9/27

 フォンテックから、珍しい岩城宏之指揮の伊福部昭が出てきた。

 珍しいのというのは、あれだけ日本人の作品を振り続けていた岩城が、伊福部はまったく演奏していない事実がある。自分はこの録音が出てくるまで、1つも振ってないと思っていたほどで、このように都響で個展をしていたとは、思いもよらなかった。

 岩城宏之/東京都交響楽団/マリンバ:安倍圭子 1990年ライヴ
 伊福部昭:日本狂詩曲
 伊福部昭:オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ
 伊福部昭:舞踊曲「サロメ」

 併録
 森正/ABC交響楽団/小林武史Vn
 伊福部昭:ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲(1947/59)

 どうして岩城が伊福部をほとんど振らなかったのか、ということには、いろいろ考えられるところがあるのだが、若杉もリトミカの名盤があるものの、ほとんど振ってないし、小澤だって皆無なので、別にこの世代としては変ではない。むしろ、武満のような作風をリードしていた世代であり、伊福部を積極的に振るのはもっと前か後の世代の指揮者になる。

 それにしたって、岩城は小山清茂や渡辺浦人も振っているし、セッション録音も古くから残しているので、民族派がダメだというでもないが、伊福部だけ振っていない。

 それに関して色々話を聞いて、おそらくこれが原因だろう、というのは推測がつくのだが、あくまで推測なのでそれはここには書けない。しかし、伊福部のこの言葉は、既にお弟子さんの口から表に出ているので、挙げたい。

 「作曲家は、指揮者の悪口だけは言ってはいけません」(伊福部)

 これは岩城のことではない(笑) 

 さて、その岩城の伊福部だが、これが実にいい。やはり、さすがの演奏で、これで他のタプカーラとか振ってもらえたらさぞや、という解釈。実に勿体ない……。
 
 無い物ねだりをしていてもしょうがない。あるものを、味わいたい。

 1990年の日本狂詩曲であるが、この年、ヤマカズが枯淡の極みのような日本狂詩曲を新星日響で残している。この岩城の一期一会の演奏は、それに匹敵する出来栄えだ。しかし、もし10年前……いや、5年前にこの演奏を聴いていたら、なんだパッとしねえ演奏だなあ、と、思っていたかもしれない。

 まずテンポ感がいい。抜群だ。1楽章の夜の祭の、後の祭のような独特の寂しさがたまらない。しかも、意外に西洋の作曲家のスコアを読みまくって独学で書いた伊福部の、対位法っぽい部分などもちゃんと鳴らし分けているのが、唸る。これが初めて?伊福部を振る人間なのか。細かな抜き差しが、非常に伊福部通の心をくすぐる。

 そして2楽章だ。この悠然としたテンポは、2014年になって高関が辿り着いた境地ではないか。これが1990年に行われていたとは……。そしてここでも、主旋律に隠された中声部の面白い動きをさりげなく強調。これは、シューマンやブラームスあたりの交響曲をまともに振れないとできない芸当に感じる。祭の雑踏を示す2分半あたりの絃楽器のザワザワ感も、さすがにうまい。打楽器も控えめ、かつ出るところは出て、気分を盛り上げる。音量のコントロールも完璧で、フォルテとピアノの山が見事に立体感を堀りだす。ホルンのさりげない伸ばしの音形を引き出したり、トランペットの装飾音形を思い切って前に出したり、芸が細かいなあ。コーダ直前の盛り上がりでも、ここでも対位法的(厳密には対位法ではない)な部分を強調。テンポもアップして、大団円。

 これは日本狂詩曲を色々な指揮者で聴きまくった人ほど、「ううん! 凄い!!」 となるであろう大演奏。

 続いてラウダ。このころは、ヤマカズも同じプロでやっているので、伊福部の協奏曲といえばラウダということだったのだろう。ソロは全盛期の安倍圭子。ヤマカズのねばっこい冒頭とは異なり、意外にあっさり、テンポ感もよく進む。
 
 マリンバの力強いこと。打音も深く、そして鋭い。祈りと蛮性という、伊福部の信念の具現化。これは、平岡養一では無理だな(^^;

 ここでの岩城はあくまで伴奏に徹している。……ようで、けっこう主張が強く面白い。冒頭の淡々とした感じも安倍にひっぱられてか、どんどん熱くなる。中間部の静謐な部分はマリンバのソロが続き、ここも心なしかテンポが速い。全体に岩城がテンポやや早めに設定しているように感じる。演奏時間そのものは、他の演奏と特に変わりないようだが……。

 オケが滔々と鳴りだす部分も、粘っこさは無くいかにも硬質(今なら言える、新古典的な)で、再現部に到り、その一種無機質な鳴らせ方にも、ちょっと前までなら物足りなさを感じていたかもしれないが、これはかなり良い、書法の簡潔さを活かした解釈。これは、伊福部先生は喜んだタイプの演奏だと思う。

 ラスト5分のアレグロに現れるトムトムの3連符、強烈すぎてマリンバに負けていない。なんでこんなにデカイんだろ?(笑) ここだけ脅迫観念的。ホルンの吹奏も素敵だ。そしてコーダの圧倒的なオスティナートと、ちょっっとずつテンポと音量か上がって行くコントロールの見事さ。CDではないが、「ブラボー!!」 思わず叫ぶ。

 後半プロはサロメ。1987年に演奏会用として改訂初演されたこのバレー音楽は、当時の伊福部の最新曲といえる。録音はこれも含めて4種類しかない。なんといってもそのヤマカズと新星日響の初演の模様が名演すぎて、なかなか比較できない部分もあるが、ヤマカズはあまりに音楽がすばらしすぎて〜とかいう理由で、指揮をしながら泣いていたくらいで、けっこう演奏は揺り動かされている。また初演の約半年後に行われた大阪での意欲的な演奏は、残念ながら技術的に厳しい部分がある。それで、広上の95年のセッション録音がスタンダード演奏として貴重となってくるが、さて、ここでの岩城は。

 ここでも解釈は変わらない。ヤマカズより粘らず、サクサクと進んでいるものの、細かな演出はまるで巨大な交響詩のように音楽的な造形を堀り上げている。ここでのテンポはやや早め、といったほどだが、スコアに忠実なのはもちろん、ヤマカズより岩城だろう。4楽章の「聖なる泉」(ですよね?←特撮疎し)のさりげない表現とかも憎い。他の演奏からは聴こえてこない旋律をおもいきって鳴らしているので、ここでも、伊福部通ほど、おっこんな部分もあったのか、と唸るだろう。

 7つのヴェールの踊りもうまい。7つの部分を連続して演奏しつつ、各踊りの個性も引き出している。テンポはここは早めに進むが、打楽器や絃楽器の切迫感がいい。踊りがどんどん白熱して、周囲の視線を釘付けにし、ヴェールを脱ぎ去りながら狂乱の踊りをするサロメをすばらしく表している。最後の踊りの膜物打楽器陣の異様な迫力はなんなんだろ(笑)

 その興奮は6楽章の緊張感を経て7楽章の狂乱と死へ持ち越される。ここでの岩城の発狂ぶりというか、熱狂ぶりはある意味ヤマカズを超えている。迫力と、なによりぶっ殺すぞコノヤロウという、ヘロデ王の怒り、緊迫感。鋭さ。スピード感。演奏もうまいし、お見事。すばらしい。さすが岩城だ。

 最後は、併録としてこれも貴重な、1959年の改訂版ヴァイオリン協奏曲。これも、改訂されたばかりの第3稿で、改訂後すぐの録音となる。前橋汀子の録音よりさらに早い。前橋の演奏は若いときの録音だが、こちらは小林武史の全盛期の渋さが光る。指揮も、前橋はヤマカズのつっこんだ演奏とちがい、正確に伴奏を補佐する正統的なものに思う。

 なによりヴァイオリンの余裕と、伊福部への敬慕が感じられて良い。


8/31

 たまには、演奏会の模様でも書くこととする。

 というのも、2日め30日に聴いた札幌交響楽団による早坂文雄生誕100年記念の演奏会がとんでもなくすばらしかったので、こちらに記する。

 2014.8.29-30 札幌交響楽団 第571回定期演奏会

 ロビーコンサート 早坂文雄:絃楽四重奏曲より第1・第2楽章 

 下野竜也/札幌交響楽団 

 ジョン・ウィリアムス:組曲「スター・ウォーズ」
 早坂文雄:交響組曲「ユーカラ」

 まずロビーコンサートで、早坂文雄の絃楽四重奏曲より1・2楽章。全3楽章制の曲で、私は初めて聴いたが、1楽章は無調で旋律はあるが茫洋とした雰囲気、転じて2楽章はチャイコフスキーばりのピチカートの調性楽章。CDがあるようなので、邦人クラシックスファンには聴いたことのある方もおられるだろうが、会場の人はおそらくほとんど初めて聴いただろう。3楽章も続けて聴いてみたかったが、時間の都合上割愛。

 お客は、私の席からは7割半くらいは埋まっているように思えた。このマニアックプログラムで、よく埋まったもんだ。
 
 1曲めはなんとスター・ウォーズである。これをお目当てで来た人もいたようで、集客にも一苦労が忍ばれるが、早坂はご存じの通り七人の侍や羅生門で高名な、伊福部にも負けない映画音楽作曲家なので、そういうつながりでもある。

 ジョン・ウィリアムスは、昔、自作自演コンサートのテレビ放送を見たことがあって、オーケストレーションがイマイチだなー(響かない)と感じていたのだが、このスター・ウォーズは響いていたなあ(笑) 編成は同じはずなので、指揮やホールの問題なのでしょうかね。

 かなり面白かったが、こんなにドラクエっぽいとは思わなかった。いや、逆だ。ドラクエがこんなにスター・ウォーズっぽかったとは知らなかった(笑) そういうスター・ウォーズも、ダース・ベイダーのテーマなどは、火星(ホルスト)の影響が大だと思うので、 ホルスト→ウィリアムス→すぎやまこういち等 と、ちゃんみんなパクリもとい影響、リスペクト、流れ、というのがあるのが分かる。ウィリアムスはクラシックの勉強もしているので、ホルストの他にもワーグナーや、ポピュラーオーケストラ曲からいいところを色々と集めてあってとても聴きやすいし、面白くできている。大変良かった。

 それはそうと、私はこの後の祭のページで、映画音楽組曲について、これからはバレエ音楽組曲や劇音楽組曲などのオーケストラ組曲の形として、映画音楽組曲がもっともっと主流になってくるだろう、などと、10年くらい前に書いた(改稿はしている)のだが、あんまり主流になっている気配はない(笑) 
 
 いまポピュラー演奏会や、どさ回りの地方公演、あるいは特別演奏会ではなく、シャンとした定期演奏会へメジャーに乗るまでになった映画音楽組曲は、プロコフィエフの「キージェ中尉」くらいしか無いのではないかと思う。これは映画音楽組曲としてはおそらく最古の音楽で、これ以外にもショスタコーヴィチや、イベールなどに、映画音楽から編まれたコンサート組曲はあるのだが、おそらくキージェ中尉が最も高名かつ、演奏会用組曲として 「認められた」 音楽だと思う。

 で、スター・ウォーズであるが、これが定期演奏会に乗ったというのがスゴイわけだ。下野はスゴイ! よくやったもんだ。札響でも、抜粋を含めて133回も演奏しているというのだが、定期では無いはずで、ぜんぶ青少年のためのオーケストラコンサートとか、ポピュラーコンサートとか、そういうやつで、定期演奏会でスター・ウォーズはそりゃねえよ、と思う人が絶対にいたはずだが、もうスター・ウォーズ世代も老年の域に達してきたし、このベターすぎる曲も白鳥の湖と同等の扱いになってきているのかなあ、定期に上がっても違和感が無くなってきたのかなあ、とか思って感慨深かった。

 スター・ウォーズが定期に乗ったからにはゴジラも乗っていいだろうし、羅生門や七人の侍も乗っていいだろうし、ハリーポッターが乗るかもしれないし、それこそ、今後はドラクエだって定期演奏会に乗るかもしれない。

 で、大本命のユーカラだが。67年と68年に抜粋で演奏済だったのが驚いた。しかし、全曲は初演である。

 じっさい、スター・ウォーズが終わったら帰ってしまった人も周囲にいた。前日、聴いて嫌というほど辟易したのだろうなあ、とか思って笑ってしまった。

 それより、邦人プログラムがメインに座るのも、滅多にないことなので、その点でもこの定期は画期的だった。5月の伊福部のように個展なら話は別だが、前プロがスター・ウォーズではなく、チャイコフスキーあたりのバレエ組曲か何かだったとしたら、ヘタをしたらそっちがメインでユーカラが前プロでもおかしくはない。それくらい、「定期」 で邦人プログラムは冷遇されている。格が低いと思われている。
 
 2点目は、定期演奏会で邦人曲がメインだったのが凄かったわけである。
 
 肝心の演奏だが、ユーカラはCDが2014年現在で1枚しかない。しかもヤマカズだ。テンポが異様に動く動く。それしかないからそれを聴きまくるわけだが、かなり特殊な演奏なのは、分かっておかなくてはならない。しかし下野は譜面に忠実なタイプで、おそらくこちらが楽譜通りのテンポなのだろうと思う。

 ユーカラは現代の武満につながる、形而下的な具体的なイメージを、表現主義的な形而上的な無調などで表す曲の実験的な作品で、ユーカラを題材にしつつ、叙事詩的な表現ではなく、抽象化された精神世界を描いている。

 旋律や中心音はちゃんとあるものの、基本的にバリバリの無調作品で、耳障りな不協和音と良く意味の分からない(旋律にそわない)ムチャクチャな変拍子が怒濤の勢いで巻き散らかされる。しかも導入部含む6楽章55分という大規模さで、保守的な札響定期会員がどこまで受け入れるのか、そちらも興味があった。いびき必至、前プロで帰る、終わったあとの戸惑った拍手、ロビーでの 「わけわからんかった」 という感想。どれくらいそういうのがあるのか、楽しみだったし、正直、自分ですら、3楽章や5楽章でちょっと落ちるかなーという不安すらあった。

 まず、どのような曲か簡易に羅列する。

 1曲目「プロローグ」 静謐な短いクラリネットソロで、1分ほど一人語りのように半音階で跳躍しながら、ふしぎな旋律を紡いで行く。緊張感にあふれ、精神世界の物語へ聴き手を導く。
 2曲目「ハンロッカ」 ホルンとファゴットによる2つの主題とその変奏という形式であるが、すぐに特徴的な旋律を発して激しくなる。
 3曲目「サンタトリパイナ」 絃楽合奏による神の閉じ込められた月の世界の精神描写。この死と静寂さの象徴の旋律は、5曲目でも現れる。
 4曲目「ハンチキキー」 自分が一番好きな曲。打楽器の導入から特徴的な舞曲が現れ、管楽器が旋律を奏で、やがて激しい変拍子に突入して行く。
 5曲目「ノーペー」 2曲目の主題が管楽器に受け継がれ、速い調子の部分を二度挟んで後半はまた絃楽合奏の静謐な世界へ。
 6曲目「ケネペ ツイツイ」 荒々しくという指示のある終楽章で、打楽器の長いソリから、やがてとんでもない交錯した荒熊との戦いが示される。
 
 次に演奏であるが、プロローグでは照明が落ち、クラリネットが浮かび上がるや、指揮者の軽い指示で密やかにソロが始まった。ソロは見事だった。ハンロッカではふしぎな旋律が訥々と現れ、やがて激しい変拍子に到るが、下野の指揮は一寸の乱れも無く、札響を呪術師のように操る。既に2曲目にして興奮の度合いと緊張感がスゴイ。音の刃物をつきつけられたような、とてつもない厳しい響きの空間が繰り広げられた。

 2曲目で精神力と聴力を使いはたして、3曲目の絃楽による死と精神の世界はちょいと自分も厳しいな〜と思ったが、案の定、落ちかけた(笑) ものの、なんとか立ち直し、4曲目の大好きなハンチキキーへ。打楽器の楽しいリズムのオスティナート、トライアングルや木琴のソロ、そしてそのリズムに合わせた管絃楽旋律。ここも激しくなってゆき、下野の的確な指揮がそれを支えて行く。

 ノーペーは自分が最も苦手な部分で、とにかく長いのだが、長く感じなかった。やはりCDで聴くのと、実演を聴くのとでは、印象が異なる。絃楽器と管楽器との掛け合いが見事な構成。

 そして終曲。荒々しい熊の物語の抽象化であり、まあ〜〜激しい。すげえ曲だ。めちゃくちゃだ。よくまあ、あんな拍子と音色がめちゃくちゃな曲を演奏したのもだと感心した。下野が狂ったかと思った。ヴィブラフォーンを硬いグロッケン用のマレットでぶっ叩くと、とんでもない音がする。それがシロフォンと混じって音階を奏でる。打楽器8人がリズムを狭窄する。オーケストラが吠えた。
 
 そして一転、コーダでは、またあの静謐な響きへ。そして、そっと、唐突に、この長い物語は終わった。

 拍手は最初はまばらであったが、下野がクラリネットを立たせたあたりからブラボーも出て、拍手は鳴りやまなかった。ヴィオラやファゴットのソロもあったし、ノーペー(か、ケネペ ツイツイ)のヴィオラのソロは、武満かと思った。びっくりした。武満がどれだけこの曲に影響されたのか、初めて知った。ヤマカズのCDでは聴こえてこなかった部分だった。

 拍手が、私のようなマニア以外の聴衆が本心から出た拍手なのかどうかは分からないが、盛り上がった部類と云って良いだろう。サンタトリパイナやノーペーではイビキも響いてたし、なんだかよく分からない日本人の曲だが、とにかく演奏が凄かった、そんな印象を与えた気がした。

 この演奏は、すばらしい熱気と緊張感にあふれたものであることに加え、模範的な演奏でもあると感じた。正直どこか間違っていてもおいそれは分かるような曲ではないが、かなり正確に札響も演奏していたと思った。なんと3日で合わせたそうで、さすがのプロオケの気迫だ。

 これはもし録音されているのだったら、ぜひCDにしてほしい大名演奏であった。この名曲がヤマカズの演奏1枚だけなのはちょとさびしいので。


8/28

 風樂レーベル(販売:キングインターナショナル)の伊福部昭古稀記念交響コンサート1984を聴く。

[CD1]
 1.SF交響ファンタジー第1番 指揮:石井眞木
 2.ギリヤーク族の古き吟誦歌 指揮:芥川也寸志/成田絵智子Sop
    第1曲「アイ アイ ゴムテイラ」(編曲:芥川也寸志)
    第2曲「苔桃の果拾う女の歌」(編曲:松村貞三)
    第3曲「彼方の河び」(編曲:黛敏郎)
    第4曲「熊祭に行く人を送る歌」(編曲:池野成)
    
[CD2]
 1.シンフォニア・タプカーラ 指揮:芥川也寸志
 2.日本の太鼓(ジャコモコ ジャンコ) 指揮:石井眞木

[CD3]
 伊福部昭と弟子たちの座談:コンサート事前打ち合わせ(1984年10月14日/伊福部邸)

 CD1、2:新交響楽団 1984年11月23日/東京文化会館大ホール(ライヴ)

 これはまた、貴重オブ貴重というw 生誕100周年の盛り上がりに相応しい伝説的内容。特に座談会がすばらしすぎて鼻血。よく残っていたものだし、よく公開されたものである。

 演奏に関しては、芥川の手兵・新交響楽団の熱血な演奏で至極満足できるレベルだが、録音が悪くまたアマチュアということで技術的にツライ部分もあり、それを含めると最高というのは難しいが、それにしても普通に鑑賞するには、何の問題も無い。

 白眉はなんと言っても3枚目の座談会だが、まずは演奏から聴いてみよう。

 司会も収録されているのが嬉しいが、いかにも身内のコンサートですという、だらけた感じがなんとも(笑) 

 1曲目の「SF交響ファンタジー1番」は前年に初演されたばかりの「新曲」で、この演奏は既にフォンテックの「交響二題」というCDに釈迦といっしょに収録されている。改めて聴くが、石井の指揮がイイわけだ。テンポといい、表情付けといい、騒ぎすぎず、大げさにしすぎず。

 これは、どうも映画そのもののような、華美に派手な演奏を好む人もいるが、そもそもBGMであるし、実は意外に淡々としている音楽で、そこを淡々としすぎずに(映像が無いので本当に淡々とやると面白くない)、いい意味で音楽的演出を加えつつ、派手過ぎない(交響作品ですので!)という神業。同時に録音されている司会の模様でも、石井は 「マニアの心を離れて、純粋音楽として何かの序曲のような感じで聴いてください」 という発言をしている。じっさい、そういう鑑賞に耐えうる音楽である。

 2曲目の「ギリヤーク族の古き吟誦歌」(弟子たち編のオケ伴奏版)は、米寿記念演奏会の再演のCDは既にでていたが、こちらは初演。このオケ伴奏版そのものにも、この曲でオケ伴奏はソプラノが聞こえづらい、原曲の持つ素朴な感じが失せる、等の是非はあるのだろうが、純粋な音楽的見地以外での、怱怱たる大家4人がそろっての師匠の傑作歌曲を編曲という音楽史的見地から楽しむほうがよいかと思う。

 これは3枚目の座談会にも通じてくるが、弟子の編曲といえどかなり伊福部が下書きスコアをチェックしてああでもないこうでもない、ここはこうしなくてはいけません、ここはこうでなくては困ります、と注文をつけ、芥川などは 「ハイッ、もう全て先生の言うとおりに直します」 という感じで答え、本当にそうしつつ、我もちゃんと通すというw

 ここで伊福部がいかに弟子たちの特徴を如実に捉えていたかの証左も聴き取れる。1曲目の軽妙な印象は芥川、2曲目の殺伐とした雰囲気を松村、3曲目の突き抜けた透徹さを黛、そして4曲目のリズミックなバーバリアンを池野。これらのオーケストレーションの大家のピアノ曲を弟子とはいえこれもオーケストレーションの大家たちが編曲するという化学作用を聴くべきで、演奏は二次的なものかもしれない。

 2枚目の「タプカーラ交響曲」は、これは初演コンビであり、初演から4年後の演奏ということになる。芥川/新響は伊福部演奏の伝道師コンビだし、まさに自分も初期CD時代からこのコンビの演奏(1987年ライヴのもの)を聴きまくっていたが、いまになると流石に颯爽としすぎている。これは今になって分かったものであり、同コンビの名誉を些かも貶めるものではないが、石井の悠然磐石とした本道の演奏に比べると完全に芥川流だろう。
 
 どこが気ぜわしいかというと、アレグロが速い速い。無闇に速いのではなく、快速というに相応しい。1楽章のあとに拍手(笑)

 速いだけではなく2楽章の純真な風情と祈りというものもちゃんと伝わってくるあたりが、芥川の指揮者としての腕も確かなところ。3楽章も、急−緩−急の描き分けがうまい。中間部のアンダンテも、やや速い。

 次がコンサート版の「日本の太鼓」で、弟子が太鼓を叩くというのは喜寿記念CDで先に聴いているが、こっちが先。喜寿のときはもう芥川が物故していたが、こっちではまだ生きている。まさか芥川も5年後に死ぬとは思わなかったろうが……。石井の指揮が、やはりイイ。重厚で、それでいてフットワークがいい。すばらしい。

 とはいえ、喜寿記念の伊福部本人が指揮した日本の太鼓に比べるとやっぱり速いなあ? 特に9拍子のところ。と思った方もおられると思う。キングのレコードシリーズで日本の太鼓の楽譜を改めて見てみると、四部音符の速さところが倍の八分音符で書いてあって、伊福部先生だけが自分のテンポでちゃんと振って、他の人は楽譜通りに八分音符の速さで振っていたというオチ(笑) ※キングの録音に立ち会った方から伺いました。

 終楽章で弟子たちの 「よおーっ!!」 も、なんか微笑ましい。熱演中の熱演で、ラストも大団円。また、芥川・石井両指揮者について行く新響も、よくやったものだと感心する。最後に伊福部先生の挨拶付。アンコールで終楽章をもう一度(笑)

 さーて、本命はこの3枚目の座談会の模様である。

 全てをテキストに起こしてほしいくらいの内容で、自分でやるのは面倒なので重要な趣旨を記す。CD収録部分冒頭からは他愛もない雑談に終始しているが、やがて伊福部昭の音楽観芸術観の重要な指針に入ってくる。

 1.伊福部は自分の作曲家としてのスタンスを民族派ではなく、「新古典主義派」としている。
 2.ストラヴィンスキーは三大バレエ以外は認めていなかったようだが、ストラヴィンスキーの中で一番好きなのは新古典派時代の地味なピアノコンチェルティーノ「ピアノとオーケストラのためのカプリッチォ」である。
 
 まずここから検証したいが、伊福部が自身を新古典派と自認しているというのは、新古典派に詳しくない人には、かなり意外だと思う。そもそも、新古典というのは凄く広い概念で、ブラームスが既にそう言われていたし、国民楽派というカテゴリーに含まれつつ、ブラームス型の作曲家は全て新古典に入れることも可能。つまりドヴォルザークも新古典だし、後期のバルトークも新古典。ストラヴィンスキーの中期も当然新古典だし、ドビュッシーですら本人は新古典主義というスタンスであったという。

 伊福部の作品の中で最も新古典的といえば、おそらく交響譚詩になると思う。つまり日本人の作曲家でも、別にモーツァルトやハイドンみたいな曲を作らなくても、編成や、構成が古典的ならば、それは「新」古典なのだ。内容ではなく、フォルムの問題であり、音楽的なスタンスの問題と伊福部は云っているのだと感じた。

 伊福部 「日本の伝統を背負った古典主義」 

 また、民族派と思われつつ、実は新古典派な日本人の作曲家の代表例として、私は大栗裕をあげる。いかにも大阪でございといった作風ながら、作者本人がモーツァルトやヨハン・シュトラウスを規範としていたというその書法は、新古典そのものである。立ち位置としては、ドヴォルザークに近いだろう。また、東洋のバルトークとか浪速のバルトークとか呼ばれていたのは、そのスタンスが後期のバルトークに近いからだと思われる。別に作風が土俗的だからではないのではないか。

 話は戻って、次に伊福部がストラヴィンスキーを敬愛していたのは伊福部ファンには高名だが、その中で一番好きな曲がカプリッチォという、弟子たちも驚天動地の、松村禎三ではないが 「とても信じられない……」 というお話。

 私も伊福部最後の弟子である堀井友徳さんより、「伊福部先生はストラヴィンスキーでカプリッチォが一番好きだったと云ってました」 と前に伺ったことはあったのだが、さすがのストラヴィンスキーマニアを自認する自分でも、カプリッチォってどんな曲だったっけ……? と思ってスルーしていたほどの、まったく無名な曲で、これこそ意外や意外と云うほかは無い。

 無名といっても、自分の持っていたストラヴィンスキーのCDを漁ると、7枚も収録されたCDが出てきたので、録音が無いわけではない。特にピアノ作品集と銘打たれたものには大抵入っている。ストラヴィンスキーのピアノ協奏曲は「ピアノと管楽器の協奏曲」「カプリッチォ」「ムーヴメンツ」と3種類あって、その中では、一番聴きやすい反面、特に印象には残らない地味〜〜な曲である。

 参考 YouTube ストラヴィンスキー:ピアノとオーケストラのためのカプリッチォ

 その何が伊福部をとらえて離さないのか、これは専門家が研究対象にしても良いと思うほどのナゾだ。スタイルがまったく異なるのは、座談会の中でも伊福部が認めており、そういう意味ではないが、「ああいう曲を書きたい」 と断言している。

 特徴としてあげるとすれば、完結明瞭な書法、明確な表現力、時折見せる土俗性、それを隠すモダンさと洒落たフランス的雰囲気、などだろうか。

 そういうのに、伊福部は憧れ続けていたのだろう。松村禎三も芥川也寸志も、「……??」 といったふうで、ハルサイやペトリューシュカならまだしも、何が面白いのかまったく分からない曲を、なんで先生は一番好きなどというのか?? そもそも新古典といいつつ、伊福部先生はかなりロマン的ではないのか? という雰囲気が当時の録音の向こうから充分に伝わってくる。これは、この座談会の中で最も聞き逃せない部分である。

 その後、1か月後にせまった古希記念演奏会において初披露されるギリヤークのオーケストラ編曲について、芥川や松村が楽譜を持ち寄って直接伊福部のチェックを受けるのだが、ちょっとプロの作曲家級の知識でもないと難しい専門的な(和声等の、あるいは楽譜が無いとよく分からない)話になる。しかしその中で、私レベルでも分かる興味深い話が、1曲目のアイアイゴムテイラのくだり。

 3.アイアイゴムテイラの前奏部にある ダンダカダッタ ダンダカダッタ というリズムは、伊福部によると打楽器(トムトム)を使って ダンダカダダッタ ダンダカダダッタ(三連符) でもいいとある。これに芥川が、ピアノ譜と違いますが? と質問をすると 「ピアノじゃ(三連符は)弾けませんからねえ(笑)」 ということである。

 これでじっさい、オーケストラのアイアイゴムテイラを聴くと、伴奏で音量小さくトムトムが ダンダカダダッタ ダンダカダダッタ と叩いている。この速度は、確かにピアノでは無理で、伊福部は本当はこうしたかったのだが、「ピアノじゃ弾けないから」 という理由で、音符を減らしたということが分かる。

 また、黛や松村の部分ではオーボエがどうのとか、音色がどうのとか、4拍子に5連符はピアノじゃできるけどオケじゃかなり難しいのでやめた方がいいとか、かなり細かいオーケストレーションの話になって盛り上がるが、「(あまりこだわると)オーケストラが大変ですから」 という伊福部の言も出てくる。

 やはり、やってもらえるのならプロオケが相応しいに決まっているが、ぜいたくは言えない、という心境なのだろうか。やってもらえるだけマシ、という。酒の勢いもあってか、珍しい伊福部の本音が聴ける部分として注目したいところ。

 さらに4曲目の池野の担当のところでは、ファゴットとコントラファゴットの持ち替えの話になり、芥川が 「タプカーラが3管でそろってるから、持ち替えじゃない方がいい」 などと発言しており、オーケストラの編成は当日の最大編成であるタプカーラや日本の太鼓に合わせて行われたことも分かる。

 話は前後するがそれ以外では、

 4.交響譚詩の最初は、小節の4拍めからいきなりはじまって、ジャン・タタタタ・タタター〜となるが、これは、少し伸ばしてジャアアン・タタタタ・タタター〜となるのが正解

 芥川は伊福部作品で一番いいのはやはり交響譚詩と云っている。その冒頭は、ご存じの通り1音余計に裏拍から始まっている。伊福部はそこを強奏にしているが、西洋音楽では、装飾音符に含まれるのでたいてい弱く始まる。伊福部はれそが大嫌いで、日本の伝統音楽も最初はド・ドン! と始まるから、「よーし、やってやれ」 という気持ちで強奏にしたというのだが(笑) 問題は、なぜ裏拍なのかというと、最初は無かったのだが、ギターで作曲している内に最初を弾こうと思ったら親指がひっかかって、ジャララン、と入ってしまった。が、「これもいいなあ」 となって採用された。

 従って、あそこはギターの弦に指がひっかかったものだから、少し伸ばして、ジャアアン・タタタタ・タタター〜とやるのがいい。とのことである(笑)

 この3枚組のCDは、3枚目の座談会こそが本命白眉であり、コアなファンほど楽しめる。


8/17

 NHK音源の伊福部昭生誕100年記念CDを。

 全て伊福部昭。

 ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲〜改訂版第2稿(第3稿):山田夏精(一雄)/東京フィルハーモニー交響楽団/前橋汀子Vn
 土俗的三連画:ニクラウス・エッシェンバッハー/NHK交響楽団
 箜篌歌:渡辺範彦Guitar
 シレトコ半島の漁夫の歌:立川清登Br/是安亨Pf 

 こらいかにも貴重な録音ばかりであるが、まずこのCDで注目されるのは、なんといってもヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲(Vn協奏曲第1番)で、これは演奏当時、改訂されたばかりの第3稿を使用しているのである。

 この曲はこれまでの経緯で、初稿は3楽章制で40分もの大曲だったこと、その後2楽章を全カットして第1楽章と元第3楽章の2楽章制にし、その後も改訂して、現行版になったこと、が知られていた。作品表によると

 初稿(1948)戦後初めての純音楽オーケストラ作品
 第2稿(1951)ジェノヴァ国際作曲コンクール入賞 2楽章カット(改訂第1稿)
 第3稿(1959)(改訂第2稿)
 決定稿(第4稿)(1971)(改訂第3稿)

 となっている。

 ※ややこしいので、ここではCD表記の「改訂第2稿」ではなく、「第3稿」で統一する。

 この改訂では、第2稿による2楽章のカットというのが最大の改訂で、その後の2度の改定は微小の変更に止まるのだろうと、少なくとも自分はそう思っていたし、関係者の話を聴いてもそんな感じだった。晩年の伊福部は、例によってよく語らなかったようだ。

 しかし、FM放送で先行して流れたとき、当時を知る古い人は別にして、みなびっくりした(笑)

 第3稿と最終稿で、けっこう違った。そこまで違うか、という驚きと、3稿から12年後の最終稿でそこまで改訂していたのか、という驚き。また、オーケストラにマリンバが含まれていたのも驚きだった。伊福部の曲で、他に用法があまり例がない。

 1楽章はほとんど変わらない。ほとんどというのは、おそらく専門的に楽譜を比較研究すれば、和声だ楽器法だとけっこう変わっているとは思われるのだが、この貧耳で聴いた限りでは、格別に明確な違いがあるようには聴こえない。

 驚くべきは2楽章だ。これが、聴いただけでかなり違う。

 大まかな2楽章の違いは、まず演奏時間が第3稿:約6分、決定稿:約9分と3分も長くなっていること。3分というと実時間的には大したことがないようにも感じるが、全体の演奏時間から見ると、約1.5倍。これは20分の曲が30分になるのに匹敵する構成の変更である。

 構成の面では、以下の通り比較できる。

 第3稿:打楽器による導入〜短いVnソロ〜主部A(複合三部形式により特徴的な楽句を2度挟みながら進行。中間部にマリンバあり)〜B部(経過部ほどの規模)〜主部A'(カットされる楽句から→)〜終結

 決定稿:打楽器による導入(3稿より簡略化)〜主部A(3稿の楽句とマリンバはカット)〜B部(3稿より長い)〜Vnカデンツァ〜主部A'〜コーダ〜終結

 これは音楽の完成度としてはやはり当然ながら決定稿に軍配が上がると思う。3稿の主部Aに現れる上昇→下降の合いの手のような(おそらく6小節の)楽句も魅力的ではあるものの、それまでの楽句からして唐突な印象はぬぐえないし、なにより終結が尻切れでいけない。

 こうなると、第2稿というのもけっこう違うんじゃねえのか、とか、そもそも幻の2楽章を含んだ40分もの初稿というのも気になる、とか、マニアが言い出すのも無理からぬことであろう。

 3稿の旧3楽章である2楽章が6分で1楽章が13〜15分ほどであるのだから、40分となると旧2楽章が20分ぐらい必要になる。しかし、キングレコードの伊福部作品集の作曲者本人の解説によると、旧2楽章は15分ほどであるという。そうなると、トータルで40分ということは、元々の3楽章も実は10分くらいあって、それがカットされて6分になって、最終的にまた9分くらいに戻ったのではないか、とか、いや実は1楽章が20分くらいあったのではないか、とか、いや実は40分というのがガセで、35分くらいなのではないか、とか、非常に気になる。

 とにかく、時期的に初稿というのは東京に移ってから初めて完成させた純音楽オーケストラ作品で、気合が入っていたのだろうと推測される。また深井史郎のエッセイによると、当曲を作曲中に伊福部は、「そろそろ自分の才能の限界も見えてきた」 などと語っていたそうである。

 やっと演奏の話になるが、ソ連留学の手土産としてこの演奏をしたという前橋汀子のヴァイオリンがとてつもなく若々しく溌剌かつ流麗で貴重だし、指揮のヤマカズも若い。1楽章などはかなり速いと思う。この速さでもヴァイオリンはブレない。伴奏がむしろ早足でつっかかっているのは解説の片山杜秀の云う通りだ。2楽章の終わりの方など、崩れる寸前までつっこんでいて興味深い。

 土俗的三連画は珍しいN響のライヴ録音。およそN響が伊福部を演奏したのはこの土俗と、ずっと後年の外山指揮による交響譚詩が公式に載っているくらいで、あとは、岩城指揮でオホーツクの海の改訂版放送初演というのをやっているそうなので、それくらいだ。

 大ホール用に作者の了解を得て絃楽を増員した編成で、よく聴こえる。当時のホールはあまり響かなかったから、そういう措置もありだろう。N響の楽団員はさすがに上手く、酔っぱらいを表現したトランペットなども、ヘタな人がやると本当にミスっているのか楽譜通りなのか分からないが(笑) ここでは……やっぱりあやしい(笑) このトランペットを完全に演奏する猛者は、日本にはいないのだろうかw

 箜篌歌というのは、伊福部のギター3曲の中で最も渋い作品で、演奏時間も長い。どこかジプシー風でもありながら、古代の音楽へのイメージを想起させる。連続する音符の中からゆったりとした旋律が立ちのぼってくる形式で、何回も聴かないと分かりづらいし、中間部のレントなども、かなり渋い。全体の構図は三部形式で、むしろ単純だが、ずーっと音調が変わらないため長く感じる。

 しかしここの演奏はさすがに初演者だけあって、構造と旋律の描きわけというか、立ち上がりがとても分かりやすい。旋律も聴こえやすい。

 最後のシレトコ半島の漁夫の歌は、藍川由美の歌唱が凄すぎて印象深いが本来はこのようにバリトン用の歌。ちなみに自分は初めてバリトンで聴いた(笑)

 しっかし、暗い歌だねえ(苦笑) 更級源蔵の詩が当のアイヌからクレームが来るくらい滅亡的だから、仕方がないのだろうが。それにしたって、暗い。その分格調高く、悲歌はむしろ雄々しい。そこは音楽の力か。

 立川のバリトンは格調さを失わず、かつ、朗読のような分かりやすさも兼ね備えて、曲の本来の魅力をよく伝えている。


7/27

 伊福部昭の新譜CDの続きを聴く。

 新譜と云っても、まずは、けっこう前(2011年)に出ていたものを、ようやく聴いたというだけのものであるのだが。

 フォンテックの再発売の2枚ものの中に、未CD化だった、タプカーラ交響曲の改訂版初演が入っている。

 全て伊福部昭

 日本狂詩曲:山田一雄/新星日本交響楽団(再発売) 1980年ライヴ
 土俗的三連画:山田一雄/新星日本交響楽団(再発売) 1986年ライヴ
 交響譚詩:芥川也寸志/新交響楽団(再発売) 1977年ライヴ
 タプカーラ交響曲:芥川也寸志/新交響楽団(初CD化) 1980年ライヴ 改訂版初演

 ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ:井上道義/東京交響楽団/藤井一興Pf(再発売) 1983年ライヴ
 ヴァイオリン協奏曲第2番:芥川也寸志/新交響楽団/小林武史Vn(再発売) 1980年ライヴ
 オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ:山田一雄/新星日本交響楽団/安倍圭子Marimba(再発売) 1979年ライヴ

 再発売のものは、20年くらい前に初めてCDになったときからずっと愛聴しているが、ここんところは聴いていなかったので、この機会だから聴き直した。やはり自分の伊福部感も変わってきて、当時良く感じたものも、正直良くなくなっていた。

 まずヤマカズの伝説的な日本狂詩曲。ライヴでは62年ぶりだかの演奏で、ステージでは日本初演とかいう話を聞いたような記憶もあるが、確かではない。とにかくいま聴くと速くて速くて驚いてしまう。当時はこれしかCDで聴けなくて、テンポの情報も無かったものだから、これはこういう曲だと思っていた。逆に譜面の指示通りの演奏を後に聴くと、 「おそいなあ」 とか 「ノリが悪いなあ」 と感じたものだが、今は完全に逆になった。

 この日本狂詩曲はヤマカズならではの、崩しを究めたトンデモ演奏というのを念頭に置かなくては、音楽の真価を見誤る。キケンな演奏。

 同じくヤマカズの土俗的三連画は、原曲の14人編成ではなく、絃楽を増やしたオーケストラバージョン。のはず。こっちはさすがの演奏。テンポは両端楽章でやはりやや速いと感じるものの、全体によい表現。演奏もうまい。

 次の芥川による新響の交響譚詩も、芥川らしくテンポが速いというか、気ぜわしい。こちとら江戸っ子でい!な伊福部というのも、いまとなってはよくも悪くも芥川流の、独特な伊福部演奏だった。当時は、やはりこれもこれくらいしかCDが無くて、芥川による伊福部作品集をめちゃくちゃ聴いていたものだ。
 
 1枚目最後が、件のタプカーラ改訂初演。録音が古いし、なにせ初めての演奏だから探りながらという部分もあるけども、なんといっても熱い(笑) この曲にかける勢いと情熱がとんでもない。後にも先にも無い、一期一会の初演という名誉を担う誇りもガンガン伝わってくる。多少の瑕疵もまるで気にならない。

 とはいえ、これも速いw 芥川はアレグロがやっぱりどうしても大抵速い。また、当時、伊福部は何も云わなかったと思う。遠慮していたのか、芥川流として完全にまかせていたのか。レントのテンポはたっぷり。2楽章は特にいい。この情感は、さすがの解釈。特にコーラングレの最後のフレーズにリタルダントをかけるなんて、初演から既にいじってる。
 
 3楽章も怒濤の進行。後半はかなり速いけど、この後半部分だけはこのテンポで正解みたいである。オケがついてけなくてつぶれてるけど、仕方ない(^^; 当時はプロオケでも、こんなスピードじゃ演奏不能と言われたそうである。(伊福部家の方にきいた。)

 2枚目の協奏曲集。リトミカは昔聴いたときからなんか変な、おかしい演奏と思っていたが、いま聴いてもけっこうツライ。全体にこれも速い印象があって、特にミッチー氏の演奏は加えてドライなものだから、ガシガシ行くのだが、肝心のピアノが……。かなり厳しい。滑っている。解説によるとピアノの藤井は武満とか得意なようで、あまりこういうタイプの曲は得意ではなかったような気もする。

 ヴァイオリン協奏曲は、しばらくこの新響の演奏しかCDでは無かったので、これも聴きまくった良い想い出。しかし、若いころはこの曲の魅力がよく分からなかったのも事実。渋すぎて……。小林武史のヴァイオリンがさすがの演奏で、素晴らしい。

 そしてソロが素晴らしいといえば全盛期のこの安倍圭子のマリンバ! ラウダといえばヤマカズとのこのコンビという、完璧な演奏。これは何回聴いても素晴らしい。


7/12

 吉松のオーケストラ最新作の録音が出たので聴く。

 飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪
 飯森範親/山県交響楽団/三村奈々恵Marimba

 吉松隆:交響曲第6番「鳥と天使たち」 L2013
 吉松隆:マリンバ協奏曲「バード・リズミクス」L2011

 まずは12年ぶりの新作、第6交響曲。5番の後、少し間を開けるのがよいとは思ったが、まさか干支が一回りするとは思わなかった(笑) 本人も思わなかったようで、2度ほど委嘱があったがお流れになったそうで、三度目の正直で世に出た。創作といっても同人活動ではないのだから、仕事としてやっていると、クライアントとのいざこざはある。

 委嘱が室内オーケストラであったため、小編成の軽交響曲で、3楽章制で約30分。4番に通じるものであり、じっさい4番と姉妹作という。私としては、やはり吉松はこういうライトな作風が似合っている。重量級の曲も良いが、演奏者をえらぶ。
 
 曲及び各楽章に導き程度のタイトルがあるが、もちろん標題音楽ではない。第1楽章「右方の鳥」 第2楽章「忘れっぽい天使たち」 第3楽章「左方の鳥」 となっている。左方右方は、雅楽の左方の舞、右方の舞からとっている。忘れっぽい天使たちというのは、クレーのペン画のタイトルの引用で、吉松のデビュー作のハーモニカ曲と同名。

  クレー:忘れっぽい天使

 冒頭より、シニカルでリリカルの吉松節。自作の引用もたくさん出てくる仕掛け。また、全体にシベリウス、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチ、そしてもちろんベートーヴェンの「6番」が引用されている。が、私はシベリウスやショスタコは覚えるほど6番は聴いてないので(笑) チャイコと田園しか認識できない。ここらへんも彼の4番に共通する。シベリウスはたぶんここだろうな、というのは分かるが自信がない。ショスタコはまったくわからない。

 1楽章は15分とほぼ全体の半分を占め、3拍子を基本としたリズムと音響の饗宴。そしてどこまでも軽く、ふんわりしている。鳥のイメージそのもの。鳥といっても、ダチョウやワシではない。小鳥類である。ただ、後半のドライヴ部では、猛禽類の顔も見せる。これはハヤブサの疾走感。自由形式の、狂詩曲。

 2楽章は緩徐楽章でフルートのソロから、月夜が冷え冷えと蒼い。小夜鳴き鳥の声は、ソプラノサックスやファゴット?に続く。玩具の鳥の声が夢を見る。ここでいう天使は、西洋キリスト教の天使ではなく、日本的な精霊なのだという。夢はワルツになり、シベリウス(らしき部分)やチャイコの悲愴が現れる。

 3楽章はドライヴに戻り、自身のサッククス協奏曲の引用から、さまざまな音響がまるで多様性主義。ロンドでも無く、自由な吉松形式で、やはり狂詩曲性格。ここでは田園が走馬灯で一瞬、よぎる。ドライヴの頂点でテンポが落ち、バスドラとドラが心地よく軽く響き、夢は醒めずに融けて行く。

 吉松の交響曲では、もっとも心地よく、一番好きになった。やはり彼も、交響曲は3楽章制が似合う。伊福部も松村も、師筋は交響曲は全てフランク流と見せかけた日本の序破急流3楽章だから。

 マリンバ協奏曲は3楽章制でこれまた25分もの大曲。伊福部と同じく、彼はちょっとノリが良くなると書きすぎる。嫌いではないけどw ただ、1楽章、2楽章とも10分ほどなのに対し、3楽章は5分と半分の規模。これは、まるで師・松村禎三の第2交響曲に通じていて興味深い。

 演奏はFMでも流れた初演ではなく、山県による再演の模様。

 こちらも各楽章に導き程度のタイトル。第1楽章「鳥の符号」 第2楽章「雨の歌」 第3楽章「鳥の饗宴」 アフリカ〜中南米起源の「熱帯の楽器」であるマリンバの根源を見つめなおす。熱帯鳥の激しいさえずりの中に、木霊が響く。この執拗なオスティナートはもちろん、伊福部の超名曲ラウダコンチェルタータの精神に通じる。祈りと、雨や原住民の太鼓などの熱帯のリズムと、生命の躍動と、そして精霊の歌と、神聖な清浄さに満ちている。

 2楽章がちょいと長い。後半にアレグロがあるが、ここの部分は3楽章ではだめだったのだろうか? 雨の歌だそうだから、前半はしっとりした雨の情景で、後半はスコールなのかね。解説で吉松が苦手と云っていた、マリンバのトレモロ奏法が駆使されて、雨だれを紡いでいる。ちょうど半分ほどからテンポが上がり、ビートも加わって雨が激しくなってくる。しかし、雨乞いの喜びの踊りで鳥より蛙が喜びそうな雰囲気。ここが長い(笑)

 そして一気に鳥たちが雨上がりに啼きだす。リズムがアフリカンビートを叩き出し、マリンバも疾走。けっこうな音符の量だと思うが、速いから短いのかもしれない。マリンバも凄いが、伴奏のパーカッション類がとても迫力がある。伊福部のズドドドン! ともまた異なった、タカタカタカタカタカタカ……というデジタルかつ土俗的な雰囲気も良い。コーダから、一気に終わる。

 吉松の第6交響曲は、そのうち交響曲の項に加えます。


6/30

 昨年の6月1日、プロメテの火と日本の太鼓のライヴに関しては 伊福部昭演奏会報告3(の、一番下:実演での伊福部昭17)にありますので、ここではライヴと前日のリハーサルを録音したものをリミックスした盤の、純粋なCDとしての感想です。

 広上淳一/東京交響楽団

 伊福部昭:舞踊音楽「プロメテの火」
 伊福部昭:舞踊音楽「日本の太鼓“鹿踊り”」

 当日の衝撃はかなりのものだったプロメテの火だが、こうしてCDとして聴いてもその感動は変わらない。もっとも、こちらで貴重なのはそのブックレートで、片山杜秀による解説がある。それによると、伊福部はプロメテの火をあまり気に入っていなかったようで、踊り(振り付け)側からの注文が凄くて、それに合わせて注文音楽として作った部分が多かったようだ。

 確かに、サロメや日本の太鼓は演奏会用にリオーケストレーションしたが、プロメテは火の歓喜ですら出そうとせず、楽譜は無いと言い張っていたという。じっさい、オーケストラの楽譜は手元には無かったようだが、ピアノ譜はあった。プロメテの火は、伊福部にとって不本意な部分があったフシがある。

 それがどういう部分かは、この発見されたオーケストラ版の演奏で推測がつく。というのも、これは珍しい伊福部がコンサート用に直す前の、オーケストラピットに入っていたそのままの編成で、映画音楽でいうと、SF交響ファンタジーではなく、撮影用の編成のまま、ということになる。

 演奏会の感想にもあるが、リズムを重視して絃楽を厚くしているあまり、主旋律の木管が聴こえない部分がある。管絃楽法を上程した伊福部ほどの達人が、そんなオーケストレーションをするはずがなく、内心忸怩たるところもあったのだろう。そんな音楽が、日の目を見るを許可するはずも無い。今風でいうと、ある種の黒歴史というわけで。

 しかし、現実、我々は伊福部昭が亡くなった後、このようにしてその曲を聴いている。皮肉というか、我々にとっては複音だが。
 
 冒頭より録音がよいと思う。当日も会場に鳴り響いていた指揮者の鼻息も入っている(笑) なにより、リミックスが上手で、木管がちゃんと聴こえているというのが録音物として価値だし、鑑賞のよろこびだと思う。当日の席にも寄るのだろうが、しつこいようだが、当日とにかく自分の座った場所では木管がまるで聴こえなくて困ったので、これはうれしい。

 全体に聴いてみても、踊りが無い分、この規模のバレエ音楽の全曲版というのは、冗長な部分があるものなのだが、これにはほとんど無い。あったとしても、モティーフによるイデーの繰り返しであって、意味もなく同じ主題が何度も登場してるわけではないので、モダンバレエではなく、ストーリーがしっかりしているので、聴く方も想像できて楽しい。

 改めて聴いてみて、静かな部分と躍動的な部分とのコントラストが激しく、伊福部の工夫がみられる。静かな部分は良いが、リズム重視の部分は絃楽の刻みの効果がものすごく、最初の方は良いがだんだん盛り上がってくると、とても太刀打ちできない。さらに盛り上がって金管が旋律を補正するとまた逆転するが、このオーボエやフルートはかわいそうだ。

 これは、伊福部は好きでやっているのではないと何回聴いても、いや聴くたびに強く感じてくる。

 その最たるものが火の歓喜であって、アレグロに入ってからのオーボエは、リミックスしてもコレで、これでも充分聴こえている方である。これは、踊りが入ったらダンサーの足音で、オーボエ・フルートは圧殺されてしまっただろうな。

 その意味で、ミックスを調整したCDの存在価値は高い。

 それにしてもここのトランペットの殺人的高音は相変わらずの給料査定。特撮にもこういうトランペット殺しの音形は出てくるが、土俗的三連画のころから、伊福部は得意であり、何か思うところがあったのだろうか。

 ちなみに、当日の演奏とその模様を放送したFMを聴いていた方はご存じと思うが、ラストの瞬間に感極まった?方の奇声(と、我々は呼んでいる)が豪快に入ったのだが、リハーサルの音と差し替えられたのだろうか、上手にカットされたのか、こちらには入っていない。

 これも何回もあちこちに記しているが、長い長いと評判のこの音楽、私は50分聴き通しても、まったく長く感じない。全ての音楽が必然的で、ストーリーに合っており、いっさいの無駄が無い。25分〜30分ていどの、自分なりの組曲版も作ってみたが、むしろ物足りない。30分といえばハルサイ1曲分であって、けして短くはないのだが。

 逆に、こちらはやはり、内容が薄いというか、分かりやすく旋律重視で、オーケストレーションも含めて聴きやすいのだろう。同じバレエでもサロメは内容が濃く、話も深刻で、演奏時間はプロメテより短いのに、とても長く感じる。

 続いて、日本の太鼓だが、こちらはコンサート用の編曲があるので、聴き比べが出来る。オケピットの中の2管とコンサートステージ用の3管では、オーケストラの響きにこんなに違いがあるのかと思うだろう。

 音楽としてはほとんど変わっていないはずなので、聴き所は本来踊り手が鳴らすササラの音とか、太鼓の音だろうか。幕間のペトリューシュカのような太鼓連打も、当日はプロジェクターに踊りを参考までに写しながら演奏していて、それへ少しでも合わそうとしたため、やたらとトレモロが長かったが、編集で、もちろんカットしていると思われる(笑)

 場と場のつなぎの踊り手の太鼓ソロなんかも、コンサート版には無いもので面白い。第4幕のテンポなども、かなり速い。ここの変拍子は、伊福部は8分音符をつかっており、本来は4分音符のテンポであるが、8分音符のせいで指揮者はみんな速く振るというが、じっさいにこれで踊っているのだとしたら、これでも正解なのだろう。コンサート用ではここに太鼓のソロが入る。よく記念演奏会で、弟子たちがみなで叩いているアレだ(笑)

 そして驚くのがラスト。いきなりジャーーン! おしまい。
 
 踊り側からの注文なのか、終結分を欠いており、ここもコンサート版では大きく直されている。

 せっかくなので、伊福部ファンの方はぜひ聴き比べて楽しんでもらいたい。


6/8

 これまで幾多の貴重な演奏や、秘曲を紹介してきた伊福部昭ピアノ作品集も、昨年に第3集が出た。

 今回の目玉は、なんといっても幻の曲であった「子供のためのリズム遊び」だろう。本来は1管編成小オーケストラだが、ピアノに編曲されている。

 二十絃箏:野坂操壽

 ヴァイオリン:ヤンネ舘野
 ピアノ:山田令子

 伊福部昭:二十絃箏と管絃楽のための交響的エグログ(ピアノリダクション)
 伊福部昭:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
 伊福部昭:子供のためのリズム遊び 阿羅漢さん遊び/羽子つき/マウンテン・マーチ/ギャロップ遊び/木の葉/運動会行進曲/楽しい学校(マーチ)/愉快な二拍子/場所取り鬼<スキップ>→<魚>→<電車>→<ジャンプ>

 協奏曲で、ソリストの練習用にピアノ伴奏版がオーケストラ版と同時に作られるというのは、よくあるようで、伊福部でもリトミカ・オスティナータやヴァイオリン協奏曲2番にそれがあった。ラウダコンチェルタータはそれらの録音をうけてわざわざリダクションしたものだったが、解説を読むに、このエグログは当初よりピアノ伴奏版があったようである。

 もともと練習用であって鑑賞用ではないので、どこまで鑑賞に耐えうるか、は個々人によって微妙なところがあるとは思うが、ピアノ協奏曲の2台のピアノ版というのは、音色が同じなため私は微妙だ(笑) 同じ意味でマリンバ協奏曲のラウダコンチェルタータも、雄大な祈りが絃で表現されるところがピアノなもので、かつ、マリンバとピアノの打音が似ていてイマイチだった。

 というわけで、箏とピアノだが、果してどんなものか。

 この交響的エグログという協奏曲は、伊福部昭が晩年の主に箏曲においてのリリカル路線に到る最初期のような感じで、それまでの力強い伊福部アレグロからは遠い。また、釧路湿原は付随音楽、釈迦はバレーからの編曲、わんぱく王子も映画からの編曲ものと見なすと、伊福部昭最後のオリジナル管絃楽作品、ということになる。1982年の初演であるから、68歳のころだ。91で亡くなるのを思えばまだ20年以上あるが、体力的にもう難しい、と70代を前にして伊福部は思っていたそうである。

 伊福部の協奏曲も当初はまともな3楽章制からいろいろと工夫して2楽章制、1楽章制と変遷し、1楽章制でもメリハリの効いたリトミカとラウダから、もっと複雑なヴァイオリン2番と最後にこのエグログに到っている。箏という楽器の特性もあるだろうが、エグログではもう枯淡の域に行き着く寸前の、リリカルな歌と山水の世界の墨絵の雰囲気が色濃い。オーケストラだとまだそれが肉厚だが、ピアノ伴奏では、山水の境地に近づいている。

 冒頭の旋律の、なんともの悲しいことよ(笑) その後も、ぼんやりとした間接照明のような音楽が、陰影として続く。それはアレグロとなっても印象は変わらない。元来薄いオーケストレーションは、ピアノのみとなっていよいよ研ぎ澄まされて行く。そこへ箏の、これがまたなんとも哀愁のある音色。渋すぎて聴く者をえらぶか。

 名曲、ヴァイオリンソナタは、名演奏も数あるが、ここは舘野泉の子息であるヤンネ舘野がヴァイオリン。確かなテクニックと、魅力ある勢いの良い音色がいい。伊福部の日本狂詩曲をラジオ放送で聴いたシベリウスは特に第1楽章を褒めたというが、北の冷風を感じるあまり粘りの無い爽やかな解釈に感じた。2楽章の子守歌もいい。3楽章のテンポも速からず遅すぎず、良いと思った。

 さて、目玉は、初お目見えとなる子供のためのリズム遊び。SPを持っている人は知っていただろうが、大抵は持っていないので、聴いたことがある人は少なかったはずである。本来は1管編成の小オーケストラだが、ここではスケッチその他を参考にしてピアノに編曲されている。レコードは10曲の組曲だったが、1曲目は伊福部の曲ではないということで、9曲が収録されている。

 9曲の中で、阿羅漢さん遊びとギャロップ遊びが伊福部には珍しく編曲もので、童謡の途中にいきなり後に特撮でおなじみの伊福部メロディーが割り込んできて、これが奇妙な面白さ。そのほかの曲も、運動会のマーチや学校のマーチに後の自衛隊マーチがどんどん出てくる。マウンテン・マーチなどは、名前はマーチだがなんとワルツで、伊福部のワルツなんてこれ以外に知らない。

 木の葉も子供が聴くには随分と渋いし、子ども向けかもしれないが、けして子供だましではないのが好感。愉快な二拍子もむしろ不気味な二拍子で面白い。終曲の場所取り鬼は、まるでサン=サーンスのような、おしゃれな感じがたまらない。


5/24

 スリーシェルズレーベルの企画演奏会はずっと吹奏楽のシリーズが4まで出ていたが、齊藤一郎とセントラル愛知交響楽団のコンビニより、いよいよオーケストラに進んだ。

 しかし、正直云わせてもらうと、この細かなテーマ曲等をちびちびやる企画は、そろそろ飽きてきた。最初はマニアックな吹奏楽曲や委嘱作など楽しかったが、サントラやテーマ曲は、自分はそもそもそんなにマニアではないし、もうちょっとガツンと純粋音楽でやってほしいものがたくさんある。

 その意味では、黛の秘曲2曲はとても良かった。ぜんぶこういった曲で統一してほしいが、そこはサントラやテーマ曲などのファンのほうが重要な客層なのだろうから、そっちをメインにして余祿に純音も、というのは、理解できる。

 齊藤一郎/セントラル愛知交響楽団/大西宣人Fl/長原幸太Vn L2012

 松村禎三:ゲッセマネの夜に
 黛敏郎:セレナード・ファンタスティック(未完)
 黛敏郎:G線上のアリア
 山田耕筰:序曲二調

 團伊玖磨:ラジオ体操第二
 古関裕而:NHKラジオ「ひるのいこい」テーマ
 北爪道夫:NHK-FM ベストオブクラシック・テーマ音楽
 芥川也寸志:NHK大河ドラマ「赤穂浪士」よりタイトル
 伊福部昭:交響ファンタジー「ゴジラVSキングギドラ」よりVII.ゴジラ

 黛敏郎:NTVスポーツ・ニュース・テーマ
 深井史郎:日本テレビ「鳩の休日」
 團伊玖磨:シネ・ファンタジア「無法松の一生」
 斎藤一郎:映画「眠狂四郎女妖剣」より
 黛敏郎:映画「天地創造」より「間奏曲」

 相変わらずの、このラインナップ(笑)

 松村最晩年・最後のオーケストラ曲、ゲッセマネの夜は、その内容の濃さ、演奏しやすい時間と編成からか、ここのところ演奏頻度が増えているように感じるし、新規録音の松村のオーケストラ曲ではほぼこれだろう。若いころの重要なオーケストラ作品も素晴らしいが編成が大きいし、最近は演奏しづらくなっているのではないか。その意味でゲッセマネは手頃なのだろう。

 この、ユダがキリストを裏切る場面の絵画による抽象音楽は、辛辣で痛い。これをどこまでシリアスに演奏できるかが勝負だが、斎藤の解釈はかなり生々しい響きを生み出していた。まさに生の人間としてのユダとキリストの心の煩悶といった表現に思えたが、個人的な好き嫌いの問題で最後の吊りシンバル(サスペンダーシンバル)がイマイチ。

 このシンバルはこの曲の要だと思うのだが、我輩がこれぞと思うのはナクソスの湯浅卓雄の表現。単純な叩き方の問題だが、奏者も指揮者も、誰も気にしないのかな……。

 何がか、というと、スティックの先(ヘッド)でカチーン、カチーンと叩くのはどうもしょぼい。衝撃的ではない。心象の衝撃を充分に表すのは、腹の部分(膨らんでいるところ)を使ってバシャーン、バシャーンと叩くと良い。この曲は、この最後のシンバルでそれまでの演奏の生き死にがきまるとすら思っている。

 初演の岩城の演奏もヘッドの先を使っていた。吊りシンバルという楽器は、ふつう木琴のバチ(マレット)を使うから、楽譜には「スティックで叩け」という指示はあるのだろう。しかし、たぶん叩き方の指示までは無いのだと思う。奏者にまかされる部分だと思うが、指揮者は何にも感じないのか、それで良いと判断しているのか。

 (話は飛ぶがストラヴィンスキーのバレー音楽「結婚」の冒頭の吊りシンバルもそう。バシャーンという音で始まるのと、カチーンと始まるのとでは、音楽の勢いがぜんぜんちがう。)

 続いて、黛がなんと17歳のときに途中まで書いたという、フルート協奏曲が初演された。こんな譜面、よく見つけたものだと感心した。斬新すぎて、技術的に辛くなったのか、第2楽章の途中で終わっている。頭脳にテクニックがついて来られなかったという、いかにも天才の匂いがする。

 曲は斬新だが新古典主義的でもあり、ハイドンの引用もある。1楽章「序奏とロマンス」2楽章「間奏とダンス」で、間奏のあたりで終わっているようである。未完成の曲をどうのこうの言えるのはシューベルトの8番(7番)とブルックナーの9番、マーラーの10番(全集版)くらいだろうということで、ここで曲の内容を言ってもしようがない気もするが、1楽章は確かに面白いし、完成度も異様に高く、高校生の書く音楽じゃないな(笑) 独奏楽器がフルートというのも渋い。どういう経緯でフルートなのだろうか。

 白眉は黛のヴァイオリン協奏曲。12分ほどの小品ながら、黛にこんな曲があったのか、とこれも感心した。よくもまあ、見つけてくるものだ。名前がG線上のアリアと、バッハの高名な「通名」と同じにしているのはもちろんパロディで、曲の中身も同じような調性かというとこちらは逆にけっこう辛辣な響きで、この対比も面白い。これが、題名の無い音楽会での放送でしか演奏されていないというのは、実に勿体ない話だ。

 呪術的オスティナートと、まさに日本刀を振り回すソロヴァイオリン。通常の概念では協奏曲の最終楽章といった趣の曲で、中間部ではテンポを落として叙情的にもなるが、すぐに緊張感を増して、タイトル通りG線をメインに声明を連想させる長い1音のみの響き。コーダは再現部で、冒頭のテーマが戻ってきつつ、展開して、静かに終わる。

 山田耕筰のニ長調の序曲は、演奏時間が3〜5分と短いながらも日本人が初めて完成させたオーケストラ曲とのことである。内容はドイツ古典式序曲を見本にした序奏付ソナタ形式といったところで、ドイツの作曲家の出来といってもまったく分からない完成度。作曲そのものが習作期の時代の、記念すべき最高の本歌取りだろう。こういうのを聴けるのがこの企画の素晴らしいところ。

 次から、テーマ曲集。ここからは、私は特に興味のある分野ではないので(笑)サラッと行かせてもらう。

 團伊玖磨のラジオ体操第二のオーケストラ版から始まる。復元ではあるが、オーケストラ版があったのか、といったところ。次が古関の「ひるのいこい」のテーマ曲。これは確かにラジオで聴いたことがあるが、会場で聴くと面白いのだろう。CDで聴いてもあまり有り難みが無いな。次は北爪の「ベストオブクラシック」のテーマ。こんなに長かったんだ、と思った(笑)

 芥川の赤穂浪士のテーマもすっかり定着した感があるが、実は私は武蔵坊弁慶のほうが好きなのである。しかし武蔵坊弁慶のテーマは新響による自作自演の録音しか無いと思う。次はぜひやってほしい。しかしこの演奏はやけに熱い、激しい演奏だ。特に小太鼓(笑) なんだよこれ、いくら進軍だからって、これでは第二次世界大戦だw

 伊福部は抜粋演奏となる。喜寿記念のさいに特別に編まれた交響ファンタジー「ゴジラVSキングギドラ」よりゴジラの部分。なんでこの版なのかは、おそらく楽譜が入手しやすかったのではないか。

 次に黛の有名なスポーツニュースのテーマ。自分の世代では「プロレスのテーマ」のほうが分かりやすいか。ここから、深井、團、斎藤の3曲は、まったく知らない。へー、というかんじ。

 最後にまた黛の映画「天地創造」から間奏曲。雄大なテーマが魅力。もうひと声で、早坂の七人の侍の間奏曲があっても良かったが、これで、締め。


4/29

 昭和天皇天長節であります。

 今年は伊福部昭生誕100年ということで、そんなには盛り上がらないかなと思っていたら、けっこう演奏会もCDもウソみたいな盛り上がりで、うれしい悲鳴です。

 しかも、秘蔵の音源が次々に発掘されたり、演奏会の模様がライヴ録音でCD化したり、果ては半世紀ぶりの蘇演になったりと、内容も充実。

 伊福部昭関連のCDは少しずつ聴いてゆきます。

 まずは秘蔵中の秘蔵音源がTBSラジオの倉庫から発見されたという話題で、その中になんと、伊福部昭のリトミカ・オスティナータの初演の模様が含まれてた。それがネットラジオで公開されたのち、CDになった。

 上田仁/東京交響楽団
 森正/合唱指揮
 金井裕ピアノ
 奥村淑子ソプラノ
 
 伊福部昭:ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ(初演)
 片岡良和:抜頭によるコンポジション
 石井歓:シンフォニア・アイヌ

 全てモノラル録音

 さて、私と伊福部昭最後の弟子の堀井さんとの対談の中でも触れているが、もともとリトミカ・オスティナータは初演ののち一部改訂されており、初演版には改訂版には無い、カットされた部分があり、もっと長い曲だった、とされていた。しかし、どこがどう変わっているのかは、分からなかった。従って、初演の録音が発見というのは、まさにミッシングリンクがつながったといえた。

 おおまかな内容は変わっておらず、アレグロ部A〜アダージョ部Bを主題とし、改訂版はABA'B'A''コーダと続くが、初演版はABA' C B'A''コーダと、おそらくAの主題を変奏による「C」の部分があった。演奏時間も、けっこう速く、改訂版とあまり変わらないものだった。これは、ただ単に初演の演奏が速いのか、改訂版のオスティナート部の小節数が増えているのか、分からない。

 ※ピアノ組曲のオーケストラ版である日本組曲では、1曲目と4曲目のオスティナート部分の小節数が少し増えている。

 演奏だが、初演はやたらと速く、まず驚いた。改訂版の初録音である若杉盤もやけに速かったが、そもそもああいう速度なのだろうか。確かに譜面も速い指示があるにはあるが、伊福部の速度記号は本人が想定しているものよりかなり速いのは、日本組曲の盆踊りや、日本狂詩曲の2楽章でも分かっている。

 しかし、演奏者は楽譜が全てなのだから、それはどうしようもないところがあるだろう。

 細かいところは分からないが、聴いたかぎりでは改訂版とほとんど変わらない進行が続く。しかし、やはりみな 「アッ…!」 と驚くのは「C」の部分だろう。ここのところは、改訂版では絃楽器がデクレッシェンドで ザンザンザンザン……と刻みを小さくして行き、やがて消え、アダージョになるという部分であって、自分はここがどうも 「とってつけたような」 違和感があって、嫌いな箇所だったが、なんとここにカットされた楽想があったとは!!

 ここはデクレッシェンドせず、絃の刻みに乗って(たぶん)リトミカA主題の変形でゴジラ踊りというか、奇天烈踊りのようなとても面白い楽想が挟まれていたのだった。それが2分ほど続いて、ようやく絃の刻み(あまりデクレッシェンドしない)から、アダージョにつながるというものだった。

 これはちょっと衝撃だった(笑)

 かなり面白い展開ではあるが、無い方がすっきりしていると言われれば確かにそうだし、改訂版のほうが完成度が高いというのはそれは私も賛成する。しかし、余計な部分ではあろうが、捨てるに惜しい素材でもある。好きか嫌いかというと、好きな部分だ。なにより、あのとってつけたような繋ぎの部分に、やっぱり実は他の楽想が挟まっていて、カットしてしまったがゆえのあの 「つながらないつなぎ」 なのだとわかった。それがちょっと、無性にうれしかった。

 続いて片岡の抜頭(ばとう)によるコンポジション。抜頭はそういう題名というか種類の雅楽で、舞踊付。ぐぐればYouTubeに動画があるので、興味のある方は見てみるといいと思う。コンポジションはここでは作曲や作曲法の意味だろう。現代音楽では、けっこう○○によるコンポジションというタイトルの曲があるが、○○の主題による作曲、というほどの意味だろう。

 13分ほどの音楽で、アタッカで5楽章が続けて演奏されるので、5つの部分に別れてる1章制の曲ともいえる。東京放送が募集した「日本を素材とする管弦楽曲」の入賞作品であり、無調、セリーの主義音楽ではなく、民族主義的な作風であるもの。

 軽い序奏ののち、雅楽の旋法がオーケストラで奏される。打楽器も鼓類のリズムをとって、いかにも雅楽というふう。テンポを少し上げてアンダンテからアレグロとなると第3部。執拗なオスティナートで、抜頭を変奏してゆく。ここは西洋のリズムをとっている。アレグロがコデッタをむかえると、フルートが主題をとり、打楽器が雅楽に戻って、絃楽も笙を模して行く。最後は、第3部のアレグロを再現して終結。ABCDC'という形か。

 石井歓のシンフォニア・アイヌは交響的組曲「アイヌによせて」を改作したものだそうで、豪快で素朴な作風が魅力だが、いかにも西ドイツにおける石井の師・カール・オルフの作風そのままで、笑ってしまった(笑)

 ここまでやる必要はないだろうと思ったが、楽しいからいいけどw

 3楽章制、レント〜アニマート、ソステヌート、アレグロで第3楽章にソプラノ独唱と合唱が加わる。合唱は伊福部の歌曲と同じ「ヤイシャマネナ」と歌うが、伊福部はレントでこちらはアレグロ。まるで異なる曲がついていて面白い。

 もともと組曲だったせいもあるのか、全体で22分ほどと、そんなに長い曲ではない。

 第1楽章はレントの序奏付アニマートで、レントも険しい響きだが、その後のオスティナートなどはもうアイヌというよりゲームの戦闘の音楽w 絃楽が刻む単純な動機に、明るいオルフ調の(あっ言ってしまった!)の旋律が重なってくる。中間部主題はテンポを落としてこれはコミカルなもの。再びアレグロへ戻ってコーダへ到る単純な三部形式。

 第2楽章ソステヌートは短い楽章で間奏曲に近いか。緩徐楽章というふうではなく、テンポはまずまず速い。木管による朗らかな主題が、アイヌの素朴な暮らしを表しているような気もする。

 第3楽章は純粋なるアレグロで、なんともここが最も長い楽章。短い緊迫した序奏から、いきなりソプラノが登場。ヤイシャマネナを歌って行く。合唱も特に歌詞の無いヴォカリーズから、テンポが快速になり、混声合唱でアイヌ語が呪文のように執拗なリズムの反復で歌われて行く。ますますオルフ(笑) テンポはさらに上がって、興奮してゆき、第1楽章の再現を行う。その頂点のまま、終結。

 シンフォニア・アイヌはそのうち交響曲の項に追加します。


4/6

 ヤナーチェクの最晩年の作品を集めたマニアックな作品集を。

 フランティシェク・イーレク/ブルノ・フィルハーモニック管弦楽団
 カロリーナ・ドヴォルジャーコヴァー Sop
 イヴァン・ジェナティー Vn

 シンフォニエッタ
 ドナウ交響曲
 ヴァイオリン協奏曲「魂の流離い」
 シュルークとヤウ

 シンフォニエッタは「小交響曲」でもあるので、既に交響曲の項に載せているが、カタログでヤナーチェクにドナウ交響曲なるものがあると知り、聴いてみたくなった。しかし、届いたCDはドナウ交響曲だが、ネットで調べると、こいつ、交響詩ドナウとなっているものもたくさんあった。

 Wikipediaの作品表は交響詩ドナウで、しかも「未完」とかになっていやがっており、どっちなのかなとか、そもそもどういう曲なんだと思い、調べてみたがあまり要を得ない。

 作品的には16分ほどの4部制で、これこそいかにも小交響曲であるが、以下の情報が散見された。

 ・スメタナの我が祖国のように連作交響詩ドナウの第1曲目として構想されたが、未完に終わった
 ・交響詩ヴルタヴァ(モルダウ)のような情景描写音楽ではない
 ・インサロフ(本名ソーニャ・シュパーロヴァー)という若い女流詩人の、「ローラ」という詩による
 ・交響曲そのものが未完に終わったという話もあり、もっと続く予定であったものか、よく分からない
 
 つまり、事実上は交響詩といってもさしつかえないのも事実であった。しかし、ツイッターで日本ヤナーチェク友の会よりいただいた情報によると、「日本語訳で交響曲と交響詩と両方あるが、チェコスプラフォンのCDでもシンフォニーであり、現地では交響曲となっているものが多い」 ので、内容は交響詩で形式は交響曲という、ま、一種の小規模な標題交響曲かな、といったところですので、そのうち交響曲の項のヤナーチェクに追加したいと思います。

 で、最初から聴き進めますと。

 シンフォニエッタは、録音のあれなのか、オケの特色なのか指揮者の指示なのか、どうも絃がよわっちい。金管もスパーンと鳴らないで、もやーっと響いてくるから、指揮者のやり方なのだろうか。本場オケらしく手堅く進めると思いきや、けっこう雑な部分もある。本場ならではの部分は、やはり発話旋律だろうか。チェコは西のボヘミアと東のモラヴィアに文化や原語が別れ、ヤナーチェクはモラヴィア出身。その民謡や方言をそのまま旋律としているので、地元民のオーケストラではそのところがやはり強い。面白く聴けた。

 ドナウ交響曲は、未完成物らしく、アンダンテ〜アダージォ〜アレグロ(スケルツォ)〜アレグロの、4つの部分に別れては入るものの、16分ほどの中途半端な曲。ローラという女性がドナウ川に身投げするというストーリーの詩により、内容としては完全に交響詩。ヤナーチェクの交響詩は暗いストーリーによるものが多く、いかにもヤナーチェク好みの音楽になっている。シュチェドロニュとファルトゥス(ブルノの作曲家であるという)という人物が編纂。

 アンダンテとアダージォ部は、悲劇を予兆する暗い雰囲気のテーマが流れてくる。ローラという娼婦が世を儚み、ドナウ川へ身投げして自殺する。後半ではティンパニが悲劇を強調する。オーボエの特徴的な旋律がまた不気味だ。

 後半はスケルツォで、ソプラノのヴォカリーズが入る。ここがまた、不思議な雰囲気。楽しげなテーマがウィーンの様子を表し、そのテーマをソプラノが歌い続ける。第4部は優雅な響きの終結部。なぜかティンパニがやたらと活躍。カッコイイテーマが次々に現れる佳品。その中にも、ヤナーチェク独特のオーケストレーションが面白い。そして意表をつく、悲劇的なラストである。

 最晩年の作品であるヴァイオリン協奏曲こそ、未完に終わって、というか最終的にヤナーチェクが協奏曲としての作曲を止めてしまって放置していたものを、なんとか演奏できるような状態になっていた部分をこれもシュチェドロニュ、ファルトゥスの2人が編纂し、12〜14分ほどの小品として仕上げたもの。めぐるましくテンポが変化し、短いながら聴き応えがある。冒頭よりヴァイオリンソロが激しく登場。アンダンテ〜テンポ・ディ・マルチア〜アダージォ〜アレグロ〜グラーヴェ〜マエストーソと進行する。狂詩曲のような雰囲気。

 奇妙なのは、アレグロの部分だと思うが、チャリチャリという音が入ってくるが、タンバリンか何かかな?と 思いきや、なんと「鎖」。鎖をチャラチャラと鳴らしている。斬新だなあ(笑) 現代音楽の手法だよ。

 後半はヴァイオリンや伴奏も民謡調になる。鎖は最後にも登場する。

 劇付随音楽「シュルークとヤウ」の音楽も珍しい。これも最晩年の音楽で、ヴァイオリン協奏曲と共通のテーマを内包している。アンダンテとアレグレットからなる12分ほどの小品で、これも面白い。

 ハウプトマンの戯曲というが、どんな作品か知らないのでなんともいえないが(笑) アンダンテのシュルークとアレグレットのヤウだと思われる。シュルークの部分は2つのテーマが交互に現れ、金管にシンフォニエッタのようなテーマや、ヴァイオリン協奏曲と通じるヴァイオリンソロが出てくる。

 ソロ楽器のオンパレードなアレグレットは次第に盛り上がって、緊張感を加え、輝かしいテーマの断片を奏しつつ、ヤナーチェクらしく明確ではない終結部をむかえる。


3/16

 2013年3月20日に行われた吉松隆の還暦コンサートの模様、BSプレミアムでも放送されたが、オーケストラ部分がCDにもなっている。これはぜひ行きたかったのだが、年度末の上京は不可能でした(笑)

 藤岡幸夫/東京フィルハーモニー交響楽団
 舘野泉ピアノ 須川展也サックス
 
 鳥は静かに…(1998)
 サクソフォン協奏曲「サイバーバード」(1994)
 ドーリアン(1979)
 大河ドラマ「平清盛」より(2012)
 タルカス:吉松隆編(2010)
 
 絃楽合奏のための「鳥は静かに…」は6分ほどのレクィレムで、吉松の絃楽合奏といいえば、出世作の絃楽とピアノのための「朱鷺によせる哀歌」だが、そちらより聴きやすいし音楽も深く、これは完成形だと思う。作曲にも紆余曲折あって、作曲者も特に気に入っている作品だそうだ。

 サイバーバードは10曲もある吉松の協奏曲の中で、もっとも録音も多く、人気曲だと思う。じっさい、かなり盛り上がるし、独奏サックスの他にもピアノと打楽器の副ソリストも配置された編成も面白い。時間的にも構成的にも良くできていて、世界中のサックス協奏曲のなかでもダントツだと思う。もともとサックス協奏曲は少ないが、ドビュッシーやグラズノーフの古典的なそれはサックスのジャズ奏法がまだ無かった時代のもので、変わった音色の木管楽器にすぎず、イマイチ面白くない。

 また、吉松は構成力がイマイチで、そのくせ交響曲や協奏曲といった古典的な形式主義的な曲を好むという矛盾が興味深いが、ちょっとながくなりすぎて飽きる傾向にあるものの、サイバーバードは、その意味でもバランスが良く、うまくできていると思う。

 須川の独奏も、初演CDのマッドな感じは大分こなれてきて(笑) かなり洗練されてきた感が強い。それは、良いことでもあるし、惜しいことでもあるだろう。

 珍しいのは、オーケストラのための「ドーリアン」で、これは吉松のオーケストラデビュー作なのだそうな。1979年の作品で、作品表を見るとこれより前に2作ほどオーケストラ作品があるが、これが初めて演奏されたものの、初演よりサッパリ演奏されてなく、今回久しぶりに(初?)に演奏された。様式としては多様性主義的なもので、リズムの饗宴であり、確かにロックジャズと吉松好みのテイスト満載ではあるが、思っていたより現代音楽っぽかった(笑) とはいえ、やはりここは構成力が素人で、長い。この人は構成に難があってまず長いのだが、この内容では12分もいらないと思った。打楽器のソロは燃えた。

 もっとも、本人もライナーに書いているが、この作風の良いところも悪いところも、ぜんぶ現在にそのまま引き継がれている。吉松は何も変わらない。祖師・伊福部といっしょだねえ。

 後半は組曲ものが2つ。吉松は正直、こういう組曲が本分で、交響曲や協奏曲は(好きだが)あまり上手ではない。そこは何度も記すが構成力に欠けるからである。それが、本格的なアカデミズムな音楽教育の欠如から来るものなのかどうかは、私には分からないが、とにかくそうだと思う。

 「平清盛」組曲は吉松の集大成のようなもので、最高だ。視聴率は残念ながら低かったが、大河自体の視聴率が下がっているのでそれは仕方がないというか。音楽も、かつての現代音楽の巨匠のやっていたドッロドロのものではなく、冨田系の軽いものではあるが、しっかりしたオーケストレーションや旋律線が実に心地よく、もっと若い世代の書く、なんか上っ面だけのものとちがう。音楽に安定感がある。

 ただ、ボツになったテーマの「決意」は、やはりボツが正しいと思う(笑) これはテーマ音楽じゃない。

 次が「タルカス」で、これは編曲ものだし、プログレなんかもまっったく詳しくないので、内容についてはなんとも云えない。ただ、最初からオーケストラ曲のような響きが凄く、オーケストレーションが流石なのだ。特に感心するのはドラムスの扱いで、オーケストラにドラムは完全に決定的に合わなくて、音量やビートの関係なのだけど、吉松は良く分かっていて、ライナーにもあるが、ドラムスを分解してマルチパーカッションとして複数人にやらせている。こうすると指揮者のコントロール下に置ける。

 これも、初演時の熱気と興奮もかり和らいでいるものの、交響組曲として洗練されてきて、これからもプログレファンをクラシックに引き込む牽引役になると思う。若いプログレファンというのがどれだけいるかは知らないが。


3/9

 まだ雪がしんしんと降る3月の北海道です。

 今日は、2012年の7月に行われた、邦人作曲家に新作委嘱する「日フィルシリーズ」において委嘱された作品の再演演奏会が行われ、その模様が昨年にCDとなって、邦人作曲家ファンのあいだで話題となったものを聴きます。

 しかし、当日のプログラムの半分しかCD化にならず、しかも2300円と収録時間の割にけっこうなお値段。

 プログラムは以下の通り。

 下野竜也/日本フィルハーモニー交響楽団

 戸田邦雄:合奏協奏曲「シ・ファ・ド」(1968)
 山本直純:和楽器と管絃楽のためのカプリチオ(1963)
 黛敏郎:絃楽のためのエッセイ(1963)
 松村禎三:交響曲第1番(1965)

 全て1960年代の曲による演奏会の収録は前プロの2曲のみ。時間的にも全曲は無理だし、松村の交響曲は他に録音が多数あるため割愛するとしても、黛のエッセイは入れても良かったのではないかな、と思ったが、著作料や演奏の問題でもあったのかもしれない。ライヴ録音のCD化は、セッション録音よりカネがかからない代わりに関係者の許諾の問題とか、面倒くさい手続きが倍増する。

 日本の12音技法作曲の元祖中の元祖ともいえる戸田の合奏協奏曲は、オーケストラとソロ集団(ヴィオラ、ピッコロ、イングリッシュホルン、バスクラリネット、ヴィブラフォン)という新古典主義的な形式で、調性感を感じさせるていどの12音技法の音楽が進んでゆく。1楽章アレグロ、2楽章レント、3楽章アレグレットという古典ぶり。作風的にはストラヴィンスキーかヒンデミットにやはり近い。完全なセリーでもなく、形式的にもしっかりしていて、とても聴きやすくて面白い。解説によるとタイトル通りシ、ファ、ドの音を起点とする音列によって音楽は進む。これ、60年代にあまり評価されなかった理由が分からない。けっこうな名作ですよ。あまりにセリーすぎでも無く、かといって調性でもない折衷な感じが、イマイチだったのだろうか。時間的にも15分ほどで、飽きさせない。

 次の山本直純によるカプリチオは箏、三味線、尺八、和鼓類、竜笛の邦楽アンサンブルに、ドラムスとエレキギターが入るという(笑) いかにも山本節。オーケストラにドラムスとエレキ系は、サントラ音楽と化して決定的に合わないと自分は感じているが、果して。もちろん、完全なる調性。

 日本の四季を表しており、第1楽章は春。生暖かい空気感のなか、やがて春祭か。ドラムが入って、いかにも映画かCM音楽w これを是とするか非とするか(^^; やるなら完全にクラシックとしてやってほしかったし、どうもやはりドラムは笑えていかんな(笑)

 2楽章は短い夏。間奏曲ふうで、大河ドラマ。大河といえば、山本が担当した風林火山の音楽は、テーマも良かった。それはそうと、このけだるさは、猛暑の夏の炎天下を歩いている感じで良いのか。ここからはアタッカで3-4-5楽章へ続く。3楽章と4楽章は秋だが、ドラムや打楽器のカデンツァも入って秋祭り(??) ここらへんは意外に現代音楽している。そして邦楽が入ってくると4楽章で、和太鼓のアンサンブルに掛け声も入って真に祭が始まる! 外山雄三のラプソディが聴ける人なら聴けるだろうが、あれよりまったく平易な調子で、ドラムスと箏がオーケストラといっしょにポップなメロディーを奏でだすと、「エーンヤコーラ!」で、もはやドリフwwww

 5楽章の冬は、一転して大河の落城シーン。どっかで聴いたことあると思ったら山田耕筰の交響曲「明治頌歌」のラストのような雰囲気。

 なにこれ! 感は否めないし、逆に確かにとても面白いけど、完全に機会音楽だ、これ(^^; いや、機会音楽にしては長い(いくら綺想曲だとて、構成力の無さを完全に露呈している)し、コンサート音楽にしては、はっちゃけすぎている。

 これは、初演後封殺されるに足る傑作にして駄作といえようwww


3/1

 あけましておめでとうございます(爆)

 皇紀2674年、平成26年、西暦2014年のCD雑記は、3月から始まります(^^;

 昨年も結局、6月から一度も更新できなかったので、1月〜12月というのは1月〜6月で充分だったわけですが。今年も、どうなることやら。

 本当は年末に少しCDを注文しまして、それでも正月に聴こうと思ってたんですが、うっかりほとんど廃盤状態だったものを1枚発注(EMIのコルンゴルトの交響曲)し、2月の末にようやくキャンセルして、先般、残りが届いたので、少しずつ聴いて行きます。
 
 最初は、一柳慧(1933−)の作品集。

 一柳 慧(ピアノ)
 板倉康明/東京シンフォニエッタ

 絃楽四重奏曲(1957)
 Between Space and Time 室内オーケストラのための(2001)
 Trio Interlink ヴァイオリン、ピアノ、打楽器のための(1990)
 Resonant Space クラリネットとピアノのための(2007)
 交響曲第8番 リヴェレーション2011 室内オーケストラ版(2011)

 一柳24歳の初期作品、絃楽四重奏曲は15分ほどの古典的4楽章制、しかし技法は純然たるガリガリの音列技術で、当時の最先端でもあり、また若いころの一柳の優等生的な現代作品。今となっては、音列作品としても実に古典的でむしろ聴きやすい(笑) なぜならこのあと、一柳はケージ流の不確定につっこんでゆき、正直なんだかよくわからない「音の羅列」を羅列する作業に入ってゆく。

 このCDでは、その中間期をぶっとばして、90年から2011年までの晩年を扱う。も、室内オーケストラのための「Between Space and Time」は熟成された不確定がもはや確定となって現れてくる。本当に不確定なら適当に練習室のようにてんでバラバラに鳴らしておればよい。ここには、厳密に確定された不確定があって、それはもう不確定なのかどうかというところだ。特に中間部、長い絃楽器の横の流れに管楽器がボコボコと乗っているのは不気味であり、面白い。終結部前のドラも、緊張感の頂点でもあり、笑ってしまう部分でもある。

 「Trio Interlink」では、3種類の楽器がじわじわと絡み合ってゆく様が面白い。ピアノは打楽器的で、横の流れはやはりヴァイオリンが受け持つ。最初はピアノとヴァイオリンが絡むが、そこへヴィブラフォンがピアノに変わって入ってきて第2部。さらにピアノも。ここでは、ピアノと打楽器は同じ質で、ヴァイオリンですら単調な音色で縦の流れを作る。第3部では、マリンバに加え、打楽器に膜物が出てきて、ドコドコと衝撃的な音色が加わる。しばらくヴァイオリンがテーマをひたすら繰り返し、打楽器はやがて例の不確定要素満載となり、ほぼ無作為な連打の連続となる。打楽器もカオスだが、カオスにヴァイオリンとピアノがミニマルで流れてこれもカオスw

 クラリネットとピアノという自分には珍しい編成の「Resonant Space」は、これも面白い響きで、しかも6分ほどの短い作品。クラリネットの現代曲にはあまり縁がない。オーボエやフルートは、聴いたことがあるけども。技術的に、クラリネットがどういう現代曲となるのか、あまり想像できない。じっさい、クラリネットとピアノはかなり静かに独立して対話し、あまりアヴァンギャルド的な響きにはならない。まさにタイトル通りの残響空間が、演奏会場だったらなおのこと、響きあって心地よいだろう。

 さて、メインは交響曲第8番。作曲年から分かる通り、これは東日本大震災に関連する。30分もの大曲で、続けて演奏されるが古典的な内在4楽章制。くわしくはそのうち交響曲のページに書くのでここではさらりと。室内オーケストラ版ということで、室内交響曲となっている。全体として構成が流石にしっかりとし、かなり聴きやすい。一柳の交響曲は前作の7番から急激に、調性っぽくなっている。

 アダージョからはじまり、緊張感と圧迫感を高めてゆく。一柳らしくない、映画音楽みたいな響きだ(笑) プレストでは主に管楽器のオスティナートにチューバがテーマを吹いて、前衛吹奏楽のよう。中間部でレントとなってフルートが乾いた音を吹き、またプレストに戻る3部形式。次はレント部。ホルンのレクィエムに、ヴァイオリンが泣きそうに付き添い、鐘が鳴り続ける。魂の安息はどこにあるのか。最後の部分、アレグロ・モデラートは、打楽器の鼓動のような連打よりじわじわとクレッシェンドしてゆき、テーマをオスティナートし続け、頂点でピアノのクレッシェンドから一打で終幕。

 一柳は交響曲も当然不確定の技術をもって、4番5番あたりなどもめちゃくちゃな響きが是非はともかくそれが魅力であったが、7番で急に調性っぽくなって驚いた。8番も、調性とまではいかないがまったくむしろ古典的な作風でぜんぜん現代が苦手な人でも聴けるし、内容も良い。

 いまや池辺と共に日本の交響曲の最前線にいる一柳。作風や履歴からして、交響曲などというジャンルからはほど遠いと思われがちだが、衝撃的な「ベルリン連詩」から始まり、いま9番を書いているというから嬉しオドロキ。

 交響曲の世界は、彼らの次の世代では吉松だが、その次となると……日本の交響曲は、どうなってしまうのだろう。ゴーストめ、期待させやがって(笑)





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