松下眞一(1922−1990)
作曲家であり、物理・数学者でもあったという松下。学者としての功績は残念ながら門外であるので述べられないが、作曲家としての功績のほうも、それほど省みられていないのが実情だろうか。室内楽のCDは実は私も持っていた、という程度であり、それは他の湯浅譲二や黛敏郎の作品を目当てに買った中で、松下の作品も入ってた、というほどのものであった。覚えていなかったくらいだから、作品の印象も推して知るべし、私の興味を駆り立てなかったことになる。セリエリというより、数列音楽とでもいうべきか、数学者にしか書けない音ではあるだろうなあ、というところ。
しかし交響曲となるまた別であり、知られざる邦人交響曲の世界がまたひとつ開けた。
シンフォニア・サンガ(第6交響曲)(1974)
数学や物理と古代仏教のマンダラ的世界とがどう結びつくかは分からないが、松下は深く仏教に帰依し、カンタータ「仏陀」という曲を3番まで書き、山田一雄の指揮でLPにもなっている。そっち系は普通の曲調っぽいが、聴いたことがないから分からない。
さて交響曲であるが、意外に量産しているのにまず驚いた。なんとフォンテックの該当録音は1974年のビクター委嘱よにる作曲で、1960年に3番「次元」が書かれ、1968年には既に4番「生」、5番「極」などが書かれているようで、7番まであるようだ。近年ではかなり多くシンフォニーを書いているほうだと思われる。
さてこの6番もインド仏教に深く関係しており、ソプラノ、バリトン独唱、さらに邦楽器で尺八、篳篥、笙が。合唱とソロピアノ、電子オルガン、読経が入る。3楽章制でサンスクリットによる合唱が全編にわたって響き、カンタータ風の作品。サンガとは修行する若い僧侶の集団を指すらしい。3楽章制で、50分を超える。
各楽章には副題がある。
第1楽章 シュラマナ(沙門の形成とその精神風土)
20分を超える。主旋律はすべて合唱が担当し、管弦楽は伴奏として神秘的な響きを連ねる形式。ヤサという人が釈迦に弟子入りし、悟りを開いて阿羅漢になるのだが、ヤサは部外者としてはじめてサンガに入った人としても重要とのこと。その様子をバリトン独唱が朗々とサンスクリット語で歌い続ける。ちなみに阿羅漢はぜんぶで16人(あるいは18人)いるとされる。
冒頭よりひたひたと神秘的な響きが室内楽めいて静謐に漂ってくる中、合唱が静かに入ってくる。バリトンがソロでヤサの弟子入りを歌って、さらに女声合唱が現代的な技法で仏の無限な世界観を提示。テノールも加わって、土俗的な世界と形而上的な精神世界とを融合させる様は圧巻だ。中間部では再びバリトンがヤサの弟子入りを歌う。オーケストラは緊張感を増し、いきなり尺八が。一気に古代インドから、日本の禅的な世界へ飛ぶ。後半は、女声も戻り、全体でリズム感をもって仏への帰依、サンガへの帰依を讃え、歌いあげる。そのまま、お経めいて、静かに世界が収束してゆく。
第2楽章 シーラ・トリシュナー(戒・渇愛)
悪魔の娘たち「渇愛」「不快」「貪慾」なるものが悪魔「波旬」に近づき、阿羅漢と釈迦を悪の道に誘い込むのは難しいと告白する。その後、釈迦の女性弟子ウッパラヴァンナーのアリアが、清らかな世界を歌い、悪魔との問答に発展する。10分。
まず、バスがひそひそと「シーラ(戒)」と歌い、テノールがヴィニャーヤ(律)と歌うと、ソプラノが釈迦や阿羅漢を誘う単語や物語を唱え、テンポが上がってさらに続く。打楽器の彩りも激しい。バスが「トリシュナー(渇愛)」と唱え、ウッパラヴァンナーのアリア。トランペットやティンパニなどに続いて、オーケストラが不気味な問答を支える。最後に、笙が登場して、この不思議な世界観を締める。
第3楽章 ニッバーナ(涅槃=ニルヴァーナ)
ニルヴァーナはサンスクリット語で、ニッバーナはバーリ語とのことである。邦楽器、電子音楽、読経とありとあらゆる音が交錯して巨大な音マンダラを構成し、仏陀の入滅までを歌い現す。ここにある哲学的な釈迦入滅の時間的空間を音楽で現すとどうなるかという問いでもあるが、とにかく小宇宙的カオスとしか云いようが無い。ここも20分を数える。
梵鐘を模した一打より、絃楽のざわざわした伴奏でバスがしみじみと涅槃への導きを歌いだす。しばらくオーケストラの不気味な伴奏を基にバリトンが歌い続ける。打楽器、オーケストラ、電子オルガンの透明感のある間奏に続いて、ナレーションが禅の極意を読み上げる。そしてバリトンと14人の僧侶(本物)による読経(仏説阿彌陀経)が始まる。続いて尺八のカデンツァとなり……深い幽玄にして無限の世界へと誘われる。読経はまだ続いている。尺八からフルート、オーボエ、クラリネットなどに続き、尺八も戻ってくる。読経は、大きくなったり小さくなったりを繰り返し、サントラ効果を上げる。ホルンがEの音を力奏して、楽章は最後の部分へ突入する。ハープによる導き。電子音や、オーケストラの響きの中から、バリトン独唱そしてバス合唱が立ち上る。それへテノール、女声、笙などが重なってくる。合唱が釈迦入滅を、重なってくる音がその無限空間を表す。やがて梵鐘の一打が戻り、空間的音楽は終結する。
果たして、解脱は成ったのかどうか。
交響曲としては、特段に革新的なものは無く、当時の普通のセリエリふう作品だが、強く仏教色を全面に押し出し、梵鐘の響きを分析して造られた抽象的な黛敏郎の涅槃交響曲よりも生々しいカンタータふうの音色を造り出している。全体的に古代インドの哲学的で瞑想的な世界を音楽化しているハズなのだが、邦楽器がなんともビミョーな音を醸し出している。元はバレー音楽だった伊福部昭の交響頌偈「釈迦」とも異なり、より多くの楽器を動員し、大規模な音世界を模索している。
第7交響曲「オーケストラのための新しい歌 - 詩編98の1による」(1982/87)
放送初演の模様が、YouTubeにあったので紹介したい。 松下真一:第7交響曲「オーケストラのための新しい歌」
1楽章制で、約30分。松下は80年に病気でドイツより戻って、そのまま80年代はほとんど家から出られないほどだったという。そのような中で、この最後の交響曲は作られた。
低絃の提示から、ティンパニの衝撃。金管そして高絃と、響きが移ってゆく。ラヴェルのような音形もかいま見えつつ、金属打楽器とピアノのシーンへ移る。そこへ絃楽の持続音が突っ込まれて、それが消えるとしばしその音響空間が維持される。
それがいったん静まって、ティンパニのソロから、少し趣が異なる音響が現れる。しかし、根本的なものは変わらないと感じる。ティンパニ、ピアノとオーケストラが、対立してゆく。この音響も、しばし休むことなく持続する。
一瞬の休止から、金管楽器が表に出てくる。信号音のような音形に、ティンパニ、木管そして金属打楽器が散りばめられる。一瞬、荒々しい行進曲調になって、ざわざわとオーケストラが増殖し、またティンパニの合いの手で休符。
経過部を経て、ティンパニの導きで少し音調が変化。ティンパニがはたらくと、テンポが伸ばされて、金管の動機が畳み込まれる。リズムが強調されながら、うねるような音響が合間合間に登場する。
リズムが崩壊して、カオス的な音響の坩堝になりかけつつ、なんとか秩序は保持される。ティンパニは常に一定のパターンを繰り返し、それを支えに金管が動機を提示し続け、打楽器も打ち鳴らされ続け、ピアノなども混じる。スネアドラムが鳴ると、またも休止。
少しテンポが落ち着くが、音響的には変化は無い。金管が音列っぽい動機を延々と変化させ続け、ティンパニが鳴り続ける。絃楽や木管は、それを彩り続ける。打楽器ソリから、オーケストラはテンポと音量をやや、落とす。ピアノが交じり込んできて、ティンパニの乱舞は休むことはない。金管のテーマが復活し、絃楽などに展開されながら、ティンパニの動機で終結。
休止で数えると、全体は5つか6つに分かれるが、楽章というか、部というか、章というか、そういう概念になってるのかどうかは不明。
なかなか、全編無調(音列?)で休むことなく続いてゆく曲を、文藝的に表現してゆくのはツライ(笑)
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