マーラー(1860−1911)  〜マーラーの交響曲「世界」は、すべてを包括する。〜

序 文

 前島良雄の論により、マーラーの音楽を 「音楽以外の何物か」 を通して見ること、考えてみることの重要性を示唆されて、私は自分のこの煩雑で凡庸で多分に観念論的なマーラーの魅力を紹介する小文に対し勇気をもらった。

 それによるとマーラーの音楽はもちろん 「表層的な、タイトルとしての」 標題を有してはいないが、「根源的な作曲動機としての」 標題を多様に有しているからである。

 その標題というのはすなわち、彼のイメージした風景、幻想、情景、心理そのものであり、それによって生じてきた音楽そのものだと思う。マーラーは伊達に、楽譜に様々な 「イメージ理解を補助する為の」 標題や、言葉を書き込んではいないという。

 私は音楽学者ではないし、音楽家でも、もちろん研究家でも評論家でもないので、下手の横好きで、自分の為にも、マーラー理解を深めんとし、かつ、魅力を紹介したいと願うばかりであるが、譜例や楽論を分析と称してコネ繰り回すのは本意ではないし、そもそもできない。

 それがため、必然と、文藝的な表現で観念的に色々と無駄話を続ける事となったわけだが、そういう文藝表現が標題に通じ、マーラーの音楽に通じている事の重要性を知るに到り、なるほど、あながち間ちがった手法でもなかったのかな、と感じている。

 えらい人はまたうまい事を云うものだが、アドルノはマーラーの交響曲をして曰く「抒情詩的叙事詩」「小説的交響曲」すなわち、感情的に見えて即物的であり、表現の目指すところによりその長さは批判の理由にならず、アプローチは登場人物が入れかわりたちかわりドラマを演じるため小説的である、と。

 マーラー以前の交響曲はベートーヴェンの革命があったとしても音楽のひとつのジャンルでしかないが、マーラー以降は交響曲というひとつの音楽ジャンルを超えた総合的な藝術手段であると同時に、やはり交響曲という音楽ジャンルの中にすべてが入ってしまっている。かのヴァーグナーの楽劇に接してもなお、マーラーは総合藝術ではなく、ハンスリックが云うところの 「響きながら動く形式」 たる交響曲の創作を精神上の師とも云えるブルックナーと共に選んだ。そう、これは歌劇でも歌曲でも交響詩でもバレエ音楽でもない。交響曲。しかし、同時に、もはや交響曲という概念を超えた 「超交響曲」 でもあるだろう。マーラー以降は、交響曲は交響曲という枠組みを超えて、無限で自在に飛び回っている。それでもなお、交響曲という形而下的なすがたは消える事は無く、ひとびとをとらえてはなさない。マーラーが、そうさせたといってよい。

 ああ、偉大なる哉、マーラー!

第1交響曲 第4交響曲 第7交響曲 第9交響曲
第2交響曲 第5交響曲 第8交響曲 第10交響曲
第3交響曲 第6交響曲 大地の歌  

参考 マーラー部屋

参考図書
 マーラーを識(し)る 神話・伝説・俗説の呪縛を解く 前島良雄/アルファベータブックス(2014)
 指揮者マーラー 中川右介/河出書房新社(2012)
 マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来 前島良雄/アルファベータブックス(2011)
 マーラー 交響曲のすべて コンスタンティン・フローロス 前島良雄 前島真理訳/藤原書店(2005)
 作曲家◎人と作品シリーズ マーラー 村井翔/音楽之友社(2004)
 こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲・2 金子健志/音楽之友社(2001)
 マーラー 音楽観相学 テオドール・W・アドルノ 龍村あや子訳/法政大学出版局(1999)
 マーラー 未来の同時代者(復刻版) クルト・ブラウコプフ 酒田健一訳/白水社(1998)
 クレンペラー 指揮者の本懐 シュテファン・シュトンポア 野口剛夫訳/春秋社(1998) 
 特装版 岩波新書 評伝選 グスタフ・マーラー −現代音楽への道− 柴田南雄/岩波書店(1995)
 マーラー その交響的宇宙 岩下眞好/音楽之友社(1995) 
 こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲 金子健志/音楽之友社(1994)
 大作曲家 マーラー ヴォルフガング・シュライバー 岩下眞好訳/音楽之友社(1993)
 作曲家別名曲解説ライブラリー マーラー 門馬直美他/音楽之友社(1992)


指揮者としてのマーラー(小文)

 マーレリアン諸氏は、マーラーが 「指揮もする作曲家」 ではなく 「作曲もする指揮者」 だったというのは周知と思われるが、具体的にいつ何を何回指揮したのかは、作曲家マーラーの伝記や楽曲分析の資料にはあまり出てこない。前島良雄や中川右介が海外の資料を丹念に分析して上記の本にしているが、それによるとマーラーは20歳で指揮者デビューしてから50歳10か月で亡くなる指揮者生活約31年でオペラを2,025回、自身によるピアノ演奏も含めたコンサートを322回、計2,347回も行っている。

 ユニヴァーサル社のサイトによると、カラヤンは62年間の指揮者生活で判明している演奏回数は3,198回。3,198÷62×31=1,599回なので、2,347回のマーラーと比較すると、マーラーの演奏回数は単純計算でカラヤンの1.5倍という猛烈さである。

 またそのオペラのうち、ワーグナーが514回、モーツァルトが255回で、忙しい時には2日に1回とか3日に1回というペースでワーグナーの楽劇を振りまくっている(笑) このほかにシンフォニックコンサートでワーグナーの序曲とか抜粋等、モーツァルトの交響曲とかも振っている。

 しかも当時はコンサートも長丁場で、例えば自作の1番と誰かの序曲を前プロに、後プロで歌曲集やワーグナー抜粋、ベートヴェンの7番を振るとかザラ。それも繁忙期にはオペラとオペラの合間に地方に遠征してやってるから、毎日移動して何かしら振っている。こんなもの、現代の指揮者にやらせたら訴えられるか、人気にものを言わせて流れ仕事をしているだけと叩かれるかだ。

 その狂ったように多忙な指揮者生活の中で、いかにバカンス時期に集中してとはいえ、あれだけの交響曲と歌曲を書いているのが、マーラーのとんでもないところであり、マーラーそのものの魅力だと強く感じている。









前のページ

表紙へ