中村滋延(1950− )


 愛知芸大で石井歓、中田直宏に学び、その後、ドイツに留学している。現在は九州大学の大学院で、芸術工学研究院で教授をしている。作風はいわゆる現代音楽で、受賞歴や作品数も多い。なんと交響曲が5曲ある。(2025現在)

 交響曲第1番「アニマ」(1979)
 交響曲第2番「トーテム」(1990)
 交響曲第3番「レリーフの回廊」(2002)
 「ラーマヤナ − 愛と死」(交響曲第4番)(2006)
 交響曲第5番「聖なる旅立ち」(2014)

 現代音楽作家においても、こういった形式的な古典主義(つまり交響曲や協奏曲、ソナタなど)にはまったく興味を示さない、完全な自由形式を好む人と、意外と形式主義的な面に興味を持ち、そういう曲を書きつつも、中身は現代音楽という人がいる。中村は後者のように思う。メディアアート系の映像とのミックス音響作品や、電子音楽作品もある。

 ちなみに前者は、たいてい曲のタイトルが過度に詩的で謎めいており、自作を解説することを好む傾向にある。聴いただけでは分からないから、いろいろ聴かれるためか自分から先に言うのではないかと分析している。 


第3交響曲「レリーフの回廊」(2002)

 タイトルは、作者のサイトより。「アンコールワットの回廊のレリーフに霊感を得て作曲。」とある。

 古典的・伝統的な4楽章制で、全体で15分ほど。現代音楽作家としては、驚くべき新古典形式だが、音響としてはやはり現代のもの。

 YouTubeに演奏があるので、紹介したい。ラジオ音源で、アップしてくれる方には感謝。たいへんにありがたい。この演奏では、15分ほどで終わっている。

 解説によると、楽章ごとにもタイトルがある。これらは、みなレリーフの場面のこと。4つの楽章は、聴く限りアタッカで進められる。

 第1楽章「乳海攪拌」 混沌とした絃楽が神秘の海を予感させる。管楽器がオルガンめいて重層的に重なってきて、不協和音も心地よく、やがて厚い音響が連続して奏でられるも、すぐに冒頭の響きへ戻ってゆく。3分ほどの短い、導入部のような楽章。
 
 第2楽章「神々の戦い」 激しいアレグロの戦闘音楽。調性めいて、まるで映画音楽のような格好よさ。冒頭部を2回繰り返して、やや落ち着くも次の場面へ。打楽器も動員され、戦いは盛り上がるが、合間合間に一瞬のレントも挟まれる。中間部では霧がむせび、その中から大軍団が突如として現れる。それも繰り返され、戦いが終わった静謐へと続いてゆく。

 第3楽章「天国と地獄」 戦いはまだ続く。激しい和音のぶつかり合い。茫洋とした雰囲気の中に平和をみるが、戦いの余波が混じる。後半は一転して緊張感のある部分へ。3部形式で冒頭に戻りつつ、それを導入として新たな展開へ。不気味な旋律が飛んできて、不安と恐怖を示す。地獄の描写だろうか。

 第4楽章「アプサラの森」 最後は、天女の森に紛れ込む。オスティナートで執拗に反復される動機は、群れる天女か。それが少しずつ変容してゆく。楽器が重なってゆき、規模が大きくなってゆく。そこから、静かに回廊は唐突に終わりをつげる。

 現代作家といえども、この曲に関してはかなり聴きやすい。やはり形式感があるからだろうか。展覧会の絵ではないが、順次現れる遺跡のレリーフを見てゆく様の心象。大きく盛り上がる様子は感じられなく、淡々とした印象がある。


「ラーマヤナ − 愛と死」(第4交響曲)(2006)

 こちらも、作者のサイトに4番の解説と再演の模様がUPされている。

 演奏時間は約20分で、連続して演奏される5つの楽章なら成る。インドの叙事詩「ラーマヤナ」を題材としている。ただ、この曲の直接の作曲動機は、ラーマヤナのカンボジア版「リアムケー」だという。作者は九州に移住してから、このラーマヤナを題材として作品を発表しているとのこと。

 ただし、これは標題音楽ではなく、作曲の発想を得ているだけであるという。すなわち、マーラーのいうところの根源的標題であろう。

 なお、副題が「交響曲第4番」なのだそうだ。

 20分で全5楽章なので、各楽章は数分ていど。くわしいストーリーは解説先を参考にしていただきたいが、王子ラーマが継母の奸計にはまり国を追われ、妻のシータや弟と森に住むことに。が、美しいシータを見染めた魔王ラーヴァナがシータを誘拐してしまう。ラーナ王子は嘆き悲しみ、ラーヴァナ討伐の旅に出る。ハヌマーン神の手を借りて魔王の城を攻撃し、見事魔王を倒してシータを取り戻す。が、魔王にとらわれていたシータの貞操を疑い、王子は苦悩する。疑われたシータは絶望して火に飛びこむが、神によって助けられ、貞操が証明される。

 前半は流行りのライトノベルのようだが、後半で一気に神話っぽくなる。また、ところどころに武満徹の弦楽のためのレクイエムの断片が、オマージュとして鳴り響く。作者によると、「彼の音楽への好悪の感情を超えて、日本人が西洋芸術音楽をつくることの意味・意義を、武満ほど世界に向けて保証してくれた作曲家はいないと思うから」とのことである。

 第1楽章、冒頭から少し武満っぽい響き。弦楽と木管により、国を追われた王子の苦悩と寂しさが切々と迫る。楽想は重々しく推移し、激しくなりつつ、オーボエなどで苦悩のテーマともいえるものが登場。そこからリズミックに推移し、再び陰鬱なテーマに支配される。

 第2楽章、魔王ラーヴァナがシータを見つけ、黄金のシカに化けて近づき、誘拐する。テンポが上がって、緊迫した展開に。やがてヴァイオリンのソロが切々と現れ、やがて冒頭の忙しい感じに戻る。

 第3楽章は、妻を失ったラーマ王子が苦悩するレント。曲は次第に緊張感を増してゆき、ついに明らかに「弦レク」が現れる。後半はほぼその弦レクの楽想を再現、展開する。

 第4楽章、ハヌマーンの力を借りて魔王の白に攻め込むラーマ王子。戦闘の音楽。どこかコミカルな調子も現れるが、全体には激しく緊張感が漂う。

 第5楽章はハッピーエンドではあるのだが、貞操を疑う王子の苦悩とシータの絶望もある。重苦しい音調に支配され、絶望のテーマが流れる。終楽章なのに、まるで葬式だ。そこでまたちょっと弦レクの破片が流れ、ついに浄化の炎のような静謐な部分となる。残り30秒ほどで、やっと火の神による救済と大団円。

 なお、カンボジアなどの伝統音楽の素材は一切使われず、全ての動機や楽想は作者のオリジナルであるとのこと。


第5交響曲「聖なる旅立ち」(2014)

 これも作者のサイトに5番の解説と演奏のリンクがある。

 演奏時間は約15分で、連続して演奏される6つの楽章から成る。なんと、4番とまったく同じテーマ「ラーマナヤ」によるので、兄弟作と言ってよいと思う。

 ただし、4番と同様標題音楽というわけではなく、あくまで根源的標題。またここで扱われているのは、4番の後の物語となる。
 
 つまり、火の神により救済され貞操の証明を得たシータだったが、ラーマ王子と共に国に戻り、王と王妃となって平和に暮らすものの、今度は国民がシータを疑い始める。あまりの疑念の声に、ラーマ王はこのままでは国を治められないとして、シータをひそかに国外に住まわせる。しかしシータは、自分が生きていては国は治まらないとして、大地の裂け目に自ら身を投じるが、またもや神の救済により大団円となる。

 4番より楽章が多いのに、演奏時間は少なくなっている。作者の解説によると具体的な情景描写より、シータの心理描写や内面の移り変わりを表現しているようだ。最後に大地の裂け目に飛びこみ自死することが「聖なる旅立ち」なのだという。

 第1楽章、冒頭から激しい動き。動機が配列されているだけで、全体の提示部とのこと。1分半ほどの楽章。シータの激烈にして苛烈な運命動機。

 第2楽章は木管の苦悩の響きから、再び劇的な動機に移る。苦悩のテーマが再現され、シータの運命の嘆き。ラストにはティンパニの激しい連打。

 第3楽章、ヘテロフォニックな緩徐楽章。シータの祈りの表現。フルートやオーボエの動機が、多層的でエキゾチックな弦楽にからみつく。

 第4楽章はスケルツォ相当。マーラーの6番冒頭めいた低弦の行進曲風リズムに乗って、弦楽が勇ましいスケルツォテーマを奏でる。やがて木管のおどけたテーマも登場し、その後に規模の縮小された冒頭の再現。シータの混乱した追慕の楽章。

 第5楽章、第2緩徐楽章。弦楽や木管のテーマがもの悲しく推移する。木管による、鳥の声のような装飾も印象深い。死を覚悟したシータの美しい覚悟の心情。

 第6楽章、大地の裂け目に身を投げるシータの死と救済。第1楽章の再現と展開。激しい音調が戻り、シータの自己犠牲と死、そして再度の救済が描かれる。

 これだけの規模と楽章、並の作曲家であれば無為に発展させ、40分以上の曲に仕上げてしまうだろうが、圧縮様式により15分で収めているのが流石だ。


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