っていたから」

 「はあ?」フローティアは笑ってしまった。そして呆れたようにつぶやいた。

 「それこそ、ウソでしょう」

 「でも、この子は、私の実家から卵をもってきて、こっちで私が孵したから」

 「ふうん……」フローティアはまったく信じなかった。ワニの孵化など、素人にできる仕事ではない。ウガマール政府直轄の保護センターでしかその技術は確立していない。しかし、いまここに現実に犬ワニがいるのは確かだった。犬ワニは欠伸をして、脚を器用に折り曲げ、机の下に寝そべった。犬ならばその眠そうな眼も可愛げがあるが、月のような黄色い目玉に、黒い眸が刀のごとく鋭く走っている。鋭い牙や革はあくまで無機質で、まるで化石のようだった。ウガマールの都会では貴重な愛玩動物だが、フローティアはワニなど、どこが良いのか理解しかねた。そもそも彼女の生まれた地では、ワニも貴重な食料源だった。そこは、ワニを保護するというウガマールの常識すら通じぬ場所なのだ。

 「ところで、この街、どう思う?」注文のアイスコーヒージンジャーが運ばれてきて、人物は気化熱で飲み物を冷やす素焼きのコップから伸びる葦のストローをフードの中の闇へ運んだ。フローティアはその時、もう一回顔をのぞいたが、やはり暗黒しか見えなかった。

 フローティアは乗り出した身を背もたれへ戻した。「どうって、なにが? それよりあなた、だれ?」

 その問いを、人物は無視した。

 「この街はとてもいいところよ。でも、恐るべき街だわ。なぜならね」

 「だから、あなた、誰なの? わたしになんの用?」

 「なぜなら……」フローティアは立ち上がった。益体も無い話を見知らぬ人間から聴いてやるほど慈善家でも無い。

 しかし、大きな力が心にかかってきて(身体というより、むしろ、彼女は確かにそう思った。)ふらふら、すとん、と、椅子に戻ってしまった。そして、フードの人物の話へ耳を傾けていた。仕方がないので、フローティアは、カルパス近郊で採取される良質の炭酸水を注文した。(もちろん、ミネラルウォーターは、すべて有料である。)

 「この街に住んでいる人たちは、なにもみんな魔導士や魔導の関係者ではないわ。つまり、一般人もいるし、もちろんハンテールだっているし」

 「わたしのような」

 「ここはね、アデルナは、変なところよ。でも、人間世界の縮図で、わたしは好きよ」

 「まるで、あなたが人間ではないような云い方なのね」

 「そしてカルパス……いえ、クルタイトは、アデルナ中にはびこる魔物や魔術の発進場所といってもいい。カルパスだけでも、ここから出てゆく魔物で地上はすごい被害なのよ。それなのに、アンダルコンはここを攻撃しない」

 「ねえ、もう行っていい?」二人の会話はまったくかみ合っていなかった。あたりまえだ。元より会話をしようと思っていないのだ。二人とも。しかし、「カルパス政府、つまりルキアッティ家は、ここを容認しているということなのだわ」

 「………」

 フローティアは一瞬にして話へ引き込まれた。それは、彼女もうすうす感じていたことだった。フルトは、この地下都市ではさしものアンダルコンも権力が及ばないというような意味の事を云っていた。しかし、少なくともルキアッティが本気を出せば、こんな地下都市など、そのまま埋めてしまうことすら可能のはずなのだ。云われてみれば、闘技場の貴賓室に、マリオがいて、戦闘と賭けを楽しんでいた。そこで初めて、フローティアは黙り込んで、人物の声へ耳を傾けた。

 「あなた、ここを容認する意味はなんだと思って? この街での魔物の売買や魔導士の暗躍は、カルパス……いえ、アデルナに確実に被害をもたらしているのに。ここは暗黒街であるのに間ちがいはないけれど、見て見ぬふりをしていいほどの場所ではないのに」

 なんだと思ってと云われても、正直、分からなかった。フローティアは沈黙をもってその意をあらわした。

 「これは別にこの業界だけの話ではないけれども……魔物を退治する産業というのは、とても大きいものよ、少なくとも、このアデルナでは。つまり、魔物の被害はあるけれど、それを退治して食を得ている人間がアデルナには大勢いる。そのためには魔物がずっと出現しなくては業界が存続できないし、より強い魔物が出現しなくては業界の発展は無い。ルキアッティは、魔物を退治することで巨万の富を得ている。つまり、ハンテール協会の協会費ってことなのだけれど。それと、高い住民税。その他もろもろ。退治の報酬など、業界へたくさんの人間を寄せ集める撒き餌のようなものなのだわ。高価な武具だって必要だし、ハンテールの落とすお金も尋常ではない。じっさい、統計をよく見れば分かることだけれども、魔物の退治数は出現数にまったく追いついていない。つまり、魔物退治は高額な退治の報奨金を差し引いても、次々と需要がある、美味しすぎる商売なのだわ。その状態を維持するためには、次から次へと魔物がいなくてはならない。実は、アデルナではすでに天然の魔物よりも、この街から産み出された、いわば養殖の魔物のほうが、圧倒的に数が多いのだわ。かといって魔物が増えすぎて、我々人間を滅ぼしてしまうというほどでもない。誰かが魔物の数を正確にコントロールしている証拠だと思わない? 人口統計を見ると、魔物の被害は、ハンテールは一般人の八培。つまり、死んでるのはほとんど貴方のような外国人なのだわ。町の人の被害なんか微々たるものなのよ。上手にやってるわ。この街は、保護しこそすれ、滅ぼすなどということは、とうていできない相談というわけ」

 フローティアはすかさず訪ねた。「それって、どういう意味?」

 「えっ?」人物はさすがに意表をつかれた。「……意味は」いま云った通りである。やや考え、「魔物は、アデルナという国の主産業たる退治業界が存続するのに欠かせない、大切な資源だってこと!」

 「……!?」やっぱり分からなかった。

 「あなたも、この街から生まれる魔物を退治し、事件を解決して、食を得ているのだから、感謝しなくてはね」

 「……だれに? あんたたち魔導士?」

 「さ、もう行かないと」

 「ごまかさないで。なんだったの? 意味わかんないわ。どうして、そんな余計なことをわざわざ聴かせに来たわけ?」

 「余計なこと?」フードの人物はさも心外だと云わんばかりに、少しだけ声のトーンを高くした。

 「よろしくて? アデルナの魔物と魔導士の総元締は、ほかならぬルキアッティ家と云っても過言ではないのだわ。退治産業にまつわる利権というのは、あなたの想像を超えた莫大なものよ。カルパス市の、一年間の協会費と住民税のうちの退治報酬に当てられる特定財源を含めた魔物退治歳入総予算はいくらと思って? 約百万アレグロ。百万アレグロよ。ちなみに、退治報酬の歳出予算はいくらだと? 六十万アレグロぐらいだったかな? ちょっと正確な数字は分からないけれど……とにかく、分かる? その四十万アレグロもの差額が、ルキアッティの収入と考えていいのだわ。なんにもしなくとも、ただ業界を存続させるだけで、その利益が生まれる。なんにもしなくともよ! その利益を護るためならば、人間なんか、何人死んだっておかしくないのだわ。つまり、魔導士やハンテールは、その途方もない利権の下でおこぼれを少しでも頂くため、互いにルキアッティ家の手の上で踊っている人形にすぎない。そして、退治の結果で一喜一憂し、人生を右往左往している一般市民は、人形以下なのだわ。分かるかしら? 支配するということの蜜の味が。その人形を好きな時間に操って遊ぶ快感が。神にもなった気分でしょう。まさにこのアデルナでは為政者と資本者こそ王であり神。たとえかつては王侯貴族であろうとも、魔物を退治できず貧苦に喘いでいる者は、存在する価値を認められない。この世の地獄。たとえかつては盗人であろうとも、魔物退治業界を支配している者は、この世の春。富者はそれだけで支配者であり、貧乏人はそれだけで罪人なの。そうならないようにお互い努力しなくちゃね。仲良くしましょうよ、お人形さん同士」

 「あんた……」フローティアは涙が出てきた。「話、長すぎ」

 人物は嘆息し、やや肩を落とした。「まあ……そのうち、いやでも現実にまきこまれる……。頭脳は鍛えておいたほうが良いわよ。矛盾こそ人間の証明。人間は生きるために、天敵である筈の魔物すら利用するのだわ。聖導皇家も、吸血鬼王すらも、しょせんは人間の都合で産み出されたものということ。あ、そうだ。これをあげる。レプリカだけど、とてもいいものだわ」

 そう云って、人物はフードの下からブローチをとりだした。しかしただのブローチではない。アデルナ赤ドラゴンの眼のようなルビーで造られたトンボの細工だった。銀色の胴体と頭は、銀ではない。ずっしりとくる存在感は、プラチナだろうか。大きさは、掌に納まるていどだ。古い物のようだが、いま造られたばかりのような輝きも持っていた。フローティアは、それをどこかで見たような気がした。ウガマール製であることには、間ちがいはない。(すると、このフードの人物はウガマール人なのだろうか?)

 「ねえ、これ、ホントにレプリカ……」フローティアは顔をあげた。すると、もう人物も犬ワニもおらず、彼女は周囲とは異なる時間の流れの中で、再び一人となっていた。


 翌日、上からフルトが戻ってきた。フローティアはルビーのトンボ細工はおろか、フードの人物についても何も話さなかった。隠したわけではない。もう興味が無かったからだ。意味不明で、忘れたと云っても良い。トンボは貴重なものであることには変わりないので、とりあえず預かっておくことにし、昨日の内にノーノの店のクルタイト出張所へ行って、貸し金庫に入れてしまっていた。

 「さあ、第二試合だ」

 フルトは、気合を入れるため、何度も顔を手で叩いた。「試合はまた夕刻だ」それまで、フルトは神聖力を練るため瞑想すると言い出した。「次の相手は、魔物なの? まあ、前の相手もある意味魔物だったけど……」

 「魔物かどうかは分からないがね」フルトは、フローティアを見つめた。彼は地上で、自分が何かを思いだしかけたことを非常に気にかけた。彼女と始めて会った時もそうだったからだ。しかし、何を調べても、どれだけ考えても、何も記憶は蘇らなかった。あとひと押し、何かが必要だった。

 フルトは自室に閉じ籠もり、一歩も出てこなかった。フローティアはそれを見習い、自分も、本当に久しぶりに瞑想をした。しかし、そのまま眠ってしまった。

 目が覚めたとき、すでに光の柱は大分弱くなっていた。夕刻だ。寝過ごしたと思い、急いで階下に向かったが、フルトはまだ部屋から出てきていなかった。フローティアは安心して、小腹が減ったのでズッキーニ、トマト、ナス、カボチャ、乾燥キノコなどの野菜入りリゾットを頼んだ。ただし、二人前である。とても戦闘前の食事ではない。

 ウガマールよりも濃厚で甘くよい香りのアデルナ牛のミルクを飲みながらそれを木のスプーンでかっこんでいると、フルトが降りてきた。彼は既に闘志と神聖力で満タンだった。

 フルトは無言で自分も長いパスタを頼んだ。甘辛いミートソースがたっぷりとかかったもので、硬いチーズを山のように削ってかけた。二人はここが戦場のように無言でひたすら食べまくると、それぞれ自室へ帰り、顔や口を洗って、着替え、集合し、出発した。

 フローティアは、彼がいったい何ををそのように緊張しているのか(彼女にはそう思えた。)分からなかった。闘技場はまた姿を変えていた。先日のようなグロッタ様式ではなく、整然と塔の伸びる荘厳で無味乾燥とした古式の神殿のような造りで、黙々と入り口より人々を呑み込んでいた。選手用の出入り口より控室へ入り、初めて対戦相手を知る。今日は、なんと、タッグ戦だった。フローティアはアシスタントではなく、正式選手として登録されていた。フローティアは狼狽し、フルトは些少なりとも憤ったが、おそらくそれはマリオの差し金だろうとも分かっていたので、あっさりと追求をやめた。しかし、それはマリオの仕業ではなかった。マリオからの連絡員が、そう洩らした。清掃員として入り込んでいたその者は、闘技場職員が退室してからモップを動かしながらそれとなくフルトへ近づき、短く何事かを伝え、そのまま、流れるように、掃除を終えて出て行ってしまった。フルトの驚いたような、納得ゆかないといったような、複雑な表情が、残った。

 「どうしたの?」

 フローティアが怪訝そうに訪ねた。「うーん」フルトは唸り声で答えた。「なんだかよく分からないが……試合の形式が急に変えられたらしい。マリオの旦那も、急なことで焦っているようだ。あの人が焦るなんて、滅多に無いぜ。この街でそんなことができるやつなんざ、そう多くはないからな」

 「誰なの?」

 「前言を撤回する。そんなやつぁ、この街にはいないよ」

 「じゃ、誰が?」

 「分からねえなあ。大きな力を持つ魔導士でも現れたのか……連中は、ルキアッティとはゆるやかな敵対関係でもあるし、協力関係でもあるからな」

 「微妙な関係なのね」フローティアは心配になってきた。黒剣の無い自分が戦うと、不思議な感覚と不思議な力がいつも血液の奥底から這い上がってくる。剣が無くなったことで、それが顕著になってきた。剣が、その力を押さえ込んでいたように思えてきた。この街は、やはりどこか奇怪しいかもしれない。

 「このままずっと黒剣が無いと、わたしはいったいどうなってしまうのかしら」

 それが、目の前の試合よりもずっとずっと、はるかに不安だった。しかし現実は容赦なく時間を区切ってゆく。試合の開始だ。

 「今からもうどうしようもない。呪文戦闘の用意はいいか」

 「ハイペリアスとハイペリオンのタッグなんて、さすがのカードだわ。大戦当時に戻ったみたい」

 「冗談はいい」

 「呪文戦闘!? なによそれ。用意なんかできてるわけが無いじゃない。知ってて聴かないでちょうだい!!」

 「いちおう、聴いておくだろう、こういうときはよ!」

 「怒鳴らなくてもいいじゃない! もう、知らない!!」

 フローティアは泣きそうになった。瞳に涙がたまり、濃いブルーとなって、暗がりに不気味な光を湛えた。フルトはその人間の精神の根幹を見据えて攻めたてるような、深海へ落ちてゆくようなあまりに澄んだ青に身震いしたが、すぐに気を取り直した。

 「最悪は、オレが二人分戦う。その時は、例の……」フルトは、その先は云わなかった。口に出すのも恐れ多いといったふうだった。フローティアはフルトの視線に、同じ視線で答えた。

 二人は会場へ向かった。前回と同じ場所だったが、様相は一変していた。今日の闘技場全体の雰囲気に合わせたまるで荘厳な本殿のように、粛々と、儀式が進行していた。競技娯楽戦闘という儀式が。観客は静寂として、囚人のようだった。二人は本当に司祭のように泰然と、そして楚々として、開かれたドアから場へ進み出た。瞬間、無音の時間を砕いたのは、ドラの一打と、轟然たる合唱、そして管弦楽だった。フローティアは耳をおおった。どこから音がしているのかと天井を見やった。満天の星空に見える天井全体から音楽が響いているとしか思えなかった。さらには、観客らが、ほとんど全員立ち上がり、胸へ手を当て、合唱に合わせて大声を張り上げ、歌いだした。

 「……これは、魔導大典の一節だわ」

 「よく気づいたな」

 フルトも神妙で緊張した面持ちだった。観客たちは、音楽に合わせ、興奮しているがその興奮のいっさいを心の中に押さえ込んでいるようだった。「これは、一説には旧アデルナ魔導王国の国歌だったということだ。それが、いまでもこうやって、なにやら壮大な音楽の一部となって伝わっている。聖導皇家で禁じたはずの歌が、こうやって連綿と伝わっているんだよ」

 フローティアは、唐突に思いだした。

 リピエーナの歌っていた鼻歌が、この旋律であった。夢見心地の中で、この歌の妙に郷愁を誘う旋律が彼女の心へしっかりと刻まれていたのだ。古い魔導王国の文化が着実に伝承されているのを感じて、フローティアは聖導皇家とその勝利とは何なのだろうとさえ思った。聖導皇家の「栄光と真実の」歴史などは、ウガマールの中だけの空しい幻想と希望、そして自己満足ではないのか。ウガマールの歴史学者や教育者に云わせれば、アデルナの歴史認識や感覚など「正しい歴史を歪曲している」とでもなるだろう。アデルナの人々の心へ連綿と伝わる文化、文明、意識を考えるとき、そのような傲慢な物云いは、ちゃんちゃら可笑しいではないか。

 やがて、曲調が変わって、人々は歌うのをやめ、軍隊のようにいっせいに座った。しかし、中には座らずに、もう、がなり声を上げて応援を開始した者もいる。ふと、二人は対戦相手が既に開始線のところまで出ているのに気がついた。フローティアは声をあげた。そこにいた二人組は、忘れようにも忘れられぬ人物だった。


 「ターティンだとッ!」フルトも思わず驚きの声を発した。フローティアは息も止まった。春雪と、道士長・雷仙の二人が、漆黒の戦闘装束に身を包み、静かに佇んでいた。

 「どうして!?」フローティアの問いへ、答えるはずも無い。春雪の手には、装束と同じくまったく深い真の黒、闇の色をした剣が握られていた。フローティアは心臓を突き刺されたようにドキリとしたが、良く見るとちがう剣だった。形がちがう。もっと短く、片手用で、剣身は薄く、柄は東洋的な装飾品にも見えて、先には房がついていた。フルトは二人の尋常ではない気配に、すぐさまフローティアへ指示をだした。

 「オレはあの女、おまえは後ろのジイさんだ。しかし……こいつは分が悪いぞ!」

 「分かってるわよ!!」フローティアは全身全霊をこめて、自分の使える呪文をおさらいした。しかし、何度おさらいしても、片手以上は出てこなかった。リピエーナの呪文集を読むのをさぼり続けてきた罰だ。

 「ああぅあ」緊張を通り超して、混乱してきた。コルネオ山で突如として出現した彼ら。何の目的でこの地の果てアデルナまで来ているか、けっきょく想像もしなかった。また出会おうなどとは微塵も考えなかった。その報い。そう、既に彼らの仲間を一人倒しているはずなのに。それも、黒剣があっての話だった。いま、彼女が部下の報復を考えているとしたら、それはもう成されたも同然だ。

 容赦なく、開始の合図のドラが鳴って、先ほどの音楽がテンポアップし、凄まじい管弦楽と混声合唱によるアレグロ楽章となって鳴り響いた。

 「やかましい音曲だ」春雪が忌ま忌ましげにつぶやいた。雷仙がただ「御意」とだけ囁いた。

 「これはもう騒音だ。楽ではない」雅びな宮廷楽に親しんだ春雪にとって、激しい行進調の戦闘曲を理解するのは無理な相談と云えた。観客の熱せられた狂乱も、彼らには動物の喧騒としか思えなかった。

 二人は、音もなくフルトとフローティアへ走り寄った。「こっちだ、ターティンのお姉ちゃん!!」フルトがそう誘いをかけ、剣を構えた。春雪が迷わずそちらへ向かった。刹那、奇声と共に春雪は一足跳びで接近し、薄くしなる剣を豪快に振りかざし、人間扇風機とも思わせる攻撃をみまった。フルトは何よりその動きの奇抜さよりも攻撃開始から自分への到達までのスピードに驚愕し、剣で防御しつつ身をかわすのがやっとだった。春雪は着地するや歩方を繰り出して、体をひねり、襲いかかった。踊りのようにおよそ戦いには無理なように見えて、しかしまったく無駄の無い動き、そして攻撃と防御が一体となった未知の動き、さらには、全身が連なって鞭のようにしなる動き、生き物のような剣撃、武器のような蹴り、その全てが同時に繰り出され、フルトは思わず神聖力を爆発させ、眼くらましとした。春雪は余裕をもって間合いをあけた。その蛇とも虎とも鷹ともつかぬ残忍で鋭い眼光を見据えて初めて、フルトは冷や汗が一気に流れ出た。鼻につく、すばらしく高価な春雪の香も、今は逆に恐怖の対象だった。百戦錬磨を自負する自分が瞬時で汗だくなのに、春雪は息も切れていない。近くで良く見ると漆黒の絹装束には、銀や瑠璃の糸で、傍目には見えないが、恐ろしく華麗で豪奢な刺繍が成され、蝙蝠が夜空を飛び回る様子だった。

 「なんという……」フルトは震えがきた。マンティコアに襲われたときなどと比較にならない、絶対的な力の差を感じた。同じ人間同士、戦士として、この女の戦い方は自分とは決定的な溝があると悟った。悔しいが認めざるをえなかった。フルトはあくまで剣を武器として戦う身だが、彼女はもはや、剣を含めて全身がひとつの武器なのだった。戦闘技術のケタがちがう。こいつをフローティアへ回すわけにはゆかぬ。

 その時、春雪が、流暢なアデルナ語でこう云った。「心配せずとも良い、聖導騎士。貴卿の相手は、はなから我だ」

 フルトはギョッとして、思わずフローティアを探した。しかし、視界には入らなかった。闘技場を見渡す余裕は無く、すぐさま春雪へ眼をやったときには、もう春雪の、すまして異国情緒あふれた貴族的な美しい顔は凍りつくような冷たくも歓喜に満ちた独特の微笑に彩られていた。それは、支配者が被支配者へ見せる、何ともいえぬ嫌らしさと、勝ち誇りと、侮蔑、見下し、あるいは無視、品のよさの混じった、本当に独特のものだった。

 「フルトヴェングラー、己は我と遊んでおれば良いのだ!! 我らの目的は黒き稲妻・暗黒皇太子の正統子孫にして死の舞踏の暫定継承者、ラル=フローティア=フルール=フライアルク=フローレセンセス=テンシュテットの、完全なる覚醒にあるのだから!!」

 フルトは卒倒しそうになった。気絶しそうになった。電気が走った。彼の記憶の封印は、いま、完全に破られた。この、太天の皇族による言霊が彼にかけられた術を打ち破った。彼は、先日よりずっと心の奥にひっかかっていた、フローティアに関する伝承の全てを、雪崩を打つようにして思い出した。

 「うあ……!!」

 そのフルトの泣きそうな顔を見て、春雪は心の底から笑った。「聖騎士! なんというツラだ!! まさに泣きっツラだ!! 耳をすませ、きこえないか?」

 「……!?」

 「この、たわけめが! 耳で聞くのでない。神聖力で聴けッ!!」

 ゴクリ、と喉を鳴らした。空気の振動がした。やがてそれは大きくなって、フルトの恐れていたものが現実となる瞬間だった。ドーンと轟音がして、会場全体が爆発の振動で揺れた。音楽がハタリと止み、観客の全員がその空気を裂く音を聴いて震え上がった。

 「わあああああ!!」フローティアの叫びが雷鳴に乗った。雷仙の苦痛の呻きも、同じだった。二人は光と電光を丁々発止にやり合いながら、地面と、空中を跳び回った。

 我へ返った観客は伝説の具現を目の当たりにして恐怖に震え、すぐさま、完全なパニックとなり、声も出さずに、我先にと逃げ出し始めた。

 暗黒の稲妻が、テンシュテットが、クルタイトへ帰って来た。


 春雪がフルトへ業を仕掛けた瞬間、また、雷仙もフローティアへ術をかけていた。フローティアは一瞬の闇に視界を奪われた。そしてそこで道雷仙と一対一で対話したのである。

 「目覚めろ」

 闇の中で、自身だけを浮かび上がらせ、斜視の白髪・白髭の老人が云った。フローティアは混乱した。「目覚めろ」もう一度、云った。そこでフローティアはやっと答えた。

 「なに!?」

 「その呪われた力を解放しろ。この六方へ再び、憎悪と破壊と混沌に満ちた戦乱をおこすために!!」

 「い、い、意味が分からないわ」

 「ならば教えてやろう」雷仙老師は、サッと長袖を上げた。絵巻物、あるいはフラッシュバック、そのようなイメージが二人の周囲をとりまいた。フローティアは、その写し出される映像の全てを知っていた。先の大戦における、数々の戦いの場面だった。

 「西聖導皇家諸氏と魔導王国最後の吸血鬼王の戦いは、ここアデルナを中心に長く行われ、魔物も聖獣も聖魔の騎士も真なる魔導士も神祇官も、数多く失われた。戦いは聖導皇家の勝利に終わったとされる。しかし、先の大戦で勝利したのは、人間だ。大戦は、人間ではない者たちによる戦いだった。大半の聖導皇家も魔導王も、地上から消えた。

 我らは東方よりその大戦の行方を見守っていた。大戦は東方には波及しなかった。裏ではあるがれっきとした東聖導皇家の一たる我らが譚家も、当時の朝廷の命により多少の兵は出したが、主戦場はあくまで西域だった。なぜならば、吸血鬼王の領土は東方には無かったからだ。東方には東方の秩序と力があった。

 従って、力を失わなかった我らは、表の聖導皇家の力と秩序を微かに現代へ伝えるウガマールやストアリアよりもはるかに強大だ。量ではなく、質的に強大なのだ。大戦後、魔導側であった前王朝を征服し、我ら譚家が東方を統一した。以後一千余年。太天は眠りから目覚めるぞ。我らはこのまま世界を席巻する強靱な意志がある。長く停滞の時期を迎えていたが、帝国の覇道は再びつき進められる。長らく裏だった我らが、ようやく表となる。

 そのために混乱が必要なのだ! 再度、大きな混乱が、西域で起きなくてはならない。我らがそれへ苦もなく介入するための、大義と名分のために!

 その混乱の引き金を引くのが、おまえだ。かつてアデルナを滅ぼし、吸血鬼王を滅ぼし、その後、ウガマールにおいても狂った力を恐れられ、没落せしめられたその怨念こそ、混乱の引き金を引き、最初の火種へ火の粉をまき散らすに相応しい!

 戦争だ。戦争だ。しかも、此度の戦争は史上初めて人間の意志で行われ、人間同士が世界規模で戦うだろう。西域と東方とが入り交じり、世界中で同時に戦争が起きるだろう。第三次大戦とでも云おうか、人間大戦とでも云おうか。人々と文明は疲弊し、憎しみと悲しみと、血と死が世界中をおおうだろう。しかし、その戦争の果てに、新しい世界が待っている。かつて、我々人間が、表の聖導皇家と魔導王というバケモノどもよりこの大地を取り戻したように! それには、おまえが目覚めなくてはならないのだ!!」

 フローティアは吼えた。

 「話が長いって云ってるんだア!!」

 「げえっ…」雷仙が悲鳴を上げた。彼が策を労せずとも、既に、フローティアの力は沸き上がっていた。

 バリーン、と何かが割れた。彼女の精神が割れた音だったのかもしれない。彼女の交叉された手より、電光が走った。その衝撃へ誘導されるように、彼女の血液の微細な流れの奥底、魂魄の根底より、電気がのぼってきた。

 「そっ、そうだ、そ、その力、その力を、もっと、もっと引き出せ!!」

 フローティアは、耐えることはしなかった。耐える意味が分からなかったし、耐える必要も理解できなかった。この力はアデルナへ来てより徐々に強くなってきていたものだ。しかも、黒剣が無くなってからは、さらにストレートな衝動として常に自分を揺さぶっていた。その力が何なのか、知らなかった。ただ、自分はこの力が登ってくるのを本能的に恐れていた。だから、異様に雷を怖がっていた。それが本当に、この力を解放してしまって良いのだろうか?

 凄まじい爆音がして、雷鳴が轟いた瞬間、二人は闘技場へ戻っていた。フローティアは自分でも何故こんなに興奮しているのだろうと思ったほど、破壊や暴力の衝動で一杯だった。そんな自分を冷静に見ている自分がいることもまた事実で、それが救いかもしれぬ。フローティアの力は、ほぼ間ちがいなく解放された。封印というよりも、むしろずっと使われないで自然に仕舞われていた物が、何かの拍子で間欠泉や火山の噴火のように一気に吹き出てきた印象だった。眠っていた竜を起こしたというべきか。雷竜。

 「ウカカッ、カカカカッ! や、やりましたぞッ、殿下ッ、これで、これで我らの御役目は達成したも同然ッ、あとはこやつが勝手にこの地へ混乱と戦乱とを引き起こしてくれましょうぞッ、皇帝陛下万歳!! 太天帝国へ栄光あれえーッ!!」

 「こいつ、このッ、さっきから、意味の分かることを云ったらどうなんだ!!」フローティアが怒りを見せた瞬間、雷仙の身体が、強力な電気に貫かれた。空気の裂ける衝撃波が闘技場内へ轟いてこだまし、自ら炎へつっこんで焼け焦げた年経た蛾のようにして、雷仙は地面へ転がった。

 「老師ィーッ!」春雪が駆け寄り、間一髪、袖より霊符をとりだし、フローティアの二撃めの電撃を禁じ、防いだ。しかし三度、雷撃が発せられた。春雪はゾッとした。が、雷仙がガバリと起き上がり、その攻撃を我が身へ受け、素早く隠形の術で春雪を隠してしまった。雷は容赦なく降り注ぎ続けた。

 「このッ、こおのッ、ジジイッ、よくもッ、よくも意味の分からないことをッ!! わたしをッ……わたしををッ!!」フローティアは急激に鎮まり、地面へ崩れて座りこんだ。雷はもう無い。ただ、微細な放電が、名残で散った。

 「……わたしを……バカに……」

 その自分の気持ちを、劣等感を、見透かされたのだろうか。人間としての弱さを。雷仙は、もはや人間ではなく、ただの焼け焦げた骨肉の塊だった。


 試合は流れた。観客は誰も残っていなかった。我先に退場するパニックで死傷者が続出し、二人は、永久的に出場の権利を失った。それですんだのは、この試合へ裏より大きな力がかかっていたからに他ならない。フルトは茫然自失として、フローティアの前を歩いていた。だが、闘技場を出たところで、振り返り(その無様に泣きはらした眼が、フローティアへショックを与えた。)震える声でこう云った。「き、今日はちょっと……ちがう宿で休ませてくれないか。じ、自分の気持ちを整理しないと……」

 「あ、あたしはクビになるの?」

 「クビだって!?」フルトは聞いたことも無いような震え声を出した。「おまえ、よくもそんな……い、いや……そうはならないさ。そうはならないためにも……た、頼むぜ、考えさせてくれ。オレは、い、いまはこんなだが……いちおう、ウ、ウガマールの聖騎士だったんだ。察してくれ。ど、どうしていいか分からないんだ……地下に来てから辻褄が合いすぎた。ガリアンの王はコルネオ山のドニゼッティではない……テンシュテット……おまえだ、おまえだったんだ!!」そこでフルトは逃げるように走り去った。フローティアは泣くこともできずに、下を向いた。

 「おつかれさま」

 その声は! フローティアは弾けたように再び顔を上げた。犬ワニを連れたフードの人物が、再び彼女の前に立っていた。

 「それッ!!」フローティアはしかし、人物の登場よりも、人物の手にある物体へ、いま走り去ったフルトも忘れ、とびついた。それは、彼女の黒剣だった。人物は、素直に剣をフローティアへ渡した。

 「頼まれたの。返すように。もういらないって。でも、あなた、本当にいいの?」

 フローティアは鞘へ頬ずりし、聞いていなかった。「ありがとうッ……!!」

 「お礼はいいわ」フードの奥から、驚きを込めた声がしていた。「本当に、ありがとう……」フローティアはここで、泣きだした。フードの人物は呆れて肩をすくめた。

 「そこまで、その剣はあなたにとって……。そうなるように、剣が仕組んでいたのだわ。先祖代々をじわじわと苦しめ……さすが、さすが死の舞踏……ただひたすら対魔のために働く呪われた剣。その剣は常に戦いを求めている。家宝の剣として安置されるのは剣の役目ではないのよ。ただひたすら魔導と戦い、眼前の魔導を退治するという手段のためならば、目的をも問わない恐るべき剣なのだわ。そのためならば、持ち主をも狂わせ、操るその力。まさに戦神の剣。敵を探すのではなく、強引に造り出してまで戦う剣。あなた、禁断症状が出ている。云っておくけど、まだ間に合うのよ? まだ、あなたがあなたでいられる瀬戸際なのよ? だって、あなたは本来の所持者では無いのだから……紅蓮の騎士の末路を観たでしょう?」人物は諦めた。フローティアは眼をつむり、涙をぬぐうこともせず、再会の感激に浸っている。

 「こうなるのは、わたしは必然だと思うけど。偶然も三つ重なると、必然といっていいのよ。わたしも、そうだったから」人物は楽しげに声を押し殺して笑い、「運命は、変えられるけど、その反面、やはり変えられないものなのだわ……だって変えた運命だって、運命の内なのだから。その矛盾こそ、人が人として生きて行く道なのだわ……」ゆっくりと、闇へ溶けこんでしまった。

 フローティアは剣を大事そうに抱えたまま、静かに歩いて宿屋へ戻った。宿では、店屋のおやじが贈ってよこしておいてくれたのだろう、彼女がモンテヴェルディと名付けたガリアンの子どもが、勢い良く出迎えてくれた。


         3


 再び話は戻る。先日、フルトとフローティアが第一試合を終えて帰宅したころ、春雪はその観覧を終え、とある人物と会っていた。それは魔導・聖導の古道具の鑑定をしているという人物の事務所で、地下都市時間で深夜であったが、二人とも真剣に話し込んだ。春雪より多少、年が上に見える人物はルキアッティ家が飲むような最高級のカルパシーナワインを用意し、春雪へ供したが、「ぶどう酒など夷狄がのむ物だ」と、手もつけなかった。人物は、深い臙脂色にまで熟した赤ワインを前に、春雪やフローティアと同じ色同じ質の髪をし、顔はふっくらとして、瞳も深く黒く、やや童顔だったが、背が高く、アデルナ人のように豊満だった。

 「好き嫌いは勝手だけど、異文化交流といって……」

 「むやみに他国の物を有り難がるのは、文化の交流とは云わん」

 「正解だわ!」

 「どこぞの妖しげな文化人とやらのいう、世界に国境は無いなどというのも幻想だ」

 「正解! 近代的な国家概念によるいわゆる国境は権力者による無意味な線引きかもしれないけれど、民族文化的な背景による地域の差は確かに存在して、とても無視できるものではないわ。それを強引にひとつにしたがる意味がわからない。世界文化の一体化、世界市民などという幻想は早く棄てたほうがいい。あなたの帝国でもそうでしょう? 色々な人種が大きな国でそれぞれに生きている。それを無理やりまとめようとしたところで、徒労に終わるだけなのだわ。人の営みはそうは簡単には変わらない。戦争でも起きて、いっかい、完全に壊れないと」

 「戦争、そうだ、戦争だ」春雪は鑑定屋を見据えた。

 「戦争はお金がかかるわよ。人もたくさん死ぬ。その覚悟があって?」

 春雪は無視した。「残念ながら我は兵卒でもなければ庶民でもない。その日暮らしの連中より血と租税を搾れる時に搾れるだけ搾るのが仕事だ。平和な時代とやらでそれを搾るのはもはや限界だ。そう、太天社会は、限界まで来ている。いま以上の発展は、支配者の遠大なる野望をもって人民へ喝を入れるしかない! 人は、民は、目標が無いと……たわけた言葉で云えば、希望といっても良いが……そんなものがないと、まるで生きてゆけぬではないか。生きる活力を失った民より、どれほどの血と租税を搾れると? そんな国に、未来はない……腐った現状の打開のため、我はここにいる!!」

 「あなたの国の都合で関係ない国の人が死ぬのよ、と云っているのだわ」

 「たわけ。戦争が長く続き、累計で三十万人が死んだとしよう。いまの太天社会が変化も無く二十年続く。ターティンの、年の自殺者は既に三万人だ。すると、単純に自殺者は累計で六十万人にのぼる。そのような時、国など意味がないし、人の死の数にも意味は無いのではないか!」

 「人の死の意味ですって?」

 人物の声が少し、うわずった。「人の死に意味は無いと云えば無いけれど、あるといえばそれは確かにあるものなのだわ。だけど、それは死んだ人間が決めることではない。全ては、生きている人間に決定権があるのよ」

 「決定権と云ったな?」

 春雪はあごを突き上げて続けた。「一度に百人死ねば大事件だが、一万人死ねばそれはただの数字の羅列だ。一度に百人死ねば恐ろしいことだが、一年間に百人死ねば、人々は日常の一部に思うだろう。人間などそういうものだ。きりがないのだ。人民の無限の欲望を全て充たしていては、国どころか我々人間は遠からず滅ぶだろう。アタマの悪い連中の無思慮で感情的な我が儘へ、いちいちかまっている暇などない」

 人物は眉を押さえた。「……あなたは支配者の家系だわ。人の死の意味をよくご存じだこと。しかし、後世から見て、人の世を作るのは、その名もない人々だというのも真理なのではなくて?」

 「百年後の真理など知ったことか! 我の使命は今を変えることなのだ!」

 「もうけっこう」人物は手を振った。春雪は短く舌を打ったが、論説をやめた。彼女は、春雪の云う「国」を棄ててここにいるのである。その立場を理解していた。

 「……それで、あの子はどうだったの? 共鳴はした?」

 「貴様、分からなかったのか?」

 「分かったけど」

 「じゃあ、聴くな!!」

 「いちいち怒鳴らないでちょうだい」眉をひそめつつも、凄まじい目つきでにらまれたので、春雪は咳払いをした。まともにやりあえば、自分より彼女のほうがはるかに力は上なのだった。いまはこのような調子だが、何かのきっかけで豹変するのを知っている。人道ぶっているがその破壊衝動は異常である。怒らせてはまずい。「この性格破綻者め」それは口には出さず、こう続けた。

 「我は確信した。あやつこそ我が求めていた力を持つ者だ。あの力さえ解放すれば、放っておいてもこの地は混乱してゆくだろう」

 「それは、その剣の望むところだわ。あなた、黒剣なんかに踊らされていいの?」

 「黒剣の思惑など知らん。我は皇帝陛下の御意思にただただ従うのみだ」

 「律儀な子」人物は、春雪が机に置いた黒剣を見た。彼女が、最初に自分のところへ持ってきた時のことを思いだした。彼女にはすぐに分かった。ジギ=タリスがどうのこうのではない。剣には製作者として、彼女の家の銘が神聖力で刻まれていたからだ。古代十三聖導皇家が一、ヴェーベルン家の。

 「あやつの力を完全に解放するには、どうしたらいい」春雪はそこで初めて椅子に座り、口ではなんだと云いながら、用意されたワインを静かに飲み干した。

 「知っての通り、神聖力は、同じ系統の力に引き寄せられる。古い封印の術でもかけられているのならやっかいだけれども、眠っているだけなのだわ。だいぶん目覚めかけているから、あともうちょっとだと思うけれど」

 「だから、そのちょっとをなんとかする方法を相談している」

 「もう、あたしたちだけじゃなくても、あなただけ側にいれば、あとは、あなたの部下の術でも、どうにかなると思うけども」

 「わかった。有り難う」春雪は席を立った。その素直な感謝の言葉に、人物は少なからず意表をつかれた。

 「ねえ、ストアリアはいいの?」

 「最初は気になったが……正気の沙汰ではない。魔導王の復活などと。人間の血などをいくら調べようとも限界がある。無駄な努力だ。よみがえった雷神の怒りに打ち滅ぼされるのが落ちだ。そのことは、大いなる混乱への序曲となるだろう。望むところだ」

 春雪は勢い良くドアを開け、行ってしまった。「お代くらい置いていってもいいようなものなのにね」人物は髪をかきあげた。足下の犬ワニが、のそりと起きて人物を見上げた。「わたしも一度、あの子に会っておこうかな」人物は眼をほそめ、ふっくらとした頬へ笑みを浮かべた。

 譚春雪、フローティア・テンシュテット、そして彼女バーバラ・フォンヴェーベルンを、後世の者は「聖導皇家の三狂姫」と呼ぶこととなる。が、いまの話ではない


 フローティアとフルトが地下都市で鬱とした気持ちにまったく整理がつけられないでいる間、ストアリアはクーゲルシュライバー大佐の指揮の元、着々と計画を進めていた。大佐は部隊の指揮権を有していたが、計画全体の遂行責任者では無かった。それは、ストアリア学会の異端、魔導学の権威、ヘルムート・フォンカラヤン教授だった。

 カラヤン教授の家も、ロジェストヴェンスキー少尉のように古くからのストアリア民族ではなく、異邦よりの移住者だった。現地の発音ではアラジャーンという苗字がそれを物語っている。しかし「世界の折り目」たる中部強大国、六方十国が一・白色帝国ことガーズラバンドに吸収された故国での戦乱とガーズラバンド人よりの強烈な迫害を逃れ、旧時代のストアリアへ移住して後、曾祖父の代に綿織物とその小売流通の事業を起こして大成功した。暴利をとる仲買を介さず直営の卸売配送所を管理し、価格を下げ、安定した供給を実現し、流通革命とまで謳われたのだった。そして帝国の産業を発展させた功績で、当時の選帝侯より古い聖導皇家の称号を模した爵位を示す言葉「フォン」を授けられた。従って、いまは正式にはフォンカラヤンなのだった。

 大佐は地下都市に設置されたストアリア軍基地内のひとつのテントへ、教授を訪ねた。

 大佐はテント前の衛兵へ来訪を告げ、衛兵がテントへ入って教授へつなげた。「入りたまえ」やや嗄れた、しかしよく通る威厳ある声がした。

 ひときわ明るい電灯の下で、教授は大きな机に向かって仕事をしていた。調べ物をし、紙に書き留めていた。書物がうず高く積み上げられ、召使が一人だけおり、身の回りの世話をしていた。それはストアリア=ガウクだった。大佐は、はじめてこのような間近でガウクを見たような気がした。いつもは、ただ退治したり、労役しているのを無視したりするだけの存在であるからだ。てらてらと光る黒と黄色の外骨格。不気味に電灯を映す複眼。機械的に動く触覚。凶暴な種では人間をただの餌としか見ぬこのような魔物を、魔導士でもないのに、どのように操っているのか、明らかになっていない。カラヤン教授の魔導科学の成せる技であった。教授の計画を補佐遂行する命令が軍令部参謀本部より与えられてより、もっとも慣れないのがこの教授の執務室へ来ることだった。

 「ええ……」大佐はガウクを気にしつつ、教授へ声をかけた。「座りたまえ」そう、地の底から響くような声がした。催眠術のように、その言葉へ従ってしまう自分を、端から見ている自分がいた。ガウクが差し出した椅子へ、大佐はフラフラと座った。

 くるりと回転椅子を大佐へ向け、教授が顔を上げた。鋭い鏃のような眼光。初老の白髪頭は、見事なシルバーブロンドだった。高い鼻と深い眼差し。いかつい顔つき。大きくない体つきだが、威圧感だけはやたらとあった。しかし、学会の帝王・魔王と恐れられるだけの理由は、何も見た目の独特の雰囲気だけではない。その強力な実行力と計画力、なにより、研究のためには何も犠牲を厭わぬ姿勢こそが、数多くの敵と味方を作ってきた。今回の「吸血鬼王復活計画」も、もう何年も無視され、嘲笑されてきた学説だったのを、軍部が目をつけ、予算がつき、トントン拍子で実行が決まったのである。それを一人で、なし遂げたのが教授だった。

 「何の報告かね? 大佐殿」

 「は、はい。ええ、その、せ、先般の侵入者の件で」

 「ノートは?」

 「えっ、いえ! やはり、その……」凄まじく流れ落ちる汗を拭き拭き、大佐の声が低くなった。ガウクがすぐ隣でギチッと大きな顎を鳴らした。「ありません」

 教授は何も動じずに、ただ大佐をにらみ続けた。大佐は生きた心地がしなかった。

 「あまつさえ、研究・計画の最重要部にみすみす入りこまれ、偶然か必然か、計画の要が無くなった。たまたま、我輩が貸し与えたその日に限ってだ。賊が、ウガマールやターティンの間者であったならば、大佐、きみの首が本当に飛ぶだけでは、とうていすまない事態だよ」

 大佐は跳ね返るように立ち上がって直立不動となった。

 「座りたまえ」

 また、そう、やや硬くなった声がして、崩れるように座った。一気に汗が引き、もはや冷や汗も出ない。ガウクがすぐ後ろで、ギチギチとまた顎を鳴らした。酸っぱいような独特の臭いが鼻についた。ガウクから発せられる、蟻酸の臭いだ。

 「しかし、そう心配はいらない」

 「えっ?」

 「計画は第二段階まで進んでいた。いま、あのノートが無くなったところで、大幅な修正は無い。軍令部より新しい指示が来てね。D計画は方向性を変えることとなる。幸か不幸かね。我輩には、どちらでもよいことだから、それへ応じた。これは、我輩の都合ではない、君たち軍部の都合だよ、大佐」

 大佐は唾を飲んだ。自分は更迭されるのだろうか。あまつさえ、降格。さらには、軍法会議で裁かれ、刑に服す可能性もある。また汗が流れ落ちた。

 「そう、おびえなくてもよろしい。きみの処分は保留だよ」大佐は正直にほっとした表情を見せた。「ただし、次は無い」それからまた、緊張して強張った。小物だ、と教授はつくづく思った。世の中は大半の小物と一部の大物で動いている。それがバランスというものだ。

 「それで、今日から新しい計画が始まる。新型D計画だ。これへ関する発表はいっさい成されない。きみの仕事も変わりは無い。これまで通り、部隊を使って、ひたすらサンプルを採集するように」

 「わ、わかりました」

 「よろしく頼むよ」

 「はい……」大佐はどうしてよいかわからず、座ったままだった。

 「行きたまえ」とたん、逃げるようにクーゲルシュライバー大佐は教授のテントを出た。


 大佐は自分の部屋へ戻るやヴァーグナー大尉を呼びつけた。大尉はたまたま事務仕事で地下にいたので、すぐに応じることが出来た。

 「なんでしょう」敬礼の後、大尉は持ち前の仏頂面を崩しもせずに大声で云った。彼は大尉とはいえ、正確には大佐とは別系統(別組織)の階級にあるため、命令系統が異なり、呼びつけられる筋合いのものではない。ただ、彼の仕事は大佐へ従い、協力することなので、そうしているだけだ。クーゲルシュライバー大佐はストアリア国軍であり軍令部の指揮下にある人間だが、ヴァーグナー大尉は皇帝直属の皇帝軍の人間だった。この二種類の軍は、元より、仲は、あまりよくはなかった。国軍将校士官は地方貴族出身者が多く、皇帝軍将校士官は先祖代々皇帝ハイゼルヴェンシュタフェン家直属の直参集団だった。お互いにプライドがあった。士官がその調子だから、兵卒もよくトラブルを起こした。もちろん、どちらが上というわけではなく、性格的には、国軍は国家の軍隊だが皇帝軍は皇室の私的軍隊というものだった。それは、宮殿を護る近衛軍ともまた異なる。皇帝のみを護るのだ。国軍の給料は国軍省から出ているし、近衛軍の給料は宮廷省から出ているが、皇帝軍の給料は皇帝の私費で賄われていた。しかし、その皇帝軍とて(皇帝の私費を含む)皇室予算は帝国議会の協賛を得ないと執行できないため、形式上は国軍や近衛軍と同じく国家機構である。皇帝と帝国政府が一体となって動くとき、このふたつの強力な軍隊は相乗効果をもらたすが、皇帝と政府が離れてしまったとき、強烈な内乱の火種となる危険性も孕んでいた。

 その二人が共同で作業しているということは、カラヤン教授のD計画……いや、今や新型D計画は、国軍と皇帝軍と両方から支持を得ている証拠だった。ただし、それぞれの思惑は腹の探り合いだった。どこがどれを利用しているのか。教授が軍を利用しているのか。軍が教授を利用しているのか。皇帝軍と国軍の均衡は。三者三様、複雑な損得勘定と人間感情の中で、いま計画は進行している。

 「採血の状況は、どこまで行っている? 教授が、さらなるサンプル血液の提出を求めてきた」

 「特殊採血銃D401・通称名『リング』がまだ量産大勢に入っておりません。急に量を増やせと云われましても……」

 「そこをなんとかするのがきみの仕事だろうが!! 非番で本を読んでいる暇など無いのだぞ。おまえたちが倍、働けばよいことだろうがッ、わかったら下がれ!」

 さしもの大尉も眼をむいて何かを云いかけたが、敬礼だけして奮然と踵を返し、退室した。「くだらねえ、国軍の田舎騎士野郎が何を云ってやがる!!」誰が聴いていようともかまわず、そうわめき散らした。「しかし、命令とあらば従うほかはねえ。あんな犬っころの下へつけという命令でもな!!」大尉はすぐさま部下へ連絡をとり、地上の二人の少尉と合流した。


 さて……。

 マーラーは、トリーナとセルジュの二人を長く地下へ置いておこうとは思っていなかった。せいぜい、数日間。しかし、そうは云っていられなくなった。とりあえず初日は二人を宿で休ませた。その間、彼はいろいろとネタを仕入れに出歩いた。まずいきつけの酒場で街の近況を聴き、そこで「先日行われた面白い試合」の情報をえた。すかさず、闘技場へ歩いた。闘技場の官吏より「先日行われた面白い試合の詳細」を聴いたマーラーは、珍しく血相を変えて宿へ戻ってきた。起きたトリーナが、モンテール式のシャワーを浴びていた。年頃の娘らしからず脱いだ衣服をベッドの上へ散らかしていたのでマーラーは苦笑した。その中で、古ぼけた手帳のような、ノートを見出した。彼女がストアリアの基地より失敬してきたものだ。彼は何の迷いも無くそれを手にし、めくって中を確認した。そして珍しく眼を丸めた。「……ほう、こいつは……!」そしてすぐに細めた。

 セルジュが何かにうなされたようにして、隣のベッドでねがえりをうった。トリーナはまだ湯を浴びている。

 「さて……そうなると……」マーラーは深くそして速く思考をめぐらせた。「このノートがこちらの手にある限り、吸血鬼王の復活はまずあり得ない。『復活の呪文』の解読は大きく遅れるだろう。そんなものが本当に人間の血液の中にあるとしたならばの話だがな。フフフ……なるほど、そんな大それたことを企んでいたとは……D計画! 意味がわかった。蚊のようにせっせと血を吸い、蜜蜂のごとくそれを巣へ集め、まったくもってご苦労な連中だ。しかし、そうなると、ストアリアもバカではない。計画は方向性を変えるか……テンシュテットが復活しかけている今なら、このD計画とやらの遂行も邪魔をできるが……それにはどうする? テンシュテットを利用するか? ターティンを利用するか? それとも私が直に動くか? ……リピエーナのばあさんに聴いてみるか。クライアントにな。これはさすがに、勝手に動いてはまずい状況だ」マーラーはニヤニヤして、久々に退屈から解放されたように、ノートのページをさらにめくった。

 その時、トリーナが風呂場より出てきた。「あっ、マーラーさん、タオルとってくれる……あれっ、そのノート」

 「こいつは私が預かる。いいな」

 「いいなも何も……」何のノートかも分かっていない。「それよりタオル」「自分でとれ! 私は仕事がある。セルジュを起こして勝手に飯を食え。飯代は私の名前でたてかえておけ。明日にも地上へ戻るぞ。おまえたちの動きはストアリア軍よりすでに把握されている。しばらくは、私といっしょに行動することだ」

 「は、はい」

 「それから、服ぐらいたたんでおけ」

 トリーナはタオルをとった。セルジュは、失われた時間を取り戻すように、恐ろしく深く眠っている。


 マーラーは隣の自室へ戻り、この常宿へ預けてあるアイテムを戸棚よりとりだした。これは古い魔導のアイテムだった。文字盤と云えばよいか。黒光りする重そうな石盤であり、表面は鏡のようにすべらかで、文字盤というわりに文字など何も書かれていない。マーラーはこれをリピエーナより与えられた。石盤を机の上へ置き、席について、ホテルに備えつけの古い羽ペンをインクにもひたさずに石の表面へ滑らせた。すると、筆跡がそのまま白く浮かび上がった。しかし、景気よく書いていると、途中で途切れた。マーラーはペンを振った。「クソッ、インクがでないぞ」別にペンからインクが出ているわけではないが、この道具を使う者はそのように表現するのが粋とされたことを、彼は忠実に伝承している。「もう、かなり古いからな」何度か振ったりペン先をなめたりしている内に、再び白い文字が浮かび上がるようになった。文章を書き終えると、石盤の枠の部分に並んで刻まれている魔導文字のうち、上から二番めの短い単語の部分を指で押した。とたん、白い文字は、すーっと鏡面へ吸い込まれるように消えてしまった。マーラーはそこで席を立ち、鈴を鳴らして給仕を呼ぶと紅茶を入れさせ、しばし窓際の椅子へ座って景色を眺めながらミルクティーを楽しんだ。そのうち、石盤より澄んだ鈴のような音がして、マーラーは机へ向かった。石盤には、再び白い文字が浮かび上がっていた。しかしそれは、彼の筆跡ではない。もっと流れるような優雅な上流階級の女性の字で、しかも、かなり古い魔導文字だった。「ばあさんめ、私だと分かっていてこれだ。フフ……ほかに誰も読みャアしないのに」マーラーはその手紙を熱心に読んだ。彼は「了承した」とだけ返信し、石盤を再び戸棚へしまった。

 彼はセルジュを叩き起こし、またベッドにもぐり込んでいたトリーナをシーツごとひっくり返した。「ど、どうしたんですか」寝惚け眼でセルジュが喚いたが、マーラーはそっけなくこう云い放っただけだった。

 「私はまずストアリアとケリをつける。計画を少しでも遅らせなくてはならない。あの罰当たりな計画のな。わたしの依頼主はたいそうご立腹でね。そして、フローティアだ。こいつを、どうあっても止めなくてはならなくなった。かなりやっかいな仕事だがね」そういう割には、「フフ……」と、いつまでも不敵な笑みを浮かべているのだった。トリーナが緊張した面持ちで訪ねた。

 「フローティア? が、どうしたって?」

 「彼女はいま、変化しつつある。しかし、本来、彼女はそうなるべき人間ではない。依頼により、止めなくてはならない」

 「へ、変化ってなんだよ。それに止めるって?」

 「私は自分の仕事をするだけだ。さあ、とっとと食事をすませてもらおうか!」マーラーは二人へ、それ以上何も云わせぬ迫力を与え、食堂で慌ただしくパンやスープ、ミルク、少量の豆と肉類、大量の茹でたキャベツやブロッコリー等の野菜類をかきこむと、三人はクルタイトよりカルパスへ戻った。彼らが使ったのは、フルトとフローティアが使用した公園の真ん中の「迷い石」の秘密の出入り口とはちがい、なんとエレベーターともいうべき機械的な機構で、一気に地上へ出られるものだった。これは、主に魔導側の人間が使うもので、ハンテールたちには知られていないのだ。マーラーはそれを使用する許可証を持っていた。それは街の外れにあり、そこへ向かって何人もの深いフード姿の人物がいかにもうさん臭そうに歩いていたし、中には普通の商売人もたくさんいた。マーラーによれば、フードの連中より、普通の商売人のほうがむしろ実は魔導士が多いということだった。フードは裏ハンテールだという。地下都市の壁際にまた魔導門があって、彼らは中に入った。暗がりで眼だけ光っている骸骨のような若禿げの係員へマーラーが許可証を見せ、三人分の料金を払った。通路の奥へ案内され、そこには幾つもの扉が壁に備えつけられていた。それらは、それぞれ地上のいたるところにつながっているのだと、マーラーは説明した。「さて、どこへ出ようか」少しだけ考え、彼は右側より数えて六つめのドアの前へ立った。ドアは、全部で幾つあるのか、通路の奥が暗くなっているのでトリーナには分からなかった。しかし、何十もあるような気はしなかった。ベルが鳴って、ドアが開いた。下りてくる者が五人ほどいて、みな一般人に思えた。全員がマーラーでは無い二人をチラチラと見ながら去って行った。三人が乗り込んだ。

 「の、乗り物なんですか?」セルジュの不安と好奇心の混じった声を、トリーナはなんとも微笑ましく聴いた。しかし彼女も、まったく同じ感想を抱いた。

 「乗り物というか……なんといえば良いのだろうな。別に、車輪がついているわけでもなし。どのように動いているかは、私もよく知らないんだ」そのとたん、部屋全体が動き始めた。「うわっ、わっ、わっ」トリーナも思わず声を発した。セルジュは慣れぬ感覚に膝をついてしまった。見えない力に引っ張られているというか。トリーナが胃を押さえた。彼女が何より戸惑ったのは、部屋が頻繁に、上へ引っ張られたり水平に移動したり、あまつさえ下へさがってり、時には引っくり返っているような感覚を自分へ与えることだった。ついに二人は強烈な時化の中を進んでいる船にでも揺られているように、部屋が進行方向を変えるたびに、よたよたと室内を這った。相当に気分が悪くなってきたころ、部屋がようやく止まった。マーラーはずっと腕を組んで仁王立ちのままだった。静かにドアが開いた。そこは、カルパス近郊の森の中だった。大きな岩場の隙間に、出口はあった。

 トリーナがまず走り出て、よく育った秋の下草の合間に、さっき食べた食事の大半を吐き戻した。セルジュも、つられて、岩へ向けて吐いてしまった。

 「しょうのない連中だ」マーラーは二人を近くの小川へ連れて行き、水を飲ませて休ませた。時刻は、早朝のようだった。日中はまだ暑さが残るが、さすがに肌寒い。

 「さて、さっそく仕事だ。おまえたちはここにいろ」

 「な、何をするんだよ?」

 「ここはストアリア軍の『狩場』のひとつらしい。さいきん、腕の立つハンテールが、次々と行方不明になっている。魔物に返り討ちにあっているというんだが……どうもそうではないらしい。確かに、カルパスの近くにドラゴンが住み着いた、なんて云われれば、誰だって気負って退治に来るだろう。ここいらでドラゴン退治など、一生に一度、あるかないかのチャンスだから。そのドラゴンが手強くて、逆に倒されている、ということになっている。それも真実味があるじゃないか。しかし、実体は、ちがう」

 「意味がわかりません」セルジュが抜け目なく地下ホテルより持ってきたタオルで口をおおい、つぶやいた。まだ目がうるんでいる。

 「ドラゴンはハンテールをどんどん倒している。したがって、次から次へと、名声を得たいハンテールが集まる。まるで死体へ群がる蠅だ。しかも、ドラゴンを相手にするんだ。それなりの腕前をもった連中が集まる。時間がすぎ、倒されたハンテールが多ければ多いほど、その価値は高まる。ドラゴン退治がどこから出ている依頼なのか、協会を通しているのかどうかもよく分かっていないのに、噂だけで。ドラゴンとは、そこまでさせる魔物ということだ。アデルナ人の心理をよくついた作戦といえるだろう」

 「だから何を云ってるんだよ。ドラゴンとストアリアの軍隊が、何の関係があるんだ」

 「見ただろう。先日、テントの中で。電球に照らされた中で、何があった?」

 「……?」

 「やつらは、どうも、ドラゴンを餌にしておびき寄せたハンテールたちの血液を集めているらしいんだ。それが、ハンテール連続行方不明事件の真相さ」

 それを聴いた瞬間、二人は、あの、赤い液体の入った大きなビーカー群を思いだし、再び吐いた。

 「……なんで、そんなことを?」しゃくりあげながら、トリーナは涙を吹いた。

 「古い魔導王、旧アデルナ王国の吸血鬼王の研究をしているということだ。アデルナ人のハンテールは聖導騎士や魔導騎士の子孫が多いからな。そこから吸血鬼王復活の秘密をつかもうということらしい。本当にそんなことが可能かどうかまでは分からないが」

 「吸血鬼王の研究で、吸血鬼の真似事をしているっていうのか!? バカかッ。どっちが吸血鬼だっていうんだッ!?」

 「その通りだよトリーナ。人間のすることは、ときどきえらく愚かだ。しかも、いい年をした大人が立派な組織で、みんなでそれをやっているんだ。クフフッ」

 トリーナは、マーラーのその一瞬の喜悦の表情を、見なかったことにした。

 「それを止めるのですか?」

 「セルジュ、いかに私とて一人で軍隊を相手にするのは骨が折れる。勝利は容易な事ではない。だが足止めぐらいはできるだろう」

 マーラーは腰のカンピ刀をやおら抜き放った。スッとかすかに音がして、ジギ=タリス九十九%の脅威の秘剣が、冷たい空気にひんやりと浮かび上がった。鋼のような、鏡のような、石のような、不思議な剣だった。トリーナらが通常に見るジギ=タリス剣とは、一線を画した代物だった。剣身二尺四寸七分。反りは浅く、刃紋は箱型直刃、働きは少なく、ただし切っ先は見事な火焔。地は黒く、肌は匂がたち非常に細かい。トリーナはそのあまりに深い刃に吸い込まれそうになって、頭がクラクラした。

 「対魔剣、銘・幻多々良……かつて火水比(カンピ)で、伊福部幻斎というえらい武人が巨大な鬼や蛇、百足の首を一撃で落としたという。これならば、たとえドラゴンが相手でも、恐れることはない」そう云いつつ、マーラーは武者震いを感じた。「師匠ッ……」目をつむり、はるか東方の神秘の島より来た一人の武術者にして修行者、求道者、そして忍者の、懐かしい顔を思い浮かべた。もう、ずっと昔のことだ。

 「ド、ドラゴンを退治するですって、あなた一人で!?」トリーナが、我へ返らんとするように、声をだした。

 「ああ」マーラーは片手で袈裟に刀を振り、空を裂いた。何にも刃が触っていないのに、自分の隣の草がハタリと切れて倒れるのを、セルジュは確認した。「さしもの私も、軍隊相手には分が悪い。一人二人を倒しても、組織に狙われるからね。ひいては、ストアリア帝国を敵に回すことになりかねない。ストアリアにはいい顧客もいるんだよ。フフフ……だが、ドラゴンを倒してしまえば、もう、誰もこんなところには来ないだろうよ。ひとまず、連中の作戦を頓挫できるだろう」

 「ムチャだよ」

 「その無茶を通すのがわたしの仕事なものでね」マーラーはあくまで自信たっぷりに微笑を浮かべて、音もなく、一瞬にして真一文字にその刀を鞘へ納めた。トリーナとセルジュは、マーラーへ着いてゆくのが足手まといになると充分に理解し、無言で彼を見送った。そのまま、草むらへ隠れる子鹿やウズラの雛のように、ただただジッとしていた。

 その代わり、大きな森カラスが、マーラーのあとをつけた。


 マーラーが慎重に草を踏み分けて歩いていると、先客がいることに気がついた。いや、先客がいたことへ気づいた。木の影や、草中へ横たわっていたのは、五人ほどのハンテールの死体だった。マーラーはちらりと観察しただけで、状況を把握した。おそらく深夜半、ハンテールたちはドラゴンを退治しに意気揚々と訪れたのだろう。ドラゴンは昼行性のものが多いからだ。寝込みを襲うのは奇襲の常套。しかし、そこにいたのはドラゴンだけではなかった。もちろん、ドラゴンによる攻撃もあっただろう。寝ていたドラゴンが起きてしまえば、それはもう、寝込みを襲ったことにはならない。寝込みを襲うとは、眠っているうちに倒してしまわなくてはならないのだ。五人のうち、二人が、無残に引きちぎられ、食いカスとなって散らばっており、夏の名残の無数のハエがたかっていた。しかし、あとの三人は衣服に包まれたさまざまな肌の色の巨大なサラミのようになっており、一瞬のうちに全身の水分を抜かれた様子がよく分かった。血液だけではこうはならない。まさに、体中の細胞という細胞から体液を吸い取られたようになっていた。

 マーラーは左手を腰の刀へ添え、鍔へ指をかけた。鯉口をいつでも切れる体勢だ。そのまま、さらに歩きだした。「もう、いないか……」そう考えた瞬間(気を抜いた瞬間といっても良いが。)背後の藪より、大きな黒い塊が爆発したように襲いかかってきた。

 小屋のようでもあったし、それほどの闇の塊のようでもあった。ストアリア黒ドラゴンは、その巨体をまるで気配を感じさせずに、ささやかな草の中に隠していた。それがドラゴンの恐ろしさだった。

 マーラーはしかし、無意識で、宙を舞っていた。宙返りを打ちながら、さらに抜刀! ドラゴンの巨体のどこかへ確かに刃を食い込ませた。強力なジギ=タリス効果により、ドラゴンは傷をつけられると同時に塩か毒か酸でも塗り込まれたほどの衝撃を受け、ふだんの美しい古い木管楽器のような声ではなく、割れた低音ラッパのような、バリバリバリという凄まじい声で吼えた。その声は森を突き抜け、トリーナたちを震え上がらせたし、鳥という鳥が飛び立って、カルパスの住民の一部を確実にたたき起こした。

 次は、マーラーが隠れる番だった。忍者の極意を伝授されている彼は、いともたやすく、気配を消した。獣にすら悟らせぬその隠形術。ドラゴンは怒りに身をまかせつつも、臭いを嗅ぎ、眼で追ったが、無駄だった。とたん、黒ドラゴンは火を噴いた。アデルナ赤ドラゴンのものよりは華奢な火の線だったが、渦を巻いて、水鉄砲みたいに鋭く噴射された。落ち葉が燃え上がり、近辺の硬直していた小動物たちが、今が好機と逃げ出した。炎はマーラーのすぐ眼前を通ったが、身じろぎもしない。伝説の忍者は、天井裏で下より槍で眼を刺されても、平然と袂で槍の穂先へついた自らの血糊をぬぐったというが、彼にもそれぐらいはできた。ドラゴンが背中を見せた瞬間、ねそべっていた姿勢から一気に立ち上がり、跳びつきざまに一閃、居合を喰らわせた。それはドラゴンの腰を真一文字に割った。並の剣では刃もたたぬドラゴンの皮膚へ、ジギ=タリス剣は紙でも裂くようにくいこんだ。しかも、脅威の神日刀による傷は、一気に骨まで達したようだった。切断された黒く長い毛と鮮血をふりまきがらドラゴンがのけぞったのと、マーラーが振りかぶって大上段よりの第二太刀をお見舞いしたのが同時だった。こんどは、牽制の攻撃ではなく、トドメの一撃だ。剣が深々と肉を斬り裂き、水平の位置まで達したところから、マーラーはそのまま刀を振り切って、斜めに斬り抜いた。腰背部をくの字に傷つけられ、しかもジギ=タリス剣である、背中全体が爆発したような、神経全体が引き裂かれたようなショックに、さしものドラゴンも翼を拡げて逃げに入った。しかし遅い。マーラーは得意の手裏剣を腰の革製のポシェットよりすかさず出し、浮かび上がったドラゴンの身体へ、どこでもいいからとにかく打った。連続して二本、打ち、命中した。剣先にドリル状へジギ=タリスを加工した、これも対魔導武器であり、かつてフルトを襲ったマンティコアの動きを封じたのを覚えておられる方もいるだろうが、ドラゴンとて例外ではない。銃で撃たれるよりも強烈な衝撃に襲われて、ドラゴンはたまらず地面へ落ちて、這いつくばった。もう声も出ず、喘ぐだけだった。マーラーは首を落とそうと、前へ廻った。もちろん最新の注意を払って。

 「待て、そいつを殺さないでくれ」

 人の声がして、マーラーは、ドラゴンと間合いをとった。刀は、油断無く片手下段にし、切っ先を黒ドラゴンの鼻面へつけたたままだ。

 「そいつは、ストアリアでは保護動物だ。特殊な事情でここへ連れてくる許可を得ている。そいつに罪はない。罪があるとすれば、我々である」

 「出てこい」云われままでも無く、ストアリア軍が、数名、素早く現れ、展開した。

 「隠れて、見ていたのか」

 「ちがう。そいつの悲鳴を聴いて、近くの宿営場よりとんできたのだ」

 「殺された退治屋の仇をとると云えば」

 「我々が死を賭して戦う」

 「そいつはちがう」壮年の、隊長のような大柄な軍人が、不思議そうな顔をしてマーラーみつめた。もう、部下が黒ドラゴンの介抱にあたっている。「ドラゴンが殺した数より、おまえたちのほうが多いはずだ。ストアリアの似非吸血鬼連隊長殿」

 「む……」隊長の眼が細まった。「さては貴公が……? 先日の賊であるか?」

 「賊かどうかは分からないがね。フフ……それより、面白いものを背負っているじゃないか。まさかそいつが、人間を蚊にする装置かね?」

 隊長はリングを構えた。「そこまでご存じとは。黒ドラゴンを一人で倒す相手。何者かは分からないが、その血液、並のハンテールの何十人分ものサンプルに匹敵しよう」

 マーラーは切っ先をドラゴンから隊長へ向けた。「名を聴いておこう。ストアリア騎士ならば名乗れるはずだ」

 「残念ながら騎士ではない。私は、兵卒から上がったものだ。しかし名乗ろう。ストアリア皇帝軍ゲオルク・シュツルムフォーゲル少尉である」

 「『嵐の鳥』とは気の利いた名前だ。私はリール・マーラー」マーラーはそこでまた目にもとまらぬ速さで納刀した。この納刀も、大事な居合術のうちなのだ。

 「エクソイル・マーラー!」少尉が叫んだ。「裏ハンテールの筆頭。きみが、そうか。データにあったぞ!」

 「光栄だな」云うや、マーラーはサッとまるで時間を短縮させるような独特の歩方で一気に間合いを詰めた。もう刀が柄を上へ向けて抜かれている。左手で鞘を引きつつ、切っ先三寸まで滑るように抜いた後、矢が放たれるか板バネが弾けるかのように、パッと刀が弧を描きつつ最短距離を通って飛んだ。刀だけがまるで生き物のように、また、マーラーの腕が伸びるように迫るその攻撃に、ゲオルクは戸惑った。マーラーは腕だけではなく、全身の勢いと力をその切っ先へこめた。並の相手ならば、その一撃で額を割られてお陀仏だろう。ゲオルクはマーラーよりかなり長身だったが、寸分違わず刀の先が顔へ向けて迫ってくるのに、さすがに胆を冷やした。

 後ろに下がるしかなく、崩れるように下がった。が、マーラーはそれを予期していたかのように、空ぶった刀を振りかぶって袈裟に斬った。

 「ぬおおッ」そこで初めて、ゲオルクが前へ出た。生は前にあると判断したのだ。銃剣が突き出され、マーラーは眼を見張った。その剣がかすりでもすれば、血を抜かれるのだろうか。その躊躇が、ゲオルクの命を救ったと云ってよい。マーラーは斬撃の途中で身をひねり、刀を止めた。

 ゲオルクがそのまま体当たり気味に反撃に出たが、マーラーが柄当てを繰り出して、それがゲオルクのどこかへ当たり、二人はいったん、間合いをとった。

 「ほうっ」マーラーが楽しげな声を洩らした。「フフ、軍人め、なかなか動く。少尉殿。叩きあげのことあはる、フフフ」

 片や、ゲオルクは心臓が動きすぎてショックで止まるのではないかというほど、凄まじい動悸だった。「恐ろしいやつ……」援軍を呼びたかった。ヴァーグナー大尉と、ロジェストヴェンスキー少尉だ。しかし、喉がへばりついて声が出ぬ。宿営場より魔導獣医が呼ばれ、ドラゴンの介抱をしていた。

 その時、マーラーがいつの間にか手の内に滑らせていた手裏剣を打った。スーッと不思議な航跡を描いて飛んでくる短い棒のようなものに、ゲオルクは不覚にもそれか何なのか判断がつかず、投げナイフよりも強力な武器であるとはとても思わなかった。もう目の前まで来たときに、本能的に飛び道具であると気づき、避けたが、間に合わず、ドッと凄まじい衝撃が右の胸へあって、呻いて尻餅をついた。とたん、あれほど乾いていた喉の奥へ大量の水分が出現し、それが口からあふれ、濃厚な鉄の味がした。剣は肺を完全に貫いたのだ。急いで宿営場を出てきたので、防御服を来てこなかったのが反省点か。威力も速度も思いのほか凶悪的である。

 ゲフッ、ゲフッと湿った咳をして、泡状の血液を吹き出した。「フフ……油断したな」マーラーは、しかし、今度は顔も眼も笑っていなかった。「命だけは助けてやる。しかし、もう仕事は出来ん身体となる」

 ゲオルクがそれでも銃を構え、血走った眼をむいた。

 「ふざけるなよ、祓魔士、そんな私に価値はない。殺せ」

 「それは私の仕事ではない。代金に入っていないのだよ」マーラーは刀を振りかぶると同時に膝を詰め、身を低くし、刀を振った。とたん、尻餅の少尉の構えていたリングの銃身が、真っ二つとなって、一瞬の火花と、煙を吹き出した。

 「こ、こいつ、なんということを……」

 「これを開発するのに、どれだけの時間と金がかかったとでもいうか?」

 「ぬ……」

 「そして犠牲も」マーラーは眼を細めた。「実験には、さぞや一般人を使っただろう」

 「貴様に何が分かるか!!」少尉は怒りを露にしたが、そのまま苦悶の表情となって、這ってまた血を吹いた。背中のタンクがそれへ合わせて揺れる。

 「生贄は完成してからも捧げられた。狂った研究にな」マーラーはその背中のタンクにも刃をつきたてた。動力部がショートして、火花が散った。なにやら液体が漏れだし、異臭を漂わせて少尉の服を溶かした。少尉はよけい咳きこんで、その分だけ血を吹いた。

 「他人の血を集めるようなことをしていると、己の血で染まることとなる」

 「講釈はいい!! 誰の差し金だ!! おまえが利も無く一人で動くはずが無い!!」ゲオルクは膝をついて立ち上がり、血を吹きながら叫んだ。

 「バカな。云うものか。フフ、まったく、非常識なやつだ」マーラーは云うや、白刃一閃、ゲオルクの右腕がふっとんだ。その瞬間、納刀して、素早く、木々の間へ消えた。そこで初めて、周囲の兵士たちが凍った時間から解放され、少尉を助けるため、集まった。


 マーラーが帰って来て、トリーナとセルジュは迎えが来た迷子のように喜んだ。

 「さあ、行こうか。昼まで休んで、午後から、また仕事だ」

 「ドラゴンを退治したのですか?」うなずくマーラーに、セルジュは感動を覚え、震えだした。

 「ストアリアはどうだったのさ」

 「うむ……戦力は減じたつもりだ。これ以上はやる気は無い」マーラーは歩きだした。「次の仕事だ」「つ、次は何をするんだ?」トリーナはセルジュと連れ立って、マーラーのあとへ続いた。

 「次は、フローティアを止める」トリーナはマーラーへ走り寄り、並んだ。「なあ、フローティアは一体どうなっているんだ? 止めるってどういうことなんだよ!」

 「アデルナやストアリア、ウガマールへ残る古い伝説を知っているか」マーラーが立ち止まって二人を見た。二人は思わず顔を見合わせた。

 「伝説は色々と残っているさ。特にここは、前大戦の最後の戦いが行われた場所だからね。魔導王と、聖導皇家の騎士たち」

 「暗黒の稲妻を知っているだろう」

 「知ってるさ、そりゃあ!!」トリーナが、そう、目をむいて叫んだ。「ドゥンケルブリッツ! 古い言葉だ! 魔物や魔導士を星の数ほど倒したヤツだろう。あまりに強くて、そして狂ったように戦うから、聖導皇家からも疎まれていたっていう、呪われた皇太子だ。電撃を発する黒い槍をもっていたんだろ?」そこでトリーナは自分の言葉に息をのんだ。その槍、自分はつい最近見たではないか!

 「ストアリアでは、黒い剣ということになっている。ラズバーグでは、雷の矢を打つ黒い弓を持っていたことになっている。黒い巨大鎌や、黒い両手短剣という国もあるぞ。なんにせよ、それらの稲妻を反射し、不気味に光り輝く黒髪。不思議な藍と碧の混じった瞳。乳白色の肌。大敵である筈の吸血鬼王の特徴をもっとも濃く表した聖導騎士長。それが、古代聖導皇家が一・テンシュテット家のガル=ガリアン=フライアルク暗黒皇太子だ」

 「……テンシュテット……」そのままトリーナは絶句した。

 「セルジュ」

 「は、はいッ」

 「ウガマールでは、フライアルク皇太子はその後どうなったと伝えられている?」

 「あ、その、はい、ええと……」いきなり質問をされた生徒が黒板の前で必至に何かを思いだすように、セルジュは唸った。「大戦終結後も、世界に散って地下へもぐった魔導のものを退治する旅を続け……二十年後に、その子どもを名乗る人物が、黒剣と共にウガマールへ現れました。黒剣は真物であり、容貌も似ていたため、ウガマールでは正統な後継者と認めました。しかし、皇太子は行方不明で……その子孫が、ウガマール奥の院で代々、摂政や神官長をつとめていましたが、百年近く前に、なんの理由か没落して……地方へ流されました。それがどこなのか、伝わっていません。子孫もどうなったか、分かっていません」

 「削除されたんだよ。ウガマール正史より。歴史などそんなものだ。しかし、よく知っていたな。おそらく聖騎士のフルトの旦那は……記憶を制御されているだろう。ここまで云えば、二人にも、分かるかね」

 「そんな!!」叫んだのはセルジュだった。「フローティアさんは……やさしくて……必至に頑張っていて……」

 「できすぎた作り話だよ、マーラーさん。フローティアが、暗黒皇太子の遠い子孫だってか? 何を証拠に」

 「黒剣が全ての証拠なんだよ、トリーナ」

 マーラーの表情は、二人が初めて見るほど、真剣で、緊張感に満ちたものだった。「あの黒剣が。あの恐ろしい、魔神の剣が」二人は、自然と、手を握った。

 「闇の皇太子がカルパスへ戻ってきた。あの剣は呪われた剣だ。祟り神の剣だ。ただ魔物をひたすら退治するためだけに生まれた。退治するという手段だけが目的で、そのためには結果も、過程も、何も無いんだ。極端な話、退治する相手は誰でもいい。なぜなら黒剣が退治をすればそれこそが、すなわち魔導となるのだから。フローティアはそのために帰って来たんだよ、カルパスへ。真の魔剣が覚醒したとなれば、均衡は一気に崩れ、各国は正式に動き出す。少なくともストアリアが動く。あの軍事大国が! アデルナはどうする? ラズバーグは? 世界の裏からターティンも来るぞ! そして……魔剣を正式に管理している『はずの』ウガマールは? 止めなくてはならない。フローティアを狂気の女神、戦争の発起人とするわけにはいかない」

 「でも……でも、それじゃあッ、フローティアを殺すのか!? マーラーさん!!」

 「少なくとも、そうさせないのが私の依頼主の望みだ。フローティアは、黒剣とは関係なく、彼女の人生を歩かなくてはならない。どうも、彼女には兄が残っていて、その者こそ本来の黒剣の継承者らしい。フローティアは、代理継承者だ。しかし……私が殺されるかもしれない。なにせ相手は、聖魔の練達の騎士たちも恐れる呪われた剣の使い手だからな」再び、マーラーは歩きだした。二人は、話がもはや自分たちの届かぬはるか高いところまで行ってしまったことを痛烈に感じ、しかしそれを認めている自分たちに幻滅し、怒り、憤った。それでも、どうにもならないことを悟って、黙然とマーラーの後ろ姿を見つめていたが、マーラーが振り返って、無言で手招きしたので、一杯に巻かれたゼンマイから手を離し、突然人形が動きだしたように、おもむろに歩きだした。

 森カラスが凄い速度で上空を飛んで行った。


 カラスの行く先は、決まっていた。

 カルパスの高台、高級住宅街やアパートメントの並ぶ一角にある、見るからに高級アパートの一室。春雪は朝食の鶏粥へ手もつけずに、眼から火でも吹き出しそうなほどのあからさまな不機嫌さで、席についてその怒りに満ちた眼をむいていた。残る三人の道士、天来花、風結、そして山頭のうち、春雪の身の回りを世話する係でもある中年の細身の女性、天来花が、粥の出来が悪かったのかとひときわ怯えたようにして立っていた。もっとも背が小さく小太りな風結、そして体格の良い筋肉質で大柄な山頭とて、主人の怒りを恐れ、石像のようになったままだ。春雪の腕や額にはまだ電撃による火傷があって、包帯が巻かれていた。包帯の下には薬と共によく効く護符もいっしょに巻かれているのだが、傷の治りは遅かった。フローティアの強力な神聖力のせいだろうか。

 その窓辺へ、春雪の式鬼である大カラスが飛んできたのである。

 春雪が窓へ顔を向けると、すぐさま風結が開けた。カラスが入ってきて、テーブルの上へ乗った。とたん、絞りたてるような音を出して、カラスが口から赤い玉を吐き出した。「山頭ッ」春雪の抑揚の無い声へ弾かれたように山頭が動いて、袖より短い剣を出し、玉へつきたてた。すると玉が割れ、映像が幻燈のように浮かび上がった。それは、カラスが見た景色を映していた。マーラーがドラゴンを退治するところ、そしてトリーナとセルジュと話をしているところ。声も、はっきりと聴こえた。

 「ぬぬ……」春雪が、眉間にエンピツが挟まりそうなほどのしわをよせて、歳に似合わぬ歯ぎしりと低い唸り声を発した。「祓魔士マーラー……こやつがそうか。しかし、観たか! こやつの使っていた剣、そして武術は……神日のものではないか!?」

 「……そ、そのようでござりまする」風結が代表して答えた。

 「あの倭人どもの住む絶海の島々から、かような地の果てまで人がきていたのか?」春雪は、半ば唖然としていた。「いったい、いつ、誰が、どうやって来たのだ? そのような武術家が。まるで初耳だが」

 「ぎ、御意」道士たちには、返す言葉もなかった。ただ、風結が再び、「殿下、恐れながら申し上げます。伝え聞くところによりますると、かつて、神日の王が、西域諸国へ使節団を出し、その中で一人の武術家が、同地へ間者として残ったといいまする。もしや、その者の系譜なのでは」

 「その話なら知っている。しかし、それは……百五十年ほども前の話だと記憶している。この蛮地でよくもまあ技があそこまで正確に残ったものよな」

 「御意……」風結はそこでまた黙り込んでしまった。

 現地では、神日、火水日、火水比、さらには火無比などとも書かれるその島国は、太天からは海の向こうの謎の地だった。そこへ住む人々は亜人と信じられていたし、現地の神話によれば聖導皇家の「謎の一家」が大地と大海を踏破し、天を超えてきて、現地人と交わったことにより、いまの神日人があると伝わっていた。もちろん、太天や周辺諸国を含め、北方大陸人、南方海洋人等の移住者も多く、神日は東方じゅうの民族血族の入り交じった複雑な様相を呈しており、いわゆる同一民族でありながら、あまりに容貌がバラバラの不可思議な人々だった。思考も行動も矛盾しており、したがって文化も矛盾していた。しかも、その矛盾が矛盾のまま矛盾という現象として、交わることなく、解決することなく、狭い島の中で平行存在している。春雪には、何度話を聞いても理解しがたい民族だった。また、彼の地はテトラ=ジギ=タリス石の東方においての一大産地であり、神秘のジギ=タリス武器を産出する地でもあった。太天でもたくさん輸入していた。まさに火と水と森の絶地であり、この島で発達した武術は、太天を含む周辺国からの影響と独自の思考・体運用との融合により、太天武術と共に東方の雄である。春雪らにとっては対抗意識もあったし、彼らのプライドではこちらの人間による戦闘法など子どものチャンバラごっこか素人の殴り合いに等しいと思っていた為、思ってもみなかった対等の相手の登場だった。

 「とにかく」春雪は立ち上がった。「なんにせよ、この祓魔士めが暗黒の稲妻を止めるというのならば話はちがう。我らは、祓魔士めを止めねばなるまい。火撰と沢奥が一撃で倒された黒ドラゴンを、いともたやすく御した相手だ……我ら四人、命を賭する覚悟がいよう」

 「御意……」

 春雪は、すっかり夜が明けた早朝のカルパスを窓辺より見下ろした。街の係員が、夜通し燃えていた松明を片づけている。松明係は、重い荷物運び専用の役人「強力」と同じく、役所の最下級役人の一人だ。

 「腹が減った!! 食事はまだか!!」そして、いきなりそう叫んだので、道士たちはひれ伏さんばかりに恐縮し、その姿勢のまま、あわてて冷えた粥を下げ、再度の用意を始めた。


 地上へ戻ったマーラーとトリーナ、それにセルジュは手頃な宿をとり、昼過ぎまでゆっくりと休んだ。こんどこそ慣れた太陽の光の下で眠りと食事をとり、しばしの安息を得た二人は、なにやら本当に生き返った気分を味わった。ダリーの店でストアリア兵に捕らえられたのが、ずっと前のことに思われた。三日しかたってないが。逆にその三日間が、あっという間に過ぎ去ったのも事実だった。

 「マーラーさん、これから、どうするの」

 トリーナが食後のコーヒーを飲みながら眉をひそめた。セルジュはカプチーノのカップを両手で抱えたまま、ジッとトリーナをみていた。マーラーはささやかな食事とテーブルワインを少々残して、紅茶をゆっくりと傾けてなにやら考え事をしていたが、その独特の深い始源的な眼差しでトリーナを見返した。トリーナは、射抜かれたように固まった。

 「また地下に行くさ。フローティアに、とにかく、会ってみないとな。フフフ……」

 「会ってどうするの。戦うの」

 「わからない」

 「フルトさんは? フローティアを助けようとしたら?」

 「それは無いと思うが……もし、そうだとしたならば、彼も黒剣に囚われている。私にとっては、戦う相手となる」

 「おっ」トリーナはそこで唾を飲んだ。少し呼吸を整え、「おいらは……どうしたらいいんだ」そこまで云って、急に泣きだした。声を上げるのではなく、ただ、涙が止まらなかった。セルジュは胸が苦しくなって、眼を伏せた。

 マーラーは、慰めもしなかった。「おまえたちは私から離れることは許されない。ストアリア軍が最重要人物として狙っている。だからといって、私の足手まといも御免被る。地下都市で、安全な場所へ隠れてもらおう」

 「マーラーさん」セルジュが、午後になってはじめて発言した。「フローティアさんを……どうか助けて」

 「私だってそうしたい。それが、依頼なのだから。だが、私とて万能ではないということだよ、セルジュ」セルジュは分かっていたことを無理に聞いた子どものようにうなだれた。

 「おいら……おいらからも依頼するよ、マーラーさん。いや、セルジュだって、依頼するよ。どうか、どうかフローティアを助けてやっておくれよ。あいつは……あいつは生まれてはじめての友だちなんだ。あいつは……あいつはどこか、心の中で、おいらと似ているんだ……」

 「……」マーラーはやや考えていたが、「私の依頼料は高いぞ。なにせ、無資格、モグリのハンテールだからな」

 「……いくらだよ」

 「三千アレグロだ」

 「はあッ!?」

 「一アンダントもまけんぞ」

 「……」二人はただただ顔を見合わせた。

 「フフ……どうした。怖じ気づいたか。おまえらの友情とやらは、その程度の値打ちも無いのか?」

 「友情は金じゃ買えねえよ」トリーナの口調が元に戻ってきたので、マーラーはやや安心した。

 「ふざけやがって……人の足元を見るのがエクソイルの仕事だとは思わなかったぜ!」マーラーは無言だった。トリーナは舌を打ち、「わかった、払ってやるよ! ああ、払ってやるとも、何がなんでも、一生かけてもな!! セルジュも、それでいいだろうッ!?」セルジュは、その迫力に、ただうなずくだけだった。「だから、マーラーさんよ、なんとかしてくれよ! 助けておくれよ、なあ!!」

 マーラーは立ち上がり、残った紅茶を一気に飲み干した。

 「わかった。なんとかしよう」

 二人の心へ光が差した。

 「行こう。地下へ」二人はあわてて席を立った。用意をしなくては。「クルタイトへ」


 マーラーは街の裏通りを慎重に歩いた。セルジュとトリーナが、それぞれ一回家へ戻って装備や用意を整え直したいと願ったが、マーラーは許可しなかった。「生活用品具など地下で買い揃えるんだ。金は私がたてかえておく。おまえらの巣など、とっくに見張られているのがわからないか。古く栄光ある地下都市では、ストアリア軍といえども、おいそれと手は出せない」

 二人は従う他はなかった。「ちがう出入り口から行こう。ヤナチェー区のほうにもあるんだ。下街さ」マーラーはペスカを拾った。環状通り沿いの小道を素早く走り、そのまま、目指す区画へ向かった。区画の前で三人は降り、小銭を払った。マーラーは御者へなにやら耳打ちし、御者は驚いた表情を見せて細かくうなずいた。ペスカはいま来た道ではなく狭い裏通りを無理くり通って帰っていった。「あの通りなら、襲われても彼だけなんとか逃げられるだろう」マーラーがそう云ったので、トリーナとセルジュが先ほどの御者と同じほどに眼を丸くして顔を見合わせた。誰に襲われるのか? 答は、一つしかない。ここから三人がどこへ行くのかを聴き出すために取り調べ(あるいは拷問)を受ける可能性が無いとも云い切れない。もっとも、ストアリア軍も無能ではない。地下への出入り口という出入り口を張っているのは間ちがいない。マーラーはそれを無理に巻こうというつもりは無いようだったが、みすみす牙の並ぶ口の中へ入ってゆくつもりも無いようだった。

 マーラーは静かに、刀を押さえながら滑るように進んだ。二人は相変わらずブーツの音を鳴らしがら続いたが、マーラーはそれを咎めようともしなかった。要求したところで、足音を消す術は、やれといってすぐにできるものではないからだ。

 夕暮れが近くなったカルパスの街々は、松明役人が虚ろな眼をしてそれぞれどこからともなく現れて、次々に火をつけて歩いていた。彼らは、これだけが仕事なのだ。もちろん給金は少なく、他に隠れてアルバイトをしている者が多い。(スゴ腕のハンテールもいるという噂もあった。)当たり前だが、近年はなり手が少なく、市では重い腰をようやく上げて賃金の見直しや、他にできる仕事の用意など、人員の確保に努めているが、芳しい成果は上がっていない。

 街は細かく通りが入り組んで、建物が迫るようにして頭上にあった。トリーナは、カルパスにこんな街があったのかと思った。下街というより、むしろ裏街だった。セルジュも不安げだった。ダリーの店へ行く暗闇の小道よりも、むしろ人間の生活がかいま見えて不気味だった。こんなところに住んでいる人々がいるのか、という。時折顔も見えぬほどの暗がりから顔の見えぬ子どもが走って出てきていたりしたが、家々に鈍い明かりが点る以外に、まるで人気がなかった。その窓の明かりですら、どこか幻想的で、むしろ、暗い屋根と屋根の合間を間ちがいなく魔物と思われる影や眼の赤い光がチラッ、チラッと飛んでいるほうが、彼らハンテールには現実的だった。トリーナは寒けがしてきた。じっさい、夜は冷えるようになってきている。マーラーは無言で先を急いだ。二人は傾斜のある小道をついて行くのに苦労した。しかし、三人は既に罠へはまっていた。

 「……なんだ?」マーラーがつぶやいた。「ここいらに、入り口があったはずなんだが……」トリーナが訪ねた。「それは、どんなのなんだよ、マーラーさん」「小さい祠なんだ。無人の小神殿さ。私が、間ちがえるはずが無いのだがね」

 トリーナは道を振り返った。セルジュは夜空を観た。しかし星が無い。後ろの、いま来たはずの道も無かった。街の明かりも先ほどとはちがっていた。橙の暖かい灯はどこへやら、いかにも冷たそうな、青白い冥界の火が窓へ灯っている。

 「マーラーさん!!」マーラーも、ここでようやく、事の次第を理解した。

 「フフ、やるじゃないか」

 「やるって、誰がだよ、なにが」

 「おまえら、少し、離れていろ」

 「ど、どうして……?」

 「いいから離れていろ!!」二人はあわてて離れた。しかし、マーラーが視界から外れるところまで離れる事はなかった。なぜなら、そのままこの異界を彷徨うことになりはしないかという強烈な不安があったのだ。

 マーラーは、油断無く刀へ手をかけた。容赦なく、春雪が建物の影より両手に剣をもって踊りかかってきた。軽くしなやかで、かつ強力な鋼を打ちのばして造ってあり、ジギ=タリス効果は無いがその分退治では彼女の秘術に魔物を屠る力がある。マーラーはひと呼吸分の時間で一気に間合いを詰めた春雪の体術にまず瞠目し、同時に大きく歩を滑らせて下がりつつその体の勢いを利用して抜刀していた。下段より切り上げられる切っ先に、春雪は蹴りを入れかけていた内股を軽く斬られた。装束が裂け、鮮血が散った。

 「チィ!」そのまま一気に膝を降り、低い姿勢より両手の剣を振り回すようにして伸び上がり、マーラーを襲ったが、マーラーも瞬時に身を低くし、反動でさらに既に後ろへ跳びずさっていた。もちろん、剣先を向けて牽制しつつ。その跳び退ける距離は、常人のものではなかった。おそるべき身体能力。その細身の身体へ似つかぬ足腰をしている証拠だった。もっとも、体の運用の仕方が根本から異なっているのだ。しかし、春雪とて常人の働きを超えて動くべく修行を積んでいる。呼気を整え、一足跳びで、瞬時にしてマーラーへ追いついた。その凄まじき軽功術には、さしものマーラーも驚いた。二人はほぼ同時に着地したが、その瞬間、互いに並びあったまま手に短い獲物をもった。マーラーは手裏剣を、春雪も袖より菱形の鉄の塊を出した。釘剣の一種だ。そして、二人は背を向き合い、てんでちがう方向へそれらを投げつけた。風を切って飛び、ガツガツと建物の壁へ突き刺さった。短い唸り声のような悲鳴がして、壁を割ってちょうど二人の市民が転がり出てきた。しかしそれらはカルパス市民ではない。ストアリア軍の諜報部隊だ。

 「貴様らまで招いたつもりはない」春雪が凍るような声でつぶやいた。マーラーはすぐに間をとり、刀を納めつつ向き合った。もちろん、刀を納めることが戦闘の放棄につながるわけではない。居合の秘術は、すべて、ここより技がスタートする。

 「お出迎え、ご苦労。だが、私は少なくとも用はないのだがね、フフフ」

 春雪は、マーラーをにらみつけ、剣を突き出した。「気取っているがいい! このモグリのハンテール、ふざけたエクソイルめ! 余計なことばかりをする!」

 「それが仕事なものでね」

 「誰の依頼か!!」

 「ふつう、常識では、云わないよ」

 「見当はついておる。コルネオ山のババアであろう。隠居の分際で、なにをそこまであの女へ肩入れするのか」

 「懐かしいのだろうよ。年寄りとは、そういうものだ。それが生きがいなんだ」

 「あやつは、年寄りにもほどがある!!」

 そのとたん、マーラーの背後より天来花の秘術が襲った。バアーッと蝙蝠のように飛来するのは、大きな鋼鉄の釘剣だった。見えぬ縛糸によって操られた秘具であり、地来蟲と同じものだ。本来は二人一組で天地自在に剣の乱舞を敵へお見舞いするのだが、地来蟲がフローティアへ倒されてしまったため、いま一人なのは仕方ない。

 マーラーはしかし、超人的な動体視力と天賦の才による超感覚により、それらの攻撃のうち、どれが避けなくてはならないのか、どれを避けなくてすむのかを瞬時に理解し(判断したのではない。)しかも身体がまったく自動的に動いた。秘剣・幻多々良(げんのたたら)が、建物の窓より漏れる青白い亡霊の吐息のような光を鈍く反射した。その剣身が、瞬間、闇に消える。とたん、パッ、パッ、パと釘が砕けた。天来花は、一瞬のうちに為す術を無くし、呆然と立ちすくんだ。そこをマーラーが襲う! 粛々と走り寄り、大きく振りかぶられた刀が横一文字から空を切って振りかざされ、マーラーの眼が殺気で白く光った。天来花は首が落ちるのを覚悟したが、春雪が割って入った。鋭くも鈍い音がして、ジギ=タリス刀を春雪の両手の剣が交叉してかろうじて止めた。だがマーラーは力をゆるめぬ。刃と刃がかじりあい、春雪は、敵の刃がどんどんと己の首へせまってくるのを、ただ耐えるしかなかった。このまま腰が砕けたら、首を切断されるだろう。手足が震えた。ジギ=タリスにかじられて、剣の鋼鉄の刃が、欠けていた。

 「殿下、お下がりを!!」この状況でどうやって下がるのか、春雪は怒鳴り返したい気分だった。風結が小太りの身体を回転させ、ボールのようにつっこんできた。マーラーはすかさず避けた。反動で春雪が地面へ這う。風が逆巻き、髪をはね上げた。風結がさらに回転の速度を上げ、マーラーへ向かって飛んだ。

 なんとその直撃を、マーラーは両脇を閉め、両腕を正面で合わせて壁にし、こらえた。しかも風結が逆にふっ飛ばされ、跳ねて地面を再び回った。誰もが瞠目した。そんな芸当ができるのかと。

 「……」マーラーは眼前の人間独楽のような男をにらみつけた。その背後に、春雪と天来花。一人一人ならば敵ではないが、三人まとめてとなると、さすがに手強い。

 マーラーは意を決し、納刀するや、右手の人指しと中の指を二本眉間に当て、短く気合とも呪文ともつかぬようなものを唱えた。すると、彼の着ている衣服が、瞬時に変化した。幻を見たかと春雪たちは思ったが、幻ではない。いかなる術であるのか。古の神日の武術家と、マーラーが入れ代わったとも思った。そこにいたのは、神日の民族装束、つまり藍染め木綿の小袖に黒に灰の炎が彩られた羽織、さらに灰地に黒縞馬袴へ大小二本を差し、手には鹿革の甲当て、足袋に草履、額には鉢がねの、まったく神日の侍の姿をしたマーラーだった。「そっ、それはいったい、なんの秘術か貴様ア!!」さすがに驚愕した春雪が声を出した。マーラーは何も云わずに、ニヤリとほくそ笑んだだけだった。とたん、マーラーが動いた。サッと羽織の袖をたすき掛けにし、柄に手を当て走りだした。袴の裾が風を切り、風結と対峙する。カンピ刀はこの姿による、正しく帯に差された腰の位置よりぬき放たれたとき、最高に威力を発揮する。洋装では、限界があるのだ。

 それは春雪たちも同じことであり、アデルナで頑固に衣服を変えなかったのは別に服を買う金がないとか、保守的であるとか、伝統を護るためとか、ましてホームシックとか、そういう理由からではなく、もっとも体術や武術・道術の威力が発揮されるからに他ならない。云わば、仕事着なのだ。彼らは観光に来ているわけではなく、常に仕事をしているから、常にその姿だった。しかし、マーラーはちがった。

 風結と天来花が、同時に動いた。風結の体当たり攻撃を天来花の釘剣がサポートした。風結の回転は剛質な釘を梔子の花びらに変えてしまった。パアッと風が香り、粉が舞った。春雪が、しびれ薬をまいたのだ。

 マーラーは息を止め、目をつむった。両手は刀の柄へ添えたままだった。耳と、気配のみを頼りに感覚をつかんだ。刹那、抜刀し、体が前へでた。頬を天来花の釘剣がかすったが、刀の切っ先が風を切って風結の右手をとらえた。血が散って、風結は悲鳴を上げて転がった。衝突した石畳がめくれあがり、小石が飛んだ。彼の術は、まともにくらえばそれほどの威力なのだ。

 風結の術が解け、釘剣の軌道が乱れた。釘は地面や壁へ勝手に突き刺さり、縛糸がたわんで風になびいて糸が張った。マーラーは不覚にもそのひとつに足をとられた。バランスを崩したその時を春雪は見逃さなかった。剣が再び風を裂いてしなり、全身がまるで剣と一体となった武器のように飛びはね、空中から刃が振ってきた。マーラーは刀を地面(石畳だが)へ突き刺すと、柄より手を離して無手となり、それを上空へ突き上げるようにして構えた。春雪の剣がマーラーをとらえたと見えた瞬間、春雪は思い切り吹っ飛んで道へ激突し、そのまま蹴倒した筒のように転がっていた。

 「……!?」吹っ飛ばされた当の本人が、いちばん訳がわからぬ。瞬間的にマーラーは歩をずらしてぎりぎりに剣先をかわすや、春雪の袖や肩口辺の衣服をつかみ、マーラー自身も春雪の落ちてくる重力を利用しつつ歩を引き、腕も引いて体を半身に開きつつ、運動の方向性を完全に変えてしまった。そういう柔術の技の一種だ。あとはそのまま、手を離せば春雪は自分の勢いとマーラーのささやかな投げる力で、豪快に飛ばされ、地面へ叩きつけられ、転がる。稽古では畳へ投げる技で相手も受け身をとるが、このように投げ放してしまうと、おそるべき威力が解放され、相手もバランスを崩して何もできず打ち所が悪ければ即死に到らしめるという凶悪な技だった。春雪は両手の剣が手より離れて遠くへ飛んで行った。あまりの衝撃に息が止まって眼が暗くなった。星が散って、意識が消えかけた。

 しかしこの程度で怯んではおられぬ。

 風結がなんとか自分で血止めをする間を稼ぐためにも、春雪は立ち上がり、地面をバンと掌で叩いた。すると、筍でも生えてくるように石畳からズッと槍が出現した。

 「テヤアーッ!!」春雪がはじめて、気合の発声をした。天来花も、釘剣が尽きたのか、手に柳葉刀を持って振りかざしながらその後ろより走り寄った。マーラーは刀をとり、平中段に構えつつ眼を細め正確にその間合いを図った。頃合いに間合いが詰まると、「ハアーッ!!」春雪が必至の形相で槍を突き出した。「ハイ、ハイ、ハイ、ハイーッ!!」その気合の数だけ穂先が繰り出される。マーラーは次々と避け、幾つかは剣先で受けた。最後に春雪はクルリとその場で回って勢いをつけ最上段から槍で叩いてきたが、マーラーはすかさず迎え撃って穂先を切り落とした。とたん、槍が三つに別れ、それぞれが鎖でつながった武器となった。三節混だ。マーラーは初めて見た。真ん中を両手で持ち、両端が目にもとまらぬ速さで振り回された。急いで下がり、間合いをとったが、確実に春雪はその間合いを詰めた。マーラーはたまらず腕を上げて防御したが、何発かが命中し、膝や頭部、腰のあたりへ確実にダメージを与えた。通人ならばそれだけで死んでしまうほどの猛打撃だ。

 マーラーは顔をしかめて、腕を上げ続けて防御した。春雪は手へ狙いをつけ、刀をたたき落とそうとした。しかし、刀は落ちなかった。石像でも叩いたような衝撃が逆に春雪へ返ってきた。天来花も回り込んで斬撃を放った。マーラーの背中を切り、蹴りを入れ、のけぞった隙に続けざま間ちがいなくその首筋へ刃を叩き込んだが、一瞬だけ血が吹き出したように思えたが、マーラーが手を当てるとそれはすぐに止まってしまった。

 さしもの彼女たちも、これは相手がちがうと直感した。彼女らの技が終わり、次にマーラーの反撃の番だった。今まで反撃が返ってきたことなど一度も無い。大いなる怒りに触れたように恐れおののき、二人は離れた。マーラーは大きく息をつきながら、刀を脇構えにゆっくりと置き、剣で後ろの天来花を牽制しつつ、前の春雪は視線で制した。体を低くして、じりじりと草鞋を鳴らした。その眼が、三日月のように笑っている。

 春雪が、最後の釘剣を出して投げつけた。マーラーは避けもしなかった。ドッとその胸へ突き刺さり、じわりと血があふれたが、すぐにまた止まってしまい、剣がぽろりと落ちた。そこには、傷もなにも無い。

 春雪は慄然とした。

 「き……貴様、何の生き残りか……」

 マーラーが動いた。春雪は、動けなかった。「殿下!」風結が残る左手でふた振りの剣を投げてよこした。ビクリと痙攣して、春雪はそれを受け取るため跳んだ。天来花がそれをサポートする。マーラーへ向かい、果敢にも再び踊りかかった。マーラーは春雪を追うと見せかけて、パッと歩を変えて振り返り、脇構えから下段に、逆袈裟に斬り上げた。その速さに天来花は対応しきれず、ただ斬られるために高速の刃へ自分からつっこんで行ったかっこうとなった。柳葉刀を持った右手が肘から空に舞い、マーラーの燕返しに返す刀で袈裟に深々と斬られ、倒れ伏した。地面へ顔がつく前に、死んでいた。

 春雪はそれを眼前にし、衝撃や怒り、悲しみを、奥歯を折れんばかりに噛みしめることで耐え、両手に再び剣をとって、マーラーへ向かった。マーラーは、自分の袖で血をぬぐい、サッと納刀した。

 「ヌアア!!」春雪が吼えた。おそるべき軽功を見せるや上段よりの旋風斬り、避けられるやしゃがみ込んで脚を回して旋風脚、それをパッと跳んでかわしたマーラーだったが、蹴りは二段攻撃で、捻じり上がるように宙のマーラーへ強力な後ろ回し蹴りが突き刺さった。マーラーはたまらず地面へ倒れたが、倒れながら抜刀し、受け身をとりつつ突きを見舞った。斬りかかろうとした春雪はあわててその切っ先を避け、体勢を崩した。好機! マーラーは爆発するようにして起き上がって身を乗り出し、振りかぶった刀を大上段より下ろした。ピュアッと切っ先が空を切って、真っ向正面より斬撃が放たれた。その眼が再び殺気で光り、剣先はあまりの速度で消えた。春雪は死に物狂いで再び剣を交叉してその攻撃を受けた。しかし、受けきれなかった。両手の剣はマーラーの一撃で完全に断ち折れてしまった。鈍い音と共に剣先が宙を舞った。「ウ、アアッ!!」春雪は思わず叫んで、顔を押さえた。その迫力につい、顔をそむけたのが幸いだったのか不幸だったのか、右頬へ深々と斜めに斬撃痕が残った。傷の深さは顎の骨と奥歯が欠けたほどだった。マーラーはかまわず、返す刀で再び逆袈裟に春雪を襲った。それはのけぞる春雪の下腹部から胸にかけてを切り裂いた。マーラーはその姿勢で止まり、剣が長々と斜めに宙へ伸びて光った。春雪は斬られた瞬間、何も感じなかったが、次に電気が走ったような衝撃と火鏝でも当てられたような灼熱の激痛、そしてやや間をおいて血がふつふつとあふれ、一気にこぼれた。それから地面へ転がった。春雪はくの字へ曲がり、たまらず呻いた。そのときには、赤い液体の絨毯でもしいたように、吹き出た血が彼女の周囲を染めた。

 「おのれ、おのれえッ!!」血と怒りをぶちまけたが、苦痛のほうが上だった。「こ、こ、このバケモノめがああッ!!」内臓が吹き出る寸前でどうにか押さえている。強力な腹筋と鉄の意識が、それをかろうじて留めていた。血は吹き出し続け、鍋の中の牛肉のワイン煮が生きたままの人間で再現されているかのようだった

 「殿下ッ、殿下アーッ!!」風結が、いても立ってもおられず、我を忘れて、駆け寄ってきた。「お、おいたわしや!!」呪符をとりだし、呪文と共に急いで傷へ張り付けた。その肩口へマーラーの放った手裏剣が突き刺さる。風結が振り返り、真っ青とも真っ赤ともいえぬ顔色となって歯ぎしりした。マーラーは刀を正面下段に構えたまま、油断なく近づく。

 「山頭ーッ! 退けえッ、殿下を頼む!!」

 ヌッ、と山頭が何処からともなく出現した。彼は、秘術により、この結界空間をいままで保っていたのだ。

 山頭は無言で呻く春雪の襟首をつかみ、そのまま再び建物の隙間に消えてしまった。それを追おうとしたマーラーを風結が遮った。

 「時間の無駄だ。どけ」

 「エクソイル!! 貴様は我と共に地獄へゆくのだ」もう、風結の身体から、白煙が立ち上っていた。「ウッ……」マーラーは初めて動揺の色を見せ、急いで離れた。が、遅い。まず風結、そして天来花のものが誘爆し、二人分の自爆用爆弾が、炸裂した。

 驚いたのはトリーナとセルジュだ。通りの奥で叫び声や剣の打ち合う音がはじまったと思ったら、爆音である。地面と空気が揺れ、景色が歪んだ。トリーナは立ち上がり、セルジュが止めるのも聴かずに走った。そうなればセルジュとて走る。

 煙と硝煙の匂いが強烈にただよっていた。熱気がまだ残り、砕けた建物や石畳の破片が振ってきた。地面は大穴が空き、白い煙がもうもうと上がっていた。二人は眼を押さえ、咳き込んだ。

 「マ……マーラーさーん!!」

 二人は容赦なく叫んだ。

 「ここだ」粉塵の中より声がして、人影が見えた。マーラーは刀を杖とし、立ち上がった。二人が駆け寄ったが、声を失った。あのマーラーが、ボロ雑巾のようになって血まみれの土まみれだった。

 「フフ……最後の最後で、うかつだった……稽古が足りないな……」

 「余裕ぶっこいてしゃべってる場合かよ、だいじょうぶなのかよ!!」

 「一日も寝れば治る。と云いたいところだが……火薬による攻撃は勝手が違ってね……契約外なんだ……フフ、さすが、火薬先進国のものは、強力だな」

 「だから!!」トリーナはマーラーから刀を奪い、セルジュへ渡すと肩を貸した。セルジュはあわてて刀をトリーナへ戻し、自分が代わってマーラーを一気に背負った。セルジュの背中で、マーラーの装束はゆっくりと元の傭兵のものへ変わった。戻っても、ボロボロにはちがいなかった。二人はそれどころではなく、まるで気づかなかったが。

 「どっちへ行きャア、出れるんだよ」

 「し、知りませんよ」セルジュの背中からかすれ声がした。「術者が消えた……結界が消える……祠がある筈だ……クルタイト穀物局の……マルトゥッチ局長を訪ねるんだ……隠れ家に案内してくれる……ストアリアに……気をつけろ……」マーラーはそこまで云うと、ついに、気絶してしまった。


         4


 クルタイトではない、もう一つの地下都市。ただし、こちらは廃墟である。

 カラヤン教授は、大テントの執務室で、兵士の報告書へ眼を通していた。ただし、その兵士は軍服を着ていない……間諜監察部員だった。間諜部は既にクーゲルシュライバー大佐の管轄を離れ、教授の直轄となっているのだ。

 「そうかね」教授の嗄れた深い声が響いた。間諜部員は、その眼光にゾクリとした。軍人以上の迫力だ。「契約を結んだときには火薬など無かったろうからな。無理もない。しかし、これで東方の化け猫どもと、古王国の馬鹿げた吸血鬼の遺産と、同士討ちで、両方いっぺんにカタがついた。我々はツイているのではないのかね。きみ」珍しくカラヤンが笑ったので、間諜部員はなんと答えて良いかわからず、小さくうなずくのが精一杯だった。

 「大佐をここへ」兵士は、助かったと云わんばかりの速さでテントを出た。代わりに、日に日に青ざめ、やつれてゆくクーゲルシュライバー大佐が犬のように走ってきた。

 「御用でしょうか、教授」

 「もちろん、用があるから呼ぶのだよ」

 いつ聴いてもこちらを責めたてているとしか思えぬ口調の相手をするのに、大佐は疲れ果てていた。テントの隅に立っている不気味なガウクも、その複眼も触覚も、見るのも嫌だった。弱々しく敬礼し、椅子へ座った。

 「辛気臭い顔はやめたまえ。朗報だよ。祓魔士が一人、そしてターティンの面倒屋どもが、脱落した。吸血鬼ゲームからな。しかし、きみ、大事な『リング』をひとつ、失ったそうではないか? なぜそれを我輩へ報告しないのかね?」大佐は、答える気にもなれなかった。報告したところで、叱責が和らぐものではないし、しなくとも知っているのだ。このように。しかも、自分より先に知っていた可能性が高い。

 「採集タンクがふたつでは、予定の三分の二の血液量しか集まらない。簡単な算数のはなしだよ、きみ」

 「もうしわけありません」

 「報告の義務さえ果たせぬようでは、大佐、能力問題ではないのかね?」

 「では、私めを、罷免し、早々にストアリアへ送り返していただきたい。後任には、ヴァーグナー皇帝軍大尉を……」

 教授が、瞬間的に、ニヤッと笑ったのへ気づくほどの精神的余裕は、大佐には無かった。

 「まあ、まあ……。大佐。そう、自らを貶める必要はない。我輩は、きみが、ふだんの大佐からは考えられぬほどの軽率な仕事をしているから、咎めているのだ。どうかね……自らを取り戻してみては。そのような陰気な顔をしたフォンクーゲルシュライバー卿ではあるまいて」

 「……は」クーゲルシュライバー大佐は、その教授の似合わぬ猫なで声に戸惑った。古い本物の魔法使いの声が聞けたとしたら、このようなものにちがいないと思った。

 「新型D計画。じつはね、既に臨床実験の段階まできているのだよ。ただし、部隊内でも、被験者が少なくてね……捕えてきた何人かのハンテールで試している。たいがいは死んだがね。そろそろ、我らが部隊から、被験者を出してもよいかと……その魁になり、成果を出すことができたならば、きみ……将軍はおろか、元帥も夢ではない」

 大佐は眉をひそめた。「なんの話でしょうか?」

 「一億総軍民化計画だよ」

 眼を細め、教授がさらに口元をひきつらせた。本人は笑顔のつもりだったが、口が耳まで裂けたとしか思えなかった。

 「きゅ、吸血鬼王の復活は?」

 「そんなものは旧計画の話だろう!」教授は立ち上がり、芝居がかって指で眉間をおさえた。「いや! ……旧計画とて、新型計画の要であるのは確かだ。内容の大部分は引き継がれているのだからね。吸血鬼王復活の手順を解明し、いずれは……人間へ応用するのだ。こちらが本命だったのだ。いいかね、大佐。考えてもみたまえ。かつて、強力な吸血鬼王がこの世を支配していたという紀元前の世界において、我ら人類が、すべからく魔導の餌で奴隷だったなどというウガマールの与太話など、信じてはいけない。もしそんなことが真実ならば、我ら人類はとっくに絶滅している。しかし、我らは絶滅どころか、生き残り、我らの文明を発展させ、ついには魔導王を駆逐せしめた! 人間万歳だよ。だが、いまや人間は魔導だけでは飽き足らず、人間同士で戦い合う時代を迎えた。ああ、愚かな人間どもよ。そこで我らは、他国の人間よりも優位に立たなくてはならない。分かるだろう? 国家としても、個人としても、そして戦闘員としても! 新型D計画は、吸血鬼王へ関係なく、人間を吸血鬼とする……あるいは、その能力を備えた……超人へと人工的に進化させる……そちらのほうが、より完璧だ。吸血鬼の弱点を、人間であるということで克服した兵士による、究極の軍団……単純な人間の吸血鬼化ではないぞ、それでは芸がない。我々は吸血鬼の能力だけを欲している。わざわざ本当に怪物になる必要は無い。そうは思わないかね?」

 大佐は、目の前の男がついに狂ったと思った。少なくとも、自分がいかに精神的に不安定であろうと、この学者よりは、まともであると自負した。

 「吸血鬼の能力だけを? それは、怪物になるということを意味しているのではないのでしょうか? それは、魔物ではないとおっしゃるのですか!?」

 教授はしかし、目を輝かせて反論した。その問いを待っていたかのようだった。

 「きみ、聖導皇家の連中をみたまえ!! かれらが解だ!! 人の身のまま、吸血鬼王の力を手に入れた!! 魔導に対抗する手段を、魔導より手に入れたのだ! かれらを魔物というか? 否! かれらは神だった。英雄で、現人神だった。ウガマールの古びた連中はその薄まった血と力を後生大事に飾り続け、かろうじて現代へ伝えている。しかし、我々はそれを再発見し、再構築し、再創造する。それが、わが新型D計画だ。このことをきみは狂科学者の非現実的な夢想と笑うか? しかし、国家はそれを承認し、予算をつけた! 世俗や学会が認めなくとも、帝国政府が認めたのだ! 恐るべき大戦争により、ストアリアが次なる聖導皇国として世界を支配する。第三紀の到来だ。新世界、新世紀、新秩序、そして、新時代だよ」

 大佐は震えてきた。「あ、あなたの望みは、なんなのですか? その、力を、自ら手に入れ、新聖導皇家の盟主となるのですか?」

 教授は心底軽蔑したような目つきで大佐を見て、それから笑った。

 「我輩の望みだと? きまっている。自分の理論を実践することだよ。その事だけが望みだ。自分の計画を現実にする事だけが楽しみだ。この手で再び強力なる聖導皇家の戦士たちを自在に造り上げるのが目的だ! かつて実際にそのようにした古代の科学者、神祇官、法務官、あるいは魔導士たちも我輩と同じ想いだったことだろう! それが生きがいだ。その為には何でもする。何でもするよ。旧人類が何人死のうが知ったことではない。かつて我々は、何種類もいた多種多様の旧人類をすべからく生存競争で絶滅せしめてきたことが徐々ではあるが判明している。悪い事ではない。自然の摂理なのだ。さあ、大佐。その魁とならないかね? 新人類の魁と」

 クーゲルシュライバー大佐は、背筋に電気が走ったように思えた。やおら興奮し、眼が勝手に見開かれた。

 「そっ、それは、どのようにすれば、なな、なれるのでしょうか!?」カラヤン教授の顔が、悪魔のように暗がりで笑った。「簡単だよ、きみ。この薬を飲めば良いのだ。それだけだ。最低でも、一週間は三度の食事後に五錠は飲みたまえ。少しずつ……肉体が変化してくるのが分かるだろう」大佐は、教授より渡された小瓶の中にある青と赤が渦巻いた錠剤を電灯の下で見つめた。

 「良いかね。実験とはいえ……ただ薬をのむのが仕事ではない。我輩を失望させないでくれたまえ……薬を飲むのは前段だ。仕事は……例の、非常に危険な黒剣の破壊! それを自在に操る暗黒皇太子の抹殺! すべからくウガマールの聖導皇家の生き残りは殲滅せしめるが、その最初の相手が復活なりかけている暗黒の稲妻、ドゥンケルブリッツ=テンシュテットだ。やつをこのまま野放しにしていては、我輩の……いや、帝国の脅威となる。真っ先に抹殺するのだよ。血祭りにあげたまえ。既に……聖騎士ともども居場所は確認してある。きみの力を存分に発揮したまえ。そのことが実験なのだし、きみの帝国への忠誠心が問われるのだ。ああ、それからね……ヴァーグナー大尉には引き続き血液の採取を頼んである。我輩の研究は、まだ基礎研究を続けなくてはならない部分もあるからね。そうだ、もし暗黒の稲妻の血液を採取できる余裕があるのなら、それへ協力したまえ。素晴らしい検体となるだろう。何より人間の血液はきみたちの貴重な食料となるだろうからね。まだ人間の生き血をすすってはいけないよ。腹を下すだろうから。我輩へまかせたまえ。ちゃんと精製しないとな」

 大佐は立ち上がり、生き返ったように溌剌として、敬礼した。瞳孔が開いて爛々と光っていた。教授はその肩を叩いた。

 「よろしく頼むよ、きみ……」

 「ハーッ!!」大佐は鼻息も荒く、意気揚々と引き上げていった。それを見送り、教授は電灯の熱で気化するように仕組んだ精神誘導剤を椅子へ乗って取り外した。誤って吸い込まぬよう、最新の注意を払いながら。大佐の真上で、静かにガス化した薬がゆっくりと空気より比重が重いためおりてきて大佐を幻惑させたのだ。大佐はその意思に関係なく、教授の誘いへ応じるようになっていた。「初めて使ったにしては、うまくいったな。さて、どのような吸血兵士になるのだろうか? レポートをとらねば」教授より受け取った皿の中の液体を瓶へ戻しつつ、世話係のガウクが、ガギガギッと顎を鳴らした。答えているつもりなのだろうか。教授は、部下の研究員と間諜部の兵士を呼びつけた。


 七日間、フローティアとフルトは互いに連絡もとらなかった。フルトはクルタイトの隠し宿の一つへ引きこもり、まさに酒を浴びた。ガリアンの王。暗黒の稲妻。呪われし聖なる皇太子。テンシュテット家。しかもそれらと親しげに係わっていた自分が信じられなかった。その姿が、かつての愚かな自分と重なった。悪夢を思い出させた。制御された記憶は、全て現実を前にして蘇った。全て悪い冗談だった。すると追い打ちをかけるように見なくとも良い夢を見る。悪夢が思い出される。


 バーバラ・フォンヴェーベルンは、六方十国が一・神聖国家ウガマールへ残る古代十三聖導皇家の一員として、傍系のさらに傍系の家系に生まれた。しかしその神聖力は幼少よりずば抜けており、「奇跡の少女」とまで呼ばれ、実力を重視する本家の長老に家督をゆずるべく迎えられた。そういうとき、ウガマール奥の院では何が行われるかというと、妬み嫉み恨みと、その結果としての疑念と陰謀と相場がきまっており、この一千年間にいったいどれだけの有能な神祇官や騎士たちが謀殺されてきたか知れない。バーバラには護衛兼側近として叉従兄にあたる騎士がついた。六歳年上のその騎士は、代々ヴェーベルン家の守護聖騎士で、先の二次大戦では強力な聖剣をもって鬼神の活躍をした家だった。その騎士こそ、若き日のヴォルフガング・フルトヴェングラーその人である。

 バーバラにはヴェーベルン本家よりもう一人、教育係がついた。アサンセティという執事で、かつて海の向こうより渡来した聖導皇家とその一族郎党の家系ではなく、土着のサティス人だった。このアサンセティこそが、本家の放った刺客だった。彼はウガマール以前のサティラウトウ古王国連合から続く由緒ある神官の家系で、聖導皇家を迎えてからはセペレールの神々へよく仕え、重きをなしていた。ヴェーベルン家の書庫を預かり、膨大な量の神典や聖典、諸記録を管理していた。その書籍の数々をもって、バーバラは聖導皇家とヴェーベルン家に関わる英才教育を受けた。ヴェーベルン家は古い工房の技術を伝え、聖導皇家におけるジギ=タリス武具製造の統率責任者だった。その講義内容は、ジギ=タリス品の歴史と製品目録、使用・管理方法、現在の所持者、等である。

 ところで、バーバラは物心ついたころより、ひょんな事で凄まじく攻撃的で衝動的な行動や言動をとることがしばしばあり、問題視された。高すぎる神聖力の副作用なのか、それは分からなかったが、長老はその事実をひた隠した。

 七つで奥の院へ来たバーバラだったが、十六のときだった。お付きの警護騎士であるヴォルフガングへ、年ごろの彼女は淡い恋をした。本家において、彼女はその攻撃的な正体を隠すように、ストレートな黒髪と落ち着いた眼差しの似合う知的な雰囲気を創り出していた。二十二歳の青年ヴォルフガングにとっても、主人であり又従妹でもあるバーバラへ武芸一辺倒の自分には無い魅力を存分に感じており、その恋へ答えるように急速に二人は親密になった。周囲も、若い二人の善き想い出にと微笑ましく傍観した。ただし、ヴォルフガングはそれとなく、主従の一線は超えぬよう、固く家人より云い聞かされていた。
 アサンセティの仕事は、ここからだった。彼は頭の固いヴォルフガングではなく、バーバラへ囁いた。彼の大胆かつ周到な話術は、約半年をかけてバーバラをすっかりその気にさせてしまった。何も知らぬ、温室育ちの微笑ましい恋は、海千山千、お家の裏仕事を一切引き受けてきた凄腕の家職の舌によって、狂おしいほどに一方的で歪んだ狡猾な愛へと変質してしまった。また、この約十年間のヴェーベルン家より受けた陰湿な仕打ちというもの、けして表には出てこぬ自らの存在を否定する強い呪いにも似た想い。それへ対するつもり積もったわだかまり、不信、そして嫌悪も手伝ったし、それをアサンセティも利用した。若いバーバラは決心した。ヴォルフガングと共に、聖導皇家を出るのだ。

 当たり前だが、そんなことを告白されたヴォルフガングは、悩むも何もなく断固として即座に彼女の想いを否定した。そして諭した。役目として。バーバラの瞳に青白い異様な炎が燃え上がったのは、その時からだった。神聖力が炎の形となって、怒り狂うように、猛った。ヴォルフガングはゾッとした。そのあまりに強大な、まさに人間離れした古い血脈の奥の奥より呼び起こされる荒々しい始源的な神聖力というものを、初めて体感したのだ。吸血鬼王の眷属たちと対等に渡り合ったという、魔神のごとき神聖力を。ある夜、バーバラはその怒れる神聖力を秘めたまま、自室へ想い人を呼びつけた。

 「ねえ、ヴォルフガング。愛しいお従兄さま。私は、好きでこんな所にいるのではないのだわ。ある日突然、田舎から勝手に連れてこられた。家族とも引き離され、しかし、ここでも疎まれ続けている。だけど私は耐えたのだわ。いまや力も知識も充分に蓄えた。家の人間だって、いえ、ウガマールの神聖政府だって、私がいなくなれば余計ないざこざが無くなると思っている。私がここにいるのは、単なる年寄りの我儘だと思っている。長老さまには悪いけれど、長老が死んだら、私も殺されるのだわ。云っておきますけれど私は一人でも戦える。そのときになってお従兄さま、貴方は私とウガマールと、どちらにつくの!?」

 その凛として毅然とした、確固たる意志に、ヴォルフガングは怯んだ。「もちろん、私なんでしょう?」白磁のごとき美しくも冷たい笑み。「ずっといっしょだったのよ。お従兄さまは仕事だったかもしれないけれど、私にとっては、お従兄さましか気を許せる人がいなかった。この針の筵の牢獄で! 貴方は私のこの歪んだ館での唯一の救いなのだわ。私をいまさら裏切ったら、どうなるか分かっているのでしょう!?」その見開かれた眼。神聖力に輝き、催眠のように明滅した。その眼が狂気に満ちていると感じたヴォルフガングは震えだし、滝のような汗を拭いもせずに、手で口を押さえた。

 「ハッキリ云いなさいな!!」ヴォルフガングは、彼女の部屋から逃げ出した。その後を追いかけるように、甲高い哄笑が熱帯夜の月夜に響いた。その日から、バーバラの言動や行動がおかしくなったという噂が邸内に流れた。意図的に流されたのだろうが、じっさい、彼女はその噂を実践した。ヴォルフガングの責任問題ともなり、彼はおおいに悩んだ。アサンセティは、本家の現当主の命令をいまこそと実行へ移した。

 夜、長老が呼んでいるというので、バーバラは渋々、部屋へ向かった。長老はもはや介添えなしで立つこともままならず、寝たきりとなっていた。しかしアタマはまだかなりしっかりしていて、それが救いだった。いっそのこと、さっさと自分を当主にでもしてくれるのならば、こんな悩んだり苦しんだりしなくても良いのに。彼女はそう強く思っていた。当主になった暁には、反当主派となるであろう全員を、粛清する予定だった。しかも聖導皇家の因習に従い、裏で始末する。そのための呪いも、既に閲覧禁止の古代呪文集の中から、調べておいた。強力な古い真なる魔導士の呪いに対抗し、逆呪文をかけるような、凶悪なものである。

 「長老さま、お呼びでしょうか」

 話し相手として、何回も寝室に入ったことのあるバーバラだった。返事が無くともふつうにドアを開け、入室した。ほの暗い部屋の奥にベッドがあり、長老が横になっている。いつも燃えている大きな燭台に火は無く、代わりの細い小さな蝋燭だけが、ドアのすぐそばの机の上でものを云うようにひっきりなしに火が動いて燃えていた。バーバラはその小さな燭台を手にし、長老へ近づいた。灯をそっとかざすと、口内に剣が深々と突き刺さり、木のベッドをも貫いて、脳幹を串刺しにされた長老が死神にでも出会ったような顔で、引きつって死んでいた。

 「ギョッ!!」さすがにバーバラは思わず呻いた。その時、ランタンが幾つもかざされ、何人かの兵士と、アサンセティが部屋へ入ってきて、叫んだ。

 「バーバラ様、ご乱心ーッ!」逆光だったが、そのアサンセティの顔は歓喜に震えていた。だが、ついに自らの長い職務を無事に果たすことができたという喜びの表情は、すぐさま眉をひそめて凍りついた。バーバラが、館中に響き渡るほどの甲高い笑い声で答えたからだ。

 「何が可笑しいッ!!」アサンセティがにらみつけた。「ついに気でもふれたのか!?」

 「バアカ。余計な手間が省けたわ。死ね、死ね死ね死ね! ついでにみんな死ぬと良いのだわ!!」

 バーバラの両手に炎が上がった。彼女の中で何かが切れた。両手に燃えたのは、青白い聖火だった。しかし、強力すぎるその炎は、瞬時に膨れ上がって燃え盛り、渦を巻いて部屋の空気を一気に吸い尽くし、長老と、兵士と、アサンセティをあっと云う間に火達磨とした。断末魔の叫び声がして、アサンセティは文字通り必死になって消火の呪文を唱えたが、火の勢いはまるで衰えなかった。「聖導皇家の工房の火を預かるヴェーベルンの呪文だ!! その程度の神聖力で消えると思ってか!!」もう一撃、バーバラは炎の弾を飛ばした。命中した炎が爆発し、もはや悲鳴も無く、アサンセティは燃え殻のようになって異臭と共に崩れた。「火事だ、火事、火事だあーッ!!」館は瞬く間に騒然となった。鐘が鳴り渡り、人がネズミのように走った。砂漠の首都の宮城の奥より、轟然と火が上がった。ここには金銀財宝という意味での宝物の他にも、有史以前より伝わる貴重な資料が、人類の宝が、各家の書庫へ山のように積まれている。火は禁忌中の禁忌だ。もちろん、消化用の設備も備えてある。大河より水を引き、常時溜めてある。人々は必死になって水をかけ、神官たちは対火の呪文を喉が枯れるまで唱えまくった。が、火はこれほども衰える気配すらない。

 「……これは、神聖呪文の火ではないのか!?」誰かが気づいた。呪文を間ちがえていたのだ。重大な判断ミスといえたが、責めることはできまい。

 「アハーッハハァ!! 燃えろ、燃えろ、こんな屋敷は、跡形もなく燃えてしまうと良いのだわ!! 燃えろ、燃えてしまえ!!」黒髪に炎が映り、金髪のようにも赤毛にも見えた。バーバラはそこら中に火を放ち、走り回った。業火は漆喰を崩し、レンガを焦がして、夜空を染めた。その炎を烈風が裂いてバーバラを襲った。強力な障壁呪文が衝撃を遮り、空気の割れるような音を発した。

 聖剣・鷲の銀十字を手にした、ヴォルフガングだった。「何をしているんだ!!」その顔はしかし、蒼白である。

 「死を恐れたような眼で私を見るな!!」バーバラが叫んだ。ヴォルフガングは震え出した。

 「何を云っている……」

 「おおかた、馬鹿げた魔導士が放火しているとでも報告をうけて、出陣依頼を受けたのでしょう。くだらない。さあ、行きましょう。いっしょにこの国を出るのだわ」

 「バビィ、バーバラ!!」

 「なんですか」

 「ほ、本当におまえなのか……?」

 バーバラの顔へ、苦痛のような、笑みが浮かんだ。「今さら、なんというたわけたことをぬかしてくれるの、この唐変木!! あなたは魔術と神聖呪文のちがいも分からないのだわ!! 私の本当の想いも、私のことなどまるで分かっていない!! もう知らない、共に来る気が無いのならばそこを退きなさい!! どけ!! フルトヴェングラー!!」

 ヴォルフガングは腹の底から雄叫びをあげて、バーバラへ踊りかかった。バーバラはその神聖力の全てを解放した。爆発するように光と炎が弾け、その中から大剣を振りまわすヴォルフガングと両手に青い火の塊を持ったバーバラが転がって出てきた。火は、刻々とその姿を変え、ある時は稲妻のようになり、ある時は空気を逆巻き、ある時は全てを吸い込む闇となった。それらを手に持ったまま振り回すと、周囲の全てを破壊しながら、鞭のようにしなるのだった。バーバラはその自分の武器を振り回しながらヴォルフガングと対等に格闘し続けたが、一瞬の隙を見てとある呪文を彼へぶつけた。ヴォルフガングの目の色が変わった。バーバラが、楽しげに笑った。

 「う、うわわっ、わああっ……あ、あっあっ、ああ!!」ヴォルフガングは狂ったようにそこら中へ剣を振るった。戦いに巻き込まれた衛兵、家人が、蟲ケラのように死んだ。炎から物体から、二人の周囲にはありとあらゆるものが熱気と共に竜巻のようになって舞い上がった。ヴォルフガングは完全に混乱し、周囲が見えず、ただ剣を振り回しながら突進し、彼もかつて吸血鬼王の軍団より鬼神と恐れられた強大なフルトヴェングラー家の神聖力と攻撃力を、ただ周りへぶちまけた。重駆逐騎士が完全に暴走したのだ。さすがに止めに入ったヴェーベルン家の人間も、何人も死んだ。彼を止めるほどの人物は、ヴェーベルン家にはいなかった。

 やがて、ついにクレンペラー神官長が秘蔵の馬ワニに跨がり、すっ飛んできた。それを察したバーバラは、ここが潮時と、叫んだ。

 「楽しかったわ、お従兄さま! カルパスで待ってるから、また遊びましょう!! アハッ、次は、このていどの錯乱の呪文で乱心してはいけませんよ!!」

 ヴォルフガングは血走った眼で最後の斬撃をした。それがバーバラをとらえ、何人もの目撃者の中で大剣がバーバラを打ち倒した。鳥ガラでも砕けるようにバーバラは千切れて血をぶちまけた。神官長がヴォルフガングを金縛りにかけ、正気の呪文をゆっくりと唱えた。二人にだけ見えたことだが、地面へ横たわり、いまや火にくるまれようとしているバーバラの死体は、裏の畑の案山子だった。

 この「事件」の結末は(前章において)既にフルトの口により語られているので、箇条書きにする。ヴェーベルン家は、ほぼ実力者の全員が死んだ。焼死もいたし、二人を止めに入って死んだものも大勢いた。騒ぎの責任をとって当主は辺境に追放され、家督を相続するほどの人物も分家にはおらず、古い聖導皇家のひとつが、ここにまた断絶することが決まった。貴重な資料類の大半が永遠に失われ、大戦当時の工房の高い技術もまた永遠に失われたのだった。

 バーバラは行方不明扱いとされたが、フルトの剣が彼女を打ち倒すところを何人かに目撃されており、云い逃れはできなかった。フルトヴェングラー家も断絶が決まった。宮中騒乱と主人殺しの大罪だった。責任をとって当主のフェリックス卿を含め一族郎党はみな処刑された。アデルナの首都を陥落せしめた由緒と栄光ある聖剣が一夜にして聖導皇家はじまって以来の凶剣とされ、厳重に封印された。フルトだけが、事情を知る神官長により従者のセルジュ少年と共に「脱走した」こととなった。

 いまは、その、五年後の話である。


 フルトから、連絡は来ぬ。フローティアは宿の裏庭へつないだモンテヴェルディの餌を買うときだけ外へ出て、自分の食事も満足にとらなかった。部屋へ閉じ籠もり、ときどき、意味もなく泣いた。しかし彼女の頭脳は、悩むことへ適性を有していなかった。それが幸いなのか、どうなのかは、判断がつかぬ。日々の単調な暮らしの中へある種の平安を見出してしまうと、恐れも不安も、空気へ融けるように消えてしまった。フローティアはフルトがいまどこに隠れているのかも知らなかったので、あえて探すこともせずに、向こうからの連絡を待つことにした。モンテヴェルディが馬の首を強靱な顎と牙で砕き、呑み込んでいるのをぼんやりと見つめながら、フローティアは急に自分の腹も轟々と鳴り出したのに驚いた。ぺろりと大きな馬頭を平らげたその赤い月のような瞳がじっと自分を見つめているうちに、彼女は、とにかく動き回りたい強烈な衝動にかられた。思いだしたように体中の関節が痛みだした。昼過ぎであったが、宿の食堂で大量の平たい生パスタとニンジンやブロッコリーなどの野菜をトマトソースで煮たもの、鶏肉のソテーへブラックベリーと赤ワインのソースをかけたものを平らげて、ミルクをのみ、林檎をかじった。それから、モンテヴェルディを連れて散歩へ出かけた。

 散歩といっても、犬の散歩ではない。連れているのは、狼というよりむしろ顔の長い小熊のようなガリアンだ。漆黒に茶色い縞模様。手足の蹄。長い尾。特にこの地下都市へ住むものが見紛う筈も無い。ガリアンを手放しで、連れて歩いている。それより、人にはけして慣れぬはずの魔物が、犬のように機嫌よく主人のあとをついて歩いている姿にこそ、人々の驚きと疑念と、あるいは恐怖や、無視、数少ないが畏敬の眼差しがつきまとった。未知のものへ対する人間の思いは、たいていは、そのようなものだった。それらをひとつひとつ詮索し、分析したところで、フローティアにとってなんの意味も無いだろう。彼女は、けして自ら目立って歩くというわけではなく、普通に歩いていたが、もはやその独特の雰囲気と存在感は勝手に人目を引いた。半年ほども前、コレッリの港へガリーよりの船が到着し、陸地へよろめきながら降りてきた時の、見すぼらしい、歩いていてすみませんというような縮こまった精神と肉体は、どこにも見出せぬ。彼女がアデルナへ来た価値と意義というのは、それだけで判明するだろう。フローティアは、来るべくして、この大地へ来た。彼女は、どのような結果が自分を待っているかは分からないが、とにかく、前へ進むのみと決めた。止まっていては、ここでは死ぬのだ。歩みが終わってみて、初めて辿ってきた過程こそが実は結果なのだと気づくのかもしれない。いま、彼女は、しばし鬱々とした後、その決意を思いだしたように、また決然と前へ進み出した。理由は無い。強いて云えば、モンテヴェルディが誘ってくれたのだった。

 明るい午後の光柱が輝く地下都市の道を歩き続け、彼女は、だんだんと人気の無い場所へ向かった。モンテヴェルディをおもいきり走らすためには、街中は無理があるからだ。地下には公園も無い。そこは、街のはずれの荒野だった。街から続いていた通りは、きれいに整地された石畳から均された地面となり、ついに荒れ地に相応しい山道のようになった。道路の変化はフローティアにとってなんの苦にもならなかったが、いきなりモンテヴェルディが勢いよく走り出したので、自らの歩くペースを乱され、追っているうちに息が切れた。ガリアンの走る速度はけして速くはないが、異様な持久力があり、どんどん行く。子どもとはいえ、それは変わらぬ。丸い物体が転がるように行く様は、不思議な感覚だった。

 「ちょっと、どこへ行くの!?」叫び声が林立する岩柱の間へ響いた。モンテヴェルディは振り返ったり、立ち止まったりして、明らかにフローティアを導いていた。長い牛のような舌が垂れて、よだれがすごかった。かすかに清水の流れているところでは、彼女が追いつくまでずっと水分を補給していた。飲み終わると、また駆け上がるのだった。

 フローティアが辿り着いたのは地下ドーム空間の端の辺りで、都市全体を見下ろすことのできる山の上といっても良い場所で、想像もしていなかったがそこに大きな洞窟の入り口があって、さらに道がその中へ続いていた。まさか、そこがもう一つの地下都市、廃墟アバートとの連絡通路であり、マーラーとトリーナ達がそこからクルタイトへ到着しているとは思いもせぬ。フローティアは覗いてみたが、かなりトンネルは長いようで、闇しか見えなかった。モンテヴェルディはその中へ入って行くのかと思われたが、そうではなかった。ただ、珍しく闇へ向かって唸るだけだった。ガリアンは滅多に鳴かぬ動物なので、声を聞くのは初めてだった。牛ともカエルともつかぬ独特の唸り声で、連続して低音がサイレンのように響いた。

 「ねえ、なにやってんの?」フローティアは何のために自分をこのような場所へ導いたのか理解できず、髪をかき上げて嘆息し、汗をぬぐった。「ほら、行くわよ。モンテヴェルディ! いいかげんにしてちょうだい」

 意外や、モンテヴェルディは素直に応じて、うなだれてフローティアの後へ続いた。

 「アバートはもう、ストアリアが陣取ってしまったのよ、モンテヴェルディ」聴きなれた声にも、フローティアは驚いて跳び上がった。まさかこんな場所に人がいるとは。

 「あなたは……!」思えば、初めて、彼女はフローティアの前でその深い魔術のかかったフードをとった。太く引き締まった眉。髪も瞳もフローティアとよく似た、顎の線の太い、背の高い女だった。髪は長かったが三つ編みにしていた。

 「きっとその子は、あなたをアバートへ連れて行こうとしたよ。でも、もうストアリア軍が厳しく監視しているわ。アンダルコンも入れないほどに。何人かの騎士が斥候に出たけど、誰も帰って来ていない」

 「あなた、本当に……その……」

 バーバラは軽く笑みを浮かべ、太い眉毛を楽しそうに上げた。「雰囲気ちがうかしら? この服も見覚えがある筈よ。ウガマールの神官着を改良したものなのだから」

 フローティアは困惑を隠さなかった。「神官着って、意味がわからないのだけれど……それに、何の用?」

 「ヴォルフガングの居場所をね、教えてあげようと思って」

 「えっ?」フローティアは意表をつかれた。「だれ?」

 「フルトよ。私、知り合いなの。いろいろと、退治の仕事でね。連絡をくれたの」

 「……あたしには連絡をよこさないで、あなたに!?」

 「あなた、自分の立場、分かっている?」

 「どういう意味」フローティアはさらに眉をひそめた。バーバラの眉はますます楽しそうにせわしなく上下した。

 「あなたは生まれてからずっと前人未到の秘境で住んでいたから知りもしなかったでしょうけど、私はガルマン=ガルマスの大都会の高級な館で育ったから知っているわ。あなたの家は呪われていて、みんなに恐れられている。かの始源の女神、大気の乙女ルオンノタールの血を引くテンシュテット家。聖魔の大戦の後、テンシュテットは滅ぶはずだったのに……戻ってきた。聖都へ帰還してしまった。そのためにあなたの家はやがて追放された。あなたに関わると、自分も呪われ、子々孫々まで災いを受けるとみんな信じている。フルトは特に元ウガマール聖騎士だったから、その保守的な信仰も人一倍なのだわ。あなたに関する情報を制御されていたくらいなのよ。それがいきなりその呪いの本人と知らずにずっと関わっていたなんて、想像を絶する衝撃でしょう。そんなのも分からないなんて、やっぱりダメよね、常識がなくって」

 フローティアは心のそこから憤慨した。

 「余計なお世話よ、なんなの、あんた!!」

 「私はバーバラ」あっさりと彼女は答えた。「よろしくね。私たち、お仲間よ。ちなみに、あなたの家を呪っているのは他でもない、その黒剣なのよ。あなたの不幸極まりない境遇は、ぜんぶ黒剣のせいなのだわ。それに、そうは云っても、もはや、あの人にはあなたが必要だし。だからフルトの居場所を教えてあげる。あなたたちの力をおそらくルキアッティ家は必要としている。これは仕事よ、そう、仕事なのだわ」

 「仕事……」フローティアは突然、我へ帰った。「そうよ、仕事がまだ残っている」

 「あなたの仕事は何?」

 「フルトに聞かなきゃ。新しい仕事があるはずよ。魔物退治の。あの人からの」

 「マリッツィオ・ルキアッティ」

 「フルトは忘れている。あたしたちがいま、何をしなくてはならないかを。大事な仕事をしなくてはならないのに。まだ仕事の途中だったのに。この国であの人の信用を失うわけにはいかないのに。あの人の信用を失ったら、この国では生きてゆけない。それは高額な報酬の代償なのに」

 「ルキアッティに直接きいたら?」バーバラは、太陽のような豊満な笑顔を作った。フローティアはその笑顔に嫌悪を感じた。「……なに云ってるの。無責任な。聞けるわけがないじゃない。あの人、すごいえらいんでしょう?」

 「あなたのお友だちは、ルキアッティ家の関係者じゃないの?」フローティアはしばし考えた。一人しか浮かばぬ。「……トリーナのこと?」「名前までは知らないけど。その人の居場所も知っているのよ」フローティアはまたも驚きを隠さなかった。ますます、この人物への不審を強める。

 「目的は何なの、あんた」

 「目的…!?」バーバラはそこで、初めてやや動揺を見せた。「目的……そうね、私にはもう、生きる目的なんか無いの。強いて云えば、この力を使って遊んでやることなのだわ。世の中の全てを相手に!! いつ死んだって、どうなったってかまわないのだから!」たちまち、腹を抱えて笑い出した。

 「……」フローティアは目の前の人物に、不気味ささえ感じた。その瞳に秘す、怒り、絶望、憎しみ、嫉妬、それらの混じった暗黒の色を、フローティアは確かに感じ取った。明るいように振る舞っているが、この人物は心の何かが壊れてしまって、果てしない虚無に支配されている。見た目では分からないが、破滅主義者である。

 「あなた、魔導士ではないの?」すぐさまバーバラが答える。「いったい、魔導士が神官着を着るかしら」それが、なんの云い訳になるのかとフローティアは思った。服を着るぐらい、何だって着られる。案山子だって着ているではないか。昨今は犬にすら犬用にあつらえた衣服を着せて喜んでいる不思議な者がいるほどだ。「トリーナはどこ?」もう、余計な話をするつもりは無かった。最初からこの人物は、自分へ謎めいた、己だけ物事を分かっている物云いをし、それが不愉快極まりなかった。話していると気分が悪い。関わりたくない。それが素直な感想だ。

 「あの建物の……」バーバラは、街を見下ろしながら、指を差して説明した。「分かったわ。ありがと」フローティアは顔も向けずに、砂を鳴らして踵を返した。モンテヴェルディがすぐに続いた。バーバラは己の感情を隠すように眼を細め、口元だけ仮面のような笑みを浮かべて見送った。

 フローティアは口も開かずに、むっつりとした顔つきで放し飼いのガリアンを従え、通りを歩いた。その静かな剣幕に、通りの皆が引いて道をあけた。ハンテールはおろか、魔導士ですら。

 いま眼前を奮然と通ったのは「闘技場の例のヤツ」では無かったか!? と気づいたものは幸いだった。そしてその噂を聴き、また情報の伝達を受けた者も。彼らは荷物をまとめ、その日の内にクルタイトを後にした。そして、無事に生き延びたのだった。間もなく、この地下都市が千年ぶりに戦場となることへ気づいたのだ。しかも攻めるのは前回と同じ相手、すなわち、聖導皇家最悪最強の暗黒騎士。人さえ生き残っていれば、街はまたすぐに再建できる。

 フローティアがガリアンを連れて歩く姿は、目立つなというほうが無理だといえるだろう。彼女の背後を、何人もの間者が続いた。それはストアリアとアンダルコン、両方だった。間諜たちは幾つものリレーにより、瞬く間にそれぞれの本部へと情報を伝えた。そしてストアリアの動きへ合わせ、アンダルコンも密かに派兵の準備を進めた。アンダルコンにとって、フルトとフローティアはストアリアをおびき寄せる餌だった。教授の恐るべき実験によって誕生した驚異の人工吸血兵士の情報は、既にアンダルコン、そしてマリオへ伝わっている。それは退治の対象であった。

 フローティアは無事に指示された隠れ家へ到達した。マーラーのパトロンの一人である穀物局局長の持ち家で、隠し宿のひとつだ。いきなりドアを開けた。カギはかかっていなかった。

 「トリーナ、いるの!?」

 飲みかけていた、セルジュの入れたコーヒーを吹き出してトリーナは咽んだ。

 「フッ、フッ、フローティア!?」

 「トリーナ、マリオさんに話があるの」フローティアはドアを開けるなり叫び、部屋へ入り込んだ。セルジュもその声を聴き、あわてて台所から出てきた。

 「フローティアさん、フッ、フルト様は、フルト様はいまどこなんですか!?」

 「セルジュ……なんで、あなたまでいるの。トリーナ、どういうこと?」

 「どういうって云われても……」トリーナは困惑した。なにから話せば良いのか。自分たちが……いや、自分が除け者にされるのが嫌で、セルジュを巻き込み、いろいろあって、いまマーラーと共にここにいる。フローティアはセルジュを見たが、セルジュはフルトのことで頭がいっぱいのようで、逆にフローティアの説明を今かと待っているのが顔に出ていた。

 「セルジュ、私もフルトとは今はぐれているの」フローティアはそこでフルトの居場所を聴くのを忘れたことに気づいた。「わ、わたしも探しているのよ」そう云うと、セルジュの顔が、見るからに失望した。「それに、いま、まだ仕事の最中なのよ。フルトを探さないと。それにはマリオさんから仕事の続きをつなげてもらうのがいちばんだわ。マリオさんにフルトを探してもらうの。トリーナ、あなたにそれをお願いしたい」

 「でも……」トリーナはセルジュを見た。セルジュはなんとも云えぬ上目でトリーナを見返した。トリーナは目をそらした。「まあ……座りなよ。おいらたちがなんでここにいるか、それも説明しなくちゃな」

 フローティアは云われた通り席へ着き、黒剣を外して膝の上へ置いた。モンテヴェルディは外で待っている。

 「おいらたち、実は、フローティアの仕事を手伝おうと思って……余計なことだったんだけれども、ストアリア軍に捕まって。マーラーさんって人に助けてもらったんだ。だけど、彼も何だかよく分からないけれど、狙われる身で……手傷を負って、今ここに隠れているというわけ。で、フローティアは何でここが分かったの?」

 今度はフローティアが困惑する。「なんでって云われても……フルトの仕事仲間だという人から、教えてもらったの。あなたの居場所を知っているというのでね」

 「へえ……」トリーナは地下都市の恐ろしさの一端を知ったような気分になった。ここにいることは、マーラーの身内しか知らないはずなのに。フローティアへこの場所を教えたという人物が身内なはずが無かった。なぜなら、他人である筈のフローティアへ教えたりはしない。

 「ところで、そのマーラーさんて、いまいるの? ハンテール?」

 「有名な人らしいぜ」

 「怪我をしているの?」

 「ずっと寝たきりさ。たまに食事を持って行くんだけど、起きていた試しがない。眠りこけているんだよ」

 「わたしの呪文で、少しでも治してあげられるかもしれないわ」

 トリーナは跳び上がって喜んだ。「そうだ、その手があったぜ。おいらたちもストアリアに狙われているからって外出禁止なんだ。神官も呼びにいけなかった。呼ぼうとも思わなかったけど。それに……マーラーさんもフローティアを探していたんだ」

 「あたしを? どうして!?」

 「それは……」トリーナは口を誤魔化した。セルジュは席を立った。トリーナは、フローティアが黒剣の呪いに支配されかけているという意味の説明を受けていたが、そうは見えなかった。「と、とにかく、無事で良かったぜ。マリオ様に連絡を取りたいって? 手紙を書いてやろうか?」

 「そうしてくれると助かる!」

 「ぜんぜん変わってないよね」トリーナは笑顔の下で心配そうにそう確認した。フローティアも、笑顔の下で、急激に心臓を動かしたが、努めて平静に答えた。「変わるって? 何が?」

 「そう、そうだよな。何も変わらないさ」

 トリーナは、わたしの変貌を知って心配している。フローティアは直感した。彼女を巻き込んではいけない。

 「じゃあ、マーラーさんに会ってくれるのか? 寝てると思うけど」「いや……」フローティアは喉をつまらせるように云った。「今はやっぱりやめておく。後で会うわ」

 「そう……」トリーナはペンと羊皮紙をとりに部屋へ向った。その途中に二階への階段があるが、アッと声を発した。包帯だらけに寝間着姿のマーラーが降りてきたのだ。しかも、その表情は今まででもっとも真剣で、いやむしろ恐怖さえ覚えており、かすかに唇の端が震えていた。「マーラーさ……」トリーナを押し退け、マーラーは居間へ入った。フローティアが驚いた表情で迎えた。

 「む……」マーラーは眼をむき、立ちすくんだまま唸った。フローティアの眼の奥を覗き込み、そしてうつむいて、肩を落とした。

 「な、なんでしょうか?」ややあって、フローティアが緊張を隠さずに訪ねた。「いや……」マーラーは再び、ゆっくりと二階へ戻っていった。その途中、廊下でトリーナと眼を合わせた。

 「すまない。もう……私の力ではどうにもならないだろう。近い内に戦いがおきる。彼女が起こすだろう。……地下はもうだめだ。地上へ逃げろ」

 「な……」トリーナは震えだした。「なに云ってるんだよ。そんな簡単に。一人でドラゴンまで倒した、あんたほどの人が」

 「個人の力で、世の中の動きはどうにもならない時がある。彼女はもう遅い。黒く古い強力な剣と、既に一心同体だ。もう、彼女の意思に関係なく、彼女の周囲では常に争いがおき、火に虫が集まるように魔導が集まるだろう。彼女は、これよりその群がる魔導をただ退治するだけの、阿修羅のごとき人生を送ることになるだろう。それが暗黒の稲妻……すなわち古いウガマールとストアリアの言葉で云う、ドゥンケルブリッツだ。関わってはならない。死ぬぞ」

 「死ぬのがなんだってんだ!!」そう、声を上げたトリーナに、マーラーは逆に驚いた。

 「こんな世の中、普通に生きてたっていつ死んじまうか分からねえってのに、頑張ってやりたい事やって悪いのかよ! おいらはハンテールになりたい、でも、能力がないからなれない! だったらすごいハンテールのあんたや、フローティアを手伝って、いっしょに仕事して生きていきたいんだ! いまさら全てを忘れて、チンケな使いっ走りのネタ屋に戻れるかってんだ!」

 「覚悟は買う。しかし……」

 「しかしも糸瓜もあるか、土手南瓜ッ!!」

 トリーナはまだよろめいているマーラーをいきなり蹴飛ばした。「いッてえッ!!」マーラーは目を回して尻餅をつき、トリーナは居間へ戻った。怒号がしたが無視した。しかし、居間には既にフローティアの姿はなかった。コーヒーを持ってきたセルジュだけが、困り果てて立ちすくんでいる。

 「ほら見ろ、逃げられたじゃないか!!」

 「トリーナ、この……!!」

 「まだ間に合うぜ、昔話なんかもうたくさんだ!! おいらたちは、いま、生きてるんじゃないのかよッ、フローティアと昔の人をいっしょにするな、フローティアはフローティア、伝説の暗黒皇太子は皇太子だぜ!!」

 マーラーは大きな嘆息をつき、頭を抱えた。「とんでもないヤツだ、このエクソイル ・マーラーへ尻餅をつかせたのは、そうはいないぜ、トリーナ! それへ免じて、せめて彼女を見届けてやる! だが、おまえたちは上へ戻っていろ!」

 「いやだね、ストアリアにまたさらわれたら、こんどは誰が助けてくれるんだよ」

 「では好きにしろ、知らんぞ!!」

 マーラーは神棚より刀をとり、二階へ戻った。着替えるのだ。「マーラーさん、風呂へ入りなよ!」トリーナは嬉々として、階段へ向けて叫んだ。「ほっとけ!!」二階から声がした。その後マーラーは浴室で長いこと最後の骨休めをし、その間トリーナとセルジュは出かける支度をした。三人はその夜、五日ぶりに外で共に食事を取った。心なしか、荷物をまとめた人が通りをよく歩いていた。


 フローティアは早歩きをしながら、動揺した。マーラーという人物は全てを見抜いている。そういえば、前にフルトがぼそりと口にしていたような気がした。裏社会で、アデルナ一の裏ハンテールがいると。

 「あ、あの人はわたしを退治するつもりだったんだわ……」背筋に震えがきた。あの眼。深い奈落の底のような、眼。強いとか弱いとかいう以前の問題であり、相手へ本能的な恐怖と嫌悪を与える眼であった。

 「どうしよう……どうしたらフルトの元へ……」フローティアは知らず内に、宿へ戻っていた。宿には、食堂兼ロビーで客が待っていた。知らない人間だった。その者は立ち上がり、名乗りもせずに、こう告げた。

 「マリオさまよりのご伝言です」

 「えっ!!」

 「まずはおかけください。大事な依頼です。おい、主、この方にもお茶を!」

 フローティアは先ほどの動揺とはまたちがう動揺に襲われ、小さく震えた。

 宿の主が紅茶とミルク、それに砂糖を持ってきた。「レモンも」「こちら様は、レモンはお嫌いなんです」宿の主人はフローティアを見てそう云った。「左様でしたか、失礼」使者は悪びれもせずに、自分のカップへ手を伸ばした。

 「そ、それで……」紅茶もそこそこに、フローティアは話を切りだした。

 使者は、眼光も鋭く、声をひそめた。「アンダルコンとストアリア軍が、激突寸前の状況になりかけております。この地下で戦端が開きます。ストアリアの常軌を逸した行動には、もう、マリオ様とて動かざるをえない状況です。ストアリア軍はガウクと強力な魔導戦士を街に放っております。この街は戦場となるでしょう。しかし、ルキアッティ家としては、クルタイトを失うわけにはゆかないのです」フローティアはバーバラの言葉を唐突に思いだした。たしか、この街の存在が魔物を生み、ひいては退治業界を支配するルキアッティの利権と利益を無尽蔵に産んでいる、とかどうとか。

 「いま、どういうわけか、一部のクルタイトの住人が、先を争って街を脱出しています。これは幸いです。人間さえ無事ならば、建物などいくらでも建て直せる。費用は、どうせルキアッティが出すのですから。しかし、優れた人材の育成だけは、本当にお金だけではどうにもならないのです」フローティアは唾をのんだ。マリオの云いたいことが、分かってきた。使者は続けた。「フルトさんとフローティアさん、お二人には先遣隊となり、ストアリアを強襲していただきたい。もしくは、既にクルタイトへ敵が潜入しているのならばアンダルコンが動く前にできるだけ退治を。ここは、駆逐騎士とまで云われたフルトさんの出番なのです。情報によると……」使者は咳払いをした。「情報によると、ストアリア軍の主力攻撃部隊は、フローティアさん、あなたを狙っているとか」

 フローティアは寝耳に水だった。「あたしを!? なぜでしょうか!?」

 「あなたの血液を採取するつもりなのでしょう。もしくは、黒い剣を奪うとか」

 「血液って!?」使者は、しまったという顔を、少しだけ見せた。「いや、その、あくまで情報です。フルトさんの居場所は既につかんであります。この状況を説明し、依頼を受けてもらわなくては」

 フローティアは無言となった。なぜ、先にまず自分へ話を持ってきたのだろう。

 「さ、用意がよろしいのならばさっそく行きましょう。アンダルコンの出兵は、明後日を予定しております。クルタイトへ本陣をしき、アバートのストアリア軍を攻撃するつもりです」

 「ですが……ストアリアって?」フローティアはバーバラも同じことを云っていたのを思い出した。アデルナにストアリアの軍隊がいると。通常ならば、だから何だということになろうが。「ストアリア軍がどうしてアデルナに? それに、アンダルコンがどうしてストアリア軍と戦いを?」

 使者は何も知らぬふりをした。マリオのことである。また、何か複雑な政治的思惑のため、駒のひとつとして自分やフルトを使おうとしているのは明白だったが、退治屋、そして傭兵にそのような依頼主の思惑は関係ない。カネをもらって、戦うだけ。それが仕事だ。

 「わかりました」使者は満足げにうなずいた。「フルトの居場所へ早く」

 「強襲が成功し、アンダルコンの勝利の暁には、成功報酬は五万アレグロを用意させていただきます」

 「多すぎて分かりません」

 二人はすぐさま出発した。二人の後をガリアンがついて歩いた。彼は腹が減っていたが、今は我慢した。主人の出陣である。

 使者が先立って通路を歩いた。その後ろをフローティアが歩き、最後にモンテヴェルディが長い舌を出しながら転げるように歩いた。その姿を見て、また脱出するものが増えるだろう。

 宿よりそう遠くも無い場所にフルトがいたことに、フローティアは少なからずショックだった。通りをふたつほど隔てた路地の、長屋の角だった。まさに隠れ家といったような、光のあまり当たらぬようにして古びたドアが連続してあり、その路地の突き当たりに枯れた植木鉢と真新しい酒瓶が大量に転がっていた。他のドアは使われていない物が多く、つまり無人の部屋が多いということだ。二人は路地前でいったん止まった。使者が振り返り、無言で一番奥の部屋を指さした。そのドアの前に転がる酒瓶を観て、フローティアはフルトの様子を容易に想像して天を仰いだ。使者が先立って路地に入ろうとしたとたん、路地のドアというドアより、魔物が出現した。「わあっ、うわああッ!!」使者が恐怖に叫んだ。ひと呼吸を置いて、フローティアが抜剣するよりも早く使者は襲われた。魔物は十匹に近いストアリア=ガウクと、それを統率する一人のストアリア兵士だった。しかし、兵士の眼は紅く輝き、口元と軍服は血に濡れていた。地下都市の住人を、美味しく頂いたあとなのか。

 「あっ、うあッ」フローティアは抜剣し、黒剣を構えつつ、見事なへっぴり腰で呻いた。使者は、三匹ものガウクにかみつかれ、強靱な顎と腕でバラバラにされている。

 「やっと来たか……暗黒の稲妻め。大佐の命により、連行させていただく」ストアリア訛りのアデルナ語で、兵士は云った。「非常に丁重にお連れしろ!!」兵士が手を上げて指示した。使者の血だまりの中で、ガウクたちは立ちすくんでいた。その大きな複眼が、一斉にフローティアを見た。キチン質に光る顎や爪よりワインのように血が滴っている。触覚が、ピンピンと動いて何かを探った。フローティアは、初めてこの昆虫人を目の当たりにした。同じガウクでも、アデルナの、泣いたり笑ったりする人間臭いガウクとは大違いだと思った。この二本足で立ち上がり、手で物を掴む大きな虫というものは、何か異質な迫力を周囲へ与えている。

 その中で、真っ先に動いたのは、後ろへ控えていたモンテヴェルディであった。真っ黒い弾丸となって飛び込んできたガリアンの子は、それまでとはうって変わった素早い動きで、兵士へ襲いかかった。大きな頭より生じる強力な咬む力。一撃で、兵士の左腕の肘より先をもぎ取った。

 「ウオッ、オオ!!」その悲鳴により電気の入ったフローティアは、反動で黒剣を振りかざしていた。狭い路地で黒剣が踊った。その鋭い刃へ電光が走り、ガウクの甲殻を次々と切り裂き、破壊した。最後にガウクの破片を尻目に、兵士と対峙した。兵士は脚へかみつき、恐るべき勢いで引っ張って自らを引き倒した魔狼の首根っこを押さえんとしていた。

 「モンテヴェルディ!」フローティアの剣が横なぎに振られた。顔を上げた兵士の頬へ剣が食いこむ。袋を裂くように口内へ剣が入ったが、兵士はなんと鋭い牙で剣をガッチリと噛みつけた。そう簡単に顔を切断されはしないというわけだ。しかし、その喉笛へモンテヴェルディが代わりに咬みついた。血が吹き出して、ガリアンの大きな牙は、ひと咬み、ふた咬みで斧のように首を切断してしまった。フローティアは剣へくっついてきた兵士の首を、地面へ叩きつけてはずした。空腹だったモンテヴェルディは、いま仕留めたばかりの新鮮な魔物の肉をこれ幸いと食べ始めた。フローティアは身震いし、奥のドアへ向かって走った。こんなものがアデルナに入り込んでいたとは。アンダルコンが動く理由が瞬時に分かった。これはとんでもない。

 「フルト、いるんでしょ? フルト!」

 ドアを開け、叫んだが、返事は無い。部屋は明かりが無く、窓も閉め切られ、暗く、酒の臭いと人間の体臭が凄かった。フローティアは窓という窓を剣で破壊した。光柱の明かりが飛び込んで、暗がりを切った。その光の剣に浮かび上がったのは、手にカルバドスの瓶を持ったまま机に突っ伏して眠りこけるフルトだった。彼は、外で退治の戦闘が行われているのも気づかずに、呑んだくれているのだった。使者がフローティアを先に呼んだ理由が、これだ。

 「ちょっと、フルト、起きて、起きなさい、ストアリアが攻めてきたわ!」

 フルトは微塵も動かなかった。死体かと思ったほどだ。「フルト!!」揺さぶったが、無駄だった。「情けない、ウガマールの誇るハイペリアスがなんてざま。フルトったら、仕事よ、仕事、五万アレグロですって!」フルトは聞き取れないような発音で、うるせえ、とだけ云い、顔も上げなかった。

 フローティアはさすがにカッとり、フルトの椅子の脚を一気に剣で叩っ切った。大きな音がして、フルトがテーブルから転げ落ちた。そこでやっと、血走った眼を向いたのだった。

 その眼へ映ったものは。

 フルトは、半ば蒼白になりつつ、直立不動で起き上がった。フローティアは、かつてお守りとしていたクレンペラー神官長よりの署名入りヴァンダー金貨を、フルトへ見せていた。その意味するところは。

 「出陣よ」

 フルトは酒瓶を放り出し、やおら何度も自らを殴りつけた。

 「早く、水でもなんでも浴びてきて! ストアリア軍を退治しに行くのよ! さっきの見てないでしょ!? あれはもう、魔物だわ! ストアリア軍は魔導軍だわ! あなた聖道騎士でしょう! お酒なんか呑んだくれている場合じゃない!! 悪いけど、わたしのことは、後にして!!」

 「……ええいッ、畜生ッ、このッ、クソッ、野郎ッ、いいか、オレはまだふっきったわけじゃあねえッ、おまえが何物なのかは、後でゆっくりと分からせてやらあッ、おまえなんぞとつるんで仕事してたら、未来永劫オレはウガマールにゃア戻れねえぜ!!」

 「あら、戻る気も無いくせに」

 「なん…」

 「さっさとしてちょうだいッ」

 「……!!」フルトはなにやら喚きながら、奥へと去って行った。裏の井戸で、水をかぶる音と、着替え、鎧を装備する音、そして呪文が聴こえた。「うらあッ!!」破壊音と共に、部屋の壁が崩れた。穴から現れたのは、鞘すら無い完全攻撃用大剣・鷲の銀十時を手にした、聖騎士にして対魔導駆逐騎士・ヴォルフガング フルトヴェングラー卿だった。

 「それでッ、敵はどこだって!?」

 「まずは腹ごしらえよ。黒剣と銀の大剣を見せびらかして食事してたら、勝手に向こうからきてくれるわ」

 「ケッ!!」フルトは唾を吐きつけた。「いつからそんなタマになりゃアがったんだ、フローティア。さっき、五万アレグロとか云ったな。マリオの旦那の正式な依頼か」


 「そうみたい。伝えに来た人は、死んじゃったけど」

 「うさんくせえ仕事だぜ! あの人が奮発するときはな、たいてい、面倒くせえ事が裏に隠れているんだ!」

 「何か目論見があるんでしょうけど、そんなものは、知ったことではないわ。わたしたちは云われたことをするだけよ。それが仕事なのだから」フローティアは自分へ向けてそう云った。考えたところで、相手はこの国を支配する人間だ。相手にしてもはじまらぬ。

 「いいこと云うぜ」フルトは歩きだした。「まだガリアンなんぞ飼ってやがったのか! なにを食っているんだっ」

 フルトは云いつつも、モンテヴェルディを無視して表通りに出て行ってしまった。

 「おいで」フローティアが続く。二人は、通りから一番近い食堂へ堂々と入った。ちょうど地上時間で昼を少しすぎたところだったが、客たちは、まだ多かった。通りをチラホラと荷物をまとめた人々が通って行くのを眺めて、「おい、急に引っ越すやつが増えたのか?」ぐらいの会話をしていたが、フルトとフローティアが抜き身で店に入ってきたのを見て、瞬時に理解した。店のものは一斉に金も払わずに逃げ出した。自分たちも家へとって帰り、今すぐ荷物をまとめるのだ。先日の闘技場の「事件」は、クルタイトじゅうに知れ渡っている。あの凄まじい戦闘を。それが街中で開催されるというのだ。逃げもするだろう。奥よりオーナーシェフが現れて、泣きそうな声を出した。

 「どうか、好きなものを好きなだけ食べてください、だから、私がいるうちは、戦いを始めないでぇ!!」

 意地悪そうな笑顔で見合わせた二人は、ここぞとばかりに、高級なワインを水のように飲みながらパンとチーズ、香草とチコリの山盛りサラダ、鹿肉と野菜の赤ワイン煮込み、山盛りの長パスタへ大量の白松露ソースをかけたもの、高級なアデルナ笠キノコのソテー、それのクリーム煮、雉子のブルーチーズリゾット詰オーブン焼き、最後にオレンジのシャーベットを店に残っているだけ平らげた。二人ともほぼ一週間ぶりのまともな食事だった。しかもここぞとばかりに、シェフの言葉へ甘えた。ワインは元より、食材が狙ったように高い。笠キノコを乾燥させたものは戻すのに熟練の技術を有するし、白松露はアデルナの誇る秘密兵器、超最高級の香茸だ。最後にテーブルへやってきたシェフはひきつった笑いを浮かべながら、早く自分も荷物をまとめたい気分でいっぱいだった。その許可を一刻も早くもらうため、ここにいた。別に料理の批評を聴くためではない。

 「それで、腹もふくれた。相手はなんだ。ストアリアか?」フルトはシェフを無視した。シェフは声を出さずに泣きだした。「かわいそうよ。ありがとう。もう、行ってけっこうよ」シェフは歓声を上げ、脱兎と化した。フルトが横目で見送った。

 「……これか、これだな」

 「なにが?」フローティアは食後のコーヒーをゆっくりと飲んだ。

 「マリオの旦那の狙いさ」フルトは、まだパンをちぎってオリーブオイルへ少量の塩とワイン酢を溶かしたソースへつけ、口へ運んでいる。

 「狙いは何なの?」

 「クルタイトが戦場になりゃ、困るのは旦那だ。しかし、おそらく、アンダルコンが動かざるをえない状況まで追い込まれているのだろう。衝突は避けられない。とすれば、街を護らなくてはならない。街といったって、おまえ、建物なんか、いくらでも建て直せる。しかし、人は、ちがう」

 「使者の人も同じようなことを」

 「オレたちがこうして臨戦態勢でウロウロすりゃ、それだけそれを見て、話を聴き、逃げ出す連中が多いということだ。オレたちゃクルタイトの市民を逃がす役割なんだ。一人でも多くな。時間を稼がねえと。そうとすりゃあ、戦うのは、街中じゃあだめだ。巻き添えが出る。広いところがいい……」

 この街でそのような場所があるのか、フローティアは考えた。「山?」

 「あるだろう、一つだけ」

 フローティアはハッとした。「まさか、闘技場!?」フルトはニヤッと笑って答えとした。

 「じゃあ、いまから行きましょう」

 「いそぐなよ。時間を稼ぐと云ったろう」

 「いいえ」フローティアも、珍しく、上目づかいで、愉しげに口元をゆがめる。「お客さんよ」天井を指さした。フルトが上を見ると、天井にびっしりと、ストアリア=ガウクが犇いている。

 「でっけえアリだ!!」フルトは椅子を蹴って席を立った。短く呪文を唱えると、部屋の隅へ置いた大剣が飛んできた。同時に、ガウクが一気に落ちてきた。二人は走り出した。フルトの剣が大きく振り回されると、ガウクといっしょに店の壁も吹き飛んだ。この物音で、シェフは荷物もそこそこに、妻と老母、四人の子どもに三人の弟子を連れ、転がるようにして逃げ出した。

 二人は行く先は分かっていた。闘技場だ。いまはまだ四角い倉庫のようにして佇んでいるそれは、灰色に光り、街の低い建物の中でひっそりとしかし目立って建っていた。二人のいる通りからは、区画を三つほど向かったといったところか。位置を素早く確認し、走り出した。「退却戦は大丈夫か!?」共に通りを逃げる人々をかき分け、大剣を肩に、走りながらフルトが叫んだ。「意味が分からないわ!」懸命にそれへ着いて行きながら、フローティアもなんとか口をきいた。しかし、既に息が切れている。余計な口を聴いている場合ではない。フルトは走るのをやめた。

 「おまえ、先に行ってろ。殿はオレだ」

 「フルトッ」

 モンテヴェルディが先に走った。「バカか、誰に向かって心配している、行け!!」フローティアは、路地へ入った。

 とたん、フルトは周囲をストアリア=ガウクとクルタイトで飼われているありとあらゆる魔物に囲まれた。人々が悲鳴を絶叫にレベルを上げ、さらに逃げまどう。魔物はだいたいが「クルタイト名物」マンティコアだった。小さなものは犬ほどのものから、大きなものはかつてフルトへ致命傷を与えんとしてマーラーに退治された闘牛のようなものまで、さながら、マンティコアの品評会、あるいは競売場とでも云おうか。マンティコアだらけ。とにかく、状況は既に待ち伏せされていたということだ。「しまった」と思ったが、遅かった。ストアリア軍は二人を分断したのだ。街にはまだ人がたくさん残っていたが、こうなれば、致し方も無かった。「おい、逃げてねえで誰か手伝ってくれる魔導士でもいねえのか!?」云ったところで、誰も名乗り出ぬ。フルトは、神聖力を急速に大剣へ収斂させていった。いかに高速に強大な神聖力を練り、集めるか。それこそ、聖騎士の腕の見せ所であり駆逐騎士の真骨頂だ。攻めて攻めて攻めることこそが最大の防御。楯を持たず、ただ前進あるのみ。フルトは久しぶりに血が沸いた。双眸が、神聖力へ満ち満ち、青白く光った。いきり立った中型のマンティコアが一匹、緊張に耐えられずに建物の屋根の上から恐るべきジャンプ力で飛び掛かったが、大剣の一振りで南瓜でも砕いたかのように爆発し、燃え尽きた。それを見て、ガウクの壁を開き、再びストアリア兵が現れた。しかし、それは軍服からして、階級がちがった。小隊規模、十数人の兵士を従えて現れたのは、クーゲルシュライバー大佐だ。フルトはその者を見た瞬間、ブルブルと震えだした。武者震いと、得たいのしれぬモノへの純粋な恐怖だった。聖導皇家の古き血が、記憶を呼び覚ましたのか。目の前の敵は、こんな周囲を囲っているマンティコアなどの魔獣などとは次元が異なる。彼の真の宿敵が復活したと云って良かった。

 大佐は、愉しげに口をあけた。こちらも双眸が、眼鏡が光を反射したように赤く輝いた。ズラリと並んだ杭のような歯牙。血があふれているように赤い舌。フルトは確信した。



 「吸血鬼王……いや、そこまでではないな。ストアリアの吸血隊長さんよ」

 「アンダルコンの間者騎士などよりは、手応えがありそうだな、エクソイル=ハイペリアス=フルトヴェングラー卿。しかし、我輩は貴卿と遊んでいる暇は無い。それは、仕事ではないのだ。いま我輩が貴卿の相手をしてしまうと、アッという間に勝負がついてしまうからね。それでは、仕事にならないのだ」

 「あんたが負けるからか?」

 「云うと思った。くだらない、典型的な挑発的言動だ!」

 「ばか、挨拶じゃねえか。堅物だな」

 「挨拶などけっこう。貴卿はここで時間を稼いでおれば良い」

 「ははあ、そりゃ、こっちも助かるぜ。それが仕事なものでね」

 「それは重畳。お互いの利益が合致した」

 云いつつ、フルトは大剣を振りかざした。神聖力が軌跡を描き、大佐を襲う。しかし大佐は瞬時に消えた。あおりを食ったマンティコアが数匹、爆発した。フルトはさすがに唸った。

 クーゲルシュライバー大佐は、カラヤン教授の秘薬により、人間の肉体と吸血鬼の力を兼ね備えた超人と化した。あるいは、はるかなる超人へのあこがれの結晶というべきか。かつて、人類は大戦によって失われた数々の古代技術により、支配者だった吸血鬼たちに対抗する手段を開発した。それが神聖力であり、神聖呪文であり、さらには肉体的にまで吸血鬼とその眷属へ対抗できるべく強化された超人類としての力だった。その究極の成果が聖導皇家で、遠い子孫が、フルトやフローティアたちである。大佐の身体能力は既に人間のものではない。ギャウッ、と鳴ったのは、空気か、大佐の関節なのか。

 「気短だな」フルトの後ろのほうから声がした。フルトは剣を置いた。「性分でね」

 「せっかちは損をするだろう」大佐はそのまま、少し通りを行ったところの屋外カフェへ席を取り、ゆっくりと部隊の輜重兵が用意したコーヒーを飲み始めた。そして、静かに手をあげた。それを合図に、魔獣たちが唸りを上げて重連攻撃をフルトへしかけた。


 フローティアはモンテヴェルディを連れ、路地をひたすら走った。とにかく、闘技場へ行くのだ。だが、それは無理な相談となった。路地は既に包囲され、陣地が築かれ、部隊により遮られていた。ただし、さきほどの吸血兵士ではない、人間の兵士に。

 「……!」フローティアはわが眼を疑った。魔術による幻覚だと思った。しかしそれは現実だ。汗の流れる感触と、痛いほどに波うつ心臓、それに、己の呼気。

 「マイスター……ワグネル!!」フローティアは剣を中段に構えた。ストアリアの軍服へ身を包んで、仏頂面で立つヴァーグナーは、見慣れぬ武器、すなわちリングを構えていた。

 「よお」ヴァーグナーはその懐かしい無精髭を、少しだけ笑みで緩めた。フローティアは唾を飲んだ。ヴァーグナーの髪が伸びている。

 「たいした活躍じゃねえか。師匠として、素直に嬉しいぜ」

 「なぜ、わたしを?」フローティアの声は自分で聴いても無様なほどに震えていた。

 「なぜも何もねえ。おれは兵隊だ。命令に従うだけだ」

 フローティアは両手で剣を構えたが、なぜかとても重く感じられた。モンテヴェルディも、静かに見守っているだけだ。

 ヴァーグナーは容赦なくリングを構えた。後ろには、レナ・ロジェストヴェンスキー少尉もいる。彼女は手出しを禁止されていた。

 「次、会ったとき、手加減無しだと云ってあるな」

 「あっ? えっ、うあっ………」

 「バカ野郎、剣を構えんかーッ!!」

 ヴァーグナーが一気に突撃した。「わっ、わあーッ!」フローティアも、負けじと黒剣を振りかざしたが、いつもは剣が勝手に動いてくれるが、今ばかりは逆にフローティアの腕を錘のように戒めた。フローティアは息を呑み込んだが、どうしようもない。銃剣撃のただの一撃で黒剣トーテンタンツは巻き落とされ、己の足元へ落ちた。ヴァーグナーはすかさず蹴って剣を路地の隅へ追いやった。反転された銃尻の攻撃が肩を打った。悲鳴を上げる余裕も無いほどの激痛が走り、再びサッと返された銃剣が、なんの障害も無く腹へ食いこんだ。生まれて初めて味わう、痛いを通り越した苦痛。

 「……この、バカが!!」

 ヴァーグナーの泣きそうな声が、かすかに耳へ届いた。フローティアはその苦痛から逃れるように、本能的に、後ろへ下がった。ヴァーグナーはそのままフローティアの動きへ合わせ前へ出て、結果としてフローティアを壁際へ追い詰めた。すかさず、リングを作動させる。

 子宮とはらわたを貫いて、背中にまで突き抜けた特殊銃剣。いつもは魔物に対して同じことをしているが、自分がされるとは思いもしなかった。全身の血液が吸いとられる前に、意識が遠のいた。

 モーター音と共に、銃の機構が体液を集める。ヴァーグナーは臙脂色の液体が、銃の窓口を流れるのを見つめた。任務として。しかし、様子が異なる。すぐに気がついた。

 「!」

 焦った。正直、焦った。リングが止まらぬ。フローティアほどの体つきの相手の血を採集するとき、ものの二十〜三十秒もあれば、すむ。だが、止まらない。

 フローティアは黒鉄色の髪をざんばらにしてうつむいていた。背がヴァーグナーよりずいぶんと低いし、表情は見えない。ヴァーグナーは剣を引き抜こうとした。だが抜けなかった。そのとき、血が、変わった。なにがというと、色がだった。銃の窓口を水道のように勢いよく通る血液が、赤から、黒に変わっていた。「……!!」黒い血液だ。まるで、インクか、何かのような。

 「ゲホッ」フローティアが呻いて顔を上げた。リングはまだ止まらぬ。口から、仕留められた蛸が最後の足掻きで墨を吐くように、真っ黒な液体が吹き出ていた。その黒鉄色の髪がザワザワと蠢いた。ヴァーグナーは驚怖した。

 「なんだ……おい、なんなんだ、おいーッ!」

 ついに、採血タンクの許容量を超えて、ヴァーグナーの背中より、黒と赤の混じった潤み色のような独特の液体が吹き出し始めた。「おっ、おおッ、うおおおーッ!」叫んだが、何も変わらぬ。周囲の兵士は、レナも含めてただ震えて凍りつくだけだった。ついにフローティアの白い手が幽鬼ように伸びて、ヴァーグナーの肩を掴んだ。恐るべき力だった。苦悶に顔が歪む。彼は肩が砕ける音を聴いた。フローティアの口へ、巨大な牙が伸びた。ガリアンのように。眼は神聖力で一等星のように青く光っている。つまり、彼女は、大佐とは異なり、このような姿でも魔物ではない。

 「そうか」ヴァーグナーは一瞬にして理解した。「そういうことか」そのフローティアの眼を見た瞬間に。

 それから先ほど自分が蹴りやった黒剣を見た。剣は、まだ壁際にあった。

 「つまり、黒剣はおれへフローティアの人間の部分、人間の血液を抜き取らせるためにおれを利用した。黒剣がフローティアを助けなかったのは、このためだった。おれが黒剣の目論見通りに、フローティアより古代の暗黒皇太子の血液を引き出した。なんということはない。このことは、最初から仕組まれていたというわけだ」

 そう考えることで恐怖と動揺を押さえた。押さえたところでもうだめだ。

 ヴァーグナーの喉を、フローティアが片手で押さえた。そのまま首を捻じり切れるほどの、万力のようなパワーだった。ヴァーグナーは歯を食いしばった。まだリングは作動している。どれだけ、過去より怨念の血液を汲み上げるのか。

 「そこまでするか、黒剣めェ!!」

 耐えられずに目をつむり、口を開いた。顔は破裂せんばかりに真っ赤だった。破裂する前に、ヴァーグナーを雷が貫いた。

 一撃で黒こげとなり、転がった。フローティアは闘技場で雷仙によって力を引き出されたときの何倍もの衝動にかられていた。破壊と、暴力の。

 「わあーッ! わあっ、うっ、うっ、ううっ、ウーッ! あがああーッ!!」言葉にならぬ雄叫び。まるで本能そのもののような。地下都市の天井を、雷の筋が、幾本も通った。これまででもっとも大きく、もっとも激しい。始まった。もう、都市はパニックだった。

 モンテヴェルディがフローティアの前へ立った。口を引き締め、顔を上げていた。フローティアはそのガリアンめがけ、何かを云いながら指を向けた。モンテヴェルディをも雷が打ち据えたが、彼は倒れなかった。そのエネルギーを得て、ガリアンの子は、体格を十倍にもした。コルネオ山のドニゼッティよりも巨大な、大ガリアンが出現した。モンテヴェルディはフローティアのために、滅多に鳴かぬその声を、遠吠えとして披露した。地獄のうねりのごときそれを聴いたクルタイトじゅうのガリアンが、檻を破り、戒めを食いちぎり、真の主へ仕えるべく、魔都を疾駆した。

 そして黒剣が独りでに剣先を下にして宙へ浮いた。剣は、またも姿を変えた。アデルナでの古い伝承の通りに、槍へ変わった。槍は以前にも一回、変わったことがあったが、アデルナの戦場においても、フライアルク皇太子の正式な武器だった。だが、フローティアは皇太子ではない。フローティアの潜在意識により、槍は、二度姿を変えた。

 現れたのは、大の大人が両手で持ってもふらつくような、大きな長柄の杭打ち用ハンマーだった。剣や槍と同じく漆黒で、ヘッドや柄には黄金の線が唐草模様に刻まれていた。ハンマーの首元には、牛のクビにつける鈴、つまりカウベルがいくつか並んでいた。フローティアは片手で振り回したが、そのたびにカウベルがカラン、コロンと彼岸の音色を奏でた。高い山の上に放牧された牛たちの放つ素朴な音色は、人が天国へとのぼる際に、最後に聴く娑婆の音なのである。

 「うあああッ!!」フローティアがハンマーを軽々と振りかぶり、大きく地面へ打ちつけると、ひびが入るように電気が走り、地面が大きく揺れた。地震だ。強烈な縦揺れ。直下型に地震がおきた。路地の壁が押しつぶされたように崩れ、雷が落ちて砕け、周囲の家々も脆くも倒れた。残っていた兵士たちは我先に逃げた。まるで小便をかけられたアリだった。フローティアはチラリと、横たわり、焼け焦げ、煙を上げているヴァーグナーとそれへ寄り添うレナを見やったが、なにもせずに前へ進んだ。大きく跳ねるとモンテヴェルディがすかさず後を追って跳び、フローティアを背中へ乗せた。

 かくして、暗黒の稲妻、ソーデリアン=ドゥンケルブリッツは、クルタイトへ帰還した。


 地下雷の出現で、急いで建物の屋根へ上り、状況を把握していたマーラーは、もう、諦めきっていた。揺れの後、フローティアの通った後ろには、潰された家屋と人々の悲鳴しか残っていない。

 「あれでも、彼女は変わっていないと?」同じく屋根へ上ったトリーナとセルジュは、呆然と見つめるだけだった。

 「それにしても、いったいどこへ……」マーラーは双眼鏡を出し、フローティアを追った。彼の常識を外れた動体視力が、フローティアをとらえる。その行き先は闘技場。

 「まさかあ!!」マーラーは大声を上げた。驚いてトリーナが悲鳴をあげた。「なんだって……まずい、あれはまずいぞ!」珍しく興奮する。トリーナが何事かと訪ねた。

 「闘技場だ……そうだ……その手があった、なんということ……!」

 「だから、説明しろって!!」

 「フフ、いいか、闘技場だ。あれはな、生きているんだ。生き物なんだ、魔物なんだよ。古い、年老いた生体兵器だ。吸血鬼王が直に造った魔物だ。究めて特別な戒めで建物としてあそこにいる。誰が戒めたと思う? 吸血鬼王か? はずれだ。聖導皇家だよ。あいつは、今は闘技場として余生を送っているが、本来は巨大な戦闘用の魔獣なんだ。古い紀元前の技法で造られ、古い言葉で太陽を意味するアルス=ノヴァという名前だった。その戒めを解く気だ。聖導皇家の戒めは聖導皇家の武器で破壊できる。黒の剣ならできるんだ。するとどうなる? やつめ、おそらく制御不能のまま天井をぶち破って地上へ出るぞ。かつて星の数ほど聖導皇家の騎士や兵士の血肉を食らったバケモノだ。現代のアンダルコンやアデルナじゅうの都市軍が総出でかかれば退治できなくはないだろうが、ふいをつかれて都市の底が抜けたんじゃ、どうにもなるまいよ」

 「どっ」トリーナは眼をむいた。「どっどっどっ、どうするんだよ!」

 「どうするだって? どうする!? フ、フ……フローティアもそうだが……あんなのを野放しにしたら、私はリピエーナのばあさんに絞め殺されるだろうな!」マーラーは笑みを崩さなかったが、頬はひきつり、冷や汗を流していた。セルジュは、ただその現場を目撃するのに必至だった。

 マーラーは双眼鏡へかじりついた。モンテヴェルディが何度も跳ねた。クルタイトじゅうよりガリアンが次々と合流して、黒い塊のようになっていた。その数は数十匹にもなろうか。「この街にあんなにガリアンがいたとはな」マーラーは群の先頭を凝視した。

 「……?」そして、発見した。フローティアの首もとで揺れる小さな金の光を。

 「首飾りか?」マーラーは双眼鏡を置き、部屋へ戻った。そして黒い石盤をとりだし、ペンを滑らせた。すぐに返事が返ってきた。戻ってきたマーラーへ不安げにトリーナが話しかけた。

 「どうしたんだよ」

 「いいか、今度ばかりは云うことを聴いてもらう。一度しか云わない。ここにいろ。運がよければ死なずにすむ。私についてきてみろ、運がよくても死ぬ。一時の好奇心による確実な無駄死にと、生きて将来を見る微かな機会と、どっちをとるかはまかせる」

 二人は無言で、その場に座り込んだ。

 マーラーは刀をとり、宿を飛び出た。まだ逃げている人が通りにはたくさんいる。各所にある地上への連絡通路は、ごった返していた。雷だけならまだしも、この地下で地震がおきては。マーラーは眉間へ指をあて、瞬時に火無比装束となるや通りを人々の流れへ逆らって走った。「ばあさんめ、年寄りってのは、どうしてこう先を読むのが得意なんだろうな!」リピエーナの贈った小さな金のメダルの首飾り。古い確かな金により、渦巻きと古代魔導文字が刻まれているものだ。それは吸血鬼王の形見の品だった。

 「暗黒皇太子の血を、どうにか、鎮められるかもしれない……吸血鬼王の……で……」マーラーは望み薄しと思いながらも、走らぬわけにはゆかなかった。あまりに人が多いので、とある店屋の軒先の売り物台へ足をかけ、ひと息で軒を超えて屋根へ上がった。そのまま、一足跳びの奥義で、屋根から屋根へ、鳥のように進んだ。

 「これも、契約の内なのだろうからな!」

 幼かった彼の記憶に残る、大きな影。偉大な存在感。威圧的であり、安らぎも有していた。その人影へ光る、青白い双眸。彼のアデルナ吸血鬼王の記憶は、それしか無かった。


  地下を襲う地震と雷に我を忘れたのは、ここにもいた。フルトは、次から次へただ死ぬために襲ってくると愚かなマンティコアを粉砕しながら、動きを止めた。しかし安全だった。なぜなら魔獣どもも、恐怖でぴたりと凍りついてしまったからだ。

 「フローティア……?」フルトは、茫然自失となった。「野郎……本当に伝承の通りとなったのか!? ソーデリアンに!? ドゥンケルブリッツに!? あ、あのバカったれめ!!」大剣を、地面へ打ち下ろした。そして、泣いた。いきなり、感極まって、泣いてしまった。「オレは、オレはいったいどうすればいい……!!」

 もう一人、茫然自失となったのは、誰あろうクーゲルシュライバー大佐だ。大佐は、地震でコーヒーをこぼしながら椅子から落ちて尻餅をつき、そのまま天井の雷を眺め、雷鳴とフローティアの槌音、さらにはガリアンの吼え声と逃げまどう己の魔獣たちの悲鳴を聴いた。「……ヴァーグナー大尉……いったい、何をしたのだ……?」確認のための兵を出すことすら、できなかった。どうせ帰って来ない。

 「そうだ、教授に……教授に報告を……」大佐は這うようにして、立ち上がった。赤い眼が虚ろだった。手足が震えた。その目の前へ、銀色の大剣が振り落とされた。

 「どこへ行く!!」

 大佐は、銀の剣へ映った己の顔を凝視して、それから震えて顔を上げた。

 「フローティアに何をした!! いくらなんだって、いきなり覚醒するはずがねえッ!!」

 「わ、わ、私は知らない、私は聴いていない、私は命令していない!! 私は、司令官殿の指示に従っているだけだ、私とて軍人なのだ、私の責任では無い!!」

 「司令官ってのは、誰なんだ!」

 「教授だ、ヘルムート フォンカラヤン教授だっ、ここにはいない、わ、私は今から報告しに戻るところだッ!」

 フルトは呆れた。あきれ果てた。「おまえは魔物じゃねえ。人間だな」大佐はすぐさま答えた。「そうだ、私は人間だ、吸血鬼の力を与えられてはいるが、魔物ではない、人間だ、人間だとも! それが教授の研究の成果だ! それが新型D計画だ!! どけっ、フルトヴェングラー卿、私は戻るのだ!!」

 フルトは、いきなり素手で殴りつけた。鼻血を出して、大佐は転がった。

 「なあっ、なにをするかっ」

 「オレの剣はな、人は退治しねえんだ、クズなら尚更だ、生憎なアッ! この、うすらぼけ野郎が!!」そのまま、目を剥いて殴りかかる。

 「わあっ……」大佐はフルトに馬乗りにされ、とにかく殴られた。不死身のはずの肉体が、顔が、見る間に腫れあがった。吸血兵士たちは、なす術がなかった。相手は、エクソイルにしてウガマールの駆逐騎士なのだ。なにより、大佐がかなわないのに、自分たちがかなうわけがない。

 いいだけ殴りつけ、フルトは大佐の胸ぐらをつかんで持ち上げると、再び強烈な右ストレートで豪快に吹っ飛ばした。

 「そのナントカ計画とやらは、大失敗だとお偉い教授先生に伝えな! 見ろ、人間の心は、かくも脆い! 心が、精神が萎えたら、無敵の肉体もなんの力も発揮しねえ!! 逆もまたしかりだ、それが人間なんだ、ドアホッ、ドマヌケッ、ドグサレが!!」

 フルトは唾を吐きかけ、大剣をとると、フローティアの元へ向けて走り出した。

 大佐は、瀕死の蛙のように這いつくばったまま、折れて地面へ転がった自分の牙を、涙目で見つめ続けた。


 フローティアは、モンテヴェルディの背中でロデオのように揺られながら、考えた。

 「わたし……どうしてこんなに、何もかもぶち壊してしまいたいのだろう?」

 ハンマーのヘッドには寸断無く雷が降り注ぎ、四方八方に放電して、振りかざすたびに地面を揺るがし、家屋を倒し、火を放ち、逃げ後れた人々を傷つけていた。迫りくる、怒れるガリアンに蹴倒されて死んだ子どももいたし、煙に巻かれた年寄りもいた。倒壊した家屋の下敷きになっているものも恐らく山ほどいるのだろう。フローティアは、それらの全てを見ていた。

 「わたしは、災厄の来訪者?」

 誰に問いかけているのか、自分で分かっていた。自分の中の、確かなものだ。血管をめぐる神秘の液体。漆黒の血液の奥の奥より沸き上がる、この想いそのものだった。

 「わたしは、わたしを否定できるの?」

 分かっているのだが、止められぬ。

 フローティアは視界がとても狭く、暗いことに気がついた。まるで、自分が自分を殻として、その奥から静かに覗いているようだった。いま、下僕であるこの大きく美しい獣は、自分をどこへいざなおうとしているのか。

 はるかとおい祖先の面影。想像にすぎないのだろうが、自分とそっくりの若い男。同じ色の髪をし、同じ眼、同じ乳白色の肌をした若い男性が、黒い槍を振りかざして、ガリアンに跨がり、軍団の先頭を行く姿が、脳裏へ浮かんだ。

 「あなた、わたしにどうしてほしいの?」

 訪ねざるをえぬ。

 しかし答は無かった。フローティアはうすうす気がついていた。本当に自分が黒剣と一体化したのなら、こんな物事を冷静に考えている余裕は無いはずなのだ。

 「わたしは……」眼をあけた。正確には、意識が戻った。振りかざす手を止め、今はハンマーと化している家宝の剣を見た。脚を緩めると、モンテヴェルディが静かに止まった。あとへ続くガリアンたちも、それぞれ止まり、集まってフローティアの周囲へ陣取り、息を吐き、首をかしげたり、長い舌を垂れたりした。

 「わたしは、聖導皇家の究極の成果。その最後の血脈。でも……わたしは代理なんだわ」

 そう悟った瞬間、ゾッとした。今まで自分を護ってくれているとばかり思っていた家宝の黒剣は、自分をどうしようというのか。自分に何をしてほしいのか。

 そこへ、追いついたものがいる。マーラーだ。屋根の上より、飛鳥となって、跳んできた勢いのまま、襲いかかった。

 ザワリと髪が逆立った。フローティアはガリアンより跳び下り、迎撃体制に入った。身体が勝手に動いた。

 ガリアンたちは主人の邪魔をせぬよう、一斉に散った。大きなハンマーが高々と天へ向かって掲げ上げられ、一瞬止まり、それから吸い込まれるようにして、どおっ、と地面を打ちつけると、凄まじい縦揺れが生じて周囲の建物が崩れ、プラズマの筋がほとばしり、空気を這った。そのひとつがいまだ空中のマーラーをとらえる。しかしそれは、影だった。どこから調達したのか、放り投げられた看板がたちまち燃え尽きる。

 マーラーはしかし、着地したが、凄まじい揺れにどうにもならなかった。

 「うわあああ!!」

 ハンマーが容赦なく振り落とされる。硬い木の台を叩いたような、鈍く重い、腹の底へ響く音が岩盤を通り抜けるようにマーラーを襲う。「ぬああああ!!」雄叫びをあげ、フローティアは連続してハンマーを振りかざし、重力へ逆らわずに一気に落とした。反動で、自分の身体が跳び上がる。マーラーはまさに転げ回って逃げた。さしもの彼とて、腰が抜けたように立ってもいられなかった。まして、このフローティアと戦えるものなど現代に存在するのか。フローティアは鬼神のような形相となって、牙をむき出し、眼を青白く光らせ、サイレンのように唸り、マーラーへ襲いかかった。「とっ、とんでもない、ばあさんよ、に、人間じゃない、こいつは、にっ、人間じゃない!!」マーラーは眼を回した。この勢いでは闘技場の解放を待たずして、地下都市は天井が崩落し埋まってしまうだろう。そして真上の地上都市も何千という人と共に、奈落の底へ落ちるのだ。

 フローティアは怯えるようにしてハンマーを振り上げ続けた。彼女は大地の揺れる轟音、雷鳴、そして次々に建物の瓦解する音ではなく、自分の振り回すハンマーについているカウベルの乾いた音を聴いていた。この澄んだ素朴な打楽器の音色が、心の奥まで染みた。

 運命の最後の一打は、しかし、これまででもっとも弱かった。フローティアはいきなり何かに恐れ戦き、崩れるようにして柄より手を離した。

 「……わたしは、人間です!!」泣きそうに叫び、座りこむマーラーを見つめた。瞳が戻っている。あの怒濤の攻撃の中で、彼女はマーラーの叫びを聴いていたのか。二人の眼が合った。

 「……」余震が続く中、マーラーは今が好機と判断した。すでに、動いている。

 「御免!!」

 左手で刀と鍔を押さえながら、飛び掛かりつつ、右による掌底でフローティアの顎を打った。手加減はしなかった。なぜなら、岩でも打ったような衝撃が逆に手へ返ってきたほどだった。しかし、フローティアはのけぞった。瞬間、刀を返し、ほぼ垂直に、逆袈裟に抜刀して居合で斬り上げた。神業の見切りで、切っ先が服を裂いた。サッと服の生地が切れ、黄金の首飾りをとらえた。鎖が切れ、ほぼ真上に飛んだ。小さな金メダルのペンダントトップが、きれいに、真っ二つになった。

 そして、割れたメダルから、大量の真紅の液体が吹き出た。それは血液だった。赤い液体は、シャワーのようにしてフローティアへ降り注いだ。

 「ギャア!!」フローティアが悲鳴を上げる。焼けただれるようにして、異臭を放つ青みがかった煙が上がった。

 「うわあっ……」フローティアは真紅の液体をまともにかぶった顔をおさえ、のたうった。マーラーはよく観た。全身にひっかぶった液体が、徐々にフローティアの肉体へ染み込んでゆく。それは地面を浸している分もそうで、水が流れるのと逆に、フローティアへ染み込んでゆく。フローティアが海綿のように、液体を吸っていた。

 「なん……」マーラーは震えた。眼をまんまるに見開いて凝視した。リピエーナが云うには、あの黄金のメダルには、吸血鬼王自身の血液が封印・保存されているとのことだった。その血をもって、古代の暗黒皇太子の血をおさえられるかもしれないという、あくまで推測だったのだが、その推測は当たっていた。毒をもって毒を制すということか。年寄りの云うことは聴くものである。しかし、いま、マーラーが驚いているのは、眼前で起こっている事象もさることながら、吸血鬼王の血は赤かったのか、という事実だった。

 「魔導王より生じた聖導皇家究極超人の血が黒く……真の魔属の王の血は……人間と同じ赤……だって……?」そのマーラーの脳天をハンマーが直撃した。黒剣が勝手に動いたのだ。マーラーは一撃で倒れ伏した。見開いていた眼から火花がでた。

 大槌は再びつるぎへと姿を変え、うずくまって這いつくばるフローティアを誘うようにして眼前で剣先を下にし、短く電光を発しながら低く唸った。まるで何か語りかけているようにも見えた。フローティアはゆっくりと起き上がった。マーラーはひどい頭痛と目眩と吐き気に襲われながらも、同じく立ち上がった。フローティアの変化を見届けなければ。

 フローティアは剣の柄をとった。その顔は、先ほどまでの恐ろしいものとはちがって、ふだんの、疲れてはいるが元の表情だった。マーラーは、やや安堵した。どうやら成功したのではあるまいか。フローティアは髪をかき上げ、何度も深呼吸をしながら、確実に剣を鞘へ納めた。剣は怒っているように電光を発していたが、ついには完全に鞘へ入ってしまった。それを見届け、マーラーはやっと気絶した。大の字になって倒れた。フローティアが近寄り、抱きかかえてなにやらものを云っていたようだったが、意識が混濁し、聴きとれなかった。


 「おい、おーいッ、フローティア!! フローティアはいずこか!!」フルトは瓦礫をかき分け、進んだ。けが人が続出していたが、よほど重症の人間をのぞき、呪文は唱えなかった。もっとも治療の神聖術は彼の得意とするところではない。むしろ、その大剣を梃子にして瓦礫を除去し、倒れかかっている危険な物件を破壊して安全にしてしまうほうが彼の得意分野だった。道を進むごとに、家屋の倒壊はひどかった。しかし揺れはもう無い。

 「フルト、フルト!」

 「おおーっ、うおっ、わおおおおーッ!!」

 フルトは叫んで、駆け寄った。涙が出てきた。聖剣を打ち捨て、瓦礫の中を走り寄り、フローティアを迎えた。途中で三度も足を取られて転んだ。

 「ちょっとだいじょうぶ、フルト」

 「こっちの台詞だ、ばかやろう!!」

 二人は思う存分に抱き合い、肩を叩いた。

 「どうやって戻れたんだ」フローティアは答えなかった。覚えていない。何か知っているはずのマーラーは、まだ倒れている。起きないから置いてきたのだ。運ぼうにも大の男を抱える体力は残っていなかった。早く助けを呼んだほうが良いと思ったのだ。フルトは目敏く、フローティアの服が大きく裂けていることへ気づいた。ジャケットを脱ぎ、着せてやった。フローティアは初めて、服の前が大きく別れていることへ気づいた。

 「……」フルトはしかし、ちゃんと観察していた。フローティアの白い肌には、まるで傷がついていない。服は、ほぼ全身が血まみれであるにもかかわらず、だ。このような手練、剣の切れ味、彼の知るところ、このカルパスで一人しかいない。

 「あいつにまた貸しを作ったようだな」フルトはマーラーの顔を思い浮かべた。「しかし……こりゃ、もう、ストアリアも何もねえ。連中は帰っちまったろうよ。街はほぼ壊滅した。任務は成功か、失敗か。こりゃア……オレたちも逃げるが勝ちだぜ」

 フローティアは呆れた。脱出した者も多いとはいえ、まだ被災している人がいる。しかも、原因は自分だ。

 「わたしたちも、何か手伝わないと」

 「だめだ」フルトは厳然と言い放った。冷たいとフローティアは思った。

 「オレたちにできることをするんだ。いま、怪我人を助けることは誰にでもできる。残っている街の者にも」

 「じゃあ、わたしたちは何をするっていうの? 今ここで地面へ伏している人たちは……わたしのせいなのに」

 「ばか、誰のせいでもねえ」

 フローティアは街を見つめた。その眼はあくまで深く、厳しく、遠かった。

 「ちがうわ。わたしがやったのよ」

 「……そうか。そうだとしても、いま、おまえに何ができる? 残ったところで、何人、助けられる? いますぐ上へ行き、マリオの旦那へ報告だ。ルキアッティから人を派遣してもらう。アンダルコンをな。連中にまかせる。連中は専門家だ。知ってたか? 魔導災害救助も連中の仕事なんだぜ。戦場の後始末と同じことだからな。オレたちは、魔物退治は専門だが、人助けは専門じゃあねえ……規模が大きければ尚更だろう。ここでは組織だって動けないと、しょせんは素人なんだ。早く、上から都市軍を呼んでくるほうが、いま残って何かするより結果として人を助けられると思う。何人かは下にも軍属の情報屋がいただろうが、あてにはならねえ。いま動ける者が動かないと」

 フローティアは諒承した。異を唱えるほどの意見も根拠もない。云われれば、自分もマーラーへ同じことをした。ここは、上司の判断に従うだけだ。

 「で、どうやって上へ?」

 「それはこれから考える」

 フローティアは二度、呆れた。そこへ、見慣れたガリアンの子が瓦礫の上を転がるようにしてやってきた。

 「モンテヴェルディ……」フローティアは不思議だった。たしか、巨大に成長した筈だったが。

 モンテヴェルディは、ただ、舌を出して甘えるだけだった。他のガリアンたちも、何処かへと去ってしまったのか。

 ふと、ガリアンが走り出した。二人は無視したが、やや行ってから振り返って待っているので、導いていると思われる。フルトは大剣を拾い上げ、後へ続いた。フローティアもそれへ続く。二人は直感がした。結果は二人の期待どおりだった。街外れの荒野で、ひっそりとした岩影に何十頭ものガリアンがいた。ガリアンたちの後ろには大きな洞穴。地上へ脱出する人間は一人もいない。ここは、彼らだけの隠し通路だ。

 さすがのフルトも、この数の大小さまざまなガリアンは初めて目の当たりにした。漆黒の軍団と瞬きで明滅する赤い眼光は、すさまじい迫力だった。しかしフローティアは慣れたものだ。コルネオ山で体験済なのだから。

 ガリアンたちは連れ立って、順序よく通路を通った。二人は静かに、ガリアンたちの最後に洞穴へ入った。真っ暗だったが、二人とも暗視の術があった。道はすべらかで、足元は安全だった。ガリアンの荒い息づかいと、ときおりチラリチラリと振り向いて赤く光る目玉が、道しるべだった。

 非常に緩い坂が螺旋状になっているのだろうか、不思議なもので、まるで平行な道を通っているとしか思えない感覚がしばらく続いたが、ふいに地上へ出た。

 カルパス郊外の田園地帯。大きく迫り出した丘の下、人家より死角となっている場所に穴があいていた。畑へ出ると、大きく伸びたまさに小麦色の夏小麦は、刈り取りを待つばかりだ。時刻は、意外や夕刻だった。畑は風にざわつき、いっせいにものを云っているようだった。その音の中へガリアンたちは一頭また一頭と消えて行った。アデルナの大地を再び彼らが走るのだ。フローティアは不思議な気分でそれを見送った。彼らは人々に恐れられ、退治される古い魔獣なのに。

 二人は無言でそれらを見送った。モンテヴェルディも、名残惜しそうにして行ってしまった。それから、自分たちも静かにカルパスへ戻った。


         5


 二人の仕事はまだ終わらぬ。騒然としているカルパスを走った。地震の影響だと思われた。地下よりは被害は少なかったが、それでも建物の屋根や尖塔の飾りの巨大で荘厳な彫刻群が軒並み落ちていた。地震など千年に一度あるかないかのこの地域では、屋根の上の彫刻の飾りはただ置いてあるだけなのだ。崩れもする。ペスカも環状馬車も、混乱の中で止まっていた。ここは何区なのだろうか。

 「動けるペスカを探せ!!」フルトが叫んだ。フローティアは何台かのペスカへ声をかけたが、無人だったり、御者がいても自分が逃げるために断られたりし、家族を乗せているものもいた。みな、避難する最中なのだ。どこへ避難するのかは知らないが。その中で、一台が通るすぎるのをフローティアは目敏く発見した。知り合いだ。

 「レオナルド!!」元ハンテールで、魔物に負け、いまは御者をしている。彼はふとしたことで彼女と知り合った。魔物にやられ、顔が大きく崩れているので発音も苦しく、けして人前ではフードはとらぬ。それが逆に彼と分かる。レオナルドのペスカは見事な急ターンをかけ、一直線に近づいてきて急停止をかけたが止まりきらずに中速でフローティアの前を通りすぎた。そのまま御者台で叫ぶ。

 「おほろぃひを!」

 フローティアは走り寄り、ドアを開け、跳び乗った。「フルト、こっちよ、早く!」フルトはペスカの中には入らず、そのまま馬車の後ろから屋根へかけ上がった。「アンダルコンの本部だ!!」

 ペスカが再びスピードを上げる。荷車や他のペスカ、走り去る人を縫うようにして走った。フルトが天井へ上がったのは理由がある。人々をかきわけ、道を探るためだ。レオナルドの手綱さばきは、それは見事だった。

レオナルドが通りかかったのは偶然であったが、フローティアが彼を見つけたのは偶然ではなかったのかもしれない。暗がりの中で、通りすぎる何台ものペスカの中からレオナルドの車両を一発で発見したのだから。

 その暗い空を、カルパスじゅうの魔物たちが飛び去っていた。動く石像、大カラス、巨大蛾、メカ魔物、そしてバレンの生き残りに翼を持つ人間を食うさまざまな魔物、幽鬼の類で暗闇に人の心を食う魔物の数々。人の呪いや妬みや憎しみが凝り固まって何かへ取り憑いた魔物、など。みな、とにかく街から出て行っていた。理由は分からない。高いところよりよくよく見れば、地面とて似たようなものだった。人々は魔物にまじり、押し合いへし合い、魔物へ蹴躓いたり、魔物を踏みつぶしたりして逃げまどっている。何か流言でも飛び交っているようだ。もしくは、何か魔術にでもかかっているのか。そしてふだんあれほど魔物を恐れているというのに、いまでは魔物たちがまるで眼に入っていないか、共に逃げる仲間として映っているとしか思えなかった。フルトは無常観を覚えた。

 「魔物も人も何も変わらねえ。オレたちゃ魔物を退治しながら、本当は人間を退治していたのじゃねえのか」

 そうは云っても馬車は走る。風があたる。

 路地を曲がり、段差を超え、坂を上り下り、区画を超えてペスカは走った。一刻ほどもして、彼らは臨戦態勢の大きな建物へ到着した。松明が掲げられ、旗がなびき、平時は開けっ放しの門は固く閉ざされ、しかし、衛兵の姿はなかった。通りは人が川のようにして流れている。それをかき分け、ペスカは到着した。

 フルトがまずペスカの屋根より飛び下りて、門を叩いた。フローティアも続く。レオナルドは心得ており、邪魔にならぬよう、人込みの中で、ペスカを手際よく塀まで寄せた。

 「おい、開けろ、開けろってんだ!!」

 フルトは門を蹴飛ばした。しかし(当たり前だが)びくともせぬ。「大事な話だ、開けろ、クルタイトから来たばかりだ!!」返事は無かった。

 「どいて」

 フルトが振り返り、一気に肝を冷やした。フローティアはその細い身体で、フルトが持って使用するような巨大な長柄の両手持ちハンマーを高々と上げていた。

 「なんだ、そいつは!!」フルトはすぐに理解した。それが、まさか、例の、地震の。

 「お、おい、ばかな真似は……」

 「こういうときに使うのなら、意外に便利なものだわ」

 乾いたカウベルの音がして、トーテンタンツが横殴りに振り回される。見る間に、重く空気を裂く音といっしょに槌頭が門へ激突した。瞬間、鈍く斧で切り株を打ち込んだような大音量を発し、幾重にも鋼鉄で梁をし、厳重な神聖呪文で護られたアンダルコンの門が、一発で吹き飛んだ。

 「オオオッ!」フルトは歓声を上げ、沸き立った。「まるで攻城兵器だぜ!! おい、見せもんじゃねえ、行け!!」立ち止まって面食らっている市民を怒鳴り散らし、フルトはフローティアを引き連れ、敷地内へ突入した。敵襲と勘違いした兵士や騎士達が目を回して転がるように飛んできた。無理もない。

 「アンダルコン総司令、ヴェルディ伯爵はおられるか、ウガマールのハイペリアスにしてアデルナのエクソイル、鷲の銀十字、ヴォルフガング・フルトヴェングラー卿が火急の用がある!」

 フルトが戦場で発する大音声を上げた。その声の大きさに後ろに控えるフローティアが驚いたほどだ。兵士たちはいっせいに立ち止まり、あわてて取って返した。あの発声法は、騎士にしか伝授されていないものを彼らはよく知っている。つまり、フルトは、本物のフルトだということだ。

 すぐに何人かのアンダルコン騎士がやってきた。中にはフルトの顔見知りもいる。すぐに中へ通された。中では、地上の異変への対処と、ストアリア攻撃のための出陣との判断がつかず、地下よりの情報員の帰りを待っていたのだ。

 「いくら待っても来ねえぜ」フルトが事細かに説明をした。ただし、彼の見知っていることのみである。フローティアのことは、彼は知らぬ。

 かくして、アンダルコンは地下都市の現状を知り、臨戦態勢を素早く解き、救助へ出動した。ストアリアとの衝突は避けられたが、街の被害は甚大のようだ。フルトが説明している間、後ろの席へ控えていたフローティアは、ヴェルディ伯爵が自分をその深い眼で厳しく見つめていることへ気づいた。フローティアは目をそらし、うつむいた。ヴェルディ伯爵は、何も追求しなかった。


 それから二週間ほどは、アンダルコンは地上と地下とをひっきりなしに行き来した。もちろん街道警備の第一軍からも応援が来た。けが人の搬送、物資の搬入。それら業者の監視。カルパス政府は、表向きは地下都市を認めていないので評議会も市役所も何もしなかった。ただし、裏では被害状況の把握や復興への計画策定などの行政事務に追われた。

 それにより判明した人的な被害は、想像していたよりは、ずっと少なかった。が、人口一万のクルタイト住民の内、被災者は三千人を数えた。それでも約七千人は無事に脱出したのだ。あの短い時間の中で。奇跡を通り越し、恐怖すら覚えさせる数字といえよう。古い脱出の魔術やルートを復活させた者もいたにちがいない。かつて、ついにクルタイトへ聖導皇家が攻め込んだときのように。

 建物の損壊率も、フローティアの周囲のみはさすがに全壊だったが、あとは見た目より少なかった。とはいえ、崩れ、かしいだ家に人は住めぬ。都市計画により全て撤去・整備され、街は生まれ変わるだろう。

 後日、伯爵はチームを組んで重装備のままアバートへ探査にでたが、ストアリア軍は跡形もなかった。施設も、何もだ。痕跡すら無かった。


 敗残兵となって生還したクーゲルシュライバー大佐の報告に、カラヤン教授は、咎めも何もせず、むしろ予期していたように嬉しそうにしていた。

 「つまり、あとは精神の問題だ。古代の聖導皇家ではそれを解決していた。彼らは人の心など持ってはいなかった。知っているかね、人間の頭脳には、感情を支配する部位が存在するのだ。そこを制御すれば良いだけだ」

 その心の底から楽しそうな笑みは、どんな魔導よりも魔導らしいと大佐は思った。教授はさらに続けた。「ヴァーグナー君が命を賭して集めてくれた、暗黒血液。これを、早く本国で研究しなくてはね……」大佐は初めて、ヴァーグナーのことを知った。

 「た、大尉は、ヴァーグナー大尉は、戦死……したのでありますか? その……まさか、暗黒の稲妻に?」

 「名誉の戦死だよ!!」教授が叫んだ。「きみが時間を稼いでくれたおかげで、すばらしい血液サンプルを採集することができた! それさえあれば、用は無い」

 大佐は、皇帝軍も帝国軍も、自分たちがただの捨て駒であったことを、いまさらながらに痛感した。

 大佐はフルトに殴られて折れた牙を拾い、ずっと手へ握っていたが、カラヤンのテントを出て、それをごみ箱へ投げ捨てた。結局は、自分たちは国家ではなく、あの教授のために働いていた。ヴァーグナーもそのために死んだ。

 その日の内に、彼らは完全に撤収した。大佐は軍人を辞めようと決意した。


 トリーナとセルジュは、街を徘徊しているところを復旧活動の真っ最中であるアンダルコンに保護され、フルトとフローティアが事務所へ帰ってより三日後ほどに、帰ってきた。地上からは連絡がとれず、心配していた。セルジュは、最初フローティアを怯えて見つめたが、フローティアが抱き寄せて背中を撫でてくれたので、泣きだしてしまった。トリーナはとにかく、フローティアといつまでも握手をした。その眼は、黙っていても止めどなく涙で濡れた。彼らの言により、マーラーは行方不明である事が判明した。彼らは揺れがおさまった後、マーラーを探しに街を歩き回り、マーラーとフローティアの戦いの場へも到達したが、すでに彼はいなかったという。

 半月ほどし、落ち着いてから、彼らはようやく事務所の仕事を再会した。退治はまだ始められないだろう。最大のクライアントであるマリオがまったく慌ただしい。フルトが手がけぬような小さな日常の退治は、街のハンテールがそろそろ戻ってきて混乱に乗じる魔物を排除するのに忙しかった。しかし、何より同じく混乱に乗じる人間の盗賊や殺人強盗などの略奪者を取り締まる都市警察の出番が異様に増えた。彼らは違法滞在者やハンテールの成れの果てなど、食い詰めものが殆どだった。いまや市民は、魔物よりも同じ人間へ怯えている。警察署が臨時で警察官の募集をし、続々とハンテールが応募しているというのも、奇妙な現象に思えた。

 「わたし、そのうち、あの人へご挨拶に行かなくちゃ」

 フローティアは、自分のあの場の状況をどうしても知っておきたかった。あの自分と似た黒い髪に見慣れぬジギ=タリス武器を携えた人物が自分へ何をして、自分は狭窄した自我より解放されたのか。それを知りたかった。分かっているのは、リピエーナからもらった金のペンダントが失われていることだけだ。

 「どこにいるのか、分からねえぜ」

 「探せば、そのうち見つかるわよ」

 「まあ、そうだな」フルトは、書類の仕事をしに執務室へ入った。マーラーとはそういう人物だと知っていた。いつも何処よりか現れ、何処かへと消えてゆく。フローティアもしばし身体と心を休めることとした。セルジュは、前より少し大人びた顔となって、台所で夕食の準備をしていた。


 その、二十日ほど後のことである。

 フルトは、連日ひっきりなしに出かけていた。アンダルコンへ行ったりマリオと会ったりしているらしいが、詳しいことは聞かなかった。トリーナからも連絡はこぬ。フローティアは特段、仕事が無く、リピエーナの呪文集を久しぶりに取り出して事務所へ持ち込み、ずっと読み耽っていた。街はまだ騒がしい。

 相変わらずリピエーナの書いた古いアデルナ語は難しかったが、意味は理解できた。中でもここにきて理解し、感嘆したのが、これもリピエーナよりもらった旧アデルナ王国の金貨三枚だ。もらった経緯はよく記憶していないが、たしか無理やり渡してくれたような気がした。つらつらと書かれている呪文の中のひとつに、以下のようなものがあった。三つの金の楯とでも訳せば良いのか。古い小さな純金の塊を三つ、それを核とし、強力な楯を一瞬にして神聖力(あるいは魔力)で形成するという、まあ、戦いには便利な呪文だった。特に、楯を持たぬ駆逐騎士たるフルトや、楯を使えないフローティアにはもってこいの呪文ではないか。それも、呪文の腕が上がると、ただ眼前へ形成するだけではなく、それを己の周囲を廻らせて、自動的に防御させるという離れ業も可能だった。

 「便利なものねえ」フローティアはさっそく、練習してみることとした。古い金であればあるほど楯の質もよく呪文も成功しやすいということらしいので、フローティアはリピエーナの金貨をさっそく取り出そうとした。しかし、まるでどこへしまったか覚えていないことに、いま気がついた。「……?」頭をできるだけ捻って思いだそうとしたが、無駄だった。自分の数少ない部屋の荷物の中にあると考え、いったんアパートへ戻ることにした。経理の書類を書いていたセルジュへその旨を伝え、でかけた。アパートは事務所よりすぐなので、時間もそうかからぬはずだった。重ね着をし、黒剣を装備し、秋雨のちらつく湿った風をフード付マントで遮りながら、小走りに進んだ。冷えたアパートへ帰り、少ない自前の荷物のうち、旅装の二重底や、ポケットの隅々まで探したが、隠しサイフの中にも、どこにも、リピエーナの金貨は無かった。

 「おっかしいなあ」フローティアは、自分はこんなに物覚えが悪かったかと嫌になりつつ、本当のことだったのですぐに納得した。そして閃いた。ノーノの店である。こっちで稼いだ金といっしょに預けてしまっていたような気がした。記憶はまるで無かったが、それしか思いつかぬ。

 フローティアは再びマントをつけ、見知らぬペスカを見つけると乗り込んでノーノの店の本店へ向かった。彼女は意識していないが、乗合馬車へ比べてかなり割高のペスカを日常の用事で使うというのは、稼いでいるハンテールの証拠だった。御者は、フローティアをちゃんとそういう眼で見ていた。

 「また、お稼ぎになった金貨を預けるのですか? ずいぶんと強い魔物を退治されたのでしょう? 街がこんなに乱れている中、お若いのに……有り難い話でございます」フローティアは気分が悪くなった。最後のは皮肉か? いったい自分は、何も知らぬ人々に尊敬され、あるいは憧憬され、あるいは妬まれるほどのたいそうなことをしてきたのか。無言のフローティアへ遠慮し、御者は、それ以上は何も話さなかった。馬の蹄の音と、馬車の車輪が石畳を噛む音だけが、車内の彼女へ聴こえた音だった。何度か、都市警察が無宿人をしょっ引くのを目撃した。治安の悪化は今や魔物よりも人間の犯罪者のほうが深刻だ。

 しかしフローティアは見抜いていた。彼らを先導している魔導士の存在を。いつぞや彼女が会ったギャングたちとて、組織の上の方では魔導士がちゃんと幹部として存在し、魔獣や魔導薬等の物品の販売を管理している。

 どちらにせよ、ガリアンやマンティコア、ドラゴンやガウクなどのいわゆる魔物・魔獣などというものたちより、恐ろしいのは人間なのだった。

 ペスカは何事も無く金融街のノーノの店へ到着した。心なしか通りは以前より混んでいるように思えた。店へ入ると、すでに上得意のフローティアは恭しく迎えられ、別の顧客とはあからさまに異なる対応と接待を受けた。フローティアはこれも、何か自分には不似合いで不釣り合いな世界にいると強く感じた。別室へ通され、忙しい筈の店長のノーノ氏が直々に相手をしてくれる。本来ならば店内は武器類の所持を固く禁じられているが、黒剣はすでに預けなくても良い。美人の秘書が最高級のコーヒーを入れてくれる。

 いつ座っても座り慣れぬフカフカの最高級ソファへ浅く腰掛けながら、フローティアはつぶやいた。

 「あの、以前、預けた……」

 「物品庫のほうでございますか?」

 ノーノはすぐに金庫より彼女の預けている品物を持ってこさせた。「いまは、この四点でございます。古い真のアデルナ金貨が三枚と、こちらの細工物は、以前クルタイトの出張所でお預かりに。すばらしく高価なものですので、勝手ながら本店のほうへ移させていただきました」

 フローティアはやっぱり金貸はここにあったか、という想いと、同じくすっかり忘れていたトンボの細工物を思いだして唖然とした。たしか、バーバラとかいう魔導士(と、彼女は今でも思っている。)からもらったウガマールの細工物だ。銀細工のようにみえるが、これはおそらく古いプラチナだった。そして目玉と羽の部分にある巨大なルビー。

 「このアデルナ金貨も、魔導王国時代の遺跡より発掘されるものよりもっともっと貴重な、昔の魔導士の家へ代々伝わっているようなすばらしいもので、わたくしめも初めて見るものでございます」店長は興奮して話をした。魔導士の家どころか、魔導士本人からもらったと云えば店長はどのような顔をするだろう。フローティアはおかしかった。しかも三枚しか今は無いが、リピエーナの家にはこれがザクザクとあるのだ。「そしてこのウガマールの細工物も、わたくしの鑑定したところ、たいへん貴重な、聖導皇家へ伝わる真物ではないかと」フローティアはなんの興味も無かった。「両方とも、お持ちになられますか?」フローティアはつい、答えた。「あ、ええ、はい。持っていきます」

 「換金された暁には、ぜひとも、またわがノーノの店へ……」店長の狙いはそれであった。店にとって、宝物などいくつ預かってもささやかな預かり料を得られるだけで、盗まれたりしたらリスクは大きいし、たいして有り難い話ではない。キャッシュが全てだ。

 「そうだ、フルトにまだ見せていなかった。聖導皇家へまつわる財宝なら、何か知ってるかも……」それは、しごくまっとうな思いつきで、そのことを誰も責めることはできないだろう。

 金貨と細工は箱に入れられ、フローティアはそれを抱えて店を出た。店の前では先ほどのペスカがわざわざ待ってくれていた。フローティアは事務所まで送ってもらい、三アダーのところを、奮発して一アレグロ与えた。御者はこれを待っていた。私用でペスカを使うようなハンテールは、払いもちがうのだ。金の使い方を知っている。ていねいに礼を云い、ペスカは早い夕暮れの中へ消えた。

 フルトは戻ってきていなかった。マントと黒剣をかけ、寒かったので暖炉へ松の薪を入れて、湯を沸かした。コーヒーでも飲もうと思ったのだ。セルジュはまだ書き物をしていた。そろそろ夕食の準備をはじめる筈だった。フローティアは箱を開け、細工物と金貨をテーブルの上へ置き、呪文集を開いた。呪文は簡単なもので、あとはいかに素早く所定の神聖力や魔力を集めるか、というのがコツのようだった。実戦で使う呪文というのは、えてして、そういうものなのだろう。

 フローティアは何度か呪文を口ずさんだ。金貨はなんの反応もせぬ。当たり前だ。神聖力を何もこめていない。

 そこへ、フルトが戻ってきた。「おい、暗い中でなにをしている。明かりをつけろ」

 「おかえり。フルト、これを見てよ」

 フローティアはさっそく、細工物を掲げた。フルトはランタンへ火口箱より火を移していた。振り返って、鈍い灯の中へ浮かび上がってオレンジに光るトンボ細工を見た。

 「………」

 「知ってる? これ。古い、ウガマールのものらしいのだけれど」フルトの答は無かった。フルトは、凍りついたようにそれを凝視していた。その人の変わったような形相。本能的に、フローティアは嫌な予感がした。「どうしたの」

 「そっ……」フルトはもう、小刻みに震えていた。「そ、そっ、そっ、それをッ! いっ、い……いったいどこで手に入れた!!」

 「なっ、なによ、いきなり大声だして」

 フローティアはますます嫌な予感、いや不安に襲われた。フルトの様子があからさまにおかしい。「な、なんなの、これ……」

 「そっ、それは……」フルトはもう自分の精神を抑える事はできなかった。アタマの中で、プッツリと何かが弾ける。「それはああーッ! ヴェーベルン家の相続人しか持つことを許されない、聖なる蜻蛉だああーッ!! ほおッ、ほ、本物か!? まっ、まさか、そんなバカな、バカな、バカな! な、なぜそれが今さらオレの前にある……」フルトは笑いだした。「ばかばかしい、ありえねえ、なんで……なんで……」涙があふれる。

 フルトは、もはやおびえて固まりついたフローティアより、ガクガクと震える手でトンボを奪いとった。そのまま、穴が空くというほど見つめていたが、ついに全身で震えだした。

 「ほ……本物……ホンモノッ、ホンモノだああーッ!! ホンモノのおおーッ!! ウオオーッ、おああああ!! フローティアーッ!! 貴様ッ、いつどこであいつと会った!! あいつは、あいつはどこにいる!? きさま、なぜそれをオレに黙っていやがったんだあーッ!?」

 フローティアは跳び上がって息を飲んだ。「あッ、あ、あいつ!? 誰!? なによ、いったいなにがどうしたの、お願い、お願いだから、落ち着いてちょうだい……!」

 「バ……!!」フルトは歯を食いしばり、吐き出すように云った。「バーバラ……バーバラ……フォンヴェーベルンだ……!!」

 「あっ…!?」

 そのフローティアの表情を観て、フルトの目つきがさらに変わった。「……やっぱり知っているのか……どこだ、あいつはどこにいる!! おいーッ、カルパスの、どっどっ、どこにいるんだーッ、教えろ、教えろおおおーッ!!」

 「し、知らない…!」フローティアは何を云っても無駄だと思った。瞳孔が開き、目の色が変わっている。自分を見ているようで、見ていない。まるで錯乱の呪文にかかったようだ。いや、これは。

 フローティアの脳裏というか、耳の奥というか。バーバラの高笑いが響いた。「……あの女ァッ……」音が出るほど奥歯をかむ。「こうなると分かって……!! こんなもの、呪いのブローチじゃない!!」しかし、もう、どうしようもない。これほど強力な錯乱の呪いへの対抗呪文は、彼女は会得しておらぬ。

フルトは殺気だった眼で唾を飛ばしながら荒く息をし、ジリジリと詰め寄った。その分、フローティアは後ずさった。「どっ、どこだ、あいつはどこなんだ!! てめえ!! 隠しだてはゆるさねえ!! 早く、早く教えろ、教えやがれ!!」

 「か、隠してなんかないわ! 本当に知らないのよ、落ち着いて、落ち着きなさい、落ち着け、フルトヴェングラー!!」

 フルトの顔つきが変わった。笑顔だ。「お……おまえ……そうか……やはり……ヒヒ……最初から……ククッ……」フローティアは涙が出てきた。フルトは拳を握り、うつむいて震えだした。神聖力が一気に収束する。そして爆発した。「やはり……やはり仲間だったのかあーっ!! やはりいッ!! きイイさままアアア!! はじめから、そのつもりでえーッ、オレへッ!! やややはりいイイーッ!!」フルトはやおら力を解放し、手当たり次第に机から椅子から、戸棚の中の物まで倒し、殴りつけた。「イイーッ、イああッ、あッ、わあッ、わああーッ、があッあッあ、あ、あ、あああ!!」フローティアは怯え、眉をひそめ、逃げようとした。フルトはもういつもの彼では完全にない。完全に錯乱している。錯乱の呪文だ、錯乱の呪いである! 両手に神聖力を集め、レンガ壁をも砕いた。あれに殴られたら、フローティアの頭など西瓜のごとく粉砕されるだろう。

「ちょおっ、ちょっとおッ、元に戻って、お願いだから戻ってちょうだい!! 戻れ!!」フローティアは泣きながらおびえて叫んだ。フルトは聞く耳も無かった。そしてついに、彼は呪文を唱えた。いま、唱えてはいけないはずの呪文を。

 「バッ……バカ、なにやってんのよ……! それは、それを出すにはわたしの……」

 拡げられたフルトの両手の光が帯となり、フルトは室内へ大剣・鷲の銀十字を召喚した。

 許可無く。

 「おおがらああああ!!」横なぎに、部屋の全ての物体を破壊しながら、大剣の一撃がフローティアを襲った。フローティアは無意識に呪文を叫んだ。瞬時に、リピエーナの金貨が飛んで、こちらも強烈な△の鈍い緑色の光の楯をフローティアの前で形成した。神聖力と神聖力がぶつかり合い、轟音と衝撃を発して、窓からなにから吹き飛んだ。二人とも床へ転がった。フローティアは急いで起き上がった。フルトの剣をとにかく納めさせなければ。なぜならば。

 「ウガマールの呪いが! 三つの死!! フルト、早く、バカ、バカ!!」

 フルトは立ち上がり、再び大剣を持ち上げた。

 とたん、である。

 天井を貫いて、フルトを落雷が襲った。爆発し、電撃に貫かれ、フルトは悲鳴も無くひっくり返った。まだ大剣は手放さぬ。そしてゆっくりと起き上がった。そのフルトの身体が、バリバリと音たてて裂けはじめた。真っ赤な液体が吹き出し、ここで初めてフルトは凄まじい悲鳴を超えた絶叫を発した。フローティアはその凄惨な光景に、凍りつき、もはや声も無い。

 しかも、血しぶきの油へ引火したように、フルトは見る間に燃え上がった。その生きながら焼かれる苦しみに、さしものフルトもしばし悶絶の後、ドッと床へ伏してしまった。フローティアは泣きながら、ただ、濡れた小犬のように震えていた。そして、ふと気がつくと、居間へ通じるドアのところにセルジュがこの世の終わりでも見たような顔をして立ちすくんでいた。はたと、二人の目があう。

 「…ドゥンケル……ブリッツ!!」

 「ちっ……ちが……!」

 フローティアは再び声を呑み込んだ。フルトが、死体が蘇るようにして立ち上がってきたのである。「……に……が……さ……ね……え…え………!!」その、炎に光る血の目! その狂気に満ち満ちた眼を観た瞬間、フローティアは全身に寒けが走り、こちらも、頭の中で何かが弾けた。

 「うわあああーッ!!」恐怖に何もかも吹きとび、無我夢中でフルトを蹴り倒すや、そのまま事務所を逃げだした。


 松明役人が順番に通りの松明へ火をつける横を、その火に怯えるようにしてフローティアはとにかく走った。走って走って、区画を超え、心臓が爆発で止まりそうになったころ、闇におおわれるカルパスの郊外まで来ていた。目の前には、森と荒れ地と畑しかない。何かを吐き戻し、フローティアは枯れ草の中へ仰向けに倒れこんだ。冷たい空気に肺が裂けそうだった。楯はまだついてきていた。フローティアの集中力が消えたのか、ようやく闇の中で楯は金貨へ戻った。フローティアは半刻ほどもそのまま呼吸と精神を落ち着けていたが、まだフルトのあの眼がまざまざと脳裏へ浮かんで震えた。フローティアは胸の上へ落ちた金貨をつかみ、目をつむった。何が、いったい、どうなったのか。彼女も混乱の極みにあった。

 そのフローティアの頬を何かが舐めた。動物か。フローティアは驚いて勢いよく起き上がった。闇に光る、赤い眼。

 「モンテヴェルディ!?」魔狼の子は、懐かしそうにフローティアへ甘えた。そして彼女は、いつの間にか黒剣を握っていることに気づいた。黒剣は、彼女へついてきたのだ。モンテヴェルディは黒剣の匂いをかいだ後、荒れ地を歩きだした。フローティアは言葉も無くそれを見つめた。魔狼はしばし行くと、振り返って低く鳴いた。

 「……行こうっていうの?」フローティアは静かに立ち上がった。黒剣を握りしめ。彼女は分かっていた。そして忘れていた。自分は、カルパスでハンテールとして生きてゆくためにここへ来たのではない。この剣の真の所持者である兄を探さなくてはならぬ。そして黒剣もそれを望んでいる。剣が自分を助けるのは、兄とめぐり会うために自分を利用しているだけなのだ。

 が、それでも、旅を続けなくてはならない。

 もう、カルパスは振り返らぬ。今はモンテヴェルディがいる。この街が、旅の終着点ではなかったというだけだ。これは、アデルナで起こる事のほんの始まりなのだろう。

 フローティアは、荒野に深く蓋をする夜の中へ、消えた。

            了







つづく


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